昼前の事務所は、いつものように静かな機械音と端末のタップ音で満ちていた。
航行記録の整理、燃料ログの突合、次便の資料作成。十四班の仕事は“派手さ”とは無縁で、けれど一つでも抜ければ宙の安全が傾く――そんな種類の、淡々として重い作業が並ぶ。
その均衡を、ペルシアの声がいきなり割った。
「……また退職者?」
事務所の入り口付近、壁面の掲示板――正確には社内イントラの掲示を投影したパネルの前で、ペルシアが片手を腰に当てたまま眉をひそめている。
その声がやけに響いたのは、皆が“聞こえないふり”をしていた話題を、彼女が真正面から引っ張り出したからだ。
「今月で何人目よ……」
ペルシアの指先が、掲示の一覧を上から下へなぞる。
名前、部署、最終出社日。
事務的に整えられた文字列が、逆に冷たく見えた。
リュウジは自席から顔を上げる。
「……そんなに多いのか?」
ペルシアは振り返り、肩をすくめた。
「ええ。ドルトムント財閥ではよくあることよ」
あまりにも当然のように言うので、リュウジは一瞬、言葉を失った。
“よくある”で済ませていい数ではない。
そのやり取りを、タツヤがのらりと受け取った。
椅子を回してこちらを向き、いつもの軽い声で言う。
「悪い噂は絶えないんだよ。ライバル企業を裏で潰した話。異論を唱えた社員が解雇された話」
笑っているようで笑っていない。
タツヤの声には、軽口を装った苦さが混じっていた。
「……ドルトムント財閥は、リョク社長の独裁。都合が悪ければ古参社員すら即刻解雇される。巨大過ぎて、誰も逆らえないのよ」
言い切ったのはペルシアだ。
彼女は掲示板から目を離さないまま、吐き捨てるように続ける。
「旧体制のやり方と言えばそれまでだけど」
リュウジは背筋を正して、タツヤに視線を向けた。
「……そんな会社だったんですか、タツヤ班長」
タツヤは「まぁね」と片眉を上げ、軽く笑う。
「ただ、能力がある社員には恩恵が厚いっていうメリットもあるからね。実力主義と言えば、それまでだけど」
ペルシアは渋い顔のまま、唇を尖らせた。
「“実力主義”って言葉、便利よね。切るのも、使うのも、正当化できる」
「言い方」
タツヤが苦笑して宥めるように言う。
「でもまあ、十四班は特別だから。よっぽどのことがない限りは大丈夫だよ」
その“特別”という単語に、リュウジは少し引っかかりを覚えた。
特別扱いは恩恵にもなる。
同時に、標的にもなる。
ペルシアがようやく掲示板から離れ、今度はリュウジを見て指を一本立てる。
「まあ、アンタも気をつけなさい」
「俺が?」
「そう。S級って肩書きは盾にもなるけど、矢も集めるのよ。特に、あの社長の目に止まったらね」
“止まったら”の言い方が妙に具体的で、リュウジは軽く眉を寄せた。
ペルシアはそれ以上説明する気がないのか、椅子の背に掛けてあったバッグをひょいと肩にかける。
そのタイミングで、タツヤが彼女の背に声を投げた。
「ペルシア、今日は頼むね」
「分かってまーす」
ペルシアはくるりと振り返り、悪戯っぽく笑う。
「オシャレしてくる」
言い残して、事務所の扉を軽快に抜けていった。
扉が閉まると、さっきまでの彼女の熱が嘘みたいに空気が静まる。
残ったのは、掲示板に並ぶ“退職”という文字列の冷たさと、タツヤの苦笑だけだった。
リュウジは視線を戻しきれず、タツヤに尋ねる。
「……今日は何かあるんですか?」
「ああ」
タツヤは椅子を回しながら、いかにも面倒そうに肩をすくめた。
「ちょっとした社交パーティーにね。ペルシアは俺の付き添い」
リュウジは思わず納得しかけて、すぐに首を傾げた。
さっきのペルシアは、浮かれているようで、どこか刺々しかった。
「それにしては……機嫌が悪そうでしたね」
タツヤは「うーん」と曖昧に唸り、目線だけを事務所の奥へ滑らせた。
そこにはエリンの席がある。
「まあ、それはエリンにでも聞いてみて」
言い方が、いつもののらりくらりだ。
――でも、逃げている、というより。
“俺が言うと面倒が増える”と分かっている人の顔だった。
リュウジは小さく頷き、端末の画面に視線を戻すふりをした。
だが指は止まったままだ。
(社交パーティー……ドルトムントの……)
社交という言葉の響きは軽い。
けれど“ドルトムント財閥の社交”となると、話が変わる。
人脈、利害、上下関係、そして“見られる”という圧。
たぶん、ただの食事会ではない。
リュウジの端末に、次便の準備チェックリストが表示されている。
いつもなら淡々と潰していける項目が、今日は妙に遠い。
掲示板の“退職者”が頭から離れないのだ。
――能力がある社員には恩恵が厚い。
――都合が悪ければ古参社員すら即刻解雇。
どちらも同じ会社の顔だ。
その時、背後から静かな足音。
声をかける前から、気配で分かる。エリンだ。
エリンは資料束を抱えたまま、リュウジの横で足を止めた。
いつもの落ち着いた表情。けれど、眼の奥に忙しさが見える。
「リュウジ、さっきの掲示板……見た?」
口調は柔らかい。
けれど“軽い雑談”ではない温度だ。
「……はい。退職者がまた増えてました」
リュウジが敬語で返すと、エリンは小さく頷き、唇を結んだ。
「そう……。最近、増えてるのよ」
「ペルシアも言ってました。ドルトムントではよくあることだって」
「よくある、で片づけていい話じゃないのにね」
エリンは苦笑したが、笑みはすぐに消える。
そして、少し言いづらそうに続けた。
「今日の社交パーティー、ね……」
リュウジは視線を上げた。
「何か問題があるんですか?」
「問題というか……空気が悪いの」
エリンは“空気”と言った。
それは彼女が一番敏感に感じ取る領域だ。
船内でも、事務所でも、場の温度を先に拾うのはエリンの役目。
「退職者が増えてるのも関係してる。上が苛立ってる。だから、下に当たる。……こういう時のパーティーは、情報戦になりやすいの」
「情報戦……」
「誰が残る、誰が切られる。誰が取り入っている。誰が逆らった。――そういう噂が、グラスの音と一緒に飛び交う」
エリンは言葉を選びながらも、淡々と事実を並べた。
