ドルトムント本社タワーの朝は、やけに静かだった。
第三リングの軌道上に浮かぶ巨大な複合施設――企業城下町の中心にそびえるタワーは、ガラスと金属の稜線を朝の光に磨かれて、鋭く、冷たく、どこか人を寄せつけない顔をしている。
その入口前の広場だけが、例外みたいににぎやかだった。新品のスーツ、真新しい鞄、胸元に揺れる社員証ホルダー。式典用の誘導ラインに沿って、新入社員たちがひとかたまりになって進んでいく。
その流れの端に――リュウジは立ち尽くしていた。
(……入口、どこだ)
正確には入口は目の前にある。あるのだが、“どの入口か”が問題だった。
タワーの正面は複数のゲートに分かれていて、上部には「式典会場」「来賓受付」「一般入館」「宇宙事業部」「物流・整備」といった案内が、機械のように整ったフォントで並んでいる。しかも、入口によっては虹彩認証のレーンが違う。
会社の入社式で迷う――それだけで、変な汗がにじんだ。
リュウジは首元のネクタイを指で整え、胸の内側にしまった認証カードを確かめた。
S級パイロット。そう認定されてから、まだ時間は経っていない。
なのに、今日は“新人”としてこの場所にいる。
周囲を見渡すと、同じように案内板を見上げている者もいる。けれど彼らはすぐに流れに乗っていく。
リュウジだけが、立ち止まったままだった。
「……入社式の会場? だったら、そっちじゃないよ」
背後から、軽い声が降ってきた。
振り返ると、金髪の女性がひとり、立っていた。
落ち着いた色のスーツに身を包み、細いピアスが光を拾っている。髪は柔らかく波打って肩にかかり、目元は笑っているのに、どこか芯の強さがにじんでいた。年齢はリュウジと同じくらいか、少し上かもしれない。
式典に来た新入社員とは違う、“慣れ”がある。
「すみません……。案内が多くて、どこに行けばいいのか分からなくて」
「ふふ、ここ、初見殺しだからね。式典会場なら、中央ゲートじゃなくて、右手の“式典専用”レーン。ほら、あの床のライン、薄い金色のやつ。あれ辿れば着く」
女性は指先で、床面に走る金色の誘導ラインを示した。確かに、光の角度でやっと見える程度のラインが、右側のゲートへ導いている。
「ありがとうございます。助かりました」
リュウジが深く頭を下げると、女性は肩をすくめた。
「いいって。迷子、嫌いじゃないし」
「……迷子扱いですか」
「今のあなた、完全に迷子の顔してたよ」
そう言って、女性はくすりと笑った。
その笑い方が、妙に気取っていなくて――リュウジは、張っていたものが少しだけ緩むのを感じた。
「改めて……ありがとうございます。えっと……」
名前を尋ねようとして、言葉を止める。初対面で、ここがドルトムント財閥で。相手はおそらく社員だ。
不用意に踏み込むのも違う気がした。
「名乗るほどでもないよ。……行っておいで、新人さん」
女性は冗談めかして言い、手をひらりと振った。
リュウジはもう一度頭を下げ、示された金色のラインへと足を向けた。
歩きながら、ふと背中に視線を感じて振り返る。
金髪の女性は、その場に残ったまま、こちらを見ていた。
そして小さく、目だけで“ほら、そっち”と合図する。
(……変な人だな)
でも、嫌じゃない。
そんなことを思ってしまった自分に、リュウジは少し驚いた。
*
式典会場は、タワー内部の大ホールだった。天井は高く、壁面には企業ロゴが投影され、床は磨かれた黒。
新入社員は指定された席へ誘導される。
周囲は緊張と期待と不安がないまぜになった空気で、呼吸の音さえ均一に聞こえそうだった。
リュウジは自分の席に座り、背筋を伸ばす。
手元の資料には「ドルトムント・グループ 入社式次第」と、簡潔な文字。
その下に、所属予定部署として「宇宙事業部」と印字されている。
(……宇宙事業部)
今まで自分がいた場所と、似ているようで全く違う。
宇宙は“現場”だ。事故も、生死も、責任も、すべてが一瞬で決まる。
けれど企業は“構造”だ。組織と権限の階層の中で、決まることが決まっていく。
壇上に幹部が並ぶ。
司会の声がホールに響き、開式の言葉。
社長の挨拶が始まると、空気がさらに引き締まった。
挨拶は、驚くほど滑らかだった。
「挑戦」「誇り」「未来」「安全」――耳触りの良い単語が並ぶ。
リュウジはそれを聞きながら、別の単語が頭に浮かんでいた。
(……責任)
言葉の中で一番重いものは、たいてい最後に来る。
そして最後に来るものほど、言った本人は軽く扱うことがある。
そんな偏見を、リュウジは自分の中で叩き潰した。今日は新人だ。ここで余計な色眼鏡はいらない。
続いて新入社員代表の宣誓、辞令交付。
自分の名前が呼ばれたとき、リュウジは立ち上がり、壇上で一礼した。
自分が“S級パイロット”だと知っている人間の視線が、どこかから刺さる。
羨望とも警戒ともつかない視線。
それが職場に入れば、もっと増えるだろう。
式は滞りなく進み、最後に集合行動の説明があり、閉式。
拍手がホールに広がる。
新入社員たちが立ち上がり、整列しながら出口へ向かう。
リュウジも流れに沿って歩き、ホールの外へ出た。
廊下の空気は、さっきより少しだけ人間らしい温度になっていた。
緊張の糸がゆるみ、あちこちで小声の会話が始まる。
誰かが笑い、誰かが深く息をつく。
そこで――背後から声がした。
「よ、リュウジだよな?」
振り向くと、短髪の男が立っていた。
スーツは着ているが、動きが“現場”のそれだ。立ち方も視線も、空間の把握の仕方も。
この場所にいるのに、空気の読み方が違う。
「はい。リュウジです。……あの、失礼ですが」
「自己紹介が先だな。俺はタツヤ。宇宙事業部の班長をやってる。今日からお前の班を預かることになった」
タツヤ班長。
リュウジは反射で背筋を正した。
