サヴァイヴ〜ドルトムント財閥〜   作:一塔

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守るもの

 宇宙事業部は、一つの巨大な歯車だった。

 

 歯車には役割がある。サイズも歯の形も違う。

 けれど、噛み合うべき瞬間に噛み合わなければ、全体が止まる。

 だからここでは“班”という単位で、人も技術も運用も組み上げられている。

 

 タツヤが率いる班は、十四班。

 班長――タツヤ。

 パイロットは五名。S級パイロットのリュウジを筆頭に、通常運航を支える操縦士たちが揃う。

 客室側には、チーフパーサーのエリン、副パーサーのペルシア。

 そして乗務員が十名ほど。

 

 外から見れば豪華すぎる編成だ。

 それも当然で、十四班は“特別な班”だった。

 

 基本的に、タツヤの班が定期便に乗ることはまずない。

 S級パイロットを抱える班が定期便の時間を回す必要はない。回してしまったら、いざという時に動けない。

 十四班の仕事は、ドルトムント財閥の命――あるいは宇宙連邦連盟の命を受けた“特別な案件”の運航。

 警護付きのVIP便、特殊航路、緊急輸送、そして時に、政治と経済が絡む最上級の案件。

 

 ――ただし。

 

 “特別”であることは、“無関係”という意味ではなかった。

 

 どれだけ整備された組織でも、欠員は出る。

 体調不良、家族の事情、急なトラブル。

 人が減れば便は回らない。便が回らなければ、誰かが困る。誰かが困れば、信用が落ちる。

 宇宙航路の運用は、地上の交通よりもずっと繊細で、連鎖が早い。

 

 だから十四班も、他班の欠員が出た場合には“補充要員”として駆り出されることがあった。

 パイロットだけじゃない。乗務員も同じだ。

 

 そして今日も――その“補充”が起きていた。

 

 乗務員の体調不良による欠員。

 埋めるために十四班から応援に出たのは、ククルとエマだった。

 

 ククルは赤い髪をツインテールに結んだ、動きの良い乗務員だ。

 明るくて反応が早い。お客にもよく声が届く。

 ただ――勢いが良すぎることもある。

 

 エマは柔らかな銀髪をボブにまとめ、上品な微笑を浮かべる女性だ。

 対応は丁寧で、所作に無駄がない。

 落ち着いた空気を作るのが得意だった。

 

 二人は他班の定期便に合流し、慣れない空気の中で自分の役割を探して動いていた。

 

 その航路の途中――問題が起きた。

 

 小さな問題だ。

 宇宙船が揺れたわけでも、機器が故障したわけでも、緊急事態が起きたわけでもない。

 だが、客室で起きる“小さな問題”ほど厄介なものはない。

 

 客室は、人がいて、感情があって、予測が難しい。

 何かがひとつ崩れると、連鎖して“空気”が壊れる。

 空気が壊れると、それは事故より先にパニックを生む。

 

 発端は、ククルの“助けたい”という気持ちだった。

 

 他の乗務員が、ドリンクの提供で少しもたついているのを見つけた。

 トレイを支える手が不安定。お客の要望が重なって、対応が追いつかない。

 ククルは迷わず、助けに入ろうとした。

 

(手伝わなきゃ)

 

 足が出る。

 声をかける。

 小走りになる――そこまではいつも通りだった。

 

 しかし、その“いつも通り”が、この便では事故のきっかけになった。

 

 その瞬間、通路の向こうから子どもが走ってきた。

 親の目を抜け、嬉しさのままに駆けてきたのだろう。

 狭い通路。視界の死角。タイミング。

 ククルは止まれなかった。

 

 ぶつかった。

 

 小さな衝撃。

 ククルはバランスを崩し、床に転倒した。

 幸い、子どもに怪我はなかった。転んだのはククルの方だった。

 だが、子どもは驚いて泣き出し、近くにいた保護者が慌てて声を上げる。

 “何が起きた?”という視線が周囲から集まり、客室の空気がざわっと揺れた。

 

 小さなパニック。

 

 それを収束させるために、他班のチーフパーサーが飛んできた。

 短い指示。迅速な誘導。お客の表情を整える声。

 客室はすぐに落ち着いた。

 

 しかし――落ち着いた後に残るものがある。

 それは“評価”だ。

 

 ククルは床に膝をついたまま、頭を下げ続けた。

 

「すみません……! 本当に、すみません……!」

 

 声が震える。

 自分のせいで空気が乱れた。

 客室は“安全”であるべきなのに、その安全を一瞬でも揺らした。

 それが悔しかった。

 

 チーフパーサーは、ククルを一瞥した。

 

 その目は冷たかった。

 いや、正確には“冷たく見えた”。

 忙しい現場で、感情に寄り添う余裕がなかったのかもしれない。

 

 けれど言葉は、容赦がなかった。

 

「……どうして、ドジな貴方が、あの班にいるのか不思議だわ」

 

 皮肉にも似た言葉。

 刃の先が、ククルの胸にまっすぐ刺さった。

 

 “あの班”――十四班。

 チーフパーサーがエリンで、副パーサーがペルシアで、パイロットにはS級のリュウジがいる班。

 特別な班。優秀な人間が集まる班。

 そこに、ドジな自分がいるのはおかしい。

 そう言われた気がした。

 

 ククルは、謝るしかなかった。

 その場では反論などできない。

 自分が悪かったのは事実だ。

 “気持ち”は正しくても、“動き”は間違っていた。

 

 それで終わるはずだった。

 

 けれど、終わらなかった。

 

 ククルの胸の中で、その言葉は何度も反復される。

 寝る前も。シャワーの間も。制服を畳む時も。

 頭の中で、同じ刃が何度も刺さる。

 

 

 次の日。

 

 昼休憩。

 

 宇宙事業部の休憩スペースは、窓の外にコロニーの街が見える。

 人が行き交い、配送ドローンが通り、光が規則的に流れる。

 “平和”な景色だ。

 なのに、ククルの心は重かった。

 

 ククルはトレイを持ったまま席に座り、ため息を溢した。

 

「はぁ……」

 

 その吐息は長い。

 昨日のことが、まだ抜けていない。

 

 向かいにはエマとカイエが座っていた。

 カイエはいつも通り落ち着いた表情で、ククルの顔を覗き込む。

 エマは上品な微笑みを浮かべながらも、目の奥は真面目だった。

 

「ククルのせいじゃないよ」

 

 まずカイエが言う。

 淡々としているが、ちゃんと優しい声。

 

