その日の夜。
木星コロニーの繁華区画は、仕事帰りの人間でまだ明るかった。人工の夜景はやけに綺麗で、だから余計に腹が立つ。誰もが“今日も無事だった”みたいな顔で歩いている。
――無事?
無事って、何だ。
ペルシアは人波を割るみたいに歩きながら、喉の奥で笑った。笑ったつもりだったのに、音にならない。胸の真ん中だけが熱くて、手のひらが冷たい。手袋を外しても、指先が冷えたまま。
吐き出す場所が欲しい。
声にしたら、今度は泣きそうになる。
泣くのは嫌だ。泣いたら負けた気がする。何に? 何にだよ。
「……ヤケ酒だ!」
ペルシアは自分で自分を焚き付けるように言い放って、BARの扉を押し開けた。
金属と木が混ざった匂い。冷たい空気。グラスが触れ合う、乾いた音。照明は暗めで、客の顔がはっきり見えない。ありがたい。今の自分の顔も、見られたくない。
「いらっしゃいませ」
カウンターの奥でバーテンダーが軽く会釈する。
ペルシアは空いてる席に腰を下ろして、バッグをカウンターにどん、と置いた。
「強いの。早いの。……いっぱい」
「かしこまりました」
言葉の端が荒いのに、バーテンダーは動じない。プロだ。
ペルシアはその落ち着きに、逆にイラッとした。――いや、違う。自分が荒れてるだけだ。
出てきた琥珀色のグラスを掴み、口をつける。
熱が喉を焼いて、胃に落ちていく。
ふっと息が漏れた。ようやく“息”ができた気がした。
「はぁ……」
二杯目を頼む前に、もう一口。
そのまま、三口。
空になる。
「次」
短く言うと、バーテンダーが無言で頷いた。
その“無言の理解”が、また少し胸に刺さる。今日、自分が相手にしたのは“無言で理解する”気配すら持たない人間だった。
ペルシアは、グラスの底を見つめた。
底には何もない。
今日の自分も、いま、似たようなものだ。怒りで埋まっているようで、実は空っぽで、ただ痛い。
「何が……他の乗務員の所為だ」
呟きがこぼれる。
言った瞬間、また腹の底が熱くなる。
「何が、“いつもの事”だよ……」
グラスが補充される。
ペルシアは受け取って、今度は一気に半分くらい飲んだ。
喉が熱い。目の奥も熱い。
でも泣いてない。泣いてないぞ。
脳裏に浮かぶのは、客室で聞いた言葉。
揺れたときの悲鳴。
誰かが泣きそうな声で「大丈夫です、落ち着いてください」と言っていた、あの震え。
――震えてたのは、その子のせいじゃない。
震えたままでも、言わなきゃいけないから言った。
守りたいから、声を出した。
それを“他の乗務員の所為”って言える神経が理解できない。
ペルシアはグラスを置いて、指でカウンターをトントンと叩いた。
耳が拾う。氷の鳴る音、誰かの笑い声、ドアの開閉音。
全部が、煩い。
でも、煩い方がいい。静かな方が、頭の中の“あの声”が大きくなる。
「――あんたさ」
ペルシアは隣席の空間に向かって、勝手に話しかけた。誰もいないのに。
「ああいう人間って、なんで……あんなに堂々と責任を投げられるわけ?」
答えはない。
だからまた飲む。
強いアルコールが、脳の端を少しずつ麻痺させていく。いいぞ。麻痺しろ。いっそ全部麻痺してしまえ。
でも、麻痺しないものがある。
耳は、麻痺しない。
心臓も、麻痺しない。
「ねえ、次、もっと強いの」
「かしこまりました」
また、丁寧。
腹が立つ。
いや、立たない。
なんかもう、よく分からない。
出てきたグラスは透明で、液体も透明だった。
匂いだけで強いと分かる。
ペルシアはにやっと笑う。
「よし。これだよこれ」
一口。
喉が熱い。
胃が熱い。
――世界がちょっとだけ、遠くなる。
その遠さが、少し気持ちいい。
ペルシアは頬杖をついて、ぼんやり天井の暗い照明を見た。
(エリン、今頃どうしてるかな)
ふっと思って、すぐに眉間に皺が寄る。
「……いや、ダメダメ。今は私の時間。エリンの話は禁止」
自分に言い聞かせる。
なのに、頭は勝手に思い出す。
エリンが冗談みたいな笑顔で、でもちゃんと全部整えていく姿。
それが羨ましいとか、そういうんじゃない。
ただ、あの人がいたら今日の十班はもう少し違っただろう、って思ってしまう。
「くそ」
ペルシアは短く吐き捨てた。
その“くそ”は、誰に向けたのか、自分でも分からない。ガーネット? 不満顔の乗務員? パイロット? 組織? 自分?