「タツヤ班長……。本日からお世話になります。リュウジと申します」
「硬い硬い。まあ最初はそんなもんか」
タツヤは笑った。笑い方が大きくなく、でも余裕がある。
この人は、場数を踏んでいる。
リュウジは直感でそう思った。
「入社式、どうだった?」
「……正直、場違いな気もします。自分は、現場のほうが慣れているので」
「場違いじゃねえよ。お前は“必要”で呼ばれてる。……あ、ほら。来た」
タツヤが視線を向けた先。
人の流れを割るように、二人の女性が近づいてくる。
ひとりは緑色の髪。落ち着いた雰囲気で、歩幅が一定。目は鋭いというより、よく見ている目。
もうひとりは金髪。さっき入口で道を教えてくれた、あの女性だった。
その二人が並ぶと、空間が少しだけ華やぐのに、不思議と浮つかない。
「班長、捕まえましたよ」
緑髪の女性が、慣れた口調で言った。
タツヤが肩をすくめる。
「捕まえるって言い方やめろ。俺は逃げてねえ」
「逃げる気がないのは知ってます。でも放っとくと仕事抱え込むじゃないですか」
横で金髪の女性が、にやりと笑った。
「その通り。だから今日は私たちが回収係」
緑髪の女性はリュウジに視線を向け、すっと手を差し出す。
「はじめまして。宇宙事業部チーフパーサーのエリン。今日からよろしく」
チーフパーサー――エリン。
リュウジはすぐに深く頭を下げ、手を取る前に礼をした。
「はじめまして。リュウジと申します。本日からお世話になります。エリンさん、よろしくお願いいたします」
エリンはタツヤ以外には、柔らかい通常口調のまま頷く。
「うん、よろしく。堅いの、嫌いじゃないけど……今日は肩、少し落としていいよ。入社式、疲れるでしょ」
「……はい。ありがとうございます」
金髪の女性が、わざとらしく胸に手を当てる。
「で、私は副パーサーのペルシア。よろしく、新人くん」
副パーサー――ペルシア。
やっぱり、入口の人だ。
リュウジは思い出して、また頭を下げた。
「先ほどは入口で道を教えていただき、ありがとうございました。ペルシアさん」
「覚えてた。いい子」
ペルシアは軽く笑い、すぐに言い切る。
「でも“さん”付けいらない。タメ口でいいよ。どうせ同じ宇宙事業部だし、距離あるとやりにくい」
リュウジは一瞬迷う。
けれど、ペルシアの言い方には強制の棘がない。
むしろ“こっちに来い”という、手を引く温度がある。
「……分かった。ペルシア。……タメ口で、いいんだな」
「うん、それそれ。良い感じ」
タツヤが面白そうに笑う。
「お、切り替え早いな」
「班長にだけは敬語のままね。そこ崩されると、こっちが困るから」
ペルシアが当然のように言い、リュウジはすぐ頷いた。
「はい。タツヤ班長、改めてよろしくお願いいたします」
「よし。まあ、堅苦しいのは現場入ってからほどける」
エリンがリュウジの胸元――仮の社員証ホルダーに視線を落とす。
「それにしても、S級パイロットが“新人枠”で並んでるの、やっぱ変な絵だね」
さらっと言われて、リュウジは息を詰めかけた。
周囲に耳がある。
けれどエリンの声は必要以上に大きくなく、なおかつ“騒ぎ”にならない距離感だった。
「……肩書きは肩書きです。でも、ここでは新人なので」
「うん。そこ大事。変に持ち上げられると、後で落とされる。宇宙の現場でも、そういうのあるでしょ」
エリンが言い、ペルシアが肩をすくめる。
「あるある。だから、先に言っとく。私たち、変に遠慮されるの嫌い。困ったら言って。勝手に抱え込むタイプ、見てるとイラつくから」
「言い方」
タツヤが咳払いをする。
「でも本音だよ。……リュウジ、班の空気は悪くしないこと。リュウジが入ったことで現場の安全基準は上がる。だからこそ、変に孤立しないでね」
エリンがまっすぐ言った。
敬語じゃない。だけど軽くもない。
仕事としての言葉と、人としての言葉が重なっている。
リュウジは小さく息を吐き、丁寧に頭を下げた。
「……ありがとうございます。エリンさん」
「いい雰囲気でまとめようとしてるとこ悪いけど」
ペルシアが急に両手を叩いた。
「写真撮ろう。入社式終わった記念。ほら、今撮らないと、“はじめまして感”ってすぐ消える」
「写真……ですか?」
タツヤが眉を上げる。
「おいおい、業務端末で撮るなよ?」
「撮らないよ、タツヤ班長。プライベート端末。ほら、エリンも、たまにはこういうの乗っていいんだよ?」
エリンは一瞬だけ迷って、それから小さく頷いた。
「……まあ、記録として残すのは悪くないわね。リュウジもいい?」
「はい。……自分でよければ」
言い方がまだ硬い。
ペルシアが即座に突っ込む。
「ほらそこ。“自分でよければ”じゃなくて“いいよ”」
「……いいよ」
「よし、合格」
ペルシアは端末を自撮りモードにし、手際よく画角を合わせ始める。
「リュウジ、真ん中。班長、右。私、左。エリン、後ろから覗く感じ。はい、詰めて」
指示が速い。
ペルシアは人を動かすのが上手い。
リュウジは言われるままに立ち位置を調整し、タツヤ班長の隣に並ぶ。
タツヤは最初こそ渋い顔をしていたが、結局観念したように腕を組み、少しだけ口角を上げた。
「タツヤ班長、腕組むと怖い。もうちょい普通に」
「普通ってなんだよ」
「普通は普通!」
「……お前の普通は信用できねえ」
言い合いながら、エリンが後ろから少し身を乗り出し、四人の顔が画面に収まった。
画面の中の自分は――少し硬い。
けれど、さっきまでの“ひとり”の硬さではない。
隣にタツヤがいて、前にペルシアがいて、後ろにエリンがいる。
それだけで、肩の力の入り方が変わる。
「よし。いくよ。――はい、笑って! 入社式!」
ペルシアが言った瞬間、リュウジは反射で小さく笑ってしまった。
笑うつもりなんてなかったのに、口元が勝手に緩む。