「うん。子どもが走ってきたの、こっちからは見えにくかったもの」

 

 エマも頷き、フォローする。

 理屈で慰めるのではなく、“状況”を一緒に確認してくれる言い方だった。

 

 ククルはそれでも、首を振った。

 

「でも……私、走っちゃったし……」

 

 声が弱い。

 普段の明るさが、どこにもない。

 

「助けたかったのは分かる。分かるけど……」

 

 ククルは言葉を途中で切り、またため息を吐いた。

 そして、ぽつりと本音が落ちる。

 

「私、乗務員向いてないのかも」

 

 エマが眉を寄せた。

 

「そんなこと……」

 

 カイエもすぐに言いかけたが、ククルの表情があまりにも沈んでいて、言葉を飲み込む。

 慰めが効かない時の顔だ。

 

 ククルは続ける。

 自分で自分を追い詰めるように。

 

「しかも……エリンさんやペルシアさん、S級のリュウジさんまでいる班と同じなんて……私には無理だったんだよ」

 

 “無理だった”。

 過去形にしてしまう。

 まだ終わっていないのに、心の中ではもう結論を出してしまう。

 

 エマが口を開く。

 

「ククル、十四班にいるからって、全部完璧じゃなきゃいけないわけじゃ――」

 

「でも、あの人に言われた言葉……」

 

 ククルは唇を噛みしめた。

 言われた言葉を口にするのも怖い。

 でも、言わないとこの重さは消えない。

 

「……“どうしてドジな貴方が、あの班にいるのか不思議だわ”って」

 

 カイエの目が、すっと鋭くなる。

 エマの笑みが消え、代わりに静かな怒りが浮かんだ。

 

「……それは、言い過ぎ」

 

 エマが低い声で言う。

 普段の上品さの下にある芯が、はっきり見える。

 

 カイエも頷いた。

 

「失礼だね。チーフパーサーなら、言葉を選ぶべき」

 

 ククルは肩を縮める。

 

「でも、私が転んだのは事実だし……」

 

「事実と人格攻撃は別だよ」

 

 カイエが短く言う。

 その言葉が、ククルの胸の痛みに少しだけ効いた。

 

 エマはククルの手元を見る。

 ククルの指先が、カップをきつく握りしめて白くなっている。

 

「ねえ、ククル」

 

 エマが声を柔らかくする。

 

「あなた、昨日のこと、ちゃんと反省してるでしょ」

 

「……うん」

 

「じゃあ、向いてないんじゃなくて……向いてるから苦しいのよ」

 

 ククルが目を瞬いた。

 

「向いてない人は、あんなに落ち込まない。

 “ごめんね”って言う前に、言い訳する。

 あなたはまず謝って、子どもを見て、周りを見て……それでも自分を責めてる」

 

 エマの言葉は、真っ直ぐで、優しかった。

 ククルの心の中の自分責めを、少しだけ止める言葉。

 

 カイエも続ける。

 

「それにさ、十四班って……エリンさんやペルシアさんがいるから完璧に見えるだけで、失敗がないわけじゃないよ」

 

 ククルが顔を上げる。

 カイエは肩をすくめた。

 

「ペルシアさんなんて、よく怒られてる」

 

「え、それ言っていいの?」

 

 エマが小声で突っ込むと、カイエはさらりと言う。

 

「事実でしょ」

 

 ククルの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。

 笑いになりきらない、小さな変化。

 でもそれは“戻る”兆しだ。

 

 エマは微笑みを戻し、ククルに言う。

 

「ククル。もしまた応援に出ることがあったら、次は“走らないで助ける方法”を考えましょ」

 

「走らないで……助ける?」

 

「そう。声をかける。位置を変える。通路を読む。

 あなたの反応の早さは武器なんだから、武器の使い方を変えるの」

 

 ククルはカップを握り直し、こくりと頷いた。

 

「……うん」

 

 そして、少し間を置いて、ぽつりと本音が出た。

 

「でも……エリンさんに、怒られるかな」

 

「怒られると思う」

 

 カイエが即答して、エマが吹き出しそうになる。

 

「でも」

 

 カイエは続けた。

 

「怒られたあと、ちゃんと教えてくれるよ。エリンさんはそういう人」

 

 ククルはその言葉に、少しだけ救われたような顔をした。

 エリンの厳しさは怖い。

 でも、あの厳しさは“守るため”だと、ククルも知っている。

 

 ククルはもう一度、小さく息を吐く。

 

「……私、もう少し頑張ってみる」

 

「うん」

 

 エマが頷く。

 

「今日のお昼、ちゃんと食べて。

 落ち込む時はエネルギーが要るのよ」

 

 その言葉に、ククルはふっと笑った。

 やっと笑えた。

 

 窓の外のコロニーは、相変わらず規則正しく動いている。

 その規則の中で、人は揺れる。

 揺れるから支えが必要で、支えるからまた前に進める。

 

 ククルはスプーンを手に取り、ゆっくりと一口食べた。

 胃が温まる。

 少しだけ、胸の痛みが和らぐ気がした。

 

ーーーー

 

 昼休憩のあと。

 

 エマとカイエに慰められて、胸の奥の鉛みたいな重さが少しだけ軽くなったククルは、机に戻るなり深く息を吸った。

 

(よし……)

 

 気持ちが軽くなった分、反動みたいに“挽回”の火がつく。

 昨日の失敗を帳消しにしたい。

 十四班の名を汚したくない。

 エリンやペルシアの足を引っ張りたくない。

 そしてなにより、自分が“向いてない”なんて言葉に負けたくない。

 

(頑張ろう。今日、頑張れば……)

 

 ククルは端末を開き、今日の業務チェックを確認し、資料の束を整えた。

 深呼吸。背筋を伸ばす。

 小さく拳を握って、心の中で気合いを入れる。

 

 ――なのに。

 

 ほんの少しの時間で、心はまた簡単に折れかけた。

 

 午後の始まり。

 ククルはトイレへ立ち、手を洗って、鏡の前で顔を整える。

 大丈夫、笑える。笑って働ける。

 そう言い聞かせて、廊下へ出た。

 

 通路の角を曲がり、客室乗務員用の休憩スペースへ向かう途中。

 壁の向こうから、ひそひそ声が聞こえた。

 

 最初は、ただの噂話だと思った。

 どこの職場にもある。

 誰かの愚痴、誰かの失敗、誰かの評価。

 聞き流せばいい。

 

 でも――耳が勝手に拾った。

 

「聞いた? 昨日のフライト」

 

