サヴァイヴ〜ドルトムント財閥〜   作:一塔

22 / 46
苛立ち

 次の呼び出し音は、耳に刺さるように乾いていた。

 

 客室のざわめきに紛れて、誰かが早口で吐き捨てた「ちょっと!」の声。グラスがテーブルに置かれる“硬い音”。その直後に、椅子が床を擦る低い摩擦音。――そして、乗務員の無線が、焦りを隠しきれない呼吸と一緒に飛び込んでくる。

 

『……ペルシアさん、すみません。乗客同士が揉めてます』

 

 ペルシアは反射で無線に口を寄せた。

 返事の声はいつも通り、軽く、余裕があるように。

 

「そうなの?」

 

 だが、頭の中では別の声が叫んでいた。

 

(はぁあ!? まだ出発してどれだけよ!?)

 

 十班の客室は、平常運転が“乱れ”に近い。

 慣れていない乗務員が多いのも分かる。定期便に慣れきって、手順を省きがちなのも分かる。

 でも――だからと言って揉め事が起きていい理由にはならない。

 

 ペルシアは一度、大きく息を吸った。胸の奥に溜まる苛立ちを、肺に引き込んで、吐くときに薄める。

 

 それから、声のトーンだけを少し低くした。

 命令ではなく、軸になる指示。相手が混乱しても引っ張られるな、という温度。

 

「場所は?」

 

『後方ブロック、C列付近です。男性同士で……声が大きくなってます』

 

「分かった。今から行く」

 

 ペルシアはすぐ次の言葉を継いだ。

 

「カイエ、行ける?」

 

 無線の向こうで、カイエが一拍遅れて返す。返事は早いが、喉が固い。――余裕がない声。

 

『……行けます。今、こちらの対応を区切って向かいます』

 

(うん、カイエも手一杯。…それでも、“行けます”って言えるの偉いわ)

 

 ペルシアは短く頷いた。

 

「すぐ行くから、抑えてて。いい?“抑える”は押さえつけるんじゃない。距離を取って、周囲を静かにする。分かる?」

 

『……はい。周囲の乗客を先に落ち着かせます』

 

「よし」

 

 その一言で、ペルシアは歩き出した。

 

 足音を消す必要なんて、本当はない。

 だが、ペルシアは“音”が余計な波を呼ぶのを知っている。

 船内の空気は、無駄に揺らせば揺らすほど、人の心まで揺らす。

 

 通路を進みながら、ペルシアは耳で状況を組み立てた。

 

 怒っているのはどちらか。

 声の高さ、言葉の切れ方、呼吸の間。

 怒りには種類がある。“見下しの怒り”と“追い詰められた怒り”。

 前者は視線が上を向き、後者は言葉が詰まりがちになる。

 

 近づくほどに、二つの声がはっきり分かれていく。

 

「だからさっきから言ってるだろ!」

 

「あなたが先に――!」

 

 どちらも高い。どちらも“自分が正しい”の前提で話している。

 その周りに、困り顔の乗務員が二人。声を挟めず、ただ立っている気配。

 さらに、少し離れた席で、小さな子どもが怖がって泣きかけている。

 

(……最悪。揉めてる本人たちもだけど、周りが巻き込まれてる)

 

 ペルシアは“真ん中に入らない”。

 揉め事の渦の中心に入ると、二人の怒りを同時に浴びることになる。

 まずは渦の外側――周囲の空気を止める。

 

 ペルシアは、泣きかけの子どもの近くにしゃがみ、母親に小声で言った。

 

「すみません、少しだけ奥の席に移動できます? 私が案内する。…怖いよね、ごめんね」

 

 母親が頷くのを確認し、乗務員の一人に目線で指示する。

 

「あなた、こちらのお客様を一旦後ろへ。毛布とお水。急がないで、落ち着いた声で」

 

「は、はい!」

 

 よし。空気の“被害”を切り離す。

 それから、ペルシアはようやく揉めている二人の横に立った。横、だ。正面には立たない。正面は“対決の構図”を強める。

 

 ペルシアは、声を張らない。

 張ると勝負になる。勝負にすると、どちらかが負けたと思って火がつく。

 

「――お二人とも」

 

 その一言だけで、場の音が一瞬止まった。

 視線がペルシアに向く。

 視線が向いた瞬間に、ペルシアは次の一手を入れる。

 

「今、ここは公共の客室です。周りにお子さんもいる。まず、声の大きさを落としましょう」

 

