ある日。
午前中、リュウジは事務所で淡々と日誌を書いていた。
出社は任意だと言われても、彼は“必要があるかどうか”ではなく“やるべきかどうか”で動く。端末に指を走らせ、項目を一つずつ埋めていく姿は、パイロットというより几帳面な書記官みたいだった。
午後。
十四班の乗務員たちは緊急時対応マニュアル訓練に入っていた。脱出導線の確認、客室の封鎖手順、乗客誘導、医療用パックの使用、パニック対応。実技と座学を繰り返し、身体に落とし込む訓練だ。
その合間に、エリンとペルシアは耳にした。
――リュウジ、トレーニングルームにいるらしい。
乗務員の訓練と同じ施設内にある、パイロット用の体力維持区画。
行く理由は“気になるから”。それだけで十分だった。
トレーニングルームの自動扉が開いた瞬間、空気の密度が違うと分かった。
乾いた機械の匂い。消毒薬の残り香。汗の塩気。
そして、耳の奥がじんわりするような、酸素が薄い感覚。
壁面モニターには、ランニングマシンの数値が映っている。心拍、呼吸数、血中酸素飽和度、距離、傾斜。
その中央――一台だけ、異様に高い負荷で稼働している機器があった。
そこにリュウジがいた。
息を吸い込むたび、胸郭が大きく広がり、吐くたびに細く鋭い呼気が漏れる。
酸素供給はギリギリまでカットされている。訓練用の低酸素環境。
その状態で、彼は走っている。
汗が飛ぶ。
滴が床に散る。
額から、頬から、顎から、細い線になって落ちる。
ランニングウェアの背中が濡れて、筋肉の動きがはっきり見える。
ペルシアはカップの水を飲みながら、壁のモニターを凝視した。
「……あの状態でもう十キロも走ってるの」
呟きは半分、感嘆で、半分、呆れだった。
数字は嘘をつかない。距離表示が淡々と積み上がっている。
隣でエリンはタオルで流れる汗を拭き、静かに息を吐いた。
自分たちも訓練の合間だ。体は熱い。脚も重い。
それでも、リュウジの負荷と比べると“別物”だった。
「……これがS級なのね」
エリンがぽつりと言う。
声は平静なのに、目の奥に小さなざわめきがある。
驚きと、ある種の畏れ。
今日の十四班の乗務員は、午後から緊急時の対応マニュアル訓練を実施していた。
その合間にリュウジがトレーニングしていると聞き、様子を見に来た――ただそれだけだったはずなのに、目の前の光景は“見学”というより“確認”に近かった。
この人は、本当にこういう人なのか。
噂でも、肩書きでもなく、目で見て、確かめる。
ペルシアがモニターから視線を外さずに言った。
「ねぇ、リュウジって休んでるのかな?」
エリンはタオルを畳み、腕にかける。
「どうかしら。休みの日もトレーニングしたり、勉強したり……してるんじゃないかしら」
「だよねぇ」
ペルシアは水を一口飲んで、唇を湿らせた。
「そういえば、資格試験があるって言ってたわね」
「ええ」
エリンは頷く。
「S級パイロットだからって理由で、必要と思われる知識や資格は習得しなきゃ駄目みたいだし」
「それで普通に朝から出社して、日誌とかの通常業務もやってるんだ。大変だわ」
ペルシアが肩をすくめる。
本人は“当然”としてやっているのが余計に重い。
「そうね」
エリンは小さく笑った。
「事務はしなくていいとは言ってるけど、結構、事務作業もできるから助かるのよね」
「わーお。私とは大違いだね」
ペルシアがわざとらしく胸に手を当てる。
「そうなのよ」
エリンが真剣な表情で言う。
ペルシアが口を尖らせた。
「……悪気がないから余計に傷つくじゃない」
エリンはようやく、少しだけ笑った。
ペルシアの愚痴を“いつもの”として受け取っている笑いだ。
モニターの中の距離表示が、さらに増える。
十一キロ。
息が荒くなるどころか、リュウジのフォームは崩れない。
酸素が薄いはずなのに、歩幅は一定で、着地音も安定している。
