ある日。
事務所の天井に埋め込まれた空調の吹き出し口から、一定の風が降りてきている。設定温度も規定通り。湿度も管理されているはずだ。
なのに――なぜか、暑い。
原因はたぶん、外だ。
コロニーの人工太陽は、季節の演出を“律儀”にやりすぎる。光の角度、照度、熱量。すべてが計算されていて、計算されているからこそ逃げ場がない。
窓の向こうに見える街の色が、やけに白っぽく見えるのは、きっと熱にやられているせいだろう。
ペルシアが椅子の背もたれに身体を預け、両腕をだらんと垂らしたまま、魂が抜けたみたいに呟いた。
「あっづい……」
その声は、机の上に積まれた書類の角さえ溶かしそうな勢いだった。
エリンは視線を端末から動かさず、指先だけで書類を揃えながら淡々と言う。
「クーラー入ってるでしょ。我慢しなさい」
「だったら設定温度、あと二度だけ下げてよ……二度……いや、一度でいい……」
ペルシアは机に頬を乗せる勢いで、じわじわと滑り落ちていく。
エリンは一切動じない。まるで“暑い”という概念が存在しない人間のようだ。
「規定温度を勝手にいじったら、総務から叱られるのは私よ」
「総務に叱られるのは、エリンがいつも完璧だからよ。たまには叱られてみれば?」
その瞬間、リュウジがペンを置く音が、やけに鋭く響いた。
「うるさい」
短い。切る。
それだけで、室温が一度下がったような錯覚がした。
「何よ」
ペルシアがむくりと起き上がり、リュウジを指差す。
「私はあんたと違って、か弱い女の子なのよ?」
リュウジが眉を上げる。
「どこが」
「どこがって言った!? 今どこがって言った!? エリン聞いた!?」
「聞こえたわ」
エリンは軽く頷き、しかし口元だけ少し緩んだ。
ペルシアの大げさな芝居を、完全には否定しない。
こういうところが、ペルシアがエリンに懐く理由の一つだ。
ペルシアは再び椅子に深くもたれかかり、天井を見上げる。
「あー……海行きたい」
唐突すぎて、リュウジが顔を上げた。
「唐突だな」
「だってさぁ」
ペルシアはぐるりと事務所の空気を指でなぞるみたいに言う。
「みんな交代で夏休みに入ってるんだよ? ほら、廊下歩いてる人たち、ちょっと日焼けしてたり、髪の毛キラキラさせたり、謎にテンション高かったりするじゃん。……私も、夏休みの思い出作りたい」
「ワガママ言わないの」
エリンが呆れたように言った。
けれど、その呆れ方はいつもより柔らかい。
この暑さは、エリンにもさすがに堪えているらしい。
「後でアイス買ってきてあげるから」
エリンがさらっと言うと、ペルシアの目がきらりと光った。
「これだから、エリン大好き!」
「単純ね」
エリンは言いながら、もう端末に“買うアイスの種類”までメモし始めているのが分かる。
ペルシアは勝利した顔をした――が、すぐに口を尖らせた。
「でも海には行きたい」
エリンは今度こそ本気でため息をついた。
「海なんて、どっかの富裕層が持ってるプライベートビーチしかないでしょ」
コロニー内に自然の海はない。
人工的な水辺ならあるが、あくまで“景観用”。人が入れる規模のものは限られている。
そして、そういう“本物に近い海”を持てるのは、ほんの一握りだ。
ペルシアはその一握りを、ちらりと見た。
「そこはリュウジがいるでしょ」
「は?」
「S級なんだし、伝手とかあるでしょ」
リュウジは思わず苦笑した。
「そんなものあるわけないだろ」
「何のためにS級の資格取ったのよ!」
ペルシアの声が跳ねる。
エリンが、はいはいと手を振るように言った。
「ペルシアを海に連れて行くためではないのは確かでしょ」
「はぁ……私って不幸な女」
ペルシアはわざとらしく額に手を当て、椅子からずり落ちそうになる。
「こんな暑い中で馬車馬のごとく働いて、夏休みもどこにも行けず……」
「その馬車馬、昨日は業務日誌に絵描いてたけど?」
リュウジが淡々と言う。
ペルシアはピタッと止まり、目を細めた。
「……見た?」
「見えた」
「見ちゃダメ!」
エリンがふっと笑う。
その笑い声は短いが、確かに場の温度を和らげた。
そこへ、タツヤが自分のデスクからのらりくらりと口を挟んだ。
さっきからずっと電話と書類に追われていたくせに、こういう会話には必ず入ってくる。
「まぁまぁ。だったら今度の夏休みで、プールにでも行ってきたら?」
「プール!」
ペルシアの目が、一気に星みたいに輝いた。
さっきまで干からびていたのが嘘みたいに復活する。
「え、ちょっと、プールってどこの? 普通の市民用じゃなくて、ちゃんと広いやつ!? 波が出たりするやつ!? 夜はライトアップとかされるやつ!?」
「落ち着け」
リュウジが即座に突っ込むが、ペルシアの勢いは止まらない。
タツヤは笑いながら、指で机の引き出しをトントンと叩いた。
「ああ。ちょうど知り合いからコロニーの入場券もらってるんだよね」
「入場券……?」
エリンが眉を上げる。
「それ、どこの?」
「外周レジャー区画の。ほら、人工海水で波つくれるって有名なとこ。プールというか、ほぼ海みたいなやつ」
ペルシアがガタンと椅子から立ち上がった。
「やば。そこ、行きたかったやつ!」
「皆んなで行って来なよ」
タツヤの言葉は軽い。
だが“皆んなで”という一言には、ちゃんと意味がある。
