夜。
カイエの自宅。
部屋の照明は。
必要最低限しか点いていなかった。
寝室。
ベッドの上。
カイエは。
壁へ背中を預けるように座り。
携帯端末を両手で持っていた。
画面には。
十四班の連絡先。
未読通知。
着信履歴。
メッセージ。
朝から。
溜まり続けている。
エリン。
ククル。
エマ。
ミラ。
ラン。
ガーネット。
そして。
タツヤ班長。
全部。
見てはいる。
でも。
ほとんど返していない。
「……何て送ればいいんだろ」
小さく呟く。
画面を開く。
十四班のグループ。
入力欄。
『今日は突然辞めてしまってすみませんでした』
打つ。
止まる。
「……違う」
全部消す。
また。
『皆さんには本当にお世話になりました』
そこまで打つ。
また。
止まる。
「これだと……」
もう二度と会わないみたい。
消す。
次。
『急にいなくなってごめんなさい』
指が止まる。
これも。
違う。
謝れば。
ククルは。
『謝ればいいと思ってるの!?』
と言いそうだ。
むしろ。
絶対言う。
エマは。
怒鳴らない。
でも。
『カイエが一人で決めたことに怒ってるんじゃなくて、私達に何も言ってくれなかったことが寂しいんだよ』
そんな風に。
静かに言うだろう。
その方が。
たぶん。
ククルに怒鳴られるより効く。
「……」
また消す。
今度は。
エリンへの個別画面。
夕方に届いた。
『ペルシアから無事だと聞いたよ』
『今すぐ戻ってきてとは言わない』
『怒ってない』
『でも、あなたが十四班の仲間じゃなくなったとは思ってないから』
カイエは。
その文章を。
何度も読んだ。
既読にはした。
でも。
返せなかった。
何と返しても。
エリンの顔が浮かぶ。
笑いながら。
でも。
少し泣きそうな顔で。
『一人で決めないでって言ったでしょう』
たぶん。
怒られる。
それでも。
最後には。
抱きしめてくれる。
そんな気がする。
だから。
返せない。
返したら。
会いたくなる。
会えば。
戻りたくなる。
今は。
一度。
離れると決めたばかりなのに。
「……難しいな」
端末を。
膝の上へ置く。
天井を見る。
会社を辞めた。
今日。
たった数時間前。
朝には。
普通に出勤していた。
制服を着て。
端末を開いて。
仕事をして。
明日の予定も。
来週の予定も。
普通に入っていた。
それが。
今は。
明日の予定がない。
起きる時間すら。
決まっていない。
こんな夜は。
初めてだった。
自由。
そう呼べば。
自由なのかもしれない。
だが。
今のカイエには。
ただ。
空白にしか感じられない。
「……お腹空いた」
そういえば。
昼から。
ほとんど食べていない。
宇宙管理局の喫茶店で。
コーヒーを少し。
それだけ。
カイエは。
料理をほとんどしない。
冷蔵庫を開けても。
飲み物。
簡単な保存食。
調味料。
その程度。
「作るものないし」
結局。
出前を頼んだ。
温かい麺料理。
サラダ。
飲み物。
到着予定。
二十五分。
注文完了。
それから。
また。
メッセージ画面へ戻る。
『ククルへ』
個別。
『今日はごめん』
消す。
『怒ってるよね』
消す。
『元気だから心配しないで』
消す。
「……絶対、余計怒る」
自分でも分かる。
心配しないで。
それを。
今日一番言ってはいけない相手が。
たぶんククルだ。
次。
エマ。
『エマ、ククルのことお願い』
打つ。
そして。
自分で。
苦い顔になる。
「……それも駄目」
カイエは。
全部消した。
エマからすれば。
頼まれなくても。
ククルのそばにいる。
むしろ。
いなくなった本人が。
そんなことを言うな。
と思うかもしれない。
ミラ。
ラン。
ガーネット。
タツヤ班長。
一人ずつ。
画面を開いては。
閉じる。
何度やっても。
文章が完成しない。
「明日にしようかな……」
でも。
明日にしたら。
また。
先延ばしする気がする。
端末を。
