二話目です
「ただいま」
アクアがそう声をかけても、リビングから返事はなかった。けれど、彼は足を止めない。もう慣れている。返事がないことも、沈黙が重くならないように振る舞う自分自身にも。
キッチンに鞄を置き、手際よくカップを二つ並べる。黒と白。昔から変わらない組み合わせだ。豆を挽く音が、静まり返った部屋に規則正しいリズムを刻む。お湯を注ぐと、立ちのぼる湯気にほのかな苦味の匂いが混じった。
リビングのテーブルには、色鉛筆とスケッチブックが広がっている。床に正座したルビーは、こちらを振り返りもしない。小さな背中が、ひどく集中しているのがわかる。紙の上を走る鉛筆の音だけが、確かに“生きている時間”を告げていた。
ルビーは、絵を描いている。
アイの絵を。
あの日から、ずっとだ。
四歳のとき、アイは消えた。
死んだわけでも、失踪したわけでもない。目の前で、確かに、消えた。
最初は違和感だった。輪郭が曖昧になるような、ピントがずれるような感覚。ルビーが最初に気づいた。「ママ?」と声を上げ、駆け寄った。その声に引きずられるように、アクアも腕を伸ばした。触れられるはずだった。確かにそこにいたはずなのに、指先が空を切った。
アイは笑っていた。最後まで、あの笑顔のまま。
「ルビーを、たのむね」
そう言って、こちらを見た。
「アクアマリン」
俺の名前を、はっきりと。
それが最後だった。
アイは、世界から消えた。
記録も、映像も、他人の記憶も。
B小町は最初から四人だったことになり、アイという存在は“いなかった”ことにされた。俺とルビーは、苺プロ社長を保護者に、子役として活動していたことになった。誰も不思議に思わない。世界は、何事もなかったかのように、正しく書き換えられていた。
——ただし、俺とルビーの記憶を除いて。
コーヒーをテーブルに置くと、ルビーの肩がわずかに揺れた。アクアは何も言わず、ソファに腰を下ろす。ルビーの邪魔をしない距離。けれど、離れすぎない距離。
しばらくして、ルビーが顔を上げた。
「……できた」
スケッチブックを胸に抱え、こちらを見る。期待と不安が混じった目だ。アクアは小さく頷く。
「見せてくれ」
ルビーは、そっとページをめくった。
そこには、笑顔のアイがいた。
少し大きな瞳、柔らかな髪の流れ、歌う前の、あの独特の口元。決して完璧な写実ではない。けれど、確かに“
「ママだ」
ルビーが嬉しそうにつぶやく。
その声は、泣き声に聞こえた。
アクアは何も言えなかった。ただ、胸の奥で、静かに何かが軋む音がした。ルビーは忘れることを恐れている。だから描く。描いて、確かめる。ここにいた、と。今もいる、と。
「上手いな」
ようやく、それだけを言う。
ルビーは少し照れたように笑い、また絵を見つめた。指先で、アイの頬の線をなぞる。その仕草が、あまりにも大切そうで、アクアは視線を逸らした。
窓の外は、もう夕暮れだった。部屋に差し込むオレンジ色の光が、スケッチブックを照らす。アイの笑顔が、その光の中で、今にも動き出しそうに見えた。
——大丈夫だ。
心の中で、そう言う。誰に向けてかは、わからない。
アイはいない。
でも、消えてはいない。
少なくとも、ここには。
アクアは冷めかけたコーヒーを一口飲み、苦味を噛みしめた。ルビーの隣に座り、何も言わず、同じ絵を見る。ただそれだけでいい。今日も、明日も。
静かなリビングに、紙の匂いとコーヒーの香りが混ざる。
失われたものを抱えたまま、それでも日常は続いていく。
ルビーの肩が、そっとアクアに触れた。
アクアは動かない。
二人で、同じ絵を見つめ続けていた。