サヴァイヴ〜ドルトムント財閥〜   作:一塔

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守り

 その日の夜。

 木星コロニーの繁華区画は、仕事帰りの人間でまだ明るかった。人工の夜景はやけに綺麗で、だから余計に腹が立つ。誰もが“今日も無事だった”みたいな顔で歩いている。

 

 ――無事?

 無事って、何だ。

 

 ペルシアは人波を割るみたいに歩きながら、喉の奥で笑った。笑ったつもりだったのに、音にならない。胸の真ん中だけが熱くて、手のひらが冷たい。手袋を外しても、指先が冷えたまま。

 

 吐き出す場所が欲しい。

 声にしたら、今度は泣きそうになる。

 泣くのは嫌だ。泣いたら負けた気がする。何に? 何にだよ。

 

「……ヤケ酒だ!」

 

 ペルシアは自分で自分を焚き付けるように言い放って、BARの扉を押し開けた。

 金属と木が混ざった匂い。冷たい空気。グラスが触れ合う、乾いた音。照明は暗めで、客の顔がはっきり見えない。ありがたい。今の自分の顔も、見られたくない。

 

「いらっしゃいませ」

 

 カウンターの奥でバーテンダーが軽く会釈する。

 ペルシアは空いてる席に腰を下ろして、バッグをカウンターにどん、と置いた。

 

「強いの。早いの。……いっぱい」

 

「かしこまりました」

 

 言葉の端が荒いのに、バーテンダーは動じない。プロだ。

 ペルシアはその落ち着きに、逆にイラッとした。――いや、違う。自分が荒れてるだけだ。

 

 出てきた琥珀色のグラスを掴み、口をつける。

 熱が喉を焼いて、胃に落ちていく。

 ふっと息が漏れた。ようやく“息”ができた気がした。

 

「はぁ……」

 

 二杯目を頼む前に、もう一口。

 そのまま、三口。

 空になる。

 

「次」

 

 短く言うと、バーテンダーが無言で頷いた。

 その“無言の理解”が、また少し胸に刺さる。今日、自分が相手にしたのは“無言で理解する”気配すら持たない人間だった。

 

 ペルシアは、グラスの底を見つめた。

 底には何もない。

 今日の自分も、いま、似たようなものだ。怒りで埋まっているようで、実は空っぽで、ただ痛い。

 

「何が……他の乗務員の所為だ」

 

 呟きがこぼれる。

 言った瞬間、また腹の底が熱くなる。

 

「何が、“いつもの事”だよ……」

 

 グラスが補充される。

 ペルシアは受け取って、今度は一気に半分くらい飲んだ。

 喉が熱い。目の奥も熱い。

 でも泣いてない。泣いてないぞ。

 

 脳裏に浮かぶのは、客室で聞いた言葉。

 揺れたときの悲鳴。

 誰かが泣きそうな声で「大丈夫です、落ち着いてください」と言っていた、あの震え。

 

 ――震えてたのは、その子のせいじゃない。

 震えたままでも、言わなきゃいけないから言った。

 守りたいから、声を出した。

 それを“他の乗務員の所為”って言える神経が理解できない。

 

 ペルシアはグラスを置いて、指でカウンターをトントンと叩いた。

 耳が拾う。氷の鳴る音、誰かの笑い声、ドアの開閉音。

 全部が、煩い。

 でも、煩い方がいい。静かな方が、頭の中の“あの声”が大きくなる。

 

「――あんたさ」

 

 ペルシアは隣席の空間に向かって、勝手に話しかけた。誰もいないのに。

 

「ああいう人間って、なんで……あんなに堂々と責任を投げられるわけ?」

 

 答えはない。

 だからまた飲む。

 強いアルコールが、脳の端を少しずつ麻痺させていく。いいぞ。麻痺しろ。いっそ全部麻痺してしまえ。

 

 でも、麻痺しないものがある。

 耳は、麻痺しない。

 心臓も、麻痺しない。

 

「ねえ、次、もっと強いの」

 

「かしこまりました」

 

 また、丁寧。

 腹が立つ。

 いや、立たない。

 なんかもう、よく分からない。

 

 出てきたグラスは透明で、液体も透明だった。

 匂いだけで強いと分かる。

 ペルシアはにやっと笑う。

 

「よし。これだよこれ」

 

 一口。

 喉が熱い。

 胃が熱い。

 ――世界がちょっとだけ、遠くなる。

 

 その遠さが、少し気持ちいい。

 ペルシアは頬杖をついて、ぼんやり天井の暗い照明を見た。

 

(エリン、今頃どうしてるかな)

 

 ふっと思って、すぐに眉間に皺が寄る。

 

「……いや、ダメダメ。今は私の時間。エリンの話は禁止」

 

 自分に言い聞かせる。

 なのに、頭は勝手に思い出す。

 エリンが冗談みたいな笑顔で、でもちゃんと全部整えていく姿。

 それが羨ましいとか、そういうんじゃない。

 ただ、あの人がいたら今日の十班はもう少し違っただろう、って思ってしまう。

 

「くそ」

 

 ペルシアは短く吐き捨てた。

 その“くそ”は、誰に向けたのか、自分でも分からない。ガーネット? 不満顔の乗務員? パイロット? 組織? 自分?