十四班は忙しい。固定休暇もない。休みはずれる。
だから、チャンスがあるなら――まとめて掴む。
「やっぱり持つ物はタツヤ班長だ……!」
ペルシアがうっとりしたように呟く。
エリンは呆れながらも、どこか安心した表情でタツヤを見る。
「班長、それ、いつの入場券なの?」
「来週末。日付指定。人数分ある」
「……来週末」
エリンはすぐに頭の中でシフトを組み替えているのが分かる。
休める人間、休めない人間、呼び出しの可能性。
それでも、エリンの口元が少し緩むのが見えた。
「調整できそう」
「できるできる。エリンならできる」
タツヤは簡単に言うが、それがどれだけ大変か、リュウジは知っている。
エリンは“できるようにする”。その覚悟で動く人間だ。
ペルシアはもう机の上の書類など見ていない。
頭の中は完全に水と光と遊びで満たされている。
「ねぇ、リュウジも来るよね?」
「……行けたらな」
「行けたらじゃなくて行くの!」
「強制かよ」
「強制!」
ペルシアは胸を張って言い切り、次にエリンを見た。
「エリンもね?」
「私は……」
一瞬だけ迷う。
エリンにも仕事はある。責任もある。
けれどその迷いを、ペルシアは見逃さない。
「エリンがいないと意味ない」
その一言は、ただの甘えではなかった。
ペルシアは、エリンがいるからこそ“安心して遊べる”のだ。
それは信頼でもある。
エリンは小さく笑った。
「……分かったわ。調整する」
「よっしゃ!」
ペルシアがガッツポーズをして、危うく椅子を蹴りそうになる。
リュウジがそれを見て、ふっと口角を上げた。
「暑さで壊れたな」
「何よ! 壊れてないわよ! 元からこうよ!」
「それもそれで問題だろ」
タツヤが笑いながら言う。
「ま、こういう“息抜き”も大事だよ。十四班は真面目な人が多いからねぇ」
その“真面目な人”に視線が向く。
リュウジは、気づかないふりをして書類に戻った。
だが内心では――少しだけ、悪くないと思っていた。
波の音はない。
潮の匂いもない。
それでも、水に浸かって肩の力を抜く時間は、きっと必要だ。
リュウジはふと、コロニーの外壁越しの“本当の宙”を思い浮かべる。
宙は冷たい。
けれど、こうして人工の夏があるのなら――そこに乗る人間が笑う場所も、きっと必要だ。
ペルシアが机に肘をつき、急に真顔になって言った。
「ねぇ、プール行ったらさ。写真いっぱい撮ろうよ。十四班の思い出、ちゃんと作るの」
エリンが頷く。
「そうね。……仕事の時の顔じゃない写真、たまには欲しいわ」
その言葉に、リュウジが少しだけ目を上げる。
「……写真は苦手だ」
「知ってる」
ペルシアが即答する。
「だから撮るの。苦手でも撮るの。逃げないで」
「なんでだよ」
「英雄でも怪物でもなく、“十四班のリュウジ”を残すため」
ペルシアの言葉は、普段の軽さの中に、時々まっすぐな芯が混ざる。
それがずるい。
リュウジは小さく息を吐き、書類を閉じた。
「……分かった。行けたら、じゃなくて行く」
「よし!」
ペルシアが嬉しそうに笑う。
エリンが「はいはい」と言いながら、すでに端末で日程調整を始めている。
タツヤは「じゃあ俺も行こうかなぁ」と冗談めかすが、目はちゃんと班のスケジュールを見ている。
事務所の中に、少しだけ涼しい風が流れた気がした。
それは空調の風ではなく、未来の予定が作った“心の余裕”の風だった。
ペルシアが最後にもう一度、椅子に深くもたれながら言う。
「はぁ……夏だねぇ」
エリンが小声で返す。
「仕事も夏よ」
リュウジが短く締めた。
「まず仕事だ」
「分かってるわよ!」
ペルシアが大声で返し、事務所の空気が少しだけ明るく弾んだ。
ーーーー
タツヤの欠席は、出発の三時間前に決まった。
『急遽、仕事。ほんとごめん。せっかくの券だし、行ってきなよ』
端末越しの音声は、いつもののらりくらりを装っていたけれど、語尾の擦れた感じで忙しさが分かった。
エリンは短く返した。
「分かりました。…ユイは連れて行きますね」
『お願い。ユイも楽しみにしてたし。……リュウジ、頼むね』
「え、俺?」
リュウジが思わず言うと、タツヤは軽く笑った。
『ユイ、“リゅウジと行く”って言うと、いつも以上にいい子になるからさ』
「都合よく使いますね」
『それが班長の仕事だよ』
そこで通信が切れた。
エリンはため息をつき、ペルシアは「やっぱ持つ物は班長……じゃなくて、欠席か!」と叫び、ククルとカイエは「ユイちゃん、楽しみですね」と目を輝かせた。
こうして、プール――正確には“外周レジャー区画・人工海水プール”に来たのは、エリン、ペルシア、リュウジ、ユイ、ククル、カイエの六人になった。
波を生む巨大な装置、白い砂浜風の床材、ヤシの木を模した植栽。
コロニーの天井に映し出された空は、青すぎるくらい青い。人工太陽の光は、肌に刺さるほど強いのに、不思議と不快ではなかった。
“夏を楽しめ”と最初から設計されている場所は、こういうふうに人を甘やかす。
――問題は、その甘やかしが、余計な波も生むことだ。
更衣室で着替えを済ませ、先に出てきたのはエリンたち女性陣だった。
エリンは水着の上に薄手のパーカーを羽織り、髪はまとめている。仕事の時と変わらない手際で、荷物を整理し、日焼け止めとタオルの位置を確認し、ユイの帽子を持たせ、飲み物の量までチェックしていた。
