サヴァイヴ〜ドルトムント財閥〜   作:一塔

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バーベキュー

 十四班のフライトは、いつもより静かに、そして少しだけ重かった。

 

 今日の便は――ドルトムント財閥と懇意にしているVIP会員を搭乗させる特別フライト。

 木星コロニーから火星コロニーまで移送し、そのまま別の定期便で木星へ戻る。

 過密スケジュールだ。体力も神経も削られる。しかも相手は、ただの上客ではない。

 “特別扱いされることに慣れた人間”が乗る便は、いつだって気が抜けない。

 

 出発準備は完璧だった。

 整備士の最終報告書も問題なし。

 客室乗務員のブリーフィングも抜かりなく、エリンがいつも通りに全体を締めた。

 

「今日は、こちらが“丁寧すぎる”くらいでちょうどいいわ。些細な違和感も、必ず共有して。質問は?」

 

 誰も声を上げない。

 けれどその沈黙は、緊張ではなく“理解”だった。十四班はそういう班だ。

 

 そして、離陸。

 航行が安定した頃には、宇宙船は規定航路に乗り、柔らかな人工重力が客室を包んでいる。

 

 操縦室には、いつもの二人がいた。

 

 操縦席に座るリュウジ。

 副操縦として隣に立つタツヤ。

 

 このコンビは、無駄がない。言葉が少なくても通じる。

 ――だが今日の操縦室には、もうひとつ“異質”なものが混じっていた。

 

 可憐な声。

 

「タツヤ班長、今日は戻ったら仕事終わりよね〜」

 

 ペルシアが、操縦室の後ろに設けられた補助席で足をぶらぶらさせながら言った。

 ヘッドホンの片耳だけをずらし、まるでカフェの雑談みたいな軽さで。

 

「そうだよ〜。今日は朝早かったから、昼過ぎには終われるかな」

 

 タツヤも、いつもののらりくらりで返す。

 リュウジは前を見たまま、心の中で小さく息を吐いた。

 

 ――操縦室は静かであるべきだ。

 だが、十四班は“静けさだけ”で航行する班じゃない。

 

「くぅー、早起きしたかいがあったわ」

 

「遅刻してきたくせによく言うよ」

 

「エリンにバレてないからセーフ」

 

「まったく……バレたら俺も怒られるんだよ」

 

 タツヤが少しだけ大げさに肩を落とすと、ペルシアがにやりと笑う。

 

「タツヤ班長がペルシア派で良かったわ」

 

 リュウジは、そこでようやく口を挟んだ。視線は計器から外さない。

 

「……そんな事より、いつまで操縦室にいるつもりだ?」

 

「何よ、エリン派のくせに」

 

「……遅刻したこと言うぞ」

 

「私の弱みを握って何する気なの!?」

 

「何で操縦室にいるんだって聞いてるんだ。こんな所にいたら、本当にエリンさんに怒られるぞ」

 

 リュウジの声は淡々としている。

 それが逆に圧になると、ペルシアは分かっている。だから余計にからかう。

 

「残念。今日はエリンの指示でここにいるのよ」

 

「……なに?」

 

 リュウジの眉がほんのわずかに動く。

 タツヤが、軽い調子で説明した。

 

「ペルシア、耳がいいのは知ってるでしょ? こういうVIPが相手の時は、ペルシアが耳で俯瞰して全体を見るのよ」

 

「なるほど」

 

 リュウジは短く納得した。

 ペルシアは勝ち誇ったように胸を張る。

 

「ペルシア派に付くなら今のうちよ〜?」

 

「はいはい」

 

 リュウジは流した。

 だが、その“はいはい”の裏で、彼はすでに理解し始めていた。

 

 ――エリンが“指示”してまでペルシアを操縦室に置く意味。

 これは雑談ではない。

 十四班の安全装置のひとつだ。

 

 ペルシアはヘッドホンをしっかり耳に当て直した。

 操縦室のスピーカーとは別系統の、客室モニタリング回線。

 客室のざわめき、足音、シートの軋み、吸気音。

 それらを“音として”ではなく、“人の状態として”拾うための耳。

 

 そして、彼女の声色が変わる。

 

 可憐な軽口は消え、きっぱりとした、しかし鋭すぎない指示に変わった。

 

「エマ。後方から三列目、A席。欠伸した。疲れてる声。毛布か……酔い止め、お願い」

 

 タツヤが小さく感心したように鼻で笑う。

 リュウジは計器を追いながら、ペルシアの言葉の精度に意識を向ける。

 

 欠伸――それはただ眠いだけじゃない。

 疲れ、緊張、酔いの前兆、室温の違和感。

 “欠伸した”を、そこまでの情報に変えるのがペルシアだ。

 

 次。

 

「カイエ。子どもが暇してる。足をバタバタさせてる音。お絵描きセット持って行って」

 

 続けて。

 

「ククル。前列のお客様、声が揺れてる。遠慮してる声。『困ってる』って言えないタイプ。声かけてあげて」

 

 ククルが「了解です!」と返す声が、回線越しに聞こえた。

 その返事だけで、客室の温度が少し上がるのが分かる。

 ククルの“元気”は、武器だ。

 

「……エリン」

 

 ペルシアの声が少し低くなる。

 

「B2区画が少し騒ついてる。笑い声じゃない。多分、言い合いの前。様子見てきて」

 

 すぐに、エリンの声が返る。

 

『了解。行ってくる』

 

 短く、迷いのない返答。

 “チーフパーサーとしての覚悟”が、声の芯にある。

 

 リュウジは、そのやり取りを聞いて、ひとつ気づく。

 ペルシアは、ただ耳がいいだけじゃない。

 彼女の指示は、常に“乗務員の負担”を減らす方向へ向いている。

 

 酔い止めを持って行け、ではない。

 「疲れてる声」「遠慮してる声」――つまり、今動けば大きな火種にならないという予測。

 先回りして火を消し、現場の緊張を最小限にする。

 それができるから、エリンはペルシアに操縦室の“俯瞰”を任せる。

 

 操縦室は変わらず安定している。

 航行も安定している。

 それなのに、見えない場所では常に小さな波が立つ。

 VIP便というのはそういうものだ。

 

 リュウジは淡々と計器を読み上げ、推力と姿勢を微調整した。

 揺れはほとんど出さない。

 客室に余計な負担をかけないために。

 