全部だ。全部。
もう一口飲んだとき――
「隣、いいですか?」
落ち着いた声が、耳に入った。
ペルシアは反射で顔を向ける。暗い照明の中でも分かる、背筋の通った男。
スーツが妙に場に馴染んでいない。馴染まないのに、浮いてもいない。
“権力の匂い”がする。
「どーぞ」
ペルシアは手をひらひらと振った。
そして相手の顔を見て、眉が吊り上がる。
「……またあんたか」
宇宙管理局長。
あの社交パーティーで“統括官の席”なんて言ってきた、あの男。
局長は、軽く肩をすくめた。
「偶然だよ。……随分と荒れているようだね」
「見りゃ分かるでしょ」
ペルシアはグラスを持ち上げて、くいっと飲んだ。
局長はそれを見て、少しだけ目を細める。笑ってはいない。観察している目だ。いやな目じゃない。むしろ、厄介な種類の“真面目さ”だ。
「今日は、何があった?」
「なにがあった? あったよ。あったあった。あったに決まってんじゃん」
ペルシアの言葉が早くなる。
酔いが舌を軽くして、心の扉を壊していく。
「十班の応援。代理チーフ。最悪。連携ぐだぐだ。揺れて、悲鳴で、怒声で、子ども走るし、親は叫ぶし、乗務員は固まるし、パイロットは偉そうだし」
局長は黙って聞いている。
その沈黙が、ペルシアをさらに喋らせる。
「でさぁ……ブリーフィングしたの。刺さる言葉で。だって刺さないと刺さらないんだもん、ああいう人ら。やんないと変わんない。変わんないとまた誰かが泣く」
ペルシアは指でカウンターを叩いた。
トン、トン。
音が、自分の怒りのリズムみたいで、ちょっと気持ちがいい。
「そしたらさぁ、副パーサーが言うの。“私は怖さも焦りも出してませんでした”って。声も震えてませんでしたって。……はいはい、よかったねぇ、完璧だねぇ。でもさ、他の子震えてたんだよ? 支えろよって話じゃん? 副パーサーだろ? 役職飾りじゃないだろ?」
局長は頷かない。否定もしない。
ただ、視線だけは逸らさない。
その視線が、ペルシアの胸に熱を戻す。
「なのにさぁ……“乗客に伝染したのは他の乗務員のせいです”って言うの。は? はぁ? はぁぁぁ?ってなるじゃん。私、今日一回しか生きてないけどさ、あれはダメだよ。ダメ。守る側が言っちゃダメ」
ペルシアはグラスを持ち上げ、飲み干した。
空になったグラスをカウンターに置く音が、少し大きい。
「……何が他の乗務員の所為だ」
呟きが、さっきより濃い怒りになってこぼれた。
「怖いなら怖いって言えばいいじゃん。怖いのは悪くない。怖いのに客の前に立つのが、仕事なんだよ。そこを――“いつもの事”で流すな」
局長が、ようやく口を開いた。
「君は、誰かを守ろうとする」
「当たり前でしょ」
ペルシアは即答した。
その瞬間、自分でも驚くくらい声が真っ直ぐだった。
「守るのが仕事だもん。……守れないなら、何のために制服着てんのって話」
局長は小さく息を吐く。
まるで、答え合わせをしたみたいに。
「やっぱり君のような人間は、管理局に必要だ」
「はいはい、またそれ」
ペルシアは手をひらひら振った。
酔っているせいで動きが大きい。自分でも分かる。
でも止まらない。
「私、ヘッドハンティング受けないって言ったじゃん。今の班が好きだし。あの……十四班。バカみたいに個性的で、めんどくさくて、でも“守る”ってとこだけは一致してんの。あそこ好きなんだよ」
言った瞬間、胸が少し柔らかくなる。
好き、って言葉を口にするのは、意外と効く。怒りを少しだけ溶かす。