「場所、取ってくるわ。人多そうだもの」
エリンが淡々と言って歩き出すと、ペルシアが後ろで腕を組み、文句を言う。
「相変わらず段取り完璧すぎ。遊びに来てるんだよ? もう少し力抜けば?」
「力を抜いて事故が起きたら、余計に疲れるでしょ」
エリンは当然のように言い切った。
ククルとカイエが「さすがです…!」と尊敬の目を向ける。
波プールの手前、日陰になるデッキにちょうど良いスペースを見つけ、エリンはタオルを広げ、荷物を置き、ユイが座れるように折り畳みのシートまで敷いた。
まるで“基地設営”だ。
「よし。ここにしましょう。ユイ、ここで帽子取ったらだめよ」
「うん!」
ユイは元気よく返事をして、すぐに「みず!」とプールの方を指差した。
「待って。準備してから」
エリンが言うと、ユイは「はーい」と素直に頷いた。
――タツヤが言っていた通り、“いい子”だ。
ペルシアは周囲を見回し、眉をひそめた。
「……まったく。遅いわね」
リュウジたちは男性更衣室から出てくるはずだった。
だが、姿がない。
ククルがきょろきょろしながら言う。
「リュウジさん、迷子になっちゃったんでしょうか…?」
「大丈夫だとは思うけど」
エリンは淡々と答えながら、ユイの肩にタオルをかけ直す。
カイエは遠くの入口を見て、ふっと目を細めた。
「……来た」
ペルシアがそちらを見る。
そして、露骨に顔をしかめた。
女性に囲まれている団体が、こちらへ向かって歩いてくる。
その中心に――リュウジがいた。
鍛え抜かれた身体。水着の上に羽織っていた薄いシャツをすでに脱いだのか、上半身があらわになっている。
整った顔立ちは、人工太陽の光を受けて、やけに眩しく見えた。
そして何より、早くも“人だかり”だ。
数人の女性が、楽しそうに声をかけながら付いて歩いている。
笑い声。視線。スマート端末のカメラ。
――仕事場と同じ現象が、プールでまで再現されていた。
「……まったくもう」
ペルシアが呟いた。
その声は小さいのに、怒りが詰まっていた。
エリンは一瞬だけ困ったように目を伏せた。
だが次の瞬間、表情は“いつものチーフパーサー”に戻る。
こういう状況でも、必要以上に感情を表に出さない。
ペルシアは勢いよく歩き出した。
「連れ戻してくる」
「ペルシア、喧嘩はだめよ」
「喧嘩じゃない。回収よ、回収」
ペルシアはそう言い放つと、女性の輪の中へズカズカ入っていった。
そして、中心にいるリュウジの腕を掴む。
「はいはい、そこまで。うちの機長、回収しまーす」
「え?」
女性たちが驚いて固まる。
リュウジは「おい」と小さく言ったが、ペルシアの勢いは止まらない。
「ちょ、ペルシア、何して…」
「何して、じゃないでしょ。」
有無を言わせず引っ張る。
周囲の女性たちは「彼女…?」とか「やっぱりいたの…?」とかひそひそ声を交わし、結局、引き下がるように散っていった。
プールの騒がしさに紛れて、視線だけが名残惜しそうに刺さる。
リュウジが引っ張られながら、呆れたように言う。
「お前、強引すぎるだろ」
「強引じゃない。適切な対応。で、何で囲まれてたの?」
「知らない。更衣室出たら、勝手に…」
「勝手に、ねぇ」
ペルシアはにやりと笑った。
「それ、一番たち悪いってやつよ」
「うるさい」
リュウジはそう言いながらも、口元が少しだけ緩んでいた。
ペルシアの強引さが嫌なら、振りほどける。
でも振りほどかない。
その距離感が、もう“いつもの十四班”だった。
エリンたちの拠点に戻ると、ユイが先に気づき、ぱっと顔を明るくした。
「リゅウジ!」
ユイは立ち上がり、駆け寄ろうとした――が、エリンが即座に止める。
「ユイ、走らない」
「……はーい」
ユイがしゅんとしながらも、ちゃんと止まる。
リュウジは少し笑って、ユイの前にしゃがみ込んだ。
「待たせたな」
「まってた!」
「偉い」
そう言って頭を軽く撫でると、ユイは満面の笑みを浮かべた。
ククルとカイエが「かわいい…」と小さく声を漏らす。
ペルシアは、そこで急に思い出したようにリュウジの腹をじっと見た。
そして次の瞬間――
「わお、すごい腹筋」
ぺた。
ペルシアの手が、遠慮なくリュウジの腹に触れた。
「おい」
「え、だってこれ本物? 彫刻みたいなんだけど」
「やめろ、くすぐったい」
リュウジが思わず笑ってしまう。
その笑い声が、周囲の空気を一気に緩めた。
ククルは「リュウジさんが笑ってる…!」と目を丸くし、カイエは「こういう顔もするんだ」と小さく頷いた。
ペルシアはさらに悪ノリする。
「エリン、凄いわよ! 触ってみなよ!」
「い、いいわよ!」
エリンは顔を赤くするでもなく、きっぱり拒否した。
ただし拒否の仕方が、どこか慌てている。
それをペルシアが見逃すわけがない。
「えー? エリン、照れてる?」
「照れてない」
「照れてるー」
「……ペルシア」
エリンの声が少しだけ低くなる。
それだけでペルシアがピタッと止まる。
さっきまでの勢いはどこへやら、素直に話題を切り替えた。
「はいはい、それよりユイね」
エリンは“それより”の方向へ強引に舵を切る。
「ユイ、日焼け止め塗ってあげる。こっち来なさい」