 全部だ。全部。

 

 もう一口飲んだとき――

 

「隣、いいですか?」

 

 落ち着いた声が、耳に入った。

 ペルシアは反射で顔を向ける。暗い照明の中でも分かる、背筋の通った男。

 スーツが妙に場に馴染んでいない。馴染まないのに、浮いてもいない。

 “権力の匂い”がする。

 

「どーぞ」

 

 ペルシアは手をひらひらと振った。

 そして相手の顔を見て、眉が吊り上がる。

 

「……またあんたか」

 

 宇宙管理局長。

 あの社交パーティーで“統括官の席”なんて言ってきた、あの男。

 

 局長は、軽く肩をすくめた。

 

「偶然だよ。……随分と荒れているようだね」

 

「見りゃ分かるでしょ」

 

 ペルシアはグラスを持ち上げて、くいっと飲んだ。

 局長はそれを見て、少しだけ目を細める。笑ってはいない。観察している目だ。いやな目じゃない。むしろ、厄介な種類の“真面目さ”だ。

 

「今日は、何があった?」

 

「なにがあった? あったよ。あったあった。あったに決まってんじゃん」

 

 ペルシアの言葉が早くなる。

 酔いが舌を軽くして、心の扉を壊していく。

 

「十班の応援。代理チーフ。最悪。連携ぐだぐだ。揺れて、悲鳴で、怒声で、子ども走るし、親は叫ぶし、乗務員は固まるし、パイロットは偉そうだし」

 

 局長は黙って聞いている。

 その沈黙が、ペルシアをさらに喋らせる。

 

「でさぁ……ブリーフィングしたの。刺さる言葉で。だって刺さないと刺さらないんだもん、ああいう人ら。やんないと変わんない。変わんないとまた誰かが泣く」

 

 ペルシアは指でカウンターを叩いた。

 トン、トン。

 音が、自分の怒りのリズムみたいで、ちょっと気持ちがいい。

 

「そしたらさぁ、副パーサーが言うの。“私は怖さも焦りも出してませんでした”って。声も震えてませんでしたって。……はいはい、よかったねぇ、完璧だねぇ。でもさ、他の子震えてたんだよ? 支えろよって話じゃん? 副パーサーだろ? 役職飾りじゃないだろ?」

 

 局長は頷かない。否定もしない。

 ただ、視線だけは逸らさない。

 その視線が、ペルシアの胸に熱を戻す。

 

「なのにさぁ……“乗客に伝染したのは他の乗務員のせいです”って言うの。は? はぁ? はぁぁぁ?ってなるじゃん。私、今日一回しか生きてないけどさ、あれはダメだよ。ダメ。守る側が言っちゃダメ」

 

 ペルシアはグラスを持ち上げ、飲み干した。

 空になったグラスをカウンターに置く音が、少し大きい。

 

「……何が他の乗務員の所為だ」

 

 呟きが、さっきより濃い怒りになってこぼれた。

 

「怖いなら怖いって言えばいいじゃん。怖いのは悪くない。怖いのに客の前に立つのが、仕事なんだよ。そこを――“いつもの事”で流すな」

 

 局長が、ようやく口を開いた。

 

「君は、誰かを守ろうとする」

 

「当たり前でしょ」

 

 ペルシアは即答した。

 その瞬間、自分でも驚くくらい声が真っ直ぐだった。

 

「守るのが仕事だもん。……守れないなら、何のために制服着てんのって話」

 

 局長は小さく息を吐く。

 まるで、答え合わせをしたみたいに。

 

「やっぱり君のような人間は、管理局に必要だ」

 

「はいはい、またそれ」

 

 ペルシアは手をひらひら振った。

 酔っているせいで動きが大きい。自分でも分かる。

 でも止まらない。

 

「私、ヘッドハンティング受けないって言ったじゃん。今の班が好きだし。あの……十四班。バカみたいに個性的で、めんどくさくて、でも“守る”ってとこだけは一致してんの。あそこ好きなんだよ」

 

 言った瞬間、胸が少し柔らかくなる。

 好き、って言葉を口にするのは、意外と効く。怒りを少しだけ溶かす。

 

 局長はその柔らかさを見逃さず、静かに続けた。

 

「見学でもいい。一度、来てくれ。君の力が活きる場所を見せたい」

 

「気が向いたらね〜」

 

 ペルシアはわざと軽く言って、グラスを要求するように手を上げた。

 バーテンダーが何も言わずに水を置く。

 ペルシアは水を見て、眉をしかめた。

 

「……え、なに。私、子ども扱いされてる?」

 

「水は大事だ」

 

 局長が淡々と言う。

 正論で殴ってくるタイプだ。嫌いじゃない。……いや、嫌いかも。

 

「うるさいなぁ。局長って、ほんと……説教くさい」

 

 ペルシアは水を一口飲んだ。

 冷たさが胃に落ちて、少しだけ世界が戻る。

 戻らなくていいのに。戻るな。

 

「……でもさ」

 

 ペルシアは顎を引いて、局長を見た。

 視線が合う。

 局長は逃げない。

 

「私、今日、やり過ぎたかも」

 

 ぽろっと出た言葉。

 自分で自分の口を疑う。

 こんな弱音、出すつもりなかった。

 

 局長は驚かない。

 ただ、少しだけ声を落とした。

 

「後悔している?」

 

「後悔っていうか……」

 

 ペルシアは指でグラスの縁をなぞった。

 氷が残っていないのに、指先が冷たい。

 

「同乗拒否届出せって言っちゃった。……あれ、形だけの書類なのにさ。私が言ったせいで、現実になっちゃうかもしれない」

 

 局長が静かに頷いた。

 

「それは、責任だ」

 

「……うん」

 