顔の上へ持ち上げる。
十四班グループ。
もう一度。
入力。
『今日は、何も言わずに辞めてしまってごめんなさい』
そこまで。
打つ。
『今は少し、一人で考える時間がほしいです』
続ける。
『皆が嫌になったわけではありません』
指が。
止まる。
胸が。
少し痛む。
続ける。
『むしろ――』
そこで。
「……」
消した。
全部。
最初から。
「何してるんだろ、私」
端末を。
ベッドへ放る。
柔らかい布団へ。
軽く沈む。
カイエも。
そのまま。
後ろへ倒れた。
仰向け。
両腕を広げる。
静か。
会社では。
いつも。
誰かの声があった。
ククル。
エマ。
ミラ。
ラン。
ガーネット。
エリン。
タツヤ班長。
たまに。
リュウジ。
静かな時間でも。
端末の操作音。
誰かの足音。
コーヒーを置く音。
全部。
何となくあった。
今は。
何もない。
「……静かすぎる」
カイエは。
目を閉じる。
その時。
玄関の呼び出し音が鳴った。
「……あ」
出前。
思ったより早い。
カイエは。
ベッドから身体を起こす。
時計を見る。
注文から。
二十分少し。
「早かったな」
端末を見る。
配送状況。
まだ。
『配達中』
表示。
カイエは。
少し首を傾げる。
でも。
更新が遅れているだけかもしれない。
もう一度。
呼び出し音。
「はい」
返事をしながら。
玄関へ向かう。
扉の横のモニター。
なぜか。
画角から少し外れている。
人影は。
二つ。
「二人?」
配達員が。
二人?
珍しい。
それでも。
カイエは。
扉を開いた。
「はい――」
言葉が。
止まる。
目の前。
ククル。
その隣。
エマ。
二人とも。
立っていた。
「……」
「……」
「……」
三人。
沈黙。
ククルは。
なぜか。
紙袋を胸の前へ抱えている。
エマも。
別の袋を持っていた。
そして。
ククルが。
ものすごくぎこちない声で言った。
「……出前でーす」
カイエは。
数秒。
何も言えなかった。
エマが。
横で。
視線を逸らす。
「……」
「出前でーす」
ククルが。
もう一度言う。
声が。
さっきより小さい。
カイエは。
二人を見る。
次に。
紙袋。
また。
二人。
そして。
苦笑いを浮かべた。
「……何してるの」
ククルの顔が。
一瞬で。
崩れかける。
「だって!」
声が大きくなる。
エマが。
すぐに。
「ククル、声」
「あ……」
昔から。
何度も聞いたやり取り。
ただ。
今日は。
注意するのがエリンではなく。
エマ。
ククルは。
口を閉じる。
そして。
今度は。
小さな声で。
「……出前」
カイエは。
また。
苦笑する。
「頼んだ店と違うけど」
「……」
「袋にもドーナツって書いてあるけど」
ククルが。
自分の持っている紙袋を見る。
大きく。
人気ドーナツ店のロゴ。
「……」
エマが。
小さく息を吐いた。
「だから無理があるって言ったの」
「エマも一緒にやってたじゃん!」
「私は止めたよ」
「来てる時点で共犯でしょ!」
「それは否定しない」
エマは。
静かに認めた。
カイエは。
二人を見る。
少し。
昔と同じ。
ククルが先に走って。
エマが。
困った顔をしながら。
結局ついてくる。
カイエは。
扉へ手をかけたまま。
小さく息を吐いた。
「エリンさん、追わないって言ってなかった?」
二人。
止まる。
ククルが。
目を逸らす。
「……言ってた」
「エマ」
「言ってたね」
「じゃあ何でいるの?」
ククルが。
少しだけ。
唇を尖らせる。
「追ってない、家に来ただけ」
「同じじゃない?」
「違う」
「どう違うの?」
「追うのは逃げてる人を追いかけること、カイエは家にいる。だから訪問」
「理屈が滅茶苦茶だよ」
カイエは。
思わず。
少し笑った。
ククルの目が。
そこへ向く。
その瞬間。
また。
顔が崩れそうになる。
「……カイエ」
声が。
急に弱くなった。
さっきまでの。
