ペルシアとカイエがキャリーケースを転がしながら、十班のブリーフィングルームへ向かう。
通路の床は艶のある白で、天井のライン照明がすいっと伸びている。ガラス越しに見えるコロニー外壁の向こうは、深い宙。人工重力が当たり前みたいに効いているこの場所でも、窓の先だけは「落ちたら終わり」の黒が口を開けていた。
「今頃、リュウジ達は宙の上かぁ」
ペルシアが軽い口調で言いながら、バッグの持ち手をくるりと回す。
「大丈夫ですかね……」
カイエが眉を寄せる。言葉は小さいのに、胸の奥にある不安が声に混ざるタイプの人間だ。ペルシアの耳には、それがよく分かる。――“大丈夫ですかね”の最後の母音が、ほんの少しだけ沈んでいる。
「大丈夫でしょ。エリンがいるし」
ペルシアはあっさり言った。
「ペルシアさん、そればっかりですね」
「だってエリンは凄いじゃない」
「それはそうですが……」
「エリンが本気出せば、なんの心配もいらないわ」
ペルシアの言い切りは、カイエの胸の中にある不安を、軽く押し下げる“手つき”をしている。根拠があるわけじゃない。でも、ペルシアは根拠の代わりに“エリンという現実”を持っている。
エリンは、船内の“状態”を整える。整えていることが見えないほど自然に、でも確実に。乗客の空気、乗務員の動き、備品の位置、声の調子、緊張の浮き沈み――それを全部、静かに均す。
だから、ペルシアは言うのだ。エリンがいるなら大丈夫。
「……それよりもよ」
ペルシアが吐息を落とした。
カイエが同じタイミングで、つられるように息を吐く。
「よりによっても十班なんて……」
カイエの声が、ほんの少しだけ固くなる。頭の中に、以前の出来事がよぎったのだろう。――十班のチーフパーサーに、ペルシアが噛みついたあの日。
ペルシアは、あのときの自分を思い出して、舌先で唇の裏を軽く触った。悪いとは思っていない。言われた側が“痛かった”のは事実だろうけど、言わなければククルが潰れていた。十四班の仲間を守るのは、彼女にとって当たり前だった。
「でもチーフパーサーはいないですから、今日はペルシアさんがチーフです」
カイエが言うと、ペルシアは肩をすくめる。
「代理だけどね」
「それでも、現場の指揮はペルシアさんです」
「……今日は優しいね、カイエ」
ペルシアがニヤニヤしながら言うと、カイエは目を逸らして、少し照れた。
「本音です」
「ふーん」
ペルシアは笑いながらも、耳で拾う。カイエの“本音です”は、声の揺れが少ない。迷いがない。――言葉が本当に本音のときの、まっすぐな音。
そんなやり取りをしているうちに、ブリーフィングルームの前へ着いた。
扉のプレートには「10th Cabin Crew Briefing」と書かれている。
ペルシアが、ドアノブに手をかける前に一度だけ深呼吸をした。
(……よし。まずは、様子見)
そして扉を開ける。
中には十班の乗務員たちがいた。
――いた、のだけれど。
ペルシアは一瞬、目を瞬いた。
空気が、軽い。
軽いというより、浮いている。ブリーフィングルーム特有の、ほんの少し張りつめた糸みたいなものがない。椅子は適当に引かれ、テーブルの上には端末が置かれっぱなし。制服の襟がきちんと整っていない者もいる。誰かが笑っていて、別の誰かが菓子袋を開ける音がした。
声が重ならない。緊張も重ならない。――そして、意識も重なっていない。
カイエも、足を止める。
ペルシアは、耳で拾う。
・「今日って短い便だっけ?」
・「まあ定期便なら平気っしょ」
・「チーフいないって気楽〜」
・「やべ、昨日寝てない」
・「乗客の数、そこまで多くないよね?」
その中に、油断という名の音が混ざっている。ほんの薄い膜みたいに、部屋全体を覆っている。
ペルシアは笑顔を作ったまま、目だけで全体を見渡した。
自分が入ってきたのに、起立しない。挨拶が遅れる。視線がバラバラ。
……なるほど。
これが十班の“通常”なのだ。
「おはよー」
ペルシアは、まず明るく言った。声を強くしない。ここで強くすると、反発が起きる。反発が起きると、その反発の音が“対立”として船内に持ち込まれる。そうなると後で面倒だ。