「うん!」
ユイは嬉しそうにエリンの前に座り、腕を差し出す。
エリンは慣れた手つきで日焼け止めを塗り広げ、首の後ろ、耳の裏、頬のあたりまで丁寧に確認する。
その手際は、仕事で乗客のケアをする時と同じだ。
ただ、視線が少しだけ柔らかい。
ペルシアは、まだ名残惜しそうにリゅウジの腹筋を見ている。
「ほんと、S級って腹筋もS級なんだね」
「関係ないだろ」
「関係あるのよ。腹筋はね、世界を救うの」
「どう救うんだよ」
「こう救うの」
ペルシアはポーズを取って見せるが、意味はない。
ククルが笑い、カイエが「意味分からない」と呟きながらも口元は緩んでいた。
エリンが日焼け止めを塗り終え、手をパンと払う。
「よし。ユイ、帽子は外さない。水分こまめに飲む。疲れたらすぐ言う」
「はーい!」
ユイは元気よく返事をした。
エリンは次にククルとカイエを見た。
「二人も、無理しないで。波プールは人が多いから、離れないように」
「はい!」
ククルは背筋を伸ばす。
カイエは「了解です」と落ち着いて頷いた。
そして最後に、リュウジへ視線が向く。
エリンの目は“指示”ではなく、“確認”だった。
「リュウジ、ユイをお願いね」
リュウジは短く頷く。
「任せてください」
ペルシアがニヤニヤする。
「ふーん、“任せてください”だって。頼もしいねぇ」
「黙れ」
「ねぇねぇ、ユイ、リゅウジの腹筋触ってみる?」
「えっ」
ユイが目を丸くする。
リゅウジが即座に遮った。
「やめろ」
エリンも即座に言う。
「やめなさい、ペルシア」
声が低い。
ペルシアは両手を上げる。
「はい、撤回撤回。今のは冗談。…でもすごいのは本当」
リュウジはため息をつき、ユイの帽子を直した。
「お前、ユイに変なこと教えるな」
「えー? 腹筋は教育よ、教育」
「違う」
ユイがくすくす笑う。
その笑いにつられて、ククルも笑い、カイエも小さく息を吐いた。
波が遠くでざあっと音を立てる。
人工の海。人工の夏。
でも、今この瞬間の空気は、きっと本物だ。
エリンがパーカーのフードを整えながら言った。
「さあ、行きましょう。まずは浅い所から。ユイ、浮き輪はちゃんと付けるのよ」
「うん!」
ペルシアが拳を握る。
「夏休みの思い出、作るぞー!」
「テンション高すぎ」
リュウジが呆れるように言いながらも、歩き出す足取りは軽い。
タツヤがいない分、少しだけ忙しい。
でもだからこそ――このメンバーで作る“今日”は、特別になる予感がした。
ーーーー
波のプールの浅瀬は、想像以上に“海っぽかった”。
白い砂浜風の床材が足裏にざらりと触れ、人工海水のひんやりした感触がふくらはぎを撫でる。
遠くで低い機械音が鳴り、次の波が生まれる前触れのように水面がざわついた。
「来るよ、来るよ!」
ククルが両腕を上げて、子どもみたいに跳ねる。
その横でカイエは、落ち着いた顔でユイの浮き輪の位置を確認していた。
「ユイ、浮き輪ずれてない? ここ、ちゃんと締めて」
「うん!」
ユイは真剣な顔で頷く。
リュウジは浅瀬に立ちながら、視線だけで周囲の流れを見ていた。波の向き、人の密度、子どもが走ってくる角度。
操縦とは違うのに、やっていることは似ている。
予測して、先に動く。
波が来た。
ざあっ、と水が押し寄せ、膝下から一気に腰あたりまで水位が上がる。
浅瀬の大人が少しよろけ、子どもたちが歓声を上げる。
「きゃーー!」
ユイが声を上げた。怖いのではなく、楽しい声だ。
リュウジはユイの後ろに立ち、片手で浮き輪の背を支える。ユイの身体が波に押されても、ふわっと跳ねるだけで流されない。
「すごい! もう一回!」
「次も来る」
リュウジが短く答えると、ユイはさらに笑った。
その笑い声を聞いて、ククルが「ユイちゃん可愛い!」と叫び、カイエが「叫ぶと飲み込むよ」と冷静に突っ込む。
一方で、エリンはプールの中には入らず、外のデッキから見守っていた。
パーカーのフードの紐を指先で整え、タオルと飲み物の位置を確認し、荷物の周りの人の動線まで見ている。
遊び場にいるのに、彼女はどこか“現場”の顔をしていた。
ペルシアが波を受けてはしゃぐククルの背を押して、わざと大きな波に突っ込ませる。
「ほらククル! 元気担当の本領発揮して!」
「ちょ、ペルシアさんっ……!」
ククルがバタバタしながらも、結局笑ってしまう。
ユイもそれにつられて笑い、カイエが「……平和」と小さく呟いた。
リュウジは、その光景を見ながら少しだけ眉を緩めた。
波に合わせて身体を動かす。周りの声を聞く。余裕があるから、笑える。
――これが、守るってことの“別の形”なのかもしれない。
しばらくして、波の周期が少し落ち着いたタイミングで、ペルシアが手を叩いた。
「はいはい、休憩! 日陰戻るよー! ユイも、ほら!」
「うん!」
ユイは水をぽたぽた垂らしながら戻っていく。
リュウジはユイの手を取って歩き、カイエはククルが転ばないようにさりげなく腕を差し出した。
ククルは「大丈夫だよ!」と言いながらも、その腕に素直に乗る。
拠点のデッキに戻ると、エリンがすぐにタオルを差し出した。
「ユイ、体拭いて。冷えるから」
「はーい」
ユイは言われた通りに拭き始める。
その隣でペルシアはぐいっと髪をかき上げ、ぴちゃぴちゃと水を飛ばした。
