サヴァイヴ〜ドルトムント財閥〜   作:一塔

2 / 46
エリンとペルシア

 業務が終わった、と言っていいのかどうか。

 ドルトムント本社タワーの中で“終わり”は曖昧で、照明も空調も一定のまま、人の流れだけがゆっくり薄くなっていく。訓練区画の冷えた空気がまだ肌に貼りついているのに、エレベーターを乗り継ぎ、レストランフロアの柔らかな灯りに包まれた途端、身体の奥だけが先に「今日はここまで」と判断した。

 

 ドルトムントが所有するレストランは、企業の福利厚生という名の“囲い”の象徴みたいに整っている。

 窓の外にはリングの曲線が見え、その向こうに点在する居住区の明かりが、宇宙の暗さに負けないように瞬いていた。

 店内は静かで、音は吸われ、会話は低く、笑い声さえ品よく丸められている。

 

「……ここ、相変わらず綺麗すぎる」

 

 席に座るなり、ペルシアがメニューを開いたまま小さく呟いた。

 

「綺麗なのはいいことだよ。落ち着くし」

 

 エリンは淡々と返して、水のグラスを指先で軽く回した。氷が小さく鳴り、音がすぐ消える。

 

「うん、落ち着く。落ち着きすぎて怖い。ね、ほら、私の笑い声すら吸収される」

 

「それはあなたの声が大きいだけ」

 

「ひど!」

 

 ペルシアは笑いながらも、いつもより少しだけ声量を落とした。彼女は空気を読むのが上手い。読むだけじゃない、変えるのも上手い。

 ただ、その“軽さ”は時に刃になる。けれど今日は、刃の向きが内側ではない。ちゃんと外に向いている――エリンはそう感じて少しだけ安心した。

 

 注文を済ませ、料理が来るまでの短い時間。

 ペルシアはフォークをくるくる回しながら、唐突に言った。

 

「で。どう思った? 今日の新人くん。英雄さま」

 

 “英雄”の言い方が、からかっているのにどこか慎重だった。

 エリンはすぐには答えず、窓の外の暗闇を一瞬だけ見て、それから視線を戻した。

 

「実力は認めるよ」

 

「即答じゃん」

 

「操縦そのものはね。ログも綺麗だった。入力は最小、結果は最大。無駄がない。焦りがない。……そういう人、貴重だもの」

 

 ペルシアは身を乗り出す。

 

「でも?」

 

 エリンは、そこで息をひとつ置いた。言い方を間違えると、軽口では済まなくなる。

 今日の話題は、“彼の操縦”の話では終わらない。

 

「でも、私が心配してるのは、そこじゃない」

 

「え、どこ?」

 

 ペルシアが目を瞬かせる。

 エリンはグラスの縁に指を置いたまま、静かに言った。

 

「……私たち。客室乗務員のこと」

 

 ペルシアの表情から笑いが薄くなった。

 完全には消えない。消せない。でも、軽くする方向に逃がさない。

 彼女も“分かっている”からだ。

 

「……あー。そういう話」

 

「うん」

 

 エリンは頷く。

 

「パイロットの中には、客室乗務員を物とか道具として扱う人がいる。極端だけど、あれって結局、『自分の機体の一部』みたいに考えてるんだよね。操縦に都合がいいように動け、って」

 

 ペルシアが小さく鼻で笑った。

 

「いるいる。『俺の指示が絶対』タイプ。『君たちは黙って乗客だけ見てればいい』タイプ。で、トラブル起きたら全部こっちのせいにするタイプ」

 

「そう」

 

 エリンの声は淡々としているが、淡々としているぶん、感情が滲む。

 怒りというより、疲れだ。経験の匂いだ。

 

「私たちの仕事って、乗客の対応だけじゃない。緊急時の誘導、情報の収集、機内の空気の制御、パニックの鎮静。……それって操縦と同じくらい“生死”に直結する。なのに、軽く扱われたら、現場は壊れる」

 

 ペルシアがフォークを置く。

 