 ペルシアは短く答えた。

 責任。

 今日、責任から逃げたのは誰だ。

 逃げなかったのは誰だ。

 

 ペルシアは自嘲気味に笑って、もう一杯を頼もうとして、手を止めた。

 水を見て、舌打ちしたくなる。

 

「でもさ、責任ってさ、重いよね」

 

「重い。だから、持てる人間が少ない」

 

 局長の言葉は淡々としているのに、妙に刺さる。

 酔っているせいで、刺さり方が直球だ。

 

「……持てないなら、乗務員やめればいいのに」

 

 ペルシアが言うと、局長は否定しなかった。

 その沈黙が肯定に聞こえて、ペルシアはまた腹が立つ。

 でも同時に、妙に救われる。自分の怒りが、間違いじゃないって言われた気がするから。

 

「なぁに、その顔」

 

 ペルシアは局長の顔を覗き込んだ。

 距離感が近い。酔いの距離感だ。

 

「局長って、こういうとこ来るんだ。意外。もっと偉そうな会員制のとこで、偉そうな酒飲んでると思ってた」

 

「ここは静かだ。話ができる」

 

「私と?」

 

「君と」

 

 局長が即答した。

 ペルシアは一瞬、言葉に詰まって、誤魔化すみたいに鼻で笑う。

 

「……気持ち悪い」

 

「褒め言葉として受け取っておこう」

 

「受け取るな」

 

 ペルシアは肩を揺らして笑い、でも笑いながら、胸の奥に残っていた怒りが少しだけ薄くなるのを感じた。

 怒りが消えるわけじゃない。

 ただ、燃え方が変わる。

 “破壊”から、“支える”に変わる。

 そういう変化。

 

「でもさぁ」

 

 ペルシアはまた口を開いた。

 酔いが、言葉を止めてくれない。

 

「私、十四班が好きなんだよ。エリンも、タツヤ班長も、リュウジも、ククルも、カイエも、エマも……みんなさ、変なとこ真面目で、変なとこ優しくて、変なとこ不器用で」

 

 局長は黙って聞く。

 ペルシアは指で空をなぞった。人の輪郭をなぞるみたいに。

 

「私が守りたいの、客だけじゃないんだよね」

 

 ぽつり。

 それが本音だった。

 

「客を守るのも仕事。仲間を守るのも仕事。……どっちも守れない組織なら、いらない」

 

 局長が静かに言う。

 

「だからこそ、管理局に来い」

 

「だからこそ、行かない」

 

 ペルシアは即答して、舌を出した。

 

「今の私がいなくなったら、十四班、誰が飲み会の盛り上げ担当やるの」

 

「それは重要だな」

 

「でしょ?」

 

 ペルシアは得意げに頷いて、ふっと表情が緩んだ。

 

 でも、次の瞬間、顔が曇る。

 耳が拾ってしまった。

 頭の中で、また“他の乗務員のせいです”が再生される。

 

「……くそ」

 

 ペルシアは小さく呟いた。

 局長はその呟きを拾っても、追い詰めるようなことは言わない。

 

「今日は、眠れそうか」

 

「眠れるわけないじゃん」

 

 ペルシアは即答し、少しだけ唇を噛んだ。

 言い過ぎた。

 でも、事実だ。

 

「耳、良すぎなんだもん。聞こえた言葉、残るんだもん。消えないの。だから酒で流すの。流れないけど」

 

 局長が少しだけ目を細める。

 同情じゃない。理解の目だ。

 それが、悔しいほどありがたい。

 

「……見学、考えとく」

 

 ペルシアはぼそっと言った。

 言った瞬間、また腹が立つ。

 何で私、こんなこと言ってんの。酔いって最悪。

 

 局長は微かに口角を上げた。

 

「気が向いたらでいい」

 

「うん、気が向いたらね〜」

 

 ペルシアはさっきと同じ言葉を、今度は少しだけ柔らかく言った。

 そして、カウンターに突っ伏しそうになるのを堪え、背筋を伸ばした。

 

「……でも、局長。これだけは言っとく」

 

「何だ」

 

 ペルシアは顔を上げ、目を据えた。

 酔っていても、ここだけはぶれない。

 

「私は、誰かの命を“いつもの事”で流す人間が大嫌い」

 

 局長は頷いた。

 

「私もだ」

 

 短い返事。

 それだけで、ペルシアの胸の奥の怒りが、ほんの少しだけ形を変えた。

 明日になったらまたムカつくだろう。

 また刺さるだろう。

 また眠れないかもしれない。

 

 でも――

 

「……よし、じゃあ今日はこれで終わり!」

 

 ペルシアは立ち上がり、ふらっと揺れた。

 局長が手を出しかけて、やめる。触れたら怒られるのが分かっている顔だ。

 

「ペルシア」

 

「なに」

 

「水、飲め」

 

「うるさい!」

 

 ペルシアは水を一気に飲み干して、空のグラスを乱暴に置いた。

 そして、ふらふらしながらも、勝ち誇ったみたいに言う。

 

「ほら、飲んだ! 偉いでしょ!」

 

「……偉い」

 

 局長の真面目な返事に、ペルシアは吹き出した。

 

「なにそれ! ほんと気持ち悪い!」

 

 笑いながら、ペルシアはBARの扉に向かう。

 外の光が眩しい。

 まだ夜なのに、コロニーは明るい。

 

 ――明るさが、少しだけ腹立たしい。

 でも、その明るさの中で、守るべきものがある。

 

 ペルシアは小さく息を吐いて、独り言みたいに言った。

 

