サヴァイヴ〜ドルトムント財閥〜   作:一塔

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プール

 ある日。

 

 事務所の天井に埋め込まれた空調の吹き出し口から、一定の風が降りてきている。設定温度も規定通り。湿度も管理されているはずだ。

 なのに――なぜか、暑い。

 

 原因はたぶん、外だ。

 コロニーの人工太陽は、季節の演出を“律儀”にやりすぎる。光の角度、照度、熱量。すべてが計算されていて、計算されているからこそ逃げ場がない。

 窓の向こうに見える街の色が、やけに白っぽく見えるのは、きっと熱にやられているせいだろう。

 

 ペルシアが椅子の背もたれに身体を預け、両腕をだらんと垂らしたまま、魂が抜けたみたいに呟いた。

 

「あっづい……」

 

 その声は、机の上に積まれた書類の角さえ溶かしそうな勢いだった。

 

 エリンは視線を端末から動かさず、指先だけで書類を揃えながら淡々と言う。

 

「クーラー入ってるでしょ。我慢しなさい」

 

「だったら設定温度、あと二度だけ下げてよ……二度……いや、一度でいい……」

 

 ペルシアは机に頬を乗せる勢いで、じわじわと滑り落ちていく。

 エリンは一切動じない。まるで“暑い”という概念が存在しない人間のようだ。

 

「規定温度を勝手にいじったら、総務から叱られるのは私よ」

 

「総務に叱られるのは、エリンがいつも完璧だからよ。たまには叱られてみれば?」

 

 その瞬間、リュウジがペンを置く音が、やけに鋭く響いた。

 

「うるさい」

 

 短い。切る。

 それだけで、室温が一度下がったような錯覚がした。

 

「何よ」

 

 ペルシアがむくりと起き上がり、リュウジを指差す。

 

「私はあんたと違って、か弱い女の子なのよ?」

 

 リュウジが眉を上げる。

 

「どこが」

 

「どこがって言った!? 今どこがって言った!? エリン聞いた!?」

 

「聞こえたわ」

 

 エリンは軽く頷き、しかし口元だけ少し緩んだ。

 ペルシアの大げさな芝居を、完全には否定しない。

 こういうところが、ペルシアがエリンに懐く理由の一つだ。

 

 ペルシアは再び椅子に深くもたれかかり、天井を見上げる。

 

「あー……海行きたい」

 

 唐突すぎて、リュウジが顔を上げた。

 

「唐突だな」

 

「だってさぁ」

 

 ペルシアはぐるりと事務所の空気を指でなぞるみたいに言う。

 

「みんな交代で夏休みに入ってるんだよ? ほら、廊下歩いてる人たち、ちょっと日焼けしてたり、髪の毛キラキラさせたり、謎にテンション高かったりするじゃん。……私も、夏休みの思い出作りたい」

 

「ワガママ言わないの」

 

 エリンが呆れたように言った。

 けれど、その呆れ方はいつもより柔らかい。

 この暑さは、エリンにもさすがに堪えているらしい。

 

「後でアイス買ってきてあげるから」

 

 エリンがさらっと言うと、ペルシアの目がきらりと光った。

 

「これだから、エリン大好き!」

 

「単純ね」

 

 エリンは言いながら、もう端末に“買うアイスの種類”までメモし始めているのが分かる。

 ペルシアは勝利した顔をした――が、すぐに口を尖らせた。

 

「でも海には行きたい」

 

 エリンは今度こそ本気でため息をついた。

 

「海なんて、どっかの富裕層が持ってるプライベートビーチしかないでしょ」

 

 コロニー内に自然の海はない。

 人工的な水辺ならあるが、あくまで“景観用”。人が入れる規模のものは限られている。

 そして、そういう“本物に近い海”を持てるのは、ほんの一握りだ。

 

 ペルシアはその一握りを、ちらりと見た。

 

「そこはリュウジがいるでしょ」

 

「は?」

 

「S級なんだし、伝手とかあるでしょ」

 

 リュウジは思わず苦笑した。

 

「そんなものあるわけないだろ」

 

「何のためにS級の資格取ったのよ!」

 

 ペルシアの声が跳ねる。

 エリンが、はいはいと手を振るように言った。

 

「ペルシアを海に連れて行くためではないのは確かでしょ」

 

「はぁ……私って不幸な女」

 

 ペルシアはわざとらしく額に手を当て、椅子からずり落ちそうになる。

 

「こんな暑い中で馬車馬のごとく働いて、夏休みもどこにも行けず……」

 

「その馬車馬、昨日は業務日誌に絵描いてたけど?」

 

 リュウジが淡々と言う。

 ペルシアはピタッと止まり、目を細めた。

 

「……見た?」

 

「見えた」

 

「見ちゃダメ!」

 

 エリンがふっと笑う。

 その笑い声は短いが、確かに場の温度を和らげた。

 

 そこへ、タツヤが自分のデスクからのらりくらりと口を挟んだ。

 さっきからずっと電話と書類に追われていたくせに、こういう会話には必ず入ってくる。

 

「まぁまぁ。だったら今度の夏休みで、プールにでも行ってきたら?」

 

「プール!」

 

 ペルシアの目が、一気に星みたいに輝いた。

 さっきまで干からびていたのが嘘みたいに復活する。

 

「え、ちょっと、プールってどこの? 普通の市民用じゃなくて、ちゃんと広いやつ!? 波が出たりするやつ!? 夜はライトアップとかされるやつ!?」

 

「落ち着け」

 

 リュウジが即座に突っ込むが、ペルシアの勢いは止まらない。

 タツヤは笑いながら、指で机の引き出しをトントンと叩いた。

 

「ああ。ちょうど知り合いからコロニーの入場券もらってるんだよね」

 

「入場券……?」

 

 エリンが眉を上げる。

 

「それ、どこの?」

 

「外周レジャー区画の。ほら、人工海水で波つくれるって有名なとこ。プールというか、ほぼ海みたいなやつ」

 

 ペルシアがガタンと椅子から立ち上がった。

 

「やば。そこ、行きたかったやつ!」

 

「皆んなで行って来なよ」

 

 タツヤの言葉は軽い。

 だが“皆んなで”という一言には、ちゃんと意味がある。

 十四班は忙しい。固定休暇もない。休みはずれる。

 だから、チャンスがあるなら――まとめて掴む。

 

