ある日の事務所。
午前の定例業務が一段落し、各自が日誌の入力やフライト関連の書類整理に戻っていた頃――空調の音に混じって、入口側が少しざわついた。
エリンが端末から顔を上げ、いつもの落ち着いた調子で言う。
「リュウジ、取材が来ているよ」
「……取材?」
リュウジは思わず椅子を引き、立ち上がった。
取材。広報。インタビュー。
言葉の響きは分かるが、彼の生活の中に馴染みがない種類の予定だ。
事務所の入り口に視線を向けると――そこに一人、男が立っていた。
茶色い癖毛。
スーツはきちんとしているが、取材者特有の“肩の力の抜けた身軽さ”がある。
手には薄い資料ファイルと、録音用の小型端末。
男は一歩前に出て、丁寧に頭を下げた。
「初めまして。フレデリックと申します。本日はお時間をいただき、ありがとうございます」
「……初めまして」
リュウジは首を傾げたまま、ぎこちなく返した。
挨拶はできる。礼儀も分かる。だが、状況が飲み込めない。
「今日、取材のアポありましたか?」
リュウジがそう言った瞬間、エリンの目が一瞬、泳いだ。
“ある”と言い切るには不確かな顔。
ペルシアも、わずかに口元を引きつらせた。
フレデリックは慌ててファイルを開き、確認するように言う。
「え、ええ。先日、広報部に依頼しましたが……」
空気が一拍、止まった。
――依頼した?
――誰が?
――いつ?
リュウジの視線が自然とタツヤへ向く。
「……タツヤ班長?」
タツヤは自席で椅子を回しながら、のらりとした口調で言った。
「あれ? 俺はペルシアに言ったよ〜」
「え?」
ペルシアが、即座に口を尖らせる。
「私はエリンに言ったわよ」
「え?」
エリンが、まるで初耳みたいな顔で返す。
「聞いてないわよ」
場の空気が、数秒で“いつもの十四班”に変わった。
つまり――平和な混乱。
リュウジは一瞬、目を閉じて息を整えた。
S級パイロットの仕事より、こっちの方が予測不能だ、と頭の片隅で思う。
ペルシアは手をひらひらさせながら続ける。
「また〜。ほら、こないだのバーベキューの前に言ったじゃない」
エリンが、即座に言い返す。
「バーベキューの前は私、買い出しに行ったし、会場に着いたらあなた、もう酔っ払ってたじゃない」
「えっ、酔ってないし!」
「酔ってたわよ」
「酔ってない!」
「酔ってた!」
言い合いのテンポが良すぎて、周りの乗務員が仕事の手を止めて見てしまう。
フレデリックは困ったように笑い、視線の置き場を探していた。
タツヤが顎に手を当て、思い出すように言う。
「あれ? じゃあ俺、誰に言ったんだろ〜」
ペルシアも首を傾げる。
「私も……あれ? 私、誰に言ったんだろ」
そのとき、机の端で黙々と作業していたカイエが、淡々と口を開いた。
「……それ、私に言ってましたよ」
全員の視線がカイエに集まった。
ペルシアが「あっ」と声を上げる。
「カイエに言ったのか」
納得するのが早い。
タツヤも、妙に感心したように頷く。
「そっかそっか。カイエに言ったなら安心だね〜」
カイエは眉をひそめた。
「だから、エリンさんに言ってくださいって、伝えたじゃないですか」
ペルシアが指を鳴らす。
「あー! あれ? その後、エリンの家に泊まった時に朝、言ったじゃない」
「……そうだったかしら」
エリンは自分の端末を取り出し、メモ帳を開く。
指が素早く動き、日付の一覧が流れる。
そして――
「あー……やっちゃった」
エリンが、こめかみを押さえた。
その声は小さいが、完全に“自分のミスを認めた人”の声だった。
瞬間、タツヤが「お」と口を開け、ペルシアがニヤっとする。
「珍しい。エリンが“やっちゃった”って言った」
