カイエがドルトムントを辞めてから、数週間が経った。
時間だけを見れば、それほど長くはない。だが十四班にとっては、少しずつ日常の形が変わるには十分な時間だった。
カイエの席は今も残っている。端末は回収され、私物もない。机の上には何も置かれていない。それでも、誰もその席を別の用途には使わなかった。新しい端末を置こうとも、荷物置き場にしようとも言わない。ただ空いている。それがいつの間にか、十四班の日常になっていた。
「エマ、昨日の応援便の客室記録ってどこまで終わってる?」
「入力は終わってる。あとはガーネットさんの確認だけ」
「そっか。じゃあ私、今日の備品確認やるね」
「お願い」
ククルとエマの会話は以前とほとんど変わらない。けれど時々、ククルが何かを確認しようとして口を開き、そのまま止まることがあった。
――カイエ、これ。
そう言いかける癖が、まだ残っている。そのたびにククルは一瞬だけ黙り、自分で端末を開くか、エマへ確認する。エマは気づいていても何も言わなかった。
ミラとランも同じだった。以前なら判断に迷った時、自然とカイエを見ることがあった。カイエは派手に前へ出る人間ではない。それでも周囲をよく見ていて、誰かが困っていれば必要な情報を静かに出してくれる。今は、その視線の先に誰もいない。
だからミラは以前より、自分で一度考えてから質問するようになった。ランも、すぐ誰かへ答えを求めるのではなく、まず記録を確認するようになった。ガーネットは業務上の確認を以前より多く引き取り、エマは全体の記録を見る時間が増えた。ククルも表面上はいつも通り騒がしいままだったが、周囲を見る回数は明らかに増えている。
誰かがカイエになったわけではない。誰にもなれない。だから全員が、それぞれ少しずつ変わった。
エリンも、それを止めなかった。カイエがいなくなった穴を、一人へ背負わせるつもりはなかったからだ。
そしてその数週間の間に、十四班にはもう一つ、大きな変化があった。
リュウジが、本格的に復帰した。
◇
「今日から通常復帰でいいんだよね?」
朝の十四班で、タツヤ班長が端末を見ながら確認する。
「はい。医療センターの最終確認も終わっています。操縦業務への復帰許可も出ました」
リュウジはいつも通り落ち着いた声で答えた。その姿は、未探索領域から帰還した直後とはまるで違う。目の下の濃い影は消え、頬の痩せも戻っている。長時間の操縦で荒れていた手も、傷跡こそ残っているが以前のような痛々しさはない。
一週間の入院。その後の自宅療養。段階的な出社、事務作業、軽いシミュレーション、短時間の訓練、そして再度の診察。エリンが徹底的に管理した結果だった。
「本当に大丈夫?」
「大丈夫です」
リュウジが答えた瞬間、エリンの視線が飛んだ。
「その言葉、信用しないから」
「……もう医師から許可が出ています」
「医師の許可が出たことと、あなたが何でも大丈夫って言うことは別でしょう?」
「今回は本当に問題ありません」
「今回は、って自分で言ってるじゃない」
ククルが小さくエマへ寄る。
「まだ言われてる」
「仕方ないと思う」
「一ヶ月くらい言われそう」
「もっとかも」
「聞こえてるわよ」
エリンが振り向くと、ククルはすぐに姿勢を正した。
「すみません!」
タツヤ班長は笑いを堪えるように口元へ手を当てる。
「まあ、エリンの許可が出たなら大丈夫か」
「タツヤ班長まで何を言ってるんですか」
「いや、病院より厳しかっただろ?」
「否定はしません」
リュウジが真顔で答えると、エリンが目を細めた。
「リュウジ?」
「事実です」
「あなたね……」
周囲から小さな笑いが起きた。それは久しぶりに聞く、十四班らしい笑いだった。
だが、その中にも一つだけ足りない声がある。
リュウジは自然に周囲を見渡した。タツヤ班長、エリン、ガーネット、ククル、エマ、ミラ、ラン。そして、空いている席。
視線がほんの一瞬そこで止まった。
エリンは気づいたが、何も言わなかった。リュウジも何も言わない。カイエが辞めたことは知っている。理由も、大まかな経緯も聞いている。それでも実際にその席が空いているのを見るのは、本格的に戻ってから初めてだった。
「リュウジさん」
ミラが控えめに声をかける。