シャッター音。
「……撮れた。うん、いいじゃん。班長の顔だけ若干“連行”だけど」
「うるせえ」
タツヤが低く返し、エリンが息を漏らして笑った。
「ふふ……班長、意外と写りいいよ」
「……そうか?」
「そうそう。ほら、班長だって人間」
「俺をなんだと思ってる」
軽口が交わされ、廊下の空気が一段あたたかくなる。
リュウジはその写真を覗き込み、ほんの少しだけ胸の奥が楽になるのを感じた。
今日からここが職場になる。
ドルトムント財閥、宇宙事業部。
巨大な組織の中で、自分はS級パイロットとして“使われる”のかもしれない。
けれど同時に――この三人と同じ班として動くなら、ただの道具では終わらない気もした。
「……ありがとう、ペルシア」
リュウジがぽつりと言うと、ペルシアは端末をしまいながら首を傾げた。
「何が?」
「入口でも、今も。……助かった」
ペルシアは一瞬だけ目を細め、それからいつもの調子で笑った。
「助けたんじゃないよ。これから同じ宇宙を飛ぶんだから、迷子は回収しとかないと」
タツヤがうなずき、背中を軽く叩く。
「そういうことだ。リュウジ、歓迎する。――ここから先は、入社式よりずっと現場寄りだぞ」
エリンが静かに続けた。
「うん。私たちも準備してる。……一緒に、無事に帰ろう」
無事に帰る。
それは宇宙にいる人間が、何より大事にする願いだ。
リュウジは息を吸い、ゆっくり吐いた。
そして、三人に向かって、あらためて頭を下げる。
「はい。タツヤ班長、エリンさん……そしてペルシア。改めて、よろしくお願いします」
ペルシアがにやりと笑う。
「よろしい。じゃ、次は配属の説明。遅れたら迷子確定だから、ついてきて」
「……もう迷子になりません」
「それ、さっきも言ってた人がいるんだよね」
ペルシアがわざとらしく言い、タツヤがため息をつく。
エリンが、くすっと笑う。
四人は並んで歩き出した。
タワーの廊下は長く、扉は多く、案内板は相変わらず難解だ。
それでも、今のリュウジには――入口でひとり立ち尽くしていた時の孤独が、もうない。
胸ポケットの中で、先ほどの写真が保存された端末が、わずかに温かかった。
ーーーー
配属説明のあと、リュウジはタツヤに案内されて宇宙事業部のフロアを抜け、訓練区画へ向かった。
ドルトムント本社タワーの内部には、表向きの“式典用の綺麗な廊下”とは別に、もうひとつの顔がある。
壁の色は落ち着いたグレーに変わり、床は足音を吸う素材になり、照明は必要最低限。動線は迷子を作らないように直線的で、角という角にセンサーと監視カメラが組み込まれている。
企業というより、基地だ。
リュウジはそんな印象を抱きながら歩いた。
「この先が訓練区画だ。今日の予定は、形式上は“健康診断と適性確認”ってことになってる。……だが、実際はもう少し踏み込む」
タツヤが前を向いたまま言う。
「踏み込む……というと」
「シミュレーターだ。お前の操縦を見せてもらう。俺も同席する」
リュウジは頷いた。
「了解です、タツヤ班長。……えっと、見学者は班長だけですか」
「表向きはな」
リュウジはそれ以上は聞かず、ただ歩幅を合わせた。
ここは企業だ。聞くべきことと、聞かないほうがいいことがある。
訓練区画の入り口は厚い隔壁扉で、開くときに低い駆動音が鳴った。
中は広く、白い壁面にいくつものブースが並び、天井の走査ライトが一定のリズムで点滅している。
シミュレーターの機材は最新だった。操作席、モーションユニット、投影装置、そして脳波・心拍・視線追跡のセンサー群。
“適性確認”という名目にしては、やけに本気だ。
「リュウジ、こっち」
声の主はペルシアだった。
副パーサーの身分にしては、場に馴染みすぎている。案内が手慣れていて、職員証のかざし方も迷いがない。
「早いな」
「だってさ、面白いの見逃すほど退屈な人生じゃないし」
けろっと言って、ペルシアは端末を振った。
「ほら、これ。あなたの訓練メニュー。……“適性確認”って書いてあるけど、嘘だよねこれ」
「嘘とまでは言わない。適性も確認する」
タツヤが真顔で返すと、ペルシアは笑う。
「タツヤ班長、真顔でそういうこと言うの、逆に怖いって」
そこへ、エリンが現れた。
チーフパーサーらしい、落ち着いた足取り。視線が訓練区画を一巡するだけで、どこに何があり、どこに人がいて、何が不足しているかを把握している感じがした。
「タツヤ班長、準備できてます。」
エリンはタツヤにだけ、少し改まった口調になる。
それが“立場”を示すのではなく、“関係の距離”を整えるための言い方だとリュウジには分かった。
「ありがとな、エリン」
タツヤ班長が短く頷いた。
リュウジは改めてエリンに向き直る。
「エリンさん、よろしくお願いいたします」
エリンはリュウジに対しては、普段の柔らかい通常口調のまま頷く。
「うん、よろしく。緊張してる?」
「……少し。機材が思ったより本格的で」
「そうだよね。まあ、でもシミュレーターはシミュレーター。失敗しても死なない。そこは安心して」
その“死なない”という言葉が、エリンの口から出るのが妙に自然で、リュウジはこの人も同じ世界を見てきたのだと思った。
タツヤが端末の画面を確認し、告げる。
「リュウジ。ブース3。基本操縦と緊急対応。全部で三本。お前には知らせないが、難易度は高い」
「……了解です」
「呼吸を整えて入れ。で、余計な格好つけは要らん。いつも通りやれ」
「はい。いつも通りやります」
リュウジはブース3へ向かった。
扉が閉まる直前、ペルシアが肩越しに言う。
「終わったらさ、感想聞かせて。どんな気分だった?」
「気分?」
「そう。自分が“見られてる”って思うとさ、変な癖出る人いるじゃん」
「……見られてるのは、班長だけだろ」