無理に明るくしていた声ではない。
「……本当にここにいた」
カイエの表情から。
笑みが少し消える。
「うん」
ククルの目に。
涙が溜まる。
「ペルシアさんから無事って聞いたけど。エリンさんも、大丈夫って言ってたけど。でも……」
声が。
震える。
「自分で見ないと信じられなかった」
エマも。
隣で。
静かにカイエを見る。
「私も」
「……」
「カイエがちゃんとここにいるか、見たかった」
カイエは。
二人を見た。
何も言えない。
ククルが。
鼻をすする。
「しかも電話出ないし、メッセージ返さないし、既読だけつけるし!」
最後は。
また怒りが戻った。
「それは……」
カイエが。
少し目を逸らす。
「ごめん」
「ほら!」
ククルが。
すぐに指を差す。
「また謝った!」
「え?」
「ペルシアさんにも謝ったでしょ!」
カイエの目が。
大きくなる。
「何で知ってるの?」
ククルが止まる。
「……」
エマも。
少し困った顔。
「エリンさんがペルシアさんと話したって、そこまでは聞いた」
エマが説明する。
「何を話したかは聞いてないよ」
「……そう」
カイエが。
少し安心する。
ククルは。
そんなカイエを見る。
そして。
胸の前のドーナツ袋を。
ぎゅっと握った。
「……入れて」
「え?」
「中、入れて」
「ククル」
エマが。
苦笑する。
「お願い、でしょ」
「……」
ククルは。
一度。
唇を結ぶ。
それから。
「入れてください」
「何で敬語なの」
「もう何でもいい!」
カイエは。
また。
少し笑った。
そして。
扉を。
もう少し大きく開けた。
「……入って」
その一言。
ククルの顔が。
少しだけ。
明るくなる。
「うん」
エマも。
柔らかく笑う。
「お邪魔します」
二人が。
部屋へ入る。
ククルは。
玄関に入った直後。
周囲を見る。
「カイエの家」
「来たことあるでしょ」
「あるけど今日のは違う」
「何が?」
「今日から」
ククルが。
一瞬言葉を詰まらせる。
「……会社の人の家じゃないから」
カイエの動きが。
止まった。
エマが。
ククルを見る。
「ククル」
「……ごめん」
今度は。
ククルが謝る。
カイエは。
少しだけ。
胸が痛んだ。
「いいよ」
そして。
リビングへ向かう。
「座って」
二人を。
ソファへ案内する。
ククルは。
紙袋をテーブルへ置く。
「これ」
「何?」
「ドーナツ」
「見れば分かる」
「カイエ」
エマが。
もう一つの袋を置く。
「こっちはサンドイッチ」
「夕食」
カイエが。
少し目を瞬く。
「私、出前頼んだよ」
「知ってる」
ククルが。
さらっと答えた。
「……何で?」
「さっき玄関前で」
「配達の人とすれ違ったから」
「え?」
三人。
沈黙。
カイエが。
端末を確認する。
配送状況。
『配達先確認中』
「……」
カイエは。
ククルを見る。
「もしかして、配達員さん。下にいる?」
ククルが。
少し目を逸らす。
「……いるかも」
「ククル」
「だって!先に来たかったの!」
「出前より!?」
「うん!」
「張り合うところじゃないでしょう」
エマが。
額へ手を当てる。
その時。
玄関の呼び出し音。
三人。
揃って。
扉を見る。
「……」
カイエが。
立ち上がる。
「今度こそ」
ククルが。
小声で言う。
「本物の出前」
「あなた達のせいで何か気まずいんだけど」
「ごめん」
「今度は素直だね」
カイエは。
玄関へ向かう。
扉を開ける。
本物の配達員。
「お待たせしました」
「……すみません」
「いえ?」
何も知らない配達員から。
袋を受け取る。
支払いを済ませ。
扉を閉める。
リビングへ戻る。
ククル。
エマ。
ドーナツ。
サンドイッチ。
そして。
本来頼んだ夕食。
テーブルが。
一気に。
食べ物だらけになる。
カイエは。
その光景を見て。
また。
苦笑した。
「三人じゃ多いよ」
ククルが。
言う。
