宇宙警察本部長グレイへ、未探索領域の航行規制について協力を求めた日から、一か月が経った。
ペルシアが最初に考えていたより、遥かに時間がかかった。
いや、正確には、最初から簡単に決まるはずの話ではなかったのだ。
対象は一つの部署の内部規則ではない。未探索領域へ入る船そのものを制限する。民間船、企業の資源調査船、研究船、宇宙連邦連盟の調査任務、場合によっては行政機関の船まで対象になり得る。宇宙管理局が許可を出し、宇宙警察が現場で許可情報を照会し、無許可船には警告や進路変更を求める。そのためには、どこからを規制区域とするのか、誰が許可するのか、どのような装備と人員が必要なのか、救難目的の船をどう扱うのか、警察がどこまで強制力を持つのか、一つずつ決めなければならなかった。
そして、その一つを決めるたびに、別の問題が二つか三つ増えた。
宇宙管理局本部。統括官室。
「……一か月」
ペルシアは自分の机に積まれた資料を見つめながら、低い声で呟いた。
机の上には、最初にグレイへ持っていった数枚の資料など見る影もない。宇宙管理局内部の意見書、宇宙警察との協議記録、技術部門の照会回答、航行管理部門からの修正案、宇宙連邦連盟との調整事項、法務確認、役員からの意見。それらが電子資料と紙資料の両方で積み上がっている。
「一か月よ、フレイ」
「はい」
「最初、私、何て言ったか覚えてる?」
「『原則禁止にして、許可制にすればいいでしょう』とおっしゃっていました」
「そんな軽く言った?」
「かなり軽くおっしゃっていました」
「……過去の私を殴りたい」
フレイは端末を操作したまま淡々と答える。
「一か月前の統括官も現在の統括官も同一人物です」
「正論やめて」
「事実です」
ペルシアは机へ額をつけた。
その時、自動扉が開いた。
「戻りました」
リリアだった。
ペルシアがすぐに顔を上げる。
「どうだった?」
「宇宙警察側の運用案について、ようやく本部内の主要部署から回答が揃いました」
「ようやく!」
ペルシアが勢いよく立ち上がる。
「その“ようやく”には全面的に同意します」
普段は穏やかなリリアが珍しく、少し疲れたように息を吐いた。
この一か月、リリアは宇宙管理局と宇宙警察本部を何度往復したか分からない。
最初は単純だった。管理局が許可を出し、警察がそれを確認する。それだけなら、それほど難しい話には見えなかった。
しかし実際に警察側へ持ち込めば、当然のように質問が返ってきた。
どこからが未探索領域なのか。
進入しようとしている船が遭難船だった場合はどうするのか。
許可証が通信障害で確認できなかった場合は。
進路変更命令に従わない船を、どの時点で違反船として扱うのか。
救助目的で第三者が規制区域へ入る場合は。
警察の巡視艦自身が救難対応で未探索領域へ入る場合は。
管理局の許可判断が間に合わない緊急時は。
そして何より、管理局と宇宙警察のどちらが最終判断を持つのか。
リリアは、そのたびに双方の資料を持ち帰った。
宇宙警察の言葉を、宇宙管理局が判断できる形へ変える。管理局の安全上の意図を、警察が現場運用へ落とせる形へ変える。
それは、まさにリリアが宇宙管理局へ来た時、自分で望んだ役割だった。
「最終的に、警察側はどうなった?」
ペルシアが尋ねる。
リリアは端末を机へ置き、資料を表示した。
「まず、管理局が発行する航行許可情報と、宇宙警察の航行照会システムを連携する方向で合意しました。巡視艦側から船舶登録番号を照会すれば、許可の有無、許可区域、期間、任務目的を確認できるようにします」
「うん」
「無許可船への対応も、段階を分けます。最初に警告と許可確認。次に進路変更要請。それでも従わない場合は、事情を確認した上で宇宙警察の判断へ移します。ただし、遭難、操縦不能、救助目的など、緊急性が認められる場合は別です」
「そこはグレイと話した通りね」
「はい。ただ、宇宙警察側から一つ強く求められました」
「何?」
「規制区域の境界を曖昧にしないことです」
ペルシアが少し顔をしかめる。
「やっぱりそこかぁ」
「そこです」
リリアは苦笑した。