「うん。今はね」
ペルシアは意味深に笑った。
リュウジはそれを冗談だと思い、扉の中へ入った。
*
ブース3の内部は狭く、操縦席の周りをセンサーが囲んでいた。
椅子に座ると、腕に装着具が巻き付く。胸元のパッチが心拍を拾い、ヘッドセットが耳を塞ぐ。
視界の前方に投影される仮想の操縦席――機体はドルトムントの最新旅客・輸送兼用船「アクアパレスⅢ」仕様。
リュウジは一瞬だけ眉を動かした。
(……このモデル、まだ正式配備前のはずだ)
つまり、企業の中ではもう運用を前提に動いている。
そういうことだ。
システム音声が流れる。
『操縦適性確認を開始します。パイロット、呼吸を安定させてください。』
リュウジは息を吸い、ゆっくり吐いた。
「……開始」
画面が切り替わり、宇宙空間の航路が広がる。
星々の光、リングの曲線、遠くに浮かぶタワー群。
機体は巡航状態からスタートした。
最初の一本目は、基礎操縦の確認だ。
姿勢制御、推進器の微調整、航路の保持、速度変化への対応。
リュウジは淡々と、呼吸するように操作した。
「上手い」も「速い」も、ここでは意味がない。
必要なのは“正確さ”と“無駄の無さ”だ。
制御入力は最小。だが結果は最大。
推進器を必要以上に燃やさず、機体の慣性を読み、重力補正のタイミングを先に取る。
操縦桿は握るというより、添える。
機体が、指先の延長になっていく感覚だけが残った。
一本目の終了音。
『基礎操縦確認、終了。適性値:非常に高い。二本目に移行します』
二本目は緊急対応。
警報が鳴り、画面の端に赤い表示が踊る。
『右舷エンジン系統、出力低下。冷却系統異常。姿勢制御に遅延が発生』
リュウジは即座に状況を整理する。
出力低下、冷却異常、遅延――つまり“暴れ始める前に止めろ”ということだ。
慌てて舵を切れば、遅延が積み重なって機体が振り回される。
「右舷は切り離し。左舷で維持。姿勢制御は手動補正」
リュウジは冷却系統をシャットし、出力を落とし、右舷を“休ませる”判断をした。
代わりに左舷を少しだけ増し、慣性と航路のずれを計算して、機体の鼻先をほんの数度だけ修正する。
大きく曲げない。小さく、確実に。
遅延があるなら、遅延のぶん先に打つ。
警報が数秒遅れて静かになる。
『姿勢安定。航路保持成功。システム再起動を提案』
「提案は却下。再起動は“動くふり”をして爆発する」
リュウジは短く呟き、故障した系統をいったん隔離した。
機体が落ち着いたところで、やっと乗員アナウンスの想定画面が出る。
『パーサーアナウンス:――』
リュウジは一瞬だけ視線を動かし、淡々と言う。
「……パーサーに任せる。操縦は操縦の仕事だけやる」
アナウンスを自分で操作するパイロットもいる。
だがリュウジは、その“余計な手”が事故を呼ぶことを知っている。
自分がやるべきことだけをやる。
それがプロだ。
二本目、終了。
『緊急対応確認、終了。適性値:非常に高い。三本目に移行します』
三本目の表示が出た瞬間、リュウジはわずかに息を止めた。
『シナリオ:重力嵐(グラビティ・ストーム)遭遇。航路離脱。複数故障併発。乗員安全確保。』
(……重力嵐)
それは、運が悪いでは済まない災害だ。
宇宙で最も厄介なものの一つ。
見えない“引力の波”が機体を引き裂き、航路を歪め、計算を無意味にする。
画面が暗転し、次の瞬間、星々が揺らいだ。
機体が、見えない何かに掴まれたように横へ引かれる。
慣性警報、構造ストレス、姿勢制御の飽和。
連続で鳴るアラームが、耳の奥まで刺さる。
リュウジは、逆に静かになった。
目が、冷えていく。
「……まず、壊さない。次に、戻る。最後に、乗員を落ち着かせる」
口に出すことで、優先順位を固定する。
焦りは、優先順位が崩れるところから始まる。
機体が大きく回転しそうになった瞬間、リュウジは“止める”操作をしなかった。
止めようとするほど、波に逆らって壊れる。
代わりに、波のリズムを読む。
一度、回転を許し、回転の頂点で推進器を最小噴射。
ほんの短いパルスを入れて、回転軸をずらす。
機体の“落ち着きたがる方向”を作ってやる。
ストレス表示が、黄色から橙に落ちた。
『構造ストレス:軽減』
「よし。……今だ」
リュウジは次の波に合わせて、機体を波の“谷”へ滑り込ませた。
引力の乱れが弱い帯域。
そこに入れば、計算が戻る。
しかし、ここで更なる故障が出る。
左舷の姿勢制御ユニットが落ち、通信が途切れ、視界投影が一瞬フリーズした。
『通信遮断。外部航路情報、取得不可』
リュウジは舌打ちしない。
感情を挟むと、手が荒れる。
「外部情報がないなら、内部情報だけで動く。……視界が死んだなら、計器が目だ」
投影が戻るまでの数秒、リュウジは計器だけで機体を保つ。
回転率、加速度、燃料流量、構造応力。
数字は嘘をつかない。嘘をつくのは、読む人間のほうだ。
リュウジは“読む”のではなく、“感じる”ように数字を扱った。
指先が、次に来る波を予測している。
操作が、波に合わせて最小限で走る。
視界が戻った瞬間、機体は既に谷へ向かって整っていた。
『航路補正提案:――』
「提案は要らない。今は“逃げる”」
リュウジは、通常なら禁じ手に近い角度で機体を傾ける。
だが構造ストレスを抑えた上での傾け方だ。
機体が悲鳴を上げない角度を知っている。
そして、谷へ入った瞬間に姿勢を戻し、推進を一気に噴かすのではなく、段階的に上げる。
重力嵐の表示が後方へ流れ、警報が静まっていく。
『重力嵐帯域離脱。航路再捕捉、成功』
最後に、乗員アナウンスの想定画面。
ここでもリュウジは、淡々と一言だけ呟いた。
「……パーサー、頼む」
そして、操縦席の奥で鳴る終了音。
『シミュレーション、終了。総合適性値:極めて高い。』
