サヴァイヴ〜ドルトムント財閥〜   作:一塔

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壮行会

 十四班の事務所は、今日も淡々と回っていた。

 

 端末の打鍵音。端から端へ運ばれる書類。乗務員の訓練予定の確認。次便のブリーフィング資料の更新。

 リュウジは自席で日誌の追記をしていた。フライトの反省点――いや、反省というより、次に同じ状況が来た時に“どう楽にするか”の記録だ。客室の負担、揺れの吸収、重力制御の癖。数値として残すべきことと、感覚として残すべきことを分けて書く。

 

 エリンは少し離れた場所で、補充要員のスケジュール調整をしている。必要な人員は、必要な場所へ。全体の流れが滞らないように、数字と現場の“匂い”を両方で捉えながら組み立てる。

 ペルシアはペルシアで、端末に向かって眉間にしわを寄せ、会議録の清書に悪戦苦闘していた。やればできる。やりたくないだけだ。

 

 タツヤは自分の机に肘をつき、いつものようにのらりくらりと周囲を眺めながら、必要なときだけ口を挟む。

 だが、“守るべきもの”が絡んだ瞬間だけ、その眼差しが鋭くなることをリュウジはもう知っている。

 

 平穏。

 日常。

 ――そのはずだった。

 

「おい! リュウジ!」

 

 突然、事務所の空気が裂けた。

 

 低く、張りのある声。

 ただ大きいだけじゃない。声に“圧”がある。

 聞こえた瞬間、周囲の打鍵音が一瞬止まった。人の視線が、入口へ吸い寄せられる。

 

 そこに立っていたのは――

 

 紺色の詰襟。金の肩章。深い庇の制帽。

 胸元で、S級パイロット証が光っている。

 鋭い目つき、整った輪郭、堂々とした体格。歩き方ひとつで空気を支配するような男。

 

 その姿を見た瞬間、リュウジの背筋が反射で伸びた。

 

「ブライアン!?」

 

 声が少し上ずるのも仕方がない。

 “怪物”――そう呼ばれる存在が、目の前に現れたのだから。

 

 ペルシアは手元の端末から目も上げずに、盛大にため息を吐いた。

 

「はぁ……うるさいのが来たわね」

 

 声は小さいのに、毒は濃い。

 事務所の空気が微妙に和んだのは、彼女のこの一言のせいだろう。

 

 エリンはすぐに立ち上がり、礼儀正しく頭を下げた。

 

「ブライアンさん、こんにちは」

 

 “さん”付け。

 その声と姿勢が、彼女が相手をどう扱うかを物語っている。礼儀は払う。でも距離は詰めない。

 

 ブライアンはにやりと笑い、周囲を見渡した。

 

「相変わらず元気そうだな、ペルシアもエリンも」

 

 ペルシアは顔を上げ、笑顔を作る気もなく言い返す。

 

「元気に見えるなら、あなたの目が節穴なんじゃない?」

 

 ブライアンは楽しそうに肩を揺らした。

 

「相変わらず口が回る。いいことだ」

 

 そして次の瞬間、彼はわざとらしく声のトーンを軽くして言った。

 

「そろそろ俺の愛人にでもならないか?」

 

 冗談めかした笑い声。

 だが、場の空気を試すような言い方だった。

 

「は?」

 

 ペルシアの目が一気に冷える。

 

「誰があんたの」

 

 露骨に不機嫌。

 いつもなら軽口でいなす彼女が、今回は最初から刃を抜いている。

 ブライアンという男への“慣れ”と、“警戒”が同居している顔だ。

 

 エリンは何も言わない。

 ただ――その目が、ブライアンを見た。

 

 ゴミを見るような目。

 温度がない。

 冷たく、乾いていて、心底どうでもいいものを見る目。

 

 ブライアンはそれを面白がるように笑った。

 

「はは。怖い目をするな、エリン」

 

 そこへ、タツヤが椅子に座ったまま、片手を軽く上げる。

 

「うちのメンバーを口説かないでよ」

 

 呆れた声。

 けれどその一言には、線引きが入っていた。

 “ここは俺の班だ”という、静かな宣言。

 

 ブライアンは肩をすくめる。

 

「冗談だ。そんなに目を尖らせるな、タツヤ班長」

 

 タツヤはにこりともしない。

 

「それで今日はどうしたの?」

 

 仕事の話に引き戻す。

 空気を切り替えるのが、班長の技術だ。

 

 ブライアンは制帽の庇を指で軽く持ち上げ、少しだけ真面目な顔になった。

 

「アズベルト先生が未探索領域の調査に、一週間後に出る」

 

 その瞬間、事務所の空気が変わった。

 冗談の余韻が消え、静かな緊張が滑り込む。

 

 リュウジは反射で頷いていた。

 

「……そうか。そろそろその時期か」

 

 “古参のアズベルト”。

 コロニーでも三人しかいないS級のうち、最も長く“宙”を見続けてきた存在。

 未探索領域に出る――それは、単なる航行計画ではない。

 帰ってくる保証のない領域へ、“先生”はまた踏み込む。

 

 ブライアンは胸元の内ポケットから、封筒を取り出した。

 厚みのある、格式を感じさせる紙質。

 そこに金の箔押しで、簡潔な文字が入っている。

 

「そのための、明日の壮行会のチケットを持ってきた」

 

 ペルシアが眉を上げる。

 

「壮行会ねぇ……。あの先生、こういうの好きじゃなさそうだけど」

 

「嫌いだろうな」

 

 ブライアンは即答した。

 

「だが、必要だ。先生が嫌いでも、周囲が“送り出す”形を作るのは意味がある。

 誰が見送ったか、誰が背負ったか。そういうのが宙では――意外と効く」

 