未探索領域という言葉は、それまであまりにも広く使われていた。既知航路から少し外れただけの場所も、観測網がほとんど届かない深部も、同じ「未探索領域」と呼ばれる。
それでは、取り締まる側が困る。
「だから、前にリリアが言った三段階?」
「はい。それでまとまりました」
リリアが宇宙図を開く。
「第一段階は外縁警戒区域。管理局の監視や通常通信が一定程度届く範囲です。ここは原則禁止にはせず、航行計画の提出と一定の安全要件を求めます」
表示が一段奥へ移る。
「第二段階が規制区域。救援到達に時間を要する、通信が不安定、環境情報が不足しているなど、明確な危険性がある区域。ここからは原則として航行禁止。管理局の許可を必須とします」
「で、一番奥」
「第三段階、特別規制区域。現時点では完全未探索に近く、環境データもほとんどない区域です。ここについては、通常の民間航行は認めない方向です」
「調査だけ?」
「原則として、ですね。宇宙連邦連盟などの公的調査、または同等の必要性が認められる任務について、個別審査を行います」
ペルシアは腕を組みながら頷いた。
「いいと思う」
「ただし、許可基準はかなり厳しいです」
「それは私が厳しくしてって言ったの」
「存じています」
リリアが少しだけ笑った。
許可条件も、この一か月で大きく膨らんだ。
単に「安全な船を使う」では許可されない。
船体の健全性。主推進器以外の代替推進手段。十分な燃料余裕。複数の操縦資格者。長時間任務における強制交代基準。通信中継設備。一定間隔で展開する簡易ビーコン。救援船または救援拠点。護衛船が離脱した場合の撤退基準。医療対応。事故発生時の指揮権限。位置情報の継続共有。
そして、ペルシアが最も強く求めた項目が一つある。
「人的能力を、安全設備の代替として扱わないこと」
リリアがその項目を読み上げる。
ペルシアの表情が少しだけ真面目になった。
「そこは絶対残して」
「残しています」
「S級がいるから大丈夫とか、経験三十年の船長がいるから護衛一隻減らしていいとか、そういうのは禁止」
「はい」
今回、リュウジは帰ってきた。
だが、それは制度が機能したからではない。
損傷した調査船を、限界に近い一人の操縦士が帰してきただけだ。
それを次の基準にしてはいけない。
ペルシアはそこだけは、一度も譲らなかった。
「警察側は、以上で大きな異論はありません」
リリアが言う。
「グレイは?」
「本部長も了承しています。ただし、『まだ素案だ。成立したつもりになるな』とのことです」
ペルシアが目を細める。
「言いそう」
「それから、『ペルシアは話を一段先へ進めるから止めておけ』とも」
「余計なこと言ってない?」
「そのままお伝えしただけです」
「親子で似てきたわね」
「どこがですか?」
「容赦ないところ」
リリアは否定しなかった。
フレイも何も言わなかった。
「そこ否定してよ」
「会話へ参加しておりませんので」
「冷たい」
だが、ペルシアの口元には笑みがあった。
一か月かかった。
それでも宇宙警察側は、ようやく形になった。
「で」
リリアが今度はペルシアを見る。
「ペルシアさんの方はいかがでしたか?」
「聞く?」
「一応、共同作業ですので」
ペルシアは椅子へ座り直した。
「大変だったわよ」
一か月前。
グレイとの話を終えて管理局へ戻った翌日から、ペルシアは役員への説明を始めていた。
正式な役員会へ素案を出す前に、一人ずつ話す。
それがペルシアの選んだ方法だった。
いきなり「未探索領域の航行を原則禁止します」という文書を役員会へ出せば、反発されるのは分かっていたからだ。
未知の資源調査を阻害するのではないか。
研究開発を遅らせるのではないか。
企業活動への過度な規制にならないか。
管理局の権限を広げすぎるのではないか。
宇宙連邦連盟との関係は。
費用負担は誰が持つ。
一つずつ、当然の疑問が出た。
だからペルシアは、一人ずつ会った。
会議室。
役員室。
昼食。
時には夕方の休憩時間。
資料だけを送りつけるのではなく、自分で説明した。