局長はその柔らかさを見逃さず、静かに続けた。
「見学でもいい。一度、来てくれ。君の力が活きる場所を見せたい」
「気が向いたらね〜」
ペルシアはわざと軽く言って、グラスを要求するように手を上げた。
バーテンダーが何も言わずに水を置く。
ペルシアは水を見て、眉をしかめた。
「……え、なに。私、子ども扱いされてる?」
「水は大事だ」
局長が淡々と言う。
正論で殴ってくるタイプだ。嫌いじゃない。……いや、嫌いかも。
「うるさいなぁ。局長って、ほんと……説教くさい」
ペルシアは水を一口飲んだ。
冷たさが胃に落ちて、少しだけ世界が戻る。
戻らなくていいのに。戻るな。
「……でもさ」
ペルシアは顎を引いて、局長を見た。
視線が合う。
局長は逃げない。
「私、今日、やり過ぎたかも」
ぽろっと出た言葉。
自分で自分の口を疑う。
こんな弱音、出すつもりなかった。
局長は驚かない。
ただ、少しだけ声を落とした。
「後悔している?」
「後悔っていうか……」
ペルシアは指でグラスの縁をなぞった。
氷が残っていないのに、指先が冷たい。
「同乗拒否届出せって言っちゃった。……あれ、形だけの書類なのにさ。私が言ったせいで、現実になっちゃうかもしれない」
局長が静かに頷いた。
「それは、責任だ」
「……うん」
ペルシアは短く答えた。
責任。
今日、責任から逃げたのは誰だ。
逃げなかったのは誰だ。
ペルシアは自嘲気味に笑って、もう一杯を頼もうとして、手を止めた。
水を見て、舌打ちしたくなる。
「でもさ、責任ってさ、重いよね」
「重い。だから、持てる人間が少ない」
局長の言葉は淡々としているのに、妙に刺さる。
酔っているせいで、刺さり方が直球だ。
「……持てないなら、乗務員やめればいいのに」
ペルシアが言うと、局長は否定しなかった。
その沈黙が肯定に聞こえて、ペルシアはまた腹が立つ。
でも同時に、妙に救われる。自分の怒りが、間違いじゃないって言われた気がするから。
「なぁに、その顔」
ペルシアは局長の顔を覗き込んだ。
距離感が近い。酔いの距離感だ。
「局長って、こういうとこ来るんだ。意外。もっと偉そうな会員制のとこで、偉そうな酒飲んでると思ってた」
「ここは静かだ。話ができる」
「私と?」
「君と」
局長が即答した。
ペルシアは一瞬、言葉に詰まって、誤魔化すみたいに鼻で笑う。
「……気持ち悪い」
「褒め言葉として受け取っておこう」
「受け取るな」
ペルシアは肩を揺らして笑い、でも笑いながら、胸の奥に残っていた怒りが少しだけ薄くなるのを感じた。
怒りが消えるわけじゃない。
ただ、燃え方が変わる。
“破壊”から、“支える”に変わる。
そういう変化。
「でもさぁ」
ペルシアはまた口を開いた。
酔いが、言葉を止めてくれない。
「私、十四班が好きなんだよ。エリンも、タツヤ班長も、リュウジも、ククルも、カイエも、エマも……みんなさ、変なとこ真面目で、変なとこ優しくて、変なとこ不器用で」
局長は黙って聞く。
ペルシアは指で空をなぞった。人の輪郭をなぞるみたいに。
「私が守りたいの、客だけじゃないんだよね」
ぽつり。
それが本音だった。
「客を守るのも仕事。仲間を守るのも仕事。……どっちも守れない組織なら、いらない」
局長が静かに言う。
「だからこそ、管理局に来い」
「だからこそ、行かない」
ペルシアは即答して、舌を出した。
「今の私がいなくなったら、十四班、誰が飲み会の盛り上げ担当やるの」
「それは重要だな」
「でしょ?」
ペルシアは得意げに頷いて、ふっと表情が緩んだ。