「何だ?」
「復帰、おめでとうございます」
少し緊張したように、それでもミラは笑った。ランも隣で頷く。
「本当に良かったです。もう大丈夫なんですよね?」
「ああ。ありがとう」
ガーネットも静かに続ける。
「無理だけはしないでください。エリンさんが見ていますので」
「そこが理由なのか?」
「一番確実です」
「ガーネットまで……」
エリンが少し呆れた顔をする。
ククルは嬉しそうにリュウジを見た。
「でも本当に良かったです。リュウジさんがずっといないと、何か変な感じでした」
「俺は普段から毎日いるわけじゃないだろ」
「そうなんですけど、いるのと、来られないのは違います」
その言葉に、リュウジが少しだけ黙った。
ククルは特に意識して言ったわけではない。だが、いるのと来られないのは違う。その言葉は、今の十四班には少し重かった。
エマがククルを見る。ククルも気づいたのか、少しだけ表情を曇らせた。
「……ごめんなさい」
「何で謝るんだ。事実だろ」
リュウジは普通に返した。それ以上、誰も触れなかった。
タツヤ班長が軽く手を叩く。
「よし。じゃあリュウジの復帰祝いはこのくらいにして、仕事しようか」
「祝いだったんですか?」
「一応ね」
「何も貰ってませんが」
「元気になったことが祝いだよ」
「それは祝いじゃなくて結果でしょう」
「細かいなぁ」
また小さく笑いが起き、十四班は仕事へ戻っていった。
◇
リュウジの本格復帰初日は、フライトではなかった。
「聞いてません」
ブリーフィングルームで、目の前に表示されている訓練予定を見ながらリュウジが言う。
「言ってないもの」
エリンは平然と答えた。
「操縦復帰許可は出ています」
「出てるわね」
「なら何でシミュレーターなんですか?」
「許可が出たから、いきなり乗客を乗せて飛ぶの?」
「以前なら普通に――」
「以前は以前。今回は長期間の睡眠不足と極度の疲労で一週間入院したでしょう?」
「もう回復しています」
「確認するの」
「医師が確認しました」
「操縦するのは医師じゃないでしょう?」
リュウジが黙る。
エリンは端末を操作しながら続けた。
「まずシミュレーターで反応速度、長時間集中、姿勢制御。それが問題なければ明日、訓練船。さらに問題がなければ定期便」
「三段階?」
「そう」
「必要ですか?」
「必要」
「誰が決めたんですか?」
「私とタツヤ班長」
リュウジがタツヤ班長を見ると、タツヤ班長はさりげなく目を逸らした。
「タツヤ班長」
「いやぁ、安全第一だから」
「俺一人だけですか?」
「今回はね」
「……」
「そんな顔するなって」
その様子を後ろで見ていたククルが小声でエマへ尋ねる。
「リュウジさん、怒ってます?」
「怒ってはいないと思う。不満」
「違い分かるの?」
「分かる」
リュウジが振り返った。
「聞こえてるぞ」
「すみません!」
エリンが小さく笑う。
「ほら、元気そうじゃない」
「それとこれは別です」
結局、予定は変わらなかった。
◇
シミュレーターでは、最初に通常航行、次に推進系統の異常、最後に重力変動と通信障害を同時に発生させる緊急想定が組まれた。
久しぶりに操縦席へ座ったリュウジは、最初の数分だけ普段より慎重だった。操縦桿を握り、計器を見る。推進出力、姿勢、反応を一つずつ確かめる。その動きは機体ではなく、自分自身を確認しているようにも見えた。
エリンはモニタリングルームから、その様子を黙って見ていた。隣にはタツヤ班長がいる。
「どう?」
「まだ」
「厳しいねぇ」
「当然です」
画面の中でリュウジが姿勢制御を入れる。最小限の操作で機体が滑るように角度を変え、次の補正へ移る。徐々に動きから慎重さが消え、代わりにいつもの無駄のなさが戻っていった。
「……戻ったね」
タツヤ班長が小さく言った。
エリンは何も答えず、画面を見つめ続ける。
やがて緊急想定へ入った。警報が鳴り、姿勢制御異常、通信断、片側推進器の出力低下が連続して表示される。
リュウジは急がない。必要な情報だけを選び、短く指示を出す。
「右舷推進を落とす。姿勢制御は補助系統。通信復旧は後でいい」
操作が続き、機体の揺れが収まる。最後に航路へ復帰し、シミュレーションが終了した。