十班の乗務員たちが、遅れて「おはようございます」と返す。
カイエは一礼する。丁寧な所作が、逆にこの部屋で浮いた。
ペルシアは、すぐ隣の席に座っていた若い乗務員に、さらりと聞いた。
「ねえ、ブリーフィングっていつもこうなの?」
乗務員は悪びれもせずに、肩をすくめた。
「定期便の時は、ほとんどやりませんよ。だって、いつも同じですし」
ペルシアは、頭を抱えたくなった。
いや、実際、片手で額を押さえた。
「……はぁ。そう」
カイエが小声で、「大丈夫ですか」と耳打ちする。
「大丈夫じゃない」
ペルシアが即答した。
その即答の速さに、周りの乗務員が少しだけ姿勢を正す。“大丈夫じゃない”の声には、冗談の余地がなかったからだ。
ペルシアは立った。
立って、笑った。――笑顔のまま、声を落とす。
「じゃあ、今日から変えるね」
部屋が、静かになる。
ペルシアは続けた。
「今日、チーフがいない。だから代理で私が指揮を取る。……代理だけど、指示は本番。いい?」
返事が遅れる。
ペルシアは、その“間”を逃さない。返事が遅れるのは、軽く見ているか、理解していないか、どっちかだ。
「返事」
笑顔のまま、短く言うと――
「はい」
「はい!」
「はい、すみません」
ばらつきながら返る。
ペルシアは頷いた。
「よし。まず確認ね。今日の便、定期便だからって舐めてる人、手を挙げて」
ざわり、と空気が揺れる。誰も挙げない。
「賢いじゃん」
ペルシアは褒めるように言って、次の言葉を落とした。
「じゃあ、舐めてない証拠見せて。――“定期便”が一番事故が起きる理由、言ってみて」
誰も答えない。
カイエが一歩前に出ようとしたが、ペルシアが目線で制した。今はカイエが出ると、十班の面子が潰れる。潰れた面子は反発に変わる。
ペルシアは、部屋の“沈黙の質”を聞き分けた。分からない沈黙だ。考えている沈黙じゃない。
「答えはね」
ペルシアは淡々と言う。
「慣れるから。油断するから。確認を飛ばすから。声掛けを省略するから。勝手に『大丈夫』だと思うから。――“定期便”って言葉は、安全の保証じゃない。安全の敵になりやすいラベルなの」
誰かが喉を鳴らした。
ペルシアは続ける。
「十四班が特別便しかやらないのは、偉いからじゃない。現場の条件が違うから。
でもね、条件が違っても、私たちの仕事は同じ。
お客様の命を守る。――それだけ」
カイエが小さく頷いた。
ペルシアは、端末を開く。
「よし。今日のブリーフィング、やるよ。『ほとんどやらない』は今日で終わり。短く、でも必要なことだけ。全員、端末開いて」
乗務員たちが慌てて端末を操作する。何人かは、パスコードに手間取っている。ペルシアは、そこも耳で拾う。慣れていない。つまり、普段ブリーフィングで端末を開いていない証拠。
(……ほんと、すごいな。逆に)
ペルシアは内心で毒づきながら、外では笑顔のまま進める。
「航路、所要、搭乗人数、座席配置。医療対応者は誰?AED位置、酸素マスク位置。
それから今日、家族連れが多い。子どもの動線、トイレの混雑、迷子リスク。ここは事前に潰す」
十班の誰かが「そこまで必要ですか」と言いかける。
ペルシアはその声の“トーン”を聞いた。反発ではない。単純な疑問。――なら、潰せる。
「必要。子どもが走って転んだら、親が怒る。親が怒ると周りがざわつく。ざわつくと、別のお客様が不安になる。不安は連鎖する。連鎖すると、声が大きくなる。声が大きくなると、クレームになる。クレームになると、現場が削られる。削られると、事故が起きる」
ペルシアは一息で言った。
「だから最初に潰す。現場はね、未来の火種を消す仕事なの。火が出てから走るのは遅い」
十班の乗務員たちの目が、少しだけ変わった。
“言い方は軽いのに、内容が重い”。それがペルシアの怖さだ。
カイエが、ペルシアの隣に立ち、補足するように言う。
「ペルシアさんの言う通りです。今日の便も、通常運航でも、揺れや酔い、急病、迷子、荷物の紛失、そういう小さな事が重なると一気に大きな事になります。最初に線を引きましょう」