『禁止したいわけじゃないの。帰ってこられない準備で行くのを止めたいだけ』
『未知を調べること自体は必要。でも、一人すごい人を乗せて、それを安全対策って呼ぶのはもうやめたい』
『研究を止める規則じゃない。調査を続けるための規則にしたいの』
ペルシアは、相手によって説明を変えた。
技術系の役員には、損傷した主推進器支持部と護衛艦二隻の整備ログを見せた。
財務側には、事故が起きた後に大規模な救援船団を出すことの負担を説明した。
航行管理側には、通信断の中で船の位置そのものが把握できなかった時間帯を示した。
そして、現場経験のある役員には、リュウジの通信記録を見せた。
『今、何時間起きてる?』
『分からない』
その二行を見せると、多くの役員はしばらく黙った。
ペルシアはそこへ余計な説明を加えなかった。
誰か一人の技術で帰ってきた事例を、次の標準にはしない。
それだけを伝えた。
「最初は結構言われたわよ。規制が強すぎるとか、管理局が航行権限を握りすぎるとか」
「ペルシアさんは何と?」
「『じゃあ事故が起きた時、誰が迎えに行くの?』って」
「……かなり直接的ですね」
「遠回しに言っても分からない時あるもの」
リリアは少し苦笑した。
「でも、途中から変わったの」
ペルシアは続ける。
「禁止だけじゃなく、許可を取れば行ける形にしたでしょう? それから、危険区域を三段階に分けた。それで随分通しやすくなった」
「全面禁止ではないと」
「そう。外縁まで全部閉じるわけじゃない。研究も調査も必要。でも奥へ行くなら、それに見合った準備をしてってだけ」
フレイが端末を見ながら補足した。
「現時点では、主要役員の大半から制度設計を進めること自体について異論は出ていません。正式承認は素案提出後ですが、少なくとも審議入りそのものを拒否される状況ではありません」
リリアが少し目を見開く。
「そこまで進んだのですね」
ペルシアが胸を張った。
「根回ししたから」
「珍しく統括官らしい仕事をされました」
フレイが言った。
「珍しくって何よ」
「評価しております」
「褒めてないでしょう、それ」
「褒めています」
「フレイの褒め方、ジェームズより分かりにくいのよ」
その時、統括官室の扉が開いた。
「呼んだか」
まるで話を聞いていたかのようなタイミングで、ジェームズが入ってくる。
「呼んでない」
「なら何で俺の名前が聞こえた」
「耳良すぎない?」
ジェームズはペルシアを無視し、机上の資料を見る。
「できたのか」
フレイが答える。
「最終確認が完了しました」
その言葉で、室内の空気が少し変わった。
フレイは端末を操作し、一つのファイルを中央画面へ表示する。
表紙。
まだ正式な規則名ではない。
上部には、小さく「素案」と記載されていた。
――未探索領域航行安全規則(素案)。
ペルシアが黙る。
リリアも画面を見つめた。
一か月。
宇宙警察本部へ何度も足を運んだ。
グレイと話した。
警備部門とも話した。
航行照会担当とも話した。
システム担当とも揉めた。
宇宙管理局では役員へ一人ずつ説明した。
技術部門へ聞いた。
医療班へ基準を求めた。
宇宙連邦連盟とも調整した。
フレイは、その全ての意見を一つの文書へまとめ直した。
「……できた」
ペルシアが小さく言った。
「はい」
リリアも、少しだけ笑う。
「ようやくですね」
「ほんとにね」
ペルシアは画面をスクロールした。
第一章、目的。
未探索領域における航行の安全を確保し、遭難、事故及び救援困難事案の発生を抑制すること。
第二章、区域指定。
外縁警戒区域。
規制区域。
特別規制区域。
第三章、航行許可。
規制区域以深への進入は原則禁止。ただし、管理局の許可を受けた任務について例外を認める。
第四章、許可基準。
船体。
推進。
通信。
護衛。
救援。
医療。
操縦要員。
交代基準。
撤退基準。
指揮系統。
第五章、宇宙警察との連携。
許可情報の共有。
無許可船への警告。
進路変更。
状況確認。
救難船の例外。
悪質な無許可進入への警察対応。
最後まで見たペルシアは、ゆっくり椅子へ座った。
「……長かった」
「まだ素案です」