「やっぱり持つ物はタツヤ班長だ……!」

 

 ペルシアがうっとりしたように呟く。

 エリンは呆れながらも、どこか安心した表情でタツヤを見る。

 

「班長、それ、いつの入場券なの?」

 

「来週末。日付指定。人数分ある」

 

「……来週末」

 

 エリンはすぐに頭の中でシフトを組み替えているのが分かる。

 休める人間、休めない人間、呼び出しの可能性。

 それでも、エリンの口元が少し緩むのが見えた。

 

「調整できそう」

 

「できるできる。エリンならできる」

 

 タツヤは簡単に言うが、それがどれだけ大変か、リュウジは知っている。

 エリンは“できるようにする”。その覚悟で動く人間だ。

 

 ペルシアはもう机の上の書類など見ていない。

 頭の中は完全に水と光と遊びで満たされている。

 

「ねぇ、リュウジも来るよね?」

 

「……行けたらな」

 

「行けたらじゃなくて行くの!」

 

「強制かよ」

 

「強制!」

 

 ペルシアは胸を張って言い切り、次にエリンを見た。

 

「エリンもね?」

 

「私は……」

 

 一瞬だけ迷う。

 エリンにも仕事はある。責任もある。

 けれどその迷いを、ペルシアは見逃さない。

 

「エリンがいないと意味ない」

 

 その一言は、ただの甘えではなかった。

 ペルシアは、エリンがいるからこそ“安心して遊べる”のだ。

 それは信頼でもある。

 

 エリンは小さく笑った。

 

「……分かったわ。調整する」

 

「よっしゃ!」

 

 ペルシアがガッツポーズをして、危うく椅子を蹴りそうになる。

 リュウジがそれを見て、ふっと口角を上げた。

 

「暑さで壊れたな」

 

「何よ! 壊れてないわよ! 元からこうよ!」

 

「それもそれで問題だろ」

 

 タツヤが笑いながら言う。

 

「ま、こういう“息抜き”も大事だよ。十四班は真面目な人が多いからねぇ」

 

 その“真面目な人”に視線が向く。

 リュウジは、気づかないふりをして書類に戻った。

 だが内心では――少しだけ、悪くないと思っていた。

 

 波の音はない。

 潮の匂いもない。

 それでも、水に浸かって肩の力を抜く時間は、きっと必要だ。

 

 リュウジはふと、コロニーの外壁越しの“本当の宙”を思い浮かべる。

 宙は冷たい。

 けれど、こうして人工の夏があるのなら――そこに乗る人間が笑う場所も、きっと必要だ。

 

 ペルシアが机に肘をつき、急に真顔になって言った。

 

「ねぇ、プール行ったらさ。写真いっぱい撮ろうよ。十四班の思い出、ちゃんと作るの」

 

 エリンが頷く。

 

「そうね。……仕事の時の顔じゃない写真、たまには欲しいわ」

 

 その言葉に、リュウジが少しだけ目を上げる。

 

「……写真は苦手だ」

 

「知ってる」

 

 ペルシアが即答する。

 

「だから撮るの。苦手でも撮るの。逃げないで」

 

「なんでだよ」

 

「英雄でも怪物でもなく、“十四班のリュウジ”を残すため」

 

 ペルシアの言葉は、普段の軽さの中に、時々まっすぐな芯が混ざる。

 それがずるい。

 

 リュウジは小さく息を吐き、書類を閉じた。

 

「……分かった。行けたら、じゃなくて行く」

 

「よし!」

 

 ペルシアが嬉しそうに笑う。

 エリンが「はいはい」と言いながら、すでに端末で日程調整を始めている。

 タツヤは「じゃあ俺も行こうかなぁ」と冗談めかすが、目はちゃんと班のスケジュールを見ている。

 

 事務所の中に、少しだけ涼しい風が流れた気がした。

 それは空調の風ではなく、未来の予定が作った“心の余裕”の風だった。

 

 ペルシアが最後にもう一度、椅子に深くもたれながら言う。

 

「はぁ……夏だねぇ」

 

 エリンが小声で返す。

 

「仕事も夏よ」

 

 リュウジが短く締めた。

 

「まず仕事だ」

 

「分かってるわよ!」

 

 ペルシアが大声で返し、事務所の空気が少しだけ明るく弾んだ。

 

ーーーー

 

 タツヤの欠席は、出発の三時間前に決まった。

 

『急遽、仕事。ほんとごめん。せっかくの券だし、行ってきなよ』

 端末越しの音声は、いつもののらりくらりを装っていたけれど、語尾の擦れた感じで忙しさが分かった。

 

 エリンは短く返した。

 

「分かりました。…ユイは連れて行きますね」

 

『お願い。ユイも楽しみにしてたし。……リュウジ、頼むね』

 

「え、俺?」

 

 リュウジが思わず言うと、タツヤは軽く笑った。

 

『ユイ、“リゅウジと行く”って言うと、いつも以上にいい子になるからさ』

 

「都合よく使いますね」

 

『それが班長の仕事だよ』

 

 そこで通信が切れた。

 エリンはため息をつき、ペルシアは「やっぱ持つ物は班長……じゃなくて、欠席か!」と叫び、ククルとカイエは「ユイちゃん、楽しみですね」と目を輝かせた。

 

 こうして、プール――正確には“外周レジャー区画・人工海水プール”に来たのは、エリン、ペルシア、リュウジ、ユイ、ククル、カイエの六人になった。

 

 波を生む巨大な装置、白い砂浜風の床材、ヤシの木を模した植栽。

 コロニーの天井に映し出された空は、青すぎるくらい青い。人工太陽の光は、肌に刺さるほど強いのに、不思議と不快ではなかった。

 “夏を楽しめ”と最初から設計されている場所は、こういうふうに人を甘やかす。

 

 ――問題は、その甘やかしが、余計な波も生むことだ。

 

 更衣室で着替えを済ませ、先に出てきたのはエリンたち女性陣だった。

 エリンは水着の上に薄手のパーカーを羽織り、髪はまとめている。仕事の時と変わらない手際で、荷物を整理し、日焼け止めとタオルの位置を確認し、ユイの帽子を持たせ、飲み物の量までチェックしていた。

 