リュウジは息を吐いた。
肩が僅かに重い。
だがそれは疲労ではなく、抑えていた集中がほどけた重さだった。
(……終わった)
ヘッドセットを外し、腕の装着具を解く。
扉が開くまでの数秒、リュウジは自分の手を見た。
震えてはいない。
いつも通りだ。
ただ、シミュレーターが“ただの確認”ではないことは、はっきり分かった。
*
一方、その操縦が“ただの確認ではない”形で見られていた場所がある。
訓練区画の奥、ブースとは隔離された小さなモニタリングルーム。
遮音壁、暗い照明、壁一面のモニター。
そこにタツヤ班長、エリン、ペルシアが並んでいた。
中央のメインモニターには、リュウジの視界投影がリアルタイムで映っている。
サブモニターには、機体の姿勢ログ、入力履歴、反応遅延、燃料消費、構造ストレス曲線。
さらに、心拍と呼吸、視線の動きまで。
ペルシアが口笛を吹く。
「……え、なにこれ。怖。入力、ほとんどしてないのに、全部できてる」
「無駄がない。機体に余計な負担を掛けてない」
タツヤが低い声で言った。
目は笑っていない。
あまりにも真剣で、むしろ少し険しい。
エリンが画面の端を指で示す。
「タツヤ班長、ここ。姿勢制御遅延が出た瞬間、普通なら“止めにいく”のに、止めてない。回転を許して……回転軸だけ変えてる」
「波を読むタイプだな。……いや、“波を読む”って言い方でも足りん。波を自分の味方にしてる」
ペルシアが目を丸くする。
「それって、出来る人いるの?」
「いる。……ただし、ほとんどは“癖”でやってる。こいつは癖じゃない。計算と感覚が噛み合ってる」
タツヤは、二本目のログを呼び出した。
画面に、右舷エンジン切り離しの判断タイミングが表示される。
故障検出から、決断までの時間は短い。だが短絡ではない。
その短さが、むしろ“準備されていた判断”を物語っている。
「右舷を切るの、早い。でも正しい。ここで欲を出して再起動してたら……最悪、燃える。こいつは“見せ方”じゃなくて“生き方”で操縦してる」
エリンが頷く。
「ええ。……操縦が、生活みたい。息してるみいにやってる」
ペルシアが少しだけ真面目な顔になる。
「ねえ、タツヤ班長。あなたって、ドルトムント財閥で唯一のA級パイロットでしょ?」
「……まぁな」
「そのA級が見ても、これ……どう?」
タツヤは、答えを焦らず、三本目の重力嵐ログに切り替えた。
構造ストレス曲線が、最初は赤に張りつきかけ、そこから滑らかに橙、黄へ落ちる。
普通ならギザギザに暴れる波形が、まるで一本の線のように整えられていく。
タツヤは、短く息を吐いた。
「……俺を、ゆうに超えてる」
その言葉は、悔しさを含まない。
むしろ、確認だ。
自分が積み上げてきたものを基準にして、それでも“上”だと言える、揺るがない確認。
エリンがタツヤを見た。
タツヤの横顔は、少しだけ硬い。
複雑な感情を隠しているというより、感情を“現場用”に整えている顔だった。
「タツヤ班長、嫌ですか?」
エリンは班長にだけ、丁寧な口調になる。
「……嫌じゃない」
タツヤは即答した。
「むしろ、助かる。宇宙事業部は、今からもっと無茶をする。……そのときに“止められるやつ”が必要だ。俺ひとりじゃ足りん」
「止められるやつ」
ペルシアが繰り返して笑う。
「分かる。あいつ、変に格好つけないもんね。パーサーのアナウンスも、“任せる”って言っただけ。自分で全部やろうとしない。あれ、珍しいよ」
エリンが小さく頷く。
「うん。自分の仕事を守れる人は、周りの仕事も守れる」
タツヤは画面の端に表示される“視線の動き”を見た。
重力嵐の最中でも、視線が散らない。
必要な場所だけを見ている。
そして、必要がないと判断した情報は切り捨てている。
「……あいつ、自分が見られてると思ってない。だから余計に本物だ」
ペルシアが口角を上げる。
「そりゃそうでしょ。モニタリングしてるなんて言ってないし」
「言う必要はない」
タツヤは淡々と言った。
だがエリンは、その言葉の裏側にある“企業”の匂いを嗅ぎ取ったように眉を僅かに動かした。
「タツヤ班長。……これ、上も見てますか?」
「見てるだろうな。ログは送られる。ここで止めても止まらない」
「そうですか」
エリンはそれ以上追及しなかった。
その代わり、モニターの中のリュウジの表情を見つめる。
操縦席で淡々と、呼吸するように操縦している横顔。
そこに、誰かに見せるための“演技”は一切ない。
「……知らないまま、全部見せちゃったね」
エリンがぽつりと言うと、ペルシアが肩をすくめた。
「本人は“いつも通り”やっただけ。で、それが一番すごい。……最悪なのは、これ見た上が余計なこと思いつくパターン」
「思いつくだろう」
タツヤの声が低くなる。
「だから俺が釘を刺す。あいつは見世物じゃない。班の人間だ」
エリンは静かに頷いた。
班長の“守る”が、命令ではなく責任から来ているのが分かる。
「うん。じゃあ私たちも守る。副パーサー、頼むよ」
エリンがペルシアに言う。
ペルシアは軽く指で敬礼した。
「任せて、チーフパーサー。迷子回収係は得意だし」
タツヤが、ふっと笑った。
「迷子じゃなくなるといいな」
「無理でしょ。あの案内板、ほんと意地悪だもん」
そう言いながら、ペルシアはモニターの録画ボタンを確認し、データの保管先を“班内限定”のフォルダに切り替えた。
ささやかな抵抗。
けれど、抵抗はこういうところから始まる。
そのとき、ブース3の終了信号がモニタリングルームにも届いた。
『シミュレーション終了。パイロット退出』
「出てくる」
タツヤ班長が立ち上がる。
「行こう。――あいつには、余計なことは言うなよ」
「はい。まずは“お疲れさま”だね」
エリンが柔らかく言った。
ペルシアがにやりと笑う。