ペルシアが眉を寄せて言った。
「……少しはリフレッシュしてくれればいいんだけど」
エリンは頷いた。
「そうね」
「何か趣味とかないのかな」
ペルシアが首を傾げる。
趣味があれば、息抜きができる。
息抜きがあれば、心が折れにくい。
エリンは考えるように視線を上げた。
「そう言われれば……聞いたことはないわね」
ペルシアはカップをくるくる回し、ふと思いついたように言った。
「趣味があれば、少しはリュウジも気分転換になると思うけど」
「……そうね」
エリンはモニターを見つめたまま、ため息のように言う。
リュウジは“休む”という概念が薄い。
休むのが下手な人ほど、いざという時に壊れる。
ペルシアが口角を上げる。
「案外、買い物とか好きかもよ」
「買い物?」
エリンが首を傾げた。
「そう。前に二人で行った時、楽しそうだったわよ」
ペルシアの声に、いたずらっぽい響きが混じる。
エリンは真面目な顔のまま、しっかり考え始めた。
「……たかられるのが好きなのかしら」
「はい、悪口」
ペルシアが即ツッコミを入れる。
エリンはハッとして、少しだけ頬を赤くした。
「悪口じゃないわ。分析よ」
「分析が鋭すぎるのよ」
ペルシアが笑い、エリンも小さく笑った。
その笑いが、トレーニングルームの硬い空気をほんの少し緩める。
モニターの数字が十二キロを示す。
リュウジの汗は止まらない。
しかし目は澄んでいる。
苦しさの中でも、集中が途切れていない。
エリンはその横顔を見て、ふと、心のどこかがちくりと痛んだ。
この人は“英雄”として扱われる。
S級として期待される。
守るべきものが多い。
だからこそ、いつも一人で背負い込みがちだ。
(……少しだけでも、気が抜ける場所があればいいのに)
ペルシアがエリンの横顔を覗き込んだ。
「まぁでも」
軽い声で、しかし中身は真面目に。
「今度の休み、エリンと被ってるんでしょ? どこか遊びに行ってくれば?」
エリンは一瞬だけ目を丸くした。
「……私が?」
「そう、あなたが」
ペルシアは当然のように頷く。
「リュウジとさ。ついでに趣味とか見つけさせなよ。買い物でも、食べ歩きでも、なんでも」
エリンはモニターから目を離し、少し考え込む。
確かに、休みが重なる日は珍しい。
仕事の話ばかりでない時間を作るのは、悪くない。
「……そうね」
エリンはゆっくり頷いた。
「ちょっと聞いてみようかしら」
ペルシアがにやりと笑う。
「よろしい」
「その顔やめなさい」
エリンが小声で言うと、ペルシアは肩を揺らして笑った。
その時、モニターのアラートが一瞬だけ点滅した。
血中酸素が規定ラインをわずかに下回ったサイン。
エリンの表情がすっと引き締まる。
ペルシアも笑みを消し、リュウジを見た。
しかしリュウジは、足取りを変えない。
呼吸を少しだけ深くし、身体を微調整するように肩の角度を変える。
それだけで数値が戻り、アラートが消えた。
――まるで機械みたいに、自分を制御している。
ペルシアが息を吐く。
「……ほんと、化け物」
褒め言葉だ。
でも、同時に少し怖い言葉でもある。
エリンはタオルを握り直し、目を細めた。
「……“凄い”だけじゃないわね」
「ん?」
「自分を壊さないように制御してる。限界を知ってる。だから余計に……休んでほしい」
エリンの声は、さっきより少し柔らかい。
心配が混じっている。
ペルシアは少しだけ驚いた顔をして、すぐに笑った。
「へぇ。エリン、随分やさしい口調になったじゃない」
「うるさい」
エリンはそっぽを向く。
でも否定しない。
遠くで、訓練開始のブザーが鳴った。
乗務員たちの次の訓練に向けた合図。
休憩時間は終わる。
エリンは最後にもう一度、モニターの中のリュウジを見た。
彼は走り続けている。
汗を飛ばしながら、淡々と、静かに。
(……今度、休みの日に聞いてみよう)
どこかへ行かない?