「場所、取ってくるわ。人多そうだもの」

 

 エリンが淡々と言って歩き出すと、ペルシアが後ろで腕を組み、文句を言う。

 

「相変わらず段取り完璧すぎ。遊びに来てるんだよ? もう少し力抜けば?」

 

「力を抜いて事故が起きたら、余計に疲れるでしょ」

 

 エリンは当然のように言い切った。

 ククルとカイエが「さすがです…!」と尊敬の目を向ける。

 

 波プールの手前、日陰になるデッキにちょうど良いスペースを見つけ、エリンはタオルを広げ、荷物を置き、ユイが座れるように折り畳みのシートまで敷いた。

 まるで“基地設営”だ。

 

「よし。ここにしましょう。ユイ、ここで帽子取ったらだめよ」

 

「うん!」

 

 ユイは元気よく返事をして、すぐに「みず!」とプールの方を指差した。

 

「待って。準備してから」

 

 エリンが言うと、ユイは「はーい」と素直に頷いた。

 ――タツヤが言っていた通り、“いい子”だ。

 

 ペルシアは周囲を見回し、眉をひそめた。

 

「……まったく。遅いわね」

 

 リュウジたちは男性更衣室から出てくるはずだった。

 だが、姿がない。

 

 ククルがきょろきょろしながら言う。

 

「リュウジさん、迷子になっちゃったんでしょうか…?」

 

「大丈夫だとは思うけど」

 

 エリンは淡々と答えながら、ユイの肩にタオルをかけ直す。

 カイエは遠くの入口を見て、ふっと目を細めた。

 

「……来た」

 

 ペルシアがそちらを見る。

 そして、露骨に顔をしかめた。

 

 女性に囲まれている団体が、こちらへ向かって歩いてくる。

 その中心に――リュウジがいた。

 

 鍛え抜かれた身体。水着の上に羽織っていた薄いシャツをすでに脱いだのか、上半身があらわになっている。

 整った顔立ちは、人工太陽の光を受けて、やけに眩しく見えた。

 

 そして何より、早くも“人だかり”だ。

 数人の女性が、楽しそうに声をかけながら付いて歩いている。

 笑い声。視線。スマート端末のカメラ。

 ――仕事場と同じ現象が、プールでまで再現されていた。

 

「……まったくもう」

 

 ペルシアが呟いた。

 その声は小さいのに、怒りが詰まっていた。

 

 エリンは一瞬だけ困ったように目を伏せた。

 だが次の瞬間、表情は“いつものチーフパーサー”に戻る。

 こういう状況でも、必要以上に感情を表に出さない。

 

 ペルシアは勢いよく歩き出した。

 

「連れ戻してくる」

 

「ペルシア、喧嘩はだめよ」

 

「喧嘩じゃない。回収よ、回収」

 

 ペルシアはそう言い放つと、女性の輪の中へズカズカ入っていった。

 そして、中心にいるリュウジの腕を掴む。

 

「はいはい、そこまで。うちの機長、回収しまーす」

 

「え?」

 

 女性たちが驚いて固まる。

 リュウジは「おい」と小さく言ったが、ペルシアの勢いは止まらない。

 

「ちょ、ペルシア、何して…」

 

「何して、じゃないでしょ。」

 

 有無を言わせず引っ張る。

 周囲の女性たちは「彼女…?」とか「やっぱりいたの…?」とかひそひそ声を交わし、結局、引き下がるように散っていった。

 プールの騒がしさに紛れて、視線だけが名残惜しそうに刺さる。

 

 リュウジが引っ張られながら、呆れたように言う。

 

「お前、強引すぎるだろ」

 

「強引じゃない。適切な対応。で、何で囲まれてたの?」

 

「知らない。更衣室出たら、勝手に…」

 

「勝手に、ねぇ」

 

 ペルシアはにやりと笑った。

 

「それ、一番たち悪いってやつよ」

 

「うるさい」

 

 リュウジはそう言いながらも、口元が少しだけ緩んでいた。

 ペルシアの強引さが嫌なら、振りほどける。

 でも振りほどかない。

 その距離感が、もう“いつもの十四班”だった。

 

 エリンたちの拠点に戻ると、ユイが先に気づき、ぱっと顔を明るくした。

 

「リゅウジ!」

 

 ユイは立ち上がり、駆け寄ろうとした――が、エリンが即座に止める。

 

「ユイ、走らない」

 

「……はーい」

 

 ユイがしゅんとしながらも、ちゃんと止まる。

 リュウジは少し笑って、ユイの前にしゃがみ込んだ。

 

「待たせたな」

 

「まってた!」

 

「偉い」

 

 そう言って頭を軽く撫でると、ユイは満面の笑みを浮かべた。

 ククルとカイエが「かわいい…」と小さく声を漏らす。

 

 ペルシアは、そこで急に思い出したようにリュウジの腹をじっと見た。

 そして次の瞬間――

 

「わお、すごい腹筋」

 

 ぺた。

 

 ペルシアの手が、遠慮なくリュウジの腹に触れた。

 

「おい」

 

「え、だってこれ本物? 彫刻みたいなんだけど」

 

「やめろ、くすぐったい」

 

 リュウジが思わず笑ってしまう。

 その笑い声が、周囲の空気を一気に緩めた。

 ククルは「リュウジさんが笑ってる…!」と目を丸くし、カイエは「こういう顔もするんだ」と小さく頷いた。

 

 ペルシアはさらに悪ノリする。

 

「エリン、凄いわよ! 触ってみなよ!」

 

「い、いいわよ!」

 

 エリンは顔を赤くするでもなく、きっぱり拒否した。

 ただし拒否の仕方が、どこか慌てている。

 それをペルシアが見逃すわけがない。

 

「えー? エリン、照れてる?」

 

「照れてない」

 

「照れてるー」

 

「……ペルシア」

 

 エリンの声が少しだけ低くなる。

 それだけでペルシアがピタッと止まる。

 さっきまでの勢いはどこへやら、素直に話題を切り替えた。

 

「はいはい、それよりユイね」

 

 エリンは“それより”の方向へ強引に舵を切る。

 

「ユイ、日焼け止め塗ってあげる。こっち来なさい」

 

「うん!」

 