「今は言わなくていいわよ」
エリンはペルシアを一瞥してから、すぐにフレデリックへ向き直った。
呼吸を整え、背筋を伸ばし、丁寧に頭を下げる。
「ごめんなさい。こちらの伝達が行き届いていませんでした」
「あ、いえ!」
フレデリックは慌てて手を振った。
「自分は大丈夫ですから。取材自体は、時間をいただければ……」
エリンはすぐにリュウジへ視線を戻す。
“無理させない”という目だ。
「リュウジ、ごめんなさい。今日は対応できるかしら」
リュウジは即座に答える。
「ええ、俺は大丈夫ですが……エリンさんこそ、大丈夫ですか?」
彼の敬語は変わらない。
けれど、その言い方には確かな気遣いが含まれていた。
「え? 私は大丈夫よ」
エリンは笑って見せ、普段の業務モードに切り替える。
「仕事も、今日は私が引き継ぐから」
「あ、はい」
リュウジは頷きながら、ふとペルシアに視線を送った。
ペルシアは肩をすくめ、目だけで返す。
(様子を見ましょう)
いつもの合図。
“やらかした時ほど落ち着け”という意味でもある。
リュウジは短く息を吐いて、フレデリックに向き直った。
「とりあえず、取材の内容を把握したいので……会議室にどうぞ」
「はい。失礼します」
フレデリックは丁寧に頭を下げ、リュウジの後に続く。
会議室へ向かう廊下。
ガラス越しに見える執務エリアには、十四班の席が並び、普段なら静かなはずの空気が、今は微妙にざわついていた。
――“取材”という単語だけで、職場は簡単に色を変える。
リュウジは歩きながら、ふと頭の中で確認する。
(取材……内容は何だ? S級パイロットの話か。ドルトムント財閥の宇宙事業部の話か。十四班の運航体制か。あるいは――)
想像が広がるほど、危険も広がる。
広報案件は、操縦と違って“手順通り”では終わらないことが多い。
会議室の前に着き、リュウジは扉を開けて中へ案内した。
「こちらへ」
室内は簡素だ。
長机と椅子、壁面モニター。
外の喧騒が少し遠くなる。
フレデリックは席につき、録音端末を机に置いた。
だが、その手がほんの少し震えているのを、リュウジは見逃さなかった。
緊張している。
相手は記者。慣れているはずなのに――
リュウジが椅子に座り、静かに尋ねる。
「それで、今日はどういった取材でしょうか」
フレデリックは一度、息を整えた。
口角だけを上げる、取材者の笑み。
「はい。今回のテーマは――“コロニーに三人しかいないS級パイロット”についてです」
リュウジの目が、わずかに細くなる。
「……俺について、ですか」
「ええ。英雄、と呼ばれる方がドルトムント財閥に入社されたというのは、社内だけでなく外部にも大きな話題でして」
英雄。
その単語に、リュウジは反射的に表情を動かしそうになった。
だが、すぐに抑える。
代わりに出たのは、淡々とした声だった。
「英雄、ですか。……そういう呼び方は、俺は好きじゃない」
フレデリックは慌てて首を振る。
「あ、いえ! もちろん、ご本人の意向も踏まえて……えっと、失礼しました」
リュウジは短く頷いた。
「いえ。取材としてそういう言葉が必要なのは分かります」
その言い方が丁寧すぎて、逆に線引きがはっきりする。
フレデリックはそこで悟ったのか、姿勢を正した。
「ありがとうございます。可能であれば、S級としての訓練や、宇宙事業部での役割……そして“ドルトムント財閥に所属することになった意味”について伺いたいと」
リュウジは目を伏せ、数秒だけ考える。
答えはすぐに出る。
だが、“どう言うか”は慎重にならざるを得ない。
(所属権はドルトムントと宇宙連邦連盟にある――その話は、どこまで言える?)
