サヴァイヴ〜ドルトムント財閥〜   作:一塔

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趣味

 ある日。

 

 午前中、リュウジは事務所で淡々と日誌を書いていた。

 出社は任意だと言われても、彼は“必要があるかどうか”ではなく“やるべきかどうか”で動く。端末に指を走らせ、項目を一つずつ埋めていく姿は、パイロットというより几帳面な書記官みたいだった。

 

 午後。

 十四班の乗務員たちは緊急時対応マニュアル訓練に入っていた。脱出導線の確認、客室の封鎖手順、乗客誘導、医療用パックの使用、パニック対応。実技と座学を繰り返し、身体に落とし込む訓練だ。

 

 その合間に、エリンとペルシアは耳にした。

 

――リュウジ、トレーニングルームにいるらしい。

 

 乗務員の訓練と同じ施設内にある、パイロット用の体力維持区画。

 行く理由は“気になるから”。それだけで十分だった。

 

 トレーニングルームの自動扉が開いた瞬間、空気の密度が違うと分かった。

 乾いた機械の匂い。消毒薬の残り香。汗の塩気。

 そして、耳の奥がじんわりするような、酸素が薄い感覚。

 

 壁面モニターには、ランニングマシンの数値が映っている。心拍、呼吸数、血中酸素飽和度、距離、傾斜。

 その中央――一台だけ、異様に高い負荷で稼働している機器があった。

 

 そこにリュウジがいた。

 

 息を吸い込むたび、胸郭が大きく広がり、吐くたびに細く鋭い呼気が漏れる。

 酸素供給はギリギリまでカットされている。訓練用の低酸素環境。

 その状態で、彼は走っている。

 

 汗が飛ぶ。

 滴が床に散る。

 額から、頬から、顎から、細い線になって落ちる。

 ランニングウェアの背中が濡れて、筋肉の動きがはっきり見える。

 

 ペルシアはカップの水を飲みながら、壁のモニターを凝視した。

 

「……あの状態でもう十キロも走ってるの」

 

 呟きは半分、感嘆で、半分、呆れだった。

 数字は嘘をつかない。距離表示が淡々と積み上がっている。

 

 隣でエリンはタオルで流れる汗を拭き、静かに息を吐いた。

 自分たちも訓練の合間だ。体は熱い。脚も重い。

 それでも、リュウジの負荷と比べると“別物”だった。

 

「……これがS級なのね」

 

 エリンがぽつりと言う。

 声は平静なのに、目の奥に小さなざわめきがある。

 驚きと、ある種の畏れ。

 

 今日の十四班の乗務員は、午後から緊急時の対応マニュアル訓練を実施していた。

 その合間にリュウジがトレーニングしていると聞き、様子を見に来た――ただそれだけだったはずなのに、目の前の光景は“見学”というより“確認”に近かった。

 

 この人は、本当にこういう人なのか。

 噂でも、肩書きでもなく、目で見て、確かめる。

 

 ペルシアがモニターから視線を外さずに言った。

 

「ねぇ、リュウジって休んでるのかな?」

 

 エリンはタオルを畳み、腕にかける。

 

「どうかしら。休みの日もトレーニングしたり、勉強したり……してるんじゃないかしら」

 

「だよねぇ」

 

 ペルシアは水を一口飲んで、唇を湿らせた。

 

「そういえば、資格試験があるって言ってたわね」

 

「ええ」

 

 エリンは頷く。

 

「S級パイロットだからって理由で、必要と思われる知識や資格は習得しなきゃ駄目みたいだし」

 

「それで普通に朝から出社して、日誌とかの通常業務もやってるんだ。大変だわ」

 

 ペルシアが肩をすくめる。

 本人は“当然”としてやっているのが余計に重い。

 

「そうね」

 

 エリンは小さく笑った。

 

「事務はしなくていいとは言ってるけど、結構、事務作業もできるから助かるのよね」

 

「わーお。私とは大違いだね」

 

 ペルシアがわざとらしく胸に手を当てる。

 

「そうなのよ」

 

 エリンが真剣な表情で言う。

 

 ペルシアが口を尖らせた。

 

「……悪気がないから余計に傷つくじゃない」

 

 エリンはようやく、少しだけ笑った。

 ペルシアの愚痴を“いつもの”として受け取っている笑いだ。

 

 モニターの中の距離表示が、さらに増える。

 十一キロ。

 息が荒くなるどころか、リュウジのフォームは崩れない。

 酸素が薄いはずなのに、歩幅は一定で、着地音も安定している。

 