少しだけ、仕事を忘れて。
エリンはそう心に決め、ペルシアと共にトレーニングルームを後にした。
扉が閉まる直前、モニターの距離表示が十三キロを超えたのが見えた。
ーーーー
トレーニングルームから戻ってきたリュウジは、明らかに“空気”が違っていた。
汗の匂いは残っていない。代わりに、薄い石鹸の香りがふわりと漂う。きっとシャワーを浴びて、髪も軽く乾かしてきたのだろう。濡れた名残のある前髪が、額にほんの少しだけ落ちている。
それでも、身体の奥に残る熱は消えていない。
筋肉を酷使した後特有の、芯の温度。
呼吸は整っているのに、目の奥の集中だけは、まだ完全には抜け切っていない。
事務所に戻ると、いつもの音が迎えた。
端末の打鍵音、プリンターの駆動音、紙を捲る音。
昼の緊迫が嘘みたいに、十四班の日常がそこにある。
リュウジは自席に向かい、端末のスリープを解除した。
濡れた手で触らないよう、指先が自然と丁寧になる。
机上には午前に書いていた日誌の画面が残っている。
トレーニング、シャワー、戻ってきてすぐ――何事もなかったかのように続きの作業に入ろうとする、その“切り替え”が、エリンには少しだけ胸に刺さった。
(この人……本当に休まない)
ペルシアの言葉がよぎる。
“趣味とかないのかな”
“少しはリフレッシュしてくれればいいのに”
エリンは、足を止めた。
こういうことは、考えているだけでは何も変わらない。
聞くなら今。
休みが重なっているタイミングも、今しかない。
エリンは歩き出し、リュウジの席の横へ立った。
近づくほど、石鹸の香りがはっきりする。清潔で、薄い。
それが妙に“生活の匂い”で、さっきまでの“英雄の背中”とは違うものに見えた。
リュウジは気配に気づき、すぐに立ち上がる。
姿勢が良すぎて、椅子がほとんど音を立てない。
「エリンさん。お疲れさまです」
敬語。
いつも通り。
でも声が少し低い。トレーニング後だからだろう。
エリンは、いつもの“業務口調”で入ろうとして――やめた。
今日は、ちょっと違う話をしたい。
だから、声を少しだけ柔らかくする。
「お疲れさま。……その、さっきまでトレーニングしてたのよね?」
「はい。訓練メニューの消化です」
言い切るのが早い。
“当たり前”の顔をする。
エリンはそれを見て、心の中で小さくため息をついた。
「メニューって……あの低酸素のやつ?」
「ええ。酸素濃度を下げての長距離です」
淡々と言うが、内容は淡々としていない。
エリンは思わず眉を上げた。
「……あの状態で十キロ以上走ってたでしょう?」
リュウジは一瞬だけ目を瞬かせた。
モニターを見られていたことに気づいたのだろう。
「見てたんですか」
「偶然ね。乗務員の訓練の合間に、ペルシアが“覗こう”って言い出したの」
リュウジの視線が、事務所の奥にいるペルシアへ向きかける。
しかし今、ペルシアは端末の画面に顔を近づけ、何かを必死に入力している。――“仕事してるふり”が上手い。
エリンはその様子を見て、少し笑った。
「……怒らないでね。別に監視してたわけじゃないの」
「怒ってません。むしろ、……申し訳ないです」
「え?」
エリンが首を傾げると、リュウジは少し困ったように言った。
「訓練の合間に、余計な心配をさせたかもしれないので」
この人は、こういうところがある。
自分を鍛えることが“周りへの負担”だと感じる。
それが優しさなのか、癖なのか、境界は曖昧だ。
エリンは、そこで本題を思い出した。
――明日の休み。
エリンは、ほんの少しだけ間を置いた。
話の入口を探すように、視線を一度、机の端に落とす。
そして、ゆっくり顔を上げた。
「ねぇ、リュウジ。明日の休みって……何してる?」
リュウジの表情が止まった。
理解するまでに、ほんの一拍。
それから彼は、いつものように即答しようとして――言葉を探すように視線を上へ向けた。