フレイが言う。
ペルシアの顔が止まる。
「今、それ言う?」
「重要ですので」
「一か月頑張った人に?」
「これから役員審議、宇宙警察との正式協議、宇宙連邦連盟への意見照会、運用細則の作成が残っています」
「聞きたくなかった」
ペルシアは机へ突っ伏した。
「終わってないじゃない」
「始まったところです」
「もっと嫌な言い方になった」
リリアがとうとう笑った。
「でも、ペルシアさん」
「何?」
「一か月前は、まだ『こうしたい』という話だけでした」
ペルシアが少しだけ顔を上げる。
リリアは中央画面を見る。
「今は、宇宙警察もどう動くのか分かっています。管理局側も、何を条件に許可するのか決まりました。少なくとも、素案として人に見せられるところまでは来ました」
ペルシアはしばらく何も言わなかった。
確かにそうだった。
一か月前。
グレイの本部長室で話した時には、ただの考えだった。
未探索領域を原則禁止にする。
許可制にする。
宇宙警察にも止めてもらう。
それだけ。
今は違う。
どこから止めるのか。
誰が許可するのか。
何を満たせば行けるのか。
無許可で入ろうとした船をどうするのか。
救助の場合はどうするのか。
少なくとも答えられる。
「……そうね」
ペルシアは身体を起こした。
そして、もう一度表紙を見る。
「形にはなったわね」
「はい」
リリアが頷く。
ジェームズも画面を見ながら低く言う。
「悪くない」
ペルシアが振り向いた。
「今、褒めた?」
「感想を言っただけだ」
「もう一回言って」
「断る」
「何でよ」
「面倒だからだ」
「ほら、フレイ。ジェームズの方が分かりやすい」
「比較する必要はありません」
いつものやり取りが戻る。
だがペルシアは、もう一度だけ画面へ目を向けた。
今回の規則が成立したとしても、未探索領域から危険がなくなるわけではない。
粉塵帯は突然生まれるかもしれない。
通信は途切れる。
船は壊れる。
人間は判断を誤る。
規則一つで、宇宙そのものを安全にはできない。
それでも。
何も決めずに送り出すよりはいい。
誰か一人が何とかしてくれることを、計画と呼ぶよりはいい。
「フレイ」
「はい」
「役員会へ出す」
フレイがペルシアを見る。
先ほどまで机へ突っ伏していた人間とは違う。ペルシアの目はもう、次へ向いていた。
「正式に審議にかける。リリア、警察側にも同じ版を送って。グレイにも、これで持っていくって伝えて」
「承知しました」
「それと、連盟にも意見照会を出す。ただし、今回の調査事故の責任の話とは分けて。規則の話だけ」
「整理します」
フレイがすぐに記録する。
「あと」
ペルシアは一度だけ考えた。
「表紙の下に、制定理由を一文入れたい」
「どのような内容でしょうか」
ペルシアは北部未探索領域から戻ってきた調査船を思い出していた。
壊れかけた船。
先に離脱した護衛艦。
粉塵帯。
そして、帰還した時にはまともに睡眠時間すら答えられなくなっていたリュウジ。
「誰かの能力に頼らなければ帰還できない計画を、安全な計画とは認めない」
リリアの表情が僅かに変わる。
フレイは数秒黙り、それから静かに頷いた。
「規則本文ではなく、制定趣旨として整理します」
「お願い」
ペルシアは小さく笑った。
一か月かけて。
ようやく。
考えだったものが、規則の形になった。
まだ素案。
まだ承認されていない。
これから修正もされる。
反対も出るだろう。
それでも。
最初の線は、引けた。
人が未知へ進むことを止めるためではない。
未知へ進んだ人間が、ちゃんと帰ってくるための線だった。
ーーーー
未探索領域への新しい航行規則を形にするため、ペルシアとリリアが宇宙管理局と宇宙警察の間を駆け回っていた一か月。その一方で、フォクス達も決して暇をしていたわけではなかった。
むしろ、気がつけば宇宙管理局のあちこちに四人の姿があることが当たり前になりつつあった。