評価画面に表示された反応速度、操縦精度、判断時間はいずれも入院前の通常値とほぼ同等だった。
「問題なさそうだね」
タツヤ班長が息を吐く。
「そうですね」
「じゃあ明日、実機?」
「予定通りです」
「厳しいな」
「予定を変える理由がありません」
「リュウジが聞いたら嫌な顔するよ」
「もうしています」
二人がモニタリングルームを出ると、少ししてシミュレーターの扉が開いた。
「終わりました」
「お疲れさま。気分は?」
「問題ありません」
エリンの眉が動く。
「……気分は?」
「普通です」
「めまいは?」
「ありません」
「吐き気は?」
「ありません」
「頭痛は?」
「ありません」
「疲労感は?」
「ないです」
「本当に?」
「はい」
エリンは数秒、リュウジの顔を見る。リュウジも黙って見返した。
「分かった」
「信用してくれました?」
「数値も見たから」
「俺の言葉だけでは?」
「前科があるでしょう」
「前科って言わないでください」
タツヤ班長が思わず笑う。エリンの表情も、先ほどより少しだけ柔らかくなっていた。
本当に戻ったのだ。
リュウジが操縦席へ。
十四班へ。
◇
そして数日後、正式なフライト復帰の日が来た。
短距離の定期便。特別な任務ではない。危険な航路でもない。百人余りの乗客を乗せ、予定された航路を飛び、予定された時間に帰ってくる。ただの普通のフライトだった。
今の十四班には、それが一番良かった。
操縦席ではリュウジがシートへ座り、最終確認を進めている。副操縦席にはタツヤ班長。客室側ではエリンを中心に、ガーネット、ククル、エマ、ミラ、ランが配置についていた。
カイエはいない。
その事実は変わらない。
だが、機体は動く。乗客は待っている。仕事は続く。
『客室、準備完了です』
エリンから通信が入った。
「了解です。こちらも出発できます」
一瞬だけ間が空いた。
『リュウジ』
「はい?」
『無理しないでね』
操縦席で、リュウジが少しだけ目を細める。
「普通に飛ぶだけですよ」
『だからよ』
「分かりました」
『本当に?』
「エリンさん、出発前からそれだと、帰るまで何回言うんですか?」
通信の向こうから、少しだけ笑う気配がした。
『必要なだけ』
リュウジは小さく息を吐く。
「了解です」
横でタツヤ班長がにやりと笑った。
「何ですか」
「いやぁ、相変わらずだなと思って」
「何がですか?」
「別に。飛ぶぞ」
「誤魔化しましたね」
「班長命令」
「便利ですね、それ」
久しぶりの操縦席でのやり取りだった。
リュウジは前を見る。航路、誘導灯、離陸許可。機体がゆっくり動き始め、推進器が出力を上げる。その振動が座席から操縦桿、そして指先へ伝わってきた。
リュウジは一度だけ深く息を吸い、操縦桿へ手を添えた。
「行きます」
機体が離陸する。
十四班が再び宇宙へ出る。
カイエがいない十四班。以前と同じではない。もう、まったく同じ形には戻らない。
それでも、失った場所を無理に誰かで埋めるのではなく、空いた場所があることを知ったまま前へ進んでいく。
その中へ、本格的に戻ってきたS級パイロット、リュウジがいる。
客室で飛行情報画面を見つめていたエリンは、安定した航路表示を確認しながら小さく息を吐いた。
一つ、戻ってきた。
同時に、まだ戻ってこないものがあることも分かっている。
それでも十四班は飛び続ける。
全員が無事に帰るために。
今ここにいる仲間で、今できることを一つずつ積み重ねながら。
――――
リュウジの正式な復帰便が決まった、その日の午後だった。
短距離の定期航路。特別な要人輸送でもなければ、危険区域を通る便でもない。長く現場を離れていたリュウジを戻すにはちょうどいいと、タツヤ班長とエリンが選んだ便だった。リュウジ本人は「普通の定期便なら何でも構いません」と言っていたが、エリンにとってはそう簡単な話ではない。一週間入院し、さらに段階的な復帰期間を置き、ようやく許可した最初の実運航なのだ。何か一つでも余計な要素は入れたくなかった。
だからこそ、その連絡を受けたタツヤ班長は、端末を見たまましばらく動かなかった。
「……何で?」
十四班の自席で漏れた声に、近くで運航資料を確認していたエリンが顔を上げた。
「タツヤ班長?」