 リュウジはその言葉を黙って聞いた。

 “怪物”が言うと、妙に説得力がある。

 危険な領域に行く者にとって、儀式はただの形式ではない。心の支柱になる。

 

 タツヤは腕を組み、軽く頷いた。

 

「なるほどね。で、チケットはリュウジのだけ?」

 

 ブライアンは口角を上げた。

 

「リュウジの分の他に――」

 

 彼は封筒を開け、複数枚のチケットを指で挟んで見せた。

 

「タツヤ、エリン、ペルシアの分もある」

 

 ペルシアが怪訝な顔をする。

 

「……なんで私まで?」

 

「お前もS級の周辺にいる女だろ」

 

 ブライアンは平然と言う。

 その言い方が、ペルシアの神経を逆撫でするのが分かっているような口調だった。

 

 ペルシアは舌打ちしかけて、飲み込む。

 

「言い方が最悪」

 

 エリンはチケットに視線を落とし、静かに言う。

 

「ありがとうございます。ですが、私たちは“周辺”ではありません。宇宙事業部の一員として、必要なら参加します」

 

 言葉は丁寧。

 でも棘がある。

 “線”を引く棘だ。

 

 ブライアンは愉快そうに笑い、チケットをタツヤの机に置いた。

 

「いい反応だ。……まあ、形式はどうでもいい。

 先生は一週間後に出る。

 明日はその前夜だ。お前らも来い。特にリュウジ」

 

 リュウジは視線を上げた。

 

「俺が?」

 

 ブライアンは鋭い目を細め、口元だけ笑う。

 

「英雄が見送ると、場が締まる」

 

 “英雄”。

 その言葉が、リュウジの胸の奥に微かな違和感を残す。

 自分で背負った称号ではない。

 周りが勝手に貼り付けたラベルだ。

 

 タツヤが、いつもののらりくらり口調で口を挟む。

 

「英雄ねぇ。本人、そういうの苦手だよ?」

 

 ブライアンは肩をすくめる。

 

「苦手でも出る。出席は義務じゃないが、出た方がいい。

 先生は“見てる”。口にしないだけでな」

 

 その言い方に、リュウジは何も言えなかった。

 アズベルトが見ている。

 確かに、あの人はそういう人だ。

 

 エリンがふと、リュウジを見た。

 昨日までより柔らかい口調で、静かに尋ねる。

 

「リュウジ、行くの?」

 

 リュウジは一拍置いて、頷いた。

 

「……はい。行きます」

 

 ペルシアが小さく息を吐く。

 

「ま、行くよね。あんた、そういうの断れない顔してるもん」

 

「断れないわけじゃない」

 

 リュウジが思わず言い返すと、ペルシアはにやりと笑った。

 

「じゃあ断ってみなさいよ」

 

「……」

 

 リュウジは黙った。

 言い返せない。

 “断れない顔”は、図星だった。

 

 ブライアンはそのやり取りを見て、さらに笑った。

 

「相変わらず面白いやつらだな」

 

 そして、わざとらしくエリンに顔を近づける。

 

「なあエリン。壮行会の後で――」

 

 その瞬間、タツヤの声が少しだけ低くなった。

 

「ブライアン」

 

 のらりくらり口調が消える。

 部下を守る時の声だ。

 

「それ以上、うちのチーフを弄るなら、俺は班長として怒るよ」

 

 事務所が一瞬、静まり返った。

 リュウジはタツヤの横顔を見た。

 “守る時”の顔だ。迷いがない。

 

 ブライアンは、初めて笑みを引っ込めた。

 鋭い目がタツヤを見て――次の瞬間、ふっと笑い直した。

 

「……分かった分かった。冗談だ。

 やっぱりお前、いい班長だな」

 

 そう言って、ブライアンは軽く手を振った。

 

「じゃあ、明日な。遅れるなよ。」

 

 最後の一言が、また余計だった。

 去り際まで騒がしい。

 

 扉が閉まると同時に、ペルシアが椅子に深くもたれた。

 

「はぁ……疲れた」

 

 エリンは小さく息を吐き、タツヤを見る。

 

「タツヤ班長、ありがとうございます」

 

「うんうん。どういたしまして」

 

 タツヤはいつもの調子に戻り、肩をすくめた。

 

「でも明日、行くなら準備しないとね。ドレスコードとかあるんじゃない?」

 

 ペルシアが不機嫌そうに言う。

 

「あるに決まってるじゃない。……最悪」

 

 リュウジはチケットを見下ろした。

 金の箔押しが光っている。

 

 アズベルト。

 未探索領域。

 壮行会。

 

 明日の夜は、きっと“いつもの仕事”とは違う緊張が走る。

 そして、そこには必ず――ブライアンもいる。

 

 リュウジは、息を吸って静かに吐いた。

 日常の中に、宙の影が差し込んできた。

 それでも自分は、目を逸らさない。

 

 チケットを手に取る指先が、自然と少しだけ強くなる。

 

ーーーー

 

 壮行会当日。

 

 コロニー中央区――ドルトムント財閥が保有する一流ホテルの最上階。

 天井は高く、壁面の一部が透明素材で、外の人工夜景が柔らかく見える。人工太陽が沈んだ後のコロニーは、昼とは違う“落ち着いた豪華さ”を纏う。通路の足元には淡いガイドライト。すれ違うスタッフの動きは静かで、靴音すら響かないように設計されているかのようだった。

 

 この階には、普段のリュウジが足を踏み入れることはほとんどない。

 仕事ならともかく、私用で来る場所ではない。

 それでも――今日は違う。

 

 リュウジは指定された待ち合わせのホールに先に着いていた。

 時間はまだ余裕がある。だが彼は、遅れることの方が気になって落ち着かない。

 人の流れを読むように視線を巡らせ、会場入口の位置と、エレベーターの動線、警備の配置、非常出口の表示まで一通り把握してしまう自分に苦笑する。

 

