冒険者として長く旅をしていると、たまに妙な頼み事をされることがある。例えば猫から神社の再建を頼まれたり、ファデュイの兵士から逃げるのを手伝ってほしいと頼まれたり──思い出せば切りがない。冒険者の旅とは斯くも不思議に満ちている。あるいは、異邦人ゆえに奇妙な巡り合わせと縁があるのかもしれない。
こういった予想外の依頼は旅人であっても完遂できる保証はなく、相手にも真っ先にそれを伝える。しかし、そういう相手ほど他に頼る相手もおらず切羽詰まっているため、それでもいいからと頼んでくるのだ。旅人も大概お人好しなものだから、つい相手の必死な様を見て請け負ってしまうのだが──そういえば、フォンテーヌにいた頃に取り分け変わった“依頼人”に巡り合ったことがあった。
「こんにちは、旅人さん。今日は良い天気だと思わないかい? いつもより空がよく見える……君達が塔を沈めたからだろうね」
ルネとの戦いを終え、皆と別れた後、イプシシマスの塔があった場所に戻った時、彼は現れた。
「ああ、そんなに警戒しないで。困ったな、どういう風にファーストコンタクトを取ろうか迷った末に、当たり障りのない感じにしてみたつもりだったけど……お気に召さなかったらしい。ただ、君にちょっと頼みたいことがあるだけで、敵対するつもりなんてないんだけど……」
「……君は誰? 塔のことを知っているってことはジェイコブのお仲間?」
「懐かしい名前だ……彼の仲間かどうかと言われると難しいところだが、僕個人の見解としては『違う』と答えたいかな」
「はぐらかさないで」
「そういうつもりはないよ。ただ、今となっては彼と……ルネとの関係は複雑だからね」
彼はユリウスと名乗り、自身をルネの友人だと名乗った。さりとてもう水仙十字結社の一員ではないと。曰く、ナルツィッセンクロイツが盛んに活動していた頃、すでに組織を去っていたのだという。
なるほど、それなら水仙十字結社の悪行とは無関係なのかもしれない──とはならない。そう思いたいのは山々だが、これら全ての出来事が500年前に起きたことだというのが問題なのだ。アビスに適合したジェイコブが500年生き延びたのは分かるが、目の前の青年はどう見ても普通の人間だ。敢えていうなら、目元を覆うように布を巻いているので不審者に見えるぐらいだろうか。しかし、どこからどう見ても異形化はしていない。となると、一体どうやって500年生き延びたのか。
「何を考えているのか大体察せる顔だね。今話した全てが妄言だと判断するか、あるいは僕がルネやジェイコブのようにあまり倫理的ではない手段で延命したか考えている顔だ」
「察しているのなら答えてもらえると助かるんだけど」
「申し訳ないけど、僕の肉体の状況について推察できるだけの情報を持っていないのなら、おそらくは僕からそれを教えるべきではないように思う」
「……どういうこと?」
「いつか再会した時、もしも君がもっと多くのことを知っていたら教えてあげられるかもしれない」
「なら、申し訳ないけど頼みは引き受けられな──」
「最近、モルテ地区は魔物の出現が激増していて大騒ぎらしいね」
「……急に何?」
「おや、ぴんとこない? イプシシマスの塔の下には長らく凶暴な水棲生物が住み着いていてね。500年ぶりに突然塔が降下したことで、そいつが縄張りを移動したんだ。そして、強者が移動すれば弱者が影響を受けるのは必然……そうして塔近辺全域で魔物の移動が起こっているんだよ」
沈黙。旅人は何も言えなかった。あまりにも身に覚えがありすぎて──いや、別に旅人が悪いわけではないだろう。そもそもの話をすれば、あんなものを作った当時のナルツィッセンクロイツが悪い。旅人は巻き込まれただけだ。
「ああ、安心して。対処し切れないほどではないようだよ。フォンテーヌは予言以外に然したる脅威のない国だ。これを機に鍛え直される兵士もいるかもしれない。ただ、執律庭は適切な対応のためにも大急ぎで原因を知りたがっているようだ……それはそうだろうね。500年前、大変な苦労の末に潰したはずの犯罪組織の拠点が突如動き出し、地形を変えた原因なんて中々分かるもんじゃない」
「……脅してるつもり?」
「まさか! 君は人徳のある高名な冒険者なんだし、仮に知られたところで咎められることはないだろう? 特に、今回の件は人知れず世界を救ったとも言えるんだ。何も悪いことなんかしていない……一つ問題があるとすれば、君の正義を証明できる生き証人は些か立場に問題があるということぐらいかな」
