仕事終わり。
いつものように端末をポケットに滑り込ませ、リュウジは事務所ビルの自動扉を抜けた。夕方のコロニーは、人工の空の色を少しだけ朱に寄せている。風はないが、人の往来と店先の匂いが“街の温度”を作っていた。
「リュウジ〜」
背後から、軽い声。
振り返ると、案の定、ペルシアが手を振っていた。仕事帰りの群れの中でも彼女は目立つ。金髪は光を拾い、口元はいつも通りにいたずらっぽい。
「どうしたんだ?」
「この後、暇?」
唐突だな、と内心で思いながらも、リュウジは肩をすくめる。
「ああ。特に予定はないが」
「じゃあ、ちょっと付き合ってよ」
「どこに行くんだ?」
「まぁ着いてきて」
“まぁ”の一言に、彼女のやりたいことが全て詰まっている気がした。
リュウジは短く息を吐いて、歩き出したペルシアの隣へ並ぶ。
――ペルシアが先導する時は、大抵ろくなことが起きない。
そして大抵、最後には悪くない記憶が残る。
コロニーの商業区画へ向かう通路は、仕事帰りの人波が流れていた。背広姿の社員、作業着の整備士、買い物袋を揺らす家族連れ。どこにでもある風景だが、リュウジの中ではまだ“慣れた”という感覚には程遠い。自分はここにいるべきなのか――そういう問いが、時々、胸の奥を撫でる。
そんなことを考えていると、ペルシアがふいに振り返った。
「ねぇ、歩くの早くない?」
「お前が速いだけだろ」
「なにそれ。私、か弱い女の子なんだけど」
「その口でそれを言うな」
ペルシアはケラケラ笑って、リュウジの腕を軽く叩く。
その距離の近さに、今さら驚くことはない。けれど、彼女は“躊躇い”という概念をどこかに置き忘れてきた人間だ、とリュウジは改めて思った。
そして――その“置き忘れ”が、時々、人を救う。
曲がり角をいくつか抜け、ペルシアが当然のようにエスカレーターを上がる。
上階のフロアは照明が柔らかく、ガラス越しに見えるショップの並びが整然としていた。
ペルシアは迷いなく一軒の店の前で足を止める。
メンズスーツショップ。
落ち着いた木目の内装、マネキンが着たダークトーンのスーツ。ネクタイが整然と壁に並び、照明が生地の艶を引き立てている。
リュウジは店名を見上げ、次にペルシアを見る。
「……ここか?」
「うん。正解」
ペルシアは上機嫌に頷き、扉を開けた。
鈴の音が小さく鳴り、店員がすぐに顔を上げる。
だが、ペルシアはそれを流すように手を振って言った。
「見るだけ〜。すぐ決めるから」
店員が笑顔で頷き、適度な距離を取って下がる。
ペルシアは当然のようにネクタイコーナーに直行し、その前でくるりと回った。
「明日ね、タツヤ班長の誕生日なのよ」
「なるほど。それでスーツショップなのか」
「そう。誕プレ買わないとね」
ペルシアの声は軽い。けれど、そこにはちゃんと“班長を祝う気持ち”が乗っている。
あの調子で普段は散々文句を言うくせに、こういうところは律儀だ。
「リュウジも何か誕プレ買えば?」
「……ああ。そうさせてもらう」
「よし。じゃ、共同戦線ね」
「共同戦線って言い方、やめろ」
「いいじゃん、戦うの。ネクタイ選びは戦争よ」
「戦争ではない」
「あるの!」
ペルシアは断言し、ネクタイの棚に指を走らせた。
色、柄、素材。どれも一見同じようで、近づくほど違いが分かる。
ペルシアはその“違い”を、まるで音を聞き分けるみたいに拾っていく。
「さてと……イカすネクタイを買うぞ」
「“イカす”って言うな」
「いいの。タツヤ班長、たまに可哀想でしょ」
「……それは否定しない」
ペルシアがニヤリと笑う。
「でしょ? タツヤ班長ってさ、仕事もできるし、現場も守るし、のらりくらりしてるけど、結局ぜんぶ背負ってるじゃん。
だから誕生日くらい、派手に“似合う”やつつけさせたいの」
その言い方が、意外と真面目で、リュウジは一瞬だけ返す言葉を失った。
ペルシアはこういう時、ふっと本音を落とす。
その落とし方が巧い。
――耳がいい奴は、心の音も拾うのか。
ペルシアは棚から一本抜き取る。深い紺地に、控えめな銀の斜線。派手ではないが、光の当たり方で表情が変わる。
「これ、どう?」
ペルシアが胸元に当てて見せる。
リュウジは少しだけ目を細めて、タツヤの顔を頭の中に呼び出した。
「……悪くない。タツヤ班長に似合いそうだ」
「でしょ? でもさぁ……」
ペルシアは次に、やや明るい赤の入った一本を抜く。
赤は、主張が強い。タツヤの普段の雰囲気とは違うが――だからこそ“誕生日”らしい。
「これもいいな。
タツヤ班長、普段地味すぎるし」
「地味というか……そういうのを選んでるだけだろ」
「だから、私が選び直してあげるの。人生も」
「勝手に人生まで直すな」
「直すよ。タツヤ班長、放っておくと老け込むから」
「お前が一番老け込ませてると思うが」
「はぁ!? 失礼すぎ!」
ペルシアが頬を膨らませ、次のネクタイを掴む。
リュウジは苦笑しながら、ふと別の棚へ視線を向けた。ネクタイの隣に、カフスやタイピンが並んでいる。小さいけれど、手元や胸元の印象を変えるものだ。
――タツヤ班長に、何がいい?
