サヴァイヴ〜ドルトムント財閥〜   作:一塔

23 / 46
怒り

 ケレスのコロニーに到着し、財閥関係者を降ろしたあとの船内は、さっきまでとは別世界みたいに静かだった。

 扉の向こうに残っているのは、十四班の乗務員とパイロットだけ。あの“値踏みする視線”も、張りつめた言葉も、ひとまずは消えている。宇宙船の中は同じなのに、空気が軽い。いや、軽く「できる」。

 

 次は冥王星。VIP会員を迎えに戻る航路。

 過密スケジュールはまだ終わっていない。だからこそ、ここから冥王星までの区間は、短い休息と気持ちの切り替えを許される“隙間”だった。

 

 エリンはその隙間を、誰よりも正確に使う。

 

 客室ブロックの片隅で、乗務員たちが水を飲み、肩を回し、制服の襟を正す。軽く笑い声が混じる。張りつめた糸を、切らずに緩める。

 その中心でエリンは、端末のスケジュールを確認しながら言った。

 

「じゃあ、ここから冥王星までは乗務員だけ。気持ちを切り替えつつ、交代で少し休みましょう。……でも、冥王星に着いたら十分ほど休息したら、すぐ搭乗開始ね。短いから、今のうちに水分と軽食、入れておいて」

 

 声は柔らかいのに、締めるところは締める。

 “休んでいい”の言い方が上手い。休みが許可じゃなくて「作業の一部」みたいに聞こえるから、誰も罪悪感を持たない。

 

「十分って短いですねぇ……」とエマが口を尖らせる。

 

「短いからこそ、休める人から休むのよ」とエリンが微笑む。

 

「はい!」とククルが元気よく返事をして、すぐに「あっ……はい、休みます!」と、また慌てて言い直した。

 

 エリンは笑わない。笑ってしまうとククルが萎縮するのを知っているから、代わりに「いい子」と目で言う。

 

 ――そうやって、船内の状態を整える。

 その整え方が、派手じゃないから怖いのだ。

 

 ブリーフィングは続く。休息の割り振り、次の搭乗準備、動線、荷物の配置。

 その合間にも、エリンの視線はときどき操縦室の方向へ向く。時計を見るのではなく、“時間の進み”を感じ取っているような目だった。

 

 コーヒーを置いたのはいつだっけ。

 リュウジが飲み切るのは、集中の波がひと段落ついたタイミングだ。彼の癖はもう掴んでいる。機体が安定して、計器の確認が一巡して、視線が一瞬だけ遠くなる。――その時に口が乾く。喉が欲しがる。

 

(そろそろ、かな)

 

 エリンは一度だけ、控えめに息を吐いた。

 

 その瞬間、無線が入る。

 

『冥王星のエアポートまで、あと少しで到着します。シートベルトをお願いします』

 

 リュウジの声は淡々としていた。淡々としているのに、船内が勝手に整列する声だった。

 

「……え、もう着くんですか!?」エマが目を丸くする。

 

「予定より一時間以上早いですよ!」ククルも驚いて端末を見返した。

 

 エリンは目を瞬かせたあと、すぐに切り替える。驚きが顔に出ない。出さないまま、短く頷いた。

 

「……了解しました。全員、シートベルト。カップ類は片付けて、通路クリア。ユニットの固定確認して」

 

「は、はい!」

 

 乗務員たちが散る。

 “散り方”が綺麗だった。慌てているのに、ぶつからない。声が重ならない。エリンがさっきまで作っていた空気が、そのまま動線になっている。

 

 エリン自身も腰を落とし、シートベルトを締める。

 そのベルトの音すら、静かだった。

 

 ――冥王星のエアポート。

 

 重力制御が微細に変わり、船が吸い込まれるように減速していく。軽い浮遊感の残り香。硬い振動が一つもない。

 その“無い”ことが、どれほどの操縦技術に支えられているのかを知っているから、エリンの胸は少しだけきゅっとなる。

 

 着陸はあっけないほど滑らかだった。

 