フォンテーヌの様々な事件に関わる過程で痛感したことだが、嫌疑をかけられた状態から身の潔白を証明するには証言と物証の両方が必要だ。物証は捏造できるし、証言も口裏を合わせられる。だから、確実に証明したいのであれば両方を用意した方がいい。
しかし、事件の当事者であるナルツィッセンクロイツはもういない。アンにマリアン、それにセイモアとマメールも旅立った後だ。キャタピラーは残っているはずだし、頼めば証言してくれるかもしれないが──人の集まる場に立てば正体がバレるリスクが高まる。万が一キャタピラーがヒルチャールだと露呈すれば、その証言は効力を失うだろう。普通に生きる多くの人々にとって、ヒルチャールは“ある時”から突如として世界を荒らすようになった魔物に過ぎないのだから。
それに、イプシシマスの塔がすでに公的記録に残る建築物だというのも不安を加速させた。塔の頂上にはアラン・ギヨタンとヌヴィレットのサインが記された通告文が貼られていたため、記録を漁ればあれが500年前に世間を騒がせた水仙十字結社の拠点であることはすぐに分かってしまう。
ただの遺跡を沈めたとしてもフォンテーヌの複雑怪奇な法律にかかれば咎められる心配があるというのに、それが犯罪組織の元拠点となれば追究される可能性は非常に高い。ヌヴィレットとは知らない仲ではないが、彼は職務に忠実な龍なのでさすがにすでに起きた事件を曖昧なままにはしないだろう。
考えれば考えるほど不安になる。それがユリウスの思惑だろうというのも察していたが、旅人はこういった状況で他人から事情を探られるのを好ましく思っていなかった。人に言えない秘密が多いからだ。
「……とりあえず、君が頼みたいことについてもうちょっと具体的に教えて」
ひとまず旅人は相手に話を合わせることにした。相手の要求を呑んだからといってユリウスが密告しない保証はないが、こういう無理な頼み方をしてくる人間というのは大抵後がない。頼みを完遂させることを最優先に考えている可能性が高いため、頼み事の内容次第ではこちらも弱みを握れる可能性がある。一旦話を聞いて損はないだろう。
「大した内容ではないんだ。ただ、もし今後君が旅をする過程で僕以外に水仙十字結社……あるいはその関係者について語る者が現れたら“これ”を渡してほしいんだ」
ユリウスが懐から取り出したのは手紙の束だった。観察した限り宛名はなく、よく見れば封蝋もされていない。どこかに出す予定ではなかったような状態だ。決して少なくない枚数が重ねられ、きちんと紐で束ねられて固定されている。
「特定の誰かじゃなくて?」
「そう。正直なところ、僕自身もそんな相手がいるのかはちょっと曖昧なんだ……いるかもしれないと思っているけど、これが希望的観測なのではないかとも思う」
「……意味が分からない。相手がいなかったら君の頼みを完遂する日は来ないよ。俺だって永遠にこの世界を旅しているわけじゃないだろうし」
「君が旅の終点に至っても届け先が見つからなければ、その時は君が読んでやってほしい。君は善い人だからね。関係者の次に良い選択のはずだ」
「話が見えてこないんだけど……」
「まあ、いいじゃないか。君は手紙を受け取り、鞄にしまっておくだけで余計な手間を減らせる。悪い話じゃないだろう?」
「頼みを引き受けたら君が密告しないっていう保証は?」
「ああ、そうだよね。困ったことに、僕は君に対して保証してやれるようなことがあまりないのだけど……そうだな、君のお友達──ダインスレイヴという男に探してくれと頼むといい。彼なら地の果てまで逃げようと捕まえられるだろう?」
「待って、なんでダインのことを──」
知っているのか──言い切る前に、ユリウスが目元の布を取るのが見えた。そこから現れた瞳を見て息を呑む。十字に輝く特徴的な瞳孔──カーンルイア人の目だ。
「その目……!」
「じゃあ、手紙のこと頼んだからね」
次の瞬間、強い眩暈と耳鳴りに襲われた。あまりの強さにまっすぐ立っていられず、たたらを踏んで膝に手をつく。しゃがみ込まないようにするのが精一杯で、世界の上下すら分からず朦朧とした。その状態が少しの間続いた後、ようやく元に戻った視界を巡らせてみたが──もうすでにユリウスの姿は影も形もなくなっていた。
[newpage]
ユリウス。詳しいことは分からないが、水仙十字結社に何らかの縁を持つカーンルイア人──サンドローネが唐突に“昔話”を始めた時、旅人は自然と彼のことを思い出した。
彼は自分以外に水仙十字院について語る誰かが現れたら手紙を渡してほしいと言っていた。捨てるのも気が引けて、手紙は一応今も持っている。しかし、その相手がまさかファトゥスになるとは想像もしてみなかった。