班長は、表立って欲しがるタイプじゃない。
実用的なものを選べば「気を使うなよ〜」と笑い、派手なものを選べば「俺に似合わないよ〜」と逃げる。
だが、どちらでも受け取ってくれる。受け取って、ちゃんと使う。
そういう人だ。
リュウジはタイピンのコーナーに指を伸ばす。
シンプルな金属の一本。角度で光が走る。
派手じゃない。けれど、ちゃんと“良いもの”だ。
……タツヤ班長はこういうの、嫌いじゃない。
迷っていると、背中からペルシアの声が飛んできた。
「ねぇ、リュウジ。タツヤ班長へのプレゼント、何にするの?」
「……まだ決めてない」
「ふーん。じゃあ、私が決めてあげよっか?」
「余計なことをするな」
「余計じゃない。あなた、プレゼント選び下手そうだし」
「そんなことは――」
「ある」
即答。
リュウジは反論しかけてやめた。確かに、選ぶ経験が少ない。
養成学校にいた時、プレゼントなんて考える余裕はなかった。
孤児院の頃は……そもそも“贈る相手”が、あまりいなかった。
ペルシアはリュウジの間を一瞬で読んだのか、少しだけ口調を落とした。
「ま、いいよ。
タツヤ班長ってさ、そういうの貰うと地味に嬉しそうだから。
あなたが選んだら、なおさら」
リュウジは、タイピンを手に取ったまま小さく頷いた。
「じゃあ、これにする」
「タイピン? いいじゃん。
タツヤ班長、スーツの時でも制服の時でも使えるし」
ペルシアの評価は意外と的確だった。
彼女は“相手がどう動くか”を考えるのが上手い。耳の才能だけじゃない。
ペルシアは自分の手元のネクタイを並べ、ふっと顔を上げた。
「ねぇ、どっちがいいと思う? 紺のやつと、赤のやつ」
「……恥をかかせたくないなら紺。
誕生日を“感じさせたい”なら赤」
「ふふ、どっちも捨てがたいね」
「一本にしろ」
「えー、二本買っちゃう?」
「やめとけ。エリンさんに怒られる」
「うわ、出た。エリン。
エリンってさ、こういうの聞いたらどう言うと思う?」
「『予算を決めてから選びなさい』」
「それ絶対言う!」
ペルシアが笑い、ネクタイを一本ずつ胸元に当て、鏡の前で角度を変える。
その様子を眺めながら、リュウジはふと思った。
ペルシアは“聞こえすぎる世界”で疲れやすい。
だがこうして、誰かのために選ぶ時は、顔が少し柔らかくなる。
耳が拾うものが嫌な話ばかりじゃないと、本人も知っているのだろう。
その時、店員がそっと近づいてきた。
押しつけがましくない距離で、丁寧に言う。
「よろしければ、贈り物用に人気の配色をご案内いたしましょうか」
「お願い」
ペルシアが即答する。
店員は紺と赤を見比べ、微笑んだ。
「お相手の方の雰囲気が落ち着いていらっしゃるなら、紺の方が普段使いに。
ただ、お祝いで“特別感”を出すなら、こちらの赤は差し色として映えます」
「うーん……タツヤ班長、普段は紺が似合うけど、誕生日くらい赤もいいよね」
ペルシアが呟くと、リュウジはタイピンを手の中で軽く回しながら言った。
「タツヤ班長は、赤でも逃げない。
“似合わないよ〜”って言いながら、結局つける」
「分かる!」
ペルシアが指を鳴らした。
「じゃ、赤。決定!」
「決定が早すぎる」
「早い方が勝つの!」
「勝ち負けじゃない」
ペルシアは赤のネクタイを店員に差し出し、満足げに頷く。
リュウジもタイピンを差し出した。
「これも、包装を頼む」
「かしこまりました」
店員が二つの品を受け取り、包装カウンターへ向かう。
その背中を見送って、ペルシアは肩の力を抜いた。
「ねぇ、タツヤ班長、喜ぶかな」
「喜ぶだろ。
あの人、そういうの一つ一つ覚えてる」
「だよねぇ」
ペルシアがふっと笑った瞬間、いつもの軽口とは違う静けさがあった。
“タツヤ班長”という言葉の中に、十四班の空気が全部入っている気がした。
リュウジはその横顔を見ながら、口には出さずに思う。
――こいつは、ほんとに人のことを見ている。
耳だけじゃない。ちゃんと。
包装が終わり、二人は受け取った紙袋を手に店を出た。
鈴の音がまた小さく鳴る。
通路の先、コロニーの夜景が人工の星みたいに瞬いている。
仕事終わりの疲れはまだ体に残っているはずなのに、気分は少しだけ軽かった。
ペルシアが袋をぶらぶら揺らしながら言う。
「よし。明日はタツヤ班長を泣かせる」
「泣かせるな」
「泣かせるの。嬉し泣きでね」
リュウジは小さく笑って、歩幅を合わせた。
「……ほどほどにしろよ」
「任せて」
その“任せて”が信用ならないのは、今さらだ。