「いや……ちょっと待って。これ、本気かな」
「何かありましたか?」
タツヤ班長は答えず、もう一度画面を上から下まで確認した。送信元は運航管理ではない。そのさらに上、宇宙事業部の管理部門から出された正式な指示だった。
そして、そこに記載されていた名前を見て、タツヤ班長は片手で額を押さえた。
「……またかぁ」
その反応だけで、エリンの表情が変わる。
「ナッシュですか?」
タツヤ班長がゆっくり顔を上げた。
「何で分かるの?」
「最近、タツヤ班長がその顔をする理由は大体ナッシュです」
「嫌な学習させちゃったなぁ」
「それで、何ですか?」
タツヤ班長は一度大きく息を吐いてから、端末をエリンの方へ向けた。
「リュウジの復帰便。ナッシュも同席させろって」
エリンは数秒、何も言わなかった。
「……同席?」
「うん」
「客室ですか?」
「操縦室側」
そこで、エリンの目が明らかに変わった。
「駄目です」
「俺もそう言った」
「それで?」
「却下された」
「……誰にですか?」
「上」
タツヤ班長は再び額へ手を当てた。
「正式な業務命令。『今後の運航体制を考慮し、経験豊富な操縦士の実運航を見学させることが本人の育成上有効』だってさ」
エリンの顔から表情が消えた。
「経験豊富な操縦士というのは、リュウジのことですよね」
「他にいないだろうね」
「復帰第一便ですよ」
「言ったよ」
「一週間入院した後の、正式復帰最初の便です」
「それも言った」
「以前ナッシュが操縦禁止の指示を破ったことも?」
「もちろん」
「それでも?」
「それでも」
タツヤ班長は椅子へ深く座り込み、天井を見上げた。
「頭痛くなってきた」
エリンは腕を組んだ。怒りを表へ出してはいないが、明らかに納得していない。
「断れないんですか?」
「かなり粘ったんだけどね。今回は『操縦させるわけではない』『見学のみ』『リュウジの操縦から学ばせるため』って言われた」
「前回も、最初は見学だけでした」
「そうなんだよ」
その一言だけは、タツヤ班長も即答した。
前回もそうだった。本来、ナッシュは機長の操作を見るだけだった。航路確認、出力管理、通信手順を学ぶ。それだけのはずだった。タツヤ班長自身が「勝手に操縦しないこと。機長から勧められても断ること」と念を押していた。
それでも、ナッシュは操縦した。
そして、止める側だったはずの機長も、総帥の息子という立場を意識して判断を鈍らせた。
同じことを、もう一度起こすわけにはいかない。
「……分かりました」
エリンが静かに言った。
「何か案ある?」
「いえ。ただ、同席自体を止められないなら条件を変えるしかありません」
タツヤ班長も同じことを考えていた。
「そうなんだよね」
しばらく考えた後、タツヤ班長は椅子から身体を起こした。
「俺も乗る」
エリンが顔を上げる。
「タツヤ班長もですか?」
「うん。副操縦席に俺が入る。リュウジが機長席、俺が副操縦席。ナッシュは後ろの補助席。操縦系統には触れさせない」
「それなら……」
「俺も前回みたいなのは二度と嫌だからね」
冗談めかした言い方だったが、声には少し重いものがあった。
あの日、娘のユイが熱を出し、予定していた便を外れた。そのこと自体は間違いではない。それでも、代わりの監督者を明確に決めなかったことをタツヤ班長はずっと引っかかっていた。
「今度は俺がいる。ナッシュが何を言っても、操縦には触れさせない。リュウジにも先に伝えておく」
「私も乗ります」
「それは予定通り。客室はエリンが見て」
「はい」
エリンはそこで一度言葉を止めた。
「リュウジ、嫌がるでしょうね」
「ナッシュが乗ることを?」
「それより、自分の復帰便なのに周囲がそこまで警戒していることをです」
「……ああ」
二人とも容易に想像できた。
『普通に飛ぶだけですよ』
きっと、そう言う。
◇
予想はほぼ当たった。
「別に構いません」
翌朝、ブリーフィングルーム。事情を説明されたリュウジは、運航資料から顔を上げることすらなく答えた。
タツヤ班長が逆に拍子抜けする。
「いいの?」
「同席するだけですよね?」
「一応ね」
「なら問題ありません」
エリンが少し眉を寄せる。
「リュウジ、前に何があったか聞いてるでしょう?」