「大丈夫。私食べるから」
「それは知ってる」
「カイエ」
エマが。
穏やかに言う。
「ちゃんと食べよう、今日。ほとんど食べてないでしょ」
カイエが。
少しだけ。
驚く。
「何で、分かるよ」
エマが答える。
「付き合い長いから」
その言葉。
何度も。
聞いたことがある。
エマが。
何気なく使う言葉。
付き合い長いから。
だから。
分かる。
好きなもの。
苦手なもの。
疲れている時。
無理している時。
黙ってほしい時。
話してほしい時。
カイエは。
少し目を伏せた。
「……そっか」
「うん」
ククルも。
静かに言う。
「私も分かるよ」
「何が?」
「カイエが今、一人でいたくないこと」
カイエが。
顔を上げた。
「私は一人でいたいとは、言ってない」
「だから」
ククルが。
少しだけ。
笑う。
「来た」
滅茶苦茶。
相変わらず。
理屈より先に。
身体が動く。
でも。
今だけは。
その滅茶苦茶さが。
少し。
ありがたかった。
「……エリンさんに怒られるよ」
カイエが言う。
ククルが。
一瞬。
顔を引きつらせる。
「それは……」
エマも。
少し遠い目をする。
「たぶん怒られるね」
「でしょ?」
「でも」
エマは。
カイエを見る。
「来てよかったと思ってる」
ククルも。
すぐに頷く。
「私も」
カイエは。
二人を見る。
また。
端末が。
目に入った。
ベッドへ置いたまま。
完成しない。
メッセージ。
作って。
消して。
作って。
また消した。
「……ねぇ」
カイエが。
小さく言う。
「何?」
ククルとエマ。
二人が。
同時に見る。
「私、皆に何て言えばいいと思う?」
ククルが。
少し驚いた顔をする。
エマも。
一瞬。
目を瞬く。
カイエは続ける。
「ずっとメッセージ作ってたんだけど、何書いても、違う気がして、全部消してる」
ククルが。
口を開く。
だが。
エマが。
先に。
静かに言った。
「そのままでいいんじゃない?」
「え?」
「今言ったこと」
エマは。
柔らかく笑う。
「何て言えばいいか分からない。でも、皆のことが嫌になったわけじゃない。今は少し離れて考えたい。それで十分だと思う」
ククルが。
頷く。
「うん。綺麗な文章にしなくていい。そういうところ真面目すぎ」
カイエは。
少しだけ笑った。
「ククルに言われたくない」
「何で!?」
「ククルも変なところで真面目だから」
「私はいつも真面目!」
「それは違う」
エマが。
即答した。
「エマ!」
久しぶりに。
三人の間へ。
いつもの空気が。
少しだけ戻る。
笑い声。
小さな。
本当に小さなもの。
それでも。
今日。
ドルトムントを辞めてから。
自分の家へ帰って。
初めて。
カイエは。
自然に笑った。
ククルは。
その顔を見て。
少しだけ。
安心したように目を細めた。
エマも。
何も言わず。
サンドイッチの袋を開ける。
「ほら、食べよう。冷めるよ」
カイエが。
本物の出前の袋を見る。
「もう冷め始めてる。誰かさん達のせいで」
ククルが。
元気よく手を挙げる。
「私!」
「反省して」
「あとで!」
「今して」
エマが。
小さく笑った。
そして。
三人は。
テーブルを囲んだ。
今日から。
カイエは。
ドルトムントの社員ではない。
十四班の席にも。
明日からはいない。
でも。
ククルと。
エマが。
こうして目の前にいる。
その事実だけで。
会社を辞めることと。
全部を失うことは。
同じではない。
そう。
少しだけ。
思えた。
――――
翌日。ドルトムント財閥旅行会社、十四班。
カイエの席は、今日も空いていた。昨日までそこにあった端末も、マグカップも、小さな私物も戻ってはいない。当然のことだと分かっていても、十四班へ入った者は一度そこを見る。ククルも、エマも、ミラも、ランも、ガーネットも。そして、エリンも。
誰もわざわざ口には出さない。それでも、一人欠けただけで部屋の広さまで少し変わってしまったように感じられた。