“場”を知っている人の口ぶりだった。
リュウジは、ふと気づく。
「……だからペルシアは、機嫌が」
エリンは小さく息を吐いた。
「ペルシアはね、ああいう場で“拾い過ぎる”のよ。耳が良いから。聞こえなくていい言葉まで聞こえる。拾った言葉を、心の中で噛んじゃう」
リュウジは思わず、昨日の取材で自分が言ったことを思い出した。
“耳だけじゃない。拾ったものを形にして指示に変える”
――褒めたつもりの言葉が、別の角度で刺さる。
「……でも、ペルシアは強そうに見えます」
「強いわよ」
エリンは即答した。
強い。
けれど、強いからこそ、我慢が続く。
「強いから、怒る。強いから、守ろうとする。……そして強いから、疲れる」
それは、誰かの話というより、エリン自身にも向けた言葉に聞こえた。
リュウジは少し間を置き、静かに言った。
「俺にできることはありますか?」
エリンは目を瞬かせてから、ふっと柔らかく笑った。
ほんの少し、肩の力が抜ける笑い方。
「そうね……。今日はペルシアを“煽らない”。それだけで助かるわ」
リュウジは苦笑した。
「……努力します」
「うん。お願い」
エリンは資料束を抱え直し、立ち去りかけて、ふと思い出したように振り返る。
「リュウジ」
「はい」
「さっきタツヤ班長が言ってたでしょ。十四班は特別だからって」
「……はい」
エリンの目が少しだけ鋭くなる。
チーフパーサーの眼差し。
船内の“状態”を整える人間が、危険の芽を見つけた時の目。
「特別っていうのは、守られてるって意味でもあるけど……“見られてる”って意味でもあるの。分かる?」
リュウジは、胸の奥で何かがカチリと鳴った気がした。
「……分かります」
「なら大丈夫」
エリンは頷き、今度こそ自分の席へ戻っていった。
リュウジは、その背中を見送りながら、改めて掲示板の“退職”という文字列を思い浮かべる。
ドルトムント財閥。
巨大で、強くて、冷たい場所。
その中心にいるリョク社長の影。
その日の午後、事務所の空気はいつも通りに戻ったように見えた。
端末の音、紙の音、椅子の軋み。
だが、リュウジの中だけは違う。
宙の危険は、計器に出る。
人の危険は、掲示板に出る。
そしてどちらも、“見落とした瞬間”に手遅れになる。
リュウジは端末に指を戻し、チェックリストを一つずつ潰しながら、心の中で決めた。
(――今日、俺は余計なことは言わない。
ペルシアが拾い過ぎないように、俺が余計な火種にならない)
……だが。
“余計なことを言わない”ことが、時に一番難しい。
特に、誰かが傷つけられそうな場面では。
リュウジは目を伏せ、息を整える。
社交パーティー。
退職者が増える月。
リョク社長の独裁が噂される巨大組織。
今日という日は、ただの一日で終わらない気がしてならなかった。
ーーーー
夕方の事務所は、日中よりも少しだけ空気が軽い。
――と言っても、それは“仕事が終わりに近づくから”ではない。十四班にそんな綺麗な終業は滅多に来ない。
ただ、日誌を書き終えた者から呼吸が整い、端末の通知音が減り、紙の束が机の上から少しずつ消えていく。そんな小さな変化が、僅かな余裕に見えるだけだ。
その余裕を、別種のきらめきが破った。
扉が開く音。
次いで、軽いヒールが床を叩く音。
ドレス姿で現れたペルシアは、ハンドバッグをぐるぐると回しながら事務所に入ってきた。
普段の制服とはまるで違う。布の光沢、肌の見え方、髪のまとまり。彼女の輪郭が、別の世界の照明に照らされたみたいに際立っていた。
「……あら」
エリンが最初に声を漏らし、口元に柔らかい笑みを浮かべた。
「ペルシア、似合ってるじゃない」
「本当、綺麗です!」
ククルが即座に目を輝かせて言う。
あまりの素直さに、ペルシアは一瞬たじろいだように瞬きをしたが、すぐにいつもの口調に戻る。
「衣装一つでこんなに変わるんですね」
カイエが淡々と言う。彼女の“淡々”は冷たいのではなく、観察の精度が高いだけだ。
続いてエマが上品に頷き、少し声を落として言う。
「上品です。とても」
褒め言葉が重なって、ペルシアは胸の前でバッグを抱えるようにして、わざとらしく肩をすくめた。
「なになに、みんなして褒めて。何も出ないわよ?」
そう言いながらも、耳の先がほんの少し赤い。
リュウジはそれに気づき、内心で小さく息を吐く。
(……緊張してる)
社交パーティー。
普段の船内や事務所とは違う場所。違うルール。違う視線。
ペルシアは強い。けれど“強い”は“平気”の別名ではない。
リュウジが言葉を選びながら口を開く。
「……本心だろ。よく似合ってる」
途端にペルシアが動きを止めた。
バッグを回していた手が止まり、肩がほんの少しだけ強張る。
ペルシアは大きく目を見開いてリュウジを見つめた。
「……え?」
その反応があまりに素直で、逆に事務所の空気が一瞬止まった。
ククルが「えへへ」と笑い、カイエが小さく咳払いして視線を端末に戻し、エマが口元を隠して微笑む。
エリンだけが、静かにその場を見守っていた。
ペルシアは数秒遅れて“いつもの自分”を取り戻す。
リュウジの腕に、わざと強めに肘を当てた。
「なになに、リュウジまで。惚れ直しちゃった? このこの〜」
「……やめろ」
リュウジは即座に返す。
頬に熱が上がるのを悟られないように、視線を逸らしながら。
そのタイミングで、扉が再び開いた。
「いや〜、遅くなってごめん」
のらりくらりした声。
タツヤが、いつものジャケット姿で現れた。
だが今日は、肩や襟元が少しだけ“社交”仕様になっている。普段の制服の着こなしとは違い、形だけ整えているのが分かる。
ペルシアは即座に踵を返し、タツヤの前に詰め寄った。
「タツヤ班長、遅い。早く行きましょ」
「はいはい。急かすねぇ」
タツヤが苦笑しながら言うと、ペルシアは「当然」と言わんばかりに顎を上げる。
その姿は軽口の塊みたいなのに、足先だけが少し落ち着かない。
彼女の中で“気合”と“不安”が同居しているのが、見える人には見える。
タツヤが事務所内を一瞥し、最後にエリンへ視線を向けた。
