業務が終わった、と言っていいのかどうか。
ドルトムント本社タワーの中で“終わり”は曖昧で、照明も空調も一定のまま、人の流れだけがゆっくり薄くなっていく。訓練区画の冷えた空気がまだ肌に貼りついているのに、エレベーターを乗り継ぎ、レストランフロアの柔らかな灯りに包まれた途端、身体の奥だけが先に「今日はここまで」と判断した。
ドルトムントが所有するレストランは、企業の福利厚生という名の“囲い”の象徴みたいに整っている。
窓の外にはリングの曲線が見え、その向こうに点在する居住区の明かりが、宇宙の暗さに負けないように瞬いていた。
店内は静かで、音は吸われ、会話は低く、笑い声さえ品よく丸められている。
「……ここ、相変わらず綺麗すぎる」
席に座るなり、ペルシアがメニューを開いたまま小さく呟いた。
「綺麗なのはいいことだよ。落ち着くし」
エリンは淡々と返して、水のグラスを指先で軽く回した。氷が小さく鳴り、音がすぐ消える。
「うん、落ち着く。落ち着きすぎて怖い。ね、ほら、私の笑い声すら吸収される」
「それはあなたの声が大きいだけ」
「ひど!」
ペルシアは笑いながらも、いつもより少しだけ声量を落とした。彼女は空気を読むのが上手い。読むだけじゃない、変えるのも上手い。
ただ、その“軽さ”は時に刃になる。けれど今日は、刃の向きが内側ではない。ちゃんと外に向いている――エリンはそう感じて少しだけ安心した。
注文を済ませ、料理が来るまでの短い時間。
ペルシアはフォークをくるくる回しながら、唐突に言った。
「で。どう思った? 今日の新人くん。英雄さま」
“英雄”の言い方が、からかっているのにどこか慎重だった。
エリンはすぐには答えず、窓の外の暗闇を一瞬だけ見て、それから視線を戻した。
「実力は認めるよ」
「即答じゃん」
「操縦そのものはね。ログも綺麗だった。入力は最小、結果は最大。無駄がない。焦りがない。……そういう人、貴重だもの」
ペルシアは身を乗り出す。
「でも?」
エリンは、そこで息をひとつ置いた。言い方を間違えると、軽口では済まなくなる。
今日の話題は、“彼の操縦”の話では終わらない。
「でも、私が心配してるのは、そこじゃない」
「え、どこ?」
ペルシアが目を瞬かせる。
エリンはグラスの縁に指を置いたまま、静かに言った。
「……私たち。客室乗務員のこと」
ペルシアの表情から笑いが薄くなった。
完全には消えない。消せない。でも、軽くする方向に逃がさない。
彼女も“分かっている”からだ。
「……あー。そういう話」
「うん」
エリンは頷く。
「パイロットの中には、客室乗務員を物とか道具として扱う人がいる。極端だけど、あれって結局、『自分の機体の一部』みたいに考えてるんだよね。操縦に都合がいいように動け、って」
ペルシアが小さく鼻で笑った。
「いるいる。『俺の指示が絶対』タイプ。『君たちは黙って乗客だけ見てればいい』タイプ。で、トラブル起きたら全部こっちのせいにするタイプ」
「そう」
エリンの声は淡々としているが、淡々としているぶん、感情が滲む。
怒りというより、疲れだ。経験の匂いだ。
「私たちの仕事って、乗客の対応だけじゃない。緊急時の誘導、情報の収集、機内の空気の制御、パニックの鎮静。……それって操縦と同じくらい“生死”に直結する。なのに、軽く扱われたら、現場は壊れる」
ペルシアがフォークを置く。
「それ、タツヤ班長が一番嫌うやつ」
「うん」
エリンは頷いた。タツヤは“現場が壊れる”匂いに敏感だ。だから、パーサーの仕事を軽く見ない。
でも、彼が守れる範囲には限界がある。全てのフライトに彼が乗るわけじゃない。
そして――S級案件は、特に危うい。
ペルシアが少しだけ眉を上げる。
「リュウジが、そういうパイロットかもって思ってる?」
「“かも”じゃなくて……分からないって思ってる」
エリンは言い直す。疑うという言葉は、まだ使いたくない。