(……これはもう職業病だな)

 

 今日のリュウジは、紺でも黒でもない、落ち着いた深い色のスーツを着ていた。

 詰襟の制服とは違う。肩章も制帽もない。だが、背筋のまっすぐさは変わらない。

 ただ、いつもより少しだけ“人間らしい”格好に見えるのが不思議だった。

 

 胸元には、身分証としてのバッジ。S級パイロット証はここでは隠すように扱われる。

 目立てば目立つほど、余計な視線が寄る。

 それはリュウジ本人が一番よく分かっていた。

 

 ――だが、視線は寄る。

 

 ホテルの最上階は、空気が違う。

 ここにいる客は、最初から“見る側”の人間だ。

 誰が何を着ているか、誰が誰といるか。

 そういう情報を、呼吸と同じように拾う人間が集まる場所。

 

 リュウジは壁際の柱の影に立ち、あえて存在感を消していた。

 それでも、通り過ぎる人の視線が一瞬だけ止まる。

 S級という肩書きではなく、ただ顔立ちと立ち姿が目を引くのだろう。

 

 エレベーターの到着音が静かに鳴り、扉が開いた。

 

 現れたのは、エリンとペルシアだった。

 

 エリンはシンプルで品のあるドレス。色は落ち着いているのに、素材の光沢で“良いもの”だと分かる。髪はいつもより少しだけ丁寧に整えられていて、柔らかく肩に沿っている。

 ペルシアは反対に、華やかさを隠そうとしない。明るい金髪に似合う、少し攻めたデザイン。けれど露骨に派手ではなく、計算されたバランスで“目を奪う”側に立つ服だ。

 ――二人が並ぶと、仕事の時とは違う意味で強い。

 

 リュウジは一瞬、言葉を失った。

 そして、すぐにいつものように整えた声で言う。

 

「こんばんは。……綺麗ですね」

 

 エリンは微笑み、少しだけ頬を柔らかくした。

 

「ありがとう。リュウジも……似合ってる」

 

 いつもより柔らかい口調。

 ペルシアがすかさず、肘でエリンの脇腹を軽くつつく。

 

「ほら、言った。エリンもちゃんと褒めるじゃない」

 

「今はいいのよ、ペルシア」

 

「えー? いいじゃない。壮行会なんだし」

 

 ペルシアはリュウジの前に立ち、にやりと笑った。

 

「……惚れ直したでしょ?」

 

 不意打ちみたいな言い方。

 周りの視線もあるのに、平気で言う。

 

 リュウジは口元をわずかに上げ、肩をすくめた。

 

「惚れ直すって……」

 

 少し間を置いて、ペルシアの服装に視線を落とす。

 

「……馬子にも衣装だな」

 

 わざとらしく軽い調子。

 しかし、その言葉の瞬間。

 

「はぁ!?」

 

 ペルシアの声が上ずった。

 エリンの肩が小さく震える。笑いを堪えているのが分かる。

 

「今の、聞いた!? エリン!」

 

「聞こえたわ」

 

 エリンは涼しい顔で頷くが、目が少しだけ楽しそうだ。

 

「リュウジ、今のは――」

 

「冗談だ。分かってるだろ」

 

 リュウジがさらりと返すと、ペルシアはむっとした顔を作ってから、急に笑った。

 

「……ま、いいわ。私が衣装なら、あんたは何? 衣装着せられて固まってる棒?」

 

「棒は言い過ぎだろ」

 

「だって固いんだもん。もっと肩の力抜きなさいよ」

 

 ペルシアはそう言って、リュウジの襟元を勝手に整えようとする。

 リュウジは反射で後ろに引きかけて、しかし止まった。

 この場でそれを拒むと余計に目立つ。

 ……そう考えてしまう自分が、やっぱり“慣れてない”証拠だ。

 

 エリンがそっと手を伸ばし、ペルシアの手首を軽く押さえた。

 

「ペルシア。やりすぎ」

 

「はいはい。エリン、今日も怖い」

 

 軽口に見えて、ペルシアはちゃんと引く。

 この二人のバランスは、やっぱり“異常”だとリュウジは思った。

 

 その時、またエレベーターが開いた。

 

 タツヤが現れた。

 今日はいつもの班長の制服ではなく、きちんとしたスーツ。

 けれど“のらりくらり”した雰囲気は消えない。

 そして、その手を引かれるように小さな影がぴょこんと出てきた。

 

 ユイだ。

 

 小さなドレスに、可愛らしい靴。髪はきちんと結われていて、普段の保育園の姿とは別人みたいに“お嬢さん”になっている。

 だが、目の輝きは変わらない。人を見つけた瞬間に、まっすぐ走り出す目だ。

 

 ユイはリュウジを見つけるなり、ぱっと顔を明るくして、タツヤの手を振りほどくように駆け出した。

 

「リゅウジー!!」

 

 小さな靴が床を叩く音が、少しだけ響く。

 周りの大人が驚いて視線を向ける。

 だがユイは止まらない。

 

 そして――

 

 リュウジの前まで来ると、勢いよく飛び付いた。

 

 リュウジは反射で膝を落とし、ユイの体を受け止める。

 重さは軽い。だが抱きつく力は強い。

 それが、子どもの“信頼”の力だ。

 

「おっと……危ないだろ」

 

 叱る声なのに、柔らかい。

 ユイはにこにこしながら、リュウジの首にぎゅっと腕を回した。

 

「だって会いたかった!」

 

 その言葉に、ペルシアが口を尖らせる。

 

「なにそれ。ずるい」

 

「ペルシアさんもいる」

 

「私は“ついで”みたいに言われてる!」

 