「それ、タツヤ班長が一番嫌うやつ」

 

「うん」

 

 エリンは頷いた。タツヤは“現場が壊れる”匂いに敏感だ。だから、パーサーの仕事を軽く見ない。

 でも、彼が守れる範囲には限界がある。全てのフライトに彼が乗るわけじゃない。

 そして――S級案件は、特に危うい。

 

 ペルシアが少しだけ眉を上げる。

 

「リュウジが、そういうパイロットかもって思ってる?」

 

「“かも”じゃなくて……分からないって思ってる」

 

 エリンは言い直す。疑うという言葉は、まだ使いたくない。

 

「今日のリュウジは丁寧だった。敬語も綺麗だった。『パーサーに任せる』って言ったのも、役割を尊重してるように見えた」

 

「見えた、って言い方」

 

「見えた、だよ」

 

 エリンは静かに続ける。

 

「丁寧な人が、本当に丁寧なのか。丁寧なふりが上手いのか。現場では、そこが大きい。特に、立場が強い人ほど」

 

 ペルシアが苦笑した。

 

「立場、強いもんね。S級だし。英雄だし」

 

「……S級は、コロニーでも三人しかいない」

 

 エリンがそれを口にすると、ペルシアは少し背筋を伸ばした。

 軽口の“温度”が落ちる。

 この数字は、冗談で消せない。

 

「古参のアズベルト」

 

 エリンは指を一本折るように名前を出す。

 

「見た目は紳士。言葉も丁寧。だけど――“乗客と機体だけが大事”ってタイプ。私たちを見てるようで見てない。必要な時だけ呼んで、不要になったら空気みたいに扱う」

 

「うわ、分かる。あのタイプ、傷つくんだよね。怒鳴られるより嫌」

 

「そう。怒鳴られたら『間違ってる』って言える。でも無視は、言葉にしにくい」

 

 エリンはもう一本、指を折る。

 

「怪物、ブライアン」

 

 ペルシアが小さく「出た」と呟いた。

 ブライアンの名は、宇宙事業部の中でも“空気が変わる名前”だ。

 

「彼は、最初から“道具扱い”を隠さない。命令が早い。声が低い。『動け』が全部。…緊急時に強いのは事実。でも、緊急じゃない時でも緊急みたいに周りを追い詰める」

 

「乗客の前でも?」

 

「乗客の前では完璧。だから余計に厄介」

 

 エリンの声が少し硬くなる。

 

「ブライアンは“客室”を演出の舞台だと思ってる。私たちは舞台装置。動線も声量も表情も、全部彼の頭の中の『正解』に合わせろって」

 

 ペルシアが舌を出すみたいに眉を寄せた。

 

「うわ。最悪」

 

「最悪。でも、S級だから許される空気がある」

 

 エリンは最後の一本を折るように言った。

 

「そして、英雄――リュウジ」

 

 ペルシアが小さく笑った。

 

「英雄って呼び方、本人は嫌いそう」

 

「うん。嫌いそう」

 

 エリンも、ほんの少しだけ口元を緩めた。

 リュウジは“持ち上げられる”のが好きなタイプじゃない。少なくとも今日見た限りは。

 けれど、それが“本物”かどうかは、まだ確定できない。

 

「リュウジは……どっちの匂いもしない」

 

「それ、良いことじゃないの?」

 

「良いこと。だけど、未知なのよね」

 

 エリンはフォークを手に取り、届いた料理を一口食べた。香草の匂いが鼻を抜ける。

 それでも、心の奥は軽くならない。

 

「S級の人って、周りが勝手に“期待”する。『この人なら大丈夫』って。『この人なら救ってくれる』って。……その期待が、本人を歪める」

 

「期待されすぎると、周りを道具にし始める?」

 

「そう。『自分は失敗できない』って思った瞬間、人は他人を“手段”として扱うようになる。自分を守るために」

 

 ペルシアが黙って頷いた。

 軽い彼女が黙る時は、ちゃんと考えている時だ。

 

「だから私は、リュウジが丁寧でも、まだ安心できない」

 

