サヴァイヴ〜ドルトムント財閥〜   作:一塔

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体調不良

 ある日のことだった。

 

 ドルトムント財閥系列の旅行会社――宇宙航路部の事務所は、珍しく静まり返っていた。

 普段なら、通路を忙しなく行き交う乗務員のヒール音、パイロットの無線の声、受付に鳴る内線、プリンターの吐き出す紙の音が重なって、落ち着いて呼吸をする暇すらない。なのに今日は、音が足りない。空気そのものが薄いような、妙な“余白”があった。

 

 タツヤは班長会議へ。

 リュウジは訓練へ。

 そして乗務員もパイロットも、別便の応援や訓練に駆り出されている。

 

 つまり――事務所には、人がいない。

 

「……今日は静かね〜」

 

 ペルシアは、受付カウンター脇のデスクに頬杖をついて呟いた。

 指先でペンをくるくる回しながら、ぼんやりと天井の照明を見上げる。光はいつも通り白く眩しいのに、世界が少し色褪せたみたいだ。

 

 いつもなら――

 

「ペルシア、仕事をしなさい」

 

 背後から、エリンの冷静な声が飛んできて、ペルシアは「はーい」とわざとらしく返事をし、数秒だけ真面目な顔を作る。

 それが、日常のやり取りだった。

 

 でも今日は、何も言わなかった。

 

 ペルシアは片眉を上げ、ふとエリンのデスクの方を見た。

 エリンは端末の画面を覗き込み、書類をめくり、キーボードに指を落としている。いつものように動いている――ように見える。けれど、どこか違う。視線が定まっていないわけじゃないのに、動きが“硬い”。機械みたいな、無理に回している歯車みたいな動き。

 

 ペルシアは頬杖を外し、椅子の背にもたれたまま、わざと気の抜けた声で言った。

 

「ねえエリン。今日、変に静かでさ。こういう日はさぁ、ちょっとくらいサボっても――」

 

「ペルシア。ここ、間違ってるわ」

 

 エリンの声が返ってきた。

 淡々としている。いつも通りの仕事声。

 だから一瞬、ペルシアは“気のせい”だと思いかけた。

 

 けれど、エリンが差し出してきた書類を受け取ろうとした瞬間――ペルシアは、気づいた。

 

 エリンの指先が、ほんのわずかに震えている。

 そして、呼吸が荒い。

 言葉の合間に、浅い吸気が混じっている。

 

 ペルシアは書類を受け取ったまま、手を止めた。

 

「……う、うん」

 

 返事はしたのに、目が書類に落ちない。

 ペルシアはじっとエリンの顔を見た。

 

 頬の色が、いつもより薄い。

 唇の血色がない。

 目の下に、わずかな陰がある。

 そして何より――エリンの額に、細い汗が浮いていた。

 

 ペルシアは、椅子を引く音を立てずに立ち上がった。静かな事務所だからこそ、わざと音を消す。

 そっとエリンに近づき、すぐ隣に立つ。

 

「エリン、顔色悪いわよ」

 

 ペルシアは冗談めかした口調を崩さないまま、けれど目だけは真剣だった。

 

「それに……息も荒いし」

 

 エリンは、一瞬だけ目を伏せた。

 その瞬間、ペルシアは確信した。

 

 ――隠してる。

 

 エリンが顔を上げる。口角を上げる。

 いつも通りの、プロの笑顔。

 でも、その笑顔は薄い膜みたいで、ちょっと触れただけで破れそうだった。

 

「何言ってるの」

 

 エリンは軽く笑ってみせた。

 “平気よ”の合図のつもりだろう。

 

 ペルシアは笑わなかった。

 いつもならここで「そう?じゃあ仕事しよ〜っと」って流す。

 でも、今日は流せなかった。

 

「いや、体調悪いなら帰った方がいいわよ」

 

 ペルシアは言い切った。

 声を強くしない。怒らない。

 ただ、拒否できない温度で、事実を置く。

 

「静かな日なんだし。私、受付くらいなら一人で回せるしさ」

 

 エリンの目が、ほんの少し揺れた。

 それは“心配してくれてありがとう”ではなく、“困る”の揺れだった。

 

「私は……大丈夫だから」

 

 エリンは言い、書類を抱え直した。

 立ち上がろうとする。歩き出そうとする。

 

 その足取りが――おぼつかない。

 

 ペルシアは、咄嗟に手を伸ばしそうになって止めた。

 ――触れたら、エリンが崩れる。

 触れたら、エリンの“無理”が確定してしまう。

 ペルシアは一瞬そんな妙な遠慮をしてしまって、次の瞬間、自分を殴りたくなる。

 

「エリン、待って!」

 

 声が少しだけ大きくなった。

 静かな事務所に、響く。

 

 エリンが振り返りかける。

 その途中で――

 

 エリンの視界がふっと遠のいたのだろう。

 瞳が焦点を失い、肩が落ちる。

 抱えていた書類が指から滑りかける。

 

「……っ」

 

 息が詰まるような音。

 

 そして、エリンの身体が――前に傾いた。

 

 ペルシアは、今度こそ迷わなかった。

 一歩踏み込み、エリンの身体を支える。

 

 エリンは軽い。

 普段の彼女からは想像できないほど、骨が細く感じられる。

 

「エリン!?」

 

 ペルシアの声が震えた。

 いつもふざけてばかりの自分の声が、こんなに怖さを含むことがあるのかと思うほどだった。

 

 エリンの顔は真っ白で、汗が首筋を伝っている。

 まつ毛が震え、目が閉じかける。

 