「聞いた。子どもとぶつかってパニックになったんでしょ」

 

 ククルは足を止めた。

 心臓がひゅっと縮む。

 指先が冷たくなる。

 

(やめて)

 

 聞きたくない。

 でも耳が閉じられない。

 

「あれ、十四班のククルだって話らしいよ」

 

 名前が出た瞬間、喉の奥が痛くなった。

 胸がきゅっと締まる。

 

「……あー。なんであの子が十四班なのかしら」

 

「それね。あの子より優秀な人、多いのに」

 

 声のトーンが、軽い。

 軽いのに、言葉は重い。

 

「できることなら、変わってほしいわ」

 

 ――その一言で、ククルの世界が一瞬だけ真っ白になった。

 

 心にもない言葉。

 本人たちはそう思っていないかもしれない。

 ただの雑談かもしれない。

 “盛り上がり”で言っただけかもしれない。

 

 でも、ククルにとっては刃だった。

 昨日のチーフパーサーの言葉よりも、もっと細くて、もっと刺さる刃。

 

 ククルは唇を噛みしめた。

 涙が出そうになる。

 喉が熱くなる。

 目の奥がつんと痛くなる。

 

(泣かない)

 

 泣いたら終わりだ。

 泣いたら“やっぱり向いてない”って自分が言ってしまう。

 誰かに見られたら、また噂になる。

 

 ククルは息を殺し、そっとその場を離れた。

 足音を立てないように。

 顔を伏せて。

 背中を丸めないように。

 

 廊下の照明が、やけに眩しかった。

 

 

 自席に戻ったククルは、まるで“死んだ表情”だった。

 

 笑うことができない。

 声を出すこともできない。

 仕事に手を伸ばしても、指が動かない。

 端末の文字が頭に入ってこない。

 資料をめくっても、内容が目に滑る。

 

 誰かが話しかけてきても、返事はできる。

 できるけれど、心がそこにいない。

 

(……無理かも)

 

 昼休憩で取り戻したはずの気持ちが、たった数分で溶けていく。

 胸の奥にまた鉛が沈む。

 

 ククルは机の下で膝を抱えるように足を引き寄せ、唇をきつく結んだ。

 

(今日、仕事が終わったら……)

 

 頭の中で、逃げ道を作る。

 

(班長に言おう。十四班から異動させてほしいって)

 

 それが正しいかどうかは分からない。

 でも、今のククルにとっては唯一の“呼吸”だった。

 ここにいると、自分が壊れる。

 居場所がない。

 誰かの“変わってほしい”という言葉が、ずっと背中に刺さる。

 

 ククルは資料を見つめたまま、ぼんやりと考える。

 

(エリンさんやペルシアさん、リュウジさん……みんな凄いのに)

 

(私だけ、足を引っ張って……)

 

 その時。

 

 背後から、軽い足音。

 そして、いつもの明るい声が降ってきた。

 

「ククル。ちょっと休憩いかない?」

 

 振り返ると、ペルシアがいた。

 ニコッと笑っている。

 何も知らない顔。

 でも、ククルの表情の“死に方”を見逃す人ではない。

 

「え……休憩ですか?」

 

 ククルは気が落ちたまま返した。

 声が自分のものじゃないみたいに薄い。

 

「そう」

 

 ペルシアはウインクして、肩をすくめる。

 

「このビルの一階にあるドーナツが美味しいのよ」

 

「……ドーナツ」

 

「そう、ドーナツ。砂糖の暴力。最高」

 

 ペルシアの言い方が妙に可笑しくて、ククルの口元がわずかに揺れる。

 笑いにはならない。

 でも、ほんの少し“割れた”感じがした。

 

 ペルシアはさらに言った。

 

「今、エリンいないし。ちょっとサボってもいいでしょ」

 

「……は、はぁ」

 

 ククルは困惑した。

 サボる、という言葉に罪悪感が反応する。

 でも、ペルシアの目は“命令”ではなく“誘い”だった。

 

 断ったら、ククルはこのまま沈んでいく。

 それを分かって誘っている目。

 

 ククルは椅子の肘掛けを握り、ゆっくり立ち上がった。

 ペルシアが「よし」と小さく頷く。

 

 そのタイミングで、タツヤののらりくらりした声が飛んできた。

 

「ペルシア〜。エリンはいないけど、班長はいるのよ〜」

 

 タツヤはデスクに座ったまま、指先で端末をいじりながら言う。

 声は軽い。

 しかし“見てるよ”という意味はしっかり含まれている。

 

 ペルシアは振り返り、堂々と笑った。

 

「まぁまぁ班長。張り詰めて仕事するより、適度に休んだ方が効率上がるでしょ?」

 

「俺はいいけどさ〜」

 

 タツヤは肩をすくめ、口角を上げる。

 

「サボるなんてエリンにバレたら怒られるよ〜?」

 

「まぁ、上手くやるわ」

 

 ペルシアはさらりと言い、ククルの肩をぽんと叩く。

 その叩き方が軽いのに、妙に“安心”をくれる。

 

 タツヤはわざとらしくため息をついた。

 

「頼むよ〜」

 

「はいはい」

 

 ペルシアは片手をひらひら振って歩き出した。

 ククルも、その後について行く。

 

 廊下へ出ると、ペルシアは何も聞かない。

 「どうしたの?」とも言わない。

 ただ、エレベーターのボタンを押して、隣に立つ。

 

 沈黙が数秒。

 

 ククルはその沈黙に耐えられず、ぽつりと漏らす。

 

「……私、仕事、できてません」

 

「うん」

 

 ペルシアはあっさり頷いた。

 

「できてない顔してた」

 

 ククルの胸がちくっと痛む。

 図星。

 でも、その言い方には責めがない。

 

 エレベーターが到着し、扉が開く。

 二人は乗り込む。

 

 ペルシアが鏡のような扉に映るククルを見て言った。

 

「ククル、昨日のこと、まだ引きずってる?」

 

「……はい」

 

 ククルは正直に答えた。

 嘘をつくほど元気じゃない。

 

 ペルシアは「そっか」とだけ言い、次に言った。

 

「なら、ドーナツ食べて、脳みそに砂糖流そ」

 

「……それで、元気になりますか?」

 

「ならない」

 

 ペルシアは即答した。

 ククルは目を丸くする。

 

 ペルシアは肩をすくめる。

 

「でも、ちょっとだけ息できる。

 息できたら、次の一歩が出る」

 

 その言葉に、ククルの喉がまた熱くなった。

 泣きそうになる。

 でも今度の熱は、さっきの悔しさと少し違う。

 