「猫被ってるかもってこと?」

 

 ペルシアが、さっきの調子を少しだけ戻して笑う。

 

「今日ってまだ入社式だし。良い子の仮面、被っててもおかしくないじゃん。初日から『俺が正しい』ってやるほどバカじゃないでしょ、英雄さま」

 

 エリンは笑いかけて笑わない。

 ペルシアの言い方は軽いけれど、論点は鋭い。

 

「猫被ってる、って言い方は軽いけど……本質はそう。現場になった瞬間に“本性”が出る人はいる」

 

「じゃあ、どうやって見極めるの?」

 

 ペルシアが身を乗り出した。

 

 エリンは迷わず言った。

 

「“私たちを見てるか”」

 

「え?」

 

「操縦の上手さは、今は置いとく。私たち、客室乗務員を“人”として見てるかどうか。それだけで、現場の安全度が変わる」

 

 ペルシアは口を尖らせる。

 

「見るだけでいいの?」

 

「見るだけじゃ足りない。『頼む』が言えるかどうか」

 

 エリンは続ける。

 

「『動け』じゃなくて、『頼む』。『やれ』じゃなくて、『お願いできる?』。それを言えるパイロットは、緊急時に強い。だって人を人として扱ってるから、パーサーが自分の判断で動ける」

 

「うわ……それ、めちゃくちゃ分かる」

 

 ペルシアが小さく息を吐いた。

 

「道具扱いされると、こっちも道具の動きしかできなくなるんだよね。『言われたことだけ』しかやらなくなる。自分で判断するの怖くなる」

 

「そう。現場で一番危ないのは、それ」

 

 エリンは静かに言った。

 

 そのタイミングで、料理がもう一皿運ばれてきた。

 店員の所作は丁寧で、声は小さく、タイミングは完璧。

 “整っている”。それが安心でもあり、管理でもある。

 

 ペルシアは皿を見て、すぐに冗談で空気を戻した。

 

「ねえ、こんなに綺麗に盛られてると、私、食べるの躊躇うんだけど。これもドルトムントの囲い?」

 

「ただの料理」

 

「えー、夢がない」

 

「夢があると危ない」

 

「それ、今日何回目?」

 

「必要なだけ」

 

 エリンがさらっと返すと、ペルシアは笑った。

 笑いは戻る。戻るけれど、話題の芯は外さない。

 

「じゃあさ。今日のリュウジ、“私たちを見てた”と思う?」

 

「……見てた、と思う」

 

 エリンは正直に言った。

 

「少なくとも、目を合わせた。話を聞いた。こちらの反応を待った。『任せる』って言ったのも、信頼の形に見える」

 

「じゃあ良くない?」

 

「良い」

 

 エリンは頷く。

 それでも、そこで止めない。

 

「でも、あれは“シミュレーターの中”だった。現場じゃない。客室のざわめきも、泣く子も、怒鳴る乗客も、吐き気も、匂いも、全部ない」

 

「うわ、現場の匂いってやつ」

 

「そう」

 

 エリンはグラスを置いた。

 

「現場って、情報の質が変わる。ノイズが増える。人間が増える。そこで『客室は黙ってろ』ってタイプに変わるかどうか――そこが怖い」

 

 ペルシアが眉を寄せた。

 

「でも、英雄って呼ばれるくらいだし……」

 

「本当の英雄は、多くの人を救う。」

 

 エリンは認める。

 

「でも“救う”って、時に危険。救う側が正しいって空気ができる。救われた側は反論しにくくなる。……それが積み重なると、救う側は無自覚に他人を道具にする」

 

 ペルシアが黙った。

 それは、彼女が軽口で笑い飛ばせない種類の真実だった。

 

「……じゃあ、私たちがやることは?」

 

 ペルシアが静かに聞く。

 

 エリンは即答する。

 

「距離を測る。先に“線”を引く」

 

「線?」

 

「そう。『ここから先は踏み込まないで』って線」

 

 エリンは少しだけ声を落とした。

 

