ケレスのコロニーに到着し、財閥関係者を降ろしたあとの船内は、さっきまでとは別世界みたいに静かだった。
扉の向こうに残っているのは、十四班の乗務員とパイロットだけ。あの“値踏みする視線”も、張りつめた言葉も、ひとまずは消えている。宇宙船の中は同じなのに、空気が軽い。いや、軽く「できる」。
次は冥王星。VIP会員を迎えに戻る航路。
過密スケジュールはまだ終わっていない。だからこそ、ここから冥王星までの区間は、短い休息と気持ちの切り替えを許される“隙間”だった。
エリンはその隙間を、誰よりも正確に使う。
客室ブロックの片隅で、乗務員たちが水を飲み、肩を回し、制服の襟を正す。軽く笑い声が混じる。張りつめた糸を、切らずに緩める。
その中心でエリンは、端末のスケジュールを確認しながら言った。
「じゃあ、ここから冥王星までは乗務員だけ。気持ちを切り替えつつ、交代で少し休みましょう。……でも、冥王星に着いたら十分ほど休息したら、すぐ搭乗開始ね。短いから、今のうちに水分と軽食、入れておいて」
声は柔らかいのに、締めるところは締める。
“休んでいい”の言い方が上手い。休みが許可じゃなくて「作業の一部」みたいに聞こえるから、誰も罪悪感を持たない。
「十分って短いですねぇ……」とエマが口を尖らせる。
「短いからこそ、休める人から休むのよ」とエリンが微笑む。
「はい!」とククルが元気よく返事をして、すぐに「あっ……はい、休みます!」と、また慌てて言い直した。
エリンは笑わない。笑ってしまうとククルが萎縮するのを知っているから、代わりに「いい子」と目で言う。
――そうやって、船内の状態を整える。
その整え方が、派手じゃないから怖いのだ。
ブリーフィングは続く。休息の割り振り、次の搭乗準備、動線、荷物の配置。
その合間にも、エリンの視線はときどき操縦室の方向へ向く。時計を見るのではなく、“時間の進み”を感じ取っているような目だった。
コーヒーを置いたのはいつだっけ。
リュウジが飲み切るのは、集中の波がひと段落ついたタイミングだ。彼の癖はもう掴んでいる。機体が安定して、計器の確認が一巡して、視線が一瞬だけ遠くなる。――その時に口が乾く。喉が欲しがる。
(そろそろ、かな)
エリンは一度だけ、控えめに息を吐いた。
その瞬間、無線が入る。
『冥王星のエアポートまで、あと少しで到着します。シートベルトをお願いします』
リュウジの声は淡々としていた。淡々としているのに、船内が勝手に整列する声だった。
「……え、もう着くんですか!?」エマが目を丸くする。
「予定より一時間以上早いですよ!」ククルも驚いて端末を見返した。
エリンは目を瞬かせたあと、すぐに切り替える。驚きが顔に出ない。出さないまま、短く頷いた。
「……了解しました。全員、シートベルト。カップ類は片付けて、通路クリア。ユニットの固定確認して」
「は、はい!」
乗務員たちが散る。
“散り方”が綺麗だった。慌てているのに、ぶつからない。声が重ならない。エリンがさっきまで作っていた空気が、そのまま動線になっている。
エリン自身も腰を落とし、シートベルトを締める。
そのベルトの音すら、静かだった。
――冥王星のエアポート。
重力制御が微細に変わり、船が吸い込まれるように減速していく。軽い浮遊感の残り香。硬い振動が一つもない。
その“無い”ことが、どれほどの操縦技術に支えられているのかを知っているから、エリンの胸は少しだけきゅっとなる。
着陸はあっけないほど滑らかだった。
『冥王星のエアポートに到着しました。ご協力ありがとうございます。次の搭乗まで少々時間がございますので、乗務員の皆さんは控室にて休息を取ってください』
リュウジのアナウンスが終わると、客室にいた乗務員たちから小さな歓声が上がった。
「やったー……!」
「休憩だぁ……!」
冗談めかした声が混じって、それがまた良かった。
緊張をほどくには、少しの“軽さ”が必要だ。
エリンは端末を確認し、苦笑した。
「……搭乗準備まで一時間半以上あるわね」
その言い方に、みんなの目が輝く。
「ほんとですか!?」
エリンは肩をすくめて、でも微笑んだ。
「とりあえず控室で休憩。軽食でも食べましょう。水分もね」
「やったー!」
歓声がもう一度。