 “やめてください”じゃない。

 “落としましょう”。

 一緒にやる形にすることで、相手のプライドを削らない。

 

「……で?」

 

 年上の男が苛立った声を吐く。

 一方の男は、言い返そうと息を吸う。

 その吸った息の速さ――追い詰められている方だ。

 

 ペルシアは追い詰められている方を先に守る。

 弱い方を守るのは正義だから、じゃない。

 崩れやすい方を支えないと、揉め事が爆発するからだ。

 

「状況を聞かせてください。……あなたから」

 

 追い詰められている方に、短く促す。

 相手の話を“聞く姿勢”を見せるだけで、怒りは少し下がる。

 

「俺はただ、座席を倒したら――いきなり文句を……」

 

「文句じゃない! 急に倒しただろ! 飲み物が――!」

 

 年上の男が噛みつく。

 言葉の切れ方が強い。“見下しの怒り”。

 ペルシアはそこで、年上の男の“正しさ”を一度だけ認める。認めないと、さらに暴れる。

 

「飲み物がこぼれたんですね。そこは不快だったと思う」

 

 年上の男が一瞬黙る。

 “理解された”と感じるからだ。

 

 その隙に、ペルシアは追い詰められている男へ視線を向ける。

 

「あなたは、倒す前に声を掛けましたか?」

 

「……いや」

 

「じゃあ、そこはあなたの落ち度。ここは認めてください」

 

 責めない。淡々と事実で切る。

 追い詰められている男は、ぎゅっと唇を噛んで頷いた。

 

「すみません」

 

 年上の男が鼻を鳴らす。

 まだ終わらない。

 ペルシアはそこで“次の行動”を提示する。揉め事は、結論だけでは鎮まらない。具体策が必要だ。

 

「今、席を少し戻してもらっていいですか? 飲み物の汚れは、こちらで対応します。クリーニングシートを持ってきますので」

 

 ペルシアは即座に、近くの乗務員へ目線。

 

「あなた、クリーニングシートと替えのナプキン。あと、可能なら予備のドリンク。急がなくていい、落ち着いて」

 

「は、はい!」

 

 年上の男が、まだ何か言いたそうに口を開く。

 その瞬間、ペルシアは“最後の釘”を打つ。

 

「そしてお二人とも。これ以上声を荒げたら、こちらから上席へ報告します。…私、面倒が嫌いなの」

 

 冗談みたいな言い方で、でも目は笑っていない。

 場の空気にだけ、氷を一枚落とす。

 

 年上の男が、黙った。

 追い詰められていた男が、深く頭を下げた。

 

「すみませんでした」

 

「……ふん」

 

 年上の男も、渋々視線を逸らす。

 これで“爆発”は回避。

 

(ったく。最初から一言言えば済む話なのに)

 

 ペルシアは内心で毒を吐きながら、外面は崩さない。

 やるべきことは、まだ残っている。揉め事が収まっても、周囲の空気は“ささくれ”のままだ。

 

 ペルシアは通路の端で、じっとこちらを見ている乗客に向けて、軽く会釈した。

 何も言わない会釈は、“もう大丈夫です”のサインになる。

 

 そこへカイエが駆けつけてくる。

 

「ペルシアさん!」

 

「ありがとう。こっちは収まった。そっちは?」

 

「……こっちも、正直、手が足りません」

 

 カイエの声は真面目で、少し硬い。

 ペルシアは肩をすくめる。

 

「でしょーね」

 

 そして即座に指示を出す。

 十班の乗務員たちは、“何を優先するか”が曖昧だ。優先順位を示せば動ける。

 

「カイエ、今から十分だけ“穴埋め”する。あなたは前方ブロックの“子ども”と“高齢者”だけ見て。走り回る子がいたら、まず親に声。子ども本人に強く言わない。いい?」

 

「はい」

 

「それから、ドリンクの遅れ、誰が詰まってる?」

 

「……補充が追いついてません」

 

「じゃあ補充のラインを一本にしない。あなた、補充担当を一人決めて、そこに集約。バラバラに動くと余計遅れる」

 

「分かりました!」

 

 カイエが動く。

 ペルシアは、やっと少しだけ呼吸を整えた。

 

 揉め事を鎮めたあとほど、身体が重くなる。

 怒りを飲み込むからだ。

 飲み込んだ怒りは、胃の奥で燃え続ける。

 

(……エリンだったら、今みたいな揉め事、起きる前に潰してるんだろうな)

 