けれど、ある種の納得もある。ファデュイが抱える技術のいくつかは明らかにカーンルイアから流用したものだ。カピターノの件を踏まえると、元々カーンルイアと縁深い組織である。ファトゥスにカーンルイア人の関係者がいても何ら不思議ではないのかもしれない。
「──はい、ティータイムは終わり」
「……待って。君に渡さなきゃいけないものがある」
少し迷った末に、旅人は手紙をサンドローネに渡すことにした。
あれから随分と時間が経ったので、ユリウスの密告には然して意味がないだろう。だから、別に渡さず頼みを無視しても問題はないのだが──逆に渡しても大したデメリットはない。この手紙に何か重要な情報が書かれているとも思えない。もしそうならこんな風に無防備な形で第三者に託すわけがない。
だから、旅人は頼みを放置しておくのは据わりが悪いからと、半ば押し付けるような気持ちで手紙を差し出したのだが──それを見たサンドローネはほんの少し動揺するように目を瞠った。
「その封筒、カーターの……?」
「え?」
改めてよく見てみると、サンドローネの言う通り封筒には薄らと模様がついていた。封筒にこういった洒落た模様がついているのは珍しいことでもないため、あまり気にしなかったのだ。しかし、サンドローネの反応からして何か特別なものなのだろうか。
「……アナタ、それをどこで手に入れたの?」
「ユリウスっていう人から預かったんだけど……いつか水仙十字結社について語る人がいたら渡してほしいって」
「ユリウス?」
サンドローネは怪訝なような、不愉快なような、何とも言えない表情で黙り込んだ。しかし、沈黙は短く、サンドローネは一拍置いてひったくるようにして手紙を受け取った。
「……いいわ、今回だけ受け取ってあげる。けど、そいつに次会ったらこう伝えなさい。もう余計なことはするなって」
「え、いや、会う約束をしてるわけじゃ──」
「気分が悪いわ。さっさと立ち去りなさい──プロンニア、スリープモードは終わりよ!」
取り付く島もない。旅人は仕方なく席を立ち、クーヴァキ実験設計局を立ち去るしかなかった。
[newpage]
「やあ、旅人さん。久しぶりだね」
「ユリウス!」
ナシャタウンへ戻る道すがら、スターダストビーチを通り掛かった時、件の青年が当たり前のような顔をして現れた。初対面の時といい、どこからかこちらの動向を監視しているのかと思ってしまうほど常にタイミングが良い。
「頼みを果たしてくれたみたいだね。改めて感謝を」
やはり見張られているのだろうか。ぞっとする話だ。
「……感謝を言うためわざわざ此処に?」
「それもあるけど……以前、君が僕の状態についてもうちょっと推測できるようになったら、その時は改めて僕について教えてもいいと言っただろう? 困った状況だったからとはいえ、あの時君に対して不誠実な振る舞いをしたからね。ちょっとしたお詫びとして約束を果たしに来たんだ──勿論、興味がないのなら無理にとは言わないけれど」
異形化することなく500年間生きていた理由。以前なら『カーンルイア人だから』という単純な答えを出しただろうが、今ならそれだと少しおかしいと分かる。
確かに純血のカーンルイア人は不死の呪いを背負っている。ダインスレイヴもそうだ。旅人は最初に出会った不死の呪いの持ち主がダインスレイヴだったため、その呪いを背負えば誰もが彼のように生きていけるのだと考えていた時期もあった。
しかし、スラーイン──カピターノの話を考えると、不死の呪いを背負ったとしても誰もが綺麗な状態で生きているわけではない。カピターノは仲間を見捨てたくない一心で無理を重ねたのはあるだろうが、それにしたって何の対策もなく“普通の人間”のような見た目を保つのは難しいだろう。
「不死の呪い……それだけの単純な問題じゃないと理解している顔だね。以前とは違う」
「結局、どうやって呪いによる摩耗を抑えているの?」
「スラーイン……今はカピターノと名乗っているんだったかな。彼の心臓が特別製だったのは知っているかい?」
「地脈の記憶と魂を知識に転用する機能があるって話?」
「そう。僕はあれの技術を応用し、自身の魂の状態を固定してあるんだ」
「……待って。それだと摩耗を防げるのは精神だけだよね? 肉体の方はどうやって──」
「それはまあ、君のような善い人はあまり知らない方がいいんじゃないかな。僕がどうしてルネと関係を持つに至ったのか、という理由でもある」
かつて水仙十字結社は惨たらしい人体実験を繰り返していたと聞く。そのせいで執律庭に目をつけられ、表向きは抗争の末に壊滅したのだと。悍ましい行為を試みるにはお誂えの場所だったと言えるだろう。