「エリンさん」
ククルがエリンの机の前へやって来た。その隣にはエマがいる。二人とも昨日よりは少し落ち着いた顔をしていた。
「何?」
エリンが作業していた端末から顔を上げると、ククルとエマは一度顔を見合わせた。先に口を開いたのはエマだった。
「昨日、カイエと話をしてきました」
エリンの指が止まった。
「……会ったの?」
「はい」
エマは静かに頷く。エリンの目が今度はククルへ向くと、ククルは少しだけ気まずそうに、それでも正直に頷いた。
「会ってきました」
「家に?」
「……はい」
エリンは数秒、二人を見た。
「私、追わないって言わなかった?」
ククルの肩がわずかに縮む。
「言いました。でも、追ったわけじゃなくて……家に行っただけです」
「それを追ったって言うんじゃない?」
「違います。追うっていうのは――」
「ククル、その説明はやめた方がいいと思う」
エマが静かに止めると、ククルは一瞬口を開いたまま固まり、やがて小さく頷いた。
「……うん」
エリンは小さくため息をついた。怒っているというより、二人ならやりかねないと思っていたような顔だった。
「それで、カイエはどうだった?」
その問いに二人の表情が変わる。ククルは一度カイエの空席を見てから答えた。
「……元気でした。たぶん完全に元気って感じじゃなかったですけど、でも、ご飯も食べました」
エマも続ける。
「最初は一人で出前を頼んでいたみたいです。私達も食べるものを持っていって、三人で話しました」
「そう」
エリンの表情が少しだけ緩んだ。食べた。話した。それだけでも今は十分だった。
「泣いてた?」
ククルは少し考えてから首を横に振る。
「私達の前では、ほとんど」
「でも、ずっと我慢している感じはしました」
エマの言葉に、エリンはペルシアから聞いた話を思い出す。ペルシアの前でカイエは初めて泣いたという。
「……そう」
ククルが少しだけ声を落とした。
「カイエ、皆に何て連絡すればいいかずっと悩んでました。メッセージを作って、消して、また作って、また消してたみたいです」
エリンの目が寂しそうに細くなる。
「……カイエらしいわね」
「はい。綺麗に説明しないといけないって考えてしまっていたみたいです。だから、そのままでいいんじゃないって伝えました。何て言えばいいか分からないことも、今は離れたいことも、皆が嫌になったわけじゃないことも、そのまま言えばいいって」
エリンは二人を見つめたが、それ以上詳しく聞かなかった。戻ってくると言ったのか。次の仕事をどうするのか。ナッシュについて何を話したのか。聞こうと思えばいくらでも聞ける。それでも、カイエが必要だと思った時に自分から話してくれればいいと考えた。
「ありがとう」
ククルが目を瞬く。
「……怒らないんですか? 勝手に行ったこと」
「怒ってほしいの?」
「いや、それは嫌です」
即答だった。エリンはほんの少しだけ笑った。
「ならいいでしょう。本当にありがとう。カイエのところに行ってくれて」
「……はい」
ククルの目が少しだけ潤み、エマも静かに頭を下げた。
「はい」
それ以上、エリンは何も聞かなかった。
少し間を置いて、エマが話題を変える。
「リュウジさんは、もう大丈夫なんですか?」
「ああ。昨日も問題なかったわ」
ククルが安心したように顔を明るくする。
「じゃあ明日から来るんですか?」
「来ない。来週から」
「え?」
「リュウジは来週から仕事に復帰させる。今週は休み」
「本人は何て?」
エマが分かっていながら聞くと、エリンの目が細くなる。
「今日からでも出られるって言ってた」
「やっぱり」
ククルが思わず呟く。
「でしょう? でも駄目。医師からも操縦復帰は段階的にって言われてるし、一週間入院した直後なのよ。身体が動くからって仕事していいわけじゃない」
「それがいいと思います」