「パイロットがどれだけ上でも、どれだけ英雄でも、客室乗務員を物扱いするなら、そのフライトは壊れる。だから、そうなりそうなら、早めにタツヤ班長に報告する」

 

「班長、上と揉めるやつだ」

 

「揉めてもらう」

 

 エリンは言い切った。

 優しさじゃない。安全のための合理だ。

 

 ペルシアは口元を歪めて笑った。

 

「うわー、チーフパーサー怖い」

 

「怖くない。必要なこと言ってるだけ」

 

「分かった分かった。じゃあ私は何する?」

 

「あなたは、いつも通りでいて」

 

 エリンは今日も同じことを言った。

 

「あなたの“普通の距離”は武器になる。敬いすぎない。怖がりすぎない。変に持ち上げない。……猫被ってるなら、猫を引っ張り出すのはあなたが上手い」

 

 ペルシアが目を輝かせる。

 

「え、私、猫剥がし担当?」

 

「言い方」

 

「じゃあ、仮面剥がし担当!」

 

「それも言い方」

 

 二人は小さく笑った。

 笑いの後、ペルシアがふいに真面目な顔に戻る。

 

「でもさ……もしリュウジが、本当にちゃんとした人だったら?」

 

 エリンは、少しだけ微笑んだ。

 

「その時は、ちゃんと信じる」

 

「簡単に信じないくせに?」

 

「簡単には信じない。でも、信じるべき時に信じないのも危険」

 

 エリンの言葉は、いつも現場の匂いがする。

 その現場の匂いが、今夜は少しだけ優しかった。

 

「……ねえ、エリン」

 

 ペルシアがフォークを置き、頬杖をつく。

 

「アズベルト、ブライアン、リュウジ。S級が三人しかいないって、やっぱ異常だよね」

 

「異常だよ」

 

 エリンは頷いた。

 

「三人しかいないのに、三人とも“癖が強い”。古参、怪物、英雄。……肩書きだけでドラマができる」

 

「ドラマいらない。平和がいい」

 

「平和は、準備して初めて来る」

 

「またそれ」

 

「必要なだけ」

 

 ペルシアが吹き出した。

 

「ほんと、タツヤ班長化してきた」

 

「似てきたかも」

 

「危険。班長みたいに無茶しても顔色変えないタイプになったら」

 

「私は無茶しない」

 

「無茶する人ほどそう言う」

 

 ペルシアの軽口に、エリンは小さく息を吐いた。

 嫌な息じゃない。どこか安心した息だ。

 こうして雑談の形で吐き出せるのは、悪いことじゃない。

 

 窓の外のリングは相変わらず美しい。

 美しさは、ときどき残酷だ。整っているものほど、壊れた時に怖い。

 

 ペルシアが、最後にもう一度、軽い調子で言った。

 

「まあ、入社式だしね。猫被ってるかも。ね、エリン」

 

 エリンは窓の外の暗闇を一瞬だけ見てから、ペルシアへ視線を戻した。

 

「……猫でもいいよ」

 

「え、急に優しい」

 

「猫でも、虎でも、狼でも」

 

 エリンは静かに言う。

 

「どんな顔でもいい。私たちを“人”として見てくれるなら」

 

 ペルシアの笑みが、ほんの少しだけ真面目なものに変わった。

 

「……うん。人として見てくれるなら、私もちゃんと“人として”動ける」

 

「そう」

 

 エリンは頷く。

 

「それが現場の強さになる」

 

 食事の皿が少しずつ空になっていく。氷が小さくなっていく。

 会話は静かで、目立たない。

 でも目立たない会話ほど、明日の現場を支えることがある。

 

 ――英雄は、誰を救ってきたのか。

 ――そして、これから誰を救うのか。

 ――救う時に、私たちは“人”として隣にいられるのか。

 

 エリンは、まだ答えを持っていない。

 だからこそ、慎重に見極める。

 猫を被っているなら、剥がれる瞬間を見逃さない。

 そしてもし本当に、彼が“英雄”ではなく“同じ現場の人間”としてこちらを見てくれるなら――

 

