その日が近づくにつれ、十四班の空気はゆっくりと重くなっていった。
重いと言っても、誰かが明確に不機嫌だったわけではない。いつも通り、ペルシアは軽口を叩き、ククルは元気に挨拶し、エリンは淡々とスケジュールを整え、タツヤはのらりくらりと受け流す――表面だけ見れば、いつもと変わらない。
けれど、タツヤの机の上に置かれた“その一枚”の依頼書だけは、場違いなほど冷たかった。
ドルトムント財閥・宇宙事業部 特別運航指令。
差出は役員室。
宛名は――十四班班長、タツヤ。
そこに書かれている航路は、正気の沙汰ではなかった。
午前中に冥王星へ。
即時折り返し、ドルトムントと懇意にしている財閥関係者を乗せてケレスのコロニーへ。
その後、冥王星へ戻り、VIP会員を迎えに行き、木星へ帰投。
“移送”という言葉を使うなら、まだ優しい。
これは「宇宙船」を「車」か何かだと勘違いしている連中が書いた予定表だ。
タツヤは、依頼書の下端に指を置いたまま、しばらく動かなかった。
窓の外では、コロニーの夕焼けが淡く広がっている。
その優しい光が、かえって紙面の文字をえぐるように際立たせた。
「……ねぇ、班長」
声をかけたのはペルシアだ。普段なら軽くからかうように言うのに、今日は妙に静かだった。
「その顔。やな予感しかしないんだけど」
タツヤは返事をしない。
代わりに、依頼書を二本の指でつまみ上げ、ひらりと揺らした。
「来たよ」
「来たって……何が」
ペルシアが身を乗り出す。
エリンも視線を上げ、リュウジも手元の端末を止めた。
タツヤは依頼書を机の中央へ滑らせる。
エリンがそれを取って目を通し、瞬時に表情が固まった。
「……タツヤ班長」
エリンの声が一段低くなる。
「これは」
「うん」
タツヤは軽く頷く。
「ドルトムントの命令。“VIP会員の操縦依頼”だってさ」
エリンの瞳が細くなる。
読み進めるほどに、眉間の皺が深くなる。
「……冥王星へ午前中に行って、すぐ折り返しでケレス。その後また冥王星へ戻って……木星へ帰投?」
口に出すだけで、息が荒くなる航路だ。
「冗談でしょう?」
エリンが言い切る。
「航路計画の基礎が出来ていません。休息時間の確保も、機体の整備時間も、乗務員の交代も……何も考えていない。こんなの――」
「うん、無茶」
タツヤはあっさり言った。
あっさり言えるほど、この男は何度も“無茶”を見てきた。
「……許可、出さないですよね?」
エリンの問いは確認だった。
十四班班長として。
そして何より、パイロットとして。
タツヤは、机の端に肘をつき、指先で額を軽く押した。
「出さないよ」
短く、きっぱり。
その言い方だけは、のらりくらりじゃなかった。
ペルシアがふっと息を吐いた。
「だよね。さすがにそれは――」
「俺、役員室に行ってくる」
タツヤは椅子を引き、立ち上がった。
その背中を、十四班の全員が見た。
背広の裾が揺れる。
タツヤの歩幅はいつもより少しだけ大きかった。
⸻
役員室は、同じ建物の最上階にある。
エレベーターの中は静かで、タツヤの呼吸だけがやけに大きく聞こえた。
こういう時、頭の中は冷静に整理される。
「断る理由」は山ほどある。
航路計画。安全管理。労務規定。整備スケジュール。宇宙病リスク。乗務員の負担。
そして何より、“安全”。
だが――この会社の役員室が聞くのは、いつだって一つだけだった。
「利益になるか」
「関係が保てるか」
「顔が立つか」
それだけ。
ドアが開き、役員室に通される。
無駄に広い部屋。無駄に高い天井。無駄に柔らかい絨毯。