「……だい……じょう……ぶ……」

 

 エリンは、まだ言おうとした。

 “平気”の鎧を最後まで着たまま倒れようとした。

 

「大丈夫なわけないでしょ!」

 

 ペルシアは思わず叫んだ。

 いつもなら誰かに聞こえるのが恥ずかしくて抑える声。

 でも今日は、人がいない。

 だからこそ、余計に怖かった。助けを呼ぶ相手がいない。

 

 ペルシアはエリンを支えたまま、周囲を見渡した。

 誰もいない。

 当たり前だ。今日は静かな日だ。

 

 ――静かな日。

 さっきまで、ペルシアが“楽”だと思った日。

 

 その静けさが今は、刃物みたいに冷たく感じる。

 

「……エリン、聞こえる? ほら、目、開けて」

 

 ペルシアは膝をつき、エリンの背中を壁に預けるように座らせた。

 額に手を当てる。熱い。

 熱が“表面”じゃない。芯から熱い。これは単なる疲れじゃない。

 

 ペルシアは唾を飲み込み、端末を取り出した。

 こういう時、誰に連絡する?

 タツヤ?班長会議中だ。すぐ出ないかもしれない。

 リュウジ?訓練中だろう。

 救護班?それが正解だ。——でも、ここから呼べる?

 

 頭の中が冷たく回り始める。

 ペルシアは自分の指が震えていることに気づいた。

 エリンの指先だけじゃない。自分も震えている。

 

「……っ、落ち着け」

 

 ペルシアは自分に言い聞かせる。

 エリンがいつも教えてくれた言葉を思い出す。

 

 “焦りは、乗客に伝染する。自分が落ち着けば、周りも落ち着く”

 

 ——今、周りに乗客はいない。

 でも、エリンがいる。

 エリンを落ち着かせるために、まず自分が落ち着け。

 

 ペルシアは深く息を吸って、吐いた。

 端末の画面を開く。救護連絡。緊急通報。指が滑る。

 もう一回。今度は確実に。

 送信。

 

「こちら、航路部事務所。スタッフが意識低下。救護要請。至急」

 

 声に出しても、誰も返事はしない。

 それでもペルシアは言った。

 言葉にすれば、手順になる。手順になれば、恐怖が形になる。

 

 ペルシアはエリンの頬を軽く叩く。優しく。

「エリン、ねえ。……聞こえてる?」

 

 エリンの瞼がわずかに揺れた。

 意識が完全に落ちたわけではない。

 けれど、もう“立って仕事する”状態じゃない。

 

「……ペル……シア……」

 

 かすれた声で、エリンがペルシアの名前を呼んだ。

 それだけで、ペルシアの胸がぎゅっと潰れそうになる。

 

「なによ。今さら甘えないでよ」

 

 ペルシアはいつもの調子を作ろうとした。

 でも声が震える。笑いが乗らない。

 

「……ごめ……ん」

 

 エリンが言った。

 

「はぁ!? 何がごめんなのよ。……そんなの後で言いなさい。今は……今は、ちゃんと呼吸して」

 

 ペルシアはエリンの背中を支え、呼吸のリズムを合わせるように肩をさすった。

 エリンの呼吸は浅い。

 息を吸うたび、胸が痛むみたいに小さく震える。

 

 ペルシアはふと、頭の奥で嫌な想像をした。

 ――もし今、応援で人員が抜けていなかったら。

 ――もし誰かがすぐそばにいたら。

 ――もしエリンが倒れる前に、誰かが気づいていたら。

 

 “もし”が、胸の中で暴れる。

 

 ペルシアはそれを振り払うように、エリンの手を握った。

 冷たい。

 指先が冷たいのに、額だけ熱い。

 

「……エリン。あんた、ほんと……真面目すぎ」

 

 ペルシアは小さく言った。

 怒っているのではない。

 泣きそうなのを堪えるための言葉だった。

 

「……いつもさ。あんた、全部自分で背負うじゃない。タツヤ班長の前でも、リュウジの前でも、乗務員の前でも、ずっと“できる人”でいようとする」

 

 エリンは返事をしない。

 できないのかもしれない。

 それでもペルシアは喋り続けた。沈黙が怖かった。

 

「でも今日は……私しかいないのよ。だからさ……」

 

 ペルシアは、声を落とした。

 

「……今日は、私が守る番。だから黙って倒れてなさい」

 

 その言葉は、強がりだった。

 ペルシアは守ることに慣れていない。

 いつも守られる側じゃないわけじゃない。でも、支える役を自分が担うのは苦手だ。

 それでも——今は逃げられない。

 

 数分が、異様に長く感じられた。

 端末の通知が鳴る。救護班の到着予定。

 ペルシアはほっと息を吐いた瞬間、膝が少し震えた。

 

 その時、エリンがかすかに目を開けた。

 薄い瞳の奥で、何かを確認するようにペルシアを見ている。

 

「……ペルシア……」

 

「なによ。喋らなくていいって」

 

「……ごめ……」

 

「だから、ごめん禁止!」

 

 ペルシアは、いつもみたいに語尾を跳ねさせた。

 けれど、声の奥が滲むのを隠せない。

 

「謝るならさ……元気になってから、私の好きなケーキ奢りなさいよ。いい?」

 

 エリンの口角がほんの少しだけ動いた。

 笑ったのかもしれない。

 でもすぐに瞼が重く落ち、また目が閉じる。

 

「……約束よ」

 

 ペルシアはそう言って、ぎゅっと手を握り直した。

 