 その時は、班として。

 静かに、しかし確かに、同じ方向を向けるはずだ。

 

ーーーー

 

翌朝。

 ドルトムント本社タワーの宇宙事業部フロアは、まだ完全には目を覚ましていなかった。照明は規則正しく白く、床は磨かれすぎて足音が少しだけ反響する。夜勤明けのスタッフが引き上げていく流れと、早番のスタッフが入ってくる流れが、廊下の交差点で短くすれ違う――その瞬間だけ、ここが“基地”ではなく“会社”に見えた。

 

 エリンとペルシアが同じタイミングでゲートを通る。

 エリンはいつも通りの落ち着いた歩幅で、ペルシアは朝からエネルギーが余っているみたいに軽い。

 

「ねえ、今日も昨日のレストラン行く?」

「行かない。仕事だもの」

「即答、冷たい」

「あなたが毎日外食したがるだけ」

「だって福利厚生だよ? 使わなきゃ損」

「“損得”で動くと痛い目見るわよ」

「はいはい!」

 

 ペルシアの勢いに、エリンは小さく息を吐いて笑いそうになり、笑わずに戻した。

 このテンポは嫌いじゃない。むしろ助かる。軽口は、重たい現実を一時的に棚に上げてくれる。棚に上げたからといって、忘れるわけじゃない。現場の人間は、忘れないまま軽くする術を身につける。

 

 フロアの奥、班の島が見えてきた瞬間――ペルシアの足が止まった。

 

「……え」

 

 その声の低さに、エリンも視線を上げる。

 

 タツヤのデスクの前に、ひとり立っている男がいた。

 背筋が真っ直ぐで、手の位置が落ち着いていて、立ち方が“待つ”というより“報告をする”姿勢を取っている。

 

 リュウジだった。

 

 しかも、制服の着崩れひとつない。

 昨日の入社式の熱が残っているというより、最初からここで何年も働いているみたいな“馴染み方”をしているのが、妙に違和感を生んでいた。

 

 デスクに座るタツヤは、画面を見ながらも目だけでリュウジを捉えている。

 その顔には、分かりやすい「呆れ」が浮かんでいた。怒ってはいない。だが納得もしていない。ちょうどその中間。

 

「……それで」

 

 タツヤが椅子の背に軽く体重を預け、わざとゆっくり言った。

 

「なんで来たの?」

 

 リュウジはすぐに姿勢を崩さず、きちんと答える。

 

「おはようございます、タツヤ班長。本日もよろしくお願いいたします」

 

「挨拶はいい。質問に答えろ」

 

 タツヤの声は低いが、必要以上に刺す角度はない。

 リュウジは言葉を選ぶ時間を少しだけ取り、それから真面目に返した。

 

「昨日の続きを確認しておくべきことがあるかと思いまして。早めに来れば、邪魔にならないと判断しました」

 

「昨日、言ったよね?」

 

 タツヤが眉を上げる。

 

「ドルトムントの命がある仕事のみ。出社は必要な時だけでいいって」

 

「はい。伺いました」

 

「……伺った上で来たわけだ」

 

 タツヤが頭を抱えそうな顔になる。

 リュウジは少しだけ視線を下げ、それでも口調は崩さない。

 

「“いい”という表現でしたので、強制ではなさそうでした。ですので、早めに動いて問題がないなら、来たほうが良いかと」

 

 言い切ってから、リュウジは自分でも「言い方が固い」と思ったのか、ほんの少しだけ目を泳がせた。

 それを見て、タツヤは苦笑する。

 

「……まぁ、そうなんだけどね」

 

 言葉は折れた。折れたというより、折らされた。

 タツヤは“規則”で殴るタイプじゃない。現場の合理で判断する。だから、理屈が通っている相手には強く出にくい。

 

「でもトレーニングは?」

 

 タツヤがすぐに次の矢を投げる。

 