 ユイは嬉しそうにエリンの前に座り、腕を差し出す。

 エリンは慣れた手つきで日焼け止めを塗り広げ、首の後ろ、耳の裏、頬のあたりまで丁寧に確認する。

 その手際は、仕事で乗客のケアをする時と同じだ。

 ただ、視線が少しだけ柔らかい。

 

 ペルシアは、まだ名残惜しそうにリゅウジの腹筋を見ている。

 

「ほんと、S級って腹筋もS級なんだね」

 

「関係ないだろ」

 

「関係あるのよ。腹筋はね、世界を救うの」

 

「どう救うんだよ」

 

「こう救うの」

 

 ペルシアはポーズを取って見せるが、意味はない。

 ククルが笑い、カイエが「意味分からない」と呟きながらも口元は緩んでいた。

 

 エリンが日焼け止めを塗り終え、手をパンと払う。

 

「よし。ユイ、帽子は外さない。水分こまめに飲む。疲れたらすぐ言う」

 

「はーい!」

 

 ユイは元気よく返事をした。

 

 エリンは次にククルとカイエを見た。

 

「二人も、無理しないで。波プールは人が多いから、離れないように」

 

「はい!」

 

 ククルは背筋を伸ばす。

 カイエは「了解です」と落ち着いて頷いた。

 

 そして最後に、リュウジへ視線が向く。

 エリンの目は“指示”ではなく、“確認”だった。

 

「リュウジ、ユイをお願いね」

 

 リュウジは短く頷く。

 

「任せてください」

 

 ペルシアがニヤニヤする。

 

「ふーん、“任せてください”だって。頼もしいねぇ」

 

「黙れ」

 

「ねぇねぇ、ユイ、リゅウジの腹筋触ってみる?」

 

「えっ」

 

 ユイが目を丸くする。

 リゅウジが即座に遮った。

 

「やめろ」

 

 エリンも即座に言う。

 

「やめなさい、ペルシア」

 

 声が低い。

 ペルシアは両手を上げる。

 

「はい、撤回撤回。今のは冗談。…でもすごいのは本当」

 

 リュウジはため息をつき、ユイの帽子を直した。

 

「お前、ユイに変なこと教えるな」

 

「えー? 腹筋は教育よ、教育」

 

「違う」

 

 ユイがくすくす笑う。

 その笑いにつられて、ククルも笑い、カイエも小さく息を吐いた。

 

 波が遠くでざあっと音を立てる。

 人工の海。人工の夏。

 でも、今この瞬間の空気は、きっと本物だ。

 

 エリンがパーカーのフードを整えながら言った。

 

「さあ、行きましょう。まずは浅い所から。ユイ、浮き輪はちゃんと付けるのよ」

 

「うん!」

 

 ペルシアが拳を握る。

 

「夏休みの思い出、作るぞー!」

 

「テンション高すぎ」

 

 リュウジが呆れるように言いながらも、歩き出す足取りは軽い。

 

 タツヤがいない分、少しだけ忙しい。

 でもだからこそ――このメンバーで作る“今日”は、特別になる予感がした。

 

ーーーー

 

 波のプールの浅瀬は、想像以上に“海っぽかった”。

 

 白い砂浜風の床材が足裏にざらりと触れ、人工海水のひんやりした感触がふくらはぎを撫でる。

 遠くで低い機械音が鳴り、次の波が生まれる前触れのように水面がざわついた。

 

「来るよ、来るよ!」

 

 ククルが両腕を上げて、子どもみたいに跳ねる。

 その横でカイエは、落ち着いた顔でユイの浮き輪の位置を確認していた。

 

「ユイ、浮き輪ずれてない? ここ、ちゃんと締めて」

 

「うん!」

 

 ユイは真剣な顔で頷く。

 リュウジは浅瀬に立ちながら、視線だけで周囲の流れを見ていた。波の向き、人の密度、子どもが走ってくる角度。

 操縦とは違うのに、やっていることは似ている。

 予測して、先に動く。

 

 波が来た。

 

 ざあっ、と水が押し寄せ、膝下から一気に腰あたりまで水位が上がる。

 浅瀬の大人が少しよろけ、子どもたちが歓声を上げる。

 

「きゃーー!」

 

 ユイが声を上げた。怖いのではなく、楽しい声だ。

 リュウジはユイの後ろに立ち、片手で浮き輪の背を支える。ユイの身体が波に押されても、ふわっと跳ねるだけで流されない。

 

「すごい! もう一回!」

 

「次も来る」

 

 リュウジが短く答えると、ユイはさらに笑った。

 その笑い声を聞いて、ククルが「ユイちゃん可愛い!」と叫び、カイエが「叫ぶと飲み込むよ」と冷静に突っ込む。

 

 一方で、エリンはプールの中には入らず、外のデッキから見守っていた。

 パーカーのフードの紐を指先で整え、タオルと飲み物の位置を確認し、荷物の周りの人の動線まで見ている。

 遊び場にいるのに、彼女はどこか“現場”の顔をしていた。

 

 ペルシアが波を受けてはしゃぐククルの背を押して、わざと大きな波に突っ込ませる。

 

「ほらククル! 元気担当の本領発揮して!」

 

「ちょ、ペルシアさんっ……!」

 

 ククルがバタバタしながらも、結局笑ってしまう。

 ユイもそれにつられて笑い、カイエが「……平和」と小さく呟いた。

 

 リュウジは、その光景を見ながら少しだけ眉を緩めた。

 波に合わせて身体を動かす。周りの声を聞く。余裕があるから、笑える。

 ――これが、守るってことの“別の形”なのかもしれない。

 

 しばらくして、波の周期が少し落ち着いたタイミングで、ペルシアが手を叩いた。

 

「はいはい、休憩! 日陰戻るよー! ユイも、ほら!」

 

「うん!」

 

 ユイは水をぽたぽた垂らしながら戻っていく。

 リュウジはユイの手を取って歩き、カイエはククルが転ばないようにさりげなく腕を差し出した。

 ククルは「大丈夫だよ!」と言いながらも、その腕に素直に乗る。

 

 拠点のデッキに戻ると、エリンがすぐにタオルを差し出した。

 

「ユイ、体拭いて。冷えるから」

 

「はーい」

 

 ユイは言われた通りに拭き始める。

 その隣でペルシアはぐいっと髪をかき上げ、ぴちゃぴちゃと水を飛ばした。

 