「私もです」
二人がほぼ同時に頷く。エリンは少しだけ満足そうに続けた。
「来週も、いきなり通常通りには戻さない。最初は事務所。様子を見て、体調に問題がなければ訓練。フライトはその後」
「かなり厳しいですね」
「必要なことよ」
「リュウジさん、絶対不満そうな顔しますよ」
「するでしょうね。でも今回は譲らない」
ククルとエマが顔を見合わせる。
「リュウジさん、逃げられないね」
「うん。完全に」
エリンの目がゆっくり二人へ向く。
「聞こえてるわよ」
「すみません!」
ククルが即座に謝った。
ほんの少しだけ、十四班にいつもの空気が戻った。
だが完全ではない。そこにはまだ空席が一つある。そして、もう一つ解決していない問題が残っていた。
ナッシュ。
本人は少し離れた席にいる。昨日、ククルから「カイエに何をしたの!」と真正面から怒鳴られた男だ。
今日、エリンはナッシュへ一言もカイエのことを話していなかった。無視しているわけではない。挨拶が必要なら普通にするし、業務上必要なら必要なことだけ話す。それでも、カイエについては責めない。詰めない。問いたださない。
今の段階で感情のまま話せば、言うべきこと以上の言葉が出る。それをエリン自身が分かっていた。それに、カイエの異動とナッシュとの問題が直接繋がっている証拠はまだない。疑わしい。納得もできない。しかし、疑いと事実は別だった。
だから今は、何も言わない。ただ記録を見る。事実を見る。それだけだった。
ナッシュも時折エリンを見ていたが、エリンは目を合わせなかった。
「エリン」
声に振り向くと、タツヤ班長が十四班へ戻ってきていた。ただし、その表情はいつもと少し違う。
「タツヤ班長」
「少しいい? 会議室」
「はい。分かりました」
短いやり取りだけで、エリンにも軽い話ではないと分かった。
◇
小会議室。
扉が閉まると、外の十四班の声はほとんど聞こえなくなった。
タツヤ班長はすぐには座らず、窓際で腕を組んでいた。エリンも急かさず待つ。
やがて、タツヤ班長が長く息を吐いた。
「……上から連絡が来た」
エリンの眉がわずかに動く。
「上からですか?」
「うん。ナッシュの件」
その名前だけで、エリンの目が少し鋭くなった。
「何と?」
タツヤ班長は一度エリンを見た。言いにくそうな顔をした後、苦笑とも怒りともつかない表情で告げる。
「丁寧に扱えってさ」
短い沈黙が落ちた。
「……丁寧に。誰をですか?」
分かっていて、エリンはあえて確認した。
「ナッシュ。ナッシュを丁寧に扱え、そう言われた」
エリンの顔から完全に笑みが消えた。
「それは、どういう意味ですか?」
「俺も聞いたよ。具体的にどうしろって話ですか、って。でも、そこがまた曖昧なんだよ。強い言葉で追及するな、本人の立場も考慮しろ、指導の際には必要以上に精神的な負担をかけないようにしろって」
エリンの目が少しずつ冷えていく。
「……本人の立場というのは、総帥の息子だからですか?」
タツヤ班長は答えなかった。
しかし、その沈黙で十分だった。
エリンは静かに息を吐く。
「操縦禁止の指示を破って、自動操縦を解除して、乗客を怖がらせて、乗務員に負担をかけて、その後は客室側の責任みたいなことを言って、カイエに手を出そうとした。それでも丁寧に扱え、ということですか?」
「……そう聞こえるよね」
タツヤ班長の声にも、普段の軽さはない。
エリンは一度視線を落としてから、低い声で尋ねた。
「カイエの異動も、関係あると思いますか?」
「分からない。そこは今は分からない。だから決めつけない。ただ……時期が良すぎる」
エリンが顔を上げる。タツヤ班長の目は笑っていなかった。
「俺もそこは気になってる」
「異動の起案日は確認しています。ガーネットにも頼みました。ナッシュとの件より前か後か。そこが分かれば、少なくとも一つは切り分けられます」