「あー、最高。やっぱ夏は水だね。……ねぇエリン、エリンも入ってくればいいじゃない」
エリンは微笑んだまま、首を横に振る。
「私は別にいいわ」
「よくないって」
ペルシアは頬を膨らませる。
「せっかく来たんだよ? エリンだって楽しめる権利あるでしょ。ほら、ウォータースライダーでも――」
ペルシアの視線が、ちらりとリュウジへ向いた。
悪い顔だ。
「リュウジと乗ってきたら?」
「……え」
エリンが一瞬だけ言葉を詰まらせた。
ユイの髪を拭いていた手が止まり、すぐに平静を装うように動き出す。
「い、いいわよ。私は――」
「ユイは見とくから」
ペルシアが、さらりと決定打を落とす。
「でも……」
エリンが何か言おうとした、その瞬間だった。
ペルシアはもう立ち上がっていた。躊躇がない。やると決めたら動く。
そして次の瞬間、ペルシアはリュウジの前に立ち、にこやかに言い切った。
「リュウジ。エリンがウォータースライダー乗りたいんだって。付き合ってあげて」
「……は?」
リュウジの声と同時に、エリンが「ペルシア!」と低い声を出した。
しかしペルシアは聞こえないふりをして、ユイの肩を抱く。
「ユイ、行こっか。エリン、リュウジ、行ってきな!」
「ちょっと待て、俺は――」
リュウジが言いかけたが、ユイがきょとんとして言った。
「エリンさん、すべりだい、いくの?」
エリンは一瞬だけ硬直し、それから柔らかく笑った。
「……そうね。行ってみようかしら」
逃げ道を潰された。
だが“潰された”だけでもない。
エリンの声には、ほんの少しだけ――期待の色が混じっていた。
リュウジはため息をつき、エリンの方を見た。
エリンは視線を逸らし、パーカーの裾を握っている。
「……行きますか、エリンさん」
リュウジが敬語で言う。
その言い方が、いつもの仕事の延長みたいで、エリンの緊張を少しだけ溶かした。
「……ええ。お願いします」
ペルシアが満足げに頷き、手をひらひら振った。
「いってらっしゃーい!」
*
ウォータースライダーは、思った以上に“高かった”。
螺旋状に組まれた透明なチューブが、空へ向かって伸びている。
途中、コロニーの空が見える部分があり、人工太陽の光がチューブに反射してきらきらと眩しい。
階段を登りながら、エリンが小さく息を吐いた。
「……意外と、怖いわね」
「高いですからね」
リュウジはさらっと返す。
その“怖い”を否定しない言い方が、エリンにはありがたかった。
「リュウジは平気そうね」
「操縦席の方が高いです」
「そういう問題じゃないと思うんだけど」
エリンは苦笑する。
リュウジも、ほんの少しだけ口角を上げた。
頂上に着くと、係員がチューブ型の浮き輪を渡してくる。
二人乗り用。
それを見た瞬間、エリンが一瞬だけ固まった。
「……二人で乗るのね」
「そうみたいですね」
リュウジは淡々と浮き輪を受け取り、エリンに渡した。
エリンは浮き輪を抱え、ちらりと下を見た。
長い。曲がりくねっている。途中で見えなくなる。
「……行きましょうか」
エリンが言うと、係員が促す。
「前の方が先に座ってください。後ろの方は足を浮き輪の中に入れて、手は持ち手をしっかり」
エリンが前に座る。
普段なら迷いなく指示を出す人が、今は少しだけぎこちない。
その背中が、いつもより小さく見える。
リュウジは後ろに座り、足を入れ、持ち手を握った。
そして、自然な動作で、浮き輪がずれないように軽く支える。
触れない程度の距離。
しかし、守る位置。
「準備、いいですか?」
係員の声。
エリンは小さく頷いた。
「……はい」
リュウジが短く言う。
「大丈夫です」
次の瞬間、背中を押される感覚。
浮き輪が滑り出し、チューブの中に吸い込まれていった。
「――っ!」
エリンの声が小さく跳ねる。
水しぶき。加速。ぐん、と身体が押し付けられる感覚。
ぐるり、と回る。
光が途切れ、青いチューブの内側が流れていく。
エリンは思わず持ち手を強く握った。
早い。
速いのに、不思議と怖さだけではない。
身体が浮く感覚に近い。
宙に投げ出されるのとは違う、“遊び”の浮遊。
リュウジの声が後ろから聞こえた。
「大丈夫ですか」
「……大丈夫。たぶん」
エリンの返事が、いつもより子どもっぽい。
それにリュウジが、少しだけ笑う。
次のカーブで、浮き輪が壁に当たり、さらにスピードが増す。
エリンは思わず声を上げた。
「――きゃっ!」
その声が自分のものだと気づいて、エリンは少し恥ずかしくなった。
しかし、恥ずかしがっている暇もなく、滑り台は容赦なく続く。
出口が見えた。
光が戻る。
そして最後に、ざぶん、と水に飛び込むような衝撃。
二人は水面に浮かび、勢いのまま流されて、ゆっくりと止まった。
エリンが息を整え、髪の水を払う。
「……思ったより、楽しいわね」
「そうですね」
リュウジは短く答えた。
そして、エリンの横顔を見て、ほんの少しだけ驚く。
エリンが――笑っている。
仕事の微笑みじゃない。
誰かを安心させるための微笑みでもない。
ただ、自分の感情で笑っている。
その瞬間、リュウジは理解した。
ペルシアが強引に押した理由を。
「戻りますか」
リュウジが言うと、エリンは頷いた。
「ええ。」
*