 ペルシアが、ふっと息を吐く。

 

「……ねぇリュウジ」

 

「なんだ」

 

「あなた、こういう便、好き?」

 

「好き嫌いでやってない」

 

「真面目すぎ」

 

「仕事だからな」

 

 その返しに、ペルシアが笑う。

 けれど笑いは短い。すぐに耳が客室へ戻る。

 軽口も役割のうちだと分かる。

 

 数十分後。

 B2区画の騒つきは、エリンの介入で鎮まったらしい。

 エリンの声が回線に戻る。

 

『解決。VIPの方同士の席の希望が食い違ってただけ。配置替えで収まった』

 

「流石」

 

 ペルシアが小さく言う。

 その“流石”には、いつものからかいはない。

 純粋な信頼がある。

 

 リュウジは、その信頼の流れを感じながら、操縦桿に触れていた。

 彼らは役割が違う。

 しかし目的は同じだ。

 

 ――宇宙船に乗る全員を守る。

 

 火星コロニーへの到着が近づいてくる。

 制動に入り、速度を落とし、姿勢を整える。

 客室の静けさが少しずつ増していくのが、回線越しに分かる。

 緊張が解け始める音。荷物を整理する音。窓側に寄る音。

 

 ペルシアが、唐突に言った。

 

「ねぇ、十四班でバーベキューしたい」

 

「突然だな」

 

 リュウジが即座に返す。

 タツヤは笑った。

 

「唐突だね〜」

 

「だってさ」

 

 ペルシアはヘッドホンを片耳だけずらし、いつもの軽口モードに戻る。

 

「私たちの職業って、同じ休みもないし、365日営業だから、忘年会も新年会もないじゃない?」

 

「まぁ、そうだね」

 

 タツヤが頷く。

 ペルシアは続けた。

 

「親睦も兼ねてやった方がいいと思うのよね。ほら、ククルもさ。最近、色々あったじゃない。みんなで“楽しい”ってやつを共有しないと、気持ちがすり減る」

 

 操縦室の空気が、ほんの少しだけ静かになる。

 ペルシアの軽さの裏にある、真剣さが見えたからだ。

 

 リュウジは前を見たまま言う。

 

「……確かに、同じ班なのに、顔を合わせるだけで終わる日が多い」

 

「でしょ?」

 

 ペルシアが即座に乗る。

 

「だから! やろうよ! バーベキュー! 肉! 野菜! 焼きそば! あと……」

 

 そこでペルシアが一瞬止まる。耳が戻った。

 客室の音を拾う。

 

「……前方区画、誰かが深呼吸した。緊張が解けた音。到着のアナウンス、そろそろお願い」

 

「了解」

 

 タツヤが返事をして、回線を繋ぐ。

 エリンにアナウンス指示を送る。

 

 そして操縦室は、また“仕事の顔”に戻る。

 ペルシアの提案は宙に浮いたまま。

 だが、浮いたままでも消えない。

 それが、彼女の強さだ。

 

 火星コロニーの外郭が見え始めた。

 巨大な人工構造物が、ゆっくりと近づいてくる。

 ドッキングシーケンスに入り、速度はさらに落ちる。

 リュウジの指先が、ほんの数ミリ単位で操作を重ねる。

 

「……タツヤ班長」

 

 ペルシアが、また片耳をずらして言った。

 

「今日、昼過ぎに終わるって言ったよね? じゃあ、みんなに話す時間ある?」

 

「あるよ〜。多分ね」

 

「多分じゃだめ。確定して」

 

「確定って言われても、宇宙は確定しないからなぁ」

 

 タツヤののらりくらりに、ペルシアがむっとする。

 

「班長のくせに」

 

「班長だからのらりくらりなんだよ」

 

「開き直り!」

 

 そのやり取りを聞きながら、リュウジは小さく息を吐いた。

 この班の空気は、こういう軽口で保たれている。

 それでも、必要な時には全員が一瞬で真面目になる。

 今日だってそうだった。

 

 ドッキングの最終段階。

 リュウジが淡々と告げる。

 

「……接続、五秒前」

 

 操縦室の空気が引き締まる。

 ペルシアも黙り、ヘッドホンを両耳に戻した。

 タツヤも目線を計器に戻す。

 

 そして――

 微かな振動。

 接続完了。

 

「……ドッキング完了」

 

 リュウジが言った瞬間、操縦室に小さな安堵が落ちた。

 回線の向こうで、客室乗務員たちが動き出す音がする。

 乗客の呼吸が変わる。

 到着という“終わり”は、最も危険が少ない瞬間であると同時に、最も油断が生まれる瞬間でもある。

 

 ペルシアが静かに言った。

 

「――ねぇ。バーベキュー、やろうよ」

 

 その声は、軽口でも冗談でもなく。

 班の空気を整えるための、彼女なりの真剣な提案だった。

 

 リュウジは、ほんの少しだけ口角を上げた。

 

「……肉は誰が焼くんだ」

 

「それはエリン。絶対」

 

「ひどい」

 

「だってエリンの料理、美味しいもん」

 

「……じゃあ、俺は火を管理する」

 

「お、頼もしいじゃん!」

 

 タツヤが、少しだけ笑って言った。

 

「いいね〜。十四班らしい“イベント”だ」

 

 操縦室の空気に、やっと“仕事以外”の風が通った。

 それは小さい。

 けれど確かに、次のフライトまでの過密な現実を、少しだけ軽くする風だった。

 

ーーー

 

 宇宙事業部のフロアには、ようやく“戻ってきた”という空気が落ちていた。

 

 火星コロニー便を終え、別の定期便で木星へ戻り――そこから社へ戻って業務日誌。

 過密スケジュールの最後に待っているのが、紙と端末と定型文というのがいかにもこの仕事らしい。

 

 十四班のエリアでは、それぞれが慣れた動きで椅子を引き、端末を開き、ログの項目を埋め始めた。

 

 ククルは頬を膨らませながらも、指先だけは真面目に動かしている。

 カイエは黙々と短く端的に事実だけを記録し、エマは整った文で丁寧にまとめていく。

 エリンは全体の終業確認のように目を配りつつ、自分の入力欄へ視線を落とした。

 タツヤは机に肘をつきながら「ふう」と息を吐き、入力欄を眺めている。

 リュウジは、淡々と、しかし速い。必要事項が的確に埋まっていく。

 