「今日のリュウジは丁寧だった。敬語も綺麗だった。『パーサーに任せる』って言ったのも、役割を尊重してるように見えた」
「見えた、って言い方」
「見えた、だよ」
エリンは静かに続ける。
「丁寧な人が、本当に丁寧なのか。丁寧なふりが上手いのか。現場では、そこが大きい。特に、立場が強い人ほど」
ペルシアが苦笑した。
「立場、強いもんね。S級だし。英雄だし」
「……S級は、コロニーでも三人しかいない」
エリンがそれを口にすると、ペルシアは少し背筋を伸ばした。
軽口の“温度”が落ちる。
この数字は、冗談で消せない。
「古参のアズベルト」
エリンは指を一本折るように名前を出す。
「見た目は紳士。言葉も丁寧。だけど――“乗客と機体だけが大事”ってタイプ。私たちを見てるようで見てない。必要な時だけ呼んで、不要になったら空気みたいに扱う」
「うわ、分かる。あのタイプ、傷つくんだよね。怒鳴られるより嫌」
「そう。怒鳴られたら『間違ってる』って言える。でも無視は、言葉にしにくい」
エリンはもう一本、指を折る。
「怪物、ブライアン」
ペルシアが小さく「出た」と呟いた。
ブライアンの名は、宇宙事業部の中でも“空気が変わる名前”だ。
「彼は、最初から“道具扱い”を隠さない。命令が早い。声が低い。『動け』が全部。…緊急時に強いのは事実。でも、緊急じゃない時でも緊急みたいに周りを追い詰める」
「乗客の前でも?」
「乗客の前では完璧。だから余計に厄介」
エリンの声が少し硬くなる。
「ブライアンは“客室”を演出の舞台だと思ってる。私たちは舞台装置。動線も声量も表情も、全部彼の頭の中の『正解』に合わせろって」
ペルシアが舌を出すみたいに眉を寄せた。
「うわ。最悪」
「最悪。でも、S級だから許される空気がある」
エリンは最後の一本を折るように言った。
「そして、英雄――リュウジ」
ペルシアが小さく笑った。
「英雄って呼び方、本人は嫌いそう」
「うん。嫌いそう」
エリンも、ほんの少しだけ口元を緩めた。
リュウジは“持ち上げられる”のが好きなタイプじゃない。少なくとも今日見た限りは。
けれど、それが“本物”かどうかは、まだ確定できない。
「リュウジは……どっちの匂いもしない」
「それ、良いことじゃないの?」
「良いこと。だけど、未知なのよね」
エリンはフォークを手に取り、届いた料理を一口食べた。香草の匂いが鼻を抜ける。
それでも、心の奥は軽くならない。
「S級の人って、周りが勝手に“期待”する。『この人なら大丈夫』って。『この人なら救ってくれる』って。……その期待が、本人を歪める」
「期待されすぎると、周りを道具にし始める?」
「そう。『自分は失敗できない』って思った瞬間、人は他人を“手段”として扱うようになる。自分を守るために」
ペルシアが黙って頷いた。
軽い彼女が黙る時は、ちゃんと考えている時だ。
「だから私は、リュウジが丁寧でも、まだ安心できない」
「猫被ってるかもってこと?」
ペルシアが、さっきの調子を少しだけ戻して笑う。
「今日ってまだ入社式だし。良い子の仮面、被っててもおかしくないじゃん。初日から『俺が正しい』ってやるほどバカじゃないでしょ、英雄さま」
エリンは笑いかけて笑わない。
ペルシアの言い方は軽いけれど、論点は鋭い。
「猫被ってる、って言い方は軽いけど……本質はそう。現場になった瞬間に“本性”が出る人はいる」
「じゃあ、どうやって見極めるの?」
ペルシアが身を乗り出した。
エリンは迷わず言った。
「“私たちを見てるか”」
「え?」
「操縦の上手さは、今は置いとく。私たち、客室乗務員を“人”として見てるかどうか。それだけで、現場の安全度が変わる」
ペルシアは口を尖らせる。
「見るだけでいいの?」
「見るだけじゃ足りない。『頼む』が言えるかどうか」
エリンは続ける。