「……明日、起きたら二日酔いで死んでるかも。……でも、それでも、やるしかないか」

 

 誰に言うでもなく。

 自分に言い聞かせるように。

 

 背中の後ろで、局長の声が静かに追いかけてきた。

 

「君は、やるだろう」

 

「当たり前じゃん」

 

 ペルシアは振り返らずに手を振った。

 ふらついた手振り。

 でも、その手は、逃げていなかった。

 

ーーーー

 

 次の日。

 木星コロニーの朝は、いつだって明るすぎる。人工光が容赦なく瞼を突き刺してくる。ペルシアは出社ゲートを抜けた瞬間から、頭の奥で鈍い鐘が鳴り続けているのを感じた。

 

(……ああ、これだ。完全にやったやつだ)

 

 口の中が乾いて、舌が重い。胃の辺りが、ずっと小さく波打っている。昨日のBARの“強いの早いのいっぱい”が、今になってツケを取りに来ていた。

 

 それでもペルシアは、いつものように腰を揺らすように歩いて事務室に入った。

 入った――瞬間、違和感。

 

 ざわざわ。

 笑いではない。軽口でもない。

 何か、空気が硬い。視線が一点に集まり、言葉のトゲが飛んでいる音がする。

 

 ペルシアは顔を上げるのがしんどくて、いつもより小さく息を吸った。

 

「……おはよう」

 

 声が、かすれた。

 返事はなかった。

 

 いつもなら、ククルが「おはようございます!」と跳ねるように返してくる。エマが「おはよう」と穏やかに笑って、カイエが軽く会釈する。タツヤが「おはよ〜」と眠そうに手を振って――そんな、いつもの朝がある。

 

 今日は、ない。

 

 ペルシアの耳が拾う。

 誰かの怒気。紙の擦れる音。靴の踵が床を叩く音。

 人の気配が、集団で鋭くなっている。

 

「ペルシア、ちょうど良かった。来てくれ」

 

 タツヤの声。

 いつもの“軽い”調子じゃない。困り切った、責任者の声。

 

 ペルシアは返事もせず、ふらりとそちらに向かった。

 タツヤの周りには女性が三人。制服のシルエットが違う。十四班じゃない。

 その横に、カイエが立っていた。

 

 カイエの顔色が、明らかに悪い。

 怒りで血が引いているときの、あの白さ。

 

 ペルシアは思わず眉を寄せた。

 頭の奥で鐘が鳴る。強くなる。

 

(……あー、やめて。今の私に“面倒ごと”は刺激が強い)

 

 その瞬間、鋭い声が刺さった。

 

「あなた、よくも私の十班で好き勝手に暴れてくれたようね」

 

 言ったのは、先頭に立つ女。

 短く整えた髪。眉が細く、目が鋭い。声の張りが“慣れている”。人を叱ることに、慣れている声だ。

 

 タツヤが間に入ろうとする。

 

「まぁまぁチーフパーサー……」

 

「まぁまぁじゃない!」

 

 一喝。

 タツヤが口を閉じる。

 その様子に、女が勝ち誇ったように口角を上げた。

 

「……あんなに私に啖呵を切っていたくせに、自分の時はこのザマなのね」

 

 ペルシアは俯いたままだった。

 落ち込んでいるのだと、相手は思ったらしい。声が更に上からになっていく。

 

「荒れたフライトだったようだけど、碌に指示も出さないで、失敗したら全部、十班の乗務員の所為にするなんて。全て副パーサーのガーネットから聞いたわよ」

 

 ――耳が、拾う。

 ガーネットの呼吸。自信のある鼻息。

 “私のせいじゃない”の温度。

 

 反応したのはペルシアではなかった。

 

「……何言ってるんですか!」

 

 カイエの声が、硬く割れた。

 普段は落ち着いている、あのカイエの声が。

 

「それはそちらの副パーサーの事じゃないですか! 変な言い掛かりはやめてください!」

 

 ガーネットが、眉を吊り上げる。

 

「変な言い掛かりはやめてください! あなたこそ、他人に罪をなすりつけるなんてどういう教育をしてるのよ!」

 

 十班チーフパーサーが、カイエに向けて刃を投げる。

 言葉の刃先が“若い”ところを狙っている。

 格下だと見て、踏みにじるときの声だ。

 

 カイエの拳が、わずかに震えた。

 それでも引かない。目が、真っ直ぐだ。

 

「教育? ……違います」

 

 カイエは一歩、踏み出した。

 空気が張る。

 ペルシアはその張りを、耳で感じた。

 

「あなたたちは、昨日、船内で何が起きていたか見てない。いえ、見てたのに“見なかった”ふりをしたんでしょう!」

 

「いい加減に——」

 

 十班チーフが言いかけた、その瞬間。

 

「ごめん」

 

 小さな声が割って入った。

 

 ペルシアだった。

 

 全員が一瞬止まる。

 ガーネットが勝ち誇ったように息を吸う。

 

「ほら見なさい」

 

「ペルシアさん、どうして……!」

 

 カイエの声が揺れた。怒りじゃない。困惑と、悔しさ。

 

 ペルシアはもう一度だけ言った。

 

「ごめん」

 

 それから、踵を返した。

 走った。――いや、“走ったつもり”だ。現実はふらつきながら、早足で自分の席に向かう。

 

「……あはは。逃げるなんて随分と腰抜けね」

 

 十班チーフの嘲笑が背中に刺さる。

 刺さるけど、今はどうでもいい。

 胃が、限界に近い。

 