会議室の外では、たぶんエリンがすでに“仕事の引き継ぎ”を回している。
ペルシアはきっと面白がって、耳を立てている。
タツヤはのらりくらりと、必要なところだけ守る準備をしている。
リュウジは、机の上に手を置き、静かに言った。
「お答えできる範囲で、話します。ただし、運航と契約に関わる情報は制限があります。広報部の規定に沿って、内容は確認をお願いします」
フレデリックは深く頷いた。
「もちろんです。事前に広報部にも確認の上で記事化します」
リュウジがほんの少しだけ肩の力を抜いた、その瞬間――
会議室のドアが、控えめにノックされた。
扉が開き、エリンが顔を覗かせる。
「リュウジ、準備は大丈夫?」
声は落ち着いているが、目が少し鋭い。
“私のミスをこれ以上広げない”という覚悟の目だ。
「はい、大丈夫です」
リュウジが答えると、エリンはフレデリックに向けて改めて頭を下げた。
「改めて、本日は失礼いたしました。取材対応中、こちらの業務は私が引き継ぎますので、何かあれば広報部経由で」
「ありがとうございます」
フレデリックが丁寧に返す。
エリンは一度だけリュウジに目を向け、軽く頷いた。
――“任せたよ”という合図。
扉が閉まる。
会議室は再び静かになる。
リュウジはフレデリックへ視線を戻し、淡々と、しかし確かに言った。
「では、どこから話しましょうか。……S級の訓練からでいいですか」
フレデリックの目が輝いた。
「はい。ぜひ」
録音端末のランプが点く。
その小さな光が、これから言葉が“外へ出ていく”合図みたいに見えて、リュウジは一瞬だけ胸の奥が冷えるのを感じた。
――操縦なら、機体を守ればいい。
でも取材は、“言葉”を守らなければいけない。
リュウジは、静かに息を吸い込んだ。
ーーーー
会議室の空気が落ち着いたところで、フレデリックは録音端末の位置をほんの少しだけ整えた。
赤いランプが静かに点灯している。
彼は一度、リュウジを見上げて言った。
「取材なので、敬語は大丈夫です」
“緊張しないでいい”という配慮のつもりなのだろう。
相手の言葉を引き出すための、記者の技術でもある。
リュウジは一拍置いて、短く頷いた。
「分かった」
その返事だけで、空気が少し変わる。
丁寧な壁が一枚薄くなった感じ。
フレデリックはペンを取り、端末の画面を確認しながら切り出す。
「とりあえず、訓練について教えてください」
「訓練か」
リュウジは椅子の背に軽く体重を預け、視線を上へ向けた。
思い出すというより、頭の中で“並べる”感じだ。
「S級だから特別ってわけじゃない。基本は同じ。ただ、求められる領域が広い」
フレデリックのペン先がすぐに動き出す。
「領域……」
「機体を操る技術だけじゃない。状況判断、計器の読み、異常の兆候、整備報告書の読み込み、法規、航路設計、緊急時の手順……全部、毎日触れる」
「毎日……?」
フレデリックが目を丸くする。
リュウジは淡々と、しかし誇張なく言った。
「ああ。俺の場合は、朝と夜で分けてる」
フレデリックは思わず身を乗り出す。
「具体的に、どんなスケジュールなんですか?」
リュウジは机の上に指を置き、見えないカレンダーをなぞるように説明を始めた。
「まず、朝。出社してる日は早めに来る。日誌を書いて、連絡事項を拾う。班の動きがある日は、そこで情報のズレを潰す」
「情報のズレ?」
「出発時刻、機体の割り当て、乗務員の配置、整備の進捗、乗客の特記事項。誰かが把握してると思ってる情報が、実は誰も“責任を持って”持ってないことがある。そういうのを先に拾っておく」
フレデリックは一瞬、ペンを止めた。
「……それって、本来は班長やチーフパーサーの仕事では?」
「そうだ」
リュウジはあっさり認める。
「でも、俺がやれるならやる。それで事故の芽が一つ減るなら、そっちの方がいい」
言い切り方がまっすぐすぎて、フレデリックが少し笑ってしまった。
「合理的ですね」
「合理的じゃないと宙では生き残れない」
リュウジは淡々と返す。
「その後は?」
フレデリックが続きを促す。
「午前のメニューは二つ。体の訓練か、机上訓練。日によって入れ替える。体はランニングかインターバル、酸素制限をかける日もある。机上訓練は、法規と機体の仕様、過去の事故例の解析」