「今日の予定、訓練枠は取ってある。お前、必要な時だけ出社していい代わりに、必要な時に死ぬほど要求される。そのためのトレーニングだろ」

 

「トレーニングは、空いている時間にでも」

 

 リュウジは淡々と返す。

 

 その瞬間、タツヤの眉間が少しだけ深くなる。

 言葉を間違えると、これは“説教”になる。タツヤはそうなるのを嫌う。けれど、止めるべきところは止める。

 

「……S級パイロットは未探索領域の操縦を行うこともあるんだよ?」

 

 タツヤの声が、少しだけ硬くなる。

 

「そのために日々トレーニングは欠かせない。分かるよな」

 

 リュウジは即答する。

 

「分かっています。ですがトレーニングは、詰め込めばいいという訳にもいかないですし」

 

 その返答は、理屈として正しい。

 トレーニングは量だけではない。回復の管理、集中の質、身体の反応、疲労の蓄積――詰め込みは事故に繋がる。

 そして、その“事故”を一番嫌うのがタツヤだ。

 

 タツヤは息を吐いて、画面から目を離し、リュウジを真正面から見た。

 

「……お前、口が固いな」

 

「申し訳ありません」

 

「謝るところじゃない。……ただ、バランスだ。訓練、出社、休み。全部がセット」

 

 そこで、横から明るい声が割って入った。

 

「おーい! リュウジ! こっちこっち!」

 

 ペルシアが腕を大きく上げて、まるで観光地の待ち合わせみたいに手を振っている。

 エリンは一瞬だけ「やめなさい」と言いかけて飲み込んだ。あれはあれで空気を変える。タツヤの説教モードを断ち切る“強制終了ボタン”として有効だ。

 

 タツヤが、案の定という顔で目だけペルシアを見る。

 

「ペルシア〜……」

 

 呼び方に、疲れが混ざる。

 ペルシアはニコニコしたまま、悪びれずに言った。

 

「まぁいいじゃないですか。本人も『いい』って言ってるし」

 

「本人が“いい”って言ってるのは俺じゃなくて、お前だ」

 

「えー? でも班長、さっき『まぁそうなんだけどね』って言ってたよ?」

 

「揚げ足取るな」

 

「取ってない。拾っただけ」

 

 ペルシアは本気でそう思っている顔をする。

 タツヤは頭を掻きそうになって、掻かずに戻した。大人として耐える。

 

 エリンは二人のやり取りを横目に、リュウジの表情を観察した。

 昨日の“丁寧な新人”の仮面が、今も同じ厚さでそこにある。

 でも、ペルシアの雑な距離感に対して嫌そうな顔をしない。目が逃げない。

 それは、少なくとも“人を道具として扱うタイプ”の反応ではない――そう判断していいのか。エリンはまだ保留にする。

 

 タツヤは、結局折れた。折れるというより、現場の合理に戻った。

 

「はぁ……分かったよ」

 

 ため息は短い。

 そして、釘は刺す。

 

「でもリュウジ。トレーニングや出社、休みは任せる。……任せるからね」

 

 言葉の最後が少しだけ強い。

 “好きにしろ”ではなく、“管理しろ”だ。

 

「分かりました」

 

 リュウジはまっすぐ頷いた。

 その返事の速さが、逆に「分かってない可能性」を匂わせる――タツヤも同じことを感じたのか、口を開きかけてやめた。

 

 ペルシアがまた手を振る。

 

「はい! リュウジ、こっち来て!」

 

「……失礼します、タツヤ班長」

 

 リュウジはきちんと一礼してから、ペルシアの方へ向かった。

 タツヤはその背中を見送り、エリンに視線だけ向ける。

 

「……朝から面倒が増えた」

 エリンはタツヤにだけ丁寧に返す。

「タツヤ班長、お疲れさまです。……でも、面倒の種類としては、悪くないかもしれません」

「お前までそう言うか」

「いえ。管理が必要、という意味で」

「……分かってる。だから余計に頭が痛い」

 

 タツヤは画面に戻った。

 けれど目はほんの少しだけ柔らかくなっていた。

 