座っている男たちの顔も、無駄に整っていた。
タツヤは一礼した。
一礼を返す者はいない。
「十四班班長、タツヤです」
そう名乗り、依頼書を机の上に置いた。
「本件、申し訳ありませんが、受けられません」
言い切った。
そこだけはぶれない。
役員の一人が、鼻で笑った。
「受けられない?」
「はい。航路が無茶です。整備時間も休息時間も確保できません。安全に――」
「安全、安全」
別の役員が手を振った。
「君はいつもそれだな。だから君は操縦をしない。だから君は――」
タツヤの胸の奥が、ひやりとした。
“だから君は”の続きは、嫌な予感しかしない。
役員は続けた。
「君が宇宙船を操縦しないのに、ドルトムントに籍を置けているのは、誰のおかげだと思っている?」
タツヤの拳が、無意識に握られた。
爪が手のひらに食い込む。
役員はニヤついている。
「君は“十四班班長”だ。
だが操縦はしない。
それで給料だけはもらう。
恵まれていると思わないのか?」
タツヤは唇を噛んだ。
怒鳴り返したい。
だが、怒鳴れば終わる。
役員の声が、さらりと続いた。
「……娘さんも、まだ小さいんだろう?」
その言葉が、刃になった。
タツヤの視界が、一瞬だけ赤く染まった。
ユイ。
あの小さな手。
寝息。
笑い声。
「パパ、おかえり」
その全部を“人質”みたいに差し出される感覚。
タツヤは息を吐いた。
吐く息が熱い。
クソ野郎共が。
心の中でそう叫び、顔は微笑んだ。
「……承知しました」
声は平坦だった。
自分でも驚くほど、平坦だった。
「十四班として、対応します」
役員が満足そうに頷いた。
「最初からそう言えばいい」
タツヤは一礼して部屋を出た。
背中に、笑い声が追いかけてきた。
エレベーターの中で、タツヤは壁に額を預けた。
吐息が震える。
拳はまだ握られたままだ。
俺の力不足だ。
頭の中で、それだけが何度も反復された。
守れない。
守ると言っておきながら。
現場を守る。部下を守る。娘を守る。
それなのに、“会社”の名前の前では何もできない。
悔しい。
悔しい、なんて言葉じゃ足りない。
喉の奥が、焼けるみたいだった。
⸻
事務所に戻ると、いつもの空気が一瞬だけ、止まった。
タツヤがドアを開けた瞬間、エリンが立ち上がった。
その反応の速さは、まるで緊急時の指揮官だ。
「タツヤ班長。どうでしたか?」
問いの中に、祈りが混ざっている。
タツヤは、目を合わせられなかった。
「……すまない」
それだけ言った。
たった三文字で、全部伝わってしまった。
エリンの顔色が変わる。
「タツヤ班長!」
声が鋭くなる。
普段は落ち着いているエリンが、こんな音を出すのは珍しい。
「いくらなんでも無茶です!」
「分かっている」
タツヤは言った。
“分かっている”という言葉が、いちばん虚しいことも分かっている。
ペルシアが椅子を蹴るように立ち上がった。
「その日のフライト、どうなってるの?」
エリンは端末を開き、スケジュールを確認する。
指が止まった。
「……リュウジ以外のパイロットは、他の班で駆り出されてる」
声が低い。
「それに、私とカイエは十班の応援に行く予定。十班のチーフパーサーが家の事情で、その日いないから」
ペルシアが目を細めた。
「……なるほどねぇ」
その言い方が、嫌に静かだった。
ペルシアが“静か”になる時は、危険だ。
冗談でも軽口でもなく、頭が高速で回っている合図。
ペルシアは即答した。
「じゃあ、十班の方は私が乗るわ」
「え?」
エリンが目を丸くした。
「ペルシア、それは――」