「あー、最高。やっぱ夏は水だね。……ねぇエリン、エリンも入ってくればいいじゃない」

 

 エリンは微笑んだまま、首を横に振る。

 

「私は別にいいわ」

 

「よくないって」

 

 ペルシアは頬を膨らませる。

 

「せっかく来たんだよ? エリンだって楽しめる権利あるでしょ。ほら、ウォータースライダーでも――」

 

 ペルシアの視線が、ちらりとリュウジへ向いた。

 悪い顔だ。

 

「リュウジと乗ってきたら?」

 

「……え」

 

 エリンが一瞬だけ言葉を詰まらせた。

 ユイの髪を拭いていた手が止まり、すぐに平静を装うように動き出す。

 

「い、いいわよ。私は――」

 

「ユイは見とくから」

 

 ペルシアが、さらりと決定打を落とす。

 

「でも……」

 

 エリンが何か言おうとした、その瞬間だった。

 ペルシアはもう立ち上がっていた。躊躇がない。やると決めたら動く。

 

 そして次の瞬間、ペルシアはリュウジの前に立ち、にこやかに言い切った。

 

「リュウジ。エリンがウォータースライダー乗りたいんだって。付き合ってあげて」

 

「……は?」

 

 リュウジの声と同時に、エリンが「ペルシア!」と低い声を出した。

 しかしペルシアは聞こえないふりをして、ユイの肩を抱く。

 

「ユイ、行こっか。エリン、リュウジ、行ってきな!」

 

「ちょっと待て、俺は――」

 

 リュウジが言いかけたが、ユイがきょとんとして言った。

 

「エリンさん、すべりだい、いくの?」

 

 エリンは一瞬だけ硬直し、それから柔らかく笑った。

 

「……そうね。行ってみようかしら」

 

 逃げ道を潰された。

 だが“潰された”だけでもない。

 エリンの声には、ほんの少しだけ――期待の色が混じっていた。

 

 リュウジはため息をつき、エリンの方を見た。

 エリンは視線を逸らし、パーカーの裾を握っている。

 

「……行きますか、エリンさん」

 

 リュウジが敬語で言う。

 その言い方が、いつもの仕事の延長みたいで、エリンの緊張を少しだけ溶かした。

 

「……ええ。お願いします」

 

 ペルシアが満足げに頷き、手をひらひら振った。

 

「いってらっしゃーい!」

 

 *

 

 ウォータースライダーは、思った以上に“高かった”。

 

 螺旋状に組まれた透明なチューブが、空へ向かって伸びている。

 途中、コロニーの空が見える部分があり、人工太陽の光がチューブに反射してきらきらと眩しい。

 

 階段を登りながら、エリンが小さく息を吐いた。

 

「……意外と、怖いわね」

 

「高いですからね」

 

 リュウジはさらっと返す。

 その“怖い”を否定しない言い方が、エリンにはありがたかった。

 

「リュウジは平気そうね」

 

「操縦席の方が高いです」

 

「そういう問題じゃないと思うんだけど」

 

 エリンは苦笑する。

 リュウジも、ほんの少しだけ口角を上げた。

 

 頂上に着くと、係員がチューブ型の浮き輪を渡してくる。

 二人乗り用。

 それを見た瞬間、エリンが一瞬だけ固まった。

 

「……二人で乗るのね」

 

「そうみたいですね」

 

 リュウジは淡々と浮き輪を受け取り、エリンに渡した。

 エリンは浮き輪を抱え、ちらりと下を見た。

 長い。曲がりくねっている。途中で見えなくなる。

 

「……行きましょうか」

 

 エリンが言うと、係員が促す。

 

「前の方が先に座ってください。後ろの方は足を浮き輪の中に入れて、手は持ち手をしっかり」

 

 エリンが前に座る。

 普段なら迷いなく指示を出す人が、今は少しだけぎこちない。

 その背中が、いつもより小さく見える。

 

 リュウジは後ろに座り、足を入れ、持ち手を握った。

 そして、自然な動作で、浮き輪がずれないように軽く支える。

 触れない程度の距離。

 しかし、守る位置。

 

「準備、いいですか?」

 

 係員の声。

 

 エリンは小さく頷いた。

 

「……はい」

 

 リュウジが短く言う。

 

「大丈夫です」

 

 次の瞬間、背中を押される感覚。

 浮き輪が滑り出し、チューブの中に吸い込まれていった。

 

「――っ!」

 

 エリンの声が小さく跳ねる。

 水しぶき。加速。ぐん、と身体が押し付けられる感覚。

 

 ぐるり、と回る。

 光が途切れ、青いチューブの内側が流れていく。

 エリンは思わず持ち手を強く握った。

 

 早い。

 速いのに、不思議と怖さだけではない。

 身体が浮く感覚に近い。

 宙に投げ出されるのとは違う、“遊び”の浮遊。

 

 リュウジの声が後ろから聞こえた。

 

「大丈夫ですか」

 

「……大丈夫。たぶん」

 

 エリンの返事が、いつもより子どもっぽい。

 それにリュウジが、少しだけ笑う。

 

 次のカーブで、浮き輪が壁に当たり、さらにスピードが増す。

 エリンは思わず声を上げた。

 

「――きゃっ!」

 

 その声が自分のものだと気づいて、エリンは少し恥ずかしくなった。

 しかし、恥ずかしがっている暇もなく、滑り台は容赦なく続く。

 

 出口が見えた。

 光が戻る。

 そして最後に、ざぶん、と水に飛び込むような衝撃。

 

 二人は水面に浮かび、勢いのまま流されて、ゆっくりと止まった。

 

 エリンが息を整え、髪の水を払う。

 

「……思ったより、楽しいわね」

 

「そうですね」

 

 リュウジは短く答えた。

 そして、エリンの横顔を見て、ほんの少しだけ驚く。

 

 エリンが――笑っている。

 仕事の微笑みじゃない。

 誰かを安心させるための微笑みでもない。

 ただ、自分の感情で笑っている。

 

 その瞬間、リュウジは理解した。

 ペルシアが強引に押した理由を。

 

 「戻りますか」

 

 リュウジが言うと、エリンは頷いた。

 

「ええ。」

 

 *

 

 拠点に戻ると、ペルシアがすぐに顔を上げた。

 