「『動け』じゃなくて、『頼む』。『やれ』じゃなくて、『お願いできる?』。それを言えるパイロットは、緊急時に強い。だって人を人として扱ってるから、パーサーが自分の判断で動ける」
「うわ……それ、めちゃくちゃ分かる」
ペルシアが小さく息を吐いた。
「道具扱いされると、こっちも道具の動きしかできなくなるんだよね。『言われたことだけ』しかやらなくなる。自分で判断するの怖くなる」
「そう。現場で一番危ないのは、それ」
エリンは静かに言った。
そのタイミングで、料理がもう一皿運ばれてきた。
店員の所作は丁寧で、声は小さく、タイミングは完璧。
“整っている”。それが安心でもあり、管理でもある。
ペルシアは皿を見て、すぐに冗談で空気を戻した。
「ねえ、こんなに綺麗に盛られてると、私、食べるの躊躇うんだけど。これもドルトムントの囲い?」
「ただの料理」
「えー、夢がない」
「夢があると危ない」
「それ、今日何回目?」
「必要なだけ」
エリンがさらっと返すと、ペルシアは笑った。
笑いは戻る。戻るけれど、話題の芯は外さない。
「じゃあさ。今日のリュウジ、“私たちを見てた”と思う?」
「……見てた、と思う」
エリンは正直に言った。
「少なくとも、目を合わせた。話を聞いた。こちらの反応を待った。『任せる』って言ったのも、信頼の形に見える」
「じゃあ良くない?」
「良い」
エリンは頷く。
それでも、そこで止めない。
「でも、あれは“シミュレーターの中”だった。現場じゃない。客室のざわめきも、泣く子も、怒鳴る乗客も、吐き気も、匂いも、全部ない」
「うわ、現場の匂いってやつ」
「そう」
エリンはグラスを置いた。
「現場って、情報の質が変わる。ノイズが増える。人間が増える。そこで『客室は黙ってろ』ってタイプに変わるかどうか――そこが怖い」
ペルシアが眉を寄せた。
「でも、英雄って呼ばれるくらいだし……」
「本当の英雄は、多くの人を救う。」
エリンは認める。
「でも“救う”って、時に危険。救う側が正しいって空気ができる。救われた側は反論しにくくなる。……それが積み重なると、救う側は無自覚に他人を道具にする」
ペルシアが黙った。
それは、彼女が軽口で笑い飛ばせない種類の真実だった。
「……じゃあ、私たちがやることは?」
ペルシアが静かに聞く。
エリンは即答する。
「距離を測る。先に“線”を引く」
「線?」
「そう。『ここから先は踏み込まないで』って線」
エリンは少しだけ声を落とした。
「パイロットがどれだけ上でも、どれだけ英雄でも、客室乗務員を物扱いするなら、そのフライトは壊れる。だから、そうなりそうなら、早めにタツヤ班長に報告する」
「班長、上と揉めるやつだ」
「揉めてもらう」
エリンは言い切った。
優しさじゃない。安全のための合理だ。
ペルシアは口元を歪めて笑った。
「うわー、チーフパーサー怖い」
「怖くない。必要なこと言ってるだけ」
「分かった分かった。じゃあ私は何する?」
「あなたは、いつも通りでいて」
エリンは今日も同じことを言った。
「あなたの“普通の距離”は武器になる。敬いすぎない。怖がりすぎない。変に持ち上げない。……猫被ってるなら、猫を引っ張り出すのはあなたが上手い」
ペルシアが目を輝かせる。
「え、私、猫剥がし担当?」
「言い方」
「じゃあ、仮面剥がし担当!」
「それも言い方」
二人は小さく笑った。
笑いの後、ペルシアがふいに真面目な顔に戻る。
「でもさ……もしリュウジが、本当にちゃんとした人だったら?」
エリンは、少しだけ微笑んだ。
「その時は、ちゃんと信じる」
「簡単に信じないくせに?」
「簡単には信じない。でも、信じるべき時に信じないのも危険」
エリンの言葉は、いつも現場の匂いがする。
その現場の匂いが、今夜は少しだけ優しかった。
「……ねえ、エリン」
ペルシアがフォークを置き、頬杖をつく。
「アズベルト、ブライアン、リュウジ。S級が三人しかいないって、やっぱ異常だよね」