 ユイはペルシアを見て、けらけら笑う。

 エリンはそんな二人を見て、目を細めた。

 タツヤは肩をすくめ、少し照れくさそうに言った。

 

「いやぁ……うちの娘、最近リュウジの話ばっかりでさ」

 

「タツヤ班長、それは……」

 

 リュウジが言いかけると、ユイが急に声を落とし、リュウジの耳元に“内緒話”みたいに呟いた。

 

「リュウジ、次はいつ来てくれる?」

 

 その一言が、胸の奥をちくりと刺した。

 子どもの“いつ”は、大人が思うよりずっと切実だ。

 会えた時間が楽しかった分、次を欲しがる。

 その純度の高さに、リュウジは一瞬、返事を迷った。

 

 だが、迷いは見せない。

 見せたらユイは不安になる。

 

 リュウジはユイを抱えたまま、少しだけ目線を合わせた。

 

「……またいつかな」

 

 ユイの目がぱっと明るくなる。

 

「ほんと!?」

 

「ああ。だけど、今日みたいに走って飛び付くのは禁止な」

 

「……はーい」

 

 返事は素直だが、表情は納得していない。

 その様子が可笑しくて、エリンが小さく笑った。

 

「ユイ、今日はいい子にしてたら、帰りにデザートよ」

 

「デザート!?」

 

 ユイはすぐに食いつく。

 エリンの“扱い方”は上手い。

 優しさと条件の出し方が絶妙だ。

 

 タツヤが小さく咳払いし、周囲の視線を意識して軽く言った。

 

「ほらほら。壮行会だよ。先生のところに行く前に、挨拶の順番決めようね」

 

 その言葉で、空気が少し締まる。

 ここは遊びの場ではない。

 未探索領域へ向かう“古参”を送り出す夜だ。

 

 リュウジはユイをそっと降ろし、エリンとペルシアに視線を向けた。

 エリンは静かに頷く。

 ペルシアは肩をすくめながらも、目は真剣だった。

 

 今夜はきっと、ブライアンもいる。

 アズベルトもいる。

 そして、政財界の大物たちも――このホテルの最上階に集う。

 

 豪華な照明の下で、にこやかな言葉が飛び交うだろう。

 だがその裏には、“宙へ送り出す覚悟”が流れている。

 

 リュウジは、自分のネクタイを無意識に整えた。

 逃げない。

 英雄という呼び名も、怪物の視線も、古参の背中も。

 

 ――全部、受け止めるためにここにいる。

 

 ユイがリュウジの手を握り、上を見上げて言った。

 

「リュウジ、今日は一緒?」

 

「一緒だ。迷子になるなよ」

 

「ならないもん!」

 

 小さな手の温度が、妙に現実的だった。

 それが、リュウジを“地に繋ぐ”錨のように感じられる。

 

 エリンが穏やかに言う。

 

「行きましょう。先生を待たせたら、怒られちゃう」

 

 ペルシアが鼻で笑う。

 

「先生、怒るっていうより、無言で圧かけてくるタイプでしょ」

 

「それが一番怖いのよ」

 

 エリンの一言に、タツヤが「確かに」と頷いた。

 

 四人と、ひとりの小さな女の子。

 十四班の“家族みたいな一団”は、ホテルの最上階の豪奢な通路を歩き出す。

 

 壮行会の会場へ。

 宙へ向かう者を送り出す夜へ。

 

ーーーー

 

 ホテル最上階の会場に足を踏み入れた瞬間、空気の密度が変わった。

 

 天井から垂れるシャンデリアの光は柔らかいのに、まるで刃物みたいに輪郭がはっきりしている。磨き上げられた床は鏡のように人影を映し、グラスの触れ合う音や低い笑い声が、上質な絨毯に吸われるように落ち着いて響いていた。

 “壮行会”――その言葉の響きとは裏腹に、ここに集まっているのは送り出す者の覚悟と、送り出される者の静かな緊張を嗅ぎ分ける人間ばかりだ。

 

 リュウジは背筋を伸ばしながら、会場を一度だけ見渡した。

 政財界の重鎮、宇宙連邦連盟の高官、ドルトムント財閥の幹部。制服の肩章や胸の徽章の違いが、立場の違いを遠慮なく示している。

 そして――同じ“宙”に属する者たち。

 パイロットや整備統括の顔、保安部の人間の配置。視線の動き、歩き方。

 すべてが自然と頭に入ってくる。消そうとしても消えない癖だ。

 

「リュウジ、固い」

 

 隣からペルシアが小声で刺してくる。ドレスの華やかさに負けない目の輝きで、彼女は会場の空気すら遊ぶように見ていた。

 

「お前が軽すぎるだけだろ」

 

 リュウジが普段通りの口調で返すと、ペルシアは勝ち誇ったように口角を上げる。

 

「ほら、今日はそれでいいのよ。変に礼儀正しくしたら逆に怪しまれるんだから」

 

「怪しまれる?」

 

「“英雄”が縮こまってると、周りが勝手に意味をつけるの。緊張してるのか、怒ってるのか、調子悪いのかってね」

 

 言っていることは皮肉なのに、指摘は的確だった。

 リュウジが返す言葉を探している間に、エリンが一歩前へ出る。会場の空気に溶け込むように、自然に“仕事の顔”へ切り替わっていた。

 

「まずはドルトムント側のご挨拶から。タツヤ班長、よろしくお願いします」

 

 タツヤはのらりくらりと笑う。

 

「りょーかい。こういうのは俺の仕事だしね」

 

 そして、ユイの手を軽く握り直した。

 ユイは先ほどまでリュウジのそばにいたが、会場に入るとすぐにタツヤの元へ戻り、今は父親の手をしっかり握っている。

 小さな手が、離れない。離してしまうと、この場の大人の波に呑まれることを本能で知っているみたいだった。

 