エリンはその輪から一歩だけ外れて、操縦室の方へ視線を向けた。
(……行かなきゃ)
誰に言うでもなく、自然に足が動く。
彼女の仕事は、休憩を配ることじゃない。休憩が“機能する状態”を作ることだ。そして操縦室の休憩は、誰よりも優先度が高い。
操縦室の扉の前で、エリンは一度だけ呼吸を整えた。
ノックは二回。控えめに。
「失礼します」
扉が開く。操縦席に座ったままのリュウジが、シートにもたれかかっていた。
珍しく肩の力が抜けている。目は開いているが、視線が遠い。緊張の糸を切らないまま、緩めている顔だった。
「お疲れ様」
エリンの声は、いつもより少し柔らかい。
責めるでも、急かすでもない。純粋な労い。
「お疲れ様です」
リュウジは短く返す。
それから、ほんの少しだけ背中を深く預けた。
「随分と早かったのね」
「ええ。少し飛ばしましたから」
“少し”という言葉が、逆に凄い。
予定より一時間以上前倒しにしておいて、少し、だ。
エリンは口には出さない。
代わりに、その一言の裏を、静かに拾う。
(……私たちのため、ね)
乗務員だけの区間とはいえ、休める時間は少しでも多い方がいい。
次の搭乗が控えている以上、今の休息は、そのまま次の安全に繋がる。
リュウジは、そこをちゃんと分かって“飛ばした”。
操縦で守る人は、こういう形で優しい。
言葉じゃなく、速度と時間で守ってくる。
「少しは休めますね」
リュウジが、ぽつりと言う。
「そうね。……だから、リュウジも少しは休んで」
エリンは椅子の背に手を添えたまま、柔らかく言った。
命令じゃない。提案でもない。願いに近い。
「はい。流石に疲れましたから」
リュウジの言葉に、エリンは小さく頷く。
その頷きが、どこか嬉しそうだった。
エリンは操縦席の横に目を落とす。
いつもの包み紙――空。飴玉の包装――空。
彼女が置いたものが、きちんと消費されている。
「何か食べる? チョコと飴だけだとお腹空くでしょ」
「いえ、結構食べましたから」
リュウジの返しに、エリンは一瞬だけ目を丸くする。
その反応が可笑しくて、口元が緩んだ。
「そういえばそうね……」
そして、エリンは改めてリュウジの顔を見る。
冗談ではなく、本当に観察する目。
「リュウジって、意外に甘いもの好きなんだね」
「……」
リュウジは一瞬、言葉に詰まった。
好き、というより――必要だから、というだけだ。そう言いかけて、やめる。言い訳みたいになるのが嫌だった。
エリンが、くすりと笑う。
その笑いはからかいじゃない。
“見つけた”という笑いだ。
「甘いものは苦手だと思ってましたが……コーヒーに合うので、美味しかったです」
真面目すぎる答えに、エリンの笑みが少し深くなる。
「なるほどね」
彼女は納得したように頷いて、それでも視線は優しいままだった。
「だけど、それだけだと身体に良くないから。何か持ってきてあげる」
言い切ると同時に、エリンはもう動く準備をしている。
この人は、決めたら迷わない。
「自分でやりますよ」
リュウジが言うと、エリンは首を横に振った。
「いいの。リュウジは整備士との引き継ぎもあるでしょ。……それに、今は休んで。ちゃんと」
ちゃんと。
その一言が、意外なほど効いた。
リュウジは“はい”と言うしかなくなる。
命令されたわけでもないのに、従いたくなる。
それがエリンの強さだ。
「……ありがとうございます」
「どういたしまして」
エリンは軽く笑って、扉へ向かう。
去り際の足音は、相変わらず消えていた。
――数分後。
控室では、乗務員たちが椅子に沈み込みながら軽食を広げていた。
エマが「冥王星の売店、やっぱり品揃えが渋い……!」と文句を言い、ククルが「でもこのスープ、あったかいです!」と嬉しそうにしている。
エリンはその中に混ざらない。
混ざると安心してしまう人がいるから。
彼女が“完全に休む”のは、最後でいい。
「ククル、飲み物ちゃんと取って。エマ、スープは熱いから気をつけて。」
必要な声掛けだけを落として、エリンは売店の袋を持ち直した。
中身は簡単なものだ。温かいスープパック、塩気のあるパン、タンパク質補給の小さな肉包み、そして水。
甘いものだけで回してきた身体に、今必要なのは“戻す”食事。
エリンは再び操縦室へ向かう。