 ペルシアが眉を寄せて言った。

 

「……少しはリフレッシュしてくれればいいんだけど」

 

 エリンは頷いた。

 

「そうね」

 

「何か趣味とかないのかな」

 

 ペルシアが首を傾げる。

 趣味があれば、息抜きができる。

 息抜きがあれば、心が折れにくい。

 

 エリンは考えるように視線を上げた。

 

「そう言われれば……聞いたことはないわね」

 

 ペルシアはカップをくるくる回し、ふと思いついたように言った。

 

「趣味があれば、少しはリュウジも気分転換になると思うけど」

 

「……そうね」

 

 エリンはモニターを見つめたまま、ため息のように言う。

 リュウジは“休む”という概念が薄い。

 休むのが下手な人ほど、いざという時に壊れる。

 

 ペルシアが口角を上げる。

 

「案外、買い物とか好きかもよ」

 

「買い物?」

 

 エリンが首を傾げた。

 

「そう。前に二人で行った時、楽しそうだったわよ」

 

 ペルシアの声に、いたずらっぽい響きが混じる。

 エリンは真面目な顔のまま、しっかり考え始めた。

 

「……たかられるのが好きなのかしら」

 

「はい、悪口」

 

 ペルシアが即ツッコミを入れる。

 エリンはハッとして、少しだけ頬を赤くした。

 

「悪口じゃないわ。分析よ」

 

「分析が鋭すぎるのよ」

 

 ペルシアが笑い、エリンも小さく笑った。

 その笑いが、トレーニングルームの硬い空気をほんの少し緩める。

 

 モニターの数字が十二キロを示す。

 リュウジの汗は止まらない。

 しかし目は澄んでいる。

 苦しさの中でも、集中が途切れていない。

 

 エリンはその横顔を見て、ふと、心のどこかがちくりと痛んだ。

 この人は“英雄”として扱われる。

 S級として期待される。

 守るべきものが多い。

 だからこそ、いつも一人で背負い込みがちだ。

 

(……少しだけでも、気が抜ける場所があればいいのに)

 

 ペルシアがエリンの横顔を覗き込んだ。

 

「まぁでも」

 

 軽い声で、しかし中身は真面目に。

 

「今度の休み、エリンと被ってるんでしょ? どこか遊びに行ってくれば?」

 

 エリンは一瞬だけ目を丸くした。

 

「……私が?」

 

「そう、あなたが」

 

 ペルシアは当然のように頷く。

 

「リュウジとさ。ついでに趣味とか見つけさせなよ。買い物でも、食べ歩きでも、なんでも」

 

 エリンはモニターから目を離し、少し考え込む。

 確かに、休みが重なる日は珍しい。

 仕事の話ばかりでない時間を作るのは、悪くない。

 

「……そうね」

 

 エリンはゆっくり頷いた。

 

「ちょっと聞いてみようかしら」

 

 ペルシアがにやりと笑う。

 

「よろしい」

 

「その顔やめなさい」

 

 エリンが小声で言うと、ペルシアは肩を揺らして笑った。

 

 その時、モニターのアラートが一瞬だけ点滅した。

 血中酸素が規定ラインをわずかに下回ったサイン。

 

 エリンの表情がすっと引き締まる。

 ペルシアも笑みを消し、リュウジを見た。

 

 しかしリュウジは、足取りを変えない。

 呼吸を少しだけ深くし、身体を微調整するように肩の角度を変える。

 それだけで数値が戻り、アラートが消えた。

 

 ――まるで機械みたいに、自分を制御している。

 

 ペルシアが息を吐く。

 

「……ほんと、化け物」

 

 褒め言葉だ。

 でも、同時に少し怖い言葉でもある。

 

 エリンはタオルを握り直し、目を細めた。

 

「……“凄い”だけじゃないわね」

 

「ん?」

 

「自分を壊さないように制御してる。限界を知ってる。だから余計に……休んでほしい」

 

 エリンの声は、さっきより少し柔らかい。

 心配が混じっている。

 

 ペルシアは少しだけ驚いた顔をして、すぐに笑った。

 

「へぇ。エリン、随分やさしい口調になったじゃない」

 

「うるさい」

 

 エリンはそっぽを向く。

 でも否定しない。

 

 遠くで、訓練開始のブザーが鳴った。

 乗務員たちの次の訓練に向けた合図。

 休憩時間は終わる。

 

 エリンは最後にもう一度、モニターの中のリュウジを見た。

 彼は走り続けている。

 汗を飛ばしながら、淡々と、静かに。

 

(……今度、休みの日に聞いてみよう)

 

 どこかへ行かない?