「明日、ですか……」
「そう。明日。たまたま私も休みが重なってるの。……あなた、いつも“休みでも訓練”って言いそうだから、先に聞いておこうと思って」
エリンは言ってから、少しだけ恥ずかしくなった。
自分でも分かる。
“誘ってる”に近い言い方だ。
リュウジは真面目な顔のまま頷いた。
「明日は……午前に少し勉強をして、午後に体力維持をして……それから、資格の対策を――」
エリンは、思わず目を閉じた。
予想通りすぎて、逆に笑いそうになった。
「……全部“仕事みたいな休み”じゃない」
エリンが小さく言うと、リュウジは一瞬だけ困った顔をした。
そして、少しだけ口角を下げて言い訳するように言う。
「休む必要があるのは分かってるんですが……習慣というか……」
「うん。分かる。分かるけどね」
エリンは口調をさらに柔らかくした。
ここで責めたら、この人はきっと、もっと“正しく”なってしまう。
だから、責めない。提案する。
「明日さ。……少しだけでいいから、外に出ない?」
リュウジの目が、わずかに大きくなる。
断る準備をする目ではなく、意外だという目。
「外……ですか」
「そう。気分転換。……趣味とか、好きなこととか、ないの?」
エリンが尋ねると、リュウジは一瞬、言葉を失った。
その“間”が、答えに近かった。
「……特には」
やっぱり、と思う。
“ない”のではなく、“考えたことがない”のだ。
エリンは小さく笑い、肩をすくめた。
「じゃあ、作りましょう。趣味」
「……趣味を、作る」
リュウジが鸚鵡返しに言い、少しだけ眉を寄せる。
その真面目すぎる反応が、可笑しい。
エリンは、思わず微笑んだ。
「大丈夫。難しいことじゃないわ。
たとえば……買い物とか」
リュウジがほんの少しだけ目を逸らした。
“ペルシアと買い物”を思い出したのだろう。
あの時のやり取り、そしてエリンに連行されたペルシアの姿。
エリンは、慌てて言い足す。
「安心して。たかられる前提じゃないから」
「……」
リュウジが小さく息を漏らす。笑いそうなのを堪えている。
エリンは、そこで確信した。
(この人、笑う時は笑うんだ)
少しだけ、心が軽くなる。
「それか、どこか食べに行くとか。歩くだけでもいいし。
……ほら、あなた。走るのは得意すぎるから、歩くくらいが丁度いいでしょ」
リュウジは、ようやく小さく笑った。
「確かに……歩くのは、普段あまりしないかもしれません」
「でしょ?」
エリンは頷く。
押しつけにならないように、でも背中を押す。
「明日、少し時間くれる?
午前の勉強のあとでもいいし、午後のトレーニングの前でもいい。
……あなたが“休む練習”をする時間」
リュウジは、少しだけ迷った。
迷い方が、真面目だ。
自分の予定と、相手の提案を天秤にかけている。
そして、ゆっくり頷いた。
「……分かりました。
エリンさんが良ければ、少しだけ」
その答えに、エリンは内心で小さくガッツポーズをした。
表情には出さずに、穏やかに笑う。
「良かった」
エリンは一歩だけ引いて、最後に付け足す。
「約束ね。明日、逃げたら怒るわよ」
「逃げません」
リュウジは即答した。
その即答が、子どもみたいで少し可笑しい。
エリンは頷き、背中を向けかけて――ふと、足を止めた。
石鹸の香り。
濡れた前髪。
汗を流しても消えない、芯の真面目さ。
エリンは、ほんの少しだけ振り返り、柔らかく言った。
「……ちゃんと休むことも、操縦のうちよ。
あなたが壊れたら、困る人がたくさんいるんだから」
リュウジは一瞬、目を見開き――すぐに、いつもの敬語で頭を下げた。
「……ありがとうございます。気をつけます」
エリンは微笑んで頷き、席へ戻った。
その背中を、リュウジが見送っている。
石鹸の香りの向こうで、ほんの少しだけ――彼の肩の力が抜けたように見えた。
ーーーー
次の日。
午前中、リュウジは“約束通り”に自分の予定を詰めすぎないよう調整した。