「でもさ、タツヤ班長。今の言葉、本人に聞かせたらどうなるかな。“俺をゆうに超えてる”ってやつ」
「言わん。調子に乗るタイプじゃないが、背負う重さが増える」
「班長、優しい」
「いつも優しいでしょ」
「あー、はいはい」
三人はモニタリングルームを出た。
廊下の照明が彼らを照らし、訓練区画の空気が戻ってくる。
そして、ブース3の扉が開いた。
リュウジが出てくる。
汗は少ない。呼吸も乱れていない。
ただ目だけが、まだ“宇宙”の温度のまま冷えていた。
「……終わりました、タツヤ班長」
リュウジは敬語で報告する。
その声には、やり切った達成感よりも、“いつも通りの仕事をした”という平坦さがある。
エリンが一歩前に出る。リュウジにはいつもの口調で、けれど芯のある声で。
「お疲れさま。大丈夫? 気分悪くない?」
「はい。大丈夫です、エリンさん」
ペルシアが近づき、軽く肩を叩く。
「ね、感想。どうだった? あの三本」
「……正直、最後のは“確認”じゃない」
「だよね」
ペルシアは笑った。
笑いながら、目だけは笑っていない。
“これから”を見ている目だ。
タツヤは短く言う。
「良かった。――お前の操縦は、十分だ」
「……ありがとうございます」
リュウジは頭を下げた。
自分が今、別室で見られていたことなど、まるで知らないまま。
その背後で、ドルトムント財閥という巨大な組織が、確実に歯車を回し始めている。
“S級”という駒を、どう使うか。
どこへ飛ばすか。
誰のために飛ばすか。
けれど――少なくとも、この場には、リュウジを“駒”としてだけは扱わない三人がいる。
「次は、実機のブリーフィングだ」
タツヤが言った。
「今日はもう終わりじゃない。お前の初日は、ここからが本番だ」
リュウジは息を吸い、頷く。
「はい。……ついていきます、タツヤ班長」
エリンが微笑む。
「じゃあ、行こう。迷子にならないように」
ペルシアが即座に乗る。
「もし迷子になったら、私が回収するから安心して」
「……迷子にはならない」
「それ、さっきも聞いた」
三人の軽口が廊下に溶ける。
リュウジはそのやり取りを背に、歩き出した。
知らないところで、すでに“流石S級”を見せつけてしまったことも。
そして、ドルトムント財閥で唯一のA級パイロットが静かに認めたことも。
――俺を、ゆうに超えてる。
その言葉はまだ、リュウジの耳には届かない。
だがいつか、必ず届く。
良い形か、悪い形かは――これからの選択次第だった。
ーーーー
実機ブリーフィングが終わった頃には、タワーの訓練区画に漂っていた冷たい空気が、少しだけ“現場の匂い”に変わっていた。
リュウジの頭の中には、さっき見た機体図と航路の断面、非常時の優先順位、そして“配備前の機体がすでにここにある”という事実が、まだ熱を持って残っている。
ドルトムント財閥は、準備が早い。早すぎる。
それが頼もしさに見える瞬間と、背筋が寒くなる瞬間が同居する。
「ここまでで機体側の説明は終わりだ」
タツヤが端末を閉じ、会議室の扉に視線を向けた。
訓練区画のさらに奥にある小会議室は、ガラス壁の向こうが整備ハンガーに繋がっていて、機材が規則正しく並んでいるのが見える。
壁面のモニターには、まだ「アクアパレスⅢ」の姿勢制御系統図が薄く残っていた。
「次は契約体系の説明に移る。……嫌な話だが、避けて通れん」
タツヤの声は淡々としている。
だが“嫌な話”と言い切ったところに、現場の人間の正直さがあった。
リュウジは椅子に座り直し、背筋を伸ばす。
「了解です、タツヤ班長」
隣の席で、ペルシアが足を組み替えた。
副パーサーの身分でこういう場に同席できるのは、普通じゃない。
だが彼女は“普通じゃないこと”を普通の顔でやる。
「契約体系って、あれでしょ? 給与とか、勤務形態とか、福利厚生とか。ね、リュウジ」
「……たぶん。詳しいのは分からないけど」
「私、福利厚生の話は好き。生きるために必要」
「そこは正直だな」
リュウジが小さく返すと、ペルシアはにやりと笑った。
エリンはその向かい側の席で、端末を開き直している。
表情は落ち着いているが、目は仕事の目だ。
タツヤに対してだけ、丁寧な姿勢を崩さない。
「タツヤ班長、契約説明の資料、こちらで出しますか?」
「頼む。……リュウジ、今日は初日だが“特例”の説明が多い。驚くなよ」
「驚かないようにします」
「そう言いながら驚くやつが大半だ」
「……自覚はあります」
タツヤが短く笑い、壁面モニターが切り替わった。
機体図ではなく、契約条項の要点が箇条書きで表示される。
そこに大きく、見慣れない言葉が躍った。
【所属権(パイロット資格S級)】
【宇宙連邦連盟/ドルトムント・グループ共同管轄】
【指揮命令系統:連盟規定+ドルトムント規定】
【業務形態:招集型(オンコール)】
リュウジの喉の奥が、わずかに固くなる。
(……所属権)
言葉の響きが、嫌に冷たい。
“雇用”じゃない。
“所属”。そして、“権”。
タツヤは、そこを誤魔化さずに言った。
「リュウジ。お前はS級パイロットだ。だから、一般社員とは契約の枠が違う」
ペルシアがすかさず口を挟む。
「ほら出た。S級のやつ」
タツヤは視線だけでペルシアを制し、続ける。
「まず前提。お前の所属権は、ドルトムント財閥と宇宙連邦連盟にある。二重所属だ。俺たちとは違う」
“俺たち”の言い方が、タツヤなりの距離の取り方だった。
線引きはする。でも、突き放しはしない。
リュウジはそれを受け取りながら、言葉を選ぶ。
「……つまり、自分はドルトムントの社員であり、同時に連盟の管轄でもある、と」
「そうだ。だから仕事も、指揮命令系統が特殊になる」
タツヤはモニターの次の項目を開く。
【業務範囲:ドルトムント命令案件に限定】