拠点に戻ると、ペルシアがすぐに顔を上げた。
「おかえり! どうだった?」
エリンは髪を絞りながら、少しだけ目を逸らした。
「……悪くなかったわ」
「ほーらね!」
ペルシアは勝ち誇ったように笑い、エリンはユイの頭を撫でた。
「ユイ、いい子にしてた?」
「うん!」
ユイは元気に頷く。
ククルが「ユイちゃん、波すごかったね!」と話しかけ、カイエが「日焼け止め塗り直しした方がいい」と落ち着いて言う。
その賑やかさの中、エリンが荷物をまとめ始めた。
「そろそろ、お昼にしましょう。……お弁当、持ってきたの」
ペルシアが目を輝かせる。
「え、エリンのお弁当!? 最高!」
リュウジも少しだけ目を細めた。
前に食べたハンバーグの味が、ふっと蘇る。
エリンはクーラーバッグを開け、丁寧に包まれた箱を取り出した。
中身は、彩りが完璧だった。
小さめの唐揚げ――冷めても衣がふにゃっとしないように工夫されている。
ミニトマトとブロッコリー、卵焼き。
おにぎりは二種類、塩と梅。
ユイ用には小さく握ってあり、海苔は食べやすいように巻き方が違う。
ククルとカイエの分までちゃんと量がある。
何より、蓋を開けた瞬間にふわっと香る出汁の匂いが、空腹を一気に刺激した。
「わぁ……」
ククルが思わず声を漏らす。
カイエが「……すごい」と短く呟いた。
ペルシアはもう我慢できない。
「いただきます!」
「ちゃんと手、拭いてから」
エリンが言うと、ペルシアは「はいはい」と言いながらも、すでに唐揚げを狙っている。
エリンがペルシアの手をぴしっと止めた。
「拭いてから」
「……はい」
ペルシアが素直に拭くのが面白くて、リュウジが小さく笑う。
「笑わない」
エリンがリュウジに言う。
その声は厳しいはずなのに、どこか柔らかい。
さっきスライダーで笑った余韻が残っているみたいだった。
全員が座り、ユイが小さなおにぎりを両手で持つ。
「いただきます!」
ユイの元気な声に合わせて、みんなも言う。
「いただきます」
唐揚げを口に入れたペルシアが、目を丸くした。
「……うっま」
「でしょ」
エリンは淡々と言う。
しかしその頬が少しだけ緩んでいる。
ククルが唐揚げを食べ、幸せそうに息を吐く。
「衣がサクサクのままです……冷めてるのに……」
「水分の逃がし方と、詰め方を工夫したの」
エリンがさらっと言う。
料理を“仕事”として説明するのが、彼女らしい。
カイエは卵焼きを食べ、静かに頷いた。
「甘すぎない。出汁が効いてる」
「カイエ、分かるじゃない」
ペルシアがにやりと笑う。
カイエが「当たり前」と返し、ククルがくすくす笑った。
リュウジは一口、唐揚げを食べた。
――うまい。
単純にうまいだけじゃない。
“食べる人”の状態を想定して作られている味だ。
暑い日に、塩気が効いて、胃が重くならない。
噛むと肉が柔らかく、疲れている身体に染みる。
「……本当に美味しいです。エリンさん」
リュウジが敬語で言うと、エリンは少しだけ目を逸らし、照れ隠しみたいに言った。
「作るなら、美味しく作るもの」
ペルシアがすかさず突っ込む。
「照れてる?」
「照れてない」
「照れてるー」
「ペルシア」
エリンの声がまた低くなる。
ペルシアはにっこり笑って、素直に口を塞いだ。
しかし目が笑っている。絶対に反省していない。
ユイが頬に米粒をつけたまま、おにぎりを食べながら言う。
「エリンさん、おいしい!」
「ありがとう」
エリンの声が、さっきよりもっと柔らかい。
その柔らかさが、リュウジの胸の奥を少しだけ温めた。
ククルがふと、空を見上げた。
人工の青空。
その下で、みんなが弁当を囲んで笑っている。
「……なんか、夢みたいです」
「夢じゃないよ」
ペルシアが口いっぱいに頬張りながら言う。
「ちゃんと現実。だから、いっぱい食べときな」
「ペルシア、口に入れたまま喋らない」
エリンの注意。
ペルシアは「んふふ」と笑って、また食べる。
リュウジはその様子を見て、ふっと思う。
守るというのは、危険から遠ざけることだけじゃない。
こういう時間を“成立させる”ことでもある。
タツヤはいない。
でもタツヤが繋いだチケットと、ユイの笑い声と、エリンの弁当と、ペルシアの騒がしさが、今日をちゃんと“夏休み”にしている。
エリンが水筒を配りながら言った。
「午後は、無理しない程度にね。日差しも強いし、ユイも疲れるから」
「はーい」
返事は揃わない。
でも、そのバラバラさが心地いい。
ペルシアが最後に唐揚げをもう一つ摘まみ、リゅウジの方へ突き出した。
「ほら、もう一個。S級はいっぱい食べなきゃ」
「お前が食べるんだろ」
「違う。これは“支給”。エリン弁当は貴重品だから」
「意味分からない」
リゅウジは苦笑しながら受け取り、口に入れた。
うまい。
そして、少しだけ――優しい味がした。
ーーーー
午後のレジャー区画は、午前とは別の顔をしていた。
人工太陽は少し傾き、光は相変わらず強いのに、風だけが涼しくなってくる。波プールの周期は一定で、機械の低い唸りが遠くで規則正しく鳴っていた。
水面はきらきらして、そこに浮かぶ浮き輪や子どもたちの歓声が、コロニーの白い天井に跳ね返る。
「ユイ、次はあっちの浅いところにしよ!」
ククルが手を振ると、ユイが大きく頷いた。