「僕らは神に追随する人々とは少し体の構造が異なるんだけど、それでも人類という大きな括りで見れば同じだ。参考になる情報は色々と得られる。何よりルネは優れた学者だったからね。彼の助けを得られたのは僕にとって幸運だったよ」
「……そもそもカーンルイア人がどういう経緯でルネと出会ったの?」
「ルネがスメールにいた頃だよ。ジェイコブが人を止めた時でもある……ああ、ルネとジェイコブがどのようにしてスメールにいたのかは知っている?」
ルネとジェイコブは元々裕福な家の子供達だった。ルネの父親は町長、ジェイコブの父親はギャングの頭目だったのだから。
しかし、当時サーンドル河を開発したがっていた執律庭はそれに反対する邪魔な彼らに濡れ衣を着せ、過激な捜査の末に二人を亡き者にしてしまった。結果、当時孤児──特に犯罪者の孤児が多く詰め込まれていた水仙十字院に送り込まれた。
そこでの暮らしはもしかするとルネとジェイコブにとって最も幸福な時期だったかもしれない。父親を亡くした悲しみはあれど、新たにアランとマリアンという兄妹と友達になり楽しく過ごした日々。心優しい純水精霊の院長リリス、退役軍人の副院長バザルに見守られながら健やかに過ごす日々──けど、幸福は長く続かなかった。
カーンルイアを発端とした災厄がテイワット全土を呑み込み、フォンテーヌには巨獣エリナスが襲来した。エゲリアの眷属として国を守る義務があったリリスも、退役軍人として再招集を受けたバザルも、この状況下で孤児達を守り続けることはできなかった。
勿論、バザルは戦が終われば帰ってくるつもりではあっただろう。死ぬつもりで戦に赴く奴はいない。ただ、万が一を考えるのは大事だ。子供の人生が懸っているとなれば尚更。だから、バザルは有事に備えて兄妹をエマニュエル・ギヨタンに、ルネとジェイコブをカール・インゴルドに託した。彼らはバザルと同じく、元々水仙十字院で育った孤児だったから。
「まあ、後から事情を知っただけの第三者として述べさせてもらうなら、バザル・エルトンは切羽詰まった状況でできる限りのことしたと言えるだろう。尤も、ジェイコブは当時のことを『バザルから見捨てられた』と感じていたようだけど」
カール・インゴルドは記者だった。彼は災厄の影響がある程度落ち着くと、各地の状況を知るためにスメールへ赴いた。勿論、幼い子供を置いていけないからルネとジェイコブも一緒だ。
しかし、結果として二人にとっては置いていってもらった方が良かっただろう。というのも、いくら最も危険な時期が過ぎたからといって災厄直後のテイワットは安全じゃなかった。何より、どこもかしこも物が足りてなかった。旅路は当然過酷なものとなり、ジェイコブは次第に衰弱してしまったのだ。
弱りゆくジェイコブを見て、ルネは旅の最中に立ち寄ったカーンルイアの廃墟について思い出した。当時カーンルイアで盛んに研究されていたアビス──カーンルイアの技術力を以てしても底が見えなかった未知の力。それを使えば、ジェイコブを延命できるのではないかと。
「一時とはいえ友情を結んだ欲目だと言われるかもしれないけれど、言わせてもらうならあの時はルネなりに本心から親切のつもりでやったと思うよ」
結果だけ見れば、ジェイコブは命を救われた。アビスに適合し、今後食事の必要すらない強靭な肉体を手に入れたのだ──ちょっとばかり見た目が人間らしくなくなってしまったが。
問題は、誰もがこういったことを受け入れられるわけではないということだ。アビスに慣れていたカーンルイア人ならともかく、ただのフォンテーヌ人に過ぎないカールには無理だった。養父はルネの行いを厳しく叱責したが──養父に怒られた程度で反省するような人間なら、そもそも最初からアビスに手をつけるなどという恐ろしい真似はしていなかっただろう。
「君が知りたがっていた“いつルネと出会ったのか”という疑問については、まさしくこの時だよ。地上の人間だというのにアビスの可能性を認め、おまけに優れた頭脳を持っているルネに感心してね。当時はまだ肉体の維持方法に悩んでいたから、何か良い影響を与えてくれるのではないかと思って僕の方から接触したんだ」
「ルネはよく受け入れる気になったね。急に湧いて出た不審者だったろうに」
「こう見えて僕は当時深秘院の研究員だったからね。ルネに教えられる知識はそれなりにあった……それに、いくら天才といえどまだ子供だろう? 対外的な保護者がいた方が色々と煩雑な問題が減るからね。そういった理由からルネも僕を受け入れてくれて、フォンテーヌに戻るという彼らの旅に同行することができたんだ」