『冥王星のエアポートに到着しました。ご協力ありがとうございます。次の搭乗まで少々時間がございますので、乗務員の皆さんは控室にて休息を取ってください』

 

 リュウジのアナウンスが終わると、客室にいた乗務員たちから小さな歓声が上がった。

 

「やったー……!」

 

「休憩だぁ……!」

 

 冗談めかした声が混じって、それがまた良かった。

 緊張をほどくには、少しの“軽さ”が必要だ。

 

 エリンは端末を確認し、苦笑した。

 

「……搭乗準備まで一時間半以上あるわね」

 

 その言い方に、みんなの目が輝く。

 

「ほんとですか!?」

 

 エリンは肩をすくめて、でも微笑んだ。

 

「とりあえず控室で休憩。軽食でも食べましょう。水分もね」

 

「やったー!」

 

 歓声がもう一度。

 エリンはその輪から一歩だけ外れて、操縦室の方へ視線を向けた。

 

(……行かなきゃ)

 

 誰に言うでもなく、自然に足が動く。

 彼女の仕事は、休憩を配ることじゃない。休憩が“機能する状態”を作ることだ。そして操縦室の休憩は、誰よりも優先度が高い。

 

 操縦室の扉の前で、エリンは一度だけ呼吸を整えた。

 ノックは二回。控えめに。

 

「失礼します」

 

 扉が開く。操縦席に座ったままのリュウジが、シートにもたれかかっていた。

 珍しく肩の力が抜けている。目は開いているが、視線が遠い。緊張の糸を切らないまま、緩めている顔だった。

 

「お疲れ様」

 

 エリンの声は、いつもより少し柔らかい。

 責めるでも、急かすでもない。純粋な労い。

 

「お疲れ様です」

 

 リュウジは短く返す。

 それから、ほんの少しだけ背中を深く預けた。

 

「随分と早かったのね」

 

「ええ。少し飛ばしましたから」

 

 “少し”という言葉が、逆に凄い。

 予定より一時間以上前倒しにしておいて、少し、だ。

 

 エリンは口には出さない。

 代わりに、その一言の裏を、静かに拾う。

 

(……私たちのため、ね)

 

 乗務員だけの区間とはいえ、休める時間は少しでも多い方がいい。

 次の搭乗が控えている以上、今の休息は、そのまま次の安全に繋がる。

 リュウジは、そこをちゃんと分かって“飛ばした”。

 

 操縦で守る人は、こういう形で優しい。

 言葉じゃなく、速度と時間で守ってくる。

 

「少しは休めますね」

 

 リュウジが、ぽつりと言う。

 

「そうね。……だから、リュウジも少しは休んで」

 

 エリンは椅子の背に手を添えたまま、柔らかく言った。

 命令じゃない。提案でもない。願いに近い。

 

「はい。流石に疲れましたから」

 

 リュウジの言葉に、エリンは小さく頷く。

 その頷きが、どこか嬉しそうだった。

 

 エリンは操縦席の横に目を落とす。

 いつもの包み紙――空。飴玉の包装――空。

 彼女が置いたものが、きちんと消費されている。

 

「何か食べる? チョコと飴だけだとお腹空くでしょ」

 

「いえ、結構食べましたから」

 

 リュウジの返しに、エリンは一瞬だけ目を丸くする。

 その反応が可笑しくて、口元が緩んだ。

 

「そういえばそうね……」

 

 そして、エリンは改めてリュウジの顔を見る。

 冗談ではなく、本当に観察する目。

 

「リュウジって、意外に甘いもの好きなんだね」

 

「……」

 

 リュウジは一瞬、言葉に詰まった。

 好き、というより――必要だから、というだけだ。そう言いかけて、やめる。言い訳みたいになるのが嫌だった。

 

 エリンが、くすりと笑う。

 その笑いはからかいじゃない。

 “見つけた”という笑いだ。

 

「甘いものは苦手だと思ってましたが……コーヒーに合うので、美味しかったです」

 

 真面目すぎる答えに、エリンの笑みが少し深くなる。

 