彼女の頭の中には、もう“時間割”がある。
リュウジがコーヒーを飲み切る時間。
引き継ぎが始まる時間。
その前に、胃に何か入れる時間。
操縦室の扉を開けると、リュウジはまだシートにもたれていた。
目は閉じていない。閉じる余裕はないのだろう。
それでも、呼吸が少し深くなっている。ほんの数分でも、休息は休息だ。
「はい、これ」
エリンは音を立てずに袋を置き、スープパックを取り出した。
温め済みのものを選んでいる。細かい。
「……え、わざわざ?」
「わざわざじゃないわ。必要なこと」
エリンはさらりと言う。
それが“仕事”なのだと、自然に聞こえる。
「リュウジ、少しだけでも食べて。塩気のあるの、入れとかないと後で反動が来るから」
「……分かりました」
リュウジは素直に受け取った。
受け取ってから、ふと気づく。
――この人、どれだけ操縦室を行ったり来たりしてるんだ。
自分がコーヒーを飲み切る時間を想定して、タイミングを合わせて。
乗務員の休憩を配りながら、客室の状態を整えながら。
それでも操縦士の邪魔はしない距離を守り、必要なものだけを置き、音も残さず去っていく。
ただ優しいだけじゃできない。
優しさを“形にする技術”がある。
「……エリンさん」
「なあに?」
返事が軽い。
けれど目は真剣だ。今のリュウジの空気を壊さない角度で、ちゃんと向き合っている。
「……助かってます」
それだけ言うと、エリンは少しだけ驚いた顔をして、すぐに微笑んだ。
「ふふ。なら良かった」
短い。短いのに、胸の奥が温かくなる言い方だった。
褒めても、持ち上げてもいない。
ただ、受け取ってくれた。
「じゃあ、引き継ぎまで少し休んで。私、外の準備も見てくるから」
「はい。……お願いします」
エリンが扉を閉める。
その閉まる音すら、静かだった。
操縦室には、重い空気が残る。
けれどその重さは、息を奪うものじゃなくなっていた。
リュウジはスープを一口飲み、ゆっくり息を吐いた。
甘いものの後に来る塩気が、身体の芯に染みる。
(……この人がいると、背中の力が抜ける)
それは操縦が楽になるという意味ではない。
楽になってはいけない。
ただ、守るために必要な余白が生まれる。
整備士との引き継ぎが始まれば、次はまた戦場だ。
冥王星でVIPを迎え、木星へ戻る。
その間に何が起きるか分からない。
――でも、今は。
重い操縦室の中で、ほんの少しだけ呼吸ができる。
その呼吸を作ってくれるのが、エリンという人だった。
扉の外で、エリンが乗務員たちに言う声が聞こえた。
「十分休めるうちに、休んでおいてね。次、すぐ始まるから。……大丈夫、私たちなら回せるわ」
その声は、船内のどこよりも“状態が整っていた”。
だから乗務員たちは頷く。迷いなく動ける。
そしてリュウジもまた、操縦席の中で頷いた。
――乗客を守るのは、操縦士だけじゃない。
でも、操縦士もまた、乗務員に守られている。
その事実を、今のリュウジは、はっきりと理解していた。
ーーーー
木星の管制塔に併設されたブリーフィングルーム。
扉が閉まった瞬間、外の喧騒が嘘みたいに遠のいた。
――なのに、胸の奥はまだ騒がしい。
ペルシアは椅子に腰を下ろすこともせず、壁際に立ったまま手袋を外した。指先が微かに震えているのが自分で分かる。怒りの震えだ。怖さじゃない。怖さに見えないように抑えているだけだ。
カイエも同じだった。
椅子に座っているのに背筋が硬い。目線は端末の画面に落ちているのに、何も見ていない。今さっきまで耳と目に叩きつけられた“言葉”が、内側から何度も反響している。
『二度とこの便には乗らない』
『金取ってこれ?』
『子どもが泣いてるのに何もできないの?』
『揺れた時、乗務員が一番怯えてた』
降りていく客の背中が消えるまでに投げられた、短い刃物みたいな不満と非難。
相手は投げたら終わりだ。
受け取った側だけが、帰ってからもずっと刺さり続ける。
ペルシアは喉の奥を鳴らすように息を吐いた。
操縦室に文句の一つでも――と考えたのは本音だ。姿勢制御ユニットの過負荷で船が大きく揺れたとき、ペルシアが必死に確認した返答は、苛立ちが露骨に混じった声だった。
『過負荷で一時的に止まっただけだ。大したことじゃない』
大したことじゃない?