ルネはフォンテーヌの人間だ。世界の真理を追い求める内に抱く野望といえば、当然のように国の予言に関するものだった──曰く、アビスの力で予言を克服できないだろうかと。
アビスには神の理を汚染して捻じ曲げる力がある。また、ジェイコブのように適合さえできれば強靭な肉体を手に入れられる。仮に国が水没したとしても、確かにアビスの使徒になっていれば死にはしないかもしれない。少し見た目に難があることを除けば、そう悪くはないだろう。少なくとも死ぬよりはマシだ。
そうしてルネはアビスの研究にのめり込んでいった。しかし、普通の方法でアビスについて調べるには限界がある。魔物としてその辺をうろついているのはよく見かけるが、純粋なエネルギーの状態でアビスを引きずり出すには特殊な手段が必要だからだ。
カーンルイアには運よく赤月が、そして後に異邦人の肉体という好都合な器が手に入ったが、そういうものが何度も見つかるわけがない。そのため、ルネは次善策としてフォンテーヌで朽ちたという巨獣エリナスに目をつけた。あれはカーンルイアから現れたアビスの生き物だ。その血には未だ色濃くアビスの気配が残っている。
「水仙十字院にいた時ほどではないだろうけど、思えば久々の里帰りの時間もルネにとっては楽しいものだったかもしれないね。だって懐かしい幼馴染と再会できたし、新たな年上の友人もできた」
エリナスの血を採るためにフォンテーヌへ戻った際、ルネやジェイコブはアランとマリアンに再会した。おかしなもので、禁忌の力に陶酔する狂気的な面がある一方で、ルネやジェイコブには友情を渇望する幼い一面も残っていたのだ。
特に、当時学校に通っていたアランには年上の友人ができており、そのカーターという青年は大層な人格者だった。神童として持て囃されながらも嫉妬の的になって疲弊していたアランを支え、突如現れた怪しげな三人にも優しく接したのだから。
「……カーターは善い奴だった。君に負けないぐらいね。地上の人間に対してもこんな風に思うことがあるなんて、国が亡ぶまでは考えてもみなかったけど……僕でさえカーターとは友人と言えるような語らいをしたものさ。ルネやジェイコブですら懐くのも当然だろう?」
些か潔癖なところがあるルネもカーターのことは気に入り、久方ぶりの故郷で楽しく過ごすことができた。問題があるとすれば、カーターは不治の病に侵されており先が長くなかったということだ。
次第に弱り、病床から起き上がれないほど悪化していくのを見て、ルネは以前と同じような考えに至った。ジェイコブを助けた時のように、カーターにもアビスを注入すればいいのだと。
勿論、了承は取った。カーターは意外にも──いや、意外ではないかもしれない。アビスという得体の知れない力よりも、目前に迫る死の方が恐ろしいというのは然程不思議でもない。地上の人間はアビスの恐ろしさをあまり知らないのだから尚更。彼らはアビスから生み出された魔物の脅威は身に染みて知っているが、人間がアビスに触れた時具体的に何が起こるのかはあまり知らなかった。
「残念ながらアビスは万能の力なんかじゃない。ルネもそれについては重々承知しているとばかり思っていたけど……そうではなかったらしい。黒王がアビスに心酔してからというもの、深秘院ではアビスを応用した強化施術が盛んに研究されていたけど、体質的に向き不向きがあるからあまり普及はしなかった。それと同じさ。ジェイコブが適合できたからといって、それはカーターが必ず助かる保証にはならないんだ」
カーターはルネの提案に合意したが、残念ながら助からなかった。ジェイコブのように強靭な肉体を手に入れることはできず、その体は黒泥と化したのだ──この遺体すら残らない、悍ましい結末はルネにとって更なる悲劇へと繋がった。アランが突如病院から消えたカーターの行方を怪しみ、その末にルネの“秘密”を知ったのだ。
アランはルネの行いに激高し、かつて同じ孤児院で育った人々は致命的な決裂を迎えた。しかし、ルネが受けた影響は人間関係だけではない。カーターの死はルネの理想にも波及した。
「ルネはアビスに依存するやり方に危うさを感じ、予言に対抗する別のアプローチを求めた。それが溶けた人間から意識を切り取る研究だよ」
「聖剣……」
「ああ、確かにそんな風に呼ばれていたね。最終的に効率を考えて、リリスを頼る方法に変わったんだけど」
世界は何らかの意志によって動いている。神に支配された世界でそのことを知る者は少ないが、外から来た天理がテイワットの法則を変えたのも意志の力だ。外から至り、世界に匹敵する意志を持てた者だけが降臨し、世界を維持し、書き換える権利を持つ。