 救護班の足音が廊下から聞こえてきた。

 普段ならうるさいと思う足音が、今は救いの音に聞こえる。

 

「こちらです!」

 

 ペルシアは声を張った。

 声が裏返りそうになったが、踏ん張った。

 

 救護班が駆け込んできて、状況確認、バイタル確認、担架の準備。

 手際の良い動きが、止まっていた時間を動かし始める。

 

「エリンさんですね。意識は?」

 

「さっきまで……薄く。今は……」

 

 ペルシアは必死に答えた。

 専門的な言葉が出てこない。

 でも、とにかく伝える。熱、呼吸、汗、震え。全部。

 

「ありがとうございます。こちらで引き継ぎます」

 

 救護班がエリンを担架へ移す。

 ペルシアは手を離すのが怖くて、最後まで指先を触れさせていた。

 けれど、引き離される。

 

 担架が運ばれていく。

 扉が開いて、廊下の明かりが差し込み、そして閉まる。

 

 事務所は、また静かになった。

 

 さっきまで“今日は静かね〜”なんて言っていた静けさが、今は空洞みたいだった。

 机の上に散らばった書類。

 エリンの端末。

 倒れる寸前に落ちたペン。

 

 ペルシアはその場に立ち尽くしたまま、数秒間、呼吸ができなかった。

 

 そして――

 

「……なんなのよ、もう」

 

 声が、かすれた。

 笑いにも怒りにもならない、ぐちゃぐちゃの声。

 

 ペルシアは自分の頬に触れた。

 いつの間にか、濡れていた。

 涙が落ちたのか、汗なのか分からないくらい、熱が滲んでいた。

 

 彼女は乱暴に袖で拭い、端末を取り出す。

 

 タツヤ。

 リュウジ。

 班の連絡網。

 

 次々に発信を押しかけて、指が止まった。

 

 ——今、誰に連絡しても、たぶん皆は飛んでくる。

 タツヤは会議を抜ける。

 リュウジは訓練を止める。

 班は慌てる。

 皆が、エリンのために走る。

 

 でも、それがエリンの望みだろうか。

 

 “私は大丈夫”

 そう言いながら倒れた彼女を思い出して、ペルシアは歯を食いしばった。

 

 それでも——

 知らせないのは、違う。

 

 ペルシアは、タツヤの番号を押した。

 

 コール音。

 静かな事務所に、規則正しく響く。

 

 繋がるまでの数秒が、永遠みたいに長い。

 

 そして。

 

「……はい、タツヤです」

 

 いつもの落ち着いた班長の声が、やっと返ってきた。

 

 ペルシアは息を吸う。

 声が震えないように、腹に力を入れる。

 

「タツヤ班長。……エリンが倒れた」

 

 その一言で、タツヤの空気が変わるのが、電話越しでも分かった。

 

「……場所は」

 

「事務所。救護班は呼んで、今、搬送された」

 

「分かった。すぐ向かう。ペルシア、お前は――」

 

「大丈夫」

 

 ペルシアは言い切った。

 自分に言い聞かせるように。

 

「……私、ここにいる。エリンの机も、書類も、全部。ちゃんと守っとく」

 

 電話の向こうで、タツヤが息を吐いた。

「……頼む」

 

 通話が切れる。

 

 ペルシアは端末を机の上に置いた。

 さっき、エリンが倒れた場所を見つめる。

 

 何もない床が、やけに広い。

 

 そして、ペルシアはぽつりと呟いた。

 

「……静かな日って、嫌い」

 

 その声は誰にも届かない。

 でも、ペルシア自身の耳には、はっきり響いた。

 

 彼女は椅子に座り直し、頬杖をついた。

 さっきと同じ姿勢。

 でも、もう同じじゃない。

 

 机の上の書類を一枚取って、ペンを握る。

 

「……エリン。起きたら怒られるわね。『仕事をしなさい』って」

 

 そう言って、ペルシアは無理矢理笑った。

 

 笑ってしまったせいで、また涙が落ちた。

 

 ポツ、ポツ、と。

 

 書類の上に、小さな雫が染みを作った。

 

ーーーー

 

 目を開けた瞬間、最初に見えたのは――見覚えのない天井だった。

 

 白い。均一で、どこまでも無機質な白。

 微かに薬品の匂いがして、喉の奥が乾いている。耳に届くのは、一定のリズムで鳴る電子音と、遠くで誰かが歩く足音。空調の低い唸り。どれもこれも、生活の音じゃない。

 

 ――病院。

 

 エリンはそう結論づけた瞬間、自分の身体が妙に重いことに気づいた。胸の内側に熱がこもっていて、頭の芯がぼんやりする。腕を少し動かしただけで、手首の辺りに違和感が走った。

 

 見ると、腕に点滴の針が刺さっている。

 

「……っ」

 

 小さく息が漏れた。その息さえ、思ったより熱い。

 

 起き上がろうと肩に力を入れた、その時。

 

「起きましたか」

 

 低く落ち着いた声が聞こえた。

 エリンは首を横に向ける。

 

 ベッド脇の椅子に座り、文庫本を開いていた男が、静かにページを閉じた。

 黒髪短髪。整った顔立ち。無駄な動きのない姿勢。

 

 ――リュウジ。

 

「……リュウジ? ここは……」

 

 声を出した瞬間、自分の声が掠れていることに気づき、エリンは眉を寄せた。

 それだけで喉が痛い。熱が高い時の痛みだ。

 

「病院です。会社で倒れたんです」

 