 そんなことを思ってしまうのが腹立たしい。

 自分だってできる。

 ただ、十班は“土台”が違う。

 日々の訓練の積み重ねがない。連携がない。だから、現場で“整える”のに倍の労力が要る。

 

 ペルシアは歩き出しながら、細かい乱れを潰していく。

 

 通路に落ちたブランケットの端――足を引っ掛ける前に拾わせる。

 座席の背もたれにぶつかるカート――角度を変えさせる。

 泣き声が大きくなる手前の赤ちゃん――母親に水とタオル、そして“安心していい”という声をかける。

 

「すみません、少し乾燥してるので。お水、こちらどうぞ。……大丈夫、揺れは今落ち着いてますよ」

 

 揺れが落ち着いているかどうかは、操縦の話だ。

 でも、客室では“安心する言葉”が必要な時がある。

 不安は情報で減る。情報がないと、想像が勝手に暴走する。

 

 その間にも、ペルシアの耳は拾い続ける。

 

 遠くで誰かが舌打ちした。

 別の席で「遅いな」という小声。

 通路の奥でカップが一つ落ち、割れないまでも鈍い音。

 乗務員の「すみません……」という弱い声。

 

(……弱い。弱すぎ。謝れば済むって顔してる。違うでしょ。先に手を出すのよ、先に)

 

 苛立ちが胸を突く。

 だが、苛立っている暇はない。苛立ちは“余裕の証拠”だ。今の自分に余裕はない。なら、苛立ちは後回し。

 

 ペルシアは無線に口を寄せた。

 

「――全員に通達。対応優先順位を変える。ドリンクは後回しでいい。まずは“安全”と“安心”。走る子、立ち歩く人、不安が強い人を先に。分かった?」

 

『……了解です』

 

『……はい』

 

 返事がばらつく。

 それでも、指示がないよりずっといい。

 

 ふと、ペルシアの耳が“嫌な音”を拾った。

 静かな高音。金属が擦れる音。

 これは――無線機の呼び出しとは別。操縦室側からの直通だ。

 

 ペルシアは思わず眉を寄せた。

 

(……今? このタイミングで?)

 

 無線に口を寄せる。

 

「はい、ペルシア」

 

 返ってきた声は、淡々としていて、少し偉そうだった。

 十班のパイロットの声。落ち着いているというより、“客室は自分の領分じゃない”という温度。

 

『――お茶を持ってきてくれ。熱いやつ。』

 

 一瞬、ペルシアの中で何かが弾けた。

 

(……は? 今それ言う? 今、この客室の状態見てないでしょ? 見てないから言えるんでしょ?)

 

 歯の奥がきゅっと軋む。

 舌の先まで毒が上がってくる。

 

(“お客様の安全”より先に、お茶? あなたの喉の潤い? ふざけないで)

 

 だが、ペルシアは“言い返さない”。

 ここで言い返したら、余計に連携が崩れる。

 連携が崩れたら、被害を受けるのは客室だ。ペルシアのプライドじゃない。

 

 ペルシアは一拍置いて、声だけを整えた。

 自分が今、何を守るべきかを思い出すために。

 

「……分かりました」

 

 返事は完璧だった。

 完璧すぎて、逆に冷たく響いたかもしれない。

 でも、それでいい。相手に“機嫌を取る必要”はない。ただ業務として返す。

 

 無線が切れる。

 ペルシアは一瞬だけ天井を見上げた。

 

(エリン……今の聞いたら、どうするかな。笑って流す? それとも、静かに怒る?)

 

 どちらにしても、エリンは“客室を崩さない形”で処理するだろう。

 それができるのが、エリンだ。

 

(……私だって、できる。できるけど、ムカつくものはムカつくのよ!)

 

 ペルシアは踵を返し、サービスカウンターへ向かった。

 その途中でも、乱れは拾う。

 

 子どもが走ろうとした瞬間、親より先に目線で止める。

 乗務員がカートを通路に置いたままにしそうになった瞬間、指で指して戻させる。

 

「そこ、通路塞がない。カートは壁側に寄せる。――はい、今」

 

「す、すみません!」

 

「謝らなくていい、動いて」

 

 言葉が尖る。

 でも尖らせないと通らない。十班の現場は、ふわふわした声を飲み込む。

 

 カウンターでお湯を注ぎ、ティーバッグを落とし、カップに蓋をする。

 手は正確。動きは速い。

 心だけが苛立ちで騒いでいる。

 

(お茶持っていく時間で、客室の穴が一つ増えるのよ。穴が増えたら誰が塞ぐの? 私とカイエでしょ? 意味分かってる?)