しかし、世界に内包された命では限界を超越することはできない。厳密に言えば、現界を超越したところで運命には勝てない。世界を破壊するほどの力を持ったとしても、運命というものはさらにその先を奔っていくのだ。
「ルネがアビスの研究を止めたのは残念だったけど、面白い発想だったからその後もルネの傍にいたよ。確かに興味深い。矮小な生命だろうと束ねれば世界に匹敵し得るのか? 仮にこれが叶えられない大望だとしても、純水精霊の性質を踏まえれば意志の切り分けによって個体に戻れるという発想はあながち間違いだとも言えなかった。無駄のない第二アプローチだったのさ……純水精霊が自身の元素を切り分けることによって、個体を増やせるのは知っているだろう?」
十字鈴蘭学会、ひいては水仙十字結社ができたのはこの頃だ。この手法を突き詰めていくにはサンプル──要は多くの人間、何より一から機材を揃えるための資金が必要だったため、ルネとジェイコブは信者を取りまとめて組織を作った。意外にも彼らには組織運営の才能もあったのか、水仙十字結社はじわじわと勢力を拡大していった。
そう、何もかも順調だった──ルネがよりにもよって自分で実験を試みるまでは。
「自分の知識に余程自信があったんだろうね。ルネは何一つ疑うことなく、我が身で新技術の証明を試みた……そして失敗した。その後実験を引き継いだジェイコブがどうにかルネを再構築したけど、僕からすればルネはあの時死んでしまったように思えるよ」
ルネの意志は形を保てず完全に溶けてしまった。実験は失敗したのだ。ジェイコブの手で再構築されたが、生まれ変わった“彼”には失敗の記憶はなかった。“ルネ”に理想の道を突き進んでほしいと願ったジェイコブが、失敗の記憶を含めずに再構築したからだ──第三者の身勝手な願望を含んだ結果を、どうして当人そのものの自我だと断言できるだろうか。
果たして再構築されたルネにそういった自覚があったのかは謎だが、彼はナルツィッセンクロイツと名を改め、以前よりも意欲的に活動を始めた。実験はどんどん苛烈になっていき、この頃には組織に敵対する人間をわざと溶かしていたほどだ。
「まあ、それだけなら僕もとやかく言わなかったんだけど……ナルツィッセンクロイツがキャタピラーを作った時、ちょっとついていけないと感じてしまってね」
ナルツィッセンクロイツはかつて黒泥と化したカーターの自我を不完全ながらも保存しており、それを捕獲したヒルチャールの肉体に注入した。しかし、保存状態の良かったルネですら完璧には蘇れず、ナルツィッセンクロイツになってしまったのだ。それよりも状況の悪かったカーターが蘇れるわけがない。結果、人間の自我を持ったヒルチャール──キャタピラーが生まれただけだった。
「……それは、君にとってヒルチャールは魔物ではないから?」
「荒野の呪いのこと? どうだろうね。正直なところ、仮に知り合いがいたとしても目印がなければもう分からないし、ヒルチャールの中にはただ巻き込まれただけの外国人もいただろう。ただ……彼らの中にはひょっとすると昔の知人がいるのかもしれないと、考えてみたことがないと言えば嘘になる」
カーンルイアが禁忌の代償を支払った時、荒野の呪いは不死の呪いよりも悲惨な症状をもたらした。不死の呪いはその後長く純血のカーンルイア人を苦しめたが、荒野の呪いは災厄から逃れる混血のカーンルイア人達に悍ましい苦痛を背負わせたのだ。
スメールにはカーンルイアの扉が残されているのだが、その近辺には当時の悲惨な逃走劇の痕跡が未だに残っている。彼らは四肢が千切れ、皮膚が腐り落ち、肺腑が焼けるような苦痛を抱えて走り続けた。けれど、その目が地上の光を映した時──すでに大半の遺民は見た物を認識する思考すら失っていたのだ。完全に変わってしまえばもう苦痛を感じる思考すら残らないが、それを最後に残った救いだと言っていいのかは分からない。
「君も知っての通り、カーンルイア人は傲慢だ。その傲慢さのツケを払い、今こうなっている。僕自身それを自覚している……けど、価値観なんてものはそう簡単に変わらないのさ。僕は今でも同胞と地上の人間を区別しているし、それらを同一の価値だとは思っていない。地上の人間をモルモットのように大量消費するのは心が痛まないのに、変わり果てたかつて同胞だったかもしれないものの方が……弄ばれたと憤ってしまうんだよ」
あるいは、殺してくれたのならそこまで不快には感じなかったかもしれない。自我すら残っていないというのに、ただ肉体だけがいつまでも生き続けているのはあまりにも惨いからだ。