 少しだけ、仕事を忘れて。

 

 エリンはそう心に決め、ペルシアと共にトレーニングルームを後にした。

 扉が閉まる直前、モニターの距離表示が十三キロを超えたのが見えた。

 

ーーーー

 

 トレーニングルームから戻ってきたリュウジは、明らかに“空気”が違っていた。

 汗の匂いは残っていない。代わりに、薄い石鹸の香りがふわりと漂う。きっとシャワーを浴びて、髪も軽く乾かしてきたのだろう。濡れた名残のある前髪が、額にほんの少しだけ落ちている。

 

 それでも、身体の奥に残る熱は消えていない。

 筋肉を酷使した後特有の、芯の温度。

 呼吸は整っているのに、目の奥の集中だけは、まだ完全には抜け切っていない。

 

 事務所に戻ると、いつもの音が迎えた。

 端末の打鍵音、プリンターの駆動音、紙を捲る音。

 昼の緊迫が嘘みたいに、十四班の日常がそこにある。

 

 リュウジは自席に向かい、端末のスリープを解除した。

 濡れた手で触らないよう、指先が自然と丁寧になる。

 机上には午前に書いていた日誌の画面が残っている。

 トレーニング、シャワー、戻ってきてすぐ――何事もなかったかのように続きの作業に入ろうとする、その“切り替え”が、エリンには少しだけ胸に刺さった。

 

(この人……本当に休まない)

 

 ペルシアの言葉がよぎる。

 “趣味とかないのかな”

 “少しはリフレッシュしてくれればいいのに”

 

 エリンは、足を止めた。

 こういうことは、考えているだけでは何も変わらない。

 聞くなら今。

 休みが重なっているタイミングも、今しかない。

 

 エリンは歩き出し、リュウジの席の横へ立った。

 近づくほど、石鹸の香りがはっきりする。清潔で、薄い。

 それが妙に“生活の匂い”で、さっきまでの“英雄の背中”とは違うものに見えた。

 

 リュウジは気配に気づき、すぐに立ち上がる。

 姿勢が良すぎて、椅子がほとんど音を立てない。

 

「エリンさん。お疲れさまです」

 

 敬語。

 いつも通り。

 でも声が少し低い。トレーニング後だからだろう。

 

 エリンは、いつもの“業務口調”で入ろうとして――やめた。

 今日は、ちょっと違う話をしたい。

 

 だから、声を少しだけ柔らかくする。

 

「お疲れさま。……その、さっきまでトレーニングしてたのよね?」

 

「はい。訓練メニューの消化です」

 

 言い切るのが早い。

 “当たり前”の顔をする。

 エリンはそれを見て、心の中で小さくため息をついた。

 

「メニューって……あの低酸素のやつ?」

 

「ええ。酸素濃度を下げての長距離です」

 

 淡々と言うが、内容は淡々としていない。

 エリンは思わず眉を上げた。

 

「……あの状態で十キロ以上走ってたでしょう?」

 

 リュウジは一瞬だけ目を瞬かせた。

 モニターを見られていたことに気づいたのだろう。

 

「見てたんですか」

 

「偶然ね。乗務員の訓練の合間に、ペルシアが“覗こう”って言い出したの」

 

 リュウジの視線が、事務所の奥にいるペルシアへ向きかける。

 しかし今、ペルシアは端末の画面に顔を近づけ、何かを必死に入力している。――“仕事してるふり”が上手い。

 エリンはその様子を見て、少し笑った。

 

「……怒らないでね。別に監視してたわけじゃないの」

 

「怒ってません。むしろ、……申し訳ないです」

 

「え?」

 

 エリンが首を傾げると、リュウジは少し困ったように言った。

 

「訓練の合間に、余計な心配をさせたかもしれないので」

 

 この人は、こういうところがある。

 自分を鍛えることが“周りへの負担”だと感じる。

 それが優しさなのか、癖なのか、境界は曖昧だ。

 

 エリンは、そこで本題を思い出した。

 

 ――明日の休み。

 

 エリンは、ほんの少しだけ間を置いた。

 話の入口を探すように、視線を一度、机の端に落とす。

 そして、ゆっくり顔を上げた。

 

「ねぇ、リュウジ。明日の休みって……何してる?」

 

 リュウジの表情が止まった。

 理解するまでに、ほんの一拍。

 それから彼は、いつものように即答しようとして――言葉を探すように視線を上へ向けた。

 