「異常だよ」
エリンは頷いた。
「三人しかいないのに、三人とも“癖が強い”。古参、怪物、英雄。……肩書きだけでドラマができる」
「ドラマいらない。平和がいい」
「平和は、準備して初めて来る」
「またそれ」
「必要なだけ」
ペルシアが吹き出した。
「ほんと、タツヤ班長化してきた」
「似てきたかも」
「危険。班長みたいに無茶しても顔色変えないタイプになったら」
「私は無茶しない」
「無茶する人ほどそう言う」
ペルシアの軽口に、エリンは小さく息を吐いた。
嫌な息じゃない。どこか安心した息だ。
こうして雑談の形で吐き出せるのは、悪いことじゃない。
窓の外のリングは相変わらず美しい。
美しさは、ときどき残酷だ。整っているものほど、壊れた時に怖い。
ペルシアが、最後にもう一度、軽い調子で言った。
「まあ、入社式だしね。猫被ってるかも。ね、エリン」
エリンは窓の外の暗闇を一瞬だけ見てから、ペルシアへ視線を戻した。
「……猫でもいいよ」
「え、急に優しい」
「猫でも、虎でも、狼でも」
エリンは静かに言う。
「どんな顔でもいい。私たちを“人”として見てくれるなら」
ペルシアの笑みが、ほんの少しだけ真面目なものに変わった。
「……うん。人として見てくれるなら、私もちゃんと“人として”動ける」
「そう」
エリンは頷く。
「それが現場の強さになる」
食事の皿が少しずつ空になっていく。氷が小さくなっていく。
会話は静かで、目立たない。
でも目立たない会話ほど、明日の現場を支えることがある。
――英雄は、誰を救ってきたのか。
――そして、これから誰を救うのか。
――救う時に、私たちは“人”として隣にいられるのか。
エリンは、まだ答えを持っていない。
だからこそ、慎重に見極める。
猫を被っているなら、剥がれる瞬間を見逃さない。
そしてもし本当に、彼が“英雄”ではなく“同じ現場の人間”としてこちらを見てくれるなら――
その時は、班として。
静かに、しかし確かに、同じ方向を向けるはずだ。
ーーーー
翌朝。
ドルトムント本社タワーの宇宙事業部フロアは、まだ完全には目を覚ましていなかった。照明は規則正しく白く、床は磨かれすぎて足音が少しだけ反響する。夜勤明けのスタッフが引き上げていく流れと、早番のスタッフが入ってくる流れが、廊下の交差点で短くすれ違う――その瞬間だけ、ここが“基地”ではなく“会社”に見えた。
エリンとペルシアが同じタイミングでゲートを通る。
エリンはいつも通りの落ち着いた歩幅で、ペルシアは朝からエネルギーが余っているみたいに軽い。
「ねえ、今日も昨日のレストラン行く?」
「行かない。仕事だもの」
「即答、冷たい」
「あなたが毎日外食したがるだけ」
「だって福利厚生だよ? 使わなきゃ損」
「“損得”で動くと痛い目見るわよ」
「はいはい!」
ペルシアの勢いに、エリンは小さく息を吐いて笑いそうになり、笑わずに戻した。
このテンポは嫌いじゃない。むしろ助かる。軽口は、重たい現実を一時的に棚に上げてくれる。棚に上げたからといって、忘れるわけじゃない。現場の人間は、忘れないまま軽くする術を身につける。
フロアの奥、班の島が見えてきた瞬間――ペルシアの足が止まった。
「……え」
その声の低さに、エリンも視線を上げる。
タツヤのデスクの前に、ひとり立っている男がいた。
背筋が真っ直ぐで、手の位置が落ち着いていて、立ち方が“待つ”というより“報告をする”姿勢を取っている。
リュウジだった。
しかも、制服の着崩れひとつない。
昨日の入社式の熱が残っているというより、最初からここで何年も働いているみたいな“馴染み方”をしているのが、妙に違和感を生んでいた。
デスクに座るタツヤは、画面を見ながらも目だけでリュウジを捉えている。
その顔には、分かりやすい「呆れ」が浮かんでいた。怒ってはいない。だが納得もしていない。ちょうどその中間。