操縦訓練区画では、フォクスとファルコが管理局所属のパイロット達を相手に実機とシミュレーターを使った操縦支援を行っていた。フォクスは派手な機動よりも判断の順序と帰還可能性を重視し、訓練生が操作を誤ってもすぐ答えを与えず、何を見落としたのかを自分で考えさせる。一方のファルコは、相変わらず言葉こそ荒いものの、高速機動から必ず戻る基点を意識させ、救助対象を抱えた状態でどこまで攻め、どこで引くのかを繰り返し叩き込んでいた。
「そこでさらに追うな。戻れ」
「ですが、まだ対象機との距離は――」
「距離の話してんじゃねぇよ。救助艇を後ろに抱えてんだぞ。自分だけなら好きに突っ込めるが、今のお前は後ろまで連れて帰る側だろ」
ファルコが訓練席の背後から言うと、訓練中のパイロットは慌てて機体を基準航路へ戻す。以前のファルコなら、もっと速く、もっと前へという部分を先に見せていただろう。しかしリュウジとの訓練を経験してからは、「戻る場所を残す」という考え方が明らかに増えていた。
フォクスは横から操縦ログを確認し、静かに付け加える。
「今の離脱判断自体は悪くない。ただ、判断が一つ遅い。敵を振り切ってから救助対象を見るんじゃない。最初から救助対象を含めた機動を組め」
「はい」
「もう一度だ」
その頃、医療区画ではクリスタルが管理局医療班と救助班を相手に、現場での初期観察と情報伝達を指導していた。
「映像だけで病名を決めないで。現場から必要なのは診断ではなく、見えている事実よ。『重症だと思います』では医療側が判断できない。呼吸が浅い、反応が遅い、顔色が悪い、どこを押さえている、何分前から変化した。そういう情報を送って」
管理局の職員が真剣に端末へ書き込んでいく。
「それから、何か処置をすることだけが救命ではないわ。下手に動かさないこと、体温を落とさないこと、医療班へ正確に繋ぐこと。それも立派な処置よ」
以前ドルトムントでエリン達の乗務員訓練へ参加した経験も生きていた。客室乗務員がどこまで観察し、どこから医療へ渡すのか。その境界を一度見たことで、クリスタル自身の教え方も以前より具体的になっている。
そしてシステム部。
「ナウス、ここの照会処理、まだ一段多いよね?」
『肯定します。通常時の安全確認としては妥当ですが、緊急時には平均二・八秒の遅延が発生します』
「やっぱり。じゃあ緊急時だけショートカット権限を開けて、出力前に二段階認証を挟もう。権限そのものを削るんじゃなくて、経路を短くする感じ」
『合理的です。試験環境を構築します』
「うん。あと警察照会は切らないでね。救助判断と並行で走らせたいから」
『承知しました』
スリッピーは完全に馴染んでいた。
最近ではシステム部の職員から直接相談を受けることすらある。ナウスと二人で端末へ向かっている姿だけ見れば、どちらが外部協力者なのか分からないほどだった。
そんな日々が続いたある午後。
宇宙管理局の休憩区画に、フォクス、ファルコ、クリスタル、スリッピーが揃っていた。ペルシアも珍しく同席していたが、手には飲み物ではなく、未探索領域航行安全規則の修正資料がある。
ファルコがその分厚い資料を見るなり、露骨に嫌そうな顔をした。
「お前、最近ずっとそれだな」
「仕方ないでしょう。規則って『危ないから入っちゃ駄目』の一行じゃ終わらないのよ」
「知らねぇよ。こっちはその間、管理局の連中ばっかり訓練してんだぞ」
ペルシアが端末から顔を上げる。
「いいことじゃない。評判いいわよ」
「そういう話じゃねぇ」
「何?」
ファルコは椅子へ深く座り、腕を組んだ。
「俺達の訓練も、いい加減組んでくれ」
ペルシアの指が止まった。
「……ああ」
「忘れてただろ」
「忘れてない」
「今の間は何だ」
「思い出すための間」
「忘れてんじゃねぇか!」
スリッピーが吹き出し、クリスタルは額へ手を当てた。
「ペルシア、ファルコの言い方はともかく、私もそろそろ必要だと思うわ。私達は管理局の人達に教えるためだけにここへいるわけではないでしょう?」
「分かってるけど、今は規則制定で忙しいのよ。警察側の調整、役員会、連盟への意見照会、フレイから修正、また役員、またフレイ。訓練一個ちゃんと組もうと思ったら、想定から評価基準まで作らないと駄目でしょう? 今そこまで手が回らない」