 リュウジは淡々と答えた。口調は冷たいわけじゃない。ただ、要点を外さない“いつもの”話し方だった。

 でも、普段より少しだけ柔らかい――そんな気がした。

 

「……そう」

 

 エリンは短く返し、反射的に布団を押しのけようとした。

 仕事。状況確認。引き継ぎ。迷惑をかけた分の穴埋め。

 頭の中に、やるべきことが雪崩のように押し寄せる。

 

 しかし、身体が言うことを聞かない。ふらりと視界が揺れた。

 

 その瞬間――

 

 リュウジの手が伸びて、エリンの肩を押さえた。

 力は強くない。けれど、逃げられない確かな制止。

 

「無茶しないでください」

 

 静かな声だった。

 それなのに、妙に刺さった。

 

「……でも仕事が」

 

 エリンが言いかけると、リュウジは息を吐いてから、少しだけ眉を寄せた。

 

「今は自分の身体を心配してください」

 

 それは命令ではなく、懇願に近い響きだった。

 

 エリンは一瞬ぽかんとした。

 そのあと、ふっと笑いが漏れた。

 

「ふふっ……リュウジにそんなこと言われるなんて」

 

 自分でも驚くほど、声が柔らかくなった。

 いつもなら、誰かが倒れたって冷静に“業務”へ戻す側だった自分が、ベッドの上で、誰かに止められている。

 

 リュウジは表情を変えないまま、閉じた本を膝に置いた。

 

「倒れたんですから。何度でも言いますよ」

 

「……頑固」

 

「それはエリンさんでしょう」

 

 即答だった。

 

 エリンは、少しだけ目を見開いて――また笑った。

 笑ったせいで咳が出そうになり、喉の奥が熱く痛んで、慌てて息を整える。

 

「……私の病気は?」

 

 質問すると、リュウジは点滴のチューブと、ベッド脇に置かれた簡易の検温記録をちらりと見た。

 

「ただの風邪です。ただ、熱が高いので、念のため点滴をしてもらってます」

 

「そう……」

 

 “ただの風邪”。

 その言葉に、少し安心してしまう自分がいた。

 でも同時に、風邪程度で倒れるなんて――と、悔しさと恥ずかしさが胸の奥でざらついた。

 

「ありがとう……みんなに迷惑かけちゃったわね」

 

 エリンが呟くと、リュウジは小さく首を横に振った。

 

「迷惑とか、そういう話ではないです」

 

「……そういう話よ」

 

 エリンは反射で返す。

 自分がいることで回る現場がある。自分が抜ければ詰まる場所がある。

 それを知っているから、無理をする。無理をしてでも“欠けた穴”になりたくない。

 

 リュウジは視線を落とし、しばらく黙ってから言った。

 

「……倒れるまで働くのは、責任感じゃなくて、ただの無茶です」

 

 まるで、自分に言い聞かせるみたいに。

 

 エリンは、心臓が一度だけ跳ねるのを感じた。

 リュウジがこういう言い方をする時、彼自身もまた“無茶”の側に立ってきた証拠だ。

 いつも無表情で、痛みを隠して、平然としているくせに。

 

「……あなた、訓練は?」

 

 エリンが尋ねると、リュウジはさらりと答えた。

 

「中断しました」

 

「中断って……あなたの立場で?」

 

「呼び出されました。タツヤ班長から」

 

 その名前が出て、エリンは理解した。

 班長会議中だったタツヤが、状況を掴み、連絡網を回し、必要な人間を最短で集めたのだろう。

 そして、“最短で来れる人間”として、訓練中のリュウジが呼ばれた。

 

 エリンは眉を下げる。

 

「ごめんね……あなたまで」

 

「謝ることじゃないです」

 

 リュウジの返答は早い。

 けれど、そこで少しだけ言葉を選ぶように間が空いた。

 

「……俺が来たかっただけです」

 

 短い言葉だった。

 けれど、病室の白い空気の中で、その一言だけ妙に温度を持った。

 

 エリンは言葉を失い、目を伏せる。

 胸の奥が、じわりと熱くなる。熱のせいだけじゃない。

 

「……そう」

 

 やっと、それだけ言えた。

 

 沈黙が落ちる。

 機械音と、遠くの足音だけが、病室を満たす。

 

 エリンは、点滴の滴が落ちるのを眺めながら、自分の指先を少し握って開いた。

 力が入らない。

 自分がこんなに弱るなんて、昔の自分なら信じないだろう。

 

 ふと、ベッド脇のテーブルに目が留まった。

 紙コップの水。熱さましのシート。病院の簡易スプーン。

 そして、その横に小さなメモが置いてある。

 

「……それ、何?」

 

 エリンが尋ねると、リュウジは少しだけ気まずそうに視線を逸らした。

 

「医者からの注意事項です。水分、休養、解熱剤の時間……それと、無理に起きないこと」

 

「……誰に向けての注意なのかしらね」

 

 エリンが皮肉っぽく言うと、リュウジは即答する。

 

「エリンさんに決まってます」

 

 真顔で言われて、エリンは吹き出しそうになった。

 でも笑うと咳が出る。

 エリンは肩を震わせるだけでこらえ、息を整える。

 

「……私、倒れた時……何か言った?」

 

 ふと不安になって尋ねる。

 朦朧としていた記憶は断片的で、ペルシアの声がした気がする程度だ。

 

 リュウジは首を横に振った。

 

「特には。ただ……『大丈夫』って言おうとしてたってペルシアが言ってました」

 

「……そう」

 

 恥ずかしい。

 倒れかけているのに“大丈夫”を言おうとするなんて、職業病にもほどがある。

 