じゃあなんで客室に悲鳴が響いてた?
なんで乗務員が空気を飲み込む暇もなく、転びそうな子どもを抱えた?
――言うだけ無駄だ、と分かっている。
あの手の人間は“起きたこと”を見ない。数字と報告書に載る“結果”しか見ない。
だから、そそくさと姿を消したのだろう。責任を背負う気もないのに、上から指示だけは飛ばす。
苛立ちがさらに一段、深くなる。
ブリーフィングルーム内の空気は、妙に二つに割れていた。
片方は楽観的な笑い声。肩を叩き合い、「終わった終わった」「今日も無事だったな」と軽口を叩く。恐らくベテラン勢。
もう片方は沈黙。顔を伏せ、肩を縮め、なにかを言われるのを待っているような新人たち。こちらは“反省”より先に“萎縮”が出ている。
どちらにも、ペルシアの神経は逆撫でされた。
楽観は、反省の放棄に近い。
萎縮は、成長の手前で止まる。
――どっちも、客の前では通用しない。
ペルシアは視線を一周させた。
声を出す前に、場が勝手に静まっていく。さっきまで騒いでいたベテランの一人が、妙に気まずそうに咳払いした。
ペルシアの口が開く。声は低い。いつもの茶化した軽さはない。
「……ブリーフィングを始めるわ」
空気が凍る。
カイエが喉を鳴らしたのが聞こえた。
「まず、今回のフライト。全体の連携が終わってた」
いきなりだ。
だが、ペルシアは躊躇しない。
「走り回る子どもに対して、声掛けが遅い。止める人と、保護者に寄る人と、周囲に安全確保する人。役割が誰も決まってない。だから“誰も動かない時間”が生まれる。……その時間が一番怖い」
新人が肩をすくめた。
ベテランの一人が「でも――」と言いかけて、ペルシアの視線に言葉が引っ込む。
「揺れが起きたとき、客室の“最初の声”が遅い。『大丈夫です』の前に、『状況を確認します』って一言が必要。確認する姿勢だけで、客は少し落ち着く。何も言わないのが一番不安を増幅させるの」
ペルシアは端末を見ない。
全部、頭の中に記録されている。
「次。飲み物の対応が遅い。これは忙しかったとかじゃない。“棚卸し”ができてない。何がどこにあるか、誰が把握してる? 補充の基準、ある? 無いなら作れ」
刺す。
細かく。
正確に。
聞いている側の顔色が変わっていく。
ベテランの軽い笑いは消え、無表情になる。新人は泣きそうになる。
でも、ペルシアは止めない。
――止めたら、また客が泣く。
止めたら、また誰かが怪我する。
止めたら、“いつもの事”が積み上がる。
そしてペルシアは、視線を一点に固定した。
不満たらたらの表情。
眉の動きが、口角の歪みが、無音の“言い訳”を撒き散らしている乗務員がいる。
ペルシアは睨む。
だがその場では言わない。
言うなら、もっと効く場で言う。
代わりに、別の人間に声をかけた。
「……ガーネット」
呼ばれた女性が、わずかに肩を跳ねさせた。
十班の副パーサー、ガーネット。整った髪、整った姿勢、整った敬語。
整っているのに、今日の揺れの瞬間だけ、整えきれなかった。
「姿勢制御ユニットが止まって揺れたとき。あなた、顔に怖さと焦りが出てた。声も震えてた」
ペルシアの言い方は、冷たい。
責めているのではない。事実を“名指し”している。
「……あれ、客に伝染する。だから注意して」
副パーサーに対して、あえて厳しく言う。
役職は飾りじゃない。
役職が上なら、整える責任も上だ。
「はい」
ガーネットは答えた。
丁寧で、綺麗で、正しい返事。
――でも、ペルシアの耳は拾う。
声の奥にある、納得していない“薄い反発”。
言葉にしていないのに、音に出る。
その音が、ペルシアのこめかみをじわりと押す。
(……やっぱりか)
ペルシアはブリーフィングを続け、最後に短く言い切った。
「以上。解散」
椅子の脚が鳴る。
誰かが息を吐く。
疲れた空気が一斉に動いた。
――解散しようとした、その瞬間。
「ガーネット。それと……あなた」