「でも僕も訓練したいな。システムばっかり触ってると、アーウィンに乗った時に身体が鈍りそうだし」
スリッピーまで加わる。
フォクスも少し考えてから口を開いた。
「管理局に協力すること自体に異論はない。ただ、チームとしての連携は維持したい。前回ドルトムントでやった訓練から時間も経っている」
「フォクスまで?」
「必要だ」
三対一。
ファルコを入れれば四対一だった。
ペルシアはしばらく全員を見ると、やがて資料を机へ置いた。
「……じゃあ、またエリン達にお願いしようか」
ファルコが眉を上げる。
「またドルトムントか?」
「だって設備あるし、リュウジもいるし、エリン達の客室訓練もできるし。前回かなり良かったでしょう?」
「俺は構わない」
フォクスが答える。
「私も。エリン達から学べることはまだあると思うわ」
「僕も賛成!」
「俺はリュウジともう一回やれるなら何でもいい」
「ファルコ、それ絶対勝負するつもりでしょう」
「訓練だ」
「顔が違う」
ペルシアは笑いながら携帯端末を取り出した。
「じゃあ、タツヤ班長に聞いてみる」
◇
ドルトムント財閥旅行会社。
十四班。
タツヤ班長の端末が鳴ったのは、午後の書類確認をしていた時だった。
画面に表示された名前を見て、タツヤ班長は少しだけ眉を上げる。
「……ペルシア?」
通話を開く。
「もしもし?」
『タツヤ班長、久しぶり』
「久しぶり。どうしたの?」
『お願いがあるんだけど』
「その入り方、嫌な予感しかしないなぁ」
『失礼ね。今回は普通のお願いよ』
「ペルシアの普通って、あまり信用できないんだよね」
『最近みんなそれ言うのよ』
「理由があるんじゃない?」
『まあいいわ。それより、フォクス達の訓練。またそっちでお願いできない?』
タツヤ班長の手が止まった。
「訓練?」
『うん。こっちで管理局職員の指導ばっかりしてもらってるんだけど、ファルコ達から自分達の訓練もやれって言われたの。でも私、今未探索領域の規則で手いっぱいで、ちゃんとした想定を組んでる余裕がなくて』
「それで十四班?」
『そう。前回良かったし。リュウジに操縦、エリンに客室側を見てもらえれば、かなり濃い訓練できるでしょう?』
「まあ……聞くだけなら聞いてみるよ。リュウジとエリンに」
『ありがと。さすがタツヤ班長』
「ただね」
そこでタツヤ班長の声が変わった。
ペルシアもすぐに気づいた。
『何?』
電話の向こうで、先ほどまでの軽さが少し引く。
タツヤ班長は十四班のフロアを見渡した。以前なら聞こえていた雑談が少ない。ククルとエマは端末へ向かい、ミラとランも必要以上に静かに作業している。ガーネットは乗務表を確認しているが、その顔には疲労が見えた。
エリンは少し離れた場所で、新しく届いた人員配置表を見ている。
その表情は硬い。
「今、十四班の空気が最悪なんだよ」
ペルシアが黙った。
『……何があったの?』
「一個じゃないんだよね」
タツヤ班長は小さく息を吐いた。
「まずリュウジ。今、ナッシュの指導をかなり任されてる」
『……リュウジが?』
「上の方針。S級の操縦を近くで学ばせたいってさ」
ペルシアの声が少し低くなる。
『それ、前に復帰便へ乗せた時の続き?』
「そう。最初は見学と基礎訓練だけだったんだけど、段階的に実技も増えてる」
『リュウジ、何て?』
「最初は何も言ってなかったよ。仕事だからって」
それは、ペルシアにも容易に想像できた。
リュウジならそう言う。
誰の息子だから嫌だとも言わない。
必要な仕事ならやる。
教えろと言われれば教える。
ただし。
「最近は?」
ペルシアが尋ねる。
「……イライラし始めてる」
その答えは意外だった。
『リュウジが?』
「うん。かなり珍しいよ」
タツヤ班長は椅子へ深く身体を預けた。
「言うことを聞かないんだよ、ナッシュが。リュウジが『今日はこの操作まで』って言っても先へやる。指定された航路から外れて自分なりのやり方を試す。訓練後にログを見ながら理由を聞かれても、『結果は合ってる』って返す」
ペルシアは何も言わなかった。
それは以前のナッシュと変わらない。