「だって」
ペルシアが言う。
声が珍しく真面目だ。
いつもみたいに甘えた調子がない。
「リュウジの無茶なフライトで、少しでも負担を減らした方がいいでしょう?」
エリンが反射的に首を振る。
「でも、ペルシア。十班はあなたが……」
「無理」
ペルシアがきっぱり言う。
「十班の応援は私には向かない。相手が誰か分からないし、組織の癖も違う。現場を知らないと余計な摩擦になる」
その分析が的確すぎて、エリンは言葉に詰まった。
「だけど、VIP会員相手なら?」
ペルシアが視線をエリンに向ける。
「エリンの方が向いてる。
VIPの機嫌を取るって意味じゃなくて――“安全を通す”って意味で」
エリンが唇を噛む。
「……」
ペルシアは続ける。
「私の耳は、状況の俯瞰には強い。現場の“糸”を拾える。でも、VIPの相手は違う。
あいつらは、声色で誤魔化す。言葉じゃなくて“権力”で押してくる」
だから、とペルシアは言う。
「VIP相手はエリンがやって。
私は十班に行って、そこを回す。
それが一番、全体の負担が減る」
エリンが反論しようと口を開く。
「でも――」
「でもじゃない」
ペルシアが一歩踏み込む。
「今は決める時。
迷ってる時間が一番危ない。
ね、タツヤ班長もその方がいいでしょ?」
タツヤは拳を握りしめていた。
机の端を握る手が、白い。
悔しさが胸の内側で暴れている。
部下が尻拭いをしてくれる。
自分の力不足を、部下が埋める。
情けない。
ありがたい。
そして――悔しい。
「……すまない」
タツヤは絞るように言った。
ペルシアはすぐに首を振る。
「謝らなくていい」
軽口のペルシアではない。
“副パーサーのペルシア”が、そこにいた。
「この状況を乗り越えましょう」
エリンがゆっくり頷く。
「……そうね」
決まったことは仕方ない。
現場は“決まったもの”をどう安全にするかで動く。
「私達で、頑張りましょう」
エリンの声は、落ち着いている。
けれど、その奥に火があった。
「二人とも……ありがとう」
タツヤが言う。
その言葉は、班長としての言葉であり、父親としての言葉でもあった。
リュウジは、ずっと黙って聞いていた。
ただ、目だけが鋭く動いている。
状況を飲み込む速度が、異様に速い。
「……タツヤ班長」
リュウジが静かに口を開いた。
タツヤが顔を上げる。
「俺は、やります」
“やります”の言い方が淡々としていて、余計に重い。
逃げ道がない。決意だけがある。
「無茶な航路でも、やる。でも」
リュウジが一度言葉を切る。
「安全だけは落とさない」
その一言が、エリンの胸に刺さった。
ペルシアも、わずかに目を細めた。
タツヤは苦笑する。
「……頼もしいねぇ」
のらりくらりの口調に戻そうとする。
でも、目が笑っていない。
ペルシアが、パンと手を叩いた。
「はい、空気重いの終わり!」
いつものペルシアが戻った――わけじゃない。
これは“引っ張るための声”だ。
「今からやること整理するよ」
ペルシアが端末を開き、指を滑らせる。
「まず、VIP便の乗務員配置。
エリンが乗るなら、ククルとエマは必須。現場の空気を柔らかくできる。
カイエは……十班だからいない。代わりに、十四班の中で“静かに回せる”子を一人」
エリンが即座に補足する。
「VIPの対応ができる人が必要ね。VIPは“空間”で機嫌が変わる。席配置も含めて事前に整える」
「そうそう」
ペルシアが頷き、次に指を折る。
「次、リュウジの休息時間の確保。
この航路、冥王星→ケレス→冥王星→木星でしょ?