「おかえり! どうだった?」

 

 エリンは髪を絞りながら、少しだけ目を逸らした。

 

「……悪くなかったわ」

 

「ほーらね!」

 

 ペルシアは勝ち誇ったように笑い、エリンはユイの頭を撫でた。

 

「ユイ、いい子にしてた?」

 

「うん!」

 

 ユイは元気に頷く。

 ククルが「ユイちゃん、波すごかったね!」と話しかけ、カイエが「日焼け止め塗り直しした方がいい」と落ち着いて言う。

 

 その賑やかさの中、エリンが荷物をまとめ始めた。

 

「そろそろ、お昼にしましょう。……お弁当、持ってきたの」

 

 ペルシアが目を輝かせる。

 

「え、エリンのお弁当!? 最高!」

 

 リュウジも少しだけ目を細めた。

 前に食べたハンバーグの味が、ふっと蘇る。

 

 エリンはクーラーバッグを開け、丁寧に包まれた箱を取り出した。

 中身は、彩りが完璧だった。

 

 小さめの唐揚げ――冷めても衣がふにゃっとしないように工夫されている。

 ミニトマトとブロッコリー、卵焼き。

 おにぎりは二種類、塩と梅。

 ユイ用には小さく握ってあり、海苔は食べやすいように巻き方が違う。

 ククルとカイエの分までちゃんと量がある。

 何より、蓋を開けた瞬間にふわっと香る出汁の匂いが、空腹を一気に刺激した。

 

「わぁ……」

 

 ククルが思わず声を漏らす。

 カイエが「……すごい」と短く呟いた。

 ペルシアはもう我慢できない。

 

「いただきます!」

 

「ちゃんと手、拭いてから」

 

 エリンが言うと、ペルシアは「はいはい」と言いながらも、すでに唐揚げを狙っている。

 エリンがペルシアの手をぴしっと止めた。

 

「拭いてから」

 

「……はい」

 

 ペルシアが素直に拭くのが面白くて、リュウジが小さく笑う。

 

「笑わない」

 

 エリンがリュウジに言う。

 その声は厳しいはずなのに、どこか柔らかい。

 さっきスライダーで笑った余韻が残っているみたいだった。

 

 全員が座り、ユイが小さなおにぎりを両手で持つ。

 

「いただきます!」

 

 ユイの元気な声に合わせて、みんなも言う。

 

「いただきます」

 

 唐揚げを口に入れたペルシアが、目を丸くした。

 

「……うっま」

 

「でしょ」

 

 エリンは淡々と言う。

 しかしその頬が少しだけ緩んでいる。

 

 ククルが唐揚げを食べ、幸せそうに息を吐く。

 

「衣がサクサクのままです……冷めてるのに……」

 

「水分の逃がし方と、詰め方を工夫したの」

 

 エリンがさらっと言う。

 料理を“仕事”として説明するのが、彼女らしい。

 

 カイエは卵焼きを食べ、静かに頷いた。

 

「甘すぎない。出汁が効いてる」

 

「カイエ、分かるじゃない」

 

 ペルシアがにやりと笑う。

 カイエが「当たり前」と返し、ククルがくすくす笑った。

 

 リュウジは一口、唐揚げを食べた。

 ――うまい。

 単純にうまいだけじゃない。

 “食べる人”の状態を想定して作られている味だ。

 暑い日に、塩気が効いて、胃が重くならない。

 噛むと肉が柔らかく、疲れている身体に染みる。

 

「……本当に美味しいです。エリンさん」

 

 リュウジが敬語で言うと、エリンは少しだけ目を逸らし、照れ隠しみたいに言った。

 

「作るなら、美味しく作るもの」

 

 ペルシアがすかさず突っ込む。

 

「照れてる?」

 

「照れてない」

 

「照れてるー」

 

「ペルシア」

 

 エリンの声がまた低くなる。

 ペルシアはにっこり笑って、素直に口を塞いだ。

 しかし目が笑っている。絶対に反省していない。

 

 ユイが頬に米粒をつけたまま、おにぎりを食べながら言う。

 

「エリンさん、おいしい!」

 

「ありがとう」

 

 エリンの声が、さっきよりもっと柔らかい。

 その柔らかさが、リュウジの胸の奥を少しだけ温めた。

 

 ククルがふと、空を見上げた。

 人工の青空。

 その下で、みんなが弁当を囲んで笑っている。

 

「……なんか、夢みたいです」

 

「夢じゃないよ」

 

 ペルシアが口いっぱいに頬張りながら言う。

 

「ちゃんと現実。だから、いっぱい食べときな」

 

「ペルシア、口に入れたまま喋らない」

 

 エリンの注意。

 ペルシアは「んふふ」と笑って、また食べる。

 

 リュウジはその様子を見て、ふっと思う。

 守るというのは、危険から遠ざけることだけじゃない。

 こういう時間を“成立させる”ことでもある。

 

 タツヤはいない。

 でもタツヤが繋いだチケットと、ユイの笑い声と、エリンの弁当と、ペルシアの騒がしさが、今日をちゃんと“夏休み”にしている。

 

 エリンが水筒を配りながら言った。

 

「午後は、無理しない程度にね。日差しも強いし、ユイも疲れるから」

 

「はーい」

 

 返事は揃わない。

 でも、そのバラバラさが心地いい。

 

 ペルシアが最後に唐揚げをもう一つ摘まみ、リゅウジの方へ突き出した。

 

「ほら、もう一個。S級はいっぱい食べなきゃ」

 

「お前が食べるんだろ」

 

「違う。これは“支給”。エリン弁当は貴重品だから」

 

「意味分からない」

 

 リゅウジは苦笑しながら受け取り、口に入れた。

 

 うまい。

 そして、少しだけ――優しい味がした。

 

ーーーー

 

 午後のレジャー区画は、午前とは別の顔をしていた。

 

 人工太陽は少し傾き、光は相変わらず強いのに、風だけが涼しくなってくる。波プールの周期は一定で、機械の低い唸りが遠くで規則正しく鳴っていた。

 水面はきらきらして、そこに浮かぶ浮き輪や子どもたちの歓声が、コロニーの白い天井に跳ね返る。

 

「ユイ、次はあっちの浅いところにしよ!」

 

 ククルが手を振ると、ユイが大きく頷いた。

 