フレデリックが目を見開いた。
「事故例の解析も、日課なんですか?」
「日課だ。人のミスはパターンがある。機体の不具合にも癖がある。過去を知らない操縦は、いつか同じ穴に落ちる」
言葉が重い。
だが、表情は冷静で、淡々としている。
重さを感情に乗せないのが、リュウジという人間の癖だとフレデリックは感じた。
「午後は?」
「午後はシミュレーターが多い。実機は案件次第。シミュレーターは“回数”じゃなく、“再現性”。同じ条件で十回やって十回同じ結果を出せるか。違う条件が来たら、それをどう崩して立て直すか」
フレデリックのペンが走る。
「S級っていうのは、そういう……再現性が求められる?」
「求められるのは、限界域での再現性だ。余裕のある航路だけなら、誰でもできる」
リュウジの言い方は淡白だが、どこか刃物みたいな鋭さがある。
それは自慢ではなく、事実を述べているだけ――そんな響きだ。
「日々のスケジュールは、どれくらい詰まってるんです?」
フレデリックが尋ねる。
リュウジは少しだけ首を傾けた。
「詰めてるつもりはない。休息も訓練の一部だから」
「休息……取れてるんですか?」
フレデリックが少し心配そうに言う。
「取れてる。取れてないと判断が鈍る。判断が鈍ると、俺だけじゃなく、乗務員も乗客も巻き込む。だから寝る。食べる。走る」
フレデリックはその言葉の並びに、ふっと笑った。
「食べる、走る……なんだか、生活がすべて訓練みたいですね」
「そうだよ」
リュウジはあっさり言った。
「生活を整えられないやつが、宙で機体を整えられるわけがない」
その言葉に、フレデリックは一瞬、息を止めたように見えた。
“名言”を拾った記者の顔だ。
「……すごいですね。毎日、そのルーティンを続けてるんですか?」
「続けてる」
「休みの日も?」
「休みの日も、軽くはやる。フルで追い込まないだけだ」
フレデリックは端末の画面を確認し、次の質問を準備する。
だが、その前に、もう一つ確認した。
「それって、会社から義務として課されているわけではなく?」
「義務じゃない」
リュウジは首を振る。
「俺がそうしないと落ち着かないだけだ。……それに、S級はコロニーでも三人しかいない。俺が崩れたら、穴が空く」
フレデリックの手が止まる。
「三人……アズベルト、ブライアン、そしてあなた」
「そう」
リュウジは短く答えた。
名を口にするだけで、そこに重さが宿る。
フレデリックは、その重さを逃さないように、慎重に問いを続ける。
「訓練の中で、一番大事にしていることは何ですか?」
リュウジは少しだけ考えた。
沈黙は短い。
そして、答えは明確だった。
「“当たり前”を崩さないこと」
「当たり前?」
「毎回同じ確認をする。面倒でも省かない。慣れてるから大丈夫、っていう油断を作らない。宙で一番怖いのは、機体の故障じゃない。人間の慣れだ」
フレデリックが小さく頷く。
「……だから、初フライトのときも、姿勢制御ユニットの交換を判断した」
その言葉に、リュウジの目がわずかに細くなる。
「……そこまで知ってるのか」
「関係者から、少しだけ。あの判断があったから、乗務員も安心できたと」
リュウジはほんの少しだけ息を吐く。
それは照れではなく、情報が外に出ていることへの確認だ。
「俺は、整備士の報告を信じてないわけじゃない。ただ、自分の目で“違和感”を見た。違和感は放置しない。それだけ」
「違和感……」
フレデリックはその単語を大事そうに紙に書いた。
「訓練の話に戻ると、違和感を拾う感覚も鍛えるんですか?」
「鍛える。機体の音、振動、レスポンス、視界のズレ。全部、体が覚える。だから、シミュレーターでも“感じる”練習をする。数字だけ追ってると遅れる」
フレデリックは頷きながら、ふと笑った。
「……それ、乗務員の話と少し似てますね。声色から状態を拾う、とか」
リュウジは一瞬、口角を上げる。
「ペルシアのことか」
「え、やっぱり……」
「あいつは耳がいい。……いや、耳だけじゃない。拾ったものを、ちゃんと形にして指示に変える。そこが凄い」
フレデリックの目がさらに輝く。
「つまり、訓練は個人だけでなく、チームの能力にもつながる?」
「当然」