カイエの声は柔らかい。けれど芯がある。
その声が、十班の乗務員の背中を少し押した。
ペルシアは頷き、さらに続けた。
「次。役割分担。
前方担当、中央担当、後方担当。ギャレー責任者。キッズ対応のサブ。医療連携係。
『誰でもいい』は禁止。誰でもいいって言う時点で、誰も責任取らないから」
ざわり、とした空気がようやく“仕事のざわめき”に変わる。端末を叩く音が増える。椅子の軋みが揃う。視線が、ペルシアに集まり始めた。
(やっと、船内の空気になってきた)
ペルシアは耳を澄ませる。
今のざわめきには、焦りが混ざっている。焦りは悪くない。焦りは“自覚”だからだ。問題は焦りを放置してパニックにすること。
ペルシアは、わざと口調を少し軽くした。
「大丈夫。今から整えればいい。誰も最初から完璧じゃないし。――エリンだって、最初は私の後ろで転びそうになってたんだから」
「え、エリンさんが?」
誰かが驚く。
「そうよ。信じらんないでしょ。でもね、転びそうになったからこそ、転ばないように“仕組み”を作る。エリンはそれが上手い」
ペルシアは、エリンの名前を出すときだけ、声の柔らかさが少し増える。
カイエはそれに気づいて、心の中で小さく笑った。
そしてペルシアは、最後に釘を刺す。
「今日、私がここにいる理由はひとつ。
“現場を守るため”。十四班が宙の上で無茶してるから、こっちはこっちで崩せない。
だから十班も、今日だけは十四班だと思って動いて。いい?」
十班の乗務員たちが、今度はしっかり返事をした。
「はい!」
ペルシアは頷く。
その返事の音に、揺れが少ない。さっきよりずっと、揃っている。
だが――ペルシアは安心しない。
耳が拾う。
返事の中に、まだ薄い“面倒くささ”の糸が混じっている。完全には消えない。それは人間だ。だから、仕組みで支える。
「よし。じゃあミニ訓練」
ペルシアが言うと、十班の空気が固まった。
「え、今ですか?」
「今。出発前の三分が、一番安い」
ペルシアは笑顔で言い切る。
「想定。子どもが走って転倒。親がパニック。周りがざわつく。誰が最初に声を掛ける?誰が他のお客様を落ち着かせる?誰が医療確認?誰が報告?誰が通路確保?」
質問を、矢継ぎ早に投げる。
十班の乗務員が口を開きかけるが、言葉が詰まる。
ペルシアは、その“詰まり”を責めない。詰まりは、今まで考えたことがない証拠。なら、今作る。
「いい。じゃあ決める。
最初の声掛けは前方担当。通路確保は中央。医療確認は医療係。報告はカイエが受ける。私は全体の音を拾って、指示を飛ばす」
カイエが一瞬驚いた顔をする。だがすぐ頷いた。
ペルシアは彼女の能力を理解している。カイエは感情の波が少ない。報告の受け口に向いている。
「カイエ、声の温度は低めでいい。パニックは熱が伝染するから」
「分かりました」
「よし。次。急病。呼吸苦。高齢者。座席は中央。誰が酸素?誰が家族対応?誰が他のお客様の視線を切る?」
十班の乗務員たちが、ようやく“考える顔”になっていく。
ペルシアはその変化を聞き取る。声が少しだけ低くなる。呼吸が揃い始める。雑談の音が消える。
これだ。
ようやく、ブリーフィングルームが“宙を守る場所”になった。
ペルシアは、最後に全員の顔を見渡して言った。
「ねえ。私、怒ってるわけじゃないの。
ただ、守りたいだけ。――あなた達も、守りたいでしょ?」
十班の乗務員の一人が、小さく頷いた。
「……守りたいです」
その声は、嘘じゃない。
ペルシアは耳で分かる。迷いの音が消えている。
「よし」
ペルシアは軽く笑った。
「じゃあ、今日だけは私がチーフで、あなた達は十四班みたいに動く。
終わったら……まあ、ドーナツ奢ってあげてもいい」
「えっ」
空気がふっと緩む。
緊張の糸が切れない程度に、呼吸ができる程度に。
ペルシアは、その緩み方を選ぶのが上手い。
エリンとは違うやり方で、同じ目的を達成する。
カイエが、ペルシアの横顔を見て思う。
(やっぱり、ペルシアさんも凄い)
エリンが“状態を整える役”なら、ペルシアは“音から崩れを拾って、先に塞ぐ役”だ。
目に見えないひび割れを、誰より先に聞きつけて、手を当てる。