「なるほどね」

 

 彼女は納得したように頷いて、それでも視線は優しいままだった。

 

「だけど、それだけだと身体に良くないから。何か持ってきてあげる」

 

 言い切ると同時に、エリンはもう動く準備をしている。

 この人は、決めたら迷わない。

 

「自分でやりますよ」

 

 リュウジが言うと、エリンは首を横に振った。

 

「いいの。リュウジは整備士との引き継ぎもあるでしょ。……それに、今は休んで。ちゃんと」

 

 ちゃんと。

 その一言が、意外なほど効いた。

 

 リュウジは“はい”と言うしかなくなる。

 命令されたわけでもないのに、従いたくなる。

 それがエリンの強さだ。

 

「……ありがとうございます」

 

「どういたしまして」

 

 エリンは軽く笑って、扉へ向かう。

 去り際の足音は、相変わらず消えていた。

 

 ――数分後。

 

 控室では、乗務員たちが椅子に沈み込みながら軽食を広げていた。

 エマが「冥王星の売店、やっぱり品揃えが渋い……!」と文句を言い、ククルが「でもこのスープ、あったかいです!」と嬉しそうにしている。

 

 エリンはその中に混ざらない。

 混ざると安心してしまう人がいるから。

 彼女が“完全に休む”のは、最後でいい。

 

「ククル、飲み物ちゃんと取って。エマ、スープは熱いから気をつけて。」

 

 必要な声掛けだけを落として、エリンは売店の袋を持ち直した。

 中身は簡単なものだ。温かいスープパック、塩気のあるパン、タンパク質補給の小さな肉包み、そして水。

 甘いものだけで回してきた身体に、今必要なのは“戻す”食事。

 

 エリンは再び操縦室へ向かう。

 彼女の頭の中には、もう“時間割”がある。

 

 リュウジがコーヒーを飲み切る時間。

 引き継ぎが始まる時間。

 その前に、胃に何か入れる時間。

 

 操縦室の扉を開けると、リュウジはまだシートにもたれていた。

 目は閉じていない。閉じる余裕はないのだろう。

 それでも、呼吸が少し深くなっている。ほんの数分でも、休息は休息だ。

 

「はい、これ」

 

 エリンは音を立てずに袋を置き、スープパックを取り出した。

 温め済みのものを選んでいる。細かい。

 

「……え、わざわざ?」

 

「わざわざじゃないわ。必要なこと」

 

 エリンはさらりと言う。

 それが“仕事”なのだと、自然に聞こえる。

 

「リュウジ、少しだけでも食べて。塩気のあるの、入れとかないと後で反動が来るから」

 

「……分かりました」

 

 リュウジは素直に受け取った。

 受け取ってから、ふと気づく。

 

 ――この人、どれだけ操縦室を行ったり来たりしてるんだ。

 

 自分がコーヒーを飲み切る時間を想定して、タイミングを合わせて。

 乗務員の休憩を配りながら、客室の状態を整えながら。

 それでも操縦士の邪魔はしない距離を守り、必要なものだけを置き、音も残さず去っていく。

 

 ただ優しいだけじゃできない。

 優しさを“形にする技術”がある。

 

「……エリンさん」

 

「なあに?」

 

 返事が軽い。

 けれど目は真剣だ。今のリュウジの空気を壊さない角度で、ちゃんと向き合っている。

 

「……助かってます」

 

 それだけ言うと、エリンは少しだけ驚いた顔をして、すぐに微笑んだ。

 

「ふふ。なら良かった」

 

 短い。短いのに、胸の奥が温かくなる言い方だった。

 褒めても、持ち上げてもいない。

 ただ、受け取ってくれた。

 

「じゃあ、引き継ぎまで少し休んで。私、外の準備も見てくるから」

 

「はい。……お願いします」

 

 エリンが扉を閉める。

 その閉まる音すら、静かだった。

 

 操縦室には、重い空気が残る。

 けれどその重さは、息を奪うものじゃなくなっていた。

 