「聞いてます」
「だったら――」
「エリンさん」
リュウジはそこで初めて顔を上げた。
「タツヤ班長も乗るんですよね?」
「うん。俺が副操縦席に入る」
「なら大丈夫でしょう」
あまりにも簡単に言う。
エリンは納得していない顔をした。
「あなた、自分の復帰便なのよ?」
「だからです。俺は操縦します。タツヤ班長は副操縦。エリンさんは客室。それぞれ自分の仕事をすればいいでしょう」
「ナッシュは?」
「見学です」
「もし操縦したいって言ったら?」
「断ります」
「勝手に触ったら?」
リュウジは一瞬だけ黙った。
そして、淡々と答えた。
「止めます」
短い。
だが、その言葉には迷いがなかった。
タツヤ班長が苦笑する。
「物理的に?」
「必要なら」
「必要になる前に俺が止めるよ」
「お願いします」
エリンは二人を交互に見る。
「何か、二人とも簡単に考えてない?」
「考えてないよ」
「考えてません」
「今、同じタイミングで言ったでしょう」
タツヤ班長とリュウジが一瞬顔を見合わせた。
「……まあ、とにかく」
タツヤ班長が話を戻す。
「ナッシュにはもう条件を伝えてある。補助席からの見学のみ。操縦系統への接触は禁止。航行中の質問も、緊急操作中は禁止。俺かリュウジの指示には従う。これが条件」
「了承したんですか?」
エリンが聞く。
「一応」
「一応?」
「返事は『分かった』だった」
「……不安ですね」
「だよね」
リュウジだけが、資料をめくっていた。
「リュウジ、本当に何とも思わないの?」
エリンが尋ねる。
「何についてですか?」
「ナッシュが乗ること」
「仕事なので」
「総帥の息子よ」
その言葉に、リュウジの手が止まる。
「関係ありません」
即答だった。
以前と同じだった。
「乗客を乗せて飛ぶなら、誰の息子でも同じです」
エリンはしばらくリュウジを見ていたが、やがて小さく息を吐いた。
「……そうね」
タツヤ班長も少し笑った。
「そういうところ、変わらないね」
「変える必要がありますか?」
「ない。むしろ、そのままでいて」
◇
出発準備が始まった。
復帰便ということもあり、十四班の面々は普段より少し早く集まっていた。ガーネットは乗務配置を再確認し、エマは客室備品を点検する。ミラとランも担当区画の安全確認に入り、ククルは乗客情報を確認しながら何度も操縦室側を気にしていた。
その理由はリュウジだけではない。
ナッシュが乗る。
その話は、必要な範囲で共有されていた。
「本当に乗るんですね」
ククルが小さく呟く。
「業務命令だから」
エマは端末から目を上げない。
「でも、何でリュウジさんの復帰便なの?」
「そこは考えない方がいいと思う」
「考えるよ」
「分かるけど」
ククルは少し離れた場所にいるナッシュを見る。以前なら、そのまま感情が顔へ出ていただろう。だが今日は何も言わなかった。
カイエの件以降、エリンからもタツヤ班長からも言われている。
事実と感情を分ける。
だからククルも我慢していた。
やがてナッシュが操縦室へ向かう。その後ろからタツヤ班長が続いた。
「ナッシュ」
「何ですか」
「もう一回だけ確認するよ。今日は見学。操縦系統には触らない。俺かリュウジが操作中止と言ったら、そこで終わり。いいね?」
「何回言うんですか」
「必要なだけ」
少し前、エリンがリュウジに言った言葉と同じだった。
ナッシュは明らかに不満そうだったが、それでも答えた。
「分かってます」
「ならいい」
操縦室の扉が開く。
先に中にいたリュウジが、出発前点検を進めていた。視線だけを一度ナッシュへ向ける。
「来たか」
ナッシュが足を止めた。
二人がまともに顔を合わせるのは、あの屋上近くでリュウジがナッシュの拳を止めて以来だった。
「……あんたが今日の機長か」
「そうだ」
「復帰したばかりなんだろ」
「ああ」
「大丈夫なのか?」
リュウジは計器へ視線を戻した。
「それを確認するために飛ぶわけじゃない。飛べるから復帰してる」
ナッシュの眉がわずかに動く。
タツヤ班長が間へ入るように副操縦席へ座った。
「はいはい。今日は喧嘩する便じゃないよ。リュウジ、準備は?」
「問題ありません。出力系統、姿勢制御、航法系統、通信、全て正常です」
「了解」