「ああ、それじゃあエリン。後は頼んだわよ」
「はい」
エリンは短く頷いた。
その声は穏やかなのに、芯がある。
“任された”というより、“支える”ことを当然としている人の声だ。
「それじゃあレッツゴー!」
ペルシアが大げさに腕を振り、歩き出す。
その背中にククルが「いってらっしゃい!」と手を振り、エマが「お気をつけて」と微笑む。
カイエは視線を上げずに「……武運を」と小さく呟き、珍しくペルシアが「縁起でもない」と返して笑いを取った。
――けれど。
歩き出したペルシアがエリンとすれ違う瞬間、彼女の速度がほんの少し落ちた。
エリンは声を張らない。
ただ、誰にも聞こえないくらいの音量で、ペルシアの耳元に呟いた。
「無理しないでね」
ペルシアは振り返らない。
振り返ったら、きっと“弱さ”が見えてしまうから。
その代わり、口元だけを動かし、短く返した。
「……分かってる」
それだけ。
たったそれだけなのに、リュウジの胸の奥に小さな棘が刺さった。
(分かってる、って言うときが一番危ない)
分かっているから、我慢する。
分かっているから、飲み込む。
分かっているから、笑ってやり過ごす。
ペルシアはそのまま歩幅を元に戻し、いつもの調子に戻る。
振り返って、わざと大声で言った。
「さーて今日は飲んで、吐いて、飲むぞ!」
「粗相はないようにね」
タツヤが、わざと軽い声で釘を刺す。
だがその“軽さ”の裏に、彼の責任が隠れているのをリュウジは知っている。
社交パーティーは遊びではない。
場で起きたことは、後で“仕事”として返ってくる。
ペルシアが舌を出す。
「はーい、班長」
そして二人は事務所を出ていった。
扉が閉まると、そこに残ったのは、少し冷えた空気だった。
さっきまでの華やかさが、瞬間的な幻だったみたいに。
ククルがぽつりと言う。
「……ペルシアさん、すごく綺麗でした」
「綺麗よ」
エリンが頷く。
その返事は優しい。
けれど視線は、どこか遠い。
リュウジは自席に戻るふりをして、エリンの表情を盗み見た。
チーフパーサーとしての“整えた顔”だ。
ただ、その奥にある心配が、完全には隠せていない。
リュウジは小さく呼吸を整え、エリンに声をかける。
「……エリンさん」
「なに?」
「ペルシアは、今日……何かあるんですか」
エリンは一瞬だけ迷い、机の上の端末を整えるふりをした。
それから、柔らかい声で言う。
「たぶん、何も起きない。起きないように、タツヤ班長が連れていくの」
「……でも」
「でも、ね」
エリンは言葉を継いだ。
目は淡々としているのに、その声音だけが少し低い。
「ドルトムントの社交は、笑顔で人を測る場所だから。
“何も起きない”っていうのは、ただ平穏なだけじゃなくて……誰かがどこかで、黙って飲み込んでるってことでもあるのよ」
リュウジは喉が少し乾くのを感じた。
掲示板の“退職者”が、頭に浮かぶ。
巨大すぎる会社。逆らえない組織。
その中で、笑顔を保って生き残る人たち。
リュウジはゆっくり頷いた。
「……分かりました」
エリンはふっと笑う。
いつもの柔らかさが戻る。
「心配してくれてありがとう。
でも今は、私たちは私たちの仕事。十四班を整える。ね?」
「はい」
リュウジは端末に視線を落とした。
チェックリストを一つ、二つ、潰していく。
けれど、心は静かに“外”へ伸びている。
タツヤとペルシアが、どんな笑顔を見せ、どんな言葉を拾い、何を飲み込み、どこまで踏み込むのか。
それが十四班の未来にどう響くのか。
――そしてもし。
ペルシアが“飲んで吐いて飲む”と冗談を言ったその裏で、
本当に何かを吐き出さなければ耐えられない夜になったなら。
その時、守るべきものは宙の安全だけじゃない。
十四班の“状態”もだ。
リュウジは、画面の文字を追いながら、心の中で静かに誓った。
(……俺は、見落とさない)
ーーーー
社交パーティーの会場は、ホテル最上階のガラス張りのホールだった。
夜景の代わりに広がるのは、コロニーの人工の灯り――整然と並ぶ居住区画の光と、遠くに浮かぶ航路灯の点滅。そこにシャンデリアの光が重なり、やけに“明るいのに冷たい”空間が出来上がっている。
グラスの触れ合う音。乾いた笑い声。香水と酒と高級な布の匂い。
誰もが笑っている。けれど、笑顔の下で測り合う目が忙しく動いていた。
タツヤはその空間を、いつもの“のらりくらり”で泳いでいた。
肩の力は抜けているように見える。相手の話は半分だけ聞き、半分は流し、必要な所だけ拾って形にする。
十四班の操縦室で見せる柔らかさをそのままに――でも、今は“部下を守るための柔らかさ”だ。
ペルシアは、タツヤの半歩後ろ。
背筋を伸ばし、笑う。相手の目を見て、頷き、グラスを合わせる。
動きは完璧だった。ドレスも似合っている。髪も整っている。
なのに、リュウジが褒めた時に見せたあの素直な驚きは、もうどこにもない。
顔色には、疲れが出ていた。
疲れの原因は、挨拶回りそのものではない。
会話の中身――それを取り巻く“音”だ。
「……今度の人事、聞いた?」
「ねえ、あの部署の古参、切られたらしいわよ」
「リョク社長の意向だって。逆らうと飛ぶって」
「十四班? あそこは別枠でしょ。守られてるって噂」
「守られてる、ねえ……見られてるんじゃない?」
笑顔のまま、誰かを値踏みする声色。
“冗談ですよ”の皮をかぶせて吐かれる悪意。
本人がその場にいない誰かの人生を、紙コップみたいに潰す言葉。
――聞こえる。
ペルシアには、それが全部聞こえる。
彼女は平気なふりをして、グラスを口に運ぶ。
喉を焼く熱が、耳に入ったものを一瞬だけ薄める。
だけどすぐに、別の“音”が追いかけてくる。
「若いのに、あの役職。運がいいのね」
「運? 違うわ、あれは“拾われた”のよ」
「拾われたって……誰に?」
「決まってるじゃない。社長に」
ペルシアは笑った。
笑ったけれど、視界が一瞬だけ揺れた。
アルコールのせいじゃない。胸の奥に、嫌なものが沈んでいく感覚。吐き気に近い。
(……笑ってる場合じゃないのに)
彼女は自分の内側で呟く。
自分は何をしにここに来た?