【連盟案件:連盟を通した正式要請のみ】
【通常業務:免除(必要時のみ出社)】
「ここが一番重要だ」
タツヤは指で項目を示しながら言った。
「お前は“ドルトムントの命がある仕事のみ”だ。つまり、ドルトムントが正式に命令を出した案件にだけ出る。俺たちみたいに、日々の雑務や定例運航の穴埋めに駆り出されることは基本的にない」
ペルシアが即座に両手を上げる。
「うわ、ずるい! 私、毎日雑務まみれなんだけど!」
「それが副パーサーの仕事だろ」
「それはそうだけど、言い方があるじゃん!」
タツヤが淡々と返すと、ペルシアは頬を膨らませた。
その横でエリンが、ペルシアに一度だけ視線を向ける。
言葉は柔らかいが、釘は刺す。
「ペルシア、羨ましがるのはあと。今はリュウジの説明中」
「……はーい、チーフパーサー」
「私はチーフパーサーだけど、今ここでは役職で張り合わないの。話、ちゃんと聞いて」
「分かったって。……でも、羨ましいのは羨ましい」
ペルシアは小声でぼやき、リュウジに肘で軽く合図した。
「ね? 出社、必要な時だけだって。最高じゃない?」
「……最高かどうかは、まだ分からない」
リュウジが素直に言うと、ペルシアは目を丸くする。
「え、なんで? 私なら泣いて喜ぶけど」
リュウジは答えず、モニターを見た。
そこに並ぶ文字は、確かに甘い。
“必要時のみ出社”
“通常業務免除”
“施設利用自由”
けれど、それは裏返せば――
“必要と判断された時だけ呼ばれる”ということだ。
それも、自分の意思ではなく“命令”で。
タツヤが、リュウジの沈黙を拾うように続けた。
「呼び出しがある時は、俺から言う。直で連絡が飛ぶような形にはさせない。現場への落とし込みは班長がやる。お前は余計な政治を背負うな」
その言い方に、タツヤの経験が滲む。
“直で飛ぶ連絡”は、人を壊す。
急な招集の裏には、必ず誰かの都合がある。
そして都合の尻拭いは、いつも現場に回ってくる。
「……ありがとうございます、タツヤ班長」
リュウジが頭を下げると、タツヤは軽く顎を上げただけで済ませた。
「礼は結果でいい」
エリンが資料をめくり、次の項目を表示する。
【福利厚生:ドルトムント所有施設の利用】
【居住区:指定住居の選択可】
【訓練施設:優先予約】
【医療区画:優先対応】
【移動:専用シャトル手配】
ペルシアが、今度こそ身を乗り出した。
「なにそれ……。え、医療優先? 訓練優先? 専用シャトル? なにこのVIP!」
「VIPじゃない」
リュウジが思わず即答すると、ペルシアが口を尖らせる。
「だってVIPだよ。私なんか医療区画、混んでたら待つよ? 訓練施設も予約取れない時あるし。専用シャトルって何、王様?」
リュウジは言い返しかけて、飲み込んだ。
ペルシアが悪気で言っていないことは分かる。
ただ、言葉が軽いからこそ、刺さる時がある。
タツヤが低い声で言った。
「ペルシア。浮かれるな。これは“優遇”であると同時に“拘束”だ」
ペルシアが一瞬、口を閉じる。
エリンがタツヤに向けて、敬語で補足する。
「タツヤ班長、そうですね。利用自由って書いてありますけど、実際は“管理下に置くため”の手段でもありますし」
「その通り」
タツヤはモニターの条項をひとつだけ拡大した。
【指定施設利用:安全・機密保持の観点から推奨】
【居住登録:緊急招集のための所在把握】
【外部契約:連盟・財閥の承認が必要】
リュウジの指先が、無意識に膝の上で握り込まれる。
(……所在把握)
言葉を飾れば、“安全のため”。
実態は、“逃がさないため”。
S級パイロットは、貴重だ。
貴重だから守る。
そして貴重だから縛る。
タツヤが、わざと硬い言い方を避けずに言った。
「ドルトムントの施設を好きに使っていい。居住区も選べる。訓練も医療も優先。移動も専用。――だが、その代わり、居場所は把握される。招集が来たら、断れない」
ペルシアが、さっきより少し小さな声で言った。
「……それ、自由って言わない」
エリンがペルシアを見て、軽く頷く。
「そう。自由っぽく見える“囲い”ってある」
リュウジは、モニターの文字を見ながら、静かに息を吐いた。
怖い、とは違う。
怒りとも違う。
ただ、現実だ。
それでも――タツヤは続けた。
「だから、班としての方針を先に決める。お前が呼ばれる仕事は、必要な時だけ。必要でない時は出社しなくていい。というか、させない。雑務に埋もれさせたら、S級の意味がない」
「……“意味がない”」
リュウジが繰り返すと、タツヤは視線を外さずに言った。
「お前が“切り札”として呼ばれる時、そこには大抵、誰かが助からない状況がある。だから普段は休め。訓練しろ。身体を作れ。心拍を落とせ。――S級は、壊れたら終わりだ」
その言葉に、ペルシアが珍しく口を挟まなかった。
エリンも、黙って聞いている。
リュウジは、自分が“切り札”という単語で呼ばれたことに、何かが引っかかった。
切り札は、最後に切る。
最後に切るということは、最後まで温存される。
温存されるということは――普段は、箱の中だ。
「タツヤ班長」
リュウジは、敬語を保ったまま言った。
「仕事が来た時、断れないのは理解しています。……でも、仕事内容の説明は、事前にいただけますか」
タツヤは一瞬だけ、目を細めた。
「当然だ。俺から伝える。納得できないなら、俺が上と揉める」
言い切り方が、現場の人間のそれだった。
“揉める”を、恐れない。
むしろ、必要な手段として扱っている。
エリンが、タツヤに敬語で続ける。
「タツヤ班長、リュウジの判断材料は必ず確保したいです。情報がないまま招集だけかけるのは危険です」
「分かってる。……だからお前らにも頼む。リュウジを“駒”として扱う連中が出たら、最初に止めろ」