リュウジは即答した。
「操縦は俺がする。でも、船を動かしてるのは俺だけじゃない。乗務員がいなければ客は守れないし、班の連携がなければ運航は回らない。だから訓練も“自分のため”で終わらせない」
フレデリックが頷き、次のページをめくる。
「すごく分かりやすいです。では――その訓練を、いつまで続けるつもりですか?」
リュウジは少し笑った。
「いつまでって?」
「目標とか、区切りとか」
リュウジは視線を落とし、机の上の自分の指先を見た。
そして、淡々と答えた。
「区切りはない。俺は“完成”しない。完成したと思った瞬間に落ちるから」
言い切る。
その言葉に、フレデリックは深く息を吸った。
記事の核になる言葉を拾った顔だ。
「……分かりました。訓練スケジュール、すごく具体的で助かります」
「まだある」
リュウジが言うと、フレデリックが驚く。
「まだ?」
「最後に、確認の訓練がある。寝る前」
「寝る前に?」
「その日あったことを全部、頭の中で反芻する。判断が正しかったか、足りなかったか。もし次が同じ状況ならどうするか。これをやらないと、次の日が同じになる」
フレデリックは、呆れたような、感心したような顔で笑った。
「……本当に、生活が訓練なんですね」
「そうだよ」
リュウジは淡々と繰り返す。
そして、少しだけ言葉を加えた。
「でも、そのおかげで守れるものがあるなら、悪くない」
フレデリックのペンが止まる。
その瞬間だけ、取材者の顔から“仕事”が消えた。
――この男は、淡々と話しているのに、言葉の奥が熱い。
そういう種類の人間だと、フレデリックは確信した。
彼は小さく頷き、次の質問へ進むために資料ファイルを開く。
「ありがとうございます。じゃあ次に――その訓練が、実際のフライトでどう活きるのか、具体例を伺ってもいいですか?」
リュウジは頷いた。
「ああ。……」
言ってから、少しだけ考える。
“どの話がいい?”と口にしかけて、やめた。
取材で一番伝わるのは、機体の凄さじゃない。
宙の旅を“安全”に見せる仕組み――つまり、人の働きだ。
リュウジは机に肘をつかず、背筋を伸ばしたまま言った。
「まず言っておく。俺がすごいんじゃない。船を動かしてるのは、全員だ」
フレデリックの眉がわずかに上がる。
記者はこういう一言を待っていたのだろう。
“英雄の言葉”として、記事に乗りやすい。
「全員、というと……操縦室以外も?」
「特に、客室」
リュウジは迷いなく言う。
「客室乗務員の連携が見事だ。俺が操縦に集中できるのは、あいつらが“状態”を整えてくれてるからだ」
「状態……」
フレデリックが反復して書き留める。
“状態”という言葉は抽象的だ。けれどリュウジの声には、具体の重さが乗っている。
リュウジは続けた。
「例えば、同じ航路でも日によって客は違う。落ち着いてる日もあれば、ざわつく日もある。子どもが多い、年配が多い、VIPが多い、慣れてない客が多い……それだけで船内の空気が変わる」
フレデリックが頷き、質問を挟む。
「空気が変わると、何が起きるんですか?」
「小さな乱れが増える」
リュウジは淡々と答えた。
「通路の動線が詰まる。声が大きくなる。クレームが出る。乗務員の手が足りなくなる。そういうのが積み重なると、最後は安全に影響する」
“安全”という単語を出した瞬間、会議室の空気が少し締まる。
フレデリックも、その単語の重さを理解して、ペンを握り直した。
リュウジは言った。
「その積み重なりを、乗務員は先に潰してる。しかも、露骨に潰さない」
「露骨に……?」
「露骨にやると客は不安になる。『何かあったのか?』って顔になる。だから、何も起きてないように見せたまま整える」
フレデリックが思わず笑う。
「それ、魔法みたいですね」
「魔法じゃない。技術だ」
リュウジは即答した。
その言い方は、誰かを守る時のリュウジの声に似ていた。
「乗務員の連携は、役割がはっきりしてる。誰が何を拾うか、誰が誰の背中を押すか、誰が空気の“芯”を作るか――それぞれが自分の力を活かしてる」
フレデリックが頷きながら言う。
「具体的には、誰がどんな役割を?」
リュウジは一瞬だけ口角を上げた。
記者が求めているのが“ヒーローの武勇伝”ではなく、チームの仕組みだと分かったからだ。