 エリンは、枕に頭を戻し、天井を見上げた。

 

「ペルシアは?」

 

 名前を出した瞬間、自分の中に小さな棘が立つのを感じた。

 “あの子”は大丈夫だったか。

 自分が倒れたせいで、また余計な責任を背負っていないか。

 

 リュウジは、少しだけ表情を和らげる。

 

「さっきまでいました。ずっとエリンさんのそばに」

 

「……そう」

 

 胸がきゅっとなる。

 あの子はいつも軽口を叩くのに、誰よりも先に動いて、誰よりも先に怖がって、誰よりも先に守ろうとする。

 

 エリンは、視線を横に動かしてリュウジを見る。

 

「……あなた達、似てるわね」

 

「どこがですか」

 

「守り方が」

 

 エリンは小さく呟いた。

 リュウジは答えない。否定もしない。

 ただ、少しだけ眉を寄せた。

 

「……エリンさんは、守られるのが下手です」

 

 その言い方が、やけに真剣で、エリンはまた笑いそうになる。

 

「それ、誰に言われたの?」

 

「俺です」

 

 真顔のまま言うものだから、エリンはとうとう笑ってしまった。

 胸の奥が熱く揺れて、喉が痛むのも忘れそうになる。

 

「ふふっ……もう、ほんとに……」

 

 笑いながら、エリンは目尻に溜まる熱を瞬きで散らした。

 泣いているわけじゃない。

 ただ熱のせい。そう自分に言い聞かせる。

 

 その時、病室の扉が軽くノックされた。

 

「失礼します」

 

 看護師が顔を出し、点滴の残量と、モニターを確認する。

 手慣れた動きで体温計を差し出した。

 

「もう一度測りましょうね。熱が下がってきたら、少し楽になりますよ」

 

 エリンは素直に頷き、体温計を受け取ろうとした。

 しかし指が滑り、体温計を落としそうになる。

 

 その瞬間、リュウジがさっと手を出して受け取った。

 

「……ありがとうございます」

 

 看護師がリュウジに微笑んで言うと、リュウジは小さく会釈した。

 エリンはそのやり取りを眺めながら、胸の奥で何かが柔らかくほどけていくのを感じた。

 

 “自分が倒れた”という事実は悔しい。

 でも、“支えてくれる人がいる”という事実は、悔しさとは別の場所を温める。

 

 看護師が出ていき、また静けさが戻る。

 

 エリンは体温計を脇に挟みながら、リュウジを見た。

 

「……ほんとに、ごめんね」

 

 もう一度言う。

 今度は“責任”じゃない。

 純粋な謝罪として。

 

 リュウジは、少しだけ目を細めた。

 

「謝らないでください」

 

「でも――」

 

「……エリンさんが倒れたのは、俺達の責任でもあります。普段から無理をしてるのを、見て見ぬふりをしてた」

 

 その言葉に、エリンは息を飲む。

 責められているわけじゃない。

 “気づいていた”と言われたのが、胸に響いた。

 

「……気づかれてたのね」

 

「ええ。気づきますよ」

 

 当然のように言われて、エリンは視線を落とす。

 

 脇の体温計が、ぴっと鳴った。

 エリンが数値を見ようとした瞬間、リュウジが先に覗き込む。

 

「……まだ高いです」

 

「どれくらい?」

 

「……四十度手前です」

 

「……最悪」

 

 エリンは天井を見上げ、息を吐いた。

 情けない。

 熱が高いと、頭も身体も鈍る。自分の得意な“完璧な動き”ができない。

 

 エリンは、悔しさを紛らわせるように軽口を叩く。

 

「ねえリュウジ。私が寝てる間、ずっとここにいたの?」

 

「はい」

 

「暇じゃなかった?」

 

「本を読んでました」

 

「……何の本?」

 

「心理学の本です。昔から、癖で」

 

 淡々と答える。

 その“癖”が、誰かの癖を見抜き、誰かの危険を先に掴み、誰かを守るために使われてきたことを、エリンは知っている。

 

 エリンは小さく笑い、目を閉じた。

 

「……ねえ」

 

「はい」

 

「あなた、優しいわよね」

 

 リュウジが一瞬黙る。

 そして、いつもより低い声で答えた。

 

「……それ、言われたくないです」

 

「なんで?」

 

「優しいって言葉は、簡単に“都合のいい人間”にされます」

 

 重い言葉だった。

 どこか、リュウジ自身が受けてきた傷の匂いがした。

 

 エリンは目を開け、まっすぐリュウジを見る。

 

「……じゃあ、言い方変える」

 

 エリンは小さく息を吸い、言った。

 

「あなたは“ちゃんと人を見てる”。だから、私は安心する」

 

 リュウジの目が、ほんの僅かに揺れた。

 すぐにいつもの無表情に戻るが、その揺れは消せなかった。

 

「……そうですか」

 

 それだけ答える。

 けれど、その短い返事の裏に、何かを飲み込んだ気配があった。

 

 エリンは力の入らない指で布団を少し握る。

 熱のせいで眠気が戻ってくる。瞼が重い。

 意識がふわりと遠のきかける。

 

「……リュウジ」

 

「はい」

 

「……ありがとう。ほんとに」

 

 言った瞬間、胸の奥が少し軽くなった。

 仕事のことは、きっと誰かが回す。

 自分が倒れても世界は止まらない。

 それを悔しいと思う自分と、救われる自分がいる。

 