けれど――妙に頼もしくも聞こえるのが、ペルシアという女だった。
ーーーー
「じゃあ、仕事が終わったらタツヤ班長の家でね」
朝の事務所。
業務端末の通知音とキーボードの軽い打鍵が混じる中で、エリンがいつもの落ち着いた声で言った。
「ええ。お酒は任せておいて」
ペルシアが椅子の背もたれにもたれ、片手をひらひら振る。
その指先がすでに“夜の勝利”を確信しているようで、リュウジは苦笑を飲み込んだ。
「リュウジは私と買い出しに付き合って」
「分かりました」
リュウジが即答すると、ペルシアが「ずるい」と小さく唇を尖らせた。
「私も行きたい」
「ペルシアは会議録の仕上げ。終わってないの、知ってるわよね」
「……うっ」
エリンの穏やかな微笑みに、ペルシアは言葉を詰まらせる。
そのやり取りが日常になっていることに、リュウジはふと胸の奥が温かくなるのを感じた。
――誕生日。たったそれだけの言葉が、班の空気を少し変える。
それはきっと、タツヤがいつも“何気ない日常”を守っているからだ。
⸻
昼過ぎ、業務が一段落したところで、エリンとリュウジは商業区画へ向かった。
コロニーの夕方は穏やかで、通路の照明が少しだけ柔らかくなる。人の流れは相変わらず忙しいが、どこか“帰る方向”に揃っていた。
「今日は、何を作るんですか?」
リュウジが聞くと、エリンは買い物リストを端末で確認しながら微笑んだ。
「タツヤ班長の好きなものを中心にね。ユイも一緒だから、子どもが食べられるものも。
それと……これは、私の趣味」
「趣味?」
「“喜ぶ顔を想像して作る料理”のことよ」
エリンは冗談みたいに言うが、そこに含まれている真剣さを、リュウジはもう知っていた。
エリンは料理で、人を守る。
美味しいものを作って“安心できる空気”を作る。その力が、船内でも家でも同じように働く。
スーパーに入ると、エリンは迷いなくカゴを取った。
肉売り場、野菜、乳製品、調味料。動きに無駄がなく、選ぶ手が速い。
リュウジはその隣で、必要なものを黙って受け取り、カゴに整えていく。エリンの買い方は“料理の手順”そのものだった。
「タツヤ班長、甘いものも食べますよね」
「ええ。だけど、甘すぎるのは苦手。あの人、意外と繊細なのよ」
「意外と、じゃないでしょう」
「ふふ、そうかもね」
エリンは少しだけ目を細める。
“班長”という言葉を口にした瞬間、そこに確かな情が滲む。敬意というより、信頼に近い。
買い物かごがいっぱいになった頃、エリンがふっと立ち止まった。
菓子売り場の端で、子ども用の小さなクラッカーが並んでいる。
「ユイ、喜びそう」
エリンがそれを手に取る。
リュウジはその横で、別の棚に目を向けた。小さなキャンドル。数字の形のもの。
タツヤは照れくさそうにするだろうけれど、ユイが喜ぶ。
そしてユイが喜べば、タツヤは喜ぶ。
「……これも買いましょう」
「いいわね」
エリンが頷いた。
その“いいわね”に、リュウジは小さく救われる。
自分の提案が受け入れられる感覚――それは、孤児院や養成学校では滅多に得られないものだった。
⸻
仕事が終わる頃、事務所の空気が少し浮き立った。
ペルシアは会議録を何とか仕上げ、勝ち誇った顔で椅子から立ち上がる。
「ほら見て、できた。私、天才」
「最後の二行、誤字があるわ」
「……なにそれ、今言う?」
「今言わないと、永遠に直らないでしょ」
エリンの淡々とした指摘に、ペルシアは肩を落としながら端末を開き直す。
リュウジはその光景が可笑しくて、喉の奥で笑いを噛んだ。
「ペルシア、お酒持ってくるんだろ?」
「もちろん。今日の私は、タツヤ班長を“ちゃんと幸せにする係”だから」
「余計なことはするなよ」
「余計じゃない!」
ペルシアが胸を張る。
その表情の裏に、今日が彼女にとっても大切な日だというのが見えた。
タツヤはペルシアの奔放さを受け止めてきた。叱る時は叱り、守る時は守る。
だからペルシアは、照れくささを酒と冗談で隠しながら、ちゃんと返そうとしている。
⸻
夜。
タツヤの家。
エリンが台所を借り、手際よく料理を進める。
リュウジはテーブルを拭き、皿を並べ、氷を作り、クラッカーをさりげなく各所に仕込む。
ペルシアは酒を冷やしながら、なぜか自分の分のグラスを一番良い位置に置いていた。
「ペルシア、それ私の席なんだけど」
「違うよ。私の席。今日だけ」
「今日だけじゃないでしょ、いつもでしょ」
「……細かいこと言わないの。誕生日なんだから」
エリンが呆れたように笑う。