「はい」
エリンは短く答え、すぐにリュウジへ視線を向けた。
声は通常口調に戻る。
「リュウジ、怖がらなくていい。でも、甘く見ないで。契約って、紙だけど鎖にもなる」
「……分かってます、エリンさん」
リュウジが頷くと、ペルシアが腕を組んで唸った。
「はぁ……。羨ましいって思った私がバカだった。福利厚生が豪華でも、鎖が太いなら意味ない」
「羨ましいって思うのは別に悪くない」
エリンがペルシアに言う。
「ただ、今それを言うと、リュウジが“贅沢してる”みたいに聞こえるでしょ。違うから。これは責任の形が違うだけ」
「……うん。ごめん」
ペルシアは素直に頭を下げるタイプだった。
それが彼女の強さでもある。
軽口を叩けるのは、ちゃんと反省できるからだ。
リュウジは少し迷ってから、ペルシアに向けて言った。
「気にしてない。……羨ましいって言われるのは、分かるし」
「ほんと?」
「ほんと。でも――」
リュウジは言葉を探し、正直に出した。
「俺は、好きでこうなったわけじゃない。S級は、取った。でも、取った瞬間から“誰かのもの”になる感覚がある」
会議室の空気が、少しだけ静まった。
タツヤが、椅子の背に体重を預けて言う。
「それが現実だ」
そして、続けた。
「だが“誰かのもの”で終わらせるかどうかは、班の動き次第だ。お前が操縦で守るなら、俺たちは契約の隙間でお前を守る」
リュウジは、胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じた。
あまりに露骨に“守る”と言われると、逆に怖くなることもある。
だがタツヤの言葉は、情ではなく、現場の合理としての“守る”だった。
エリンが頷き、タツヤへ敬語で確認する。
「タツヤ班長、最後に一つ。施設利用の範囲、本人に決めさせますか?」
「ああ。居住区も訓練枠も、本人に選ばせる。押し付けると反発するし、反発は事故に繋がる」
「了解しました」
エリンはリュウジへ向き直る。
「リュウジ、あとで希望聞くね。居住区、静かな方がいい? それとも訓練施設に近い方?」
「……訓練施設に近い方が助かります。移動時間が短いほうが、頭を切り替えやすいので」
「うん、分かった」
ペルシアが、すぐに茶々を入れる。
「訓練施設の近くってことは、私も遊びに行ける?」
「遊びに行く場所じゃない」
エリンが即座に注意する。
「ペルシア、言い方」
「冗談、冗談。……でもさ、訓練施設って見学できる? S級の訓練とか、ちょっと見たい」
リュウジが困って視線を動かすと、タツヤが先に答えた。
「必要があれば見せる。必要がなければ見せない」
「うわ、班長、ドライ」
「仕事だ」
「それが好き」
ペルシアが笑い、エリンがため息をつく。
そのやり取りが、少しだけ空気を軽くした。
契約体系の説明は、最後のページへ進む。
【招集時の連絡経路:班長(タツヤ)経由】
【機密保持:S級案件は特別区分】
【違反時:連盟規定に基づく処分】
リュウジは、そこに一つだけ視線を止めた。
(……特別区分)
“特別”は、祝福にも、檻にもなる。
タツヤが端末を閉じ、言った。
「説明は以上だ。質問があるなら今しろ。……なければ、今日の残りは“自分の時間”にしていい」
ペルシアが即座に手を挙げる。
「質問! 私もS級取ったら、出社しなくてよくなる?」
「ならない。まずパイロットになれ」
「ひどい!」
エリンがペルシアを軽く小突く。
「茶化さない。タツヤ班長、すみません」
「いい。いつものことだ」
エリンはタツヤへ敬語で一礼し、すぐリュウジを見る。
「リュウジ、質問ある? 不安なとこ、言って」
リュウジは、少しだけ迷った。
契約の条文をどう解釈しても、現実は変わらない。
だが、聞くなら今だ。
「……一つだけ。招集が来た時、俺が現場で判断する余地はありますか」
タツヤは、間を置かずに答えた。
「あるようにする。それが班長の仕事だ。――お前の判断が必要な状況で、お前を黙らせる契約なんて、現場じゃ使えない」
その言葉で、リュウジの胸の奥の硬さが、わずかに緩んだ。
「……分かりました。ありがとうございます、タツヤ班長」
「よし」
タツヤは立ち上がり、会議室の扉を開けた。
廊下の光が差し込み、機械の匂いが流れ込む。
「じゃあ、今日はここまで。リュウジ、必要な時だけでいい。だが“必要な時”は必ず来る。準備しろ」
「はい」
リュウジが頷くと、ペルシアが横から囁いた。
「ねえ、準備って、まず何から?」
「……寝る。食う。訓練する」
「真面目!」
「真面目が生き残る」
「それ、カッコいい。今度私も使う」
「使うな」
エリンが即座に突っ込む。
「ペルシア、言葉だけ真似してもダメ。ちゃんと寝て」
「うっ……チーフパーサーが怖い」
「怖くない。大事なこと言ってるだけ」
エリンはそう言いながら、リュウジにだけ少し柔らかく笑った。
「リュウジ、今日はお疲れ。契約の話、重かったでしょ。……でも、ひとりで抱えないで。班で抱えるから」
「……ありがとうございます、エリンさん」
リュウジは丁寧に頭を下げた。
廊下へ出ると、タワーの長い動線がまた視界に入る。
扉は多く、案内板は相変わらず意地悪で、監視カメラは無言でこちらを見ている。
自由に使っていいと言われた施設は、確かに広い。
だがその広さは、“逃げ道のなさ”にも見える。
それでも――
タツヤが前を歩き、エリンとペルシアが隣にいる。
その並びが、今のリュウジにとっては、契約書よりも確かな“支え”だった。
そして、リュウジはまだ知らない。
この契約体系が、彼を守るためだけに存在しているわけではないことを。
守る顔をした鎖は、必要な時にだけ、最も冷たく締まる。
“必要な時”は必ず来る――タツヤの言葉が、やけに現実味を帯びて胸に残っていた。