「副パーサーのペルシアは、耳で拾う。声色、トーン、息の浅さ、遠慮してる間、迷ってる間、疲れてる間。そういう細い糸を拾って、必要な人に必要な指示を飛ばす」
フレデリックが「なるほど」と呟き、ペンを走らせる。
「乗務員は多いから抜粋でな。ククルは明るさ。あいつの元気は、客の不安を薄める。カイエは落ち着き。エマは品。客が“安心して頼れる大人”を見たい時に、あの二人は効く」
言いながら、リュウジはふっと息を吐いた。
「……でもな」
フレデリックが顔を上げる。
「中でも、ってことですね」
リュウジは頷いた。
「中でも、エリンさんだ」
その名が出た瞬間、フレデリックの目が少し大きくなった。
チーフパーサー。
一般の読者にとっては馴染みが薄い役職だが、記事にした時の“深み”が増す。
「エリンさんの、どんなところを?」
リュウジは、言葉を選ぶように一拍置いてから言った。
「船内の“状態を整える役”だ」
フレデリックがペンを止める。
その言葉をそのまま、見出しにできる。そういう顔だ。
だがリュウジは、そこで止まらない。
むしろ、そこからが本題だというように声を落とした。
「それを、ただの気配りだと思うなら間違いだ」
会議室の空気がさらに締まる。
リュウジは続けた。
「船内で一番、周囲の状況を読んでる。視野が広い。些細な変化にすぐ気づく。客の表情、歩き方、座り直しの回数、会話の間、手荷物の触り方――そういうのを見て、『この人は今、何に引っかかってるか』を当てる」
フレデリックが驚いたように言う。
「そこまで……?」
「そこまで」
リュウジは淡々と返した。
「しかも、誰も傷つけずに動かすのが上手い。これが一番難しい」
フレデリックはうなずきながら、少し首を傾げる。
「傷つけずに動かす、というのは?」
リュウジは、答えを短い例に落とした。
「例えば、乗務員が焦ってる。普通なら『落ち着いて』って言う。でもそれは、言われた側には“責められてる”みたいに聞こえることがある。エリンさんは言わない。代わりに、手を出す。指示を短くする。声を低くする。視線を合わせて頷く。そうやって、相手の呼吸を整える」
フレデリックのペンが止まる。
“技術”としてのコミュニケーション。
記事の読者が想像しにくい領域を、リュウジは言語化していく。
「客に対しても同じだ。『走らないでください』じゃなく、『こちらの景色、今が一番綺麗ですよ』って誘導する。『席に戻ってください』じゃなく、『次の案内まで少しお席でお待ちくださいね』って流れを作る。命令じゃなく、自然に人が動く形を作る」
言葉が淡々としているのに、妙に説得力がある。
それは、リュウジ自身が“命令”で動く世界に長くいたからだ。
だからこそ、命令の危うさも知っている。
リュウジは最後に、はっきりと言った。
「いるのといないのじゃ、背中の力の抜け方がまるで違う」
フレデリックが顔を上げる。
「背中の力……?」
「操縦してると分かる。客室が落ち着いてると、機体の反応が同じでも、判断が速くなる。余計な心配が消える。エリンさんがいると、“船が一つの生き物として整ってる”感じがする」
フレデリックは、その表現を何度か心の中で反芻している顔をした。
そして、慎重に聞く。
「それは、操縦に直接影響するんですか?」
「する」
リュウジは即答した。
「操縦は数字と物理だけじゃない。人の動きも含めて“全体”だ。客室が乱れてれば、緊急時の対応も乱れる。乗務員が疲弊してれば、判断が鈍る。エリンさんはそこを先に整える」
フレデリックが小さく頷く。
「……つまり、機長が安心して操縦できる環境を作る」
「そう」
リュウジは頷いた。
「機長だけじゃない。乗務員も、客も。誰もが“余計な力”を使わずに済む。エリンさんがいると、船の中が静かに回り始める」
フレデリックは、そこまで聞いてからふと笑った。
「……すごい褒め方ですね。チーフパーサーの仕事を、ここまで具体的に語れる機長は珍しいと思います」
リュウジは少しだけ視線を逸らした。
「俺は、乗務員を“道具”だと思ってない」
その言葉は短いが、釘を打つみたいな強さがあった。
リュウジがこれまで見てきた現場、これまで拒んできたもの――それらが一瞬だけ滲む。