――と言っても、ゼロにはしない。彼の「少しだけ」は一般の感覚より多めだ。資格試験の過去問を一周して、苦手分野の確認をして、簡単なストレッチと呼吸訓練をして、それでようやく「今日はここまで」と区切った。
時計が昼に近づくころ、リュウジは身支度を整えた。
いつもの制服でもなく、トレーニングウェアでもなく、きれいめのシャツに上着。肩のラインが崩れないように、無意識に背筋が伸びる。
待ち合わせ場所は、コロニー内の小さな通りに面した、目立たない角だった。
大通りの喧騒から一歩外れた場所で、人の流れも緩やかだ。
リュウジは少し早めに着き、壁面広告の光を避けるように影になった位置で立っていた。
――エリンを待つ間、妙に落ち着かない。
自分が人と“遊び”の予定を入れることに慣れていないせいだ。
戦闘でも操縦でもない。訓練でも点検でもない。
ただ、誰かと昼を過ごす。それだけのことが、リュウジにとっては少し珍しい。
「早いわね」
柔らかな声がして、リュウジは振り返った。
エリンがいた。
普段の仕事着とは違う。きちんとしたシンプルな装いなのに、どこか軽い。肩の力が抜けていて、髪もいつもより柔らかく揺れている。
“チーフパーサー”の顔ではなく、今はただのエリンだ。
「お疲れさまです……じゃなくて」
リュウジが言いかけて、口を止めた。
エリンは小さく笑う。
「今日は休み。敬語でもいいけど、そんなに固くならなくていいのよ」
「……はい。気をつけます」
結局、敬語が残る。
でも、声は昨日より少しだけ軽い。
「よし。じゃあ行きましょ」
エリンは歩き出し、リュウジも並んで歩いた。
コロニーの昼は眩しい。人工太陽の光が白くて、壁面の金属やガラスが反射している。
人々の話し声や足音が混ざる中で、エリンは迷いなく角を曲がり、また一つ曲がる。大通りから外れた小道は、人の気配がふっと薄くなる。
「……こっちって、あまり通らない道ですね」
リュウジが言うと、エリンは振り返らずに答えた。
「そう。だから好きなの。混みすぎないし、落ち着く」
「落ち着く、ですか」
「うん。リュウジ、落ち着く場所って必要でしょ」
その一言に、リュウジは返事を迷った。
必要だと思う。でも、自分がそれを“必要だ”と認めるのは少し恥ずかしい。
エリンはそんな迷いを追及しない。
ただ、歩く速度をほんの少しだけ落とした。
それが“合わせる”という優しさだと、リュウジは気づいてしまう。
そして目的地に着く。
小さな看板。派手さはない。
壁は落ち着いた色で、入口のランプが昼でも柔らかく灯っている。
扉を開けると、外の眩しさがすっと遮断された。
中は少し薄暗い。
薄暗いのに、不安ではない。
むしろ光が柔らかいから、目が休まる。
心地よい音楽が流れている。音量は控えめで、会話を邪魔しない。
客はいるが、混みすぎていない。席と席の間にちゃんと空気がある。
香りも強すぎず、料理の匂いがふわっと漂う程度。
――居心地の良さを作る条件が、ひとつずつ丁寧に揃っていた。
「ここが、エリンさんのおすすめ……」
リュウジが小さく言うと、エリンは頷いた。
「そう。こじんまりしてるけど、味が良くてね。
……あと、店員さんが急かさないの。これ大事」
リュウジは「確かに」と頷いた。
急かされない、という条件を“重要”として挙げるのが、エリンらしい。
案内された席は窓際ではなく、少し奥まった場所だった。
外が見えない分、意識が店内に向く。
落ち着けと言われているみたいで、リュウジは不思議と肩が軽くなる。
エリンがメニューを開いて、さらりと言う。
「今日は、私が選んでもいい?」
「はい。……じゃなくて、お願いします」
言い直してしまうところが、リュウジらしい。
エリンはくすっと笑う。
「任せて」
エリンは迷いなくいくつかを指差し、店員に注文を伝えた。
手際がいい。声も柔らかい。