「うん!」
カイエは相変わらず周囲の動線を見ていて、波が来るタイミングでユイの背中を支える位置をさっと変える。
ペルシアはその横で、波が来るたびにわざと大げさに転びそうな芝居をして、ユイとククルの笑いを引き出していた。
「ほらー! 波が私を襲うー!」
「ペルシアさん、楽しそうですね!」
「当たり前。夏休みだもん」
リュウジは少し離れた場所で、全員が視界に入る位置を保っている。
波の向きと人の流れを読み、子どもが走り込んできそうな角度を消していく。
遊びに来ているのに、彼の立ち姿だけはどこか“操縦席”に近かった。
その一方で、エリンは、午前よりは少しだけプールの縁に近い位置に座っていた。
パーカーの袖をまくり、ユイの帽子の位置を直し、水分を飲ませ、タオルを交換する。
遊びながらも、目は常に「安全」と「体調」を追っている。
それでも、彼女の口元は柔らかい。
「ユイ、寒くない?」
「だいじょーぶ!」
「無理しないでね。寒くなったら言うのよ」
ユイは「はーい!」と返事をして、また波へ突っ込んでいく。
エリンはそれを見て、小さく笑った。
――少し前まで、“休むこと”にすら抵抗があったのに。
こうして笑えることが、エリン自身もどこか不思議だった。
しばらくして、エリンが立ち上がる。
「ちょっとトイレに行ってくるわ。ユイ、ちゃんとみんなの近くにいるのよ」
「うん!」
ペルシアが片手を上げた。
「はーい、チーフ。ユイは私が見とく。リュウジもいるし」
「……お願いね」
エリンはそう言って、足早にデッキを離れた。
プールの外周通路は、濡れた足跡と日焼け止めの甘い匂いが混ざっている。
人の往来も多く、すれ違うたびに肩が触れそうになる。
――こういう場所は、油断すると一瞬で疲れる。
エリンは自然と背筋を伸ばし、歩幅を一定にした。
トイレを済ませ、手を洗って、髪の乱れを整える。
鏡に映った自分は、仕事の時ほどきっちりしていない。
なのに、その方が呼吸が楽だ。
――戻ろう。
通路へ出た、その時だった。
「ねえ、あなた」
背後から声がかかる。
振り向くと、見知らぬ男が二人。
年齢は二十代後半から三十代くらい。日焼けした肌に、派手なサングラス。
レジャー区画の“空気”に馴染んだ服装をしている。
「さっきから見てたんだけどさ、ひとり?」
その言葉を聞いた瞬間、エリンの中で“温度”が下がった。
嫌な熱を含んだ声。距離感の取り方。視線の流れ。
――ナンパ。
エリンは微笑まない。
仕事で使う微笑みは、こういう相手に向けるものじゃない。
「違います」
短く、きっぱり。
「えー、でも今ひとりじゃん。ちょっと一緒に――」
「お断りします」
それでも男たちは引かない。
一人が、半歩近づいてくる。もう一人が、通路の外側に回り込み、逃げ道を“自然に”狭めた。
エリンの眉がわずかに動く。
これはもう、偶然じゃない。
「しつこいですね」
エリンの声は低い。普段、乗務員をまとめる時の声だ。
それでも男は笑って誤魔化す。
「だってさ、綺麗だし。そういうの、言われ慣れてるでしょ?」
「慣れてません。興味もありません」
「冷たいなぁ。ちょっとくらい――」
「距離を取ってください」
エリンは通路の端に寄りすぎないようにしながら、斜めに体を動かす。
視線で周囲を探す。スタッフ、警備、監視カメラ――。
だが、男はそれすら読んだように距離を詰める。
「そんな怖い顔しないでさ」
「怖い顔をさせているのは、あなた達です」
エリンは一歩だけ下がり、声を強くした。
「もう一度言います。やめてください」
その瞬間だった。
片方の男が、突然、エリンの手首を掴んだ。
「――っ!」
痛みよりも先に、怒りが立ち上がる。
反射的に身体が動き、エリンの中の“現場”が目を覚ました。
しかし、次の瞬間――
ぐい、と視界が揺れた。
掴まれた手首が引かれるのではなく、逆にエリンの身体ごと引き寄せられる。
背中が、硬い胸板に当たった。
「……エリンさん、大丈夫ですか」
低い声。落ち着いた温度。
聞き慣れた声だった。
リュウジ。
彼はエリンを自分の後ろへ滑り込ませるように引き、男たちとの間に身体を入れていた。
距離は近いのに、圧迫感がない。
“守る位置”だけが、確実に確保されている。
男が一瞬、怯んだ。
だがすぐに虚勢を張る。
「あ? なんだよお前。彼氏か?」
リュウジは表情を変えない。
ただ、目だけが冷える。
操縦席で“異常値”を見た時の目だ。
「何してるんだ、お前ら」
声は低く、短い。
威圧ではなく、事実確認の刃。
「は? 別に、話してただけ――」
「手首を掴むのが“話す”のか?」
リュウジの言葉に、男の口が一瞬止まる。
そこへ、もう一人の男が笑って誤魔化そうとした。
「いや、ちょっと酔っててさ。ノリで――」
「ノリで人に触るな」
リュウジは一歩だけ前に出た。
それだけで、空気が変わる。
男たちが、ようやく気づく。
目の前の男が“ただの一般客”じゃないことに。
鍛えられた身体つき。立ち姿の安定。
そして、何より――視線に一切のブレがない。
リュウジは男の掴んでいた手首を、乱暴ではないが確実に外させる角度で押し戻した。
力を見せつけるのではなく、逃げ道を作るように。
「離れろ」
男が舌打ちする。
「なんだよ……」
「謝れ」