「乗務員は、船を守る仲間だ。仕事は違っても、守るものは同じ。だから、ちゃんと見てる。ちゃんと評価する。……それだけだ」
フレデリックは、ペンを止めたまま静かに頷いた。
会議室の外から、かすかに事務所の雑音が聞こえる。
端末の空調音も、いつもより大きく感じる。
フレデリックは慎重に質問を続けた。
「エリンさん本人には、その評価を伝えたことは?」
リュウジは一瞬だけ迷った。
そして、正直に答える。
「……直接は、あまり」
「どうして?」
「言うと、仕事が増える」
リュウジの言葉に、フレデリックが吹き出した。
「増える?」
「褒めると、エリンさんは『じゃあもっと整える』ってなる。あの人はそういう人だ。」
フレデリックは笑いながら、深く頷く。
「なるほど……その距離感も、チームとして機能している」
リュウジは短く頷いた。
「そうだと思う」
フレデリックはページをめくり、次の質問へ行く準備をする。
だが、最後にもう一度だけ確認するように言った。
「では、記事にする際、エリンさんの役割を“船内の状態を整える役”として紹介してもよろしいですか?」
「……いい」
リュウジは答える。
「ただし、“気配り”って軽い言葉で片づけるなら、やめてくれ」
フレデリックは真剣な顔で頷いた。
「分かりました。技術として、責任として、描きます」
リュウジはそれを聞いて、少しだけ肩の力を抜いた。
そして、淡々と付け加える。
「俺が操縦で守れるのは機体の安定までだ。船内の“人の安定”を守ってるのは、あいつらだ。」
フレデリックのペンが、また静かに走り出した。
赤い録音ランプが、その言葉を丁寧に拾っている。
――英雄の話ではなく、船を守る人たちの話として。
ーーーー
会議室の中。
フレデリックは録音端末のランプを消し、ペンを閉じた。取材者としての“区切り”を作る動きだ。
「今日はここまでにさせてもらいます」
「ああ。……また何かあったら連絡してくれ」
リュウジがそう言うと、フレデリックは深く頭を下げた。
「ええ。連載ですから、数ヶ月はよろしくお願いします」
「……連載?」
リュウジの眉がわずかに動く。
取材は一回きりだと思っていた――というより、そうだと勝手に決めていた。
「ええ。毎月発行する週刊誌です」
「……はぁ」
リュウジは頷いたが、納得したというより“飲み込んだ”という頷きだった。
週刊誌。連載。毎月発行。
情報が少し渋滞する。
フレデリックは会議室を出る前に、もう一度だけ丁寧に言った。
「次回は、S級パイロットの“判断”の話を軸にしたいと思っています。今日の内容は、広報部確認の上で掲載します」
「分かった」
リュウジは短く頷き、見送った。
扉が閉まって静かになる。
椅子の背にもたれたリュウジは、天井を見上げて一つ息を吐いた。
(……連載、か)
操縦や訓練と違って、取材は“終わり”のタイミングが読めない。
しかも、言葉は残る。残り続ける。
それを今さら実感して、少しだけ胃のあたりが重くなった。
――ただ、それでも。
あの記者の目は真剣だった。
少なくとも、雑に消費するための取材ではなかった。
リュウジは立ち上がり、会議室の灯りを落とした。
*
それから、しばらくして。
いつものように事務所へ出社すると、入口の空気が妙に“浮いて”いた。
ざわざわではなく、にやにや。
悪い予感しかしない。
リュウジが一歩入った瞬間――
「おはよ、リュウジ」
ペルシアが、口元を押さえて笑いをこらえながら出迎えた。
その手には、薄い冊子が一冊。
週刊誌。
リュウジは足を止める。
「……それ」
「ふふ」
ペルシアはニヤニヤを隠さない。
ページをぱらりと開き、わざとらしく音読した。
「なになに――『あいつは耳がいい。……いや、耳だけじゃない。拾ったものを、ちゃんと形にして指示に変える。そこが凄い』……って」
リュウジが目を細めた。
「……お前、それ、読むな」
「べた褒めじゃない」
ペルシアは嬉しそうに言い放つ。
その声が少し大きかったのか、周囲から「読んで読んで」と小さな笑いが起きた。
リュウジが視線を巡らせると――
気がつけば十四班の面々が、当たり前のように週刊誌を手にしていた。
ククルは表紙を抱え、目を輝かせている。