 ――その静かな作業の流れを、あっさり崩したのがペルシアだった。

 

 ペルシアは入力欄を半分も埋めないうちに椅子の背もたれを使ってくるりと回り、身を乗り出す。

 

「ねえ、ねえねえ、みんな」

 

 その声でキーボードの音が止まる。

 ククルがぱっと顔を上げ、エマが微笑み、カイエは目線だけ動かした。

 エリンは嫌な予感がしたのか、目だけで「やめなさい」と言ったが――ペルシアは見なかったことにした。

 

「十四班で、バーベキューしよう。今日」

 

 今度こそ、完全に沈黙が落ちた。

 

「……いきなりだね」

 

 エリンが仕事中の落ち着いた声で言う。

 ただし、語尾には疲労が乗っている。今日は長かった。これ以上、余計なイベントは増やしたくない――その本音が透けた。

 

「いきなりじゃないよ。操縦室でも言ったもん」

 

「操縦室で言ったからって、今日になるのは飛躍があるわ」

 

「飛躍があるのがバーベキューの醍醐味」

 

「醍醐味の使い方が違う」

 

 ククルが小さく吹き出し、すぐに真面目な顔に戻る。

 

「でも、今日……ですか? 買い出しとか……」

 

「買い出しはこれからすればいいじゃん!」

 

 ペルシアの勢いに、ククルの目が輝く。

 

「やりたーい!」

 

 カイエも小さく頷いた。

 

「賛成」

 

 エマも上品に微笑む。

 

「私も、こういうの久しぶりです」

 

「ほら! みんな乗り気!」

 

 ペルシアが勝ち誇ったように言うと、エリンはキーボードから手を離し、眉間を押さえた。

 

「……気持ちは分かるけど、コロニーだから火は使えないでしょ。焼肉じゃダメなの?」

 

 ペルシアは真顔で首を振った。

 

「駄目」

 

「……え?」

 

「もう口がバーベキューだもの」

 

「意味が分からない」

 

「分かって。口が、“外で火を起こして焼く”って言ってる」

 

「あなたの口は、規則より強いの?」

 

「強い」

 

 ククルが笑いを堪えきれず、ぷっと吹いた。

 カイエの口元がわずかに緩み、エマも口元を押さえる。

 

 リュウジが淡々と釘を刺す。

 

「……そもそも、コロニーの規則で火器の扱いは厳格だろ」

 

「うるさい、エリン派」

 

「事実を言っただけだ」

 

「事実より夢を見なさい!」

 

「夢で肉は焼けない」

 

「焼ける!」

 

「焼けない」

 

 エリンが深くため息をついた。

 

「……だから、焼肉でいいって言ってるの」

 

「焼肉は室内でしょ。違うの。外。開放感。煙。炭。『バーベキュー』って感じのやつ」

 

「煙なんて出したら怒られるわ」

 

「怒られない場所を探せばいいのよ」

 

「探せばいいのよ、って……今日よ? 今日なのよ?」

 

 エリンが言い終わる前に、聞き慣れたのらりくらりした声。

 

「おーい、ペルシア」

 

 タツヤだ。

 その手には端末と紙のメモ。なぜか少し得意げだ。

 

「日誌……は後で。先に言うことある」

 

 タツヤの言葉に、エリンの眉が上がる。

 “先に言うこと”という言い方が嫌な予感を増幅させた。

 

 そしてタツヤは、さらっと言った。

 

「知り合いに惑星開発区画借りといたから、そこでバーベキューやろう。そこなら火を起こしてもいいってさ」

 

 静寂。

 

 次の瞬間、ペルシアが椅子から跳ね上がった。

 

「タツヤ班長、大好き!!」

 

 タツヤは「わっ」と言いながら、さりげなく距離を取る。

 

「抱きつくのはやめて? 俺、骨弱いから」

 

「嘘つけ!」

 

 ククルが歓声を上げる。

 

「ほんとにできるんですか!?」

 

「できるよ〜。開発区画って、実験とか施工の都合で火器使用が許可されてる場所もあるんだって。もちろん管理者の許可が必要だけど、知り合いが担当でね。安全管理もちゃんとしてるところ」

 

 カイエが確認する。

 

「……消火設備」

 

「ある。監視もある。使用範囲も決まってる」

 

 エマが目を丸くする。

 

「そんな場所が……」

 

 エリンはタツヤを見つめたまま、目を細めた。

 

「……タツヤ班長、いつの間に」

 

「え? だってさ」

 

 タツヤがのらりくらりと笑う。

 

「操縦室でペルシアが言い出した瞬間、俺の脳内に“エリンの顔”が浮かんだんだよね〜」

 

「どういう意味ですか」

 

「ペルシアが暴走して、エリンが止めて、結局エリンが準備するやつだなぁって」

 

「……」

 

 エリンの無言が怖い。

 ククルが背筋を伸ばし、エマがそっと視線を逸らし、カイエが「……危険」と小さく呟いた。

 

 リュウジが淡々と刺す。

 

「……つまり、エリンさんに負担が集中する」

 

「そうそう」

 

「そうそうじゃない」

 

 エリンが低い声で言った。

 だが――次の瞬間、彼女は小さく息を吐き、諦めたように頷いた。

 

「……今日なら、なおさら段取りが必要ね。仕方ないわね」

 

 ペルシアが満面の笑みになる。

 

「ありがとう、エリン!」

 

「まだ了承しただけよ」

 

「了承が最重要!」

 

 ペルシアが勝利宣言のように両手を上げる。

 

 タツヤがぽんと手を叩く。

 

「じゃ、決まりね。十四班、今夜バーベキュー開催」

 

「開催!」

 

 ククルが同調し、エマも微笑み、カイエが小さく「……よし」と呟いた。

 

 エリンは腕を組む。

 

「……で、集合時間。場所。買い出し担当。予算。火器の扱い。全部決める。今」

 

 ペルシアが即座に口を開く。

 

「じゃあエリンは料理担当ね」

 

「待ちなさい」

 

「野菜とお肉と焼きそばと、あと海鮮も食べたい」

 

「待ちなさいって」

 

「あとデザート!」

 