操縦交代がない以上、リュウジの集中が切れた瞬間が一番危ない」
タツヤが苦い顔をする。
「……俺が交代できれば」
「班長が操縦しないのは、ユイのため」
ペルシアが遮った。
その言葉が、タツヤの胸をえぐる。
エリンがすぐに柔らかく続けた。
「今は責める話じゃありません。どう支えるかを考えましょう」
ペルシアが頷く。
「リュウジの集中が切れないように、操縦室の環境を整える。
飲料、補給食、短時間の呼吸調整、視線の休ませ方。
エリン、あなたの領域でしょ?」
エリンの目が鋭くなる。
「ええ。私がやる」
ペルシアがさらに続ける。
「そして、VIPが乗る便は、客室が荒れる。
“荒れる”っていうのは怒鳴るとかじゃない。
小さな苛立ちが積もって、乗務員の判断を鈍らせる」
リュウジが頷く。
「分かる。そうなると現場が歪む」
「そう」
ペルシアが笑った。
笑っているのに、目は冷たい。
「だから、私は十班で“火種”を消してくる。
十班が崩れたら、宇宙事業部全体が崩れる。
十四班だけ守っても意味がない」
エリンが静かに息を吐いた。
「……ありがとう、ペルシア」
「やめてよ、感動的に言うの」
ペルシアが照れ隠しのように言う。
「私はね、ムカつくのが嫌いなだけ。
現場の人間を踏み台にするやつらが、いちばん嫌い」
その言葉に、タツヤが小さく目を伏せた。
悔やむ。
自分の力不足を。
役員室で、拳を握るだけだった自分を。
この班を守ると言っておきながら、守りきれない自分を。
タツヤは、息を吐き、声を絞る。
「……俺がもっと、強ければ」
その言葉が、床に落ちる。
エリンがタツヤの方を見た。
いつもは厳しい顔をするエリンの目が、今日は少しだけ柔らかい。
「タツヤ班長」
呼び方が丁寧だ。
「強いですよ。
タツヤ班長が“安全を捨てない”から、私達はこの班で働ける」
タツヤが苦笑する。
「でも結局、受けちゃった」
「受けたのは」
エリンの声が静かに鋭くなる。
「タツヤ班長が弱いからじゃない。
“守るものがあるから”です」
その言葉に、タツヤの喉が詰まった。
ペルシアが、机を軽く叩いた。
「はい、しんみり終わり!」
また空気を引っ張る声。
「ここからは作戦会議ね。
決まった無茶を、無茶じゃなくす。
十四班、得意でしょ?」
リュウジが小さく笑った。
「……そうだな」
その笑みは、少しだけ鋭い。
“操縦”の顔だ。
「無茶を、無茶に感じさせない。
揺れを揺れとして感じさせないのと同じだ」
エリンが頷く。
「船内も同じです。
不安を不安として感じさせない。
“状態を整える”」
ペルシアがニヤリとする。
「よし。じゃ、役割決めるよ」
ペルシアは端末を操作し、画面を全員に見せた。
指示が次々飛ぶ。
「エリン、VIP便の全体統括。乗務員の配置と、客室の状態調整。
リュウジ、航路の最適化案を出して。無茶な計画の中で“削れる負担”を削る。
タツヤ班長、役員室への“条件提示”をもう一回。完全な拒否は無理でも、整備時間と最低限の休息時間は取るように。
それが通らないなら――」
ペルシアは笑う。
いつもの軽い笑いじゃない。
「私が“耳”で拾った話を、役員が困る形で整えてあげる」
タツヤが目を細める。
「……ペルシア、それは」
「冗談」
ペルシアが肩をすくめる。
「冗談だけど、必要ならやる。
私、こういうの嫌いだから」
エリンが小さく頷き、リュウジが淡々と答えた。
「やるべきことは分かった」
タツヤは、拳をほどいた。
まだ悔しさは残っている。
けれど、その悔しさに溺れている暇はない。
班長として。
父として。
そして――十四班の“盾”として。
「……分かった」
タツヤが言った。
「俺も、もう一回行ってくる」
「タツヤ班長」
エリンが呼び止める。
「……一人で抱えないでください」
タツヤは一瞬、足を止めた。