 リュウジはスープを一口飲み、ゆっくり息を吐いた。

 甘いものの後に来る塩気が、身体の芯に染みる。

 

(……この人がいると、背中の力が抜ける)

 

 それは操縦が楽になるという意味ではない。

 楽になってはいけない。

 ただ、守るために必要な余白が生まれる。

 

 整備士との引き継ぎが始まれば、次はまた戦場だ。

 冥王星でVIPを迎え、木星へ戻る。

 その間に何が起きるか分からない。

 

 ――でも、今は。

 

 重い操縦室の中で、ほんの少しだけ呼吸ができる。

 その呼吸を作ってくれるのが、エリンという人だった。

 

 扉の外で、エリンが乗務員たちに言う声が聞こえた。

 

「十分休めるうちに、休んでおいてね。次、すぐ始まるから。……大丈夫、私たちなら回せるわ」

 

 その声は、船内のどこよりも“状態が整っていた”。

 だから乗務員たちは頷く。迷いなく動ける。

 

 そしてリュウジもまた、操縦席の中で頷いた。

 

 ――乗客を守るのは、操縦士だけじゃない。

 でも、操縦士もまた、乗務員に守られている。

 

 その事実を、今のリュウジは、はっきりと理解していた。

 

ーーーー

 

 木星の管制塔に併設されたブリーフィングルーム。

 扉が閉まった瞬間、外の喧騒が嘘みたいに遠のいた。

 

 ――なのに、胸の奥はまだ騒がしい。

 

 ペルシアは椅子に腰を下ろすこともせず、壁際に立ったまま手袋を外した。指先が微かに震えているのが自分で分かる。怒りの震えだ。怖さじゃない。怖さに見えないように抑えているだけだ。

 

 カイエも同じだった。

 椅子に座っているのに背筋が硬い。目線は端末の画面に落ちているのに、何も見ていない。今さっきまで耳と目に叩きつけられた“言葉”が、内側から何度も反響している。

 

『二度とこの便には乗らない』

『金取ってこれ?』

『子どもが泣いてるのに何もできないの?』

『揺れた時、乗務員が一番怯えてた』

 

 降りていく客の背中が消えるまでに投げられた、短い刃物みたいな不満と非難。

 相手は投げたら終わりだ。

 受け取った側だけが、帰ってからもずっと刺さり続ける。

 

 ペルシアは喉の奥を鳴らすように息を吐いた。

 操縦室に文句の一つでも――と考えたのは本音だ。姿勢制御ユニットの過負荷で船が大きく揺れたとき、ペルシアが必死に確認した返答は、苛立ちが露骨に混じった声だった。

 

『過負荷で一時的に止まっただけだ。大したことじゃない』

 

 大したことじゃない?

 じゃあなんで客室に悲鳴が響いてた?

 なんで乗務員が空気を飲み込む暇もなく、転びそうな子どもを抱えた?

 

 ――言うだけ無駄だ、と分かっている。

 あの手の人間は“起きたこと”を見ない。数字と報告書に載る“結果”しか見ない。

 だから、そそくさと姿を消したのだろう。責任を背負う気もないのに、上から指示だけは飛ばす。

 

 苛立ちがさらに一段、深くなる。

 

 ブリーフィングルーム内の空気は、妙に二つに割れていた。

 片方は楽観的な笑い声。肩を叩き合い、「終わった終わった」「今日も無事だったな」と軽口を叩く。恐らくベテラン勢。

 もう片方は沈黙。顔を伏せ、肩を縮め、なにかを言われるのを待っているような新人たち。こちらは“反省”より先に“萎縮”が出ている。

 

 どちらにも、ペルシアの神経は逆撫でされた。

 

 楽観は、反省の放棄に近い。

 萎縮は、成長の手前で止まる。

 

 ――どっちも、客の前では通用しない。

 

 ペルシアは視線を一周させた。

 声を出す前に、場が勝手に静まっていく。さっきまで騒いでいたベテランの一人が、妙に気まずそうに咳払いした。

 