「待ちなさいって言ってるの!」

 

 エリンの声が一段上がる。

 ペルシアはしれっと首を傾げた。

 

「え、何?」

 

「……ペルシア、私を何だと思ってるの」

 

「十四班の胃袋を支える女神」

 

「違う」

 

「でもエリンの料理、絶品だし」

 

 ククルが「わかります!」と全力で頷き、エマも「本当に美味しいです」と同意した。

 リュウジがぽつり。

 

「……唐揚げ、また食べたい」

 

 エリンが一瞬固まる。

 その後、唇の端がほんの少しだけ緩んだ。

 

「……はいはい。分かったわよ」

 

 ペルシアが即座に両手を合わせる。

 

「やった!」

 

「ただし条件があるわ」

 

 エリンの声が、チーフパーサーのそれに戻る。

 全員の背筋が少しだけ伸びた。

 

「買い出しは分担。準備も片付けも分担。私は“全部”はしない」

 

「えー」

 

「えーじゃない」

 

「じゃあ私は盛り上げ係!」

 

「一番楽なやつを取らない」

 

「じゃあ……炭係!」

 

「炭は危ない」

 

「じゃあ……海鮮係!」

 

「それは買うだけでしょ」

 

「……じゃあ、皿洗い係!」

 

 エリンが一瞬考えるように眉を上げる。

 

「……皿洗いは、あなたとタツヤ班長で」

 

「え、タツヤ班長も?」

 

 タツヤが目を丸くした。

 

「えー、俺も? 班長だよ?」

 

「班長だからです」

 

 エリンがにこりと笑う。

 その笑顔は柔らかいのに、逆らえない笑顔だった。

 

 ペルシアが即座にタツヤを見た。

 

「タツヤ班長、頑張って」

 

「ペルシアも頑張るんだよ〜」

 

「私は盛り上げ係だから」

 

「盛り上げ係は、片付けもしなさい」

 

 エリンがきっぱり言うと、ペルシアが口を尖らせた。

 

「ちぇー」

 

 リュウジが静かに言う。

 

「……火を扱うなら、消火器の位置と避難経路の確認は必須だ」

 

「当然」

 

 エリンが頷く。

 

「当然」

 

 タツヤも頷く。

 

「……当然」

 

 ペルシアも、しぶしぶ頷く。

 

「当然です!」

 

 ククルが元気に言い、カイエが短く。

 

「……当然」

 

 エマが上品に微笑む。

 

「もちろんです」

 

 エリンが、端末の画面を閉じながら指示を飛ばす。

 

「じゃあ、今から動く。ククルとエマ、買い出しのリスト作って。カイエは必要備品と人数把握。タツヤ班長は場所の最終確認と入退場の手続き。ペルシアは……」

 

「はいはい、何でもやりますよ〜?」

 

「“盛り上げ”じゃなくて、連絡係。全員に集合時間と持ち物を回して」

 

「了解〜」

 

 ペルシアが敬礼の真似をしながら端末を叩き始める。

 

 リュウジは静かに立ち上がった。

 

「俺は、火器の扱いと設営を手伝う。あと肉の量、足りないと揉めるから多めに買え」

 

「頼もしい!」

 

 ククルがぱっと笑顔になり、エマが「心強いですね」と頷く。

 

 エリンは、そんなリュウジを見て、小さく息を吐いた。

 仕事の延長。段取り。管理。安全。

 それでも――班のみんなが少しだけ楽しそうな顔をしているのを見て、心のどこかがほどけた。

 

「……じゃあ、決まり。今夜、十四班バーベキュー。事故なし、怪我なし、迷惑なし。いい?」

 

「はーい!」

 

 返事が重なる。

 

 タツヤが、のらりくらりと笑った。

 

「いいね〜。十四班らしい“急な計画”だ」

 

「急な計画を“今日やる”のが十四班よ」

 

 ペルシアが胸を張る。

 

 ――業務日誌の入力欄には、もう“締め”の一文が残っていた。

 エリンはそれを見て、ふっと笑ってしまう。

 

「……追記事項、増えるわね」

 

 リュウジが淡々と言った。

 

「班内連携、良好。親睦計画、即日実行……だな」

 

「書き方が硬い!」

 

「事実だ」

 

「せめて“楽しみ”って書いてよ」

 

「……楽しみ」

 

 リュウジが小さく付け足すと、ククルが「えっ今の聞きました!?」と嬉しそうに跳ねた。

 

 エリンは呆れたように、でも柔らかく微笑む。

 

「ほら、早く終わらせる。今日やるんでしょ、バーベキュー」

 

「はい!」

 

 十四班の夕方は、残業と日誌で終わるはずだった。

 けれど今夜は違う。

 

 仕事の手を止めないまま、全員の目に、少しだけ“火”が灯っていた。

 もちろん、コロニーの規則を破らない火だ。

 許可された場所で、許可された火を囲んで――十四班の、短い“夏の夜”が始まろうとしていた。

 

ーーーー

 

 夜の開発区画は、コロニーの夜とは別の匂いがした。

 

 薄い人工光の街路灯も、整然とした壁も、ここにはほとんどない。

 大きな木が立ち並び、葉の擦れる音が暗がりに溶けていく。

 頭上には、区画を覆う透明な天蓋――その向こうに星はないはずなのに、闇の奥行きだけが“宇宙”を連想させた。

 

「……すごい」

 

 ククルが思わず呟く。

 エマも、目を丸くしてあたりを見回した。

 

「これが……自然、なんですね」

 

「ええ。植物の匂いがするわね」

 

 エリンが、静かに言う。

 その声もいつもより柔らかい。空気がそうさせる。

 

 開発区画の入口を抜けた瞬間、みんなが同じことを思った。

 ――ああ、これが自然なんだな、と。

 

 だが、その感慨をぶち壊すように。

 

 どん、と腹に響く笑い声が、木々の間から飛び出してきた。

 

「っはははは! いやそれ、やばいって!」

 

「班長、それ言ったら終わりでしょ!」

 

「終わりじゃないよ! 始まりだよ!」

 

 ペルシアとタツヤ。

 そして同じく呼ばれたパイロットたちが、缶ビール片手に大笑いしていた。

 

 ……いや、片手どころではない。

 足元には、空の缶がすでに積み上がっている。

 小さな山だ。

 