だが、全くの別人──しかもカーンルイアに何の所縁も持たない、神に追随する国の人間の自我を入れられるのを見た時、何も思わなかったとは言えない。たとえもう二度と戻ることがないとしても、そのヒルチャールには元になった人間がいたのだと、その“元”が知人ではないとどうして断言できるだろうか。
「まあ、ともかく。キャタピラーが生まれた後のことは人伝に聞いただけだから、あまり詳しくはないんだ」
ナルツィッセンクロイツ率いる水仙十字結社は大きくなり続け、やがて執律庭から目をつけられてしまった。彼らを逮捕しようとマレショーセ・ファントムが送り込まれ、事実上そのタイミングで悪の秘密組織は壊滅したのだ。
だが、ナルツィッセンクロイツにとってそれ自体は何の問題もなかっただろう。所詮は効率よくリソースを集めるためだけに作った組織だ。さりとて何の影響もなかったわけではない。その衝突が原因で、ナルツィッセンクロイツはかつての友人を失ってしまったのだから。
「ルネとジェイコブが理想に向かって邁進する中、アランとマリアンはその優秀さを見込まれてマレショーセ・ファントムに引き抜かれていてね。あとは兄妹を引き取ったエマニュエル・ギヨタンが元々マレショーセ・ファントムの隊長だったのもあるんだろうか……いずれにせよ、彼らはその時マレショーセ・ファントムの隊員だった。そして、マリアンはこの時に命を落としたんだ」
「それを純水精霊のリリスが見て、融合したんだよね?」
「らしいね。正直なところ、この辺りの話は実際に『マリアン』を見た君の方が詳しいと思うけど」
先程少し触れたが、ルネは人間から意志を切り離す手段として純水精霊のリリスを組織に引き込んでいた。かつて水仙十字院の院長を務め、数多くの子供を見守ってきたリリスだ。
元恩師ならばルネの凶行を止めろと言いたくなるかもしれないが、リリスにそれは難しかった。というのも、リリスは決して力の強い純水精霊ではなく、物事の因果関係を覚えるのが極端に苦手だったのだ。そもそも力の強い純水精霊はそのほとんどがエゲリアの命令で各地に散らばっていたため、外へ出る許可も貰えず国内に残っている時点で力には期待できない。
ルネが久々にリリスを見つけた時、彼女は水没した水仙十字院に留まり、何故孤児院がなくなったのかすら分かっていなかったほどだ──しかし、そんなリリスでもルネにとっては利用価値があった。エゲリアの眷属だった純水精霊は、人を溶かして意志を残す力があった。その力を利用すれば、聖剣を使うよりずっと効率的に人の意志に関する研究を進められる。
「僕は神の眷属と話したいとは思わなかったし、リリスと話したことはほぼないんだけどね。遠目に見る彼女はいつだって楽しそうだったよ。退屈そうなことはあっても、独りではないだけマシなんだろう。自分がどれだけの人間を手にかけたのか、最期まで自覚がなかっただろうな……尤も、最後にその無邪気さの代償を支払うことになったようだけど」
マレショーセ・ファントムが乗り込んできた時、リリスもその場にいたのだ。いくら精霊の中では力が弱いといっても、定まった形を持たない純水精霊は元素力を扱えない人間が簡単に倒せるような相手ではない。
リリスは早々に倒されることもなく、戦場に身を置いていたが──その末に見てしまったのだ。戦傷で倒れ伏し、血を流して死にゆくマリアンを。かつて愛した子供が“どういうわけか”死に向かうところを。
相も変わらず、リリスは何も理解できなかった。どうしてここにマリアンがいるのか、そして何故死にそうなのか。何も分からないまま、リリスはマリアンを抱き締めて願った。マリアンに死んでほしくないと──その願いはマリアンの体を溶かし、遺った意志をリリスの中に取り込んでしまった。
ある意味で、リリスはその時死んだと言えるだろう。そして、勿論マリアンも死んだ。ルネがナルツィッセンクロイツになり、カーターがキャタピラーになったように、混ざり合った生物は最早元の存在とは異なるものだ。
「その後の結末は味気ないものさ。表向き水仙十字結社は壊滅したことになったけど、ルネもジェイコブも別に死ななかった。ルネは来る日に備えて眠りに就いただけだし、ジェイコブは……最近死んだそうだね?」
「……時計の針の下敷きになって死んだよ」
「皮肉なものだね。アビスという理外の力に頼ってまでタイムリミットを引き延ばし続けた男が、最後には時計の針に押し潰されるなんて」
ルネが休眠した後も、ジェイコブは何くれと予言を覆す方法について調べていたようだ。しかし、大した成果を上げることもできず、漫然と時間を過ごす内にやがて運命に追いつかれた。