「明日、ですか……」

 

「そう。明日。たまたま私も休みが重なってるの。……あなた、いつも“休みでも訓練”って言いそうだから、先に聞いておこうと思って」

 

 エリンは言ってから、少しだけ恥ずかしくなった。

 自分でも分かる。

 “誘ってる”に近い言い方だ。

 

 リュウジは真面目な顔のまま頷いた。

 

「明日は……午前に少し勉強をして、午後に体力維持をして……それから、資格の対策を――」

 

 エリンは、思わず目を閉じた。

 予想通りすぎて、逆に笑いそうになった。

 

「……全部“仕事みたいな休み”じゃない」

 

 エリンが小さく言うと、リュウジは一瞬だけ困った顔をした。

 そして、少しだけ口角を下げて言い訳するように言う。

 

「休む必要があるのは分かってるんですが……習慣というか……」

 

「うん。分かる。分かるけどね」

 

 エリンは口調をさらに柔らかくした。

 ここで責めたら、この人はきっと、もっと“正しく”なってしまう。

 だから、責めない。提案する。

 

「明日さ。……少しだけでいいから、外に出ない?」

 

 リュウジの目が、わずかに大きくなる。

 断る準備をする目ではなく、意外だという目。

 

「外……ですか」

 

「そう。気分転換。……趣味とか、好きなこととか、ないの?」

 

 エリンが尋ねると、リュウジは一瞬、言葉を失った。

 その“間”が、答えに近かった。

 

「……特には」

 

 やっぱり、と思う。

 “ない”のではなく、“考えたことがない”のだ。

 

 エリンは小さく笑い、肩をすくめた。

 

「じゃあ、作りましょう。趣味」

 

「……趣味を、作る」

 

 リュウジが鸚鵡返しに言い、少しだけ眉を寄せる。

 その真面目すぎる反応が、可笑しい。

 

 エリンは、思わず微笑んだ。

 

「大丈夫。難しいことじゃないわ。

 たとえば……買い物とか」

 

 リュウジがほんの少しだけ目を逸らした。

 “ペルシアと買い物”を思い出したのだろう。

 あの時のやり取り、そしてエリンに連行されたペルシアの姿。

 

 エリンは、慌てて言い足す。

 

「安心して。たかられる前提じゃないから」

 

「……」

 

 リュウジが小さく息を漏らす。笑いそうなのを堪えている。

 エリンは、そこで確信した。

 

(この人、笑う時は笑うんだ)

 

 少しだけ、心が軽くなる。

 

「それか、どこか食べに行くとか。歩くだけでもいいし。

 ……ほら、あなた。走るのは得意すぎるから、歩くくらいが丁度いいでしょ」

 

 リュウジは、ようやく小さく笑った。

 

「確かに……歩くのは、普段あまりしないかもしれません」

 

「でしょ?」

 

 エリンは頷く。

 押しつけにならないように、でも背中を押す。

 

「明日、少し時間くれる?

 午前の勉強のあとでもいいし、午後のトレーニングの前でもいい。

 ……あなたが“休む練習”をする時間」

 

 リュウジは、少しだけ迷った。

 迷い方が、真面目だ。

 自分の予定と、相手の提案を天秤にかけている。

 

 そして、ゆっくり頷いた。

 

「……分かりました。

 エリンさんが良ければ、少しだけ」

 

 その答えに、エリンは内心で小さくガッツポーズをした。

 表情には出さずに、穏やかに笑う。

 

「良かった」

 

 エリンは一歩だけ引いて、最後に付け足す。

 

「約束ね。明日、逃げたら怒るわよ」

 

「逃げません」

 

 リュウジは即答した。

 その即答が、子どもみたいで少し可笑しい。

 

 エリンは頷き、背中を向けかけて――ふと、足を止めた。

 

 石鹸の香り。

 濡れた前髪。

 汗を流しても消えない、芯の真面目さ。

 

 エリンは、ほんの少しだけ振り返り、柔らかく言った。

 

「……ちゃんと休むことも、操縦のうちよ。

 あなたが壊れたら、困る人がたくさんいるんだから」

 

 リュウジは一瞬、目を見開き――すぐに、いつもの敬語で頭を下げた。

 

「……ありがとうございます。気をつけます」

 

 エリンは微笑んで頷き、席へ戻った。

 

 その背中を、リュウジが見送っている。

 石鹸の香りの向こうで、ほんの少しだけ――彼の肩の力が抜けたように見えた。

 