「早い、早すぎる……」

 

 エマが上品に、だが確実に引いた声を出した。

 

 ククルは、荷物を抱えたまま目をぱちぱちさせている。

 エリンは――無言で一度だけ息を吸った。

 その吸い込みの深さが、今日一番の危険信号だった。

 

 そんな中、リュウジは淡々と作業していた。

 

 バーベキュー台を複数、一定の距離で設置し、風向きと木々の位置を確認する。

 炭を並べ、着火剤を最低限にし、火の回りを抑える。

 消火用の水と砂の位置も確認し、火器使用区域の境界線を改めてなぞる。

 

 ――安全。

 それは彼にとって、操縦席と同じくらい自然な作業だった。

 

 周りでは、カイエや乗務員たちがシートを引き、椅子と机を並べ、簡易の照明を立てている。

 

 つまり――働いているのは、半分だけだった。

 

 エリンのこめかみに、ぴきっと皺が寄った。

 

 荷物を抱えたまま、まっすぐに“あの二人”へ近づく。

 歩幅は大きくない。走りもしない。

 なのに、木々の間を抜けてくるだけで空気が冷える。

 

 ペルシアが、気づいた。

 

「あ、エリン。来た来た! ねえねえ、これさ――」

 

 その瞬間だった。

 

 エリンは、無言でペルシアの頭の上に――抱えていた荷物のひとつを、ドンと置いた。

 

「いったぁ!?」

 

 ペルシアが慌てて顔を上げる。

 同時に、タツヤの笑い声が止まり、パイロットたちの顔が一斉に固まった。

 

 そこには、怒りの笑顔を浮かべるエリンがいた。

 

 柔らかい微笑みじゃない。

 “笑顔の形をした怒り”だ。

 

 その笑みを見た瞬間、ペルシアもタツヤも、周囲のパイロットたちも、身体が固まる。

 缶ビールのプルタブを開ける音すら、やけに大きく聞こえた。

 

「……呑むのは後」

 

 エリンの声は低い。

 柔らかいのに、芯が鉄みたいに硬い。

 

「先に、準備しなさい!!」

 

「はい!!」

 

 返事が重なりすぎて、逆に綺麗な合唱になった。

 

 蜘蛛の子を散らすように、全員が散った。

 

 タツヤは缶をそっと背中に隠しながら、咳払いして立ち上がる。

 ペルシアは頭の荷物を両手で支え、しゅんとしながら走り去った。

 パイロットたちは、なぜか一斉に「机、運びます!」「椅子、並べます!」「照明、調整します!」と自己申告し始め、誰も酒の話をしなくなった。

 

「……まったく」

 

 エリンが小さく呟いた。

 怒っているのに、どこか呆れが混じっている。

 慣れてしまっているのが悔しい。

 

 ククルとエマは、設営された机の上に食材を置き始める。

 

「ククル、エマ。荷物を置きましょう」

 

「はい!」

 

「分かりました」

 

 食材が並ぶ。

 肉、野菜、海鮮、焼きそばの麺、ソース。

 そして、あまりに完璧な量。誰かが「足りない」と言う余地がない。

 

 エリンは腕まくりをし、手早く食材を仕分けしながら言った。

 

「とりあえず簡単なものから作りましょうか。火が安定するまで時間がかかるから、その間に下ごしらえを」

 

 乗務員たちが頷く。

 この瞬間、エリンは“チーフパーサー”ではなく、“現場の司令塔”だ。

 

 リュウジが近づいてくる。

 炭の火を見ながら、手袋を外して言った。

 

「手伝います」

 

 エリンは顔を上げ、ふっと微笑んだ。

 

「ありがとう」

 

 短い言葉。

 でも、昼間の仕事の言葉とは違う温度がある。

 

 リュウジが食材を見ていると、ふと、目に入ったものがあった。

 

 鉄串。

 

「……串?」

 

 リュウジが首を傾げると、エリンは手を動かしたまま答える。

 

「串に刺さったお肉がいい、とか……ペルシアに言われそうだったから」

 

「言いそうですね」

 

 リュウジが小さく笑った。

 その笑い声が、木々の間で少し柔らかく響く。

 

 そこへ、息を切らしたペルシアが戻ってきた。

 今度はちゃんと働いた顔で、胸を張って言う。

 

「設営終わりました!」

 

 ……さっきまで缶を積み上げていた人の顔だ。

 だが、エリンは細かいことは言わない。

 

 エリンが、ペルシアを一瞬だけ見つめる。

 “次、ふざけたら殺す”という目だ。

 

 ペルシアは背筋を伸ばし、にこっと笑った。

 反省してるふりがうまい。

 

「――呑んでよろしい」

 

 エリンがそう言うと、ペルシアが両手を上げた。

 

「やった!!」

 

 タツヤも同時に「やった〜」と言いかけたが、エリンの視線がタツヤに刺さり、途中で声が裏返った。

 

「……やった、です」

 

 全員が笑う。

 その笑いは、さっきの緊張から解放された笑いだった。

 

「続き続き! さっきの話の続き! タツヤ班長、こっち座って!」

 

 ペルシアがタツヤを引っ張り、缶を配り始める。

 パイロットたちも、ようやく遠慮なく座った。

 ただし、エリンが見える場所で、姿勢よく。

 

 リュウジは火の番に戻り、炭の赤みを均一にする。

 火力が安定してきたところで、最初の肉が網に乗った。

 じゅうっ、と音がして、煙が立つ。

 

 その瞬間、全員の顔が少しだけ緩む。

 

「……これだ」

 

 ククルが、目を輝かせた。

 

「バーベキューの匂い……!」

 

 エマも微笑み、カイエは小さく頷く。

 

「……いい」

 

 エリンは、手際よく野菜を串に刺しながら言った。

 

「焦げる前に裏返す。焼きそばは後。海鮮は火が落ち着いてから。あと、火の周りは走らない」

 

「はーい!」

 

 ククルが元気に返事をする。

 

 その横で、ペルシアがタツヤにこっそり言う。

 

「ねえタツヤ班長。エリン、今日ちょっと優しくない?」

 

「優しいっていうか……今日は機嫌がいい方だよ」

 

「え、あれで?」

 

「うん。さっき荷物が頭に乗っただけで済んだでしょ?」

 