結果的に事故にならなければ問題はない。数値が許容範囲なら判断過程を問われる理由が分からない。そういう考え方は、カイエと衝突した頃からあった。
「リュウジも最初は淡々と説明してたんだけどね。『俺の操作を真似する必要はない。ただ、指示した条件は守れ』って。でもナッシュは、リュウジが自分の判断を認めてないって受け取るみたいで」
『最悪の噛み合わなさね』
「そうなんだよ」
『リュウジ、怒った?』
「まだ怒鳴ったりはしてない。でも、この前訓練終わった後に、ナッシュが勝手に追加操作した時かな。リュウジが操縦席から立って、『勝手にやるなら、俺が教える意味がない』って言った」
ペルシアが少し黙る。
リュウジがそこまで言うのは相当だった。
『……それ、本気でイライラしてるわね』
「俺もそう思う」
『エリンは?』
今度はタツヤ班長がすぐに答えなかった。
十四班の向こう側。
エリンは人員配置表を閉じたところだった。
「エリンは……別方向できつい」
『何?』
「十四班の乗務員が、ここ最近、上の都合でかなり入れ替えられてる」
ペルシアの顔から完全に笑みが消えた。
『入れ替え?』
「正式には人材育成とか配置最適化とか、そういう理由になってる。でも、十四班で長くやってた乗務員が別班へ出されて、その代わりに新しい人が入ってくる」
『エリンは了承したの?』
「ほとんど事後報告」
『……は?』
今度は明確にペルシアの声が変わった。
タツヤ班長は苦く笑う。
「その反応になるよね」
『だってエリン、チーフでしょ? 乗務員の配置を全部決める権限がないとしても、現場責任者へ何も聞かずに入れ替えるの?』
「そう。しかもね」
「まだあるの?」
『ある』
タツヤ班長は一瞬だけ周囲を確認し、声を少し落とした。
「新しく入ってきた人達、ナッシュの財閥と昔から付き合いのある家の出身者が妙に多い」
沈黙。
『……偶然?』
「分からない」
タツヤ班長は即答した。
「そこは俺も決めつけたくない。でも、偏ってるのは事実。だからエリンも余計に神経を使ってる」
『仕事はできる人達なの?』
「能力がないわけじゃない。でも問題はそこだけじゃないんだよ」
タツヤ班長の視線が、訓練記録へ落ちる。
「訓練を手抜きする人がいる。客室訓練を『実際にはそこまで起きない』って流したり、緊急脱出の反復を途中で切り上げたり。エリンがやり直しを指示すると、一応やる。でも、十四班が今まで当たり前にやってた基準とは違う」
ペルシアには、その光景が簡単に浮かんだ。
エリンは怒鳴らない。
一度説明する。
なぜ必要なのかを伝える。
それでも駄目なら、もう一度やらせる。
きっと今もそうしている。
「それで、元から十四班にいた乗務員達も疲れてきてる。配置を変えられた人の中には、そのままドルトムントを辞めた人もいる」
『……』
「カイエのことがあったばかりだろ?」
その名前が出た瞬間、ペルシアの表情が僅かに曇った。
「エリン、それをかなり気にしてるんだよ。自分がもっと何とかできたんじゃないかって。また十四班から人が辞めたって聞くたびに、表には出さないけど、明らかに落ち込んでる」
『エリンが悪いわけじゃないでしょ』
「分かってるよ。俺もそう言ってる。でもエリンは、頭で分かってても気にするからね」
ペルシアは椅子の背から身体を起こしていた。
いつもの「訓練お願い」という軽い電話だったはずなのに、もうそんな空気ではない。
『ククル達は?』
「残ってる。エマも、ミラも、ランも、ガーネットも。ただ、みんな思うところはあるよ」
『そりゃそうでしょうね』
「特にククルは、新しく来た人が訓練を適当にやると露骨に顔に出る」
『想像できる』
「エマが止めてる」
『もっと想像できる』
ほんの少しだけ、二人の声にいつもの調子が戻った。
だが長くは続かなかった。
ペルシアは静かに尋ねた。
『タツヤ班長は?』
「俺?」
『うん。大丈夫?』
今度はタツヤ班長が少し黙った。
「……まあ、班長だからね」
『それ答えになってない』
「ペルシアに言われるとは思わなかったなぁ」
『私だって統括官になったのよ。そういう誤魔化し分かるようになったから』