その笑い方が柔らかくて、リュウジは胸の奥が少し締まった。
――この時間は、確かに特別だ。
それは、豪華な料理や酒のせいじゃない。
“誰かのために集まる”という事実が、空気を変えるのだ。
料理の香りが広がる。
肉の焼ける匂い、野菜の甘み、スープの温かさ。
リビングの灯りは優しく、窓の外にはコロニーの夜景が静かに滲む。
「……タツヤ班長、驚きますかね」
リュウジがぽつりと言うと、エリンが包丁を置かずに答えた。
「驚くわよ。だって、あの人はそういうのに慣れてないもの」
「慣れてない?」
「ええ。
“誰かに祝われる日”より、“誰かを守る日”の方が多かったから」
エリンの言葉は、料理の音の間に静かに落ちた。
リュウジは何も言わず、頷いた。
守る人ほど、祝われることに不器用だ。
それが当たり前になっている。
⸻
玄関の方で、鍵の回る音がした。
それだけで、室内の空気が一瞬で張る。
「……来た」
ペルシアが小声で言う。
エリンは最後の盛り付けを終えて、手を拭く。
リュウジはクラッカーを握り直した。
心臓が少しだけ早い。フライト前の緊張とは違う種類の鼓動だった。
ドアが開く。
「ただいまー」
タツヤの声。
その少し後ろから、小さな足音が弾んで入ってくる。
「ただいまー!」
ユイの声。
それだけで、部屋が明るくなる。
タツヤが靴を揃え、ユイの上着を受け取りながら、ふっと気配を察したように目を上げた。
「……ん?」
その瞬間。
パーン!
クラッカーの乾いた音が弾け、紙吹雪が舞った。
「タツヤ班長、誕生日おめでとうございます!」
リュウジ、エリン、ペルシアの声が重なる。
ユイも「おめでとー!」と両手を上げた。
タツヤは、言葉を失った。
のらりくらりの彼が、珍しく固まっている。
目が丸くなり、口が少し開いたまま、紙吹雪が肩に落ちていく。
「……え、なにこれ。え、今日?」
「今日よ。忘れてたの?」
ペルシアが腕を組んで言う。
「忘れてないよ〜……忘れてないけど、こういうのさ……」
タツヤが困ったように笑う。
その笑いが、少しだけ震えているように見えて、リュウジは胸の奥が痛くなった。
ユイがタツヤの手を引っ張った。
「パパ、ケーキ!」
「……え、ケーキあるの?」
「あるわよ。今、出すから」
エリンが微笑んで、台所へ向かう。
その背中には、どこか誇らしさがあった。
タツヤは紙吹雪を払うようにしてから、ゆっくりと三人を見た。
「……ありがと。
なんか、こういうの、ずるいな」
「ずるい?」
リュウジが首を傾げると、タツヤはユイの頭を撫でながら言った。
「守ってるつもりだったのにさ。
守られてるって感じる瞬間、あるんだよね。こういうの」
言い終えると、タツヤは照れくさそうに視線を逸らした。
その目元が、ほんの少しだけ赤い。
ペルシアは一瞬黙った。
いつもなら茶化すのに、今は黙って、タツヤの横に立つ。
「……タツヤ班長さ。
私たちの班、班長がいなかったら成立しないんだから。
勝手に消えたりしないでよね」
「消えないよ〜」
「その“消えない”って言い方が軽いのよ」
ペルシアの声が少しだけ揺れる。
それを聞いて、タツヤはいつもの笑い方で返そうとして、途中で止めた。
「……ああ。分かった」
今だけは、軽くしない。
そう決めたみたいな声だった。
エリンがケーキを持って戻ってきた。
小さなキャンドル。数字。
ユイが目を輝かせる。
「パパ、ふーってやって!」
「……ふー、か」
タツヤは座り、ユイが隣に寄る。
エリンとペルシアが左右に立ち、リュウジは少し離れて見守った。
「いくよ、ユイ。一緒に」
「うん!」
二人で息を吸って――
「せーの、ふーっ!」
火が揺れ、ふっと消える。
その瞬間、ユイが拍手し、ペルシアが「よし!」と拳を握り、エリンが微笑む。
たったそれだけの動作が、部屋を“家”に変えた。
タツヤはケーキの前で、小さく笑った。
「……ありがとう。
こんなに祝われるの、久しぶりかも」
「久しぶりじゃなくて、これから毎年よ」
エリンが、当たり前のように言った。
タツヤは目を瞬き、ふっと笑って頷いた。
「……うん。そうだね」
その返事が、少しだけ潤んで聞こえた。
リュウジはその光景を見ながら、思う。
タツヤは“班長”で、“父親”で、“守る人”だ。
だからこそ、誰かに祝われると、どうしていいか分からなくなる。
でも、今この瞬間――
守る人が、守られている。
その事実が、リュウジの胸の奥を静かに満たしていった。
ペルシアが酒の瓶を持ち上げる。