振り返らずに、軽く手を挙げる。
「分かってるよ〜」
いつもの口調。
でも、その声の奥に、確かな覚悟があった。
扉が閉まる。
残った三人――エリン、ペルシア、リュウジは、互いの顔を見た。
エリンが静かに言う。
「……リュウジ」
「はい」
「無茶な航路なのは分かってる。だからこそ、私達はあなたを支えるから」
リュウジは短く頷いた。
その目は、揺れない。
「頼みます。俺も落としません」
ペルシアが、ふっと笑う。
「ねぇ、こういうときってさ」
視線だけで二人を見回し、言う。
「“無茶”って言葉、便利よね。
でも――私達、無茶を無茶のまま放置しないじゃない」
エリンがうなずく。
「ええ」
リュウジも言った。
「俺たちがやるのは、無茶を現実にすることじゃない。
無茶を“安全に変える”ことだ」
ペルシアが腕を組む。
「よし。じゃあ準備しよ。
役員室のクソ野郎共に、見せてやろうよ」
軽口の形をした宣戦布告。
十四班は、そうやっていつも――
潰れそうな現場を、踏みとどまらせてきた。
この日もきっとそうなる。
悔しさを抱えたままでも、進む。
守るために、進む。
タツヤの背中が、もう一度役員室へ向かう。
その背中に、十四班の意志が重なっていった。
ーーーー
タツヤが役員室に戻ったのは、その日のうちだった。
さっきまでの“了承”は、敗北に等しい。だが、敗北のまま現場に戻るわけにはいかない。班長として、父親として、そして十四班の盾として――譲れるものと譲れないものの境界線を、もう一度引き直す必要があった。
役員室の扉を開けると、またあの無駄に広い空間と、無駄に整った顔が並んでいる。さっきよりも冷笑が濃い気がした。タツヤは一礼し、依頼書を机に置く。
「先ほどの件、受けると返答しました。ただし条件があります」
役員たちの空気がわずかに動く。「条件」という単語は、彼らの耳に“面倒”として届く。だからこそ、タツヤは最初から“面倒”を一本の線にまとめた。
「最低限の整備時間と、最低限の休息時間。これが確保できないなら、運航は成立しません」
「成立しない?」
役員の一人が眉を上げる。
「成立します。君の班にはS級がいる」
タツヤは、呼吸を整えた。怒りは飲み込む。今は戦い方を間違えたら終わりだ。
「S級でも、人間です。機体も、機械です。整備時間がなければ不具合が起きる。休息がなければ判断が鈍る。判断が鈍れば事故が起きる。事故が起きれば――」
タツヤはそこで言葉を切った。
「VIPが死にます」
役員室の空気が凍った。
“乗客が危険”ではない。“VIPが死ぬ”。
現場の正義ではなく、彼らの恐怖に刺さる言い方。
役員の顔色が少し変わる。別の役員が苛立ち混じりに指を鳴らした。
「脅しか?」
「現実です」
タツヤは淡々と言う。
「自動操縦は万能じゃない。航路の外乱も、重力の癖も、機体の経年も、現場は知っています。
整備時間、休息は操縦交代がない以上、操縦室内での短時間休息。
それと、ケレス到着後の折り返しを“即時”ではなく、最低一時間後にする。これが条件です」
役員たちが顔を見合わせる。
“即時”を削るのは彼らにとって痛い。だが、“事故”はもっと痛い。さらに言えば、もし事故が起きれば責任は現場に押し付けられるとしても、世間は役員を許さない。
沈黙が続いた。
タツヤは、拳を握りしめそうになるのを堪えた。ここで焦ったら負ける。
ユイの顔が浮かぶ。あの小さな手。眠る頬。笑う声。
守るために、ここで折れない。
やがて、役員の一人が唸るように言った。
「……最低限、だぞ。こちらも譲歩したという形は取らない」
「結構です」
タツヤは即答した。
「最低限でいい。それが“ある”か“ない”かが重要です」
役員がため息を吐き、頷く。
「整備時間と休息。提案のうち、半分だけ認める。折り返しの遅延も……最低限だ。これ以上は無理だ」