 エレベーターが一階に着く。

 扉が開く。

 甘い匂いが流れ込む。

 

 ペルシアはククルの背中を軽く押した。

 

「ほら。サボりに行くよ」

 

「……サボり、ですか」

 

「そう。今日はね、ちゃんとサボる」

 

 ククルは小さく頷き、ペルシアの隣を歩いた。

 足取りはまだ重い。

 でも、さっきよりは少しだけ前に出ている。

 

 ――そしてククルは知らない。

 

 この“ドーナツ休憩”が、ただの甘い時間じゃなくて。

 ペルシアなりの、十四班の“守り方”だということを。

 

ーーーー

 

 ドーナツショップのショーケースは、宝石箱みたいに色とりどりだった。

 砂糖の粉が雪みたいに積もったもの。チョコが艶を放つもの。クリームが覗くもの。季節限定の華やかなもの。

 

 ペルシアは迷いなくトレイを取って、手際よく選び始めた。

 ククルは隣で、どれを取ればいいか分からない顔をしている。

 

「好きなの選びな。遠慮したら怒る」

 

「え、で、でも……」

 

「私の奢り。今日は“サボり”なんだから、サボりは贅沢にやるの」

 

 ペルシアはウインクして言い、ククルのトレイにも勝手に二つ、ころんとドーナツを置いた。

 それから飲み物のカップも二つ。ククルの方には温かいミルクティー。自分はブラックコーヒー。

 

 会計を済ませると、近くのイートインスペースへ向かう。

 昼下がりの客はまばらで、窓際の席が空いていた。

 

 ペルシアは窓の外の通行人を一度だけ眺め、椅子を引いて腰を下ろす。

 ククルも向かいに座ったが、背中が丸く、手は膝の上で固く握られていた。

 

 ドーナツの甘い匂いがふわっと漂うのに、ククルの表情は甘くならない。

 

 ペルシアはストローを指で弄びながら、あくまでさらっと言った。

 

「で。昨日、何があったの?」

 

 ククルの肩がびくっと跳ねる。

 ペルシアが何を知っているか――それはククルも想像がついた。

 噂の回り方は早い。宇宙事業部は特にそうだ。

 でもペルシアは、“周りから聞いた噂”ではなく、“本人の言葉”が欲しいのだとククルは感じた。

 

 ククルは唇を噛み、ミルクティーに手を伸ばした。

 温かいカップが指先に触れて、少しだけ現実に戻る。

 

「……昨日の応援の便で」

 

 声が震える。

 それでも、ククルは言った。

 

「私、他の乗務員さんがもたついてるのを見つけて……助けようとして、小走りしちゃって……その時、子どもが走ってきて……ぶつかって、私が転んで……」

 

 そこまで言ったところで、ククルの喉が詰まった。

 あの瞬間のざわめき、泣き声、視線。

 一瞬で客室の空気が凍る感じ。

 思い出すだけで胸が苦しい。

 

 ペルシアは何も言わずに頷き、ククルが続けられるのを待った。

 

 ククルは息を吸い直し、続ける。

 

「幸い、子どもに怪我はなかったんです。……でも、小さなパニックになって……」

 

 ククルの指が、カップをきつく握る。

 

「その班のチーフパーサーに……言われました」

 

 ククルは視線を落としたまま、声を絞り出す。

 

「……“どうして、ドジな貴方が、あの班にいるのか不思議だわ”って」

 

 ペルシアの目が一瞬、細くなった。

 笑みが消えるでもなく、怒りを表に出すでもない。

 ただ、光の角度が変わったみたいに、静かな圧が生まれた。

 

「……ふうん」

 

 ペルシアはそれだけ言い、ドーナツを一口かじった。

 甘さを舌で転がすふりをして、ククルの言葉を受け止める時間を作っている。

 

 ククルは続けた。

 

「それだけじゃなくて……今日、廊下で……他の乗務員さんたちが噂してるのを聞いちゃって」

 

 声が掠れる。

 

「“あの十四班のククルらしいよ”とか、“なんであの子が十四班なのかしら”とか……“変わってほしい”って……」

 

 言った瞬間、ククルの目に涙が溢れた。

 堪えようとしても、溢れてしまう。

 自分の心が弱いみたいで悔しいのに、止まらない。

 

 ペルシアは何も言わず、紙ナプキンを一枚すっと差し出した。

 ククルは「すみません」と小さく言い、涙を拭く。

 

 そして、最後に。

 

「……今日、仕事が終わったら班長に言おうって思ってました」

 

 ナプキンが湿る。

 

「十四班から……異動させてほしいって」

 

 言い切ると、ククルの肩が少しだけ落ちた。

 口にしたことで、逃げ道が“現実”になったからだ。

 同時に、言ってしまった自分が情けなくなる。

 

 ペルシアは数秒、黙ってククルを見つめた。

 それから、コーヒーを一口飲んで、淡々と言った。

 

「ククルさ」

 

「……はい」

 

 ククルは涙で滲む視界のまま、顔を上げた。

 

 ペルシアは目を細めたまま言う。

 

「自分の実力で十四班に入ったって、思わないの?」

 

 ククルの胸がきゅっと痛んだ。

 答えはある。

 でも、それを言うのが怖い。

 

 ククルは震える声で、正直に言った。

 

「……最初は」

 

 息を吸う。

 

「自分の頑張りが認められたんだって……嬉しかったです」

 

 涙が頬を伝う。

 

「でも、十四班で活動してみて……実力が備わってない自分が……情けなくて……」

 

 声が途切れる。

 視線が落ちる。

 涙が、また増える。

 

 ペルシアはカップを置き、頬杖をついた。

 

「十四班を作る時の編成はね」

 

 いつもより少しだけ、真面目な声。

 

「乗務員は、エリンと私で決めたのよ」

 

 ククルがぱっと顔を上げた。

 

「……そうなんですか」

 

「そう」

 

 ペルシアはあっさり言って、またドーナツをかじる。

 

「まぁ私はエリンに任せきりだったけど」

 

「えっ」

 

 ククルが一瞬だけ呆けると、ペルシアは肩をすくめた。

 

「だって、エリンの方が人を見るの上手いし。

 私は……耳で見るタイプだから」

 

 冗談めかして言いながら、ペルシアは続けた。

 

「エリンが言ってたわよ。ククルは確かに慌てて、危なっかしい所もあるって」

 

 ククルの胸がずきんと痛む。

 

「……やっぱり、そうですよね」

 