ペルシアが端末を閉じる。
「じゃあ行くよ。搭乗開始まで、あと十五分。
全員、持ち場確認。声掛けの言葉、頭に入れて。
――今日、誰も泣かせない。誰も怪我させない。誰も不安にさせない。分かった?」
「はい!」
返事が揃った。
ペルシアはその音を聞いて、ようやく胸の奥の苛立ちが少し薄くなるのを感じた。
そして、心のどこかで、宙の上にいる十四班に向けて小さく毒づく。
(……そっちが無茶してるんだから、こっちは無茶できないのよ)
でも同時に、思う。
(エリンがいる。リュウジがいる。タツヤ班長が、必死に時間を作った。
だから……大丈夫。大丈夫なように、私がここを整える)
ペルシアはキャリーケースの取っ手を握り直し、扉を開けた。
軽かった十班の空気が、今はちゃんと重い。
責任の重さ。守る重さ。宙に対する重さ。
その重さを、ペルシアは嫌いじゃなかった。
ーーーー
乗務員の空気が変わったからといって、現場で即、魔法みたいに動けるわけじゃない。
日々の訓練の積み重ねがあって、ようやく“手”が勝手に動く。頭で考える前に身体が先に反応する。それが、宙の上で人を守る仕事の最低条件だ。
――だからペルシアは分かっていた。
あのブリーフィングルームで、十班の空気を“重く”した。責任の重さを感じさせた。やる気の火もつけた。けれど、現場は別物だ。現場は、容赦なく本性を剥がす。
出発は無事だった。
搭乗も、離陸も、形式としては問題ない。
しかし、宇宙船の中は――想像よりも酷かった。
コロニーの外へ抜ける瞬間、機体が軽く震え、客室の照明が一瞬だけ揺らぐ。その“わずか”な揺れに、何人もの乗客が過剰に反応した。手すりに掴まる。息を止める。小さな悲鳴が漏れる。それをなだめるべき乗務員が、別のところで手一杯になっている。
ペルシアが担当しているブロック――中央寄りのエリアでさえ、酷い。
ドリンクカートが止まるべき場所に止まれていない。通路の中央で立ち往生している。
席を立つ客を誘導できず、人がぶつかり、イライラの音が増える。
子どもが走る。親が叱る。叱り声がさらに周囲の不安を煽る。
“よくある光景”なのに、誰も整理できていない。
(……これ、他のブロックも同じね)
耳が拾う。遠くの方から、同じ種類のざわめきが幾つも重なっている。大声、泣き声、怒り声。
「すみません!」が連続しているのは、対応が追いついていない証拠だ。
ペルシアは、無線機を口元に寄せた。
「カイエ、そっちは大丈夫?」
返事はすぐ返ってきた。
『こっちは大丈夫です!』
――早い。早いが、声が強張っている。
いつもより高く、息が短い。語尾に余計な力が入っている。“大丈夫”の言い方が、真逆の意味を持つときの音だ。
(手一杯ね)
ペルシアはそれだけで理解した。理解して、次の手を考える。
誰が悪い、と言っている余裕はない。現場では、悪いのはいつだって“準備不足”だ。準備不足は、責めても解決しない。埋めるしかない。
ペルシアは自分のブロックを一度、ぐるりと見渡す。
視線だけで足りない分は、耳で補う。テーブルを叩く音。荷物の落ちる音。呼吸の荒さ。小さなすすり泣き。笑い声の種類。怒声の方向。
優先順位を即座に切り替える。
(まずは危険の芽。次に不安の火。最後にサービス)
通路の端で、背もたれにしがみつくように座っている若い女性がいた。顔色が白い。指先が震えている。
隣の男性が「大丈夫?」と声を掛けているが、余計に怖がらせている。言葉が増えるほど、頭の中の恐怖が膨らむタイプの人だ。
ペルシアは、そこへすっと近づいた。
「こんにちは。大丈夫、落ち着いて。揺れは“危ない揺れ”じゃないわ」
声を低く、柔らかく。短く。言葉の数を減らす。
「……でも、怖い……」
女性の声がかすれる。
「うん、怖いよね。でもね、怖いって言えてるなら大丈夫。呼吸、一緒に。吸って、吐いて」
ペルシアは、指でゆっくりリズムを刻む。
その横で、十班の乗務員が慌てて「酔い止めを」と言いかけた。
ペルシアは振り向かずに言った。
「今は薬じゃない。毛布持ってきて。あと、水。小さいコップで」
「は、はい!」