 リュウジは立ち上がり、ベッド脇にある水のコップを手に取った。

 ストローの位置を整え、エリンの口元に近づける。

 

「少し飲んでください。喉、乾いてるでしょう」

 

「……子ども扱いしないで」

 

「倒れた人は、全員そうです」

 

「ふふっ……ほんと、生意気」

 

 そう言いながらも、エリンは素直に水を飲んだ。

 喉を冷たい水が通るだけで、少し楽になる。

 

 飲み終えると、リュウジはコップを戻し、椅子に座り直した。

 

「……寝てください。起きたらまた、熱を測ります」

 

「……あなた、看護師になれるわよ」

 

「なりません」

 

 即答。

 

 エリンは笑って、目を閉じる。

 白い天井が滲み、機械音が遠くなる。

 意識の縁で、リュウジのページをめくる音がした。

 

 その音が、不思議と心地よかった。

 

 ――私、倒れちゃった。

 迷惑もかけた。

 でも。

 

 こうして、誰かが隣にいてくれることを、今だけは受け取ってもいいのかもしれない。

 

 エリンはそう思いながら、静かに眠りに落ちていった。

 

ーーーー

 

 朝の光は、病室のカーテン越しでもはっきりと分かった。柔らかいのに眩しくて、昨日まで身体の芯にまとわりついていた熱の重さが嘘みたいに引いている。

 

「うーん……よく寝たわ」

 

 エリンはベッドの上で思い切り背伸びをした。肩甲骨が軽く鳴って、肺に空気がすうっと入る。頭の奥のもやもやもない。喉の痛みも引いている。昨夜までの自分が、まるで別人みたいだった。

 

 ベッド脇の椅子に座っていた影が、ぱちりと本を閉じる音がした。

 

「おはようございます」

 

 低く落ち着いた声。視線を向けると、リュウジがいつもの無駄のない姿勢でこちらを見ていた。目の下に、ほんの少しだけ影がある。だけど本人は、気にしていない顔をしている。

 

「おはよう。……まさか、ずっといたの?」

 

 エリンが呆れ半分、でもどこか嬉しい気持ちも隠しきれない声で言うと、リュウジは「ええ」と頷いたあと、当たり前だろと言わんばかりの顔で小さく呟いた。

 

「……必要でしたので」

 

「必要、ね」

 

 エリンは口元を緩めた。言葉は淡々としているのに、行動がまるで正直すぎる。こういうところが、リュウジらしい。

 

「まったく……」

 

 その「まったく」は責めているのではなく、むしろくすぐったい感情を押し隠すためのものだった。

 

 リュウジは少しだけ視線を外してから、改めてエリンに向き直る。

 

「体調は、いかがですか」

 

「もう治ったみたい」

 

 エリンが笑みを浮かべて言うと、リュウジの眉がわずかに動いた。

 

「本当ですか?」

 

 言い終えるより早く、彼の掌がすっと伸びてきて、エリンの額にそっと置かれる。

 

「あっ」

 

 思わず声が漏れた。掌が意外なくらい温かい。昨日まで点滴で冷えたように感じていた体温が、その手のひらで一気に意識させられる。近い。距離が近い。近すぎる。

 

 エリンの頬が、ふわりと熱くなった。

 

 ――いや、これは熱じゃない。熱はもう下がったはずなのに。

 

「……熱は、なさそうですね」

 

 リュウジは何事もなかったように淡々と告げ、掌を離した。離れた瞬間、妙に名残惜しいと思ってしまって、エリンは自分にびっくりした。

 

「……」

 

 数秒、言葉が出ない。

 

「……エリンさん?」

 

 呼ばれて、エリンは弾かれたみたいに反応した。

 

「う、うん! なんでもないよ!?」

 

 声が裏返りそうになって、エリンは慌てて咳払いをしそうになった。けれど咳は出ない。ただ、心臓だけが変に速い。

 

 リュウジは少し眉を寄せる。

 

「何を焦って――」

 

 言いかけたところで、病室の扉が勢いよく開いた。

 

「エリン大丈夫?」

 

 明るく弾む声が飛び込んでくる。

 

「大丈夫か?」

 

 続いて、落ち着いた男の声。

 

 エリンはぱっと顔を上げた。

 

「……ペルシア。タツヤ班長」

 

 病室に入ってきたのは、いつもの調子のペルシアと、頼れる班長――タツヤだった。タツヤは仕事の前に来たのだろう、きちんとした服装のまま、しかし表情は柔らかい。

 

「おはよう、ペルシア。……おはようございます、タツヤ班長」

 

 エリンが言うと、タツヤは「元気そうだね」と安堵の笑みを浮かべた。

 

「よかった。顔色戻ってる」

 

 ペルシアはベッドに近づくなり、エリンの顔を覗き込む。その距離感は相変わらず遠慮がない。

 

「……あれ? でも、まだ熱あるの? 顔赤いよ」

 

「えっ」

 

 エリンは反射で両手を頬に当てた。熱くない、と思いたいのに、確かに熱い。さっきのリュウジの掌の感触が、そこだけ残っているみたいだ。

 

 エリンは布団を引き上げて頬の半分を隠した。

 

「ち、違うわよ」

 

 しかしその瞬間、リュウジが淡々と事実だけを口にする。

 

「熱はありませんでした」

 

「ほぉ〜?」

 

 ペルシアがにやにやしながら、今度はエリンとリュウジを交互に見た。視線の角度がいやらしい。こういう時の勘だけは異常に鋭い女だ。

 

「まあまあ、ペルシア」

 