「は?」
「謝れって言ってる」
リュウジの声は淡々としている。
だが、逆らえば一歩も進めないと、男たちの身体が理解している。
男たちは互いに目を合わせ、しぶしぶ言った。
「……悪かったよ」
それでも、言葉に誠意はない。
エリンはその背中越しに、リュウジの肩が少しだけ張るのを感じた。
彼は一度だけ深く息を吸い、そして静かに言った。
「今すぐ、ここから消えろ」
男たちは、それ以上粘る気を失ったのか、肩をすくめて去っていった。
通路の人混みに紛れていく。
リュウジが、ようやくエリンの方を振り返った。
「……怪我は、ないですか」
敬語。
いつも通りの言い方が、逆にエリンの心臓を落ち着かせた。
「……大丈夫。ありがとう」
エリンの声は少しだけ震えていた。
怖かったというより、怒りと緊張が一気に抜けた揺れだ。
リュウジは眉をひそめる。
「すみません。もっと早く気づけば」
「あなたが謝ることじゃないわ」
エリンはそう言いながら、自分の手首を見る。赤くなっている。
そこへリュウジが、少しだけ距離を取りながら、視線で確認した。
「……痕、残りそうですか」
「大丈夫よ。これくらい」
エリンが言い切ると、リュウジは小さく頷いた。
次に彼は、通路の奥を見て、端末を取り出しかけ――やめた。
警備を呼ぶこともできる。だが、今はエリンの判断を尊重する、とでも言うように。
エリンはその迷いを読み、少しだけ柔らかく言った。
「……もう行こう。ユイが待ってる」
「はい」
リュウジは短く返事をし、エリンの歩く速度に合わせて隣に並んだ。
前を歩かない。後ろにも回らない。
守りながら、対等な位置。
――こういうところが、彼らしい。
エリンはふと、以前抱いていた疑念を思い出す。
“パイロットは乗務員を道具みたいに扱うことがある”。
“リュウジはどうなんだろう”。
今なら、答えが分かる。
少なくとも、目の前の男は――人を“守る側”にちゃんと立っている。
拠点のデッキが見えてきた。
波プールの音と笑い声が戻ってくる。
ユイの「リゅウジー!」という声が飛んできて、胸の奥が少しだけ軽くなる。
だが、その直後。
「……遅い」
低い声が横から刺さった。
ペルシアだ。
日陰のタオルの上に座り、ユイの帽子を直しながらも、目だけは鋭くこちらを見ている。
“耳がいい”というより、“空気の揺れが分かる”目だ。
「何かあったでしょ」
エリンが言い返そうとする前に、リュウジが先に口を開いた。
「……ちょっとトラブルにな」
ペルシアの視線がエリンの手首に落ちる。
一瞬、笑顔が消えた。
「誰」
たった二文字なのに、温度がない。
怒りが底に沈んでいる声。
「もういいの」
エリンが即座に言う。
ペルシアの“爆発”を止めるためだ。
「大丈夫。解決した」
「解決したって、痕ついてる」
「これくらい平気」
「平気じゃない」
ペルシアが立ち上がりかける。
その瞬間、カイエがさりげなくペルシアの足元にタオルを差し出した。
「ペルシアさん、足、滑る」
ククルも慌てて言う。
「ペルシアさん、まず水分……!」
ユイがきょとんとしながら、ペルシアの手を握った。
「ペルシアさん、どうしたの?」
その小さな手の温度で、ペルシアの肩がほんの少しだけ落ちた。
「……なんでもない。ユイ、いい子にしてた?」
「うん!」
ユイが元気に頷くと、ペルシアは口元だけで笑う。
でも目はまだ怒っている。
エリンはその横顔を見て、少し息を吐いた。
ペルシアは乱暴で、口も悪くて、すぐに火がつく。
けれど、その火はいつも“仲間”のためだ。
エリンはリュウジの方を見た。
「……助けてくれて、本当にありがとう」
さっきより、もう少し柔らかい声になっていた。
リュウジは少しだけ目を伏せ、敬語のまま言う。
「当然です。……エリンさんが怪我をする理由なんて、どこにもない」
その言葉が、妙に真っ直ぐで、エリンは一瞬だけ言葉を失った。
そして、誤魔化すようにパーカーの袖を引き下ろす。
「……さあ、戻りましょう。せっかくの午後なんだから」
ペルシアが鼻で笑う。
「そうね。台無しにされたくないし」
そして、リュウジをじろりと見た。
「リュウジ、今日の残りは“警備担当”ね」
「元からそうだ」
「なら合格」
ククルがほっとしたように笑い、カイエが静かに頷く。
ユイはもう、波の音に気持ちを引っ張られている。
「ねえ、またあそぶ!」
「よし」
ペルシアが立ち上がり、ユイの浮き輪を直す。
「今度はもっと大きい波のところ行く?」
「いく!」
「ちょっと待って」
エリンが即座に止める。
「浅いところから。順番」
「はーい……」
ユイがしゅんとする。
エリンはそれを見て少しだけ笑い、ユイの頭を撫でた。
「いい子なら、最後に一回だけ、ね」
ユイの顔がぱっと明るくなる。
「ほんと!?」
「ほんと」
そのやり取りを見て、リュウジが小さく息を吐いた。
――守るべきものが、ここにはたくさんある。
波も、光も、人の悪意も。
全部ひっくるめて、“今日”を無事に終わらせる。
リュウジは歩き出しながら、ふっと思った。
操縦よりも難しいかもしれない。
それでも――不思議と、嫌じゃなかった。
波がまた来る。
歓声が上がる。
そして、エリンの視線が、少しだけ柔らかくリュウジの背を追っていた。