タツヤの“付き添い”――表向きはそう。
でも本当は、十四班に飛んでくる矢を、耳で先に拾うためだ。
拾って、形にして、現場が潰れないように立ち回るためだ。
分かっている。
分かっているのに、気分がすぐれない。
“組織”が好きになれない。
“組織の物差し”で、現場の手足を縛る空気が。
ペルシアはグラスを飲み干し、口元を拭う。
笑顔を作る。
――そして、その笑顔が“仮面”だと見抜かれないように、もう一度だけ酒を頼んだ。
***
一方その頃。
ユイの家――というより、タツヤの小さな住まいは、今日も温かい騒がしさに包まれていた。
夕食の片付け、歯磨き、寝る前の絵本。
ユイは元気いっぱいで、リュウジの袖を引っ張っては笑い、エリンの髪を弄ってははしゃいだ。
「ユイ、今日はもうおしまい。おやすみの時間よ」
「えー、まだ!」
「まだじゃない。明日も元気に遊ぶために寝るの」
エリンの声は優しいのに、譲らない。
ユイは一瞬だけ口を尖らせ、でも結局、エリンの“正しい”に負けて、布団に潜り込んだ。
「リゅうじ……また明日も来る?」
「明日は仕事だ」
「えー……」
「でも、また来る。約束だ」
ユイは目をこすりながら、満足げに頷いた。
そのまま小さな呼吸が整い、数分もしないうちに寝息に変わる。
寝かしつけが終わる頃には、部屋の灯りも落ち着いていた。
キッチンの小さな照明だけがついている。
エリンは静かに立ち上がり、食器を軽く整えると、コーヒーを淹れた。
コトン。
机の上にカップが置かれる音。
その瞬間、リュウジはふと、壁の時計に目を向けた。
針が進む。
夜は深くなる。
社交パーティーの終わりは、まだ見えない。
エリンが微笑む。
その笑みには、からかいと理解が半分ずつ混ざっていた。
「ふふっ。そんなにペルシアが気になる?」
「……いえ」
リュウジは即答した。
だが、エリンはすぐに首を傾けたまま言う。
「嘘つき。さっきから時計見過ぎよ」
「……流石、エリンさんです」
リュウジが観念したように言うと、エリンはコーヒーを啜り、息を吐いた。
「まあ、心配する気持ちは分かるけどね」
エリンは言葉を探すように、カップを両手で包む。
「ペルシアは、ああいうの嫌いだから」
リュウジは眉を寄せた。
「……聞こえすぎること、ですか?」
「ええ。聞きたくないことまで聞こえちゃう」
エリンは頷く。
それだけなら、まだ耐えられるかもしれない。
けれど、エリンは続けた。
「でも、それよりも――その話をしている“組織”が嫌いなのよ」
「組織が?」
リュウジが聞き返すと、エリンは少しだけ姿勢を正した。
チーフパーサーの顔になる。
誰かを責めるのではなく、ただ“構造”を語る人の目だ。
「そう。私たち乗務員は、お客様の安全を守る。リュウジは操縦で安全を守るでしょう?」
「……ええ」
「そのためには、できることは何でもやる」
「もちろんです」
リュウジが迷いなく答えると、エリンは小さく笑った。
その笑いは嬉しさというより、同じ方向を見る人間への確認の笑いだ。
「でもね、それを“規則”や“組織の物差し”で邪魔されることがある」
リュウジは息を飲んだ。
エリンの言葉は、ただの愚痴じゃない。現場の痛みだ。
「たとえば……操縦の安全性度外視で、目的地までの最速運航をしろとか」
リュウジの背筋が自然と伸びた。
「……それを許すわけにはいきません」
「ええ。それは私もペルシアも同じ」
エリンは頷く。
だが、そこで声を落とした。
「だけど、私たちが組織にいる以上、逆らうことはできないのも事実」
リュウジは拳を握りかけて、やめた。
感情で殴りたい相手が、ここにはいない。
エリンが言っているのは、誰か個人の悪意ではなく、“構造”だ。
「組織は現場を見ていない」
エリンの声は穏やかで、だからこそ重かった。
「見ていないのに、数字と規則と見栄で命令する。
それでも、私たちは安全を守らなければならない」
リュウジは静かに頷いた。
自分も知っている。
航路の“効率”と、実際の機体の“安全”が一致しないことがある。
どれだけ説明しても、“指標”しか見ない相手がいることも。
「そのもどかしさが……ペルシアは特に嫌いなのよ」
エリンはそう言って、ふっと息を吐いた。
たぶん、ペルシアは今、会場でそれを聞き続けている。
人の命を扱う仕事の外側で、命が数字のように扱われる音を。
リュウジは、もう一度時計に視線を向けそうになって、止めた。
代わりに、エリンの目を見て言う。
「……ペルシアは、強いです。でも」
「でも?」
「強いから、無理をする」
エリンは一瞬だけ目を細め、柔らかく笑った。
肯定の笑みだった。
「そうね」
その瞬間、部屋の空気が少しだけ温かくなった。
言葉にしたことで、“心配”が形を持ったからだ。
エリンはカップを机に置き、少しだけ肩を落とす。
「ペルシアはね、現場が好きなの。
客室の空気、乗務員の動き、乗客の声――全部が“今ここ”にある。
だから、組織の話が嫌い。現場を見ないで語るから」
リュウジは小さく息を吐く。
「……俺も、同じです」
エリンは頷き、微笑んだ。
「だから大丈夫。ペルシアは、あなたみたいな人がいると少し楽になるのよ。
“分かる”って言ってくれる人がいるだけで、拾ったものを一人で抱え込まなくて済むから」
リュウジは言葉に詰まり、少しだけ視線を落とした。
「……俺は、何ができるでしょう」
エリンは考えるふりをして、でもすぐに答えた。
「帰ってきたら、いつも通りにしてあげて」
「いつも通り?」
「ええ。軽口を言っても、流して。
真面目な顔をしても、気づいて。
必要なら、止めて」
エリンの言葉は、指示ではなく信頼だった。
そしてそれは、ペルシアの“味方”を増やすということでもある。
リュウジは静かに頷く。
「……分かりました」
その時、リュウジの端末が小さく震えた。
通知ではない。着信でもない。
ただ、圏内に入ったときに走る短い同期の振動。
リュウジは画面を覗き、息を止めた。
――ペルシアからの短いメッセージ。
『まだ帰れない。大丈夫。たぶん。』
“たぶん”が刺さる。