「じゃ、乾杯しよ! タツヤ班長、誕生日おめでとう!」
「おめでとうございます、タツヤ班長」
リュウジが言うと、タツヤは少し笑って、真正面からその言葉を受け取った。
「……ありがと、リュウジ」
その一言が、やけに重かった。
感謝だけじゃなく、“仲間として認める”という意味が、はっきり乗っていた。
エリンがグラスを配りながら言う。
「今日は、ちゃんと食べて、ちゃんと笑って、ちゃんと休んでくださいね」
「はいはい、分かってるよ〜」
タツヤはいつもの口調で返しながら、今度はその軽さの中に、確かな温度があった。
ユイが両手で小さなグラス(ジュース)を持ち上げる。
「かんぱーい!」
「乾杯」
四つのグラスが触れ合い、小さな音が鳴る。
その音は、宇宙の闇よりも、どんな規則よりも、ずっと確かな“帰る灯り”みたいに響いた。
ーーーー
エリンお手製の料理が、机の上にずらりと並ぶ。
湯気の立つスープ。彩りのいいサラダ。香ばしい焼き目のついた餃子。甘い香りがほんのり漂う小鉢まで、隙がない。
仕事終わりの部屋なのに、ここだけが小さなレストランみたいだった。
「待ってました!」
ペルシアが両手を合わせ、今にも箸を突き立てそうな勢いで身を乗り出す。
「はいはい、ちゃんと座る。」
エリンが淡々と言うと、ペルシアは「はーい」と返事だけは素直だ。
その後ろで、ユイが小さくぴょこぴょこ跳ねている。
「ユイ、これ」
ペルシアが紙袋を持ち上げ、ユイに差し出した。
「ご飯食べ終わったら食べなね」
中には小さな包装のお菓子がたくさん入っていて、見ただけで楽しい。
ユイはぱっと目を輝かせた。
「ありがとう、ペルシアさん!」
「よしよし」
ペルシアがユイの頭を撫でると、ユイは得意げに袋を抱えたままタツヤの方を見た。
「パパ、みて!」
「すごいね。あとでね」
タツヤが笑って頷く。
その声は軽いのに、目は柔らかい。
「さて」
ペルシアが仕切り直すように宣言する。
「料理食べましょう!」
「だな。エリンの料理は美味しいからな」
タツヤが当たり前みたいに言うと、エリンは少しだけ照れたように目を伏せた。
「ありがとう。でも今日の餃子は――」
エリンが皿を指先で示す。
「リュウジが作ったのよ」
「え?」
ペルシアとタツヤが同時に声を漏らし、ユイまで「えっ」と真似をする。
「せっかくなので」
リュウジは控えめに笑い、背筋を伸ばしたまま箸を持つ。
餃子は綺麗に並び、焼き目は均一。見ただけで“きちんと作った”のが分かる。
タツヤが一つつまんで、ひと口。
「……美味しいじゃない」
その瞬間、リュウジの肩がほんのわずかに緩む。
「本当だ」
ペルシアも食べて、目を丸くした。
「え、うそ……うま。餃子って、こんなに“ちゃんとした味”になる?」
「ユイも!」
ユイが小さな箸で器用につまんで口に入れ、ぱっと笑う。
「美味しい!」
その言い方が嬉しすぎて、リュウジは思わず口角を上げた。
「……よかった」
「ねぇ」
ペルシアが餃子をもう一つ口に放り込みながら、リュウジを横目で見る。
「リュウジが料理できるなんて、知らなかった」
「エリンさんに色々と教えて貰ってるからな」
リュウジがさらっと言うと、エリンは湯気越しに微笑んだ。
「そうね。リュウジは料理のセンスがあるから、教え甲斐があるわよ」
「ふぅ〜ん?」
ペルシアがからかいの眼差しで、エリンとリュウジを交互に見た。
「なに、その“先生と優等生”みたいな空気。ねぇ、エリン、ほら、頬が赤い」
「赤くない」
「赤い」
「……赤くないって言ってるでしょ」
エリンはきっぱり言うのに、声が少しだけ柔らかい。
それが逆に“図星”っぽくて、ペルシアがニヤニヤを深めた。
「はいはい、茶化すなら食器洗い当番ね」
「え、理不尽!」
「理不尽じゃない。公平な裁き」
エリンがさらっと言うと、タツヤが吹き出した。
「ははっ、相変わらず強いね〜、チーフ」
「タツヤ班長も笑ってないで、ちゃんと食べてください」
「食べてる食べてる。ほら、ユイ、野菜も食べな?」
「うん!」
ユイは元気よく頷き、サラダをひと口。
その様子を見ながら、リュウジは、誰にも気づかれないように息を吐いた。
ここにいる全員が、いつもと違う日常を“守ろう”としている。
誕生日という理由で、ほんの少しだけ肩の力が抜ける時間。
それが、こんなにも温かい。
⸻
食事が落ち着いた頃、エリンが「じゃあ、プレゼントの時間ね」と言った。
ユイはすぐにソファの横の袋を指差し、わくわくした顔でタツヤを見上げる。