 

 ペルシアはカップをトレーに乗せ、通路へ出た。

 その瞬間、また呼び出し音。別のブロックで誰かが不安になっている。

 無線が入りかける。

 

(……今、無理。私、手が塞がってる)

 

 ペルシアは無線に短く告げる。

 

「今、対応中。カイエ、拾える?」

 

『拾います!』

 

(偉い。カイエ、ほんと偉い)

 

 操縦室前に着き、扉の前で深呼吸する。

 ここで顔に出したら、負けだ。

 顔に出したら、相手は“客室が大変なのを分かってる”と知ってしまう。分かったうえで軽く扱うタイプなら、なおさら面倒になる。

 

 ペルシアはノックを一回。

 扉が開く。

 

 操縦室の空気は、客室と別世界だった。

 静かで、乾いていて、余計な音がない。

 その静けさが、ペルシアの苛立ちをさらに強くする。

 

「お茶です」

 

 ペルシアはトレーを置く。音を立てずに。

 置く直前に相手の手元を確認し、邪魔にならない位置へ。

 

『……ああ』

 

 パイロットは礼も言わずにカップへ手を伸ばす。

 

 ペルシアは微笑む――形だけ。

 

「客室、少し荒れてます。揉め事が一件。落ち着きましたが、対応が追いついてません。こちらで優先順位を変えて回してます」

 

 報告は短く、必要最低限。

 相手に“口を挟ませない”長さにする。

 

『……そうか。まあ、任せる』

 

(“まあ、任せる”じゃないのよ。あなたも守る側でしょ。こっちは“あなたの客室係”じゃないのよ)

 

 喉まで出かかった言葉を、ペルシアは飲み込んだ。

 飲み込むたびに、胃が重くなる気がする。

 

 操縦室を出ると、客室の音がどっと戻ってきた。

 人の声、足音、笑い声、泣き声。

 その全部が、ペルシアに“現場へ戻れ”と言っている。

 

(……よし。戻る)

 

 ペルシアは歩きながら、耳を研ぎ澄ませた。

 “荒れ”は波だ。波は読める。

 読めれば潰せる。潰せば守れる。

 

 ――自分が守りたいのは、規則じゃない。組織の面子でもない。

 今、この船に乗っている人の、今日の無事だ。

 

 ペルシアは無線に口を寄せる。声はもう、遊びの軽さじゃない。

 けれど、冷たすぎない。現場がついて来られる温度。

 

「――各ブロック、現状報告。三分でいい。今困ってることだけ言って」

 

 返事が次々に入る。

 遅れ、混乱、足りない手。

 それでも、“報告が入る”だけで現場は変わる。報告は繋がりだ。繋がれば、連携が生まれる。

 

(さあ……ここからよ)

 

 ペルシアは足を止めず、騒がしい空気を“できる限り潰しながら”前へ進んだ。

 苛立ちも、呆れも、胸の内で燃やしたまま。

 燃えた熱を、仕事の速度に変えて。

 

ーーーー

 

 その揺れは、予兆もなく来た。

 

 ――ドン、と腹の底を殴られたような衝撃。次の瞬間、宇宙船全体が“横”に滑った。重力が一瞬、置き去りになる。足元の床が消えたみたいに身体が浮き、次いで反対方向へ引きずられる。手すりを掴み損ねた乗務員が、通路側の座席に肩からぶつかった。

 

「きゃあっ!」

「うわっ、なんだ!」

「子どもが――!」

 

 悲鳴と怒声が、いっせいに客室へ弾ける。グラスが転がり、カートの車輪が金属音を鳴らして壁に当たり、どこかで子どもの泣き声が高く尖った。

 

 十班の乗務員たちは、一瞬だけ、固まった。

 

 それは、ほんの一秒かもしれない。

 でも、“不安”にとって一秒は十分すぎるほど長い。

 

 顔色が白くなり、目が泳ぐ。口を開いても声が出ない子がいる。出たとしても上ずった声で「大丈夫です!」と繰り返すだけで、逆に“自分が大丈夫じゃない”のを晒してしまっている。

 

(……最悪。最悪の反応。そんな顔で声かけたら、余計に不安を煽るだけじゃない!)