半分。
最低限。
それでも、“ゼロ”よりは遥かにましだ。
タツヤは頭を下げた。
「ありがとうございます」
礼ではない。形式だ。
そして背中を向け、扉を出た瞬間、喉の奥で何かがほどけた。
悔しさは消えない。
だが、現場の命綱を一本だけ増やせた。
その一本が、誰かを守る。
⸻
操縦室は、いつもより静かだった。
リュウジはすでに待機している。端末の画面には航路データ、燃料計算、重力補正パラメータ、機体の状態ログ。目の動きは速いのに、呼吸は落ち着いている。汗一つない。いつも通りの、淡々とした背中。
扉が開く音がした。
「リュウジ」
柔らかな声。エリンだった。
リュウジは振り返らずに返事をする。
「はい」
その声だけで、エリンの表情が浮かぶ。
“いつもの声”――それがどれほど救いになるかを、エリンはよく知っている。
「大丈夫?」
エリンが操縦席の斜め後ろに立つ。
リュウジは画面から視線を外さないまま、少しだけ口元を緩めた。
「ええ。まだ始まってないですよ」
軽く笑うような言い方。
でも、エリンはそれを“平静の演技”とは思わない。リュウジは本当に、始まるまではいつも通りに整えている。始まった瞬間から、全力になる。
エリンは、胸の奥に息を落とすようにして言った。
「そうだけど……タツヤ班長が、整備時間と休息の時間を確保してくれた。だけど、最低限しかない」
その言葉は、事実の報告であり、同時に“覚悟の共有”でもあった。
エリンは現場を整える人間だ。整えるためには、現実を隠さない。
リュウジは一瞬だけ、画面上の数値を確かめるように目を動かした。
「確かにそうですね」
あっさり認める。
強がりではない。現実を現実として扱えるのが、リュウジの強さだ。
「ですが、自動操縦も使いますので。大丈夫ですよ」
“自動操縦”という単語の出し方が、妙に丁寧だった。
自動操縦を過信しない。でも、否定もしない。
使えるものは使って、負担を削る――それが安全に繋がる。
エリンは小さく眉を寄せる。
「自動操縦は“休める時間”を作れるけど、“休ませてくれる”わけじゃないわよ」
言い方は柔らかい。けれど芯は硬い。
エリンはリュウジを責めているのではなく、守るために釘を刺している。
リュウジは、ようやく視線をエリンに向けた。
真っ直ぐな目だ。どこか、子どもみたいに正直な目。
「分かってます」
短く言う。
その次の言葉は、エリンの予想と少し違った。
「俺よりも……乗務員の方が負担は大きいんじゃないですか?」
エリンが瞬きをした。
リュウジは、自分の無茶な航路をどう捌くかを考えながら、同時に“客室”のことを考えている。
自分が支えられる側だと理解しているのに、支える側の背中を気にしている。
それが、リュウジの“優しさ”だった。
誰にでも挨拶をして、誰にでも手を差し伸べて、でもその優しさを誇らない。
当たり前だと思っている。
エリンは少しだけ肩の力を抜いた。
「貴方に比べたら、大したことはないわよ」
言葉は冗談めいているが、目は真剣だった。
リュウジの負担は、操縦という一点に集約される。
客室の負担は、散らばって、連鎖して、増幅する。
どちらが重いかなんて、単純には比べられない。
リュウジが言う。
「航続距離も長いですから」
“客室が持つか”という意味だ。
つまり、エリンが“整え続ける”時間が長い。
エリンは頷いた。
「それでも、ケレスから冥王星までは乗客はいない。だから、その区間で客室は一度リセットできる」
“リセット”という言葉は、エリンの現場感覚そのものだった。
空気を整え直す。備品を整える。心を整える。
人間は整え直せる。
だから、折れない。
エリンは一歩、リュウジに近づいた。操縦席の背に手を添えるでもなく、ただ“隣に立つ距離”になる。
「だから、リュウジ」
呼び方が少しだけ柔らかい。