ペルシアは、不満たらたらの表情を浮かべていた乗務員の名札を目で追い、呼び止めた。
その目線だけで、相手の顔色が変わる。
残ったのは三人と、カイエ。
カイエは一歩後ろで静かに立った。
ペルシアの横顔がいつもと違う。からかいの余地がない顔だった。
ペルシアは、少しだけ間を置いた。
その間が怖い。
声よりも怖い。
「……文句や不満があるなら、直接言いなよ」
出た声は、ペルシアらしくなかった。
いつもの軽さも、皮肉もない。
低く、乾いて、刃みたいに真っ直ぐ。
カイエの喉が鳴る。
緊張で息が詰まる音。
ガーネットが一歩前に出た。
この場に慣れている動き。副パーサーとしての“形”が出る。
「では」
声は落ち着いている。
落ち着きすぎている。
「私は怖さも焦りも表情に出していませんし、声も震えていませんでした」
言い切った。
自分の落ち度を認めるつもりがない。
「乗客に伝染したのは、他の乗務員のせいです」
その瞬間、ペルシアの中で何かが弾けた。
怒りの火花が、耳の奥まで散る。
――“他の乗務員のせい”。
その言葉が、一番嫌いだ。
それを言った時点で、客の命を守る側の人間じゃなくなる。
「……は?」
ペルシアは短く、低く言った。
たった一音で、室温が下がった気がした。
カイエが慌てて口を開く。
「何言ってるんですか? ペルシアさんがどれだけ――」
「黙って」
ペルシアが遮る。
遮り方が鋭すぎて、カイエの言葉が喉の奥で折れた。
ペルシアはガーネットを見た。
見つめるというより、射抜く。
「あなた、副パーサーでしょ」
声が低い。
そして、続く。
「だったら他の乗務員がちゃんと出来るよう指示しなさい!」
ガーネットの眉が動く。
僅かに嫌そうな、面倒そうな動き。
「十班では、あれぐらいいつもの事です。今回も問題ありませんでした」
淡々と言う。
“いつもの事”。
その言葉が、ペルシアの背骨を逆撫でした。
「……問題ない?」
ペルシアは笑っていないのに、口角だけが引きつった。
それは笑顔の形をした怒りだ。
「乗客が降りていく時の言葉、聞こえてた?」
ガーネットは瞬きをした。
「いつもの事です」
繰り返した。
まるで呪文だ。
責任を消すための。
ペルシアの手が、握ったまま白くなる。
爪が食い込む痛みで、辛うじて声を整える。
「いつもの事で、そのまま流してたら、何にも成長しないでしょ!」
言葉が強い。
強すぎる。
でも、止められない。
このまま放っておいたら、次はもっと酷いことが起きる。
姿勢制御の揺れじゃ済まない。
酸素の供給、緊急脱出、火災、減圧――“起きてほしくない”は、願っても防げない。防ぐのは準備だ。
ガーネットの表情が硬くなる。
そして、刺す言葉を選んだ。
「私たちは、あなたたちエリートの十四班とは違うんです」
空気が止まった。
カイエの瞳が揺れる。
“違う”という言葉は、相手を見下すにも、逃げるにも使える。
ペルシアの目が細くなる。
「同じ!」
声が響いた。
ブリーフィングルームの壁が、薄く震えた気がした。
「貴方達は、乗務員としての覚悟がないだけ!」
言ってしまった。
言うべきじゃない言い方だと、自分でも分かった。
でも、止まらなかった。
ガーネットの唇が薄くなり、冷たい声が返る。
「もういいです」
そして、続けざまに。
「十班のチーフパーサーは他にいますから。応援に来た人には分かりませんよ!」
それは拒絶だった。
“お前には口出しする資格がない”という線引き。
ペルシアの視界が一瞬狭くなる。
耳が、全部拾ってしまう。
隣で不満顔だった乗務員が小さく鼻で笑った音まで。
――その音が、最後の火種。
「分かるよ」
ペルシアの声が、逆に静かになった。
静かすぎて怖い。
「分かる。あなた達が“いつもの事”で流してきたから、今の十班があるんでしょ」
ガーネットが言い返そうと口を開く。
でも、ペルシアが先に刺す。