 ペルシアは自分の机にたどり着き、引き出しを乱暴に開けた。

 紙袋を掴む。

 

 次の瞬間――

 

「オェェ……!」

 

 事務室の空気が凍った。

 ペルシアは紙袋に顔を埋めた。

 

「オェェェ……っ……!」

 

 胃の中の酸が喉を焼く。

 涙が勝手に滲む。

 最悪だ。最悪の朝だ。最悪のタイミングだ。

 

 音だけが響いて、時間が止まっていた。

 そして、ペルシアがふらりと顔を上げる。

 

「……気持ち悪い」

 

 その一言で、止まっていた時間が一気に動き出した。

 

「窓あけろ!」

 

 タツヤの号令。

 ククルとエマが、反射で窓へ走り、ロックを外す。

 冷たい外気が流れ込み、吐き気の匂いを押し流し始める。

 

「ごめん……」

 

 ペルシアは紙袋を握ったまま、肩で息をした。

 ――今の「ごめん」は、さっきの「ごめん」と違う。

 だから十班チーフとガーネットの眉が、ぴくりと上がる。

 

 ペルシアはよろよろとタツヤの元へ戻った。

 顔色は青い。唇も白い。

 でも、その目だけは、変に冴えている。

 

「貴方、いいご身分ね」

 

 十班チーフが吐き捨てた。

 ペルシアはチーフを一瞥し、すぐタツヤに視線を戻した。

 

 頭が痛い。

 目の奥が痛い。

 けど――この人たちの声は、もっと痛い。

 

「……誰、この人たち」

 

 ペルシアの声は、掠れていた。

 掠れているのに、妙に刺さる言い方だった。

 

 タツヤが、ぷっと吹き出した。

 すぐに口を手で塞ぐ。

 

 十班チーフの視線がギロリと向き、タツヤは咳払いで誤魔化した。

 

「私、どうでもいい人の顔を覚えるのが苦手で」

 

 ペルシアは苦笑した。

 その笑いは、ふらつきと二日酔いの汗で、全然可愛くない。

 でも、“効く”。

 

「いい加減にしなさい!!」

 

 ガーネットが叫んだ。

 声が高い。自己防衛の叫びだ。

 ペルシアの耳が、きんと痛む。

 

「ちょっと大声出さないでよ……頭に響くじゃない」

 

 ペルシアはこめかみを押さえた。

 

「こっちは二日酔いなんだから」

 

 十班チーフが歯噛みする。

 

「ちょっと班長! エリンはいないの!?」

 

 タツヤが肩を落とした。

 

「エリンは昨日、長期フライトだったから午前中は休み」

 

「……くそ!」

 

 十班チーフが舌打ちをする。

 その“くそ”に、ペルシアは薄く笑った。

 

(エリンがいないから、今ここで私を吊し上げる。そういう算段か)

 

 ペルシアは息を吸って、吐く。

 吐く息が震える。

 震えてるのは怒りじゃない。身体が、まだ戻ってない。

 

「それで……何の用なの?」

 

 青ざめた顔のまま、ペルシアは言った。

 十班チーフが待ってましたとばかりに口を開く。

 

「昨日のフライトで、十班の乗務員が出来なかった対応。あれ、全部あなたの責任よね?」

 

「副パーサーのガーネットからも報告が上がっているわ」

 

 ガーネットが頷き、胸を張った。

 “私は正しい”の顔。

 その顔を見た瞬間、カイエの目が、ぶつりと音を立てて切れた。

 

「……ふざけないでください」

 

 低い声。

 それが怖かったのか、十班の乗務員たちが息を呑む音がした。

 

「あなたたちが出来なかったことを、応援に来た人間に押し付ける? それがチーフパーサーと副パーサーのやることですか?」

 

 十班チーフが鼻で笑う。

 

「若い子には分からないでしょうね。組織っていうのは——」

 

「分かってますよ」

 

 カイエが遮った。

 遮り方が鋭い。

 刃物で糸を断つみたいに。

 

「組織だからって、“守るべきもの”の順番を間違えていい理由にはならない。お客様の安全と安心が先でしょう!」

 

「……安心?」

 

 ガーネットが笑った。

 

「安心なんて、十四班みたいなエリートじゃないと無理よ。私たちは現実的にやってるの」

 

 その言葉で、カイエの表情が完全に冷えた。

 

「現実的? 怖さも焦りも表情に出していない? 声も震えていない? あなた、それ、本気で言ってます?」

 

 ガーネットがむっとする。

 

「言ってます」

 

「……嘘です」

 

 カイエが、はっきり言った。

 

「震えてました。焦ってました。お客様の方がそれを拾って、余計に不安になっていました。ペルシアさんは、その尻拭いをしていました」

 

 十班チーフが眉を吊り上げる。

 

「証拠は?」

 

 カイエが一瞬、言葉を失う。

 耳がいいのはペルシアだ。カイエは“感じた”だけで、記録があるわけじゃない。

 けれど、カイエは引かなかった。

 

「証拠? ……証拠がないと、人の必死さは守れないんですか?」

 

 その言葉が、事務室に落ちた。

 重い。

 十班チーフは苛立ったように鼻を鳴らす。

 

「感情論ね」

 

 カイエの手が震えた。

 怒りで、ではない。

 耐えている震えだ。

 ここで殴りかかったら負けだと理解している。

 

「感情論じゃない。現場論です」

 

 カイエは一歩も退かない。

 その背中が、ペルシアにはまぶしかった。

 耳が拾う。“守ろう”としている音がする。

 