「うん!」

 

 カイエは相変わらず周囲の動線を見ていて、波が来るタイミングでユイの背中を支える位置をさっと変える。

 ペルシアはその横で、波が来るたびにわざと大げさに転びそうな芝居をして、ユイとククルの笑いを引き出していた。

 

「ほらー! 波が私を襲うー!」

 

「ペルシアさん、楽しそうですね!」

 

「当たり前。夏休みだもん」

 

 リュウジは少し離れた場所で、全員が視界に入る位置を保っている。

 波の向きと人の流れを読み、子どもが走り込んできそうな角度を消していく。

 遊びに来ているのに、彼の立ち姿だけはどこか“操縦席”に近かった。

 

 その一方で、エリンは、午前よりは少しだけプールの縁に近い位置に座っていた。

 パーカーの袖をまくり、ユイの帽子の位置を直し、水分を飲ませ、タオルを交換する。

 遊びながらも、目は常に「安全」と「体調」を追っている。

 

 それでも、彼女の口元は柔らかい。

 

「ユイ、寒くない?」

 

「だいじょーぶ!」

 

「無理しないでね。寒くなったら言うのよ」

 

 ユイは「はーい!」と返事をして、また波へ突っ込んでいく。

 エリンはそれを見て、小さく笑った。

 

 ――少し前まで、“休むこと”にすら抵抗があったのに。

 こうして笑えることが、エリン自身もどこか不思議だった。

 

 しばらくして、エリンが立ち上がる。

 

「ちょっとトイレに行ってくるわ。ユイ、ちゃんとみんなの近くにいるのよ」

 

「うん!」

 

 ペルシアが片手を上げた。

 

「はーい、チーフ。ユイは私が見とく。リュウジもいるし」

 

「……お願いね」

 

 エリンはそう言って、足早にデッキを離れた。

 

 プールの外周通路は、濡れた足跡と日焼け止めの甘い匂いが混ざっている。

 人の往来も多く、すれ違うたびに肩が触れそうになる。

 

 ――こういう場所は、油断すると一瞬で疲れる。

 エリンは自然と背筋を伸ばし、歩幅を一定にした。

 

 トイレを済ませ、手を洗って、髪の乱れを整える。

 鏡に映った自分は、仕事の時ほどきっちりしていない。

 なのに、その方が呼吸が楽だ。

 

 ――戻ろう。

 

 通路へ出た、その時だった。

 

「ねえ、あなた」

 

 背後から声がかかる。

 振り向くと、見知らぬ男が二人。

 年齢は二十代後半から三十代くらい。日焼けした肌に、派手なサングラス。

 レジャー区画の“空気”に馴染んだ服装をしている。

 

「さっきから見てたんだけどさ、ひとり?」

 

 その言葉を聞いた瞬間、エリンの中で“温度”が下がった。

 嫌な熱を含んだ声。距離感の取り方。視線の流れ。

 

 ――ナンパ。

 

 エリンは微笑まない。

 仕事で使う微笑みは、こういう相手に向けるものじゃない。

 

「違います」

 

 短く、きっぱり。

 

「えー、でも今ひとりじゃん。ちょっと一緒に――」

 

「お断りします」

 

 それでも男たちは引かない。

 一人が、半歩近づいてくる。もう一人が、通路の外側に回り込み、逃げ道を“自然に”狭めた。

 

 エリンの眉がわずかに動く。

 これはもう、偶然じゃない。

 

「しつこいですね」

 

 エリンの声は低い。普段、乗務員をまとめる時の声だ。

 それでも男は笑って誤魔化す。

 

「だってさ、綺麗だし。そういうの、言われ慣れてるでしょ?」

 

「慣れてません。興味もありません」

 

「冷たいなぁ。ちょっとくらい――」

 

「距離を取ってください」

 

 エリンは通路の端に寄りすぎないようにしながら、斜めに体を動かす。

 視線で周囲を探す。スタッフ、警備、監視カメラ――。

 

 だが、男はそれすら読んだように距離を詰める。

 

「そんな怖い顔しないでさ」

 

「怖い顔をさせているのは、あなた達です」

 

 エリンは一歩だけ下がり、声を強くした。

 

「もう一度言います。やめてください」

 

 その瞬間だった。

 

 片方の男が、突然、エリンの手首を掴んだ。

 

「――っ!」

 

 痛みよりも先に、怒りが立ち上がる。

 反射的に身体が動き、エリンの中の“現場”が目を覚ました。

 

 しかし、次の瞬間――

 

 ぐい、と視界が揺れた。

 

 掴まれた手首が引かれるのではなく、逆にエリンの身体ごと引き寄せられる。

 背中が、硬い胸板に当たった。

 

「……エリンさん、大丈夫ですか」

 

 低い声。落ち着いた温度。

 聞き慣れた声だった。

 

 リュウジ。

 

 彼はエリンを自分の後ろへ滑り込ませるように引き、男たちとの間に身体を入れていた。

 距離は近いのに、圧迫感がない。

 “守る位置”だけが、確実に確保されている。

 

 男が一瞬、怯んだ。

 だがすぐに虚勢を張る。

 

「あ? なんだよお前。彼氏か?」

 

 リュウジは表情を変えない。

 ただ、目だけが冷える。

 操縦席で“異常値”を見た時の目だ。

 

「何してるんだ、お前ら」

 

 声は低く、短い。

 威圧ではなく、事実確認の刃。

 

「は? 別に、話してただけ――」

 

「手首を掴むのが“話す”のか?」

 

 リュウジの言葉に、男の口が一瞬止まる。

 そこへ、もう一人の男が笑って誤魔化そうとした。

 

「いや、ちょっと酔っててさ。ノリで――」

 

「ノリで人に触るな」

 

 リュウジは一歩だけ前に出た。

 それだけで、空気が変わる。

 

 男たちが、ようやく気づく。

 目の前の男が“ただの一般客”じゃないことに。

 

 鍛えられた身体つき。立ち姿の安定。

 そして、何より――視線に一切のブレがない。

 

 リュウジは男の掴んでいた手首を、乱暴ではないが確実に外させる角度で押し戻した。

 力を見せつけるのではなく、逃げ道を作るように。

 

「離れろ」

 

 男が舌打ちする。

 

「なんだよ……」

 

「謝れ」

 