「今日、誰が客を落ち着かせた? 誰が走り回る子どもを止めた? 誰が怒鳴る客の前に立って、矢面に立った?」
指差しはしない。
指差さなくても、全員分かる。
ペルシアとカイエだ。
「“いつもの事”で片付けてる間、誰が尻拭いしてると思ってんの」
その瞬間、ガーネットの頬が引きつった。
「あなたが勝手に動いただけでしょう」
言った。
致命的な一言を。
ペルシアの中で何かが切れた。
「……勝手に?」
低い声。
それはもう怒鳴り声ではなかった。
氷の割れる音みたいな声だった。
「乗務員は、客を守るのが仕事でしょ」
言い終える前に、呼吸が熱くなる。
怒りが熱を作る。
「守るために動いたら“勝手”なの? じゃあ何? あなたの許可がないと命を守れないの?」
ガーネットが黙る。
黙ったまま、目を逸らす。
それが答えだった。
ペルシアは、もう一人――不満顔の乗務員に目を向けた。
「あなたも」
相手は眉を上げて、挑発するような目をした。
「……なに」
ペルシアの声が、少しだけ上がる。
怒りが溢れそうだ。
「今日、楽しかった? 終わったーって笑ってたよね」
相手の口元が歪む。
「終わったから。何か?」
その言い方が、ペルシアの神経を焼いた。
「終わったから笑えるってことは、次も同じでいいってこと?」
「別に」
「別にじゃない」
ペルシアは言い切った。
そして、ガーネットに戻る。
「あなた副パーサーでしょ。怖さも焦りも出てないって言うなら、それでいい。でも――他の乗務員が震えてたら、あなたが支えなさいよ。あなたが“中心”になりなさいよ」
ガーネットの目が揺れる。
初めて、少しだけ刺さった。
だが、すぐに固くなる。
「……十班は十班のやり方があります」
その言葉に、ペルシアは笑ってしまいそうになった。
笑えない。
笑う余裕がない。
「やり方?」
ペルシアは一歩踏み込む。
「やり方って言葉で、怠慢を包むな」
ガーネットの顔が赤くなる。怒りか、羞恥か。
「あなたたちには分からないんです!」
声が上ずった。
ペルシアの耳が、上ずりの奥にある“怖さ”も拾う。
――怖いのは、揺れじゃなく、責任だ。
だから“いつもの事”に逃げる。
だから成長しない。
ペルシアの怒りが、頂点に触れた。
「……なら」
ペルシアは息を吸い込んだ。
肺が痛いほど。
「私の言う事が聞けないなら!」
声が爆発した。
「二度と私と乗らないように、同乗拒否届を提出しなさい!!」
ブリーフィングルームが震えた。
カイエが息を止める。
壁の外にまで聞こえたかもしれない大声。
――同乗拒否届。
特別な事情がある場合に限って、同じ船に乗らないことを申請できる書類。
存在は知っている。
でも出した者はいない。形だけ。建前だけ。
それを、今、ペルシアが“現実の刃”に変えた。
ガーネットの目が見開かれる。
数秒、沈黙。
そして、硬い声が返った。
「……分かりました!!」
椅子が鳴り、足音が荒くなる。
ガーネットはブリーフィングルームを出て行った。扉が乱暴に閉まる。
もう一人――不満顔だった乗務員も、ペルシアを睨みつけたまま、何も言わずに出ていった。
最後に残ったのは、ペルシアとカイエだけ。
扉が閉まったあと、空気が急に薄くなる。
怒りが抜けたぶん、酸素が足りないような感覚。
ペルシアは額に手を当て、ぐしゃっと髪を掴んだ。
「……っ」
声にならない呻き。
怒鳴った喉が熱い。
胸の内側も熱い。
なのに、背中は冷たい。
「ペルシアさん……やり過ぎです」
カイエの声は震えていた。
責めているのではなく、心配している震え。
ペルシアは返事をする前に、長く息を吐いた。
それでも吐ききれない。
「……分かってる」
分かってる。
分かってるのに、止められなかった。
自分の中の“許せなさ”が、ブレーキを壊した。
ペルシアは椅子にどさっと座り、両手で顔を覆った。
「……でも」
指の隙間から、声が漏れる。
怒りがまだ燃えている。
「あんなの、乗務員の仕事じゃない」
何が?