 タツヤが咳払いをして窘める。けれど、声に笑いが混じっているあたり、完全に味方ではない。

 

 ペルシアは一度だけ肩を竦め、それから急に真顔になって、エリンの身体にぎゅっと顔を埋めた。

 

「……もう、ほんと。早く戻ってきてよ」

 

「どうしたのよ、ペルシア」

 

 エリンは困ったように笑いながら、ペルシアの頭を撫でた。髪がさらさらしている。甘える時だけ子どもみたいになる。

 

「エリンが倒れたからって、タツヤ班長がいじめるの」

 

「え?」

 

 エリンは思わずタツヤを見る。タツヤは両手を軽く上げて、誤解だと言いたげな顔をした。

 

「いじめてないよ。仕事を回しただけだ」

 

「ほら! そういうところ!」

 

 ペルシアが顔を上げて、唇を尖らせる。

 

「エリンの仕事を全部、私に振ってくるの!」

 

「あー……なるほど」

 

 エリンは苦笑いを浮かべた。胸の奥が少し温かくなる。倒れていた間、自分の穴を埋めるために、誰かが必死に動いてくれたのだ。ペルシアがやってくれたのが分かる。

 

「しょうがないだろ。副パーサーはペルシアなんだもん」

 

 タツヤが肩を竦めると、ペルシアは布団の端を握りしめた。

 

「それじゃあ、私が倒れちゃうよ!」

 

「倒れるほど働けるなら、優秀じゃない」

 

 エリンがからかうように言うと、ペルシアはぱっと顔を上げる。

 

「え、やだ、褒めてないでしょそれ!」

 

 そして急に泣きそうな顔を作り、さらに畳み掛けた。

 

「仕事も全然サボれないし、ドーナツ屋に行く時間もないのよ! 信じられる!?」

 

「……ドーナツ屋」

 

 リュウジがぼそっと呟く。声にわずかな呆れが混じっていて、エリンは笑いそうになった。

 

「あら、いいことじゃない」

 

 エリンがさらっと言うと、ペルシアは口を開けて固まった。

 

「エリン……」

 

「仕事が忙しいのは、あなたが必要とされてるってことだもの。誇りなさい」

 

「うっ……そういう正論、やめて!」

 

 ペルシアはむくれた。けれどその目は少しだけ嬉しそうで、エリンは内心ほっとする。ペルシアは軽口を叩くけれど、こういう時に一番無理をする。自分が倒れたことで、ペルシアが余計な責任を背負っていないか――それが一番気がかりだった。

 

 エリンは布団の中で肩をすくめ、冗談っぽく言った。

 

「それだったら、もう少し休もうかな」

 

「ええ!?」

 

 ペルシアが叫んで、勢いよくリュウジの方へ向き直る。

 

「リュウジ〜!」

 

「俺に振るな」

 

 リュウジは即答した。温度のない切り返しがいつも通りで、エリンは少し安心する。

 

 しかしペルシアは引かない。悪戯っぽく目を細めて、甘えた声を作った。

 

「リュウジは、私が倒れてもいいの?」

 

「……」

 

 リュウジの沈黙が、分かりやすすぎた。

 エリンは思わず笑いを噛み殺す。リュウジは人の脅しに屈しない――はずなのに、こういう“無駄に心を突く脅し”には弱い。

 

「……分かった。手伝ってやる」

 

 リュウジが観念したように言うと、ペルシアはぱっと花が咲いたみたいに表情を明るくした。

 

「リュウジ、神!」

 

「大袈裟だ」

 

「神は大袈裟じゃないわよ! 現場は救世主を求めてるの!」

 

 ペルシアが勝手に盛り上がる。タツヤは呆れたように笑いながらも、どこか救われた顔をしていた。負担が分散されるなら、班長としてはありがたいのだろう。

 

 エリンはその様子を見て、胸の奥がじんとした。

 この人たちは、相変わらずだ。軽口を叩いて、喧嘩みたいなやり取りをして、それでも当たり前のように互いを支えている。

 

 だからこそ――

 

 エリンは一瞬だけ、さっきのリュウジの掌の温度を思い出してしまう。

 あれは、ただの確認。熱があるかどうか。それだけの行為。

 なのに、どうして自分の頬が赤くなるのか。

 

 考える前に、エリンは話題をすり替えるように言った。

 

「……あ、ペルシア。リュウジを少し休ませてあげてね。寝てないから」

 

 その言葉に、空気が一瞬止まった。

 

「え?」

 

 ペルシアが目を丸くする。

 

 タツヤも驚いた顔でリュウジを見る。

 

「寝てないのか?」

 

 リュウジは少しだけ視線を逸らした。否定しない。つまり本当だ。

 

「……本を読んでただけです」

 

「それが“寝てない”って言うのよ」

 

 エリンは呆れながら、でも嬉しさを隠しきれずに言った。

 こんなふうに誰かが自分のために夜を明かしてくれるなんて、あまりにも不意打ちで、胸の奥がくすぐったい。

 

「……うわぁ」

 

 ペルシアが両手で口元を覆って、わざとらしく感動した声を出す。

 

「リュウジ、健気! エリン、罪な女!」

 

「ペルシア、余計なこと言わない」

 

 エリンが即座に突っ込むと、ペルシアはへへっと笑い、今度は素直に頷いた。

 

「うん、分かった。リュウジ、今日ちょっとだけでいいから仮眠取って。現場で倒れたら元も子もないし」

 

「……」

 

「返事は?」

 

 ペルシアが詰めると、リュウジは小さく息を吐いた。

 

「……善処する」

 