「そうだね。それと、ナッシュの件だけど」
タツヤ班長は机の上へ端末を置いた。
「俺は止めないよ。聞き取りも、安全管理への報告も、乗客への対応も予定どおりやる。上から丁寧に扱えとは言われた。でも、なかったことにしろとは言われてない」
エリンが静かに目を上げる。
「……もし、なかったことにしろと言われたら?」
一瞬、沈黙した。
タツヤ班長はエリンを見て、少しだけいつもの彼らしい困ったような笑みを浮かべた。
「その時は、もう一回話を聞こうか」
ただし、目だけは全く笑っていなかった。
エリンには十分だった。
「分かりました」
タツヤ班長は椅子へ深く身体を預ける。
「それでさ、エリン。ナッシュには今のところ何も言ってないよね?」
「はい。カイエについては一言も」
「良かった。今はそれでいい。俺も先に事実を揃えたい。感情でやったら、向こうに逃げ道を作るから」
エリンの目がわずかに動く。
「逃げ道ですか?」
「十四班が感情的にナッシュを排除しようとしている、そういう形に持っていかれたら面倒になる」
エリンはすぐに理解した。
ククルは昨日、ナッシュへ「カイエに何をした」と怒鳴った。その気持ちは痛いほど分かる。しかし、それを組織の話へ持ち込めば、十四班側が私情でナッシュを追い出そうとしているという構図に変えられる可能性がある。
「だから俺達は記録で行く。操縦ログ、通信記録、機長の証言、客室乗務員の報告、乗客からの申告。全部そこだけでやる」
エリンはゆっくり頷いた。
「分かりました。カイエの退職についても、ナッシュ本人へは今は何も言いません。ククル達にももう一度話しておきます」
「お願いします」
エリンは少しだけ目を伏せ、それから静かに言った。
「でも、タツヤ班長。私、丁寧に扱うこと自体は別にいいと思います。感情的に怒鳴る必要もないし、侮辱する必要もない。立場を理由に必要以上に追い込む必要もないです。でも、安全上の問題まで丁寧に包んで、なかったことにするのは違います」
タツヤ班長は静かに頷いた。
「俺も同じ」
会議室に短い沈黙が落ちた。
昨日までなら、カイエもこの話の近くにいた。記録をまとめ、自分の発言を確認し、必要な情報を正確に出していた。そのカイエは、もうここにはいない。
エリンは唇を少しだけ結んだ。
「……カイエ、昨日ククルとエマが会いに行ったそうです」
「え? そうなの?」
タツヤ班長の表情が少しだけ緩む。
「はい。無事でした。ちゃんと食べたそうです」
「そっか」
タツヤ班長が大きく息を吐く。今日初めて、少し安心した顔になった。
「なら今はそれでいいか。連絡は?」
「まだです」
「待つ?」
エリンは少し考えてから頷いた。
「待ちます」
「そっか。じゃあ、カイエは待つ。リュウジは休ませる。ナッシュは……事実を揃える」
「はい」
二人は立ち上がった。
エリンが会議室の扉へ向かい、手をかける直前、背後からタツヤ班長の声が届いた。
「エリン、一つだけ」
「はい?」
「上がナッシュを丁寧に扱えって言ってきたこと、今は十四班には広げないで」
エリンの目がわずかに細くなる。
「分かりました」
「ククルが聞いたら、たぶんまた暴れるからね」
タツヤ班長が苦笑すると、エリンもほんの少しだけ苦笑した。
「……否定できません」
会議室を出ると、その先には十四班の事務所がある。
ガラス越しにククルとエマ、ミラ、ラン、ガーネット、そしてナッシュの姿が見えた。空席も一つ見える。
エリンはしばらく、その景色を見つめた。
――丁寧に扱え。
その言葉が胸の奥へ残っていた。
誰に対しても丁寧に接する。それ自体は間違っていない。
だが、立場によって安全の基準まで変える。
それだけは絶対に違う。
エリンは何も言わず、十四班の扉を開けた。
今はナッシュへ何も言わない。
ただ、忘れもしない。
十四班のチーフパーサーとして、起きたことを一つずつ見ていく。
それだけだった。