ーーーー

 

 次の日。

 

 午前中、リュウジは“約束通り”に自分の予定を詰めすぎないよう調整した。

 ――と言っても、ゼロにはしない。彼の「少しだけ」は一般の感覚より多めだ。資格試験の過去問を一周して、苦手分野の確認をして、簡単なストレッチと呼吸訓練をして、それでようやく「今日はここまで」と区切った。

 

 時計が昼に近づくころ、リュウジは身支度を整えた。

 いつもの制服でもなく、トレーニングウェアでもなく、きれいめのシャツに上着。肩のラインが崩れないように、無意識に背筋が伸びる。

 

 待ち合わせ場所は、コロニー内の小さな通りに面した、目立たない角だった。

 大通りの喧騒から一歩外れた場所で、人の流れも緩やかだ。

 リュウジは少し早めに着き、壁面広告の光を避けるように影になった位置で立っていた。

 

 ――エリンを待つ間、妙に落ち着かない。

 自分が人と“遊び”の予定を入れることに慣れていないせいだ。

 戦闘でも操縦でもない。訓練でも点検でもない。

 ただ、誰かと昼を過ごす。それだけのことが、リュウジにとっては少し珍しい。

 

「早いわね」

 

 柔らかな声がして、リュウジは振り返った。

 

 エリンがいた。

 普段の仕事着とは違う。きちんとしたシンプルな装いなのに、どこか軽い。肩の力が抜けていて、髪もいつもより柔らかく揺れている。

 “チーフパーサー”の顔ではなく、今はただのエリンだ。

 

「お疲れさまです……じゃなくて」

 

 リュウジが言いかけて、口を止めた。

 エリンは小さく笑う。

 

「今日は休み。敬語でもいいけど、そんなに固くならなくていいのよ」

 

「……はい。気をつけます」

 

 結局、敬語が残る。

 でも、声は昨日より少しだけ軽い。

 

「よし。じゃあ行きましょ」

 

 エリンは歩き出し、リュウジも並んで歩いた。

 コロニーの昼は眩しい。人工太陽の光が白くて、壁面の金属やガラスが反射している。

 人々の話し声や足音が混ざる中で、エリンは迷いなく角を曲がり、また一つ曲がる。大通りから外れた小道は、人の気配がふっと薄くなる。

 

「……こっちって、あまり通らない道ですね」

 

 リュウジが言うと、エリンは振り返らずに答えた。

 

「そう。だから好きなの。混みすぎないし、落ち着く」

 

「落ち着く、ですか」

 

「うん。リュウジ、落ち着く場所って必要でしょ」

 

 その一言に、リュウジは返事を迷った。

 必要だと思う。でも、自分がそれを“必要だ”と認めるのは少し恥ずかしい。

 

 エリンはそんな迷いを追及しない。

 ただ、歩く速度をほんの少しだけ落とした。

 それが“合わせる”という優しさだと、リュウジは気づいてしまう。

 

 そして目的地に着く。

 

 小さな看板。派手さはない。

 壁は落ち着いた色で、入口のランプが昼でも柔らかく灯っている。

 扉を開けると、外の眩しさがすっと遮断された。

 

 中は少し薄暗い。

 薄暗いのに、不安ではない。

 むしろ光が柔らかいから、目が休まる。

 

 心地よい音楽が流れている。音量は控えめで、会話を邪魔しない。

 客はいるが、混みすぎていない。席と席の間にちゃんと空気がある。

 香りも強すぎず、料理の匂いがふわっと漂う程度。

 ――居心地の良さを作る条件が、ひとつずつ丁寧に揃っていた。

 

「ここが、エリンさんのおすすめ……」

 

 リュウジが小さく言うと、エリンは頷いた。

 

「そう。こじんまりしてるけど、味が良くてね。

 ……あと、店員さんが急かさないの。これ大事」

 

 リュウジは「確かに」と頷いた。

 急かされない、という条件を“重要”として挙げるのが、エリンらしい。

 

 案内された席は窓際ではなく、少し奥まった場所だった。

 外が見えない分、意識が店内に向く。

 落ち着けと言われているみたいで、リュウジは不思議と肩が軽くなる。

 

 エリンがメニューを開いて、さらりと言う。

 

「今日は、私が選んでもいい?」

 

「はい。……じゃなくて、お願いします」

 

 言い直してしまうところが、リュウジらしい。

 エリンはくすっと笑う。

 

「任せて」

 