「済んでない!」

 

 ペルシアが頭を押さえ、周りがまた笑う。

 その笑い声が木々に吸い込まれていく。

 

 リュウジが肉を裏返し、エリンが盛り付けた皿を机に置く。

 ククルが「いただきます!」と声を上げ、エマが「美味しそう」と微笑み、カイエが黙って箸を取る。

 

 タツヤが缶を掲げた。

 

「じゃあ――十四班。今日のフライト、お疲れ様。バーベキュー開始!」

 

「かんぱーい!」

 

 缶が鳴る。

 紙コップが鳴る。

 笑い声が鳴る。

 

 火の揺らめきの中で、十四班はようやく“同じ夜”を共有し始めた。

 

 そしてペルシアが、いかにも何か思いついた顔で言う。

 

「ねえ、次は“焼きマシュマロ”しようよ」

 

「……どこで手に入れるの」

 

 エリンが即座に突っ込み、ペルシアがにやりと笑う。

 

「タツヤ班長の知り合いの知り合いの知り合いでしょ?」

 

「やめて!」

 

 タツヤが叫び、また笑いが起きた。

 

 炭火の匂い。

 肉の焼ける音。

 自然の闇の奥行き。

 そして、班の笑い声。

 

 今夜は仕事じゃない。

 でも――仕事があるからこそ、こういう夜が必要なのだと、誰もが分かっていた。

 

ーーーー

 

 火が落ち着き、炭の赤が網の下で呼吸を始めると、開発区画の夜は一気に“食卓”へ変わっていった。

 

 煙は木々の間に薄く流れ、遠くの闇へ溶けていく。

 照明の輪の中だけが明るくて、そこに人の声と皿の音が集まる。

 

 ――その中心に、エリンがいた。

 

 エリンはバーベキューでも料理に手を抜かない。

 むしろ、こういう場だからこそ「できることは全部やる」という顔になる。

 

「はい、これ。焼いて」

 

 エリンが、鉄串に刺した野菜と肉をリュウジに渡す。

 串には丁寧にバランスが取られていて、焦げやすいものと火が通りにくいものが混ざりすぎないよう計算されていた。

 

「分かりました」

 

 リュウジは自然に受け取り、火加減を見て置く位置を変える。

 火が強いところ、弱いところ。炭の赤の濃淡を、彼は計器を見るように読んだ。

 

 その合間に、エリンは“次”を始める。

 

 浅めの鍋。

 そこに、オリーブオイルをたっぷり。

 熱が入ると、油が静かに揺らめいた。

 

「……何それ?」

 

 ククルが目を輝かせる。

 エマが「香りが……」と小さく息を吐き、カイエが無言で鍋に視線を固定した。

 

 エリンは、手際よくブロッコリーを入れる。

 次にミニトマト。

 そしてエビ。イカ。

 ニンニクはすでに刻んであって、油の中で弾けるように香りが広がる。

 

「アヒージョよ。パン、誰か持ってきて」

 

「はい!あります!」

 

 ククルが元気に袋を掲げる。

 その動きに、周囲の乗務員たちもざわめいた。

 

 ……バーベキューのはずが、レストランの香りがしてくる。

 

 火の上では肉が焼け、海鮮が焼け、串が次々に並んでいく。

 リュウジは皿の状況を見て、焼き上がる順番を変える。焦げたものは一つも出ない。

 

 だが、それだけでは終わらない。

 

「焼きそば、いける?」

 

 エリンが言うと、タツヤがすぐに手を挙げた。

 

「いけるよ〜!……たぶん」

 

 エリンの視線が刺さる。

 

「たぶん?」

 

「……いけます」

 

 タツヤが姿勢を正した。

 ペルシアが笑って、缶を揺らす。

 

「タツヤ班長、今だけはちゃんとして〜」

 

「今だけって何だよ〜」

 

 エリンは迷わない。

 焼きそば用の鉄板を出し、まず“肉焼きそば”を作る。

 香りが立つ。ソースが焦げる音が小気味いい。

 

 続けて“海鮮焼きそば”。

 エビとイカが入り、海の匂いが一瞬だけこの人工の森に混じった。

 

 乗務員たちの目が完全に、料理に釘付けになる。

 

「……これ、バーベキュー?」

 

 エマが小さく呟くと、カイエが短く返す。

 

「……エリンさんの現場」

 

 ククルはもう我慢できず、皿を手にして待機していた。

 ペルシアは「この匂い、犯罪」と言い出し、タツヤは「エリンがいると胃が幸せ」と妙なポエムを吐いてエリンに睨まれた。

 

 そんな中――リュウジが、食べ終わった皿を持って戻ってくる。

 

 皿の端に残っているのは、ほんのわずかな油と焦げの香り。

 “美味しかった”の証拠みたいな皿だ。

 

 リュウジはその皿を手に、エリンの手元へ来る。

 

「……何作ってるんですか?」

 

 炭火の揺らぎの中で、エリンの手元だけが妙に“台所”だった。

 彼女は笑って、作業の手を止めない。

 

「タイの塩釜焼きよ」

 

「……塩釜」

 

 リュウジが目を丸くする。

 エリンは慣れた手つきで、ボウルの中を混ぜていた。

 

「卵白と塩を混ぜるの。ほら、こうやって」

 

 白い卵白が泡立ち、塩が重さを持った粘度になる。

 そのペーストを、丸ごとのタイに塗っていく。

 隙間なく、均一に。魚が“鎧”を着ていくように見えた。

 

「そしたらアルミホイルで包んで――」

 

 エリンは包み、形を整える。

 

「炭火の中に置いとけば大丈夫。意外と簡単でしょ」

 

 エリンが微笑む。

 リュウジも、自然と口元が緩んだ。

 

「……はい」

 

 火を扱う彼だからこそ分かる。

 これは“簡単”に見せているだけで、火と時間の感覚が必要だ。

 

 エリンは、包みを炭の奥へそっと押し込んだ。

 “火に任せる”というより、“火を飼いならす”手つきだ。

 

「後で唐揚げ作ってあげるから待っててね」

 

 エリンが軽い調子で言うと、リュウジは思わず笑ってしまう。

 

「……ありがとうございます」

 

 その礼の言い方が、いつもの丁寧さより少し柔らかい。

 エリンもそれに気づいたのか、目を細めた。

 