「パパ、プレゼント!」
「お、来た来た」
タツヤがわざとらしく肩を回し、のらりくらりと構える。
「まずは誰から?」
「私!」
ペルシアが真っ先に立ち上がり、胸を張って小さな箱を差し出した。
「はい、タツヤ班長。誕プレ!」
「お、何かな〜」
タツヤが箱を開けると、中には赤いネクタイ。
深い赤で、光の角度で少し色が変わる。派手すぎず、でも“目に残る赤”だ。
「……赤、か」
一瞬だけ、タツヤが言葉を止めた。
それから、普段の調子に戻ったように笑う。
「ペルシアっぽいね。派手に見えて、ちゃんと品がある」
「でしょ?」
ペルシアが得意げに鼻を鳴らす。
「タツヤ班長、こういうの意外と似合うのよ。私の審美眼を信じなさい」
「信じる信じる。ありがとう」
タツヤの声が、ほんの少しだけ低くなる。
受け取ったネクタイを、そっと大事そうに箱へ戻した。
「次、俺でいいですか」
リュウジが立ち上がり、手のひらサイズの小箱を差し出す。
「タツヤ班長、誕生日おめでとうございます」
「ありがと。……お、ちっちゃい」
「ネクタイピンです」
「なるほど!」
タツヤが開けると、上品な光沢のあるネクタイピンが収まっていた。
無駄な装飾はない。けれど、端に小さく月の意匠が入っている。
「……月?」
タツヤが目を細める。
「タツヤ班長のネクタイ、いつも動いて邪魔そうなので。固定した方がいいかと思って」
「いや、理由が実用的すぎる!」
ペルシアが突っ込むと、リュウジは「そうか?」と首を傾げた。
「でも、ありがたい」
タツヤはそのピンを指先で撫で、少しだけ息を吐く。
「俺、こういうの自分じゃ買わないからさ」
「使ってください」
「ああ、使う」
短い返事なのに、嘘がない。
「次は私ね」
エリンが紙袋から、丁寧に包まれた箱を取り出した。
「タツヤ班長。誕生日、おめでとうございます」
「ありがとう、エリン」
タツヤは包みを開ける。
中には、落ち着いた色味のハンカチが二枚。手触りが良さそうで、端の刺繍も控えめだ。
「……これ、いいね」
「汗をかくでしょう? タツヤ班長、いつも忙しいから」
「……忙しいからって、俺そんな汗かいてる?」
「かいてます」
エリンが即答すると、ペルシアが笑い、リュウジも小さく口元を緩めた。
「はは……参りました」
タツヤが照れ笑いして、ハンカチをそっと畳み直す。
大切に扱う手つきが、いつもと違って見えた。
「最後は、ユイだね」
タツヤが優しく言うと、ユイは待ってましたとばかりに立ち上がった。
小さな手に握っているのは、白い紙。
折れないように、ぎゅっと抱えていた。
「パパ!」
ユイがタツヤの前に行き、紙を差し出す。
「これ、ユイがかいた!」
紙には、クレヨンで描かれたタツヤとユイ。
手を繋いでいて、隣には大きな丸い太陽。
そして、その横に、少し歪んだ字で「ぱぱ おたんじょうび おめでとう」と書いてある。
タツヤは、しばらく動かなかった。
「……ユイ……」
声が、いつもより小さい。
「おめでとう!」
ユイが満面の笑みで言う。
タツヤはゆっくり紙を受け取って、それを胸に当てるみたいに抱えた。
それから、ユイをぎゅっと抱きしめる。
「……ありがとう。ほんとに、ありがとうな」
その言葉に、部屋の空気がふっと静かになる。
ペルシアが鼻をすすったのを、エリンは見ないふりをした。
リュウジは、ただ真っ直ぐにその光景を見守り、心の中でそっと頷いた。
タツヤは顔を上げ、三人に視線を向けた。
「……みんな、ありがとう」
のらりくらりじゃない。誤魔化しの笑いでもない。
言葉の芯が、まっすぐに届く。
「こういうの、……いいね」
タツヤが小さく笑うと、ユイが「ね!」と笑った。
「ね、パパ、うれしい?」
「うん」
タツヤは即答した。
「すっごく、うれしい」
その一言で、エリンの目が少しだけ潤む。
ペルシアは「……ふーん」と強がった顔を作りながら、タツヤの赤いネクタイを指差した。
「じゃ、タツヤ班長。次のフライト、そのネクタイつけてよね。私の赤で、VIP黙らせるんだから」
「怖い言い方するなぁ……でも、つける」
「よし」
リュウジが「似合うと思います」と言う。
誕生日という小さな節目が、十四班の絆を、もう一度結び直す夜になった。
机の上の料理はまだ温かく、部屋の中の空気も、同じくらい温かかった。
ーーーー
ユイがキャッキャッと笑いながら、ペルシアの指を追いかけていたのは、ついさっきまでのことだった。