「……それで」
タツヤが椅子の背に軽く体重を預け、わざとゆっくり言った。
「なんで来たの?」
リュウジはすぐに姿勢を崩さず、きちんと答える。
「おはようございます、タツヤ班長。本日もよろしくお願いいたします」
「挨拶はいい。質問に答えろ」
タツヤの声は低いが、必要以上に刺す角度はない。
リュウジは言葉を選ぶ時間を少しだけ取り、それから真面目に返した。
「昨日の続きを確認しておくべきことがあるかと思いまして。早めに来れば、邪魔にならないと判断しました」
「昨日、言ったよね?」
タツヤが眉を上げる。
「ドルトムントの命がある仕事のみ。出社は必要な時だけでいいって」
「はい。伺いました」
「……伺った上で来たわけだ」
タツヤが頭を抱えそうな顔になる。
リュウジは少しだけ視線を下げ、それでも口調は崩さない。
「“いい”という表現でしたので、強制ではなさそうでした。ですので、早めに動いて問題がないなら、来たほうが良いかと」
言い切ってから、リュウジは自分でも「言い方が固い」と思ったのか、ほんの少しだけ目を泳がせた。
それを見て、タツヤは苦笑する。
「……まぁ、そうなんだけどね」
言葉は折れた。折れたというより、折らされた。
タツヤは“規則”で殴るタイプじゃない。現場の合理で判断する。だから、理屈が通っている相手には強く出にくい。
「でもトレーニングは?」
タツヤがすぐに次の矢を投げる。
「今日の予定、訓練枠は取ってある。お前、必要な時だけ出社していい代わりに、必要な時に死ぬほど要求される。そのためのトレーニングだろ」
「トレーニングは、空いている時間にでも」
リュウジは淡々と返す。
その瞬間、タツヤの眉間が少しだけ深くなる。
言葉を間違えると、これは“説教”になる。タツヤはそうなるのを嫌う。けれど、止めるべきところは止める。
「……S級パイロットは未探索領域の操縦を行うこともあるんだよ?」
タツヤの声が、少しだけ硬くなる。
「そのために日々トレーニングは欠かせない。分かるよな」
リュウジは即答する。
「分かっています。ですがトレーニングは、詰め込めばいいという訳にもいかないですし」
その返答は、理屈として正しい。
トレーニングは量だけではない。回復の管理、集中の質、身体の反応、疲労の蓄積――詰め込みは事故に繋がる。
そして、その“事故”を一番嫌うのがタツヤだ。
タツヤは息を吐いて、画面から目を離し、リュウジを真正面から見た。
「……お前、口が固いな」
「申し訳ありません」
「謝るところじゃない。……ただ、バランスだ。訓練、出社、休み。全部がセット」
そこで、横から明るい声が割って入った。
「おーい! リュウジ! こっちこっち!」
ペルシアが腕を大きく上げて、まるで観光地の待ち合わせみたいに手を振っている。
エリンは一瞬だけ「やめなさい」と言いかけて飲み込んだ。あれはあれで空気を変える。タツヤの説教モードを断ち切る“強制終了ボタン”として有効だ。
タツヤが、案の定という顔で目だけペルシアを見る。
「ペルシア〜……」
呼び方に、疲れが混ざる。
ペルシアはニコニコしたまま、悪びれずに言った。
「まぁいいじゃないですか。本人も『いい』って言ってるし」
「本人が“いい”って言ってるのは俺じゃなくて、お前だ」
「えー? でも班長、さっき『まぁそうなんだけどね』って言ってたよ?」
「揚げ足取るな」
「取ってない。拾っただけ」
ペルシアは本気でそう思っている顔をする。
タツヤは頭を掻きそうになって、掻かずに戻した。大人として耐える。
エリンは二人のやり取りを横目に、リュウジの表情を観察した。
昨日の“丁寧な新人”の仮面が、今も同じ厚さでそこにある。
でも、ペルシアの雑な距離感に対して嫌そうな顔をしない。目が逃げない。
それは、少なくとも“人を道具として扱うタイプ”の反応ではない――そう判断していいのか。エリンはまだ保留にする。