 

 ペルシアは、胸の奥で毒づいた。

 けれど、その毒は、外には出さない。今は叱る時間じゃない。叱ったところで現場は整わない。整うべきは空気で、空気は“今この瞬間”の言葉と動きでしか変えられない。

 

 ペルシアの耳は、悲鳴の層の中から必要な音だけを拾い上げる。

 

 ――転倒音は二つ。

 ――泣き声は三方向。

 ――ガラスが割れた音はない。

 ――呻き声が一つ。左後方。成人男性。息が浅い、たぶん肋骨じゃなく打撲。

 ――「吐きそう」という声が二つ。紙袋を探している音。

 

 ペルシアは、無線に口を寄せた。

 

「操縦室、ペルシア。今の揺れ、原因はなんですか?」

 

 返事はすぐに来た。早い。なのに――温度が冷たい。

 

『姿勢制御ユニットが過負荷で一時的に止まっただけだ。大したことはない』

 

 声には苛立ちが混じっていた。

 “忙しいんだ、いちいち聞くな”という圧。

 

 ペルシアは一瞬だけ眉間を寄せた。

 

(……何様? “だけ”って言った? 客室がどれだけ揺れたと思ってんの?)

 

 心の中で叫びながらも、口から出る返事は完璧に整えておく。

 ここで感情をぶつけても、客室の助けにならない。

 

「分かりました。復旧見込みは?」

 

『すでに再起動してる。姿勢は戻す。以上だ』

 

 ぶつ、と無線が切れた。

 

 ペルシアは、薄く息を吐いた。

 怒りを吐く息じゃない。自分の中の“揺れ”を止めるための息だ。

 

(……よし。客室は私が整える。あいつらの機嫌なんて知らない)

 

 ペルシアは、通路に立ったまま、声を張らずに通る声を出した。

 張ると恐怖に勝つための叫びになる。叫びは叫びを呼ぶ。だから“低く、はっきり”だ。

 

「――皆さま、落ち着いてください。姿勢制御の一時停止による揺れです。現在、復旧作業が進んでいます」

 

 十班の乗務員が慌てて真似をする。だが声が震えている。

 

(違う、そこじゃない。情報はいい。まず姿勢。まず“見た目”)

 

 ペルシアは、手近の乗務員の肩を軽く叩いた。強くはしない。驚かせない。

 

「あなた、深呼吸。……一回でいい。顔、上げて。眉間に力入れない。笑わなくていい、落ち着いた顔」

 

「……は、はい」

 

 ペルシアは次に、カイエへ無線を飛ばす。

 

「カイエ、状況は?」

 

『……こちらも一瞬パニックです。転びそうになった子がいます、怪我は――確認中』

 

 カイエの声も硬い。

 でも、返事が早い。言葉が要点だけ。現場の筋が通っている。

 

(よし。カイエがいる。まだ戦える)

 

「カイエ、怪我人優先。子どもと高齢者、まず座らせて。シートベルト。親に声、子ども本人に強く言わない。分かる?」

 

『はい、分かります』

 

「三分でいい、落ち着いたブロックを作って。そこから周囲に波を広げる」

 

『了解です』

 

 ペルシアは目線を走らせ、カートを壁側へ寄せるよう指で指示する。

 転倒の原因を潰す。次の揺れが来たら、二次被害が出る。

 

「カート固定! ロック! 通路塞がない!」

 

 乗務員が慌てて動く。

 動いた。それだけで空気が少し変わる。人は、“誰かが動いている”だけで安心する。

 

 ペルシアは、今度は“怒声”を拾った。

 揺れに驚いた乗客が、乗務員に当たり散らしている。

 

「どうなってるんだよ! 危ないだろ!」

「さっきから遅いし、何も分かってないじゃないか!」

 

 怒りは恐怖の裏返し。

 相手の正面に立って受け止めると、怒りは燃料を得る。

 だから、怒りには“逃げ道”を与える。

 

 ペルシアはその男の横――半歩後ろに立ち、視線を合わせず、しかし声だけは相手の耳に届く距離で言った。

 

「ご不安にさせてしまい申し訳ありません。現在、姿勢制御ユニットが復旧しています。揺れは一時的なものです。――お怪我はありませんか?」

 

「……怪我は……ないけど」

 

 怒りの火が、少し小さくなる。

 

「ありがとうございます。でしたら今は、座ってベルトを締めてください。次の揺れに備えます。」

 

 命令じゃない。お願いでもない。

 “備え”という言葉で、相手の中の恐怖を“行動”へ変える。

 

 男が渋々座る。

 ペルシアはその瞬間に、隣席の青い顔の女性へ目線を送る。吐き気の気配だ。

 

「気分悪いですか?」

 

 女性が小さく頷く。

 

「すぐ袋持ってきます。呼吸は、短く吸って長く吐いて。……はい、そう」

 