カイエは平静を装っているが、ページの端を大事そうに押さえている。
エマに至っては、上品に微笑みながらも頬がわずかに赤い。
「……なんで全員持ってるんだ」
リュウジが呆れ半分に言うと、ククルが元気よく答えた。
「だって! 十四班が載ってるんですよ!? 買います!」
「私も買いました」
カイエが淡々と言う。
エマも微笑んだまま頷く。
「記念ですもの」
“記念”という言葉が刺さって、リュウジはこっそり息を吐いた。
(素直に言い過ぎたか……)
確かに、あの場では伝えたかった。
乗務員の仕事は軽く扱われがちだ。
それを、言葉にして残したかった。
でも、それを週刊誌で読むのは――話が別だ。
ペルシアはさらに追い打ちをかけるように、別の箇所を指でトントン叩いた。
「ほら、ここもいい。『船内の“状態を整える役”』だって。エリンも載ってるし」
その瞬間、視線が自然とエリンに集まった。
エリンは自席で端末を見ていたが、熱視線に気づいて顔を上げる。
そして――記事の切り抜きみたいな言葉を見たのだろう。
頬が、ほんのり赤くなった。
普段のエリンなら、平然としている。
褒め言葉を受け取っても「ありがとうございます」で終わる。
だが今日は違った。
エリンは一度視線を落とし、週刊誌の表紙を見つめるようにしてから、ふっと息を吐いた。
そして、リュウジをまっすぐ見て、柔らかく言った。
「……ありがとう」
その一言に、リュウジの肩がわずかに揺れる。
「……事実を言っただけです」
素っ気ない返答。
だが、エリンは気にしない。むしろ嬉しそうに、少しだけ笑った。
その空気をぶち壊すように、タツヤが自席から声を上げた。
「あーあ。班長のことは一切、書かれてない」
口では拗ねているが、顔は笑っている。
いつもの、のらりくらりだ。
タツヤはわざとらしく肩を落として見せる。
「それにしてもさぁ、俺の名言とかも載せてくれていいのにね〜。『張り詰めて仕事するより適度に休んだ方が効率が上がる』とかさ〜」
「それはただの言い訳です」
エリンが即答する。
冷たい声のはずなのに、今日は少し柔らかい。
頬の赤みが残っているからだろう。
タツヤが「ひどいなぁ」と笑い、ペルシアが「タツヤ班長の名言、載せたら炎上するわよ」と肩を揺らす。
リュウジはそのやり取りを眺めながら、少しだけ居心地の悪さを感じていた。
褒めたのは本心だ。
だが、“外に出た言葉”は、もう自分の手を離れている。
それでも――
ククルが週刊誌を抱きしめて嬉しそうにしているのを見ると、悪いことばかりではないと思えた。
リュウジは咳払いし、タツヤに言った。
「……いや、次は話しますから」
タツヤが目を丸くする。
「ほんと?」
「ほんとです。班長がうちの班を守ってるのも事実です」
タツヤは一瞬だけ言葉を失い、すぐにいつもの顔に戻った。
「……いやぁ、照れるなぁ」
ペルシアがニヤニヤしながらリュウジの肩を叩く。
「ほらほら、リュウジ。次回は班長回ね。タイトルは『のらりくらりの守り人』でどう?」
「やめろ」
リュウジが即答すると、周囲に笑いが起きる。
十四班らしい、軽い空気。
その中でエリンだけは、週刊誌をもう一度だけ見てから、そっと閉じた。
胸の前で抱えるようにして、ほんの少しだけ声を落とす。
「……ああいうふうに言葉にしてもらえると、報われるのね」
リュウジは視線を逸らし、短く答えた。
「……報われるためにやってるわけじゃないでしょう」
「そうね」
エリンは微笑む。
「でも、報われてもいいのよ。私たち」
その言い方が、妙に優しくて。
リュウジは返事を探すのに一瞬遅れた。
ペルシアが空気を読まずに割って入る。
「ねぇ、次の取材のときは、私のこともっと褒めて。『ペルシアは天才。全宇宙の宝』って」
「嫌だ」
「えー」
ククルがくすくす笑い、カイエが小さくため息をつき、エマが上品に口元を隠して笑った。
リュウジは結局、苦笑するしかなかった。
――言葉は外へ出た。
でも、その言葉が誰かの背中を少し軽くするなら。
連載が続く数ヶ月、面倒も増えるだろう。
それでも――悪くない。
リュウジは週刊誌を一冊受け取り、ぱらりとめくった。
そこに並ぶ文字が、前までとは違って見える。
“十四班”という名前が、紙の上で確かに息をしていた。