乗務員の仕事で鍛えた“段取り”が、こんなところでも自然に出ている。
店員が去り、二人だけになると、ふっと静けさが降りる。
気まずい静けさではない。
音楽が埋めてくれる静けさだ。
エリンは水のグラスに指を添え、リュウジを見た。
いつもの“評価する目”ではない。
ただ、相手の状態を確かめる目。
「……どう? 落ち着けそう?」
リュウジは店内を見回し、少しだけ息を吐いた。
「……落ち着きます。静かで、音も柔らかいです」
「でしょ」
エリンが嬉しそうに笑う。
その笑みが、仕事の時より少しだけ幼い。
リュウジは、自分でも意外なほど素直に言葉が出た。
「こういう店、普段は来ないので……新鮮です」
「普段はどこで食べてるの?」
「……手早く済ませられるところです。
食事は、燃料補給みたいなものなので」
言った瞬間、リュウジは少し後悔した。
冷たい言い方に聞こえただろうか、と。
でもエリンは怒らない。
ただ、軽く眉を上げた。
「燃料補給ね。……そういう人、たまにいるわ。
でも、それだと味を忘れちゃうでしょ」
「味を……忘れる?」
リュウジが聞き返すと、エリンはゆっくり頷いた。
「うん。味って、気持ちも一緒に整えるものだから。
それに、今日みたいに“休む練習”をする日なら尚更」
リュウジは、返す言葉を探した。
正論だ。
そして、彼女がそれを押し付けずに言っているのが分かる。
「……なるほど」
短い言葉しか出なかった。
でも、リュウジの中で何かが動いたのを、エリンは見逃さない。
「よし。じゃあ今日は“味を思い出す日”ね」
エリンが軽く言って、リュウジは思わず口角を上げた。
笑うほどではない。
でも、硬さが少しだけほどける。
しばらくして、料理が運ばれてきた。
皿から立ち上る湯気が、薄暗い店内で柔らかく見える。
香りが、鼻の奥に優しく広がる。
エリンは一口食べて、満足そうに頷いた。
「うん。やっぱり美味しい」
リュウジも口に運ぶ。
温度と、塩気と、香草の香り。
噛むたびに味が変わる。
確かにこれは“燃料”とは違う。
「……美味しいです」
リュウジが言うと、エリンは「でしょ」と笑った。
その笑みは、どこか誇らしげだった。自分が選んだものを相手が気に入った時の、素直な喜び。
食べながら、エリンはふと思い出したように言った。
「リュウジ、休みの日ってさ。
“何かしなきゃ”って思うタイプ?」
リュウジはフォークを止めた。
答えは簡単なのに、口にするのが少し難しい。
「……はい。
何もしないと、置いていかれる気がして」
エリンは、すぐに「それ」と言いたげに頷いた。
「置いていかれる、ね。追いかけてくる人がいるって言ってたものね」
リュウジはエリンとの会話を思い出して、少し照れたように目を逸らした。
「……ええ。います」
「でもさ」
エリンは水を飲んでから、声を落とした。
「置いていかれるのが怖い人ほど、本当は“立ち止まる練習”も必要なのよ」
リュウジは黙って聞いた。
叱られている気はしない。
ただ、言葉が胸に落ちる。
「今日みたいに、食べる。話す。
そういうのも……きっと、操縦に繋がると思う」
エリンがそう言った時、リュウジはようやく、自分が今どれだけ“静か”になっているかに気づいた。
いつもなら、次の予定、次の訓練、次の資格。
頭の中にリストが並ぶのに、今はそれが薄い。
音楽が流れ、皿が少しずつ空になっていく。
混みすぎない店内は、時間の流れまで柔らかくする。
リュウジはふと、窓のない席の落ち着きを理解した。
外の世界を遮断することで、“今ここ”に集中できる。
操縦の集中と違う種類の集中だ。
エリンが笑って言う。
「ね。こういうの、悪くないでしょ?」
リュウジは小さく頷いた。
「……悪くないです」
そして、素直に付け足した。
「ありがとうございます。連れてきてくれて」
エリンは一瞬だけ目を見開き、すぐに微笑んだ。