その後目覚めたナルツィッセンクロイツも変数、あるいは降臨者によって倒された──最後には『マリアン』と再会できたのだから、ルネはその行いに反して存外穏やかな最期を迎えたものだ。
「アランが聞けば憤慨したかもしれないね」
「決別していたから?」
「というより、ナルツィッセンクロイツが無茶な真似をしていなければマリアンは死んでいないだろう? アランは目の前で妹が死ぬところを見て……厳密に言えば溶けていくところを目の当たりにして、失意の内にマレショーセ・ファントムを去った。その後科学院を創設して名声を手に入れたが、それはアランにとって大した意味はなかっただろうね。晩年に至るまで友人の一人も作ることはなく、科学院を辞した後はアランがどこで没したのかもよく分かっていないそうだよ」
アランはマレショーセ・ファントムを退役した後、人智を超えた全ての出来事を拒絶するようになった。人の営みは人によってのみ築かれるべきだと信じ、人が制御し得る科学技術を世に送り出し続けた。
当然と言えば当然の帰結だ。ルネはアビスとかいう怪しげな力に心酔し、ジェイコブは面影すらない異形の姿になり果て、カーターは人型ですらなくなってしまった。最後に残ったマリアンも精霊の中に溶けて消えた。
アランは普通の人間として頭一つ抜けた天才だったが、それでもただの人間に過ぎなかった。彼の人生はずっと人ならざる存在に左右され続けたのだ。
「ねえ、一つ気になったんだけど……サンドローネの正体って──」
「おっと、それについては言及を控えさせてもらうよ。彼女の運命は近い内に君と交わるだろうから、別に答えを急ぐ必要はないだろう?」
水仙十字院にはかつて在籍していた四人の写真が残っていたが、マリアン・ギヨタンの見た目はサンドローネそっくりだ。厳密に言えば、マリアンが成長すればサンドローネのような見た目になっただろうと思えるほどに似ている。マリアンが500年前の人物であり、サンドローネがおそらく生身でないことを除けばだが。
「ただ、そうだね……もしサンドローネの正体が君の考えている通りだとして、今ここに『マリアン』がやってきたらどうなるのかはちょっと気になるね? 見た目が“マリアン”らしいのは前者だけど、ルーツとしてより正確に“マリアン”だと言えるのは後者だ。まあ、マリアンは今頃アンやセイモア、それにマメールと楽しく旅をしているんだろうから、そういうことはないんだろうけど」
「……まさか彼女達を此処に呼び寄せたりしてないよね?」
「僕もさすがにそこまで悪趣味じゃない。カーターの手紙を『マリアン』に託すのを選ばなかったのだって、生前ひたすら運命に翻弄された彼女をこれ以上煩わせたくなかったからさ」
「待って……カーターの手紙?」
「ああ、言ってなかったか。まあ、経緯を話す前に打ち明けていたら余計に怪しまれていただろうから、言うタイミングとしては今がベストかな。君に長らく託していたあれは、病床のカーターが最後に綴った手紙──誰に宛てたものでもないとはいえ、ある種の遺書みたいなものなんだよ」
「なんでそんなものを君が……?」
ふ、と笑顔が消えた。ずっと取り繕うような愛想笑いを浮かべていた青年は、今初めて悲しいような、寂しいような顔でこちらを見ている。
「カーターが死んだ時、ルネの所業に憤っていたアランはカーターの病室を片付けるのを忘れてしまった。アランに連れて行かれたマリアンも同じさ。カーターの失敗から次善案に切り替えたルネも、それについていったジェイコブも、もうカーターの病室には見向きもしなかった……彼らの“崇高”な理想に興味がなかった僕だけが、病室のサイドテーブルにぽつんと残ったそれを見つけたんだよ──でも、それを持つのに相応しいのはきっと僕じゃないだろう?」
「……君だってカーターの友達だったんでしょ?」
「僕はそう思っているけどね。カーターがどう思っていたのかは分からないし……はは、こんなことなら偏見をしまい込んで、地上の人間と接する機会を作っておけばよかった。長く生きれば生きるほど、後悔は灰のように降り積もっていく……もし僕が受け取ったら、その封を切るのは僕ってことになるだろう? そうして開いた便箋に、僕の名前がなかったら嫌じゃないか。だから……僕以外に残った人に読んでもらおうと思っただけさ。ずるくて申し訳ないけどね」
つまるところ、ユリウスは周りが思っている以上に友人のことを大切に思っていたし、思われたいと願っていた。ただ、カーンルイア人である自分の価値観が地上の人間とは相容れず、おそらくは傲慢でいけ好かない態度に見えるであろうことも自覚していた。
「まあ、話はこれでお終いさ。僕も長年の重荷が取れてすっきりしたよ! 改めて、ありがとね」