大丈夫なら、たぶんは要らない。
リュウジが無言で画面を見つめていると、エリンが気配で察したように首を傾けた。
「……ペルシア?」
「……はい。まだ帰れないって。大丈夫、たぶんって」
エリンは小さく眉を寄せた。
そして、何も言わずに一度だけ頷く。
「……分かった」
エリンはコーヒーを一口飲み、カップを置いた。
柔らかな声で言う。
「リュウジ。もし、ペルシアが帰ってきたら」
「はい」
「笑って迎えて。
でも、目だけは見てあげて。
あの子は“平気”を演じるのが上手いから」
リュウジは、真っ直ぐ頷いた。
「……はい」
時計の針は変わらず進む。
ユイは寝息を立てる。
部屋は静かだ。
けれどその静けさの外で、ペルシアは今も“組織の音”を聞いている。
笑って、頷いて、グラスを合わせて――聞こえてしまうものを飲み込んでいる。
リュウジは端末を握り、短く返信した。
『無理するな。帰り、連絡しろ。』
それだけ。
余計な言葉は要らない。
でも、繋がりは切らない。
エリンが小さく息を吐き、リュウジのカップに視線を落とした。
「冷めちゃうわね。もう一杯、淹れようか」
「……お願いします」
エリンが立ち上がる。
湯気が立ち、コーヒーの香りが部屋を満たす。
その温度が、今夜の不安を少しだけ薄めてくれた。
――社交パーティーが終わるのは、まだ先だ。
だけど、ここには“現場の人間”がいる。
拾ってしまった音を、ひとりで抱えないようにするための灯りがある。
リュウジは再び時計を見た。
今度は、隠さずに。
エリンは何も言わなかった。
ただ、静かに湯を注ぐ音だけが、夜を支えていた。
ーーーー
挨拶回りが一通り終わったのは、会場の空気が「次は誰と話すか」から「誰と笑うか」へ移り始めた頃だった。
名刺の角を揃える指先、グラスを持つ手の高さ、笑うタイミング――それらが、ようやく“正解”を見つけた人間たちが少しだけ緩む時間帯。
タツヤはペルシアの横に並び、肩越しに彼女の顔色を覗いた。
のらりくらりとした表情のまま、声だけを落として言う。
「……ペルシア。少し休んできな」
ペルシアは一瞬だけ目を閉じて、それから薄く笑った。
「じゃあ、お言葉に甘えて」
額の汗をハンカチで拭いながら、彼女は壁際へ下がる。
背中に刺さる視線の角度を計算し、歩幅を整え、立ち止まる位置まで完璧だった。
まるで“休む”ことすらパフォーマンスに見せるみたいに。
ウェイターが近づき、トレイからシャンパンを差し出す。
ペルシアは受け取り、グラスの脚を細い指で挟んだ。
ひと息。
喉の奥が乾いているのに、飲む前から気分は重い。
(まったく……嫌になる)
口には出さない。
出した瞬間、誰かの“材料”になる。
ペルシアはそういう空気の匂いを、今日だけで嫌というほど嗅いでいた。
グラスを唇に当てる。泡が舌を弾く。
甘さと酸味と、ほんの少しの苦さが、胸の奥のざらつきをなでるように落ちていく――はずだった。
「お嬢さん。いま少しいいかな」
声が、背後から差し込んだ。
低いが、威圧で押してくる声ではない。
むしろ、静かすぎるほど静かな声。
その静けさが逆に、周囲の雑音を切り分けてしまう。
ペルシアはグラスを持ったまま、ゆっくり振り返った。
白髪混じりの短髪。年齢は五十代後半か六十代手前。
背は高くない。だが、立ち方に“慣れ”がある。
肩で威張らないのに、周囲が勝手に道を空けてしまうような人間の立ち方。
ペルシアは笑顔のまま言った。
「すみません、私は付き添いなので。今、班長を呼んでまいりますね」
断るための、正しい手順。
相手の顔を潰さず、自分の立場も守る。
いつものペルシアなら、それで十分だった。
しかし男は、一歩も引かない。
「いや。君と話をしたかったんだ」
――その言い方が、嫌だった。
“君”と呼ぶ距離感。
こちらが拒否する前提を持たない声音。
そして何より、次の一言。
「ドルトムント財閥の……ペルシアさん、だね」
名前を呼ばれた瞬間、ペルシアの背筋がわずかに固くなる。
愛想の笑みは消さない。けれど、目だけが冷える。
ペルシアはグラスを軽く揺らし、泡の動きを見ながら言った。
「……おじさん、何者?」
男は口元だけを上げた。
「私は宇宙管理局長をしている。マーカスだ」
その肩書きが会場の空気を一瞬だけ変えた。
周囲の笑い声がほんの僅かに遠くなる。
名刺交換の動きが一拍遅れる。
言葉にしなくても、人が“格”を測り直す瞬間の静けさ。
ペルシアは眉一つ動かさない。
ただ、シャンパンを一口含み、落ち着いた声で返す。
「宇宙管理局長が、私に何の用ですか?」
マーカスは、真っ直ぐに言った。
「単刀直入に言おう。君の力を貸してほしい」
ペルシアは首を傾げた。
わざと“分からないふり”をする。
相手の意図を先に言わせる。
それは耳のいい彼女が身につけた、自己防衛の作法だった。
「……私の力?」
マーカスは短く頷く。
視線が、ペルシアの耳元に行ったように見えた。
それだけで、彼女の内側の警報が鳴る。
「君の“耳”のことだ」
ペルシアは笑みを崩さない。
でも喉の奥がわずかに硬くなる。
「……ずいぶん詳しいんですね」
「調べたわけではない。必要があって知った」
マーカスは声を落とした。
まるで周囲に聞かせないためではなく、言葉の温度を下げるために。
「宇宙管理局で働かないか」
ペルシアの指先が、グラスの脚を強く挟んだ。
泡が落ち着き、液面が静かになる。
「……局長、ここでそれ言う?」
「ここが一番安全だ」
安全。
その単語が、皮肉に聞こえた。
この会場ほど危険な場所はない。笑顔の裏で、人を切り捨てる言葉が飛び交っている。
だがマーカスの言う“安全”は、別の意味だろう。
――ここなら、誰もが「ただの社交辞令」に見せかけられる。
そういう計算。
ペルシアは軽く息を吐いた。
笑顔をほどき、少しだけ本音の温度を混ぜる。
「宇宙管理局が、ドルトムントの人間を引き抜くって、問題にならない?」
「問題になる。だからこそ私が出てきた」
マーカスは揺れない。
視線に迷いがない。
それが余計に、ペルシアの神経を逆撫でする。