焦り声が返る。
焦り声は気にしない。焦りは正常だ。ただ、焦りに飲まれるな。
ペルシアは女性の目線を、窓の外へ誘導した。怖いとき、人は内側へ落ちる。だから外へ引っ張る。
「ほら、あそこ。光が一筋、見えるでしょ。あれ見て。名前つけていいよ。自分だけの目印」
女性は震えながらも窓へ目を向け、少しだけ呼吸が戻った。
次。
今度は、楽しそうに大声で騒ぐ集団。酒が入っている。笑い声が大きく、椅子を蹴る音が混じっている。
周囲の乗客が嫌な顔をしている。嫌悪は、不安と同じくらい空気を悪くする。
十班の乗務員が「静かにしてください」と言うが、言い方が硬い。硬い言い方は、相手の反発を生む。
ペルシアはそこへ歩き、笑顔で割って入った。
「わあ、楽しそう。いいね。――でもね、ここは“船の中”なの。声のボリューム、半分にしてくれる?そしたら私、乾き物、サービスする」
「え、マジ?」
男が酔った目で笑う。
「マジ。だって、私、気分良く帰ってほしいもん。ね、約束」
約束、という言葉は効く。酔っている人間は“ゲーム”が好きだ。ルールを与えると従う。
集団の声が少し落ちた。
ペルシアは振り返らず、後ろにいる乗務員へ小声で言った。
「今のうちに、周りの席に“ご迷惑おかけしました”の一言。声は低く。短く。よろしく」
「……はい」
乗務員の声が震える。
でも、震えてもいい。やるべきことをやれば、次から震えなくなる。
次。
走り回る子ども。
十四班なら、ククルが飛び込む。カイエが動線を切る。エマが親へ声を掛ける。エリンなら“走らなくても済む環境”に整える。
だが今、十班は誰も動けない。動けないというより、動く習慣がない。走っている子どもを見て、誰かが“誰かが止めるだろう”と心の中で思っている。
(止めるわよ。私が)
ペルシアは子どもの目線にしゃがみ込む。
追いかけない。追いかけるとゲームになる。子どもは追いかけられると速くなる。
「ねえ、あなた。ここ、鬼ごっこ禁止ゾーン」
「えー!」
子どもが口を尖らせる。
「じゃあ、代わりに“秘密の任務”あげる。今から私の助手。あそこに座ってるおばあちゃんに、これ届けて。『大丈夫ですか?』って言うの。できる?」
子どもの目が輝く。
“役割”を与えれば、走る理由が変わる。走りたい衝動は消えない。なら、向け先を変える。
「できる!」
子どもが小走りで向かう。
ペルシアは立ち上がり、親を探す。
親は、疲れた顔で荷物を抱えていた。目が合う。
「すみません。お子さん、元気だったもので、今、任務出しました。危ないから、次は席の周りで遊べるやつにしましょう」
責めない。お願いでもない。提案。
親は肩の力を抜いて、頷いた。
「……ありがとうございます」
その声は、泣きそうだった。
ペルシアは一瞬だけ、胸の奥がきゅっとなる。
こういう親が、一番危ない。疲れ切っている人は、ちょっとしたことで崩れる。崩れると、子どもも崩れる。
(守る。ここも守る)
ペルシアは無線を取る。
「全員、聞こえる?今から指示出す」
返事はまばらだが、構わない。指示は“聞こえた人”から動かす。
「前方ブロック、通路、カート止めて。動線確保。中央ブロック、子ども走り対策、席周りでできる遊び用意。後方ブロック、酔い止めと毛布、先に配れるだけ配って。迷ってる暇ない。優先は“安全”」
十班の乗務員が、ぱっと動く者と、戸惑う者に分かれた。
戸惑いは予想通り。訓練がない人間の“戸惑い”は、反射神経じゃなく、経験値の不足だ。
ペルシアは、戸惑っている者へ直接行く。
「あなた、名前」
「え、えっと……」
「名前はいいわ。ここ、持って。ここから先、通路、絶対空ける。分かった?」
「は、はい!」
「よし。次。あなた、ドリンクのリザーブ遅れてる。だけど今はドリンクより毛布。分かる?」
「……はい、分かります」
「分かるなら動ける。行って」
命令口調ではない。決める口調。
現場では“決める声”が必要だ。迷いが混ざると迷いが伝染する。
ペルシアは、耳で拾う。
・「どうしよう」
・「私だけじゃ無理」
・「誰か助けて」
・「これ、いつもこうなの?」