 十班の乗務員が袋を探して右往左往する。

 ペルシアは、苛立ちを飲み込んで指示を“形”にする。

 

「袋はギャレー左の二段目。ラベル見て。『エチケット』。急がなくていい、落ち着いて持ってきて」

 

「は、はい!」

 

(探し物で走るな。走るなって……分かってるのに)

 

 ペルシアは、船内放送のマイクを取る。

 十班は、こういう時に“統一した声”が出ない。だから自分が“軸”になる。

 

「――皆さま、繰り返します。姿勢制御ユニットが一時的に停止したことによる揺れです。現在は復旧しており、姿勢は戻っています。安全確認のため、今しばらく座席にお戻りいただき、シートベルトの着用をお願いいたします」

 

 言い切ったあと、ほんの一秒だけ間を置いて付け足す。

 

「不安な方、気分の悪い方、乗務員をお呼びください。こちらから伺います」

 

 “呼べる”という選択肢は、人を落ち着かせる。

 

 通路を進みながら、ペルシアは“乗務員の顔”を変えていく。

 震えている子には、まず短い成功を与える。

 

「あなた、タオル配って。一本ずつ。『大丈夫です』は言わなくていい。『どうぞ』だけでいい」

 

「……はい」

 

「あなたはブロックの入口に立って。立ってるだけでいい。背筋伸ばして、呼吸ゆっくり」

 

「……はい」

 

 できることを小さくする。

 小さくすると、できる。

 できると、顔が変わる。

 顔が変わると、乗客の不安が減る。

 

 それが“空気を整える”ということだと、ペルシアは知っている。

 エリンがやっているのを、ずっと見てきたから。――でも、今ここにはエリンはいない。だから、自分がやる。

 

 第二波が来る前に、最低限の陣形を作らなければならない。

 

 ペルシアは耳で“操縦室側の機械音”を拾う。

 姿勢が戻る音。微かな振動の収束。

 今なら、押し返せる。

 

 だが、十班の客室は、まだ“平常”には遠い。

 

 泣いている子ども。

 怒っている大人。

 怖がって固まる高齢者。

 それぞれが、別々の理由で“揺れて”いる。

 

 ペルシアはしゃがみ込み、泣いている子どもの目線に合わせた。

 親が「すみません」と繰り返すが、ペルシアは首を振る。

 

「謝らなくていいです。怖かったよね」

 

 子どもが頷く。涙で頬が光っている。

 

「今はもう揺れは戻ってる。もしまた揺れたら、ここをぎゅって掴む。――一緒にやってみよう」

 

 手すりを握らせる。握れる。

 握れたら、“次”に備えられる。

 備えられると、恐怖は少しだけ小さくなる。

 

 立ち上がった瞬間、無線が入る。

 カイエだ。

 

『ペルシアさん、こちら、落ち着かせました。怪我人いません。転びそうになった子も、親御さんが抱えてます』

 

「よし。偉い」

 

 ペルシアは短く褒める。褒める言葉は栄養だ。現場の栄養。

 

「カイエ、今からあなたのブロックから一人、私の方に回せる?」

 

『……一人なら。エマ――じゃない、十班の子を一人回します』

 

「ありがとう。名前も教えて。ちゃんと呼ぶ」

 

『……ミラです。新人です』

 

「分かった。ミラを私の所へ。私が動かす」

 

 無線を切った瞬間、ペルシアは“次の苛立ち”を拾った。

 操縦室からの呼び出し。さっきのお茶の件の延長みたいな、雑な音。

 

 ペルシアは一瞬だけ、目を閉じた。

 

(……今じゃない。お願いだから、今じゃない)

 

 でも現実は優しくない。

 宇宙船は、現場を試すのが好きだ。

 

 ペルシアは無線に口を寄せ、声を極限まで平らにした。

 

「……はい、ペルシアです」

 

『さっきの件、客が騒いでるのなら、もう少し静かにさせろ。集中できない』

 

 一瞬、ペルシアの中で“何か”が折れそうになった。

 怒りで血が熱くなる。拳を握りたくなる。

 

(静かにさせろ? こっちは命に関わる揺れの後処理してんのよ。集中できないって何? 集中すべきはあなたの操縦でしょ!?)