「……どうして私?」
マーカスは答える代わりに、ひとつだけ質問を投げた。
「君は今、ここが嫌いだろう」
ペルシアは笑った。
笑い方だけは軽い。
けれど目は笑っていない。
「……嫌いって言ったら、局長が喜ぶ?」
「喜ばない。理解するだけだ」
マーカスはゆっくり続けた。
「私は、組織や規則で人の命を粗末に扱うことに嫌悪している。
現場が守ろうとしているものを、机上の都合で折る。
数字だけで“安全”を語る。
――私は、それが許せない」
ペルシアの背中に、冷たい汗が滲む。
マーカスは、続ける。
「君も同じだろう。
君は聞こえてしまう。聞こえてしまうから、余計に嫌いになる。
現場の声と、机の声の間にあるねじれを――君は誰より早く拾っている」
ペルシアは黙った。
否定したいのに、否定できない。
彼の言葉が当たっているからではない。
“当てられた”ことが腹立たしいのだ。
マーカスは、ここでようやく“餌”を出した。
「宇宙管理局に、君の力を最大限に活かせるポストを用意する。
新設の統括官だ」
ペルシアの眉がわずかに動いた。
新設。統括官。
つまり、“既存のしがらみに縛られない席”だと匂わせている。
「現場の声を拾い、判断に変え、命を守る。
規則のための規則ではなく、守るための仕組みを作る。
君が守りたいものを、一緒に守ってほしい」
――甘い。
甘すぎる。
そして、怖い。
ペルシアの耳には、会場の雑音が入ってくる。
別卓で笑う声。
誰かが“また退職者が出た”と囁く声。
“リョク社長の独裁”と軽く言う声。
組織が嫌い。
だから、組織の中で“自由”と言われる席に惹かれる。
分かっている。
これは罠にもなり得る。
マーカスが本気だとしても、宇宙管理局だって組織だ。
どこにも規則はある。どこにも政治はある。
ただ、形が違うだけ。
ペルシアはゆっくりグラスを置いた。
泡がまた、静かに立ち上る。
「……ヘッドハンティングは受けないです」
語尾だけ丁寧にしたのは、わざとだ。
相手が“局長”だからではない。
ここで乱暴に断れば、余計な波紋が立つ。
マーカスは表情を変えない。
「理由を聞いても?」
ペルシアは一瞬だけ視線を落とした。
胸の中にいる“現場の顔”が浮かぶ。
タツヤののらりくらりの背中。
エリンの整えた声。
ククルの笑顔。
カイエの淡々とした気遣い。
エマの上品な手つき。
そして――操縦室で“はいはい”と言いながらも守る人間。
ペルシアは、少しだけ口角を上げた。
「確かに、組織や規則なんて現場では役に立たない。
……私も、そう思う」
マーカスの目がわずかに細くなる。
“賛同した”と取ったのだろう。
だがペルシアは、そのまま続けた。
「でも、それ以上に――今いるメンバーが好きなんです」
言葉にした瞬間、自分の胸の奥が熱くなった。
好き。
そんな単語をこの会場で使うのは、少し恥ずかしい。
けれど、それが真実だった。
「十四班は、変なやつばっかりで。
班長はのらりくらりで。
チーフは怖くて。
操縦士は生意気。
私は……まぁ、うるさいし」
ペルシアは自分で言って、少しだけ笑った。
そして、真剣な目でマーカスを見る。
「でも、あの人たちは“現場の人間”なの。
守ろうとしてる。
誰かを切り捨てるためじゃなく、乗せてる人の命を守るために動いてる」
マーカスは沈黙した。
その沈黙が“否定”ではないことを、ペルシアの耳が拾った。
彼の呼吸は乱れていない。
怒っていない。
むしろ、少しだけ――羨ましそうな気配。
「……そうか」
マーカスは短く言った。
「君がその場所を好きだと言うなら、それは強い理由だ」
ペルシアは、そこで初めて違和感を覚えた。
この男は、権力者の割に“押してこない”。
押せば動くと分かっているのに、押さない。
だから余計に、怖い。
マーカスは小さく頷き、手を差し出すわけでもなく、ただ言った。
「気が向いたら、いつでも連絡してくれ」
その言葉は、逃げ道にも聞こえるし、網にも聞こえる。
ペルシアは返事をしない。
返事をしたら、約束になる気がしたから。
マーカスはそれ以上何も言わず、周囲の人波へ溶けるように離れていった。
背中が消えるまでの数秒、ペルシアは動けなかった。
会場の音が戻ってくる。
笑い声。グラスの音。靴音。
だけど、さっきまでとは違う。
音の一つ一つが、鋭く刺さる。
ペルシアは髪をかき上げ、首筋の汗を拭った。
その仕草は、余裕の演出ではない。
本当に、息が詰まりそうだった。
「……何なのよ!」
吐き捨てるように小さく言って、シャンパンを一気に飲み干した。
泡が喉を滑り落ちる。
胸の奥が熱くなる。
でも、揺れた心は冷えたままだ。
――宇宙管理局の統括官。
組織や規則に縛られない席。
守りたいものを守る場所。
(……笑わせないで)
そう思うのに、心の奥がほんの僅かに動いた。
“もし”という言葉が、影みたいに生まれる。
もし、十四班が潰されそうになったら。
もし、現場の声が握り潰されそうになったら。
もし、守るために守るべき場所が変わるなら。
ペルシアはグラスを置き、手のひらを握って開いた。
指先が少し震えている。
(……私は、ここが好き)
それだけは確かだ。
好きだから、守りたい。
守りたいから、揺れる。
その時、背後からタツヤの声がした。
「ペルシア。大丈夫?」
のらりくらりの声。
でも、部下を守る時だけは外さない、真面目な声。
ペルシアは反射的に笑顔を作った。
いつもの軽口の仮面をかぶる。
「大丈夫、大丈夫。ちょっと変なおじさんに絡まれただけ」
「変なおじさん?」
「白髪混じりで、偉そうで、やたら静かな声の――」
言いかけて、ペルシアは止めた。
ここで“宇宙管理局長”なんて言ったら、余計な耳が拾う。
タツヤはそれを察したのか、追及しない。
ただ、軽く頷いた。
「そっか。じゃ、もう少しだけ頑張ろうか」
「……うん」
ペルシアは短く返し、もう一度だけ深呼吸した。
そして、笑顔を整え直す。
この会場で“守る”のは、命だけじゃない。
十四班の明日。
仲間の居場所。
それを壊す音を、拾ってしまう自分の心。