タツヤは、結局折れた。折れるというより、現場の合理に戻った。
「はぁ……分かったよ」
ため息は短い。
そして、釘は刺す。
「でもリュウジ。トレーニングや出社、休みは任せる。……任せるからね」
言葉の最後が少しだけ強い。
“好きにしろ”ではなく、“管理しろ”だ。
「分かりました」
リュウジはまっすぐ頷いた。
その返事の速さが、逆に「分かってない可能性」を匂わせる――タツヤも同じことを感じたのか、口を開きかけてやめた。
ペルシアがまた手を振る。
「はい! リュウジ、こっち来て!」
「……失礼します、タツヤ班長」
リュウジはきちんと一礼してから、ペルシアの方へ向かった。
タツヤはその背中を見送り、エリンに視線だけ向ける。
「……朝から面倒が増えた」
エリンはタツヤにだけ丁寧に返す。
「タツヤ班長、お疲れさまです。……でも、面倒の種類としては、悪くないかもしれません」
「お前までそう言うか」
「いえ。管理が必要、という意味で」
「……分かってる。だから余計に頭が痛い」
タツヤは画面に戻った。
けれど目はほんの少しだけ柔らかくなっていた。
「おいでおいで、リュウジ!」
「分かった分かった、そんなに手振るな」
リュウジはペルシアにはタメ口になっている。
それが自然に出ているのが、少し意外で、少し安心でもあった。
ペルシアのデスク――というか作業台は、相変わらず混沌としていた。
書類の束、メモ、配布物、空き缶、謎のケーブル、どこかの誰かの私物っぽい何か。
机が机の形をしているだけ、という状態。
ペルシアはその混沌を誇らしげに指差す。
「ここに座って」
「……どこに?」
「座れる場所に!」
「座れる場所が、ない」
「ある! ほら! この辺!」
ペルシアが資料を片手で払って椅子を空ける。
紙がふわっと舞った。
リュウジは小さく息を吐き、椅子に腰かける。
「はいはい……で、何するんだ」
「とりあえず、業務日誌の書き方教えてあげる」
「助かる。昨日のフォーム、項目多すぎ」
「でしょ? あれ、書けない人は書けないの。だから教える。ペルシア先生に感謝して」
「はいはい、感謝してます」
軽い返事の割に、リュウジの目は真面目に画面を追っている。
そこへ、背後からエリンの声が入る。
「リュウジ、ログはちゃんと書いたほうがいいよ。守るために」
リュウジはすぐに姿勢を正すほどではないが、声のトーンだけ丁寧になる。
「はい、エリンさん。ちゃんと書きます」
ペルシアがニヤニヤする。
「ほら〜。エリンには丁寧」
「当たり前だろ」
「私には雑〜」
「タメ口で言いって言ったろ?」
「ひどっ!」
ペルシアが笑いながらキーボードを叩き、説明を始める。
「ここ、出社理由の欄ね。あなたの場合、『任意出社』って書いとくと、あとで突っ込まれにくい」
「突っ込まれにくい?」
「そう。ログ見るの好きな人っているから。特にS級のは」
エリンが即座に言う。
「ペルシア、脅かさない」
「脅かしてないって。現実」
「言い方」
リュウジが苦笑する。
「まぁ……でも、助かる。ありがと」
「でしょ? 私は役に立つ女」
「それは否定しない」
「よし!」
ペルシアが満足そうに頷いた、その時。
リュウジがふと視線を上げた。
机の上――書類と空き缶が、今にも雪崩れそうに散乱している。
リュウジがぽつりと言う。
「……その前に、掃除しないか?」
ペルシアが固まる。
「え?」
エリンも一瞬、手を止めた。
少し離れたタツヤの島から、キーボード音が一拍だけ止まった気がした。
リュウジは真顔で続ける。悪気がない。だから破壊力がある。
「書類が散乱してるし、空き缶もある。必要な資料が埋もれたら、業務に支障出るだろ」
ペルシアの目がゆっくり細くなる。
「……ねえ、今、私の机、汚いって言った?」
「汚いとは言ってない。散乱してるって――」
「同じ!」
ペルシアが机を軽く叩く。缶がカラン、と鳴った。