 ペルシアの口が開く。声は低い。いつもの茶化した軽さはない。

 

「……ブリーフィングを始めるわ」

 

 空気が凍る。

 カイエが喉を鳴らしたのが聞こえた。

 

「まず、今回のフライト。全体の連携が終わってた」

 

 いきなりだ。

 だが、ペルシアは躊躇しない。

 

「走り回る子どもに対して、声掛けが遅い。止める人と、保護者に寄る人と、周囲に安全確保する人。役割が誰も決まってない。だから“誰も動かない時間”が生まれる。……その時間が一番怖い」

 

 新人が肩をすくめた。

 ベテランの一人が「でも――」と言いかけて、ペルシアの視線に言葉が引っ込む。

 

「揺れが起きたとき、客室の“最初の声”が遅い。『大丈夫です』の前に、『状況を確認します』って一言が必要。確認する姿勢だけで、客は少し落ち着く。何も言わないのが一番不安を増幅させるの」

 

 ペルシアは端末を見ない。

 全部、頭の中に記録されている。

 

「次。飲み物の対応が遅い。これは忙しかったとかじゃない。“棚卸し”ができてない。何がどこにあるか、誰が把握してる? 補充の基準、ある? 無いなら作れ」

 

 刺す。

 細かく。

 正確に。

 

 聞いている側の顔色が変わっていく。

 ベテランの軽い笑いは消え、無表情になる。新人は泣きそうになる。

 でも、ペルシアは止めない。

 

 ――止めたら、また客が泣く。

 止めたら、また誰かが怪我する。

 止めたら、“いつもの事”が積み上がる。

 

 そしてペルシアは、視線を一点に固定した。

 

 不満たらたらの表情。

 眉の動きが、口角の歪みが、無音の“言い訳”を撒き散らしている乗務員がいる。

 

 ペルシアは睨む。

 だがその場では言わない。

 言うなら、もっと効く場で言う。

 

 代わりに、別の人間に声をかけた。

 

「……ガーネット」

 

 呼ばれた女性が、わずかに肩を跳ねさせた。

 十班の副パーサー、ガーネット。整った髪、整った姿勢、整った敬語。

 整っているのに、今日の揺れの瞬間だけ、整えきれなかった。

 

「姿勢制御ユニットが止まって揺れたとき。あなた、顔に怖さと焦りが出てた。声も震えてた」

 

 ペルシアの言い方は、冷たい。

 責めているのではない。事実を“名指し”している。

 

「……あれ、客に伝染する。だから注意して」

 

 副パーサーに対して、あえて厳しく言う。

 役職は飾りじゃない。

 役職が上なら、整える責任も上だ。

 

「はい」

 

 ガーネットは答えた。

 丁寧で、綺麗で、正しい返事。

 

 ――でも、ペルシアの耳は拾う。

 

 声の奥にある、納得していない“薄い反発”。

 言葉にしていないのに、音に出る。

 その音が、ペルシアのこめかみをじわりと押す。

 

(……やっぱりか)

 

 ペルシアはブリーフィングを続け、最後に短く言い切った。

 

「以上。解散」

 

 椅子の脚が鳴る。

 誰かが息を吐く。

 疲れた空気が一斉に動いた。

 

 ――解散しようとした、その瞬間。

 

「ガーネット。それと……あなた」

 

 ペルシアは、不満たらたらの表情を浮かべていた乗務員の名札を目で追い、呼び止めた。

 その目線だけで、相手の顔色が変わる。

 

 残ったのは三人と、カイエ。

 カイエは一歩後ろで静かに立った。

 ペルシアの横顔がいつもと違う。からかいの余地がない顔だった。

 

 ペルシアは、少しだけ間を置いた。

 その間が怖い。

 声よりも怖い。

 

「……文句や不満があるなら、直接言いなよ」

 

 出た声は、ペルシアらしくなかった。

 いつもの軽さも、皮肉もない。

 低く、乾いて、刃みたいに真っ直ぐ。

 

 カイエの喉が鳴る。

 緊張で息が詰まる音。

 