いつもは“リュウジさん”と言いそうなところを、今は名前で呼んだ。
「貴方を全力で支えるから」
短い言葉。
でもその言葉には、チーフパーサーとしての指揮と、ひとりの人間としての覚悟が入っていた。
エリンは、“守る側”であり続けると決めている。
現場を守る。乗客を守る。部下を守る。
そして今は――操縦室の背中も守る。
リュウジは、ほんの少しだけ目を細めた。
「……ありがとうございます」
笑みが浮かぶ。
それは“安堵”ではなく、“信頼”の笑みだった。
エリンは、そこで満足しない。
支えると言ったのなら、支えるための確認をする。
「リュウジ、休息のタイミングは?」
「航路の外乱が少ない区間を選びます。機体の癖も見ます。自動操縦に入れるのは……その区間だけ」
「入れるときは必ず言って。飲み物と補給食、こちらで合わせる」
「はい」
淡々と頷くリュウジ。
“分かった”を曖昧にしないのが、この男の良いところだとエリンは思う。
そして、リュウジは少しだけ口元を緩めたまま、さらりと返した。
「エリンさんは……無理しないでください」
エリンが小さく息を止めた。
リュウジが“自分の心配”をさせないように、あえて軽い口調で言っているのが分かる。
心配をかけたくないから、相手を心配する。
それが、リュウジの癖だ。
「私?」
エリンは笑った。柔らかく、でも誤魔化さない笑い。
「私は大丈夫よ。こういうときに動くのが仕事だもの」
リュウジは首を横に振った。
“仕事だから”で片付けるのを許さない目だ。
「仕事でも、人です」
たった一言。
それが、エリンの胸にじんわりと沁みた。
エリンは、視線を少しだけ落とし、すぐに上げる。
「……ありがとう」
言うだけで終わらせず、エリンは続けた。
「だからこそ、私も言うわ。リュウジも“人”よ。
無理して平気な顔をするのは得意でしょうけど――」
「……」
「私の前では、少しぐらい弱音を吐いていい」
その言葉は、命令ではなく許可だった。
チーフパーサーとしてではなく、“支える人間”としての許可。
リュウジは、少しだけ視線を逸らし、また戻した。
「弱音……」
小さく呟いて、苦笑する。
「吐いたら、エリンさんが余計に動きそうです」
エリンは、思わず笑ってしまった。
「それは、否定できないわね」
ふたりの間に、短い温度が生まれる。
張り詰めた操縦室の空気の中で、その温度は小さな灯りみたいだった。
リュウジが、真剣な目に戻る。
「乗客は、頼みます」
その言い方が、まるで“戦場の引き継ぎ”みたいで、エリンの背筋が伸びた。
エリンは頷く。
深く、迷いなく。
「任せて」
そして、ほんの少しだけ、笑って付け足す。
「あなたは操縦に集中して。
船内の“状態”は、私が整える」
リュウジの目がわずかに柔らかくなる。
その瞬間、エリンは確信した。
この男は、きっと大丈夫だ。
でも、大丈夫でいさせるのは、こちらの役目だ。
エリンは踵を返し、操縦室の扉へ向かった。
出る直前、振り返らずに言う。
「リュウジ。もし、少しでも頭が熱くなったら」
「はい」
「“大丈夫”って言わないで。言い換えて。
“今、休息が必要”って」
リュウジは、少し間を置いて――短く答えた。
「……分かりました」
扉が閉まる。
操縦室に残ったリュウジは、もう一度画面を見つめた。
数字と航路と、機体の癖。
そして、その数字の向こうにいる“人”たち。
エリンが言った「整える」という言葉が、胸の奥に残っている。
自分は操縦で整える。
エリンは船内で整える。
心配をかけないように。
でも、心配をし合えるように。
リュウジは小さく息を吐き、ヘッドセットを調整した。
始まる。
無茶な航路が。
最低限の休息と整備しかない現場が。
それでも――
「……落とさない」
誰にも聞こえない声で、リュウジは呟いた。
その背中は、すでに戦いの姿勢だった。