 ククルは泣きながら頷いた。

 自分でも分かっている。

 自分の弱点だ。

 

 ペルシアはそこで、わざとらしくため息をついた。

 

「でもさ」

 

 声が少し、柔らかくなる。

 

「エリンは続けて言ったの」

 

 ククルが顔を上げる。

 

 ペルシアは、エリンの言葉を思い出すように、少しだけ目を遠くした。

 

「ククルはいつも元気で明るくて、活発な子。

 宇宙船って、乗る時――不安になるお客様が多いのよ」

 

 ペルシアの声は、どこかエリンに似ていた。

 説明する声。

 守るための声。

 

「だって闇の中を進んで行くんだもん。

 窓の外は真っ黒で、足元の感覚も地上と違う。

 慣れてる人はいいけど、初めての人は“怖い”って思うの」

 

 ククルは、思い当たる。

 乗客の震える手。

 ドアが閉まる瞬間の不安そうな目。

 “本当に大丈夫?”と聞かなくても顔に出ている人たち。

 

 ペルシアは続けた。

 

「ククルの持ち前の元気と明るさは、船内の空気に温かみを与えてくれるのよ」

 

 ククルの目が大きく開く。

 

「……え?」

 

 ペルシアは頷いた。

 

「ククルには、その力がある。

 彼女の力は、きっと必要よ――って」

 

 ククルは言葉を失った。

 涙が止まらないのに、涙の意味が変わっていく。

 悔しさの涙じゃなくて、胸の奥がほどける涙。

 

 ペルシアはククルをまっすぐ見て、はっきり言った。

 

「ククルは必要だから、十四班にいるのよ」

 

 ククルは慌てて涙を拭いた。

 顔がぐしゃぐしゃになる。

 恥ずかしいのに、止められない。

 

「……はい」

 

 やっと絞り出した返事。

 小さいけれど、ちゃんとした返事。

 

 ペルシアはその返事を聞いて、ククルの頭をぐしゃっと撫でた。

 乱暴に見えるけど、不思議と痛くない。

 

「いつまでも下向いてたら駄目よ」

 

 ペルシアは笑った。

 いつもの、強気で明るい笑み。

 

「ククルの元気と明るさに、みんな救われてるんだから」

 

 ククルの胸が熱くなった。

 “みんな”には、自分を悪く言った乗務員も含まれるのかもしれない。

 それでも、今はその言葉が救いだった。

 

 ククルは小さく頷いて、ミルクティーを一口飲んだ。

 甘くて温かい。

 喉の奥の痛みが少しだけ和らぐ。

 

 ペルシアは空になりかけたドーナツの袋を揺らし、わざと明るく言った。

 

「さ、泣き虫タイムは終わり。

 ドーナツ残ってる。食べな」

 

「……はい」

 

 ククルは小さく笑って、ドーナツに手を伸ばした。

 涙の跡はまだ頬に残っている。

 でも、胸の中の鉛は、少しだけ軽くなっていた。

 

 そしてククルは気づく。

 十四班にいる理由は、実力だけじゃない。

 自分にしかできない“空気”の作り方がある。

 

 それを認めてくれる人がいる。

 

 ――だからもう少しだけ、ここで頑張ってみよう。

 

 ククルは甘い一口を噛みしめながら、そう心の中で決めた。

 

ーーーー

 

 ペルシアに「先、戻ってて」と言われたククルは、紙袋の匂いと甘さの余韻を引きずったまま事務所へ戻った。

 

 エレベーターを降り、宇宙事業部のフロアのガラス扉を抜ける頃には、胸の重さは少しだけ薄くなっていた。

 ――ほんの少しだけ。

 それでも、目元はまだ熱い。腫れた瞼が引きつる感じがして、ククルはなるべく俯きがちに歩く。

 

 事務所はいつも通り、静かな忙しさに包まれていた。端末のタイピング音、資料をめくる乾いた音、空調の低い唸り。

 その中で、エリンとリュウジは既に自席に戻っていた。

 

 ククルが席に近づく前に、エリンが立ち上がった。

 歩き方が早い。けれど足音は立てない。いつものエリンだ。

 

「ククル……」

 

 呼ばれた瞬間、ククルの喉が詰まった。

 “泣いたのがバレる”――その恐怖が背中に貼りつく。

 

 エリンは言葉を続けようとして、ククルの顔を見た。

 腫れた瞼。赤い目の縁。

 一瞬、エリンの口が止まる。ほんの一拍、言葉を失ったのが分かった。

 

 でも、すぐに。

 エリンは柔らかな笑みを浮かべた。責める笑みじゃない。温度のある笑みだ。

 

「ペルシアと一緒だったって聞いたけど……どこにいるか知ってるかしら」

 

 ククルは慌てて首を振った。

 

「あ、その……用があると言って……」

 

「あら、そうなの?」

 

 エリンは首を傾げる。

 疑いではなく、単純に不思議そうな仕草。

 

「ククルと一緒だから、サボってることはないと思ったけど……」

 

 エリンが少し考えた、その瞬間。

 

「サボる」

 

 という単語に、タツヤの肩が一瞬だけ――ビクッと震えた。

 端末の画面を見ているのに、妙に反応が素直すぎる。

 

 その様子を見たリュウジが、ほんのわずか口角を上げる。

 (サボってるな)

 目だけでそう言ったような苦笑だった。

 

 エリンは、そんな二人の反応を見逃さない。

 ただ、騒がない。騒ぐ必要がないからだ。

 

「この時間だと……やっぱり一階のドーナツ屋かしら」

 

 エリンがぽつりと呟く。

 

 ククルは心の中で、思わず関心してしまった。

 

(当たってる……やっぱりエリンさん、凄い)

 

 エリンは今度はリュウジの席に歩み寄り、軽く身を屈めた。

 

「リュウジ。どこにいると思う?」

 

「……ドーナツ屋じゃないですか?」

 

 リュウジは静かに答えた。

 “サボり”と“ドーナツ”という単語にタツヤが反応した。

 それだけで確定に近い。リュウジの目はそう言っている。

 

 エリンは困ったように腰に手を当てた。

 

「まったくもう……」

 

 その言葉は叱責というより、“分かってる”のため息だった。

 

 次の瞬間。

 

 タツヤのデスクの電話機が鳴った。

 

 電子音がフロアの空気を切り裂く。

 普段なら埋もれるはずの小さな音が、妙に目立った。

 

 タツヤが受話器を取る。

 

「はい、十四班……」

 