「は?」

 

「謝れって言ってる」

 

 リュウジの声は淡々としている。

 だが、逆らえば一歩も進めないと、男たちの身体が理解している。

 

 男たちは互いに目を合わせ、しぶしぶ言った。

 

「……悪かったよ」

 

 それでも、言葉に誠意はない。

 エリンはその背中越しに、リュウジの肩が少しだけ張るのを感じた。

 

 彼は一度だけ深く息を吸い、そして静かに言った。

 

「今すぐ、ここから消えろ」

 

 男たちは、それ以上粘る気を失ったのか、肩をすくめて去っていった。

 通路の人混みに紛れていく。

 

 リュウジが、ようやくエリンの方を振り返った。

 

「……怪我は、ないですか」

 

 敬語。

 いつも通りの言い方が、逆にエリンの心臓を落ち着かせた。

 

「……大丈夫。ありがとう」

 

 エリンの声は少しだけ震えていた。

 怖かったというより、怒りと緊張が一気に抜けた揺れだ。

 

 リュウジは眉をひそめる。

 

「すみません。もっと早く気づけば」

 

「あなたが謝ることじゃないわ」

 

 エリンはそう言いながら、自分の手首を見る。赤くなっている。

 そこへリュウジが、少しだけ距離を取りながら、視線で確認した。

 

「……痕、残りそうですか」

 

「大丈夫よ。これくらい」

 

 エリンが言い切ると、リュウジは小さく頷いた。

 次に彼は、通路の奥を見て、端末を取り出しかけ――やめた。

 警備を呼ぶこともできる。だが、今はエリンの判断を尊重する、とでも言うように。

 

 エリンはその迷いを読み、少しだけ柔らかく言った。

 

「……もう行こう。ユイが待ってる」

 

「はい」

 

 リュウジは短く返事をし、エリンの歩く速度に合わせて隣に並んだ。

 前を歩かない。後ろにも回らない。

 守りながら、対等な位置。

 

 ――こういうところが、彼らしい。

 エリンはふと、以前抱いていた疑念を思い出す。

 “パイロットは乗務員を道具みたいに扱うことがある”。

 “リュウジはどうなんだろう”。

 

 今なら、答えが分かる。

 少なくとも、目の前の男は――人を“守る側”にちゃんと立っている。

 

 拠点のデッキが見えてきた。

 波プールの音と笑い声が戻ってくる。

 ユイの「リゅウジー!」という声が飛んできて、胸の奥が少しだけ軽くなる。

 

 だが、その直後。

 

「……遅い」

 

 低い声が横から刺さった。

 

 ペルシアだ。

 日陰のタオルの上に座り、ユイの帽子を直しながらも、目だけは鋭くこちらを見ている。

 “耳がいい”というより、“空気の揺れが分かる”目だ。

 

「何かあったでしょ」

 

 エリンが言い返そうとする前に、リュウジが先に口を開いた。

 

「……ちょっとトラブルにな」

 

 ペルシアの視線がエリンの手首に落ちる。

 一瞬、笑顔が消えた。

 

「誰」

 

 たった二文字なのに、温度がない。

 怒りが底に沈んでいる声。

 

「もういいの」

 

 エリンが即座に言う。

 ペルシアの“爆発”を止めるためだ。

 

「大丈夫。解決した」

 

「解決したって、痕ついてる」

 

「これくらい平気」

 

「平気じゃない」

 

 ペルシアが立ち上がりかける。

 その瞬間、カイエがさりげなくペルシアの足元にタオルを差し出した。

 

「ペルシアさん、足、滑る」

 

 ククルも慌てて言う。

 

「ペルシアさん、まず水分……!」

 

 ユイがきょとんとしながら、ペルシアの手を握った。

 

「ペルシアさん、どうしたの?」

 

 その小さな手の温度で、ペルシアの肩がほんの少しだけ落ちた。

 

「……なんでもない。ユイ、いい子にしてた?」

 

「うん!」

 

 ユイが元気に頷くと、ペルシアは口元だけで笑う。

 でも目はまだ怒っている。

 

 エリンはその横顔を見て、少し息を吐いた。

 ペルシアは乱暴で、口も悪くて、すぐに火がつく。

 けれど、その火はいつも“仲間”のためだ。

 

 エリンはリュウジの方を見た。

 

「……助けてくれて、本当にありがとう」

 

 さっきより、もう少し柔らかい声になっていた。

 

 リュウジは少しだけ目を伏せ、敬語のまま言う。

 

「当然です。……エリンさんが怪我をする理由なんて、どこにもない」

 

 その言葉が、妙に真っ直ぐで、エリンは一瞬だけ言葉を失った。

 そして、誤魔化すようにパーカーの袖を引き下ろす。

 

「……さあ、戻りましょう。せっかくの午後なんだから」

 

 ペルシアが鼻で笑う。

 

「そうね。台無しにされたくないし」

 

 そして、リュウジをじろりと見た。

 

「リュウジ、今日の残りは“警備担当”ね」

 

「元からそうだ」

 

「なら合格」

 

 ククルがほっとしたように笑い、カイエが静かに頷く。

 ユイはもう、波の音に気持ちを引っ張られている。

 

「ねえ、またあそぶ!」

 

「よし」

 

 ペルシアが立ち上がり、ユイの浮き輪を直す。

 

「今度はもっと大きい波のところ行く?」

 

「いく!」

 

「ちょっと待って」

 

 エリンが即座に止める。

 

「浅いところから。順番」

 

「はーい……」

 

 ユイがしゅんとする。

 エリンはそれを見て少しだけ笑い、ユイの頭を撫でた。

 

「いい子なら、最後に一回だけ、ね」

 

 ユイの顔がぱっと明るくなる。

 

「ほんと!?」

 

「ほんと」

 

 そのやり取りを見て、リュウジが小さく息を吐いた。

 ――守るべきものが、ここにはたくさんある。

 波も、光も、人の悪意も。

 全部ひっくるめて、“今日”を無事に終わらせる。

 

 リュウジは歩き出しながら、ふっと思った。

 操縦よりも難しいかもしれない。

 それでも――不思議と、嫌じゃなかった。

 

 波がまた来る。

 歓声が上がる。

 そして、エリンの視線が、少しだけ柔らかくリュウジの背を追っていた。

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