「“善処”はしない人の言葉!」

 

 ペルシアが即座に言い返し、タツヤが苦笑する。

 

「よし、じゃあこうしよう。とりあえずはペルシアと俺で回す。リュウジは一旦帰って寝ろ。エリンは――」

 

 タツヤがエリンに視線を向ける。

 エリンは反射で「大丈夫」と言いそうになって、そこで昨日の自分を思い出した。倒れる直前まで“大丈夫”を言おうとした自分。リュウジに止められた自分。

 

 だから今度は、少しだけ言い方を変える。

 

「……今日いっぱいは休みます。明日、医者の許可が出たら戻ります」

 

「よし」

 

 タツヤが満足そうに頷く。

 ペルシアは「やった!」とガッツポーズを作りかけて、すぐに思い直したようにエリンに顔を寄せた。

 

「でも、ほんとに無理しないでよ。エリンが倒れると……私、怖いんだからね」

 

 小さな声だった。

 冗談みたいに笑っているのに、目だけが真剣で、エリンの胸がきゅっとなる。

 

 エリンはペルシアの頬を軽くつまんだ。

 

「怖いなら、私が倒れないようにちゃんと働きなさい」

 

「それが鬼!」

 

「鬼じゃない、副パーサーの教育よ」

 

「やっぱ鬼!」

 

 やり取りはいつも通りで、でも確かに、互いを思っている温度がそこにあった。

 

 タツヤは時計を確認し、軽く頭を下げる。

 

「じゃあ俺達は戻る。エリン、落ち着いたら連絡して。無理して動くなよ」

 

「はい。ご心配ありがとうございます、タツヤ班長」

 

「おう」

 

 タツヤが笑って扉へ向かう。

 ペルシアも名残惜しそうにしながら、最後にエリンの手をぎゅっと握った。

 

「エリン、約束。今日は寝る。明日も無理しない。絶対」

 

「はいはい」

 

「はい、って言った! 今“はい”って言った!」

 

「言ったわよ、うるさい」

 

 ペルシアは満足そうに頷き、扉のところでくるりと振り返る。

 

「リュウジ! 帰ったらちゃんと寝てよ! 寝なかったら次から“神”って呼ばないから!」

 

「脅しが雑だ」

 

「効くでしょ?」

 

「効かない」

 

「絶対効いてる顔!」

 

 ペルシアが勝手に勝利宣言をして、タツヤに「行くぞ」と背中を押されながら病室を出ていった。

 

 扉が閉まり、静けさが戻る。

 窓の外の光が少し強くなり、病室の白が眩しい。

 

 エリンは布団の端を握ったまま、リュウジを見る。

 

「……ほんとに寝てないの?」

 

「ええ」

 

 認めるのか、とエリンは少し驚いた。

 リュウジは淡々としているが、目の奥に疲れがある。本人は隠しているつもりなのだろう。

 

「ばかね」

 

 エリンが小さく呟くと、リュウジは少しだけ眉を動かした。

 

「……エリンさんに言われたくないです」

 

「それはそう」

 

 エリンは素直に認めて、苦笑する。

 そして、少し間を置いてから言った。

 

「ありがとう。……昨日、ずっといてくれて」

 

 リュウジは一瞬だけ視線を逸らし、いつもの無表情に戻る。

 

「当然のことをしただけです」

 

「当然、ね」

 

 エリンは枕に背中を預け、天井を見上げた。

 胸の奥がじんわり温かい。昨日の熱とは違う、別の熱だ。

 

 ふと、さっきの掌の感触がまた蘇って、エリンは無意識に頬に手を当てた。

 まだ少し熱い。

 

 リュウジがその仕草に気づいたのか、静かに尋ねる。

 

「……まだ辛いですか」

 

「ううん。違うの」

 

「違う?」

 

「……なんでもない」

 

 エリンは言い切って、話を終わらせるように笑った。

 

「ねえ、リュウジ。今日は帰って寝なさい。命令よ」

 

「……命令ですか」

 

「そう。チーフパーサーの命令」

 

 リュウジは小さく息を吐き、観念したように頷いた。

 

「分かりました。……ただ、医者が来て、診断が出るまでここにいます」

 

「そこは譲らないのね」

 

「ええ」

 

 エリンは「まったく」と呟き、けれど口元は緩んだままだった。

 

 病室の白い空気の中で、二人の間にだけ、確かな温度が残っている。

 外の世界は忙しく回り続ける。ペルシアは文句を言いながら働くし、タツヤはそれをまとめていく。リュウジだって、きっとまた訓練や次の予定がある。

 

 それでも今この瞬間だけは、エリンは“守られる側”でいてもいいのかもしれない。

 

「……エリンさん」

 

 リュウジが呼ぶ。

 

「なに?」

 

「……本当に、無理しないでください」

 

 その言葉は、昨日よりもはっきりとした温度を持っていた。

 

 エリンは目を細めて、静かに頷いた。

 

「うん。……約束する」

 

 そう言った途端、胸の奥がまた熱くなりそうで、エリンは誤魔化すように布団を引き上げ、鼻先まで隠した。

 

「……寝るわ」

 

「はい」

 

「見ないで」

 

「見てません」

 

「絶対見てる」

 

「見てません」

 

 淡々と否定する声が、いつもより少しだけ柔らかく聞こえた気がした。

 

 エリンは目を閉じる。

 今度は“倒れるほどの眠り”じゃない。

 ただ、安心して眠るための眠りだ。

 

 そして、意識が落ちる直前――

 

 ページをめくる音が、また耳に届いた。

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