 ペルシアは、頭の痛みを押し込めるように眉間を押さえながら、ぼそっと言った。

 

「……カイエ」

 

「はい」

 

 カイエは即答した。

 ペルシアは言葉を探す。

 探すのに、脳が重い。二日酔いは最悪だ。

 

「いいから……水買ってきて」

 

「え?」

 

 カイエが目を見開く。

 今、この状況で? という顔。

 でもペルシアは、ICカードを差し出した。

 

「……お願い。今、口の中、砂漠」

 

 ペルシアの顔色は本当に悪い。

 さっき吐いたばかりだ。

 カイエは歯を噛み、カードを受け取った。

 

「……分かりました。すぐ戻ります」

 

 カイエが踵を返した瞬間、十班チーフが言った。

 

「逃がしたわね。あの子、あなたの盾だったの?」

 

 ペルシアは、ゆっくり顔を上げた。

 青白い顔。目の下のクマ。

 なのに、その目だけは鋭い。

 

「盾? ……違うよ」

 

 ペルシアは短く笑った。

 

「カイエがここでキレたら、あんたら“若いから”で潰すでしょ。そういうの、見飽きた」

 

 十班チーフが顔を歪める。

 

「なに、それ。被害者ぶって——」

 

「被害者じゃない」

 

 ペルシアは、言葉を切った。

 酔いの残りが、妙に冷静さを連れてくる。

 酒が抜けきってないから、遠慮が抜ける。

 

「私、今めちゃくちゃ気持ち悪いし、頭痛いし、喉カラカラで、たぶん今このままもう一回吐けって言われたら吐けるけど」

 

 十班チーフの眉が上がる。

 ガーネットが顔をしかめる。

 

「それでも――」

 

 ペルシアは、一歩、前に出た。

 ふらつくのを、気合で止める。

 

「昨日のフライトで“十班が出来なかったこと全部、私の責任”って? それ、言い掛かりだよ」

 

 声は大きくない。

 でも、事務室の空気が変わる。

 耳が拾う。“ざわっ”という音。

 十四班の机の向こうでも、誰かが息を止めた。

 

「私がやったのは、壊れかけた現場を“今この瞬間だけでも回す”こと。回さなかったら、お客様はもっと怖がった。もっと怒った。もっと傷ついた」

 

 ペルシアはガーネットを見た。

 真正面から。

 

「副パーサーってさ。偉い役職なんでしょ?」

 

 ガーネットが唇を噛む。

 

「だったら、現場で“他の乗務員の所為”なんて口が裂けても言うな。あんたの仕事は、守る側を守ることでもあるんだよ」

 

「……私を侮辱する気?」

 

 ガーネットが声を荒げる。

 十班チーフが口を挟もうとする。

 そのとき、ペルシアが手を上げた。

 

「ちょっと黙って。今、頭に響く」

 

 十班チーフが呆れたように鼻で笑う。

 

「二日酔いを盾にするなんて」

 

「盾じゃない。……ただの事実」

 

 ペルシアは、ゆっくり息を吐いた。

 胃がまだ波打っている。

 でも、言わなきゃいけない。

 

「昨日、乗務員が怖がってた。揺れたとき、震えてた。声が上ずってた。そこに“平然としてる副パーサー”が一人でも立ってれば、全員が救われた。お客様も、救われた」

 

 ガーネットが目を逸らす。

 逸らした瞬間、ペルシアは確信する。

 

(こいつ、自分でも分かってる)

 

 十班チーフが苛立ちを隠さずに言う。

 

「だから何? 結果としてクレームが出た。責任者は誰?」

 

 ペルシアは、苦笑した。

 乾いた笑い。

 喉が痛い。

 

「責任者? 責任者は“その班の責任者”でしょ」

 

 十班チーフの顔が引き攣る。

 

「応援に来た人間に全部押し付けるってことは、つまり……自分の班を、自分で守る気がないって言ってるのと同じだよ」

 

 その一言で、空気がさらに冷える。

 ペルシアは続けたくない。

 本音では、こんな口論に時間を使いたくない。

 今は水が欲しい。今は横になりたい。

 

 でも、ここで引いたら――昨日の現場が“いつもの事”にされる。

 それが一番嫌だ。

 

 足音が戻ってきた。

 カイエだ。水のボトルを二本、息を切らして持っている。

 カイエの顔はまだ怒っている。怒りが冷えた怒りだ。

 

「ペルシアさん」

 

「ありがと……ほんと助かる」

 

 ペルシアは水を受け取り、キャップを開けて一気に飲んだ。

 冷たさが喉を通って、胃に落ちていく。

 

 ――ようやく、少しだけ世界が戻る。

 

 ペルシアは息を吐き、もう一本の水を机の上に置いた。

 

「で」

 

 短い一音。

 それだけで、相手が身構える音がした。

 

「私の責任にしたいなら、正式に書類回して」

 

 十班チーフが目を細める。

 

「書類?」

 

「うん。報告書。事実関係。タイムライン。誰がどの指示を出して、誰がどの対応をして、誰が何を見逃したか。ぜーんぶ」

 

 ペルシアは口角を上げた。

 笑ってるように見えて、笑っていない。

 

「私、“耳”がいいからさ。覚えてるよ。昨日の船内の音。声。足音。呼吸。……嘘は通らない」

 

 ガーネットが顔色を変える。

 十班チーフも、一瞬だけ言葉を失った。

 