その声が、部屋ではなく客室で出ている。危険だ。
乗務員が“怖い”と感じ始めたら、乗客はもっと怖い。
「カイエ」
ペルシアは無線に口を寄せた。
「そっち、嘘つかないで。大丈夫じゃないでしょ」
一拍。
『……はい。正直、きついです』
カイエが小さく言った。
その正直さが、ペルシアの中の苛立ちを少し溶かす。
「よし。じゃあ、今から“二分だけ”作る。後方の一人を中央へ回す。あなたは一回、深呼吸して水飲んで。倒れたら終わり」
『……分かりました』
カイエの声が少し落ち着いた。
“許可”があると、人は呼吸できる。休めと言われても休めない人間に必要なのは、休んでいいという許可だ。
ペルシアは、十班の乗務員の一人を捕まえる。
「あなた、後方担当でしょ。二分だけ中央。カイエの補助。お客様の声掛け、短く、優しく。『大丈夫ですか』『お手伝いします』これだけ」
「はい……!」
動いた。
動き始めたら、次が生まれる。
ペルシアは自分のブロックへ戻りながら、手を止めない。
毛布を渡す。酔い止めの説明を短くする。水を小さなコップで配る。
大声の集団を再度見て、音量が上がっていたら目だけで“下げろ”と合図する。
子どもには“任務”を増やす。紙とペンを渡して“乗務員のお手伝い日記”を書かせる。親には“助かった”と言って自己効力感を作る。
――そうやって船内の“状態”を整える。
ペルシアはふと、息を吐いた。
(エリンは、いつもこれを一人でやってるんだよな)
エリンがここにいれば、もっと静かに、もっと滑らかに整っていく。
でも今は、いない。
だから自分がやる。
焦りがない乗務員の表情を見て、ペルシアは理解した。
(これが通常運転……だから、改善されないのよ)
“慣れ”は恐ろしい。
慣れは、限界を限界と思わせなくする。
限界を限界と思わなければ、訓練しようという意識が生まれない。
ペルシアは、歯を噛みしめる。
それでも、今は説教している場合じゃない。
この便を、無事に終わらせる。それが先だ。
遠くのブロックから、赤ん坊の泣き声が聞こえる。
泣き声の質が変わった。空腹の泣き声ではない。驚きと不安の泣き声だ。
ペルシアは無線を入れる。
「前方ブロック、赤ちゃん泣いてる。母親、声が震えてる。誰か行って。『大丈夫』じゃなくて『一緒にやりましょう』って言ってあげて」
返事が遅れる。
ペルシアは一瞬、目を細めた。遅れは致命傷になる。
だが次の瞬間、『行きます!』と声が返った。
十班の若い乗務員の声だ。震えているが、行くと決めた声。
「よし。ありがとう」
ありがとう、を言う。
現場で一番効く燃料は、評価だ。
評価は、やる気を起こす。やる気は、行動を起こす。行動が積み重なると、訓練になる。
ペルシアは、自分の腕時計を見る。
まだ、序盤だ。まだ、航路は長い。
そして、宙の上では今頃、リュウジが無茶な航路を操縦している。エリンが乗客を守っている。
彼らも、同じように戦っている。
(だったら、私も戦うしかない)
ペルシアは無線を握り直した。
「全員、聞いて。これ、今日だけの“事故未遂”だと思わないで。今日のこの感じ、次に持ち越したら本当に事故になる。
だから今のうちに整える。――私が整える。ついてきて」
声は軽い。
だが、その奥には重さがある。
十班の乗務員たちが、少しずつ動き方を変え始めた。
通路が空き始める。声掛けが増える。お客様の表情がほんの少し緩む。泣き声が減る。怒声が減る。
完全じゃない。まだぎこちない。
でも、ゼロよりは確実に前へ進んだ。
ペルシアは、誰にも見えないところで小さく拳を握った。
(……よし。いける。いけるよ。エリンとリュウジが頑張ってるんだから、私も頑張らないと)
ため息は飲み込んだ。
代わりに、笑ってみせた。
宙の上で人を守る仕事は、格好いいだけじゃない。
地味で、泥臭くて、頭が痛くなるほど面倒だ。
――それでも、守る。
ペルシアは次の呼び出し音を聞き取り、無線に口を寄せた。
「はい、ペルシア。どうした?」
ーーーー
一方――リュウジとエリンが乗る船は、冥王星へ向けて滑るように宙を進んでいた。