 ガーネットが一歩前に出た。

 この場に慣れている動き。副パーサーとしての“形”が出る。

 

「では」

 

 声は落ち着いている。

 落ち着きすぎている。

 

「私は怖さも焦りも表情に出していませんし、声も震えていませんでした」

 

 言い切った。

 自分の落ち度を認めるつもりがない。

 

「乗客に伝染したのは、他の乗務員のせいです」

 

 その瞬間、ペルシアの中で何かが弾けた。

 怒りの火花が、耳の奥まで散る。

 

 ――“他の乗務員のせい”。

 

 その言葉が、一番嫌いだ。

 それを言った時点で、客の命を守る側の人間じゃなくなる。

 

「……は?」

 

 ペルシアは短く、低く言った。

 たった一音で、室温が下がった気がした。

 

 カイエが慌てて口を開く。

 

「何言ってるんですか? ペルシアさんがどれだけ――」

 

「黙って」

 

 ペルシアが遮る。

 遮り方が鋭すぎて、カイエの言葉が喉の奥で折れた。

 

 ペルシアはガーネットを見た。

 見つめるというより、射抜く。

 

「あなた、副パーサーでしょ」

 

 声が低い。

 そして、続く。

 

「だったら他の乗務員がちゃんと出来るよう指示しなさい!」

 

 ガーネットの眉が動く。

 僅かに嫌そうな、面倒そうな動き。

 

「十班では、あれぐらいいつもの事です。今回も問題ありませんでした」

 

 淡々と言う。

 “いつもの事”。

 その言葉が、ペルシアの背骨を逆撫でした。

 

「……問題ない?」

 

 ペルシアは笑っていないのに、口角だけが引きつった。

 それは笑顔の形をした怒りだ。

 

「乗客が降りていく時の言葉、聞こえてた?」

 

 ガーネットは瞬きをした。

 

「いつもの事です」

 

 繰り返した。

 まるで呪文だ。

 責任を消すための。

 

 ペルシアの手が、握ったまま白くなる。

 爪が食い込む痛みで、辛うじて声を整える。

 

「いつもの事で、そのまま流してたら、何にも成長しないでしょ!」

 

 言葉が強い。

 強すぎる。

 でも、止められない。

 

 このまま放っておいたら、次はもっと酷いことが起きる。

 姿勢制御の揺れじゃ済まない。

 酸素の供給、緊急脱出、火災、減圧――“起きてほしくない”は、願っても防げない。防ぐのは準備だ。

 

 ガーネットの表情が硬くなる。

 そして、刺す言葉を選んだ。

 

「私たちは、あなたたちエリートの十四班とは違うんです」

 

 空気が止まった。

 カイエの瞳が揺れる。

 “違う”という言葉は、相手を見下すにも、逃げるにも使える。

 

 ペルシアの目が細くなる。

 

「同じ!」

 

 声が響いた。

 ブリーフィングルームの壁が、薄く震えた気がした。

 

「貴方達は、乗務員としての覚悟がないだけ!」

 

 言ってしまった。

 言うべきじゃない言い方だと、自分でも分かった。

 でも、止まらなかった。

 

 ガーネットの唇が薄くなり、冷たい声が返る。

 

「もういいです」

 

 そして、続けざまに。

 

「十班のチーフパーサーは他にいますから。応援に来た人には分かりませんよ!」

 

 それは拒絶だった。

 “お前には口出しする資格がない”という線引き。

 

 ペルシアの視界が一瞬狭くなる。

 耳が、全部拾ってしまう。

 隣で不満顔だった乗務員が小さく鼻で笑った音まで。

 

 ――その音が、最後の火種。

 

「分かるよ」

 

 ペルシアの声が、逆に静かになった。

 静かすぎて怖い。

 

「分かる。あなた達が“いつもの事”で流してきたから、今の十班があるんでしょ」

 

 ガーネットが言い返そうと口を開く。

 でも、ペルシアが先に刺す。

 