「おいでおいで、リュウジ!」

 

「分かった分かった、そんなに手振るな」

 

 リュウジはペルシアにはタメ口になっている。

 それが自然に出ているのが、少し意外で、少し安心でもあった。

 

 ペルシアのデスク――というか作業台は、相変わらず混沌としていた。

 書類の束、メモ、配布物、空き缶、謎のケーブル、どこかの誰かの私物っぽい何か。

 机が机の形をしているだけ、という状態。

 

 ペルシアはその混沌を誇らしげに指差す。

 

「ここに座って」

 

「……どこに?」

 

「座れる場所に!」

 

「座れる場所が、ない」

 

「ある! ほら! この辺!」

 

 ペルシアが資料を片手で払って椅子を空ける。

 紙がふわっと舞った。

 

 リュウジは小さく息を吐き、椅子に腰かける。

 

「はいはい……で、何するんだ」

 

「とりあえず、業務日誌の書き方教えてあげる」

 

「助かる。昨日のフォーム、項目多すぎ」

 

「でしょ? あれ、書けない人は書けないの。だから教える。ペルシア先生に感謝して」

 

「はいはい、感謝してます」

 

 軽い返事の割に、リュウジの目は真面目に画面を追っている。

 そこへ、背後からエリンの声が入る。

 

「リュウジ、ログはちゃんと書いたほうがいいよ。守るために」

 

 リュウジはすぐに姿勢を正すほどではないが、声のトーンだけ丁寧になる。

 

「はい、エリンさん。ちゃんと書きます」

 

 ペルシアがニヤニヤする。

 

「ほら〜。エリンには丁寧」

 

「当たり前だろ」

 

「私には雑〜」

 

「タメ口で言いって言ったろ?」

 

「ひどっ!」

 

 ペルシアが笑いながらキーボードを叩き、説明を始める。

 

「ここ、出社理由の欄ね。あなたの場合、『任意出社』って書いとくと、あとで突っ込まれにくい」

 

「突っ込まれにくい?」

 

「そう。ログ見るの好きな人っているから。特にS級のは」

 

 エリンが即座に言う。

 

「ペルシア、脅かさない」

 

「脅かしてないって。現実」

 

「言い方」

 

 リュウジが苦笑する。

 

「まぁ……でも、助かる。ありがと」

 

「でしょ? 私は役に立つ女」

 

「それは否定しない」

 

「よし!」

 

 ペルシアが満足そうに頷いた、その時。

 リュウジがふと視線を上げた。

 机の上――書類と空き缶が、今にも雪崩れそうに散乱している。

 

 リュウジがぽつりと言う。

 

「……その前に、掃除しないか?」

 

 ペルシアが固まる。

 

「え?」

 

 エリンも一瞬、手を止めた。

 少し離れたタツヤの島から、キーボード音が一拍だけ止まった気がした。

 

 リュウジは真顔で続ける。悪気がない。だから破壊力がある。

 

「書類が散乱してるし、空き缶もある。必要な資料が埋もれたら、業務に支障出るだろ」

 

 ペルシアの目がゆっくり細くなる。

 

「……ねえ、今、私の机、汚いって言った?」

 

「汚いとは言ってない。散乱してるって――」

 

「同じ!」

 

 ペルシアが机を軽く叩く。缶がカラン、と鳴った。

 

 リュウジは一拍置いて、素直に言う。

 

「……悪い。言い方、きつかった」

 

「え、そこで謝るの?」

 

「いや、そういうの、ちゃんとしたほうがいいかなって」

 

「なんなのその真面目!」

 

 ペルシアが吹き出して笑う。

 怒りきれない。笑ってしまう。

 そして結局、手を動かし始めた。

 

「もー! 分かったよ! 掃除するよ! 朝から正論パンチ!」

 

「正論のつもりはない」

 

「ある! あなたの存在が正論!」

 