「ユイ、今日はいい子にできそう?」

 

 タツヤが屈んで言うと、ユイは真剣な顔で大きく頷いた。

 

「できる。パパ、はなさない」

 

「うん、放さない」

 

 そのやりとりに、リュウジの胸の奥が少しだけ温かくなる。

 そして同時に――こういう場所でタツヤがユイを連れてくる理由も、なんとなく分かってしまった。

 “見せる”ことが、守ることでもある。

 誰に何を背負っているのかを、あえて周囲に見せる。軽口の裏に、そんな計算がある。

 

 タツヤがまず向かったのは、会場の中心に近い一団だった。

 ドルトムント財閥の宇宙事業担当役員たち。整ったスーツ、淡い笑み、腹の底が見えない視線。話し方は丁寧だが、言葉の端に常に“損得”が混ざっている。

 

「お久しぶりです。十四班のタツヤです」

 

 タツヤの声は、いつもより少しだけ低く落ち着いている。のらりくらりのまま、しかし隙がない。

 役員の一人が頷き、視線をリュウジへ移した。

 

「こちらが……英雄の」

 

 その言葉が終わる前に、タツヤがさらりと被せた。

 

「うちのS級パイロット、リュウジです。」

 

 タツヤは“英雄”という単語を自然に消してくれた。

 リュウジは一拍置いて、きちんと一礼する。

 

「リュウジです。本日はお招きいただき、ありがとうございます」

 

 役員は満足そうに笑みを作った。

 

「いやいや。君にはこれからも頼りにさせてもらう。……噂は聞いている。初フライト、見事だったそうだね」

 

「ありがとうございます。乗務員の支えが大きかったです」

 

 リュウジがそう言った瞬間、役員の目が一瞬だけ細くなる。

 “乗務員”という言葉をわざわざ出すS級は珍しい――そう思ったのだろう。

 

 その視線を、エリンが気づかないはずがなかった。

 彼女は一歩前へ出て、柔らかい微笑みで会話を受け取る。

 

「ありがとうございます。現場の連携が整っていると、機長の操縦も活きますので」

 

 褒め言葉の形をした“釘”だった。

 ここには、客室乗務員を“道具”として見る人間もいる。

 エリンはそれを分かっていて、礼儀の中で線を引く。

 

 ペルシアはその横で、涼しい顔のままユイに目を向けていた。

 ユイが緊張しているのを察したのか、こっそりウィンクをしてみせる。

 ユイは一瞬「?」という顔をしてから、真似して片目をつぶった。

 その瞬間だけ、周囲の大人たちの空気が少し緩んだ。

 

「……おや。可愛いお嬢さんだ」

 

 役員の一人がそう言うと、タツヤはにこりと笑い、ユイの頭をそっと撫でた。

 

「俺の娘です。今日は無理言って連れてきました」

 

 役員たちの反応が変わる。

 “タツヤという男は、守るものを持っている”。

 その情報が、彼らの中で価値になるのが見て取れた。

 だからこそタツヤは、ユイの手を放さない。

 

 挨拶は次々と続く。

 連盟側の高官、警備部の幹部、航路管理局の代表。

 誰もがアズベルトの出航に言及しながら、同時に“未探索領域”という単語を直接は言わない。

 「大きな調査」「境界線の向こう」「先の宙」――婉曲表現で、危険を包む。

 

 その中で、リュウジは何度も視線を向けられた。

 “英雄”がここにいる。

 その事実を、誰もが確認したがっている。

 

 そして確認したがるのは、上の連中だけではない。

 

 会場の少し奥、立食のテーブルの影。

 制服姿の男たちが数人、グラスを片手に固まっていた。

 パイロットの集まりだ。階級章の違いで、だいたいの序列が分かる。

 

 その中心に――紺の詰襟、金の肩章。深い庇の制帽。

 ブライアンがいた。

 

 こちらに気づいた瞬間、ブライアンが口元を歪める。

 笑いではない。狩人の目だ。

 

「来たな」

 

 わざとらしい。

 それでも会場の空気が、ほんの少しだけざわめく。

 S級同士が言葉を交わす場面は、それだけで“見世物”になる。

 

「……こんばんは」

 

 リュウジが礼儀正しく言うと、ブライアンは面白がったように肩を揺らす。

 

「真面目だな。相変わらず」

 

 ペルシアが横から小さく言った。

 

「うるさいの、また始まった」

 

 エリンはブライアンにきちんと頭を下げる。

 

「こんばんは、ブライアンさん」

 

「いい格好してるじゃないか、エリン。……そっちの金髪も」

 

「その口、閉じたら?」

 

 ペルシアが即座に刺す。

 ブライアンは笑うだけで、意に介さない。

 

 タツヤはいつもののらりくらりで割って入る。

 

「ブライアン、今日は先生の壮行会だよ? 変な空気にしないでくれる?」

 

「変な空気?」

 

 ブライアンはわざと首を傾げ、視線をユイへ移した。

 

「おいおい。子どもまで連れてきたのか」

 

 ユイはぎゅっとタツヤの手を握り直し、少しだけリュウジの後ろに隠れた。

 その動きを見て、リュウジは体を半歩ずらし、自然に壁になる。

 守ろうとしているのが、動きだけで分かる。

 

 ブライアンはそれを見て、目を細めた。

 

「……なるほど。そういうところは、確かに“英雄”っぽいな」

 

 その言い方が気に食わない。

 リュウジは表情を崩さず、淡々と返した。

 

「子どもに向ける言葉は選べ」

 

 一瞬、周囲のパイロットたちが黙る。

 ブライアンは笑った。だがその笑いは、さっきまでの軽さとは違う。

 

「……言うようになったじゃないか」

 