ペルシアはグラスを新しく受け取り、タツヤの半歩後ろに戻った。
揺さぶられた心を、誰にも見せないように。
――けれど、揺れていることだけは、彼女自身が一番分かっていた。
ーーーー
タツヤの家のリビングは、灯りだけが必要以上に整っていた。
ソファの背にもたれたクッションは角が揃い、テーブルの上のコーヒーカップは湯気が細く立ち、時計の秒針だけが「遅い」という言葉を刻んでいる。
エリンはカップを両手で包み、窓の外――コロニーの夜景へ視線を投げた。
薄いガラス越しの光は綺麗なのに、胸の内側だけが落ち着かない。
「……遅いわね」
ぽつり。声は静かだが、尻尾の先だけ尖っている。
「ええ。連絡もないです」
リュウジは壁際に立ったまま、端末の画面をもう一度確認してから言った。
敬語の中に、余計な感情は混ぜない。だが、眉間の皺が少し深い。
彼は“待つ”ことにも慣れている。待つ時間に余計な想像をしないように、身体のどこかが訓練されている。
それでも今日は、落ち着きが微かに削れていた。
ユイは寝室の奥で眠っている。
いつもなら寝息がこの家の安定剤になるのに、今夜はそれすら遠い。
「……タツヤ班長、遅くなるなら連絡するはずよね」
「はい。あの人はそういうところは外しません」
リュウジがそう言った瞬間だった。
――ガチャ。
玄関が開く音。
二人は同時に顔を上げた。
安堵が先に来る。「帰ってきた」――その事実だけで、胸が少し軽くなる。
次の瞬間、
「たっだいまー!!」
家が揺れた。
正確には、夜の静けさが割れた。
エリンの目が細くなる。
リュウジの肩がわずかに跳ねる。
玄関に現れたのは、顔を真っ赤にしたペルシアだった。
足取りは、直進しているようで微妙に蛇行している。
ドレスは崩れていないのに、本人だけが完璧に崩れている。
ハンドバッグを掲げたまま、勝利の旗のように振っている。
「ぺ……」
エリンが名前を呼びかけた、その上から――
「ペルシア! 静かにしなさい!」
遅れて玄関に入ってきたタツヤが、即座に釘を刺した。
のらりくらりの班長が“真面目モード”で出す声は、短くて強い。
だが、酔ったペルシアには効かなかった。
いや、効いているのに、効いていないふりをするタイプの酔い方だ。
「えー? 静かに? ここお家でしょ? みんなのお家ー」
ペルシアは意味のわからない理屈で笑い、視線を泳がせる。
そして次の瞬間、リュウジを見つけた。
「あれー? リュウジだ!」
瞳がきらり。
獲物を見つけた猫の目だ。しかも酔っている猫。
「ただいま〜」
距離感ゼロ。
ペルシアは勢いよくリュウジに突進し、そのまま抱きついた。
「うわっ――」
リュウジは反射で受け止める。
体幹が強い。そういう問題ではない。
片腕でペルシアの背中を支え、もう片方でバランスを取る。
まるで着陸時の衝撃を殺す操縦みたいに、丁寧に“抱きつき事故”を処理した。
――そして、エリンへ視線を送った。
助けてください、というより、状況報告に近い目。
エリンは微笑んだ。
笑顔だ。
ただし、その笑顔は「今から怒ります」を飾り立てるための笑顔だ。
「……ペルシア。声のボリューム、三分の一」
「えー? エリン、今日はね、すっごい大変だったのよー」
「それは明日聞くわ」
「明日? 明日は明日の私が頑張るもーん」
言いながら、ペルシアはリュウジの胸元に顔を擦りつけた。
本人は猫のつもりだ。
リュウジは石像のつもりで耐えた。
「ペルシア、離れて」
エリンの声が少し低くなる。
「やだー。だってリュウジ、いい匂いする。石鹸の匂い!」
「……それは、今日トレーニングしてましたから」
リュウジは真面目に答えてしまう。
ペルシアが「ほらー真面目ー!」と笑う。
エリンが「会話を成立させないで」と目で言う。
タツヤは靴を脱ぎながら、はぁ……と長いため息をついた。
疲労の種類が“仕事”ではなく“ペルシア”になっている。
「タツヤ班長、大丈夫だったんですか?」
エリンの声は心配の形をしているが、半分は確認だ。
「何が起きたの」ではなく「ちゃんと説明して」。
チーフパーサーの問いかけ。
「まぁ、社交パーティー自体はね」
タツヤは頭を掻きながら言った。
笑っている。
いつもののらりくらり顔だ。
ただし、目の下は少し疲れている。
「でも帰る途中で……浴びるほど、コンビニでワイン飲み干してね」
言い終えた瞬間、エリンの目がさらに細くなった。
「……浴びるほど?」
「言い方が悪かった。浴びるほどは、ちょっと盛った」
「盛らなくていいの」
「でもまあ、飲んだのは事実」
タツヤは逃げない。
逃げると、もっと怒る。
その経験則に基づく正しい姿勢。
ペルシアはリュウジの腕の中で、ふふん、と勝ち誇ったように笑った。
「だってさー、班長、めっちゃ硬い話してたんだもん。
私はね、耳がいいからね、色々聞こえるの。
だからね、ワインでね、耳をね、洗ったの!」
「洗うものじゃない」
エリンが即ツッコミを入れる。
リュウジは心の中で(耳を洗う……)と反芻し、今夜初めて“呆れ”を覚えた。
ペルシアは急に真顔になり、リュウジの顔を覗き込んだ。
「ねぇ、リュウジ。
私さ、今日ね、すっごい偉いおじさんにね、なんかね、“来ない?”って言われたの」
言葉が曖昧なのに、目だけが妙に鋭い。
酔っているのに、核心だけは外さない時がある。
それがペルシアの怖さでもあり、凄さでもある。
エリンが、ぴたり、と動きを止めた。
「……ペルシア?」
呼びかけの中に“事情を把握したい”が混じる。
ペルシアは肩をすくめる。
その動作が少し大袈裟で、可笑しい。
「えへへ。断ったけどね。
だって、私、今のほうが好きだもん」
その言葉のあと、ペルシアのまぶたがふわりと落ちた。
落ちる前に、もう一度だけリュウジに抱きつく力が強くなる。
「……好き……」
リュウジは固まった。
違う。そういう意味じゃない。
多分。
いや、そういう意味の“好き”も含んで遊んでいる。
酔っている時のペルシアは、境界線を踏むことをゲームみたいに楽しむ。
エリンが咳払いをした。
「ペルシア。まず、靴。脱いで」