自分の評価を守るために、現場を流すこと。
怖さを隠すのではなく、怖さを認めて整えることから逃げること。
客を守るより先に、自分を守ること。
「自分のことばっか考えやがって……」
言葉が汚くなる。
ペルシアらしくない。
でも今は、それを直す余裕もなかった。
カイエは一歩近づいた。
ペルシアの肩に手を置こうとして、やめた。触れたら、ペルシアが崩れてしまいそうだった。
「……でも、ペルシアさんが怒らなかったら、誰も気づかないまま、また“いつもの事”で済ませてたかもしれません」
カイエの言葉は慎重だった。
慰めでも正当化でもない。
現実を一緒に抱えようとする声。
ペルシアは顔を上げないまま、笑いそうになって、笑えなかった。
「……それが一番ムカつく」
低い声。
「今日、客に言われた言葉。あれ、私、全部覚えてる。……忘れられない」
耳が良すぎる。
拾った音は、消えない。
怒声も、泣き声も、吐き捨てるような不満も、全部、頭の中で再生される。
「十四班なら、ああはならない」
思ってしまう。
思うべきじゃないと分かっている。
でも、思ってしまう。
「でもそれって、才能じゃないんだよね」
ペルシアはぽつりと言った。
「日々の訓練と、覚悟と、チームの連携で作ってる。……だから私、余計に許せない」
やればできるのに、やらない。
やるべきなのに、“いつもの事”で流す。
その怠慢が、次の事故を呼ぶ。
ペルシアは立ち上がった。
さっきの怒りが嘘みたいに、足が重い。
「同乗拒否届なんて、言うべきじゃなかった」
カイエが息を飲む。
ペルシアは続けた。
「……でも、撤回はしない」
目が鋭くなる。
怒りが消えたのではない。
怒りが“覚悟”の形になっただけだ。
「私、客を守れない船には乗りたくない。……同じ船に乗るなら、同じ覚悟でいてほしい」
カイエは小さく頷いた。
頷くしかなかった。
ペルシアは扉の方へ視線をやる。
ガーネットが出て行った扉。
その向こうには、十班の“いつもの事”がある。
「……最悪」
ペルシアが吐き捨てるように言う。
「でも、ここからが仕事」
呟きは低い。
そして、耳が拾う――自分の声の奥にある震え。
怒りだけじゃない。
怖さもある。
責任の重さもある。
――それを隠して、笑って、“いつもの事”にする気はない。
ペルシアは扉に手をかけた。
出て行く前に、カイエにだけ言う。
「カイエ。……ありがとう。止めなくて」
「止めたら、ペルシアさんが一人で抱え込むから」
カイエの声は、まだ少し震えていた。
でも、目は真っ直ぐだった。
ペルシアは小さく鼻で笑う。
「……ほんと、優しいね」
そう言って、扉を開けた。
また現場が始まる。
また、“いつもの事”が待っている。
でも今度は――
“いつもの事”を、壊しに行く。