 カイエが、横で息を吐いた。

 怒りで燃え上がっていた火が、今は“守るための火”に変わっているのが分かる。

 カイエはペルシアの横に立ち、はっきり言った。

 

「言い掛かりで人を潰すなら、十四班は黙っていません」

 

 その声に、十班チーフが舌打ちをしそうになる。

 でも、さすがに周囲の視線がある。

 十四班の事務室だ。タツヤもいる。今ここで無理をすれば、自分たちの方が不利になる。

 

「……今日は引くわ」

 

 十班チーフが言った。

 引く、というより、退避だ。

 面倒が大きくなるのを避けた。

 

「でも忘れないで。あなたが余計なことをしたせいで——」

 

「余計なこと?」

 

 ペルシアが遮った。

 低い声。

 二日酔いのせいで、逆に迫力がある。

 

「余計なことって、“守ること”のこと?」

 

 十班チーフが口を閉じた。

 ガーネットが唇を噛み、視線を逸らす。

 

 ペルシアは水をもう一口飲んで、肩で息をした。

 まだ気持ち悪い。

 頭も痛い。

 でも――少しだけ、楽になった。

 

 カイエが小さく言った。

 

「……ペルシアさん、さっきの“ごめん”は……」

 

 ペルシアは机にもたれ、目を閉じた。

 

「……吐く方のごめん」

 

 カイエが一瞬固まり、次の瞬間、堪えきれずに笑いそうになって口を押さえた。

 笑ったら怒られる、って顔をしている。

 でもその顔が、ペルシアには救いだった。

 

「それと」

 

 ペルシアは目を開け、カイエを見た。

 いつもの軽口じゃない目。

 

「守ってくれてありがと。……今日の私、弱い」

 

 カイエが、真っ直ぐ頷いた。

 

「弱くないです。……守るって決めてる人は、弱く見えない」

 

 ペルシアはふっと笑った。

 そしてこめかみを押さえ、ぼそっと呟く。

 

「……水、あと三本ほしい」

 

 タツヤがその場で吹き出しそうになって、咳払いで誤魔化した。

 十班の女たちは、最後にもう一度だけ鋭い視線を投げて、事務室を出ていった。

 

 扉が閉まる。

 ようやく、空気が少し柔らかくなる。

 ペルシアは椅子に沈み込み、背もたれに頭を預けた。

 

「……最悪の朝」

 

 呟くと、カイエが横で低く言った。

 

「最悪じゃないです。……言い返せました」

 

 ペルシアは目を閉じたまま、苦笑した。

 

「うん。……次は、エリンがいる日にやってほしい」

 

 そう言って、ペルシアは水を抱えた。

 胸の奥で、まだ怒りはくすぶっている。

 でも――その怒りは、“誰かを守るため”の形をしていた。

 

ーーーー

 

 昨日のフライトの件は、朝の騒動で“表に噴き出した”だけだった。

 その根っこはもっと深くて、もっと苦くて、そして――十四班にとっては見過ごせない匂いがする。

 

 エリンとタツヤが揃って事務室に戻ったのは、午前の終わり頃だった。

 エリンの顔には、長距離フライト明け特有の薄い疲れが残っている。けれど歩き方は崩れていない。人を安心させる“いつものリズム”だ。

 

 ただ、扉を開けた瞬間に、エリンの空気が変わった。

 視線が机の並びを一度撫でる。誰がどこにいて、誰がどんな顔をしているか。声にならない情報を拾い、整理し、優先順位をつける。

 

 そして、いちばん最初に口にしたのは――

 

「……ペルシア、いないのね」

 

 その声は平坦だった。

 感情を隠しているのではない。感情を暴走させないために“整えている”声だ。

 

 タツヤが苦笑いを浮かべる。

 

「今朝はなかなかのことになっててね」

 

 その横で、カイエが一歩前に出た。

 いつもより肩が硬い。目が冴えすぎている。怒りを押し込める癖が、まだ抜けていない。

 

「……話します」

 

 カイエがそう言った瞬間、エリンの視線が柔らかくなった。

 責める目じゃない。守る目だ。

 

「うん。会議室に行きましょう。落ち着いて話せるところで」

 

 エリンがそう言うと、周囲の空気がすっと整う。

 ククルもエマも、言葉は出さないが、胸の奥で安心する音がした。

 

 会議室の扉が閉まる。

 外のざわめきが一枚の壁で切り落とされ、静けさが降りてきた。

 

 エリンが椅子に座り、タツヤも向かいに腰を下ろす。

 エリンはメモ端末を開かない。カイエの顔を見て、まず呼吸を合わせる。

 

「大丈夫。責めない。順番に、事実を教えて」

 

 その一言で、カイエの肩がほんの少しだけ下がった。

 

 カイエは話し始めた。

 十班のブリーフィングがどれだけ軽かったか。

 定期便では“ほとんどやらない”という現実。

 出発した後の船内が想像以上に酷かったこと。乗務員同士の連携がぎこちないだけでなく、客の対応に追いつかず、危険の芽があちこちで膨らんでいったこと。

 

「……揺れた時も、そうでした。姿勢制御ユニットが止まって……」

 

 カイエが言葉を詰まらせる。

 

 タツヤが眉を寄せた。

 

「止まっただけで済ませたのか、操縦室は?」

 

「はい。確認したら“大したことはない”と。……苛立った声で」

 

 エリンの指が、机の上で小さく止まった。

 その止まり方は、怒りを飲み込んだ合図だ。

 

