夜気はまだ湿り、街灯の白い輪がアスファルトに滲んでいた。
――見られたか?
アクアは一瞬だけ立ち止まり、背後の気配を測る。だが、どうせ仮面ライダーの記憶は人々に残らない。怪人も、変身も、世界は都合よく塗り替えられる。そう理解しているからこそ、彼は歩き出そうとした。
「アクたん……だよね?」
その声は、薄い夜を切り裂くほど確かだった。
振り返った瞬間、胸の奥で何かが小さく軋む。――コイツ、俺のことを知っている?
物陰から現れた女は、スマホを握りしめ、怯えと好奇心の入り混じった目でこちらを見ていた。記憶の棚を探る。前に、仕事で一度だけ絡んだことがある。顔と、軽いノリと、やたら回る口。たしか“ MEMちょ”だったか。
「……人違いです。それじゃ」
アクアはため息をつき、軽く手を上げて背を向けた。関わるべきじゃない。だが――
こいつはそれなりに知名度のあるYouTuberだ。情報網は広い。怪人の“向こう側”に触れる手がかりが、ひとつでも転がっているかもしれない。もう一つ、どうしても引っかかることもある。
「ファミレス、行くか。話がある」
自分でも驚くほど、言葉は自然に出た。
⸻
深夜のファミレスは、妙に明るく、妙に平和だった。ドリンクバーの機械音、控えめなBGM、眠そうな店員。向かい合う二人の間に、コーヒーの湯気が細い壁を作る。
さて、どう切り出すか――と考える前に、MEMちょが先に口を開いた。
「さっきの、アレ。撮影とか……じゃ、ないよね?」
アクアは一拍置いて、頷いた。
「ああ」
それだけで、MEMちょの肩が小さく跳ねた。
「じゃあ……何?」
逃げ場はない。アクアは、淡々と、しかし誤魔化さずに話した。
アイのこと。世界から消えた母の存在。仮面ライダーという、彼の中にだけ確かに在る“役割”。向こう側から現れる怪人と、倒しても痕跡だけが塗り替えられる現実。
話が進むほど、MEMちょの顔色は薄くなっていく。
「ちょ、ちょっと待って……私、人生で一番ヤバい話聞いてない?」
「どうせ世界の書き換えで、全部忘れる」
その言葉に、MEMちょは一瞬、安堵したように息を吐いた。ファミレスの窓の向こう、街は平穏そのものだ。店内の客も、さっきの騒ぎを「酔っ払いの喧嘩だったらしい」と噂している。
——もう、書き換わり始めてる。
「……ちょっと残念だけど、でも安心、かな」
その安堵を、アクアは静かに切り裂いた。
「なんで、お前はまだ覚えてる?」
「え?」
「さっきの動画は?」
MEMちょは慌ててスマホを取り出し、再生する。
そこに映っていたのは、記憶と違う光景だった。怪人も、光も、跳躍もない。ただの路地で、二人の男が言い争っているだけの、ありふれた映像。
「……え、なに、これ……」
混乱に声が震える。
アクアは、冷めた目でそれを見つめた。
「怪人は、明らかにお前を狙ってた」
絶望が、遅れて理解に変わる。
MEMちょは顔を覆い、肩を落とした。
「……私、そっち側……?」
「ようこそ」
アクアは皮肉げに笑った。
「歓迎はしないがな」