「どういたしまして。
今日は、まだ半分よ。食べ終わったら……少しだけ歩こうか」
リュウジは、今度は迷わなかった。
「……はい。お願いします」
石鹸の香りはもう薄れていた。
代わりに、料理の温かい匂いと、静かな音楽が、二人の間に優しく残っていた。
ーーーー
食後、二人は少し歩くことにした。
レストランの扉を出ると、外の光はやっぱり眩しい。けれど先ほどまで薄暗い店内で目が休まっていたせいか、眩しさが不快というより“昼だな”と思わせる程度だった。コロニーの通りは相変わらず整然としている。清掃用ドローンの低い駆動音、広告ホログラムの淡い揺れ、人々の足音と会話が混ざり合い、生活のリズムが街に流れていた。
エリンは歩幅を合わせるのが上手い。
リュウジが無意識に速くなれば、自然に少し速くなる。
リュウジが周囲に視線を巡らせて足を緩めれば、エリンもまた緩める。
“乗務”の癖なのかもしれない。相手の呼吸を奪わない速度の選び方。
「……こうして歩くの、久しぶりだな」
リュウジがぽつりと言うと、エリンは横目で彼を見た。
「でしょ。ほら、走るのは得意すぎるから」
「走る方が楽ですね。目的が明確なので」
リュウジの言い方は真面目で、エリンは思わず笑う。
「目的が明確じゃない歩き方もあるのよ。景色を見るためとか、気分を整えるためとか」
「気分を整える……」
リュウジは少し考え込むように呟いた。
二人は人の流れから少し外れた、緑が多い通路に入った。人工の木々が並び、足元には柔らかい素材の歩道。座れるベンチが点々と置かれている。コロニーの生活区画の中でも、ここは“急がない人”のために作られた場所だ。
エリンはそこで、さりげなく話題を切り替えた。
「ねぇ、リュウジって趣味とかあるの?」
リュウジは一瞬、足を止めそうになった。趣味、という単語が自分の中にうまく引っかからないのだろう。すぐに歩き直しながら、苦笑して答える。
「趣味ですか……ないですね」
その苦笑は、少し照れが混じっている。
“ない”と言うのが恥ずかしいのか、もしくは“ない”と認めることが怖いのか。エリンにはどちらとも取れた。
「ほんとに? 一つも?」
エリンが少しだけ食い下がると、リュウジは肩をすくめる。
「強いて言えば……訓練と勉強が趣味みたいなものですけど」
「それは趣味じゃなくて生存戦略よ」
エリンが即答すると、リュウジは小さく笑った。
その笑いに、エリンは少し安心する。
この人は、ちゃんと笑える。
それだけで、どこか救われる。
エリンは歩きながら、ゆっくりと尋ねた。
「小さい頃に何かやった思い出で、“これ楽しかった!”って思うものとかないの? 遊びでも、好きだったことでも」
リュウジの目が一瞬だけ遠くを見る。
ほんのわずか、空気の温度が変わった気がした。
「……幼い時に両親を亡くしてから、ずっと孤児院にいましたし、八歳からはアストロノーツ養成学校にいましたので……あまり」
言葉は淡々としている。
でも“あまり”のところに、ほんの少しだけ引っかかりがあった。
言わないだけで、何かはあったのかもしれない。
ただ、思い出す必要のないものとして、棚の奥に押し込めている。
エリンは、そこで深追いしなかった。
いつもなら“チーフパーサーとしての聞き方”が勝ってしまうのに、今日は違う。休みの日。彼に“休む練習”をさせる日。
「そっか」
エリンはそれだけ言って、歩道の端に植えられた低木を軽く指で撫でた。
沈黙が落ちる。
でも、嫌な沈黙ではない。
言葉がなくても歩ける距離の沈黙。
しばらく歩いていると、小さな広場に出た。中央に噴水があり、水が柔らかく跳ねている。子どもが走り回り、保護者が笑いながら見守っている。ベンチに座って昼休みを過ごす人もいる。生活の音がゆるやかに流れていた。
リュウジは噴水を見て、少しだけ目を細めた。
眩しさを避けるような仕草ではなく、何かを観察するような目。