 一瞬、沈黙。

 タツヤの表情が変わる。

 冗談めいていた口角が消え、瞳が硬くなる。

 

「……は?」

 

 声が低くなる。

 

「……なんだって!?」

 

 次の瞬間、タツヤが立ち上がって声を上げた。

 フロア中の視線が集まる。タイピング音が止まる。

 

 タツヤは受話器を置くのももどかしく、腕で机を押しながら叫んだ。

 

「エリン、リュウジ、それからククル! すぐに宇宙事業部の十班に行ってくれ!」

 

 ククルの心臓が跳ねる。

 

「え、えっ……?」

 

 タツヤの声が続く。

 

「ペルシアが暴れてるって!!」

 

「ええ!?」

 

 ククルの声がひっくり返る。

 エリンとリュウジは顔を見合わせた。

 目の交換は一瞬。次の瞬間、二人はもう走り出していた。

 

「俺も後から行く!」

 

 タツヤの声が背中から追ってくる。

 その声は、もう“のらりくらり”ではない。

 班長の声だった。

 

 

 十班のフロアは、空気が違った。

 

 ここは十班だけの場所ではない。

 一班から九班までのフロアが一体となった区域。

 人が多い。視線が多い。噂が多い。

 小さな火種でも、すぐに燃え広がる場所だ。

 

 エリン、リュウジ、ククルがフロアに入った瞬間――

 怒号に近い声が耳を打った。

 

「貴方、仮にもチーフパーサーでしょ!!」

 

 ペルシアの声だった。

 

 普段の明るい声とは違う。

 鋭く、硬く、切っ先を持った声。

 空気を裂く音。

 

 ククルの足が止まりそうになる。

 エリンが一瞬だけククルの肩に手を置き、視線で“ついて来て”と言った。

 そのまま前へ進む。

 

 声のする方へ向かうと――人だかりが見えた。

 輪の中心に、金髪が揺れている。

 

 中に入る。

 

 ペルシアが、十班のチーフパーサーに鬼の形相で詰め寄っていた。

 目は鋭く、唇は引き結ばれ、指先が震えている。

 その場の全員が息を殺しているのが分かる。

 視線が二人に刺さる。視線が空気を固める。

 

「こっちのせいにしないでよ!」

 

 十班のチーフパーサーが言い返す。

 声は冷たく、上から。

 自分の“正しさ”を盾にする声。

 

「ちゃんと出来なかったのは、貴方の所の乗務員でしょ!」

 

 その瞬間、ペルシアの瞳が燃えた。

 

「それが出来なかったから、悔しくて泣いてるのよ!!」

 

 ペルシアの声が跳ねる。

 

「あの子の実力を引き出せないくせに、上から物を言うんじゃないわよ!!」

 

 ククルの胸が潰れそうになる。

 “泣いてる”――それは自分だ。

 “あの子”――それも自分だ。

 自分のことを庇うために、ペルシアがここまで感情を爆発させている。

 

 エリンもククルも、こんなペルシアを見たことがなかった。

 いつもは軽口と笑みで場を回すペルシアが、牙を剥いている。

 

 リュウジが先に動いた。

 迷いがない。

 人の輪を割って、ペルシアの背後へ回る。

 

 エリンも遅れて動いた。

 チーフパーサーの“止める”動きだ。

 

「落ち着け、ペルシア」

 

 リュウジが低い声で言い、両腕を後ろから抱えるようにしてペルシアを固定した。

 距離を作る。

 彼女の前にある“火”から引き離す。

 

 だがペルシアの興奮は冷めない。

 身体がリュウジの腕の中で暴れる。

 

「チーフパーサーなら、乗務員に投げかける言葉ぐらい選びなさいよ!!」

 

 ペルシアが叫ぶ。

 

「何が――『どうして、ドジな貴方が、あの班にいるのか不思議だわ』よ!!」

 

 その言葉が出た瞬間、ククルの息が止まった。

 昨日、自分の胸に刺さった言葉。

 それを今、ペルシアが“刃”として突き返している。

 

「ペルシア!」

 

 エリンが鋭く名前を呼ぶ。

 その声だけで、周囲の乗務員の背筋が伸びる。

 エリンの“制止”だ。

 

 しかしペルシアは止まらない。

 

「不思議なんかじゃないわよ!!」

 

 叫ぶ声がフロアに反響する。

 

「ククルは、エリンが選んだ優秀な子よ!!」

 

 ククルの喉が痛くなる。

 泣きそうになる。

 でも泣いたら、また迷惑になる。

 ククルは必死で堪えた。

 

「他人の所為にしないで、自分の実力を――僻みなさいよ!!」

 

 言い過ぎだ、と頭のどこかで思う。

 でも、ペルシアは止められない。

 守るための怒りは、理性より先に走る。

 

 エリンがリュウジを見た。

 

「リュウジ!」

 

 短い呼びかけ。

 “連れ出して”という指示。

 

 リュウジはコクリと頷いた。

 ペルシアを抱えたまま、出口へ向かう。

 ペルシアは最後に振り返り、フロア全体に向かって叫んだ。

 

「ククルは大事な十四班の仲間なのよ!!」

 

 視線が集まる。

 空気が凍る。

 

「もし次、彼女を傷つける言葉を投げかけたら――容赦しないからね!!」

 

 そして、最後の一撃。

 

「全員、覚えときなさいよ!!!」

 

 ペルシアはリュウジに連れられてフロアを後にした。

 残った空気は、鉛みたいに重い。

 

 

 エリンは深く息を吸い、十班のチーフパーサーに向き直った。

 表情は整っている。

 だが、目の奥は冷えている。

 

「……すみませんでした」

 

 エリンは頭を下げた。

 その所作は完璧で、だからこそ痛いほどに“謝罪”だった。

 

 ククルもエリンの隣へ移動し、慌てて頭を下げた。

 

「す、すみません……!」

 

 十班のチーフパーサーが鼻で笑うように言う。

 

「まったく。どういう教育をしてるのよ」

 

 言葉の棘が、空気に刺さる。

 

「申し訳ありません」

 

 エリンが言う。声は低い。抑えている。

 

「私の所為です……すみません」

 

 ククルが言う。

 自分が発端だ。

 自分がいなければ、こんなことには――と、また自分を責める。

 

 その時。

 

 十班のチーフパーサーが、呆れたように、同情したように言った。

 

「同じチーフパーサーとして、バカな部下を持つと大変ね」

 

 ――その瞬間。

 

 エリンの空気が変わった。

 