 エリンは迷いなくいくつかを指差し、店員に注文を伝えた。

 手際がいい。声も柔らかい。

 乗務員の仕事で鍛えた“段取り”が、こんなところでも自然に出ている。

 

 店員が去り、二人だけになると、ふっと静けさが降りる。

 気まずい静けさではない。

 音楽が埋めてくれる静けさだ。

 

 エリンは水のグラスに指を添え、リュウジを見た。

 いつもの“評価する目”ではない。

 ただ、相手の状態を確かめる目。

 

「……どう? 落ち着けそう?」

 

 リュウジは店内を見回し、少しだけ息を吐いた。

 

「……落ち着きます。静かで、音も柔らかいです」

 

「でしょ」

 

 エリンが嬉しそうに笑う。

 その笑みが、仕事の時より少しだけ幼い。

 

 リュウジは、自分でも意外なほど素直に言葉が出た。

 

「こういう店、普段は来ないので……新鮮です」

 

「普段はどこで食べてるの?」

 

「……手早く済ませられるところです。

 食事は、燃料補給みたいなものなので」

 

 言った瞬間、リュウジは少し後悔した。

 冷たい言い方に聞こえただろうか、と。

 

 でもエリンは怒らない。

 ただ、軽く眉を上げた。

 

「燃料補給ね。……そういう人、たまにいるわ。

 でも、それだと味を忘れちゃうでしょ」

 

「味を……忘れる?」

 

 リュウジが聞き返すと、エリンはゆっくり頷いた。

 

「うん。味って、気持ちも一緒に整えるものだから。

 それに、今日みたいに“休む練習”をする日なら尚更」

 

 リュウジは、返す言葉を探した。

 正論だ。

 そして、彼女がそれを押し付けずに言っているのが分かる。

 

「……なるほど」

 

 短い言葉しか出なかった。

 でも、リュウジの中で何かが動いたのを、エリンは見逃さない。

 

「よし。じゃあ今日は“味を思い出す日”ね」

 

 エリンが軽く言って、リュウジは思わず口角を上げた。

 笑うほどではない。

 でも、硬さが少しだけほどける。

 

 しばらくして、料理が運ばれてきた。

 皿から立ち上る湯気が、薄暗い店内で柔らかく見える。

 香りが、鼻の奥に優しく広がる。

 

 エリンは一口食べて、満足そうに頷いた。

 

「うん。やっぱり美味しい」

 

 リュウジも口に運ぶ。

 温度と、塩気と、香草の香り。

 噛むたびに味が変わる。

 確かにこれは“燃料”とは違う。

 

「……美味しいです」

 

 リュウジが言うと、エリンは「でしょ」と笑った。

 その笑みは、どこか誇らしげだった。自分が選んだものを相手が気に入った時の、素直な喜び。

 

 食べながら、エリンはふと思い出したように言った。

 

「リュウジ、休みの日ってさ。

 “何かしなきゃ”って思うタイプ?」

 

 リュウジはフォークを止めた。

 答えは簡単なのに、口にするのが少し難しい。

 

「……はい。

 何もしないと、置いていかれる気がして」

 

 エリンは、すぐに「それ」と言いたげに頷いた。

 

「置いていかれる、ね。追いかけてくる人がいるって言ってたものね」

 

 リュウジはエリンとの会話を思い出して、少し照れたように目を逸らした。

 

「……ええ。います」

 

「でもさ」

 

 エリンは水を飲んでから、声を落とした。

 

「置いていかれるのが怖い人ほど、本当は“立ち止まる練習”も必要なのよ」

 

 リュウジは黙って聞いた。

 叱られている気はしない。

 ただ、言葉が胸に落ちる。

 

「今日みたいに、食べる。話す。

 そういうのも……きっと、操縦に繋がると思う」

 

 エリンがそう言った時、リュウジはようやく、自分が今どれだけ“静か”になっているかに気づいた。

 いつもなら、次の予定、次の訓練、次の資格。

 頭の中にリストが並ぶのに、今はそれが薄い。

 

 音楽が流れ、皿が少しずつ空になっていく。

 混みすぎない店内は、時間の流れまで柔らかくする。

 

 リュウジはふと、窓のない席の落ち着きを理解した。

 外の世界を遮断することで、“今ここ”に集中できる。

 操縦の集中と違う種類の集中だ。

 

 エリンが笑って言う。

 

「ね。こういうの、悪くないでしょ?」

 

 リュウジは小さく頷いた。

 

「……悪くないです」

 

 そして、素直に付け足した。

 

「ありがとうございます。連れてきてくれて」

 