 その様子を――周りが見ていた。

 

 ペルシアは缶を持ったまま、ニヤニヤしている。

 タツヤは「ほほう」とでも言いたげに頷き、ククルは「すごい……!」と素直に目を輝かせた。

 エマは上品な微笑みを浮かべ、カイエは無言のまま、じっとエリンの手つきを観察している。

 呼ばれたパイロットたちも、乗務員たちも、完全に“興味”の顔だ。

 

 ――十四班のチーフパーサーは、なぜかバーベキューで塩釜焼きを作っている。

 しかも、それを当たり前の顔でやってのける。

 

「……エリン、あんた何者なの」

 

 ペルシアがぼそっと言うと、エリンは何も聞こえなかったふりをする。

 そのかわり、手元の鍋を軽く揺らし、アヒージョの油を均す。

 

「ペルシア、パン。焦がさないで温めて」

 

「はいはーい。焦がしたらどうする?」

 

「没収」

 

「鬼!」

 

「天使よ」

 

 エリンが平然と言うので、周りが笑った。

 

 火がぱちぱちと鳴る。

 肉の脂が落ちて、短い炎が立つ。

 アヒージョの鍋からは、ニンニクと海鮮の香りが立ち上り、焼きそばのソースが空腹を刺激する。

 

 そして、炭の奥には、塩の鎧をまとったタイが静かに眠っている。

 

 十四班の夜は、ただのバーベキューでは終わらない。

 

 誰かが言った。

 

「……この班、最強だな」

 

 それに、タツヤが笑って返す。

 

「でしょ〜? だから俺、班長やれてるんだよ」

 

「班長が一番手を抜いてるように見えますけど」

 

 リュウジがぼそっと言うと、タツヤが「あっ」と声を漏らし、ペルシアが腹を抱えて笑った。

 

「うわ、今の刺さった!」

 

「刺さるように言いました」

 

「ひどい!」

 

 エリンはそのやり取りを聞きながらも、手を止めない。

 そして最後に、さらっと言う。

 

「――唐揚げ、揚げ始めるわよ。油、持ってきて」

 

「唐揚げ!?」

 

 ククルが驚き、エマが「本格的すぎます」と笑い、カイエが小さく頷く。

 

 ペルシアは目を輝かせた。

 

「やった! 私の大好きなやつ!」

 

 エリンは静かに言う。

 

「……先に準備をちゃんとやった人からね」

 

「えっ」

 

 ペルシアが固まる。

 

 タツヤが肩を叩いた。

 

「……最初、飲んでた人は後回しだね〜」

 

「班長も飲んでたでしょ!」

 

「俺は班長だからセーフ」

 

「そんなルールない!」

 

 笑い声がまた木々の間に溶けていく。

 

 その中心で、リュウジは串を焼きながら、少しだけ思った。

 

 操縦の席でも、日誌の机でも、みんなはプロだった。

 でも今夜は――プロの顔のまま、同じ火を囲んで笑っている。

 

 そして、その火を“食卓”に変えてしまう人が、十四班にはいる。

 エリンという、強くて、柔らかくて、何より頼れるチーフパーサーが。

 

 炭がぱちりと音を立てる。

 タイの塩釜がじわりと熱を抱く。

 鍋のオイルが静かに踊る。

 

 今夜の開発区画は、星のない夜なのに――妙に温かかった。

 

ーーーー

 

 炭火の勢いが少し落ち着き、網の上の音が「じゅう」から「ぱち…」へ変わっていく。

 アヒージョの鍋は余熱でまだ香りを吐き、焼きそばの鉄板は焦げたソースの匂いを残したまま静かに冷えていった。

 

 周りの席では、缶を潰す音と笑い声が交互に響いている。

 タツヤの笑いは相変わらず大きく、ペルシアのツッコミは鋭く、乗務員たちはほっとした顔で肩を落としていた。

 

 料理が落ち着いた頃――

 エリンはふと、炭火の前で串をひっくり返していたリュウジの方へ目を向けた。

 

「リュウジ、ちゃんと食べてる?」

 

 声はいつもの業務の調子ではない。

 心配というより、当たり前の確認みたいな、柔らかい言い方だった。

 

 リュウジは火から視線を外さずに、短く返す。

 

「はい、いただいてます」

 

 そう言いながら、皿に残っている串の端を指で整えた。

 焼けた肉を、ただ早く胃に入れるためじゃなく、味わうために食べている――そんな所作だ。

 

 エリンは少し安心したように息を吐いた。

 

 そのままリュウジが、今度は逆に尋ねる。

 

「エリンさんも食べてますか?」

 

 リュウジの敬語は変わらない。

 でも、質問の温度が“勤務中の確認”より少しだけ柔らかい。

 

 エリンは笑って肩をすくめた。

 

「ええ。ちょこちょこ摘んでるから大丈夫よ」

 

 ……嘘だ。

 ちょこちょこ摘んではいる。けれど、料理を回している人間は、どうしても“自分の分”を後回しにしてしまう。

 

 リュウジはそれを分かっている顔で、ほんの少しだけ眉を上げた。

 言葉にはしない。

 ただ、火の前を離れないまま、串を並べ直してくれる。

 エリンが取り分けやすいように。

 

 その沈黙が、不思議と心地よかった。

 

「それじゃあ――」

 

 エリンは急に、少しだけ声のトーンを上げる。

 

「最後にデザート。アイス買ってきてあるから、先に食べちゃいましょうか」

 

 言いながら、クーラーボックスの中を探り、アイスを二つ取り出す。

 紙包みの簡易なものだが、きちんと冷えた白い霜が付いている。

 

 リュウジが目を丸くした。

 

「……用意してたんですか?」

 

「当然よ。あなた達、絶対『甘いもの欲しい』って顔するもの」

 

「してません」

 

「してる」

 

 エリンが即答すると、リュウジは小さく笑ってしまった。

 

 エリンはアイスを一つリュウジに差し出し、自分も一つ持つ。

 火の近くでは溶けるので、少し離れた木の陰――照明が柔らかく届く場所へ並んで腰を下ろした。

 

 その光景が、妙に静かだった。

 