 

 けれど――ペルシアは“飲み込む”。

 飲み込むのが仕事だと分かっている。

 今ここで言い返しても、客室が救われない。

 

 だから代わりに、“事実”だけを返す。

 

「了解です。現在、鎮静化に入っています。追加の揺れが発生した場合は、すぐ共有をお願いします」

 

『……分かった』

 

 短い返事。

 それだけで切れた。

 

 ペルシアは無線を下ろし、口角だけを上げた。笑顔じゃない。形だけだ。

 

(……後で覚えときなさいよ。今は、客室が先)

 

 ペルシアは通路へ戻る。

 十班の乗務員の震えは、まだ残っている。

 でも、さっきよりはマシだ。マシになったのは――彼らが“やるべきこと”を掴み始めたから。

 

 新人のミラが駆け寄ってくる。目が潤んでいる。怖かったのだろう。

 

「ペルシアさん……私、何をすれば」

 

 ペルシアはミラの目を見た。

 目は強く、声は優しく。

 

「あなたは今から“私の目”になる。ブロックを一周して、泣いてる子、具合悪い人、怒ってる人を見つけて。見つけたら無線で場所だけ言って。判断は私がする」

 

「……はい!」

 

「大丈夫。失敗していい。嘘だけつかなければいい」

 

 ミラが強く頷き、走り出しそうになる。

 ペルシアが指を立てる。

 

「走らない」

 

「……はいっ」

 

(よし)

 

 その背中を見送りながら、ペルシアは改めて思う。

 

 訓練が足りない。

 積み重ねがない。

 でも――今、ここで積み重ねることはできる。

 

 そして、今の自分が折れなければ、この船は崩れない。

 

(エリンとリュウジが無茶な航路で頑張ってる。カイエも頑張ってる。……私だけ、ここで投げ出すわけにいかない)

 

 ペルシアはもう一度、船内放送を取った。

 声はさっきより落ち着いている。自分でも分かる。

 落ち着いた声は、落ち着きを増殖させる。

 

「――皆さま、現在の姿勢は安定しています。先ほどの揺れにより不安な方、体調不良の方は遠慮なくお知らせください。乗務員が順番に伺います。……大丈夫です。今は、私たちがここにいます」

 

 最後の一言は、情報じゃない。

 存在の宣言だ。

 

 客室のざわめきが、少しだけ沈む。

 怒声が減り、泣き声が小さくなり、通路の足音が落ち着く。

 

 それでもまだ、完全じゃない。

 完全じゃないからこそ、ペルシアは歩く。

 

 苛立ちも、呆れも、胸の奥で燃え続けたまま。

 その熱を、乗務員の背中を押す力に変えて。

 

 ――次の揺れが来ても、もう崩れないように。

 

ーーーー

 

 冥王星のエアポートでVIP会員を降ろしたあと、船はそのまま航路を組み替え、ケレスへ向けて加速を続けていた。

 乗せているのはドルトムントと懇意にしている財閥関係者。客室の空気は、先ほどまでの“選ばれた客”とは別の重みをまとっている。会話の抑揚は少ないのに、言葉の端が鋭い。視線が人を値踏みする。笑っているのに、笑っていない。

 

 その空気を、エリンは「いつものこと」のように受け止めていた。

 けれど、いつもと同じ顔をしているだけで、内側では秒単位で神経を回しているのを、リュウジは少しずつ理解しはじめていた。

 

 ――操縦室の空気が、重い。

 

 重い空気の原因が何かなんて、考えなくても分かる。

 リュウジが醸し出してしまう“集中の圧”だ。人を拒むつもりはないのに、近づくほど息が詰まる。操縦席に座っているだけで、周囲の音が勝手に小さくなる。誰も邪魔をしないように、言葉を選ぶようになる。

 

 そして、そんな空気の中に――エリンは入ってくる。

 

 時間を見ながら。

 呼吸のタイミングを読みながら。

 足音を消しながら。

 

 操縦室の扉が、ほんのわずかに開いた。

 「失礼します」と言う声すら、必要最低限の音量だ。いや、音量というより“角がない”。耳に刺さらない。

 

 エリンの手には、小さなトレイ。

 紙カップのコーヒー、飴玉、チョコレート。どれも簡素で、けれど“必要なもの”だけが揃っている。

 

 リュウジは視線だけを横に流した。操縦の邪魔をしない距離で、エリンは止まる。止まる場所が絶妙だった。近すぎない、遠すぎない。手を伸ばせば届くが、こちらが身じろぎしなくても済む距離。

 

 そして彼女は、まず“置かない”。

 

 いきなり物を置くと、些細な振動やカップの接地音が操縦士の集中に刺さることがある。だからエリンは一拍置く。

 操縦桿が微細に動き、リュウジの指先の緊張がほどける瞬間。機体の姿勢が安定する“間”。その間を待つ。

 