リュウジは一拍置いて、素直に言う。
「……悪い。言い方、きつかった」
「え、そこで謝るの?」
「いや、そういうの、ちゃんとしたほうがいいかなって」
「なんなのその真面目!」
ペルシアが吹き出して笑う。
怒りきれない。笑ってしまう。
そして結局、手を動かし始めた。
「もー! 分かったよ! 掃除するよ! 朝から正論パンチ!」
「正論のつもりはない」
「ある! あなたの存在が正論!」
リュウジは黙って缶を集め、書類の束を種類ごとに寄せ、ケーブルを束ねた。手つきが早い。
命令するのではなく、当たり前みたいに一緒にやる。
その様子を見ながら、エリンは“見るべきところ”を静かに見た。
ペルシアが机を見渡して、感嘆する。
「……え、すご。私の机が机に戻った」
「机は机だ」
「昨日まで机じゃなかったんだよ。机の形をした何か」
エリンが淡々と差し込む。
「それ、自分で言わないの」
「言ってる!」
「言わない」
ペルシアは笑いながら、リュウジの画面を指差す。
「はい! 掃除終わり! じゃ、業務日誌続き! まず出社時間。何時に来たの?」
「六時半」
「早っ! 班長より早いじゃん!」
ペルシアが声を上げかけて、エリンの視線で音量を落とす。
「……いや、ほんと、朝から何してんの。英雄さま」
「やめろって」
「じゃあ古参?」
「もっとやめろ」
「怪物?」
「それもやめろ」
リュウジのツッコミが昨日より速い。
ペルシアは満足そうに笑った。
「はいはい、じゃあ“リュウジ”でいくわ。で、体調欄。睡眠時間は?」
そこへエリンが、リュウジに通常口調で言う。
「リュウジ、ちゃんと正直に書いて。睡眠時間とか、疲労とか」
リュウジはすぐ丁寧に返す。
「はい、エリンさん。昨日は……よく眠れました」
「よかった。じゃあ今日、軽めの訓練枠入れよう。詰め込みはしない」
「了解。……助かる」
リュウジはペルシアに向けて小声で言う。
「お前の机、片付けたし、訓練も逃げない。これでいいだろ」
「なんか上から!」
「上じゃない。現場の合理」
「うわ、班長みたいなこと言い出した!」
そのタイミングで、少し離れたタツヤの島から声が飛んできた。
今度は、のらりくらりした調子だ。
「おーい。ペルシア、リュウジを変な風に染めるなよ〜」
「班長こそ、変な風に折らないでよ〜!」
「折らない折らない。曲げるだけ〜」
「それ折ってるって言うの!」
タツヤの短い笑い声。
朝からそれが聞こえたのは、少し珍しい。
リュウジが小声でペルシアに聞く。
「……いつもこうなのか」
「いつもこう。慣れろ」
「大変だな」
「大変だけど、悪くないよ」
ペルシアがさらっと言った。
「だってあの人、普段はのらくらしてるけど、守るときは守る。そこは本物」
リュウジは軽く頷く。笑い飛ばさない。軽く扱わない。
その反応を見て、エリンは心の中で小さくチェックを入れた。
――少なくともこの男は、場の空気と人の言葉の重さを、雑に踏まない。
ペルシアが画面を指差す。
「ほら、最後。『本日の学習・共有事項』。何書く?」
リュウジは少し考えて、言った。
「……出社は必要な時だけって運用意図。訓練は詰め込みじゃなく継続。あと――」
「あと?」
リュウジが机を見て、さらっと言う。
「机の管理は業務の一部」
「書くなぁぁぁ!」
ペルシアが悲鳴を上げ、エリンが即座に言う。
「書かないでいい」
「分かった分かった」
リュウジが笑い混じりに言う。
ほんの少しだけ、“素”が出た。
朝のフロアは相変わらず白く整っている。
でも、その整い方の中に、確かに人間の温度が混ざっていく。
それが良い兆しかどうかは、まだ決めない。
ただひとつだけ言えるのは――今日のリュウジは、誰かを指示して動かす側じゃない。
同じ机を片付け、同じ画面を覗き込み、同じ一日を始める側にいる。
エリンは、その事実を、静かに胸の奥へしまった。