窓の外は、青い闇。星々の光が散り、航路標識の微かな点滅が遠くで呼吸している。
機体は揺れない。エンジンの低い唸りも、一定の鼓動に整えられている。客室に漂うのは、離陸直後のざわめきがほどけたあと特有の――“落ち着き始めた空気”だった。
エリンは、その空気の変化を目で見ない。耳と肌で拾う。
座席のスプリングが軋む音の間隔。
スプーンがカップに触れる軽い音。
小さな咳が、緊張の咳から、乾燥の咳に変わっていく。
会話の声量が、上擦った音から、平たい音へ落ちる。
(……うん。大丈夫。ここは整った)
もちろん“何もない”わけじゃない。宙の上では、何もないことの方が珍しい。
ただ、今の客室は、エリンの手を離しても維持できる状態になった。維持できる状態になれば、次は“守りの運用”に移れる。
エリンは、後方ブロックで忙しそうに動いているククルに近づいた。
ククルは、先ほどまでの慌てた雰囲気が少し薄れている。声掛けのテンポが良い。目線が上がっている。
床に落ちた紙ナプキンを拾うときの動作も滑らかだった。余裕が戻ってきた証拠だ。
「ククル」
「は、はい!エリンさん!」
ククルは背筋を伸ばし、はっとした顔で振り向いた。
その顔がもう“泣きそうな顔”じゃないことに、エリンは胸の奥で小さく息を吐く。
「ここ、落ち着いてきたわね。今の状態、維持して。任せたわよ」
“任せたわよ”は、責任の言葉だけじゃない。信頼の言葉だ。
ククルは一瞬、目をぱちりと瞬かせて、それから大きく頷いた。
「……はい!任せてください!」
声が明るい。
それでいい。船内は、明るさで救われる瞬間がある。特に、宙の上では。
エリンは頷き返し、客室用のカウンターへ向かった。
そこに置かれた備品の棚を開ける。カップ、スティックシュガー、ミルク、小袋のチョコ。飴玉。
それを手早く、しかし音を立てないように整えてトレーに乗せる。熱いコーヒーは、自分の分と操縦室用。香りで集中を切らさないために。
(……ここで香りが役に立つの、ずるいわよね)
エリンは内心で苦笑しながら、操縦室へ向かった。
通路を歩く音すら抑える。足先から着地し、床に触れる時間を短くする。
客室の“落ち着き”を崩したくない。
それと同じくらい、操縦室の集中を崩したくない。
操縦室の扉が近づくにつれ、空気が変わる。
客室が“人の空気”なら、操縦室は“機械の空気”だ。乾いた金属の匂い。計器の微かな熱。
そして、真ん中にいる男の――静かな緊張。
エリンはノックを一回だけ、小さく。
返事を待たず、扉を開ける。
「失礼します」
操縦室の中に入ると、リュウジの背中があった。
座席に深く沈まず、背筋を立てた姿勢。肩は力んでいないが、指先が正確に動いている。
エリンは距離を測った。
近すぎれば邪魔になる。遠すぎれば、持ってきたものの意図が伝わらない。
“手を差し出せるけれど、触れない距離”。
そこに、そっとコーヒーのカップを置く。
置く音を消すために、まずトレーを触れさせてから、カップを滑らせるように置いた。
同じように、チョコと飴玉を横に並べる。チョコは溶けないように小袋のまま。飴玉は二つ。ひとつは、喉用。ひとつは、気分転換用。
リュウジは正面を見たまま、低く呟いた。
「……これから自動操縦にします」
「分かったわ」
エリンも同じように、短く答える。
リュウジの手がパネルを操作し、切り替えの音が小さく鳴る。
操縦桿の反応が変わり、計器の表示が滑らかに変化する。
その瞬間、操縦室の空気がほんの僅かに緩んだ。張り詰めていた糸が、少しだけたわむ。
リュウジが小さく息を吐いて、言った。
「……ありがとうございます」
礼の言葉は、コーヒーに対してだけじゃない。
エリンはそう受け取って、微笑んだ。
「いいのよ」
エリンはコーヒーの香りが強くなりすぎない位置に座った。
座った、というより“腰を置いた”だけ。いつでも立てるように。
「客室は落ち着いているわ。だいぶ整った」
リュウジは横目で一瞬だけ頷く。
「ありがとうございます」
そしてすぐに、リュウジは“自分の領分”を越えない形で言った。
「……客室で何かあったら、いつでも言ってください」