 静かに顔を上げる。

 微笑みはない。

 目が冷たい。真剣で、鋭い。

 ククルは背筋が凍るほど驚いた。

 “怒っているエリン”を見たことはある。

 でもこれは、怒りというより“守るための刃”だ。

 

「確かに」

 

 エリンが静かに言う。

 

「十四班の乗務員は、癖もあり、個性的な者もいて、一筋縄ではいかないメンバーが多いのは確かです」

 

 淡々と、事実を認める。

 だからこそ、次の言葉が重い。

 

「ですが――バカなどという部下は、一人もいません」

 

 エリンが言い放つ。

 声は大きくない。

 なのにフロア全体が静まり返る。

 

「そこだけは、十班と一緒にしないでください」

 

 冷たく、きっぱりと。

 

 十班のチーフパーサーが言い返そうとして口を開く。

 エリンはその前に、もう一段、圧を乗せた。

 

「ここにいる乗務員は、一人一人が乗務員としての矜持を持ち、日々の鍛錬と宙の安全を守っています」

 

 言葉が刃になる。

 

「バカなどという言葉は撤回してください」

 

 十班のチーフパーサーの表情が揺れる。

 周囲の乗務員たちも、息を飲んで見守っている。

 反論すれば火が広がる。だが引けば面子が潰れる。

 そんな、揺れる空気。

 

 チーフパーサーが唇を噛み、何か言おうとした――その時。

 

「そこまでだ」

 

 低い声が割って入った。

 

 タツヤが現れた。

 呼吸が少し乱れている。走って来たのが分かる。

 しかし目は冷静だった。班長の目だ。

 

「タツヤ班長」

 

 エリンが言う。

 

 タツヤはエリンの肩越しに十班のチーフパーサーを見て、静かに言った。

 

「後は俺がやる。エリンとククルは事務所に戻っていいよ」

 

 エリンは一瞬だけ目を伏せた。

 “任せる”と理解する。

 

「……分かりました」

 

 エリンが頷く。

 ククルも申し訳なさそうに、その後をついていく。

 

 フロアを出る時、エリンとククルは一度だけ振り返り、頭を下げた。

 そして何も言わず、歩き出す。

 

 背後でタツヤの声が聞こえる。

 穏やかなのに、逃げ道のない声。

 “のらりくらり”の皮を被った、班長の交渉の声。

 

 

 十四班のフロアへ戻る道。

 ククルは俯いたまま、耐えきれずに言った。

 

「……エリンさん、ごめんなさい」

 

 声が震える。

 自分がいなければ。自分がドジをしなければ。

 自分が弱くなければ。

 

 でもエリンは、足を止めなかった。

 歩きながら、柔らかく言った。

 

「謝らなくていいのよ」

 

 ククルが顔を上げる。

 

 エリンは横目でククルを見て、笑った。

 ほんの少し、母親みたいな笑み。

 

「ククルだって人間だもの。ミスの一つや二つ、あるでしょう」

 

「……ですが」

 

 ククルは言いかけて、言葉を飲む。

 “私のせいでペルシアが暴れた”

“私のせいで班長まで動いた”

 言えば言うほど、自分が小さくなる気がした。

 

 エリンは、ゆっくり首を振った。

 

「大丈夫」

 

 その一言に、不思議と重みがある。

 

「貴方を守るのが、私たちの役目だもの」

 

 ククルの喉がきゅっとなる。

 涙がまた出そうになる。

 

 エリンは続ける。声は優しい。

 

「ククルが次のフライトでミスしないように、一緒に頑張りましょう」

 

 ククルは泣きそうになるのを堪え、強く頷いた。

 

「……はい!」

 

 声が少し大きくなった。

 その大きさが、ククルの“戻りたい”という気持ちだった。

 

 エリンは、その返事に満足したように微笑む。

 

 フロアの扉が見える。

 まだ心臓は痛い。

 まだ怖い。

 でも、ククルはもう一人じゃない。

 

 ――守られるだけじゃない。

 次は、自分も“守る側”になれるように。

 

 ククルは、腫れた瞼の奥で、静かに決意を固めた。

 

ーーーー

 

 十四班の事務所に戻ると、空気がまだ硬かった。

 さっきまで張り詰めていた緊迫が、床に落ちて転がっているみたいに、どこかでまだ音を立てている。

 

 ククルは自席へ向かいながら、胸の奥がずっとざわついていた。

 十班のフロアで浴びた視線。

 ペルシアの怒号。

 エリンの冷たい声。

 タツヤの「そこまでだ」。

 

 全部が、まだ耳の奥で反響している。

 

 ――と、その時。

 

 入口側から足音が聞こえた。

 軽い音ではない。急いでいるのに、音を抑えている足音。

 

 振り向くと、ペルシアが立っていた。

 金髪が少し乱れている。息がわずかに上がっている。

 さっきまでの“暴風”みたいな顔はどこにもなく、今は珍しいほどに素直な表情だった。

 

 ペルシアは、迷いなくエリンとククルの前に立った。

 

 そして――深く頭を下げた。

 

「本当に……すみませんでした」

 

 その言葉が、事務所の空気を揺らした。

 周囲の端末音が、少しだけ止まった気がする。

 誰もが聞いている。誰もが、見ている。

 

「ペルシアさん……」

 

 ククルが慌てて止めようと一歩踏み出す。

 自分のせいだ。自分のことでペルシアが頭を下げる必要なんてない。

 そう思った瞬間――

 

 エリンが、ククルの肩にそっと手を置いた。

 

 それだけで、ククルの足が止まる。

 「今は止めない」

 言葉にしなくても分かる。エリンの判断だ。

 

 ペルシアは頭を下げたまま、動かない。

 その姿勢が、いつものペルシアらしくない。

 “反省しているふり”ではない。

 自分の行動が間違っていたと、分かっている人の謝り方だ。

 

 エリンは静かに言った。

 声は低い。近くにいるククルにもよく聞こえるように、しかし周囲に余計な波紋を作らないように。

 

「……顔を上げなさい、ペルシア」

 

「……はい」

 

 ペルシアが顔を上げる。

 エリンの目は柔らかい――と思わせて、芯は鋭い。

 “今から叱る”目だ。

 

 ククルは息を呑んだ。

 さっき十班で見た、冷たいエリンの表情が脳裏をかすめる。

 

 エリンは一歩だけペルシアに近づいて、低く言い放った。

 

「貴方のとった行動は、間違っているわ」

 

 短い。

 でも刃物みたいに鋭い。

 

 ペルシアは反射で言い訳をしそうになり、口を開きかけた。

 しかしエリンは、先に言葉を重ねた。

 