 タツヤがその間に入る。

 

「ほら、ここで張り合わないの。先生が見てるよ」

 

 その言葉で、ブライアンの視線が一瞬だけ奥へ向いた。

 そこに誰がいるのか、リュウジにも分かる。

 

 アズベルト――古参のS級。

 会場のさらに奥、派手な中心ではなく、少し影になる位置に立っていた。

 目立たないのに、視線が吸い寄せられる。

 その存在自体が重い。

 

 アズベルトの周囲には、連盟の高官と、研究部門の責任者、そして護衛がいる。

 だが護衛が守っているのは“命”というより、“場の秩序”だ。

 アズベルト自身が、危険そのものみたいな人間なのだと、空気が言っている。

 

 タツヤはユイの手を握ったまま、リュウジへ視線を向けた。

 

「リュウジ、先生に挨拶行こっか。エリンとペルシアも」

 

「はい」

 

 エリンが頷く。

 ペルシアは肩をすくめた。

 

「はいはい。……でもユイ、退屈したら言いなさいよ」

 

「うん」

 

 ユイは小さく頷き、タツヤの手を離さない。

 そのまま一行は、会場の奥へ向かって歩き出す。

 

 途中で何人もの視線が刺さる。

 政財界の人間は笑顔で見送り、パイロットたちは無言で見送る。

 どちらの視線にも、同じものが含まれていた。

 

 ――この先、先生は戻ってくるのか。

 ――そして、その後に宙へ出るのは誰なのか。

 

 リュウジの胸の奥に、静かな重みが沈む。

 それでも、足は止まらない。

 

 エリンが隣で、小さな声で言った。

 

「大丈夫。いつも通りでいいのよ」

 

 柔らかい口調。

 その言葉だけで、リュウジは呼吸が少し整うのを感じた。

 

 ペルシアが反対側から、わざと軽い声を出す。

 

「ほら、背筋。英雄さま」

 

「やめろ」

 

「冗談。――でもね、今日の主役は先生。あんたは脇役でいいの」

 

 その言葉が妙に救いだった。

 脇役でいい。

 英雄でなくていい。

 

 タツヤはユイの手を握りながら、のらりくらりと笑う。

 

「先生に会うと、俺でもちょっと緊張するんだよねぇ」

 

「班長でもですか?」

 

 リュウジが思わず聞くと、タツヤは笑ったまま、ほんの一瞬だけ真面目な目になった。

 

「……そりゃするよ。俺たちが“宙”で食っていけるのは、ああいう人が道を切り開いてきたからだ」

 

 ユイが小さく聞いた。

 

「みち?」

 

「そう。ユイが歩く道の前に、草を刈ってくれる人がいるんだよ」

 

「ふーん……」

 

 ユイはよく分からない顔をしながらも、タツヤの手をぎゅっと握った。

 彼女なりに、空気の重さを感じているのだろう。

 

 やがて、アズベルトの近くまで辿り着く。

 その周囲の空気が、さらに冷たくなる。

 歓談の場なのに、そこだけは静かだ。

 皆が声のトーンを落とし、自然と距離を取る。

 

 リュウジは一歩前へ出る。

 背筋を伸ばし、息を整え、礼を作る。

 

「……アズベルト先生。本日は、お招きいただきありがとうございます」

 

 その瞬間、アズベルトの視線がリュウジに乗った。

 言葉はまだない。

 だがその目は、確かに“見ている”。

 送り出される者の目ではなく、送り出す者の目でもなく――ただ宙を知る者の目。

 

 リュウジは、その視線を真正面から受け止めた。

 

 背後で、ユイがタツヤの手をぎゅっと握る感触が、かすかに伝わる。

 挨拶回りはまだ続く。

 だが、ここから先は――ただの社交ではない。

 

 宙へ出る者と、地に残る者の境界線が、見えないところで引かれる夜が始まる。

 

ーーーー

 

 アズベルトの視線は、言葉より先にリュウジの体温を測るように滑った。

 

 会場の喧騒はここだけ薄い膜の向こうに押しやられている。グラスの触れ合う音も、笑い声も、遠い。そこに立つだけで、宙の静寂が戻ってくるような錯覚すらあった。

 

 アズベルトは、ゆっくりと顎を上げた。

 そして、短く言った。

 

「来たか」

 

 たったそれだけ。

 けれど“歓迎”でも“拒絶”でもない、その無機質さが逆に重い。

 

 リュウジは真っ直ぐに頭を下げた。

 

「はい。先生、ご出航の前に、ご挨拶をと思いまして」

 

 アズベルトの視線が、リュウジの肩から胸元へ、そして手元へ移る。

 呼吸、立ち姿、目の揺れ。

 言葉ではなく“生き方”を見ている視線だ。

 

「……余計なものは背負うな」

 

 リュウジの胸の奥に、少しだけ刺さる。

 

「……はい」

 

 続いて、アズベルトはエリンに視線を移す。

 エリンは姿勢を正し、丁寧に頭を下げた。

 

「ご無沙汰しております、アズベルト先生。チーフパーサーのエリンです。本日はお招きいただきありがとうございます」

 

 アズベルトは小さく頷くだけ。

 だが、その目がほんのわずか柔らかくなるのを、リュウジは見逃さなかった。

 誰に対しても同じ顔をする人間ではない。

 その差は、言葉より分かりやすい。

 

 ペルシアが一歩だけ出て、口元を上げる。

 

「先生、こんばんは。副パーサーのペルシアよ」

 

 呼び方も距離も、相変わらず自由だ。

 普通なら叱られそうな場面だが――アズベルトは、ペルシアの方を見て言った。

 

「……騒ぐなよ」

 

「えー、私が騒がなかったら、宙が静かすぎて眠くなるでしょ」

 