ペルシアが「ほら、こっちだよ〜」と手をひらひらさせるたび、ユイは小さな手をぱたぱたさせて、声を上げて笑う。エリンはその様子を食器を拭きながら横目で見ていて、タツヤはソファにだらりと座ったまま、視線だけで追っている。
けれど、子どもの電池が切れる瞬間は唐突だ。
「……あれ?」
ペルシアがユイを抱き上げたまま目を丸くした。
ユイは、ついさっきまでの笑い声が嘘みたいに、ペルシアの腕の中でぱたりと力が抜けている。小さな額がペルシアの肩にこつんと寄り、口が少し開いて、すやすやと寝息を立て始めた。
「……寝た」
ペルシアが囁くと、タツヤがふっと笑った。
「かわいいだろ」
「当たり前でしょ。……って、重い、ちょっと。ユイ、最近大きくなってない?」
「大きくなってるよ。ちゃんと見てる?」
タツヤの言い方が、いつもより少しだけ柔らかい。
エリンは手を止めずに、淡々と指示する。
「ユイ、ベッドに移すわよ。抱っこのままだと、起きたときに首が痛い」
「はーい」
ペルシアが慎重に立ち上がり、ユイの背中をぽんぽんと軽く叩いた。ユイは寝返りを打つでもなく、ただペルシアの腕に自分の重さを預けている。
寝室に向かう道すがら、リュウジは自然にペルシアの前を歩き、ドアを静かに開けた。
ペルシアはそれを当然のように通り抜け、ベッドの端に腰を下ろす。ユイを横にするときの手つきが、妙に丁寧だった。
「……よし」
毛布をかけると、ユイは小さく息を吐いた。
ペルシアは少しだけその寝顔を見つめてから、そっと立ち上がる。
寝室を出ると、リビングの空気がひとつ戻ってくる。
エリンはすでにカップを片付け、テーブルを軽く整えていた。
「じゃ」
ペルシアが、何事もなかったように言う。
「トランプしよ」
「お、いいね」
タツヤがすぐに乗った。こういう時だけ反応が早い。
「トランプなんて久しぶりだな」
リュウジが言いながら、テーブルに椅子を寄せる。
「ババ抜きでいい?」
エリンが淡々と提案する。
ペルシアはいつの間にかトランプの箱を手にしていて、指先でぱちぱちと軽く揃えた。
「ええ。ただし——」
ペルシアが笑う。いたずらを思いついた子どもみたいな顔で。
「普通にやっても面白くないから」
シャッフルする音が、軽快に鳴る。
ペルシアの手つきは妙に慣れていて、カードが空気を切るように整う。
「五本勝負で、一番負けた人が食器洗い。どう?」
ペルシアが言い切った瞬間、エリンの視線が横に滑った。
「……食器、もう大体片付いてるけど?」
「細かいこと言わないの。フライパンとか、まだあるでしょ」
「あるけど」
エリンが一瞬だけ考える顔をした。
タツヤはにやにやしている。
「いいんじゃない?」
「俺も構わない」
リュウジがあっさり言う。負ける気がない口ぶりだ。
「なら本気でやろうかしら」
エリンが淡々と言った瞬間、空気が少しだけ変わった。
「え、怖……」
ペルシアが小声で言いながら、カードを配り始める。
四人の手元に、規則正しくカードが落ちていく。
揃ったカードを捨てる音が、ぽん、ぽん、と重なる。
テーブルの中央に捨て札の小山ができ、手持ちはあっという間に数枚に減った。
「はーい」
ペルシアが楽しそうに言う。
「ジョーカー持ってる人〜」
「俺は持っていない」
リュウジが即答する。
タツヤとエリンは、何も言わなかった。
「へぇ〜」
ペルシアがリュウジを見て、にやにやする。
「リュウジが持ってるんだ」
——何故バレたんだ。
リュウジは顔に出さず、内心で歯噛みした。
エリンの表情はいつも通り穏やかで、タツヤは口元だけ笑っている。
「……証拠は?」
「声」
ペルシアがあっさり言い切る。
「“持ってない”って言った声がちょっとだけ硬かった。ほんの、ほんのちょっとね」
「……」
リュウジは息をひとつ整え、次の動作に集中することにした。
リュウジは隣のタツヤからカードを引く。
引く瞬間、タツヤがわざとらしく肩を揺らした。
「ほらほら〜、どっちかな〜?」
「うるさいです」
「冷たいね〜」
リュウジは無視してカードを確認し、揃った分を捨てる。
次はリュウジがエリンにカードを差し出す番。
エリンは優しい微笑みを浮かべながら、手を伸ばす。
そして——ジョーカーとは真逆の位置を、迷いなく引いた。
その動きがあまりに自然で、リュウジは一瞬だけ目を細めた。
「……エリンさん?」
「なに?」
「いや……」
言いかけて、やめる。
エリンの笑みは変わらないのに、目が“全部見えてる”目をしていた。
数ターンの後。
「上がり」
エリンが最初に手札をゼロにした。
置くカードの音が、やけに軽い。