――人の動き。空間の流れ。安全な距離。
無意識に“把握”してしまう目だ。
エリンはその横顔を見て、ふと柔らかく言った。
「ね。こういうの、どう?」
「……何がですか?」
「休みの日の過ごし方。何もしないで、ここで座って、ぼーっとするの」
リュウジは少し考え、正直に答えた。
「……慣れません。落ち着かなくなりそうです」
エリンは小さく笑う。
「でしょうね。だから練習なのよ」
リュウジはまた苦笑した。
苦笑だけど、拒絶ではない。
少しだけ、受け入れる余地のある苦笑。
そしてリュウジは、ぽつりと言った。
「……家でもできて、長く続く趣味が欲しいです」
その言葉は、思ったよりも真剣だった。
彼の中で“必要”が生まれている。
それが嬉しくて、エリンは少しだけ声を明るくした。
「家でもできて、長く続く趣味ね」
「はい。トレーニングや勉強以外で」
「それ、すごく大事だと思う」
エリンは噴水の水音を聞きながら、少し考え込む。
家でできる。
長く続く。
気分転換になる。
そして、リュウジの生活にちゃんと“役に立つ”要素があるもの。
彼は“意味のないこと”が苦手だ。意味がないと続かない。
エリンはそこで、答えを見つけた。
「なら、料理なんてどう?」
リュウジは目を瞬かせた。
「料理……ですか?」
「ええ」
エリンは頷き、指を立てて数えるみたいに言葉を並べる。
「料理なら家でもできるし、栄養バランスも考えられる。体を作るのって、パイロットには大事でしょ?
それに、食事って気分にも関わる。自分で作れると、ちゃんと“休む時間”が生まれるのよ」
リュウジは「確かに」とでも言いたげに、ゆっくり頷いていく。
理屈が通っている。
だから、彼の中にすっと入り込む。
エリンは最後に、少しだけおどけるように付け足した。
「それに私が教えてあげられるわよ」
「……教えてもらえるんですか」
「当たり前でしょ。十四班の健康管理も私の役目だもの」
エリンがそう言うと、リュウジはほんの少し笑った。
その笑みは、さっきより柔らかい。
「確かに……エリンさんの料理は美味しいですもんね」
言いながら、彼は少し照れたように視線を逸らした。
褒め言葉を言い慣れていない照れ。
それでも、言葉にしたのが偉い。
エリンは軽く胸を張った。
「でしょ?」
そして、すぐにいつもの調子に戻って言う。
「最初は簡単なやつ。包丁の持ち方とか火加減とか。
あ、でもあなた、何でも完璧にやろうとしそうだから……失敗してもいいってこと、先に覚えてね」
「失敗しても……」
「そう。料理は失敗するもの。焦げたら次に焦がさない工夫をする。味が濃ければ次は薄くする。
その積み重ねが“趣味”になるのよ」
リュウジはしばらく考えた後、静かに頷いた。
「……分かりました。やってみたいです」
その言葉を聞いた瞬間、エリンの胸の奥がふっと温かくなった。
この人が、自分のために何かを始めようとしている。
それは操縦でも、資格でもない。
リュウジ自身の生活のためのもの。
エリンは、少しだけ柔らかい声になった。
「よし。じゃあ決まりね。次の休みに、買い物から」
「買い物……」
リュウジが一瞬だけ身構える。
「安心して。お金は私が出すから」
エリンが言うと、リュウジは吹き出しそうになって、慌てて口元を押さえた。
笑いを堪える仕草が、少し子どもっぽくて、エリンは思わず目を細めた。
「笑った」
「……すみません」
「謝らなくていいの。もっと笑いなさい」
エリンの言葉に、リュウジは肩の力を少し抜いた。
噴水の音が、二人の間を柔らかく満たす。
行き交う人々の生活の気配が、遠くでゆるやかに続いている。
こうして――
リュウジの趣味が、一つ増えた。
料理。
それは“強くなるため”の道具ではなく、
“壊れないため”の居場所になるかもしれない。
エリンはそう思いながら、次の休みの献立を心の中でこっそり考え始めていた。