 ペルシアが涼しい顔で返すと、アズベルトはほんの少しだけ口角を動かした。

 笑い、とは言い切れない。

 だが、拒絶でもない。

 

 そして最後に、タツヤとユイ。

 

 タツヤはいつもののらりくらりを残したまま、しかし礼儀は崩さずに頭を下げる。

 

「ご無沙汰してます、先生。班長のタツヤです。……娘も一緒で失礼します」

 

 ユイはタツヤの手をぎゅっと握り、アズベルトを見上げた。

 目の前の大人たちの空気が硬いことは、子どもにも分かる。

 ユイは一瞬だけリュウジの方を見て、それから小さく頭を下げた。

 

「……こんばんは」

 

 たどたどしいけれど、ちゃんと言えた。

 エリンがそっと微笑む。

 タツヤが小さく「えらい」と囁く。

 

 アズベルトはユイを見て、少し間を置いて言った。

 

「……いい子だ」

 

 それだけ。

 けれどユイの顔がぱっと明るくなり、タツヤの手を握る力が少し緩んだ。

 

 ――その瞬間だった。

 

「先生に取り入るのは上手いな、タツヤ」

 

 背後から刺さるような声。

 振り向くまでもない。

 

 ブライアンが、グラスを揺らしながら近づいてきた。

 紺の詰襟に金の肩章、制帽は今日は手に持っているだけだが、存在感は変わらない。

 パイロットたちが自然と道を空ける。

 彼の周りには、空気の境界ができる。

 

 エリンの微笑みが一段だけ薄くなった。

 ペルシアは露骨に眉をしかめる。

 タツヤは「また来た」とでも言いたげに小さく息を吐いた。

 

 そして、リュウジは――ブライアンに対してだけは、いつも通りの口調で言った。

 

「うるさい」

 

 場が、一瞬止まる。

 周囲の視線がリュウジに集まる。

 “英雄”が、怪物に対して敬語を使わなかった。

 それがどれほど珍しいか、この場の人間はよく知っている。

 

 ブライアンは目を細め、楽しそうに笑った。

 

「いいね。そういう顔、もっと出せよ」

 

「出したくて出してるわけじゃない」

 

 リュウジが淡々と言うと、ブライアンは肩を揺らした。

 

「先生、聞きました? こいつ、俺にだけ態度が違う」

 

 アズベルトは、ブライアンに視線を移すだけで何も言わない。

 だが、その“無言”が一番効くのを、ブライアンは知っている。

 ブライアンは少しだけ表情を整え、肩をすくめた。

 

「……冗談ですよ」

 

 ペルシアが鼻で笑う。

 

「冗談の質が低いのよ、あんたは」

 

「質が低い? 俺の冗談は高級品だぞ」

 

「売り物なら返品する」

 

 ペルシアの切れ味に、周囲の誰かが小さく噴き出した。

 それをエリンが視線だけで黙らせる。

 ここの空気を乱すわけにはいかない。

 

 タツヤがのらりくらりと、間に入った。

 

「はいはい。ブライアン、先生の前では大人しくしな。今日は壮行会なんだから」

 

「分かってる。分かってるって」

 

 ブライアンは軽く両手を上げる仕草をしてから、リュウジの肩のあたりをじっと見た。

 

「……それにしても、お前、いい服着てるな」

 

「そっちもな。制服じゃないと、少しはまともに見える」

 

「褒めてんのか貶してんのか分からない」

 

「両方だ」

 

 リュウジが当然のように言うと、ブライアンはまた笑った。

 その笑いは、さっきより少しだけ“素”に近い。

 

 アズベルトがそこで、短く言った。

 

「……ブライアン」

 

「はい」

 

 ブライアンが反射で答える。

 それだけで、彼がどれだけアズベルトを“先生”として扱っているか分かる。

 

「……余計なことを言うな」

 

「……はい」

 

 今度は本当に大人しくなった。

 怪物にも、従う相手はいる。

 

 沈黙が落ちる。

 だがその沈黙を、エリンが柔らかい声で埋めた。

 

「先生、調査……どうか、ご無事で」

 

 アズベルトはエリンを見る。

 その目は相変わらず冷静で、恐れを見せない。

 

「……無事かどうかは、運じゃない」

 

「ええ」

 

 エリンは頷く。

 その頷きは“理解”だった。

 宙では、努力と準備で確率を上げることはできても、ゼロにはできない。

 

 アズベルトは視線をリュウジに戻す。

 

「リュウジ」

 

「はい」

 

「……お前は、ここに残れ」

 

 命令でも忠告でもない。

 “置くべき場所”の宣言。

 リュウジの喉が一瞬、乾く。

 

「……はい」

 

 アズベルトの目が細くなる。

 

「……守れ」

 

 たった二文字。

 守れ。

 何を、とは言わない。

 けれどリュウジには分かる。

 航路、船、乗客、乗務員――そして、ここに残る“日常”。

 

 リュウジは短く頷いた。

 

「守る」

 

 敬語を落としたわけではない。

 ただ、言葉が短くなるほど、誓いに近くなる。

 

 その横で、ユイがタツヤの手をぎゅっと握りながら、リュウジの顔を見上げた。

 理解していないはずなのに、空気の変化は感じ取っている。

 ユイは小さく口を開き、場違いにならない程度の声で言った。

 

「……リゅウジ、まもるの?」

 

 リュウジは一瞬だけ表情を柔らかくして、ユイに目線を合わせる。

 

「ああ。守る」

 

 ユイは満足そうに頷いた。

 その仕草が、あまりにも真剣で――エリンの胸が少しだけ痛んだ。

 

 ブライアンが、黙っていたはずなのに、ぼそりと呟いた。

 

「……お前、そういうの似合わねぇのに」

 