「宇宙事業部全体は連携していくものよ。行動一つが十四班や――お客様や――関係のない人にまで影響を与えることくらい、副パーサーの貴方なら分かるでしょう?」

 

 “副パーサー”。

 その肩書きを、ただの呼称ではなく責任として突きつける言い方だった。

 

 ペルシアの喉が動く。

 目が揺れる。

 けれど逃げない。

 

「……うん」

 

 ペルシアは小さく頷いた。

 

「ごめんなさい」

 

 その瞬間、エリンは「はぁ」と短くため息をついた。

 怒りのため息ではない。

 どこか、疲れと、それでも受け止める覚悟が混ざった吐息。

 

 そして――エリンの表情が変わった。

 

 厳しさの角がすっと取れて、柔らかな微笑みになる。

 まるで別人みたいに温度が上がる。

 

 エリンはペルシアの顎にそっと手を添え、軽く顔を上げさせた。

 

「でも」

 

 声も柔らかくなる。

 

「私個人としては……ククルを守ろうとしてくれて、ありがとう」

 

 その言葉に、ククルの胸がぎゅっと締まった。

 ペルシアが自分を守った――それをエリンが肯定する。

 ただし組織の上では叱る。

 個人の気持ちは感謝する。

 この両方を同時に言えるのが、エリンなのだ。

 

 ペルシアは一瞬、目を丸くした。

 それから、ふっと笑った。

 子どもみたいに、少しだけ鼻を赤くして。

 

「……うん。ありがとう、エリン」

 

「……ふふ」

 

 エリンも小さく笑う。

 その笑いが、事務所の空気をほんの少しだけ緩めた。

 

 ククルは、胸の奥に溜まっていたものがふっと抜ける感覚を覚えた。

 誰もがそれぞれの形で、自分を守ろうとしてくれている。

 その事実が、痛いほど分かる。

 

 ――と、その時。

 

 入口側から、今度は堂々とした足音が近づいてきた。

 “のらりくらり”を纏い直した、班長の足音だ。

 

「じゃあ、そこまでにして」

 

 タツヤが戻ってきた。

 ネクタイを少し緩め、いつもの軽い笑みを浮かべている。

 だが目は、状況を全部把握している目だった。

 

「話を聞かせてくれるかな」

 

「タツヤ班長……」

 

 ペルシアは反射で、また頭を下げようとした。

 

 タツヤは手をひらひら振って止める。

 

「謝らなくていいから。……で、何があったの?」

 

 その言い方は軽い。

 けれど逃げ道はない。

 “言え”ではなく、“話せるね?”という空気の作り方。

 タツヤはいつもそれで班を動かす。

 

 ペルシアは息を整え、最初は落ち着いて話し始めた。

 

「えっと……一階のフロアでね。私、ククルとドーナツ食べてたの。で、その後……」

 

 ククルが小さく肩を震わせる。

 自分の涙も、ドーナツも、もう“事件の一部”になってしまったみたいで居心地が悪い。

 

 ペルシアは続ける。

 

「……最初は、ちゃんと話そうと思ったのよ。ほんとに。

 でも、あのチーフパーサーが……ククルの悪口とか、十四班の悪口を垂れるものだから……」

 

 最後の方は、また怒りが蘇りかけて声が鋭くなる。

 エリンが小さく咳払いして、空気を落ち着かせる。

 ペルシアは「……ごめん」と目で謝り、声を抑えた。

 

 タツヤは頷いた。

 

「なるほどね」

 

 そして――意外なことを言った。

 

「まぁ、いいんじゃない」

 

 にっこり。

 あまりに軽い笑み。

 ククルとエリンの目が同時にタツヤに向く。

 

「若いんだし」

 

 タツヤはさらに軽く言って、肩をすくめた。

 

「……」

 

 エリンとペルシアが、揃って呆れたように声を重ねる。

 

「タツヤ班長」

 

「タツヤ班長……」

 

 二人の圧が、じわっとタツヤに乗る。

 タツヤはそれを受け流すように笑った。

 

「だってさ」

 

 タツヤは指でこめかみを掻きながら言う。

 

「そういうエリンだって、チーフパーサーに怒ってたでしょ」

 

 その瞬間。

 

 事務所の空気が、また少しだけ揺れた。

 

 ペルシアと、そして自席に座っていたリュウジの視線が、同時にエリンへ向く。

 

 エリンは、ほんの一瞬だけ固まった。

 耳まで赤くなったのが分かる。

 しかしエリンはプライドで背筋を伸ばし、そっぽを向いて言った。

 

「あれは……乗務員のことを“バカ”なんて言うからです」

 

 タツヤが「ほら」と言いたげに笑う。

 

「なーんだ。エリンも同じじゃない」

 

 ペルシアがすかさず言って、口角を上げた。

 さっきまでの怒りが嘘みたいに、いつもの調子が戻っている。

 

「同じじゃない!」

 

 エリンが即答する。

 

 その瞬間――

 

 リュウジが、ふっと笑った。

 

 短い笑い。

 声に出たというより、喉が震えた程度の笑い。

 けれど、それは確かに“笑い”だった。

 

 珍しい。

 

 エリンとククルとペルシアの視線が、一瞬でリュウジに固まる。

 リュウジ自身も「……あ」と気づいたように、わずかに口を閉じる。

 

 空気が止まりかけた。

 

 タツヤがそこで咳払いをした。

 

「……まぁ」

 

 タツヤは一歩、空気を締め直す。

 班長の切り替えだ。

 

「明日でいいから。エリンとペルシア、二人で謝りに行くんだよ」

 

 軽く言った。

 しかし、“決定”だった。

 

 エリンは一瞬、悔しそうに口を結び、それから深く頷いた。

 

「……分かりました」

 

 ペルシアも素直に頷く。

 

「うん。分かった」

 

 ククルは胸の奥が熱くなった。

 謝りに行くのは、自分のためだけじゃない。

 十四班のため。宇宙事業部全体のため。

 そして――自分がもう二度と、あんな言葉に潰されないため。

 

 タツヤは、いつもの軽い笑みを戻す。

 

「それでいい。今日は……みんな、よく頑張った」

 

 その言葉に、ククルは小さく息を吐いた。

 まだ心は痛む。

 でも、折れたままじゃない。

 

 十四班は、守る。

 守られるだけじゃなく、守り合う。

 

 ――その輪の中に、自分がいる。

 

 ククルは、腫れた瞼のまま、静かに頷いた。

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