自分が操縦しているから言うのではない。
“一緒に守る”と言っている。
エリンはその言葉が嬉しくて、でも顔には出しすぎないように、軽く頷いた。
「ええ。ありがとう」
短い会話の間にも、リュウジの目は計器を追い続けている。
それが彼の礼儀で、彼の優しさだ。
ふと、リュウジが言った。
「ペルシアも飛んでますね」
「ええ。でもあの子なら大丈夫よ」
エリンは即答した。
“信頼”の言葉は、迷いがないほど強い。
リュウジはそれでも、納得していないというより、心配が残っている顔をした。
心配を隠すのが下手ではない。だが、隠さない。隠さないのは、責任感があるからだ。
「分かってます」
リュウジは言って、少しだけ言葉を選ぶように間を置く。
「……ただ。チーフパーサーの代理なんて、初めてですよね」
“初めて”という言葉には重みがある。
宙の上での初めては、運が悪ければ致命傷になる。
エリンは微笑みを深くした。
「ええ。でもね、大丈夫よ」
リュウジが視線だけで問い返す。
エリンは思い出したように、苦笑した。
「ペルシアは元々、チーフパーサーになる筈だったんだから」
リュウジの眉が、ほんの少し上がる。
「ペルシアが……ですか?」
エリンは頷く。
「ええ。ペルシアがチーフパーサーで、私が副パーサー」
リュウジが思わず言葉を漏らした。
「……意外ですね」
エリンは軽く笑う。だが笑い方は、からかいではない。
「リュウジだって、ペルシアの実力は分かってるでしょ?」
「いえ」
リュウジは即座に首を振り――次の言葉で、エリンの胸を少しだけ温かくした。
「ペルシアじゃなくて。エリンさんが副パーサーなのが、です」
エリンは目を瞬かせて、それからふふっと声を漏らす。
「そんな事はないわよ」
謙遜、というより、受け流し。
でも、内心は少しだけ照れていた。
「なんでペルシアはチーフパーサーにならなかったんですか?」
リュウジが聞く。
エリンは一瞬だけ目を遠くにやって、思い出す。
当時のペルシアの顔。
真面目な顔をしているのに、次の瞬間ふざける口調になる、あの子の癖。
「それがね」
エリンは苦笑して、言った。
「『私には柄じゃない』って」
言いながら、エリンはペルシアの声色を少しだけ真似る。
わざとらしくない程度に、あの子っぽい軽い鼻息を混ぜて。
「『ずっと背筋伸ばして、“お客様〜”って笑ってるの、性に合わないのよ』ってね」
リュウジが小さく笑った。
声を出さない笑い。肩だけが少し揺れる。
「……ペルシアらしいですね」
「でしょう?」
エリンは肩をすくめる。
「だから、ペルシアがいくら代理でも大丈夫よ。立場が変わっても、あの子はあの子のやり方で整える」
リュウジは頷いた。
だが、その頷き方は“諦め”ではない。納得だ。
「そうですね」
そしてリュウジは、ふっと真剣な声になる。
「乗客は頼みます」
頼む、という言葉の中に、信頼がある。
信頼があるから、エリンも動ける。
「ええ」
エリンは短く答え、立ち上がろうとした。
そのとき、エリンの耳元の無線が、小さく震える。
『エリンさん、どこにいますか?』
ククルの声だった。
焦りはないが、呼吸が少し早い。客室で何かが動き始めた音。
「すぐ行くわ」
エリンは無線へ短く返し、操縦室の空気を崩さないように身を引く。
「それじゃあ、また来るわね」
扉へ向かって歩き出しながら、振り返る。
リュウジはコーヒーに手を伸ばさず、まず計器を見てから、ようやく小さく頷いた。
その几帳面さが、逆に安心をくれる。
「はい、お願いします」
エリンは扉を静かに閉めた。
――そして客室へ戻る。
操縦室で交わした“短い言葉”が、胸の奥で支えになっているのを感じながら。
この船の安全は、操縦だけで守られているわけじゃない。
客室だけで守られているわけでもない。
互いが互いを信じて、互いの仕事を預け合って――
だからこの船は、冥王星へ向かって真っ直ぐ進める。
エリンは通路の先で、ククルが小さく手を上げているのを見つけた。
その横で、誰かの声が震えていた。
次の“整えるべき波”が、もう始まっている。
(行くわよ)
エリンは歩幅を一つだけ速めた。