 カイエは続ける。

 副パーサーのガーネットが、表情に怖さと焦りを滲ませていたこと。声も震え、乗客の不安を増幅させていたこと。

 そして何より、事後のブリーフィングで――“いつものこと”として片付けようとする空気があったこと。

 

 エリンは黙って聞き続けた。

 途中で頷くが、口を挟まない。

 カイエの言葉が途切れないように、呼吸の間だけを作る。

 

「……それで、ペルシアさんが、容赦なく指摘をして……」

 

 カイエの声が少し低くなる。

 

「ガーネットさんが“自分のせいじゃない、乗客に伝染したのは他の乗務員のせい”って」

 

 タツヤが顔を覆った。

 

「……おいおい」

 

 カイエは一度だけ唇を噛み、続けた。

 

「それで……口論になって。ペルシアさんが……“私の言うことが聞けないなら、同乗拒否届を提出しなさい”って」

 

 その言葉が落ちた瞬間、エリンとタツヤが同時に頭に手を当てた。

 まるで同じ痛みが走ったみたいに。

 

「同乗拒否届は……やり過ぎだわ」

 

 エリンの声は静かだった。

 静かだからこそ、重い。

 

 タツヤが低く唸る。

 

「しかも相手が……あの十班のチーフパーサーだもんな」

 

「ええ。ドルトムント財閥の取引先の娘ですよね」

 

 エリンが言うと、タツヤが苦い顔で頷いた。

 

「ああ。しかもガーネットもだ」

 

「……まったく」

 

 エリンの呟きは、落胆じゃない。

 “やっぱり来たか”という、現場を知る者の疲労だ。

 

 カイエは思わず前のめりになる。

 

「ですが、ペルシアさんが怒るのは当たり前です。……私でも、怒ってました」

 

 エリンの目が少しだけ柔らかくなる。

 カイエの怒りを否定しない。正しい方向へ戻すために受け止める。

 

「それは分かるわ。私でもきっと怒ってる」

 

 エリンは一拍置いて続けた。

 

「ペルシアが取った行動が、根っこから間違っているとは思わない。……守ろうとしたのは事実だから」

 

 タツヤも頷く。

 

「俺だって、現場を見たらぶち切れる」

 

 カイエの胸の奥が、少しだけ軽くなった。

 理解される、ということが人を救う。

 

 ――だが、エリンはそこで止めない。

 守る人間は、優しさだけで終わらせない。

 

「ただ」

 

 エリンの声が一段落ちる。

 熱を引いた冷静さが戻ってくる。

 

「同乗拒否届は、役員の手元にも行くのよ」

 

 カイエが息を止めた。

 タツヤも、苦い顔で頷く。

 

「ああ。そうなれば、ガーネットの件で有利に働いてしまう」

 

 “有利”という単語が、胸に嫌な棘を残す。

 正しさが勝つのではなく、立場が勝つ――その構造の話だ。

 

 カイエは唇を噛み、勢いで言ってしまった。

 

「……もし、それでペルシアさんが何か罰を受けるのでしたら、私も受けます」

 

 言い切った瞬間、エリンの目が鋭くなった。

 怒るためじゃない。止めるための鋭さ。

 

「バカなこと、言わないで」

 

 エリンの声には揺れがない。

 カイエの覚悟を、真っ向から折る。

 

「そんなことは絶対にさせないから」

 

 その言葉が、会議室の空気を変えた。

 “十四班のチーフパーサー”の言葉だ。

 現場を守る人間が、責任を背負うと決めた声。

 

 タツヤも、同じ方向を見た。

 

「ああ。その時は俺がなんとかする」

 

 カイエは思わず息を吐いた。

 胸の奥に、熱いものが残る。

 守られるというのは、こういうことなのだ。

 

「……エリンさん、タツヤ班長……」

 

 カイエが呟く。

 言葉がそれ以上出ない。

 

 エリンは、ふっと表情を柔らかくした。

 “守る”は、硬いだけでは続かない。安心も必要だ。

 

「それはそうと」

 

 エリンは話を切り替えた。切り替え方が鮮やかで、カイエの脳内の混乱が少し整理される。

 

「ペルシアはどこに行ったの?」

 

 カイエはすぐ答えた。

 

「ペルシアさんでしたら……二日酔いでダウンして、今、屋上でリュウジさんが介抱しています」

 

 エリンの眉が、きゅっと寄った。

 その表情だけで心配が伝わる。

 

「……フライトの後で二日酔いなんて。よっぽど辛かったのね」

 

 エリンは立ち上がった。

 座ったままでも指示は出せる。だが、エリンは“行く”を選んだ。

 本人の顔を見なければ、守り方を決められないから。

 

「タツヤ班長、私、屋上に行ってきます」

 

「俺も行く。……いや、俺は下で役員筋の動きの予測と対策を組む。エリン、頼む」

 

「ええ。任せてください」

 

 エリンは会議室を出る。

 廊下の空気が変わる。人がエリンの存在を感じ、背筋を正す。

 怒られるのが怖いのではなく、“この人が来たら状況が整う”と本能で知っているからだ。

 

 エリンは事務室に戻り、ククルとエマに短く告げる。

 

「ククル、エマ。今朝の件、動揺してる子がいたら、無理させないで。声がけをお願い」

 

「は、はい!」

 

「分かりました」

 

 エリンはさらにカイエに視線を向ける。

 

「カイエ、あなたも。今日は“戦った”日よ。あとで必ず休憩を取って」

 

「……でも——」

 

「でもじゃない。命令」

 

 優しく言うのに、拒否できない。

 それがエリンの強さだった。

 

 

 

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