 リュウジは横目でブライアンを見る。

 

「何が」

 

「“守る”って言葉」

 

「似合う似合わないでやること決めるかよ」

 

 ブライアンは鼻で笑った。

 

「だからムカつく」

 

「それは褒め言葉か?」

 

「褒め言葉に聞こえたなら、お前の耳が節穴だ」

 

 ペルシアが小声でエリンに言う。

 

「……ねぇ、リゅウジってブライアン相手だと口が悪くなるよね」

 

「ええ。でも……不思議と安心するわ」

 

 エリンの声は柔らかい。

 リュウジが“自分のまま”でいられる相手がいることが、どこか救いだった。

 

 タツヤが空気を戻すように、軽く手を叩いた。

 

「よし。先生に挨拶できたし、次は連盟側の偉い人たちにも顔出しておこうか。ユイ、行ける?」

 

「うん」

 

 ユイはタツヤの手を握ったまま、ちょこちょこ歩き出す。

 その小さな足取りが、緊張で固まりそうな場を少しだけ緩める。

 

 挨拶回りは続いた。

 連盟の高官は、言葉の端々に“政治”を忍ばせる。

 財閥の幹部は、微笑みの裏に“契約”を忍ばせる。

 どの握手も、どの会話も、名刺交換のように薄いのに重い。

 

 リュウジは必要以上に喋らない。

 だが、必要な時にははっきり言う。

 それが、意外なほど好印象を生む。

 “英雄”が饒舌だと、周りは勝手に意味をつける。

 無口で、必要なことだけ言う方が、余計な解釈を減らせる。

 

 エリンはその隣で、滑らかに補助する。

 会話の“角”が立ちそうな瞬間に、言葉を添えて丸める。

 リュウジの真面目さが誤解されないように、そして相手の立場を潰さないように。

 彼女のその手際の良さに、リュウジは何度も内心で感心した。

 

 ペルシアは、笑顔のまま毒を吐く。

 ――いや、毒ではない。

 相手が越えてはいけない線を、冗談の形で示している。

 それができる人間は少ない。

 ブライアンのような大物にも平然と噛みつけるのは、度胸だけじゃなく“勘”が鋭いからだ。

 

 そしてタツヤは、ユイの手をずっと離さない。

 挨拶の度にユイが頭を下げ、周囲の大人が笑う。

 そのたびにタツヤは「うちの自慢」と軽く言ってみせる。

 軽口の中に、“守るべきものがある”という事実を混ぜ込む。

 それがこの場では、武器にも盾にもなる。

 

 途中、ブライアンがまた近づいてきた。

 今度はひとりで、グラスも持っていない。

 目が真面目だ。

 

「リュウジ」

 

「なんだ」

 

 リュウジは自然に通常口調で返す。

 エリンが一瞬だけ警戒して視線を上げるが、リュウジの落ち着きに合わせて、表情を崩さない。

 

 ブライアンは、会場の端――アズベルトが立っていた方向を顎で示した。

 

「先生が出るの、怖くないのか」

 

 唐突だった。

 その問いに、リゅウジはすぐには答えなかった。

 怖い。

 怖くないわけがない。

 未探索領域は、宙の“穴”だ。何が起きるか分からない。帰って来られる保証もない。

 

 だがリュウジは、ブライアンを見て言った。

 

「怖いに決まってる」

 

 ブライアンの目がわずかに揺れる。

 リュウジが“怖い”と言ったことが意外だったのかもしれない。

 

「でも、先生は行く。だから俺たちは見送る。それだけだ」

 

「……それだけ、ね」

 

 ブライアンの口元が少しだけ上がる。

 妙に人間くさい笑い方だった。

 

 リュウジは肩をすくめる。

 

「お前がそうさせるんだよ」

 

「言うじゃねぇか」

 

 そのやり取りを、ペルシアが遠目から見ていた。

 彼女はエリンに耳打ちする。

 

「ね、あの二人、ほんとに仲悪いの?」

 

「……仲が悪いだけなら、あんな顔はしないわ」

 

 エリンの声は柔らかい。

 嫌悪ではなく、どこか不器用な関係。

 それが見えてしまう。

 

 ブライアンは最後に、低い声で言った。

 

「先生がいなくなると、宙は少し寒くなる」

 

 リュウジは、短く言った。

 

「寒くさせない」

 

 その言葉に、ブライアンはほんの一瞬だけ目を細め、そして踵を返した。

 

 ――壮行会は、まだ終わらない。

 

 会場の中心では、乾杯の準備が始まっている。

 グラスが配られ、言葉が整えられ、拍手のタイミングが作られる。

 “送り出す夜”の儀式が、形になろうとしていた。

 

 タツヤがユイの手を握ったまま、リュウジに視線を投げる。

 

「リゅウジ、ユイがね、ずっと言ってるんだよ。“次いつ来るの?”って」

 

 ユイが恥ずかしそうに、でも真剣に言った。

 

「……いつ?」

 

 その小さな問いが、宙よりも重いものとして胸に落ちる。

 

 リュウジはユイに向き直り、普段のままの声で言った。

 

「いつかな」

 

 ユイはぱっと笑って、タツヤの手をぎゅっと握り直した。

 

「やくそく!」

 

 エリンが小さく笑った。

 ペルシアが「よし」と頷いた。

 タツヤが「助かるよ」と息を吐いた。

 

 そしてリュウジは、会場の中心――アズベルトが立つであろう場所へ視線を向けた。

 

 守る。

 宙を。

 船を。

 乗客を。

 乗務員を。

 そして、こういう“日常”を。

 

 乾杯の声が上がる前、リュウジの中で静かに何かが定まった。

 英雄という呼び名でも、怪物という呼び名でもない。

 ただ、自分がここにいる理由が。

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