 エリンは一瞬だけ目を見開き、すぐに微笑んだ。

 

「どういたしまして。

 今日は、まだ半分よ。食べ終わったら……少しだけ歩こうか」

 

 リュウジは、今度は迷わなかった。

 

「……はい。お願いします」

 

 石鹸の香りはもう薄れていた。

 代わりに、料理の温かい匂いと、静かな音楽が、二人の間に優しく残っていた。

 

ーーーー

 

 食後、二人は少し歩くことにした。

 

 レストランの扉を出ると、外の光はやっぱり眩しい。けれど先ほどまで薄暗い店内で目が休まっていたせいか、眩しさが不快というより“昼だな”と思わせる程度だった。コロニーの通りは相変わらず整然としている。清掃用ドローンの低い駆動音、広告ホログラムの淡い揺れ、人々の足音と会話が混ざり合い、生活のリズムが街に流れていた。

 

 エリンは歩幅を合わせるのが上手い。

 リュウジが無意識に速くなれば、自然に少し速くなる。

 リュウジが周囲に視線を巡らせて足を緩めれば、エリンもまた緩める。

 “乗務”の癖なのかもしれない。相手の呼吸を奪わない速度の選び方。

 

「……こうして歩くの、久しぶりだな」

 

 リュウジがぽつりと言うと、エリンは横目で彼を見た。

 

「でしょ。ほら、走るのは得意すぎるから」

 

「走る方が楽ですね。目的が明確なので」

 

 リュウジの言い方は真面目で、エリンは思わず笑う。

 

「目的が明確じゃない歩き方もあるのよ。景色を見るためとか、気分を整えるためとか」

 

「気分を整える……」

 

 リュウジは少し考え込むように呟いた。

 

 二人は人の流れから少し外れた、緑が多い通路に入った。人工の木々が並び、足元には柔らかい素材の歩道。座れるベンチが点々と置かれている。コロニーの生活区画の中でも、ここは“急がない人”のために作られた場所だ。

 

 エリンはそこで、さりげなく話題を切り替えた。

 

「ねぇ、リュウジって趣味とかあるの?」

 

 リュウジは一瞬、足を止めそうになった。趣味、という単語が自分の中にうまく引っかからないのだろう。すぐに歩き直しながら、苦笑して答える。

 

「趣味ですか……ないですね」

 

 その苦笑は、少し照れが混じっている。

 “ない”と言うのが恥ずかしいのか、もしくは“ない”と認めることが怖いのか。エリンにはどちらとも取れた。

 

「ほんとに? 一つも?」

 

 エリンが少しだけ食い下がると、リュウジは肩をすくめる。

 

「強いて言えば……訓練と勉強が趣味みたいなものですけど」

 

「それは趣味じゃなくて生存戦略よ」

 

 エリンが即答すると、リュウジは小さく笑った。

 

 その笑いに、エリンは少し安心する。

 この人は、ちゃんと笑える。

 それだけで、どこか救われる。

 

 エリンは歩きながら、ゆっくりと尋ねた。

 

「小さい頃に何かやった思い出で、“これ楽しかった!”って思うものとかないの? 遊びでも、好きだったことでも」

 

 リュウジの目が一瞬だけ遠くを見る。

 ほんのわずか、空気の温度が変わった気がした。

 

「……幼い時に両親を亡くしてから、ずっと孤児院にいましたし、八歳からはアストロノーツ養成学校にいましたので……あまり」

 

 言葉は淡々としている。

 でも“あまり”のところに、ほんの少しだけ引っかかりがあった。

 言わないだけで、何かはあったのかもしれない。

 ただ、思い出す必要のないものとして、棚の奥に押し込めている。

 

 エリンは、そこで深追いしなかった。

 いつもなら“チーフパーサーとしての聞き方”が勝ってしまうのに、今日は違う。休みの日。彼に“休む練習”をさせる日。

 

「そっか」

 

 エリンはそれだけ言って、歩道の端に植えられた低木を軽く指で撫でた。

 沈黙が落ちる。

 でも、嫌な沈黙ではない。

 言葉がなくても歩ける距離の沈黙。

 

 しばらく歩いていると、小さな広場に出た。中央に噴水があり、水が柔らかく跳ねている。子どもが走り回り、保護者が笑いながら見守っている。ベンチに座って昼休みを過ごす人もいる。生活の音がゆるやかに流れていた。

 

 リュウジは噴水を見て、少しだけ目を細めた。

 眩しさを避けるような仕草ではなく、何かを観察するような目。

 ――人の動き。空間の流れ。安全な距離。

 無意識に“把握”してしまう目だ。

 