 リュウジは黙って缶を集め、書類の束を種類ごとに寄せ、ケーブルを束ねた。手つきが早い。

 命令するのではなく、当たり前みたいに一緒にやる。

 その様子を見ながら、エリンは“見るべきところ”を静かに見た。

 

 ペルシアが机を見渡して、感嘆する。

 

「……え、すご。私の机が机に戻った」

 

「机は机だ」

 

「昨日まで机じゃなかったんだよ。机の形をした何か」

 

 エリンが淡々と差し込む。

 

「それ、自分で言わないの」

 

「言ってる!」

 

「言わない」

 

 ペルシアは笑いながら、リュウジの画面を指差す。

 

「はい! 掃除終わり! じゃ、業務日誌続き! まず出社時間。何時に来たの?」

 

「六時半」

 

「早っ! 班長より早いじゃん!」

 

 ペルシアが声を上げかけて、エリンの視線で音量を落とす。

 

「……いや、ほんと、朝から何してんの。英雄さま」

 

「やめろって」

 

「じゃあ古参?」

 

「もっとやめろ」

 

「怪物?」

 

「それもやめろ」

 

 リュウジのツッコミが昨日より速い。

 ペルシアは満足そうに笑った。

 

「はいはい、じゃあ“リュウジ”でいくわ。で、体調欄。睡眠時間は?」

 

 そこへエリンが、リュウジに通常口調で言う。

 

「リュウジ、ちゃんと正直に書いて。睡眠時間とか、疲労とか」

 

 リュウジはすぐ丁寧に返す。

 

「はい、エリンさん。昨日は……よく眠れました」

 

「よかった。じゃあ今日、軽めの訓練枠入れよう。詰め込みはしない」

 

「了解。……助かる」

 

 リュウジはペルシアに向けて小声で言う。

 

「お前の机、片付けたし、訓練も逃げない。これでいいだろ」

 

「なんか上から!」

 

「上じゃない。現場の合理」

 

「うわ、班長みたいなこと言い出した!」

 

 そのタイミングで、少し離れたタツヤの島から声が飛んできた。

 今度は、のらりくらりした調子だ。

 

「おーい。ペルシア、リュウジを変な風に染めるなよ〜」

 

「班長こそ、変な風に折らないでよ〜!」

 

「折らない折らない。曲げるだけ〜」

 

「それ折ってるって言うの!」

 

 タツヤの短い笑い声。

 朝からそれが聞こえたのは、少し珍しい。

 

 リュウジが小声でペルシアに聞く。

 

「……いつもこうなのか」

 

「いつもこう。慣れろ」

 

「大変だな」

 

「大変だけど、悪くないよ」

 

 ペルシアがさらっと言った。

 

「だってあの人、普段はのらくらしてるけど、守るときは守る。そこは本物」

 

 リュウジは軽く頷く。笑い飛ばさない。軽く扱わない。

 その反応を見て、エリンは心の中で小さくチェックを入れた。

 

 ――少なくともこの男は、場の空気と人の言葉の重さを、雑に踏まない。

 

 ペルシアが画面を指差す。

 

「ほら、最後。『本日の学習・共有事項』。何書く?」

 

 リュウジは少し考えて、言った。

 

「……出社は必要な時だけって運用意図。訓練は詰め込みじゃなく継続。あと――」

 

「あと?」

 

 リュウジが机を見て、さらっと言う。

 

「机の管理は業務の一部」

 

「書くなぁぁぁ!」

 

 ペルシアが悲鳴を上げ、エリンが即座に言う。

 

「書かないでいい」

 

「分かった分かった」

 

 リュウジが笑い混じりに言う。

 ほんの少しだけ、“素”が出た。

 

 朝のフロアは相変わらず白く整っている。

 でも、その整い方の中に、確かに人間の温度が混ざっていく。

 

 それが良い兆しかどうかは、まだ決めない。

 ただひとつだけ言えるのは――今日のリュウジは、誰かを指示して動かす側じゃない。

 同じ机を片付け、同じ画面を覗き込み、同じ一日を始める側にいる。

 

 エリンは、その事実を、静かに胸の奥へしまった。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。