「え、早っ」
ペルシアが顔をしかめる。
「運が良かっただけよ」
エリンがさらりと言う。
「絶対違う」
ペルシアが即答する。
次に、タツヤが上がった。
「よっし。俺、勝ち組」
「勝ち組って、まだ一回目でしょ」
「精神が大事」
タツヤが余裕の笑みを浮かべる。
残ったのは、リュウジとペルシア。
リュウジが二枚、ペルシアが一枚。
ペルシアが引く番だ。
「どっちにしようかな〜」
ペルシアが、指先でカードをなぞる。ゆっくり、ゆっくり。
その触り方がいやらしいほど丁寧で、リュウジは無駄に肩に力が入る。
「こっちにしようかな〜」
ペルシアが顔を上げる。
「どう思う、リュウジ?」
「知らん」
リュウジが素っ気なく返すと、ペルシアは満足そうに笑った。
「ありがと」
そして、ジョーカーではない方を引く。
「——あがり〜」
ペルシアが勝ち名乗りを上げる。
「リュウジは一敗ね」
「……っ」
リュウジが口を開いた瞬間、タツヤが指を立てた。
「駄目だよリュウジ。ペルシアの前で声出しちゃ」
「そうよ」
エリンも頷く。
「ペルシアの耳、忘れたの?」
「……そうか!」
リュウジが悔しそうに呻くと、ペルシアがむっとする。
「ちょっと、言わないでよ。弱点バラすな」
「弱点じゃないだろ、才能だろ」
リュウジが言うと、ペルシアは一瞬だけ口をつぐみ、照れ隠しみたいに鼻を鳴らした。
「……次は負けない」
リュウジが静かに宣言すると、ペルシアがにやっと笑う。
「言ったね?」
⸻
二戦目。
またエリンが先に上がる。
置くカードの順番が、見ていて気持ち悪いくらい綺麗だ。
「はい、上がり」
「え、また?」
ペルシアがカードを握りしめる。
「運が良いの」
エリンは平然としている。
三戦目。
四戦目。
五戦目。
まるで同じ脚本みたいに、エリンが最初に上がり、次にタツヤが上がる。
最後に残るのは、リュウジとペルシア。
そして、リュウジの負けがじわじわ増えたと思えば、最後はペルシアが連敗して沈んだ。
「結果!」
ペルシアが床に突っ伏すみたいにテーブルに額を乗せた。
「リュウジ二敗、ペルシア三敗……!くっそ……!」
「つまり、食器洗いはペルシア」
エリンが淡々と判決を下す。
「もう!エリン強すぎ!」
ペルシアが顔を上げる。悔しそうなのに、目が少し笑っている。
「ペルシアは顔に出過ぎるもの」
エリンはあっさり言い切った。
「いや、エリンも“顔に出ない”のが強すぎるんだよ」
タツヤが呆れたように言って、肩をすくめる。
「エリンさん、全勝ですよね」
リュウジが言うと、エリンは少しだけ視線を逸らした。
「運が良かったわ」
「いや、運じゃないでしょ」
タツヤが笑う。
「エリンは一体、どれくらい俺らの癖を見抜いてるのよ」
「それは秘密です」
エリンが小さく微笑んだ。
その微笑みは柔らかいのに、どこか“逃げ道がない”。
ペルシアはその笑みに負けたみたいに、観念して立ち上がる。
「はいはい、食器洗いね。やればいいんでしょ。やれば」
「助かるわ」
エリンがさらっと言うと、ペルシアは背中越しに舌を出した。
キッチンの方へ歩きながら、ペルシアがぼそっと言う。
「……ねぇ、リュウジ」
「なんだ」
「さっき“知らん”って言ったの、あれ正解。声、余計な情報出すから」
「……分かってる」
「分かってない。次、またやるよ」
「やめろ」
「やる」
ペルシアの足取りは軽い。負けたのに、楽しそうだ。
リビングに残ったタツヤが、テーブルのカードをまとめながら小さく笑った。
「いい夜だね」
エリンはキッチンの方を見て、少しだけ息を吐く。
寝室の向こうからは、ユイの規則正しい寝息が聞こえる気がした。
リュウジはその空気の中で、ふと気づく。
ここは任務でも訓練でもない。
それなのに、誰も気を抜いていない。誰も手を抜いていない。
ただ、“大切なもの”を壊さないようにしている。
そして、その中心に、いつも自然にいるのが——エリンなのだ。
「……エリンさん」
リュウジが呼ぶと、エリンは振り返る。
「なに?」
「……秘密って、ずるいですね」
リュウジが苦笑すると、エリンはほんの少し目を細めた。
「ずるくないわ。必要なときにだけ、教えてあげる」
「必要なときっていつですか」
「あなたが“本当に困ったとき”」
エリンは優しく言い切った。
その言葉の重さに、リュウジは返事を失って、ただ頷いた。
キッチンの方では、ペルシアがわざと大きな音を立てて「聞こえてるからねー!」と叫び、タツヤが「はいはい」と笑っていた。