「今日、誰が客を落ち着かせた? 誰が走り回る子どもを止めた? 誰が怒鳴る客の前に立って、矢面に立った?」

 

 指差しはしない。

 指差さなくても、全員分かる。

 ペルシアとカイエだ。

 

「“いつもの事”で片付けてる間、誰が尻拭いしてると思ってんの」

 

 その瞬間、ガーネットの頬が引きつった。

 

「あなたが勝手に動いただけでしょう」

 

 言った。

 致命的な一言を。

 

 ペルシアの中で何かが切れた。

 

「……勝手に?」

 

 低い声。

 それはもう怒鳴り声ではなかった。

 氷の割れる音みたいな声だった。

 

「乗務員は、客を守るのが仕事でしょ」

 

 言い終える前に、呼吸が熱くなる。

 怒りが熱を作る。

 

「守るために動いたら“勝手”なの? じゃあ何? あなたの許可がないと命を守れないの?」

 

 ガーネットが黙る。

 黙ったまま、目を逸らす。

 それが答えだった。

 

 ペルシアは、もう一人――不満顔の乗務員に目を向けた。

 

「あなたも」

 

 相手は眉を上げて、挑発するような目をした。

 

「……なに」

 

 ペルシアの声が、少しだけ上がる。

 怒りが溢れそうだ。

 

「今日、楽しかった? 終わったーって笑ってたよね」

 

 相手の口元が歪む。

 

「終わったから。何か?」

 

 その言い方が、ペルシアの神経を焼いた。

 

「終わったから笑えるってことは、次も同じでいいってこと?」

 

「別に」

 

「別にじゃない」

 

 ペルシアは言い切った。

 そして、ガーネットに戻る。

 

「あなた副パーサーでしょ。怖さも焦りも出てないって言うなら、それでいい。でも――他の乗務員が震えてたら、あなたが支えなさいよ。あなたが“中心”になりなさいよ」

 

 ガーネットの目が揺れる。

 初めて、少しだけ刺さった。

 

 だが、すぐに固くなる。

 

「……十班は十班のやり方があります」

 

 その言葉に、ペルシアは笑ってしまいそうになった。

 笑えない。

 笑う余裕がない。

 

「やり方?」

 

 ペルシアは一歩踏み込む。

 

「やり方って言葉で、怠慢を包むな」

 

 ガーネットの顔が赤くなる。怒りか、羞恥か。

 

「あなたたちには分からないんです!」

 

 声が上ずった。

 ペルシアの耳が、上ずりの奥にある“怖さ”も拾う。

 ――怖いのは、揺れじゃなく、責任だ。

 

 だから“いつもの事”に逃げる。

 だから成長しない。

 

 ペルシアの怒りが、頂点に触れた。

 

「……なら」

 

 ペルシアは息を吸い込んだ。

 肺が痛いほど。

 

「私の言う事が聞けないなら!」

 

 声が爆発した。

 

「二度と私と乗らないように、同乗拒否届を提出しなさい!!」

 

 ブリーフィングルームが震えた。

 カイエが息を止める。

 壁の外にまで聞こえたかもしれない大声。

 

 ――同乗拒否届。

 特別な事情がある場合に限って、同じ船に乗らないことを申請できる書類。

 存在は知っている。

 でも出した者はいない。形だけ。建前だけ。

 それを、今、ペルシアが“現実の刃”に変えた。

 

 ガーネットの目が見開かれる。

 数秒、沈黙。

 そして、硬い声が返った。

 

「……分かりました!!」

 

 椅子が鳴り、足音が荒くなる。

 ガーネットはブリーフィングルームを出て行った。扉が乱暴に閉まる。

 

 もう一人――不満顔だった乗務員も、ペルシアを睨みつけたまま、何も言わずに出ていった。

 最後に残ったのは、ペルシアとカイエだけ。

 

 扉が閉まったあと、空気が急に薄くなる。

 怒りが抜けたぶん、酸素が足りないような感覚。

 ペルシアは額に手を当て、ぐしゃっと髪を掴んだ。

 

「……っ」

 