ナッシュは後方の補助席へ座る。
正面にはリュウジ。
その隣にはタツヤ班長。
前回とは違う。
操縦席を譲ることも、遠慮することもない二人だった。
ナッシュは少しだけ眉を寄せた。
空気が違う。
以前同乗した機長は、自分が総帥の息子だと知った瞬間から言葉を選んでいた。「ナッシュ様」と呼び、希望を聞き、拒否することを恐れていた。
目の前の二人には、それがない。
リュウジは、そもそもこちらをほとんど気にしていない。
タツヤ班長も、普段通りだった。
「客室へ確認するよ」
タツヤ班長が通信を開く。
「こちら操縦室。出発準備完了。客室どう?」
『こちらも間もなく完了します。最終確認後に報告します』
エリンの声。
リュウジの目がほんの少しだけ動く。
数十秒後、再び通信が入った。
『客室、全区画確認完了。出発できます』
「了解」
リュウジが答える。
『リュウジ』
「はい?」
『今日は普通に帰ってきてね』
タツヤ班長が隣で笑いそうになる。
リュウジは小さく息を吐いた。
「普通の定期便ですよ」
『知ってるわ』
「なら大丈夫です」
『その言葉はまだ信用してないから』
「……了解です」
通信が切れる。
後方で聞いていたナッシュが怪訝そうな顔をする。
「ずいぶん管理されてるんだな」
リュウジは前を向いたまま答える。
「そうだな」
「S級でも?」
「S級でも人間だからな」
返答はそれだけだった。
タツヤ班長が、ほんの少しだけ口元を緩める。
「じゃあ行こうか」
誘導許可。
機体がゆっくりと動き出す。
リュウジの手が操縦桿へ触れる。無理な力は入っていない。必要な情報だけを拾い、管制と短く交信しながら機体を進める。
ナッシュは黙ってその動きを見ていた。
派手ではない。
むしろ、あまりにも何も起こらない。
補正は小さく、操作回数も少ない。機体がリュウジの意思を先に理解しているように滑らかに動く。
「……」
ナッシュの目が少しずつ細くなる。
やがて離陸許可が下りた。
「離陸します」
リュウジが短く告げる。
推進出力が上昇する。
機体が滑走路を離れ、宇宙港の光がゆっくり下へ沈んでいく。
姿勢変化はほとんど感じない。
客室へ負担をかける揺れもない。
ナッシュは前方表示を見る。
「そんなに細かく操作しないんだな」
「必要がないからな」
「自動制御に任せてるだけじゃないのか?」
「任せられるところは任せる」
「S級なのに?」
リュウジが一度だけ、後方へ視線を向けた。
「S級だから全部自分でやるわけじゃない」
そして、すぐ前へ戻る。
「操縦士の仕事は、自分が目立つことじゃない。船を安全に目的地へ運ぶことだ」
ナッシュは黙った。
タツヤ班長も何も付け加えない。
その言葉は、誰かを説教するために言ったものではない。リュウジにとっては、ごく当たり前のことだった。
指定航路へ入る。
自動航行が安定する。
リュウジは操縦桿から軽く手を離した。
「航路安定。自動航行へ移行します」
ナッシュが前へ少し身体を乗り出す。
「ここからなら、手動でも――」
「ナッシュ」
タツヤ班長の声だった。
軽い口調。
だが、はっきりしている。
「今日は見学だよ」
「分かってます。ただ言っただけです」
「ならいい」
ナッシュは背もたれへ戻る。
その様子を、リュウジは何も言わず前方画面越しに見ていた。
前回なら。
ここからだった。
巡航中。
安定した航路。
危険性が低く見える時間帯。
だから少しくらい。
それが、あの事故の始まりだった。
今回は違う。
タツヤ班長がいる。
リュウジがいる。
そして何より、二人ともナッシュの立場を気にしていない。
総帥の息子。
将来の経営側。
そんなものは、この操縦室では何の権限にもならない。
ここで一番上にあるものは、乗客と乗員の安全だった。
タツヤ班長は前方を見ながら、ようやく少しだけ肩の力を抜いた。
上からの命令そのものを止めることはできなかった。
ナッシュを乗せるなという主張も通らなかった。
なら、自分が乗る。
それが今回、タツヤ班長がつけた折り合いだった。
そして隣には、戻ってきたリュウジがいる。
あの日と同じ失敗だけは、絶対に繰り返さない。
タツヤ班長は何も言わなかったが、その視線だけは普段より少し鋭く、操縦室全体を見ていた。