 エリンはその横顔を見て、ふと柔らかく言った。

 

「ね。こういうの、どう?」

 

「……何がですか?」

 

「休みの日の過ごし方。何もしないで、ここで座って、ぼーっとするの」

 

 リュウジは少し考え、正直に答えた。

 

「……慣れません。落ち着かなくなりそうです」

 

 エリンは小さく笑う。

 

「でしょうね。だから練習なのよ」

 

 リュウジはまた苦笑した。

 苦笑だけど、拒絶ではない。

 少しだけ、受け入れる余地のある苦笑。

 

 そしてリュウジは、ぽつりと言った。

 

「……家でもできて、長く続く趣味が欲しいです」

 

 その言葉は、思ったよりも真剣だった。

 彼の中で“必要”が生まれている。

 それが嬉しくて、エリンは少しだけ声を明るくした。

 

「家でもできて、長く続く趣味ね」

 

「はい。トレーニングや勉強以外で」

 

「それ、すごく大事だと思う」

 

 エリンは噴水の水音を聞きながら、少し考え込む。

 家でできる。

 長く続く。

 気分転換になる。

 そして、リュウジの生活にちゃんと“役に立つ”要素があるもの。

 彼は“意味のないこと”が苦手だ。意味がないと続かない。

 

 エリンはそこで、答えを見つけた。

 

「なら、料理なんてどう?」

 

 リュウジは目を瞬かせた。

 

「料理……ですか?」

 

「ええ」

 

 エリンは頷き、指を立てて数えるみたいに言葉を並べる。

 

「料理なら家でもできるし、栄養バランスも考えられる。体を作るのって、パイロットには大事でしょ?

 それに、食事って気分にも関わる。自分で作れると、ちゃんと“休む時間”が生まれるのよ」

 

 リュウジは「確かに」とでも言いたげに、ゆっくり頷いていく。

 理屈が通っている。

 だから、彼の中にすっと入り込む。

 

 エリンは最後に、少しだけおどけるように付け足した。

 

「それに私が教えてあげられるわよ」

 

「……教えてもらえるんですか」

 

「当たり前でしょ。十四班の健康管理も私の役目だもの」

 

 エリンがそう言うと、リュウジはほんの少し笑った。

 その笑みは、さっきより柔らかい。

 

「確かに……エリンさんの料理は美味しいですもんね」

 

 言いながら、彼は少し照れたように視線を逸らした。

 褒め言葉を言い慣れていない照れ。

 それでも、言葉にしたのが偉い。

 

 エリンは軽く胸を張った。

 

「でしょ?」

 

 そして、すぐにいつもの調子に戻って言う。

 

「最初は簡単なやつ。包丁の持ち方とか火加減とか。

 あ、でもあなた、何でも完璧にやろうとしそうだから……失敗してもいいってこと、先に覚えてね」

 

「失敗しても……」

 

「そう。料理は失敗するもの。焦げたら次に焦がさない工夫をする。味が濃ければ次は薄くする。

 その積み重ねが“趣味”になるのよ」

 

 リュウジはしばらく考えた後、静かに頷いた。

 

「……分かりました。やってみたいです」

 

 その言葉を聞いた瞬間、エリンの胸の奥がふっと温かくなった。

 この人が、自分のために何かを始めようとしている。

 それは操縦でも、資格でもない。

 リュウジ自身の生活のためのもの。

 

 エリンは、少しだけ柔らかい声になった。

 

「よし。じゃあ決まりね。次の休みに、買い物から」

 

「買い物……」

 

 リュウジが一瞬だけ身構える。

 

「安心して。お金は私が出すから」

 

 エリンが言うと、リュウジは吹き出しそうになって、慌てて口元を押さえた。

 笑いを堪える仕草が、少し子どもっぽくて、エリンは思わず目を細めた。

 

「笑った」

 

「……すみません」

 

「謝らなくていいの。もっと笑いなさい」

 

 エリンの言葉に、リュウジは肩の力を少し抜いた。

 噴水の音が、二人の間を柔らかく満たす。

 行き交う人々の生活の気配が、遠くでゆるやかに続いている。

 

 こうして――

 リュウジの趣味が、一つ増えた。

 

 料理。

 

 それは“強くなるため”の道具ではなく、

 “壊れないため”の居場所になるかもしれない。

 

 エリンはそう思いながら、次の休みの献立を心の中でこっそり考え始めていた。

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