「靴ー? 靴はね、だってね、
私、今日おしゃれしたんだよ? おしゃれは足元からなんだよ?」
「足元は玄関で終わり」
エリンの言葉が鉄のように硬い。
ペルシアはむぅ、と頬を膨らませる。
タツヤが、リュウジに小声で言った。
「……ごめんね」
「いえ……大丈夫です」
リュウジは敬語で返しながら、内心では“全然大丈夫ではない”と思っている。
抱きつかれているのに、どう手を離すのが正解なのか分からない。
振りほどいたら転ぶ。支えたら誤解される。
S級の操縦より難しい局面が、家庭内にあった。
エリンが手際よく動く。
ペルシアのバッグを奪い、ソファへ放り、靴を脱がせる。
その一連の動きが、救助活動の手順みたいに完璧だ。
「ペルシア、立てる?」
「立てるー。ほら、立てるー」
ペルシアは立とうとして、ぐらりと傾く。
エリンが即座に肩を支える。
そして、リュウジへ視線を向ける。
「リュウジ。手、貸して」
「はい」
二人でペルシアをソファへ“着陸”させた。
ペルシアはソファのクッションに顔を埋め、ぷは、と息を吐く。
「……ふわふわ……ここ天国……」
「ここはタツヤ班長の家」
エリンが冷静に訂正する。
タツヤが苦笑いをする。
「で、ペルシア。
どうしてコンビニでワイン飲み干したの?」
タツヤの声が少しだけ真剣になる。
のらりくらりではない。
部下を守る時の声。
ペルシアはソファに寝転がったまま、天井を見た。
「……嫌な音がいっぱいだったから」
ふざけた調子が、少し落ちる。
エリンの眉がわずかに動く。
リュウジは何も言わず、ただ耳を澄ます。
「偉い人の声ってさ、
“笑ってる”のに、笑ってないことあるじゃん」
ペルシアの声が小さくなる。
酔いが、言葉の飾りを削る。
「褒めてるのに、値踏みしてる声。
心配してるのに、責任押し付ける声。
……ああいうの、やだ」
タツヤが静かに頷く。
「……そうだね」
ペルシアは寝返りを打ち、クッションに頬を押し付けた。
「それにね、班長。
今日、私さ、ちょっと危ないこと言われた」
エリンが息を呑む。
「危ないこと?」
ペルシアは目を細める。
その目は酔って潤んでいるのに、どこか醒めている。
「……“来ない?”って。
私の耳、欲しいって。
“自由に守れる席”があるって」
エリンの顔から、笑みが消えた。
リュウジも、背筋が伸びる。
タツヤの目がわずかに鋭くなる。
ペルシアは、ふっと笑う。
「断ったよ。
だって、私――十四班が好きだもん」
その言葉は、甘い。
でも同時に、痛い。
好きだから揺れる、と言っているようでもある。
タツヤはしばらく黙り、やがていつもの調子に戻すように言った。
「……そっか。
じゃあ、その“偉い人”は、相当しつこいかもしれないね」
「うん。しつこい匂いした」
ペルシアは鼻を鳴らす。
そして突然、リュウジの方へ顔を向けた。
「ねぇリュウジ。
私、今日ね、頑張ったよ」
「……はい。頑張りましたね」
リュウジは素直に答えた。
その返答が、ペルシアの機嫌を一段階上げる。
「でしょ? 褒めて?」
「褒めます。偉いです」
「よし!」
ペルシアは満足そうに頷き、そして――唐突に座り直した。
「じゃあ、もう一回飲もっか!」
「だめ」
エリンが即答。
タツヤも即答。
「だめだよ」
リュウジは少し迷ってから、追随した。
「だめだ」
ペルシアは三方向から同時に“だめ”を食らい、目を丸くした。
「なにそのチームプレイ!
え、私、今の、いじめ?」
「いじめじゃない。介抱」
「介抱って響き、やだ!」
「響きはどうでもいいの」
エリンが淡々と言い、立ち上がってキッチンへ向かう。
「水持ってくる。あと、解毒……じゃなくて、落ち着くもの」
「解毒って言った!」
「言ってない」
「言った!」
ペルシアが抗議するが、声の勢いが少し弱い。
タツヤはソファの横に座り、ペルシアの髪を軽く撫でた。
父親みたいな手つきだ。
「……ペルシア。今日、よく頑張った」
その一言で、ペルシアの顔がふわりと緩む。
酔っているくせに、ちゃんと“欲しい言葉”を聞き分ける。
「……ん」
短く返事をして、ペルシアは背を丸めた。
リュウジは少し離れた場所に立ったまま、状況を眺める。
この人たちは、仕事だけじゃなく、こういう時間でも“班”なのだと思った。
守る。支える。
そして、時々怒る。
エリンが戻ってきて、ペルシアに水を手渡す。
「飲んで。ゆっくり」
「……はーい」
ペルシアは渋々飲む。
飲み終えると、急に目が潤んだ。
「エリン……今日さ……私、怖かったの」
エリンの動きが止まる。
そして、声が柔らかくなる。
「……うん。そうでしょうね」
ペルシアは鼻をすすり、笑うように言った。
「でもね、私、逃げなかったよ」
「うん。逃げなかった」
エリンが頷く。
その肯定が、ペルシアの肩の力を抜く。
タツヤが小さく咳払いをして、リュウジに目を向けた。
「リュウジ。今日は……ごめんね。巻き込んで」
「いえ。俺も……勉強になりました」
「勉強?」
「はい。……守るって、操縦だけじゃないんだなと」
タツヤが、ふっと笑う。
「そうだよ。
現場はね、守るものが多い」
エリンが頷き、ペルシアの髪をそっと整える。
「今日は寝なさい。ペルシア」
「……うん……」
ペルシアは目を閉じ、最後に小さく呟く。
「十四班……好き……」
その言葉が、酔いの戯言に聞こえない。
むしろ、今夜一番真面目な言葉だった。
リビングに、ようやく静けさが戻る。
時計の秒針が、また普通の速さで進み始めた。
エリンはため息をひとつ吐き、リュウジを見た。
「……お疲れさま。リュウジ」
「はい。エリンさんも」
タツヤはソファの背にもたれ、天井を見上げる。
「……明日、頭痛いんだろうなぁ。ペルシア」
その声はのらりくらりに戻っていたけれど、
誰にも聞こえないくらい小さく、最後に付け足した。
「……でも、戻ってきてくれてよかった」
エリンが頷く。
リュウジも、静かに頷いた。
十四班の夜は、こうして騒がしく終わっていく。
酔っ払い一人に振り回されながら――それでも誰も、手を離さないまま。