 班の中心はまだ賑やかだ。

 ペルシアの笑い声が上がり、タツヤが「それは違うだろ〜」と誰かと揉めている。

 ククルは何かを語り、エマが上品に笑う。

 パイロットたちも酒の勢いで声が大きい。

 

 それでも、木々の向こう側の暗がりに座った二人の周りだけは、違う時間が流れた。

 

 エリンとリュウジ。

 肩が触れるほど近くはない。

 でも離れすぎてもいない距離で、同じ速度でアイスを口に運ぶ。

 

 エリンの横顔が、火と照明の揺らぎで柔らかく見えた。

 いつもきっちり髪をまとめているのに、今日は少しだけ崩れている。

 その崩れ方が――“仕事の後”の顔だった。

 

 リュウジはアイスを一口食べて、静かに息を吐く。

 

「……冷たい」

 

「ふふ。火の前にいたから余計にね」

 

 エリンもアイスを口に含み、目を細める。

 甘さが舌に広がった瞬間だけ、チーフパーサーの顔がほどける。

 

 その“ほどけ方”が、リュウジには少し意外だった。

 業務中のエリンは強い。揺れない。常に判断が早い。

 けれど今、アイスを食べる顔は――ただの、少し疲れた女性の顔だ。

 

 リュウジはその横顔を見て、思わず言いそうになった。

 “もっと食べた方がいい”と。

 “無理しなくていい”と。

 でも、その言葉は彼の中で形にならないまま、アイスの冷たさに溶けた。

 

 代わりに出たのは、別の言葉だった。

 

「……美味しいですね」

 

「でしょう? この味、好きなのよ」

 

「エリンさんは、こういうの好きなんですね」

 

「好きよ。甘いのは疲れに効くもの」

 

 疲れ。

 その単語を、エリンが軽く言えるようになったのが、リュウジには少し嬉しかった。

 

 ほんの数週間前。

 彼女はいつも完璧で、疲れを“存在しないもの”として扱っていた。

 

 ペルシアが遠くで「エリンー!」と呼んでいる声がする。

 エリンは聞こえないふりをして、アイスをもう一口食べた。

 

 それを見たリュウジも、自然と同じように食べる。

 二人の動きが妙に揃っていて、並んでいる姿は柔らかい絵みたいだった。

 

 その絵を――別の場所から、誰かが見ていた。

 

「……あの二人って、仲良いですよね」

 

 ククルがぽつりと呟く。

 声は小さいのに、妙に真剣だ。

 

 隣でカイエが缶を置き、頷いた。

 

「……いい雰囲気だよね」

 

 エマがそれを聞いて、ふふっと笑った。

 

「仲がいい、というより……お互いを信頼してる感じがします」

 

「信頼……」

 

 ククルが呟く。

 その言葉は、さっきペルシアにかけられた“あなたは必要”という言葉と、どこか繋がっている気がした。

 

 ペルシアはその会話を耳で拾って、にやりとする。

 

「でしょ?」

 

 すっと立ち上がりかける。

 ――あの二人に何か言ってやろう、と思った顔だ。

 

 しかし、すぐにタツヤが首根っこを掴むような勢いで止めた。

 

「ペルシア、今行くと怒られるよ〜」

 

「なんで!?」

 

「空気読めって、さっきエリンに言われたでしょ?」

 

「そんなこと言われてない!」

 

「言われてる顔だった」

 

 ペルシアがむっとした顔で座り直すと、ククルが小さく笑った。

 カイエも口元だけ緩める。

 

 その間にも――木の陰では。

 

 エリンがアイスを食べ終え、棒を紙に包んだ。

 リュウジも同じように包む。

 動きが揃う。

 

 エリンがぽつりと言った。

 

「……こういうの、いいわね」

 

「こういうの?」

 

「班のみんなが笑ってるの。事故もなくて、誰も不機嫌にならなくて」

 

 エリンの声は、少しだけ遠い。

 職業柄、“平和”を実感する瞬間は少ない。

 だからこそ、こういう夜が胸に沁みる。

 

 リュウジはゆっくり頷いた。

 

「……はい」

 

 それだけで、十分だった。

 

 エリンは横目でリュウジを見る。

 リュウジは、いつも通り落ち着いている。

 でも、目の奥が少しだけ柔らかい。

 

 エリンは思わず笑った。

 

「……リュウジ、あなたって本当に誰にでも優しいのね」

 

「……そうですか?」

 

「そうよ。仕事の時も、こういう時も。気づけば誰かの負担を減らしてる」

 

 リュウジは少し困ったように笑う。

 褒められるのに慣れていない顔だ。

 

「……別に、普通です」

 

「普通じゃないわよ」

 

 エリンが軽く言い切ると、リュウジの耳がほんの少し赤くなった。

 

 その小さな変化を、エリンは見逃さない。

 でも、からかったりはしない。

 ただ、優しい笑みを浮かべた。

 

 ――木々の間の暗がりで、二人の笑みが並ぶ。

 

 遠くで、またペルシアの声が上がった。

 

「ねえ! タイの塩釜焼き、いつ食べられるの!?」

 

「もう少し待ちなさい!」

 

 エリンの声がいつもの“統率”の声に戻る。

 それでも、さっきまでの柔らかさが消えない。

 

 リュウジが立ち上がり、エリンの方を見る。

 

「戻りますか」

 

「ええ。戻りましょう」

 

 二人は並んで立ち上がり、ゴミを持って戻る。

 木々を抜ける途中、ククルとカイエが目を合わせ、同時に小さく頷いた。

 

 ――あの二人は仲がいい。

 それはただの仲良しじゃなくて、信頼の匂いがする仲の良さだ。

 

 火の前に戻ると、十四班の夜はまだ終わっていなかった。

 炭の赤は生きている。

 塩釜焼きは炭の中で眠っている。

 笑い声は絶えない。

 

 そして、エリンが包丁を手に取るだけで、場の空気が自然と整う。

 

「はい、次。タイ、割るわよ」

 

「来た!」

 

 ペルシアが身を乗り出し、ククルが目を輝かせ、エマが微笑み、カイエが静かに皿を用意する。

 タツヤは缶を置き、珍しく真面目な顔になった。

 

 リュウジは火の横に立ち、エリンの動きを見守る。

 ――もう一度、ふっとアイスの冷たさを思い出す。

 

 その冷たさは、今夜の温かさの中で、静かに胸に残っていた。

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