 それから、音を立てずにゴミを回収した。

 

 操縦席の脇――小さな袋に、空になった包みがいくつか入っている。

 それを見たとき、リュウジは最初、勘違いした。

 

(……チョコ、誰かが食ったのか)

 

 リュウジ自身、甘いものは得意じゃない。苦手だと思い込んでいた。

 だが操縦室にエリンが来るたび、包みは増え、次に来る頃には消えている。消える理由が“誰か”ではなく“自分”だと気づいたのは、もっと後だ。

 

 冥王星までの長距離。ケレスへ向かう過密スケジュール。

 眠気を誤魔化すために、口の中に飴を入れた。

 血糖が落ちる瞬間に、チョコを一欠片だけ噛んだ。

 苦手でも、必要なら食う。――ただ、それだけだった。

 

 だがエリンは、その“ただそれだけ”を、当たり前のように支えてくる。

 

 包みを回収する手つきは、驚くほど静かだった。

 紙が擦れる音もしない。袋が揺れる音もしない。

 まるで最初からそこに“音”なんて存在しないみたいに。

 

 次に、コーヒーを置く。

 カップの底がテーブルに触れる瞬間、わずかな振動が出る。その振動を吸収するように、エリンは指を少しだけ残して、そっと離す。

 ――置く、ではなく“預ける”。

 

 飴玉とチョコは、リュウジの手が届く位置。だが視界の邪魔にならない端。

 そして最後に、短い言葉だけを落とした。

 

「……無理はしないでね。客室は、落ち着いてるわ」

 

 柔らかい。けれど甘やかす柔らかさではない。

 背中を支える柔らかさだ。

 

「ありがとうございます」

 

 リュウジが返すと、エリンは微笑んだ。

 微笑んで、そこから先を伸ばさない。雑談を始めない。心配を言い募らない。励ましの言葉を重ねない。

 操縦士が欲しいのは、言葉の束じゃない。今は“邪魔にならない安心”だと分かっている。

 

 彼女はそのまま踵を返し、扉へ向かった。

 去り際ですら、音がない。扉が閉まる気配だけが残る。

 

 ――操縦士の邪魔をすることなく、距離感を保っている。

 

 それは技術だった。

 訓練で身につけた“所作”であり、経験で磨かれた“判断”であり、そして何より、相手を思いやる“意志”だった。

 

 リュウジは、計器を見つめたまま、ふと気づく。

 

 エリンが来る前、操縦室はただ重いだけだった。

 エリンが来た後、その重さは“形”を変えている。

 

 重いままなのに、息ができる。

 背中に乗っていた鉛が、支えに変わったみたいに。

 集中の中に、ほんの少し“余白”ができる。

 

(……これが、チーフパーサーか)

 

 客室を回すだけが仕事じゃない。

 客室の空気を整えるだけでもない。

 操縦室の空気すら、整える。

 

 彼女は“操縦に口は出さない”。

 でも、“操縦が最善で続く環境”を作る。

 

 ――その凄さは、派手じゃない。

 派手じゃないからこそ、見落とされやすい。

 だが、いるのといないのでは、背中の力の抜け方が違う。

 

リュウジは遠くで思った。

 ――自分は操縦で守る。

 彼女は空気で守る。

 

 同じ“守る”でも、刃の向きが違う。

 違うのに、噛み合う。

 

 操縦室の机の端で、チョコの包みが一枚、静かに揺れた。

 リュウジはそれを指で摘まみ、ためらうように一瞬だけ止めてから、口に入れた。

 

 甘さが、舌に広がる。

 苦手なはずの甘さは、今だけは“必要”だった。

 いや、必要なのは甘さそのものじゃない。

 

(……“戻る場所”があるって感覚か)

 

 誰にも言わない。言う必要もない。

 ただ、次にエリンが入ってきたら、今度はもう少しだけ、短くてもいいから伝えようと思った。

 

「助かってます」

 

 それだけで、きっと十分だ。

 彼女は、そういう言葉を欲しがるタイプじゃない。

 けれど――それでも、受け取ってくれる。

 

 操縦室は、相変わらず重い。

 リュウジがいる限り、その重さは消えない。

 

 それでも。

 その重さの中で、ちゃんと呼吸ができるようにしてくれる人がいる。

 

 リュウジは計器に視線を戻し、航路を確認した。

 ケレスまで、まだ長い。

 だが、背中の力は、さっきより少しだけ抜けていた。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。