「成長したねぇ」
『茶化さない』
「はいはい」
タツヤ班長は苦笑した。
「正直、しんどいよ。ナッシュの件も、人員の件も、上からは全部『育成』『組織運用』って言われる。でも現場でその結果を受けるのは、エリン達だからね」
ペルシアは何も言わず聞いていた。
「だから訓練の話も、俺としてはやりたい。むしろ今の十四班には、外から違う空気が入るのも悪くないと思う。フォクス達ならみんな知ってるしね」
『じゃあ――』
「でも、俺だけで決めたくない」
タツヤ班長が穏やかに遮る。
「リュウジとエリンに聞いてみるよ。二人が今、それを受けられる状態かどうかも含めて」
『うん。それでお願い』
ペルシアもすぐに引いた。
以前の彼女なら「じゃあ明日ね」と日程まで先に決めていたかもしれない。だが今は違う。
『無理なら無理でいいから』
「珍しいね」
『何が?』
「ペルシアがそんなこと言うの」
『失礼ね。私だって相手の都合くらい考えるわよ』
「昔よりはね」
『タツヤ班長』
「ごめんごめん」
少し笑った後、ペルシアは声を柔らかくした。
『エリンに、私が心配してたって言わなくていいからね』
「何で?」
『絶対『大丈夫』って返してくるから』
「そうだろうね」
『リュウジにも言わなくていい』
「そっちは?」
『あっちは「問題ない」って言う』
タツヤ班長はとうとう笑った。
「よく分かってるねぇ」
『長い付き合いだから』
「分かった。とりあえず二人には訓練の話だけ聞いてみるよ」
『お願い。フォクス達には私から待たせる』
「うん」
『それと、タツヤ班長』
「何?」
一瞬だけ間があった。
『何か、本当にまずくなったら連絡して』
タツヤ班長の表情が僅かに変わった。
『私、もうドルトムントの人間じゃないし、十四班のことに勝手に口出しするつもりはない。でも、聞くくらいはできるから』
「……うん」
『エリン達にもそう言っておいて』
「分かった。ありがとう」
『じゃあね』
「また」
通話が切れた。
ペルシアはしばらく暗くなった画面を見ていた。
「……最悪な空気、ね」
「何かあったの?」
いつの間にか近くへ来ていたクリスタルが尋ねる。
フォクス達もこちらを見ていた。
ペルシアは少し考えた後、端末を机へ置いた。
「訓練、すぐには決められないかも」
ファルコが眉を寄せる。
「何だよ」
「十四班、今ちょっと大変みたい」
「何があった?」
フォクスが静かに聞く。
ペルシアは首を横へ振った。
「まだ私が皆に話すことじゃない。タツヤ班長がリュウジとエリンに確認してくれるって」
フォクスは数秒ペルシアを見た後、それ以上聞かなかった。
「分かった」
クリスタルも頷く。
「なら待ちましょう」
「僕も大丈夫だよ」
スリッピーも続く。
最後にファルコが小さく舌打ちした。
「……仕方ねぇな」
ペルシアは少し笑った。
「一番訓練やれって言ってたのに、そういう時はちゃんと待つのね」
「うるせぇ」
いつもの返事だった。
だがペルシアの意識は、もう別の場所へ向いていた。
十四班。
自分がかつて守りたくて、それでも離れるしかなかった場所。
カイエが守ろうとして、最後にはそこを去った場所。
その場所が今、また上から少しずつ形を変えられている。
そして、その中心でエリンが心を痛め、リュウジが珍しく苛立ち、タツヤ班長が「空気が最悪」とまで口にした。
ペルシアは机の上に置かれた規則案を見た。
誰か一人の能力や我慢を、安全対策として数えない。
つい先ほどまで、その原則を未探索領域のために文書へ落としていた。
けれど。
人のいる組織も、同じなのかもしれない。
誰か一人が耐えれば回る。
誰か一人が優秀だから崩れない。
誰か一人が何とかする。
そんな状態を、安定しているとは呼べない。
「……エリン」
小さな声だった。
誰にも答えを求めたものではない。
ペルシアは一度だけ目を閉じ、それから再び規則案へ視線を戻した。
今はまだ、勝手に動く時ではない。
タツヤ班長が、リュウジとエリンに聞くと言った。
ならまずは待つ。
かつてなら、それが一番苦手だったペルシアが。
今はそれを選んだ。