 声にならない呻き。

 怒鳴った喉が熱い。

 胸の内側も熱い。

 なのに、背中は冷たい。

 

「ペルシアさん……やり過ぎです」

 

 カイエの声は震えていた。

 責めているのではなく、心配している震え。

 

 ペルシアは返事をする前に、長く息を吐いた。

 それでも吐ききれない。

 

「……分かってる」

 

 分かってる。

 分かってるのに、止められなかった。

 自分の中の“許せなさ”が、ブレーキを壊した。

 

 ペルシアは椅子にどさっと座り、両手で顔を覆った。

 

「……でも」

 

 指の隙間から、声が漏れる。

 怒りがまだ燃えている。

 

「あんなの、乗務員の仕事じゃない」

 

 何が?

 自分の評価を守るために、現場を流すこと。

 怖さを隠すのではなく、怖さを認めて整えることから逃げること。

 客を守るより先に、自分を守ること。

 

「自分のことばっか考えやがって……」

 

 言葉が汚くなる。

 ペルシアらしくない。

 でも今は、それを直す余裕もなかった。

 

 カイエは一歩近づいた。

 ペルシアの肩に手を置こうとして、やめた。触れたら、ペルシアが崩れてしまいそうだった。

 

「……でも、ペルシアさんが怒らなかったら、誰も気づかないまま、また“いつもの事”で済ませてたかもしれません」

 

 カイエの言葉は慎重だった。

 慰めでも正当化でもない。

 現実を一緒に抱えようとする声。

 

 ペルシアは顔を上げないまま、笑いそうになって、笑えなかった。

 

「……それが一番ムカつく」

 

 低い声。

 

「今日、客に言われた言葉。あれ、私、全部覚えてる。……忘れられない」

 

 耳が良すぎる。

 拾った音は、消えない。

 怒声も、泣き声も、吐き捨てるような不満も、全部、頭の中で再生される。

 

「十四班なら、ああはならない」

 

 思ってしまう。

 思うべきじゃないと分かっている。

 でも、思ってしまう。

 

「でもそれって、才能じゃないんだよね」

 

 ペルシアはぽつりと言った。

 

「日々の訓練と、覚悟と、チームの連携で作ってる。……だから私、余計に許せない」

 

 やればできるのに、やらない。

 やるべきなのに、“いつもの事”で流す。

 その怠慢が、次の事故を呼ぶ。

 

 ペルシアは立ち上がった。

 さっきの怒りが嘘みたいに、足が重い。

 

「同乗拒否届なんて、言うべきじゃなかった」

 

 カイエが息を飲む。

 ペルシアは続けた。

 

「……でも、撤回はしない」

 

 目が鋭くなる。

 怒りが消えたのではない。

 怒りが“覚悟”の形になっただけだ。

 

「私、客を守れない船には乗りたくない。……同じ船に乗るなら、同じ覚悟でいてほしい」

 

 カイエは小さく頷いた。

 頷くしかなかった。

 

 ペルシアは扉の方へ視線をやる。

 ガーネットが出て行った扉。

 その向こうには、十班の“いつもの事”がある。

 

「……最悪」

 

 ペルシアが吐き捨てるように言う。

 

「でも、ここからが仕事」

 

 呟きは低い。

 そして、耳が拾う――自分の声の奥にある震え。

 

 怒りだけじゃない。

 怖さもある。

 責任の重さもある。

 

 ――それを隠して、笑って、“いつもの事”にする気はない。

 

 ペルシアは扉に手をかけた。

 出て行く前に、カイエにだけ言う。

 

「カイエ。……ありがとう。止めなくて」

 

「止めたら、ペルシアさんが一人で抱え込むから」

 

 カイエの声は、まだ少し震えていた。

 でも、目は真っ直ぐだった。

 

 ペルシアは小さく鼻で笑う。

 

「……ほんと、優しいね」

 

 そう言って、扉を開けた。

 また現場が始まる。

 また、“いつもの事”が待っている。

 でも今度は――

 

 “いつもの事”を、壊しに行く。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。