でも、次の瞬間、顔が曇る。
耳が拾ってしまった。
頭の中で、また“他の乗務員のせいです”が再生される。
「……くそ」
ペルシアは小さく呟いた。
局長はその呟きを拾っても、追い詰めるようなことは言わない。
「今日は、眠れそうか」
「眠れるわけないじゃん」
ペルシアは即答し、少しだけ唇を噛んだ。
言い過ぎた。
でも、事実だ。
「耳、良すぎなんだもん。聞こえた言葉、残るんだもん。消えないの。だから酒で流すの。流れないけど」
局長が少しだけ目を細める。
同情じゃない。理解の目だ。
それが、悔しいほどありがたい。
「……見学、考えとく」
ペルシアはぼそっと言った。
言った瞬間、また腹が立つ。
何で私、こんなこと言ってんの。酔いって最悪。
局長は微かに口角を上げた。
「気が向いたらでいい」
「うん、気が向いたらね〜」
ペルシアはさっきと同じ言葉を、今度は少しだけ柔らかく言った。
そして、カウンターに突っ伏しそうになるのを堪え、背筋を伸ばした。
「……でも、局長。これだけは言っとく」
「何だ」
ペルシアは顔を上げ、目を据えた。
酔っていても、ここだけはぶれない。
「私は、誰かの命を“いつもの事”で流す人間が大嫌い」
局長は頷いた。
「私もだ」
短い返事。
それだけで、ペルシアの胸の奥の怒りが、ほんの少しだけ形を変えた。
明日になったらまたムカつくだろう。
また刺さるだろう。
また眠れないかもしれない。
でも――
「……よし、じゃあ今日はこれで終わり!」
ペルシアは立ち上がり、ふらっと揺れた。
局長が手を出しかけて、やめる。触れたら怒られるのが分かっている顔だ。
「ペルシア」
「なに」
「水、飲め」
「うるさい!」
ペルシアは水を一気に飲み干して、空のグラスを乱暴に置いた。
そして、ふらふらしながらも、勝ち誇ったみたいに言う。
「ほら、飲んだ! 偉いでしょ!」
「……偉い」
局長の真面目な返事に、ペルシアは吹き出した。
「なにそれ! ほんと気持ち悪い!」
笑いながら、ペルシアはBARの扉に向かう。
外の光が眩しい。
まだ夜なのに、コロニーは明るい。
――明るさが、少しだけ腹立たしい。
でも、その明るさの中で、守るべきものがある。
ペルシアは小さく息を吐いて、独り言みたいに言った。
「……明日、起きたら二日酔いで死んでるかも。……でも、それでも、やるしかないか」
誰に言うでもなく。
自分に言い聞かせるように。
背中の後ろで、局長の声が静かに追いかけてきた。
「君は、やるだろう」
「当たり前じゃん」
ペルシアは振り返らずに手を振った。
ふらついた手振り。
でも、その手は、逃げていなかった。
ーーーー
次の日。
木星コロニーの朝は、いつだって明るすぎる。人工光が容赦なく瞼を突き刺してくる。ペルシアは出社ゲートを抜けた瞬間から、頭の奥で鈍い鐘が鳴り続けているのを感じた。
(……ああ、これだ。完全にやったやつだ)
口の中が乾いて、舌が重い。胃の辺りが、ずっと小さく波打っている。昨日のBARの“強いの早いのいっぱい”が、今になってツケを取りに来ていた。
それでもペルシアは、いつものように腰を揺らすように歩いて事務室に入った。
入った――瞬間、違和感。
ざわざわ。
笑いではない。軽口でもない。
何か、空気が硬い。視線が一点に集まり、言葉のトゲが飛んでいる音がする。
ペルシアは顔を上げるのがしんどくて、いつもより小さく息を吸った。
「……おはよう」
声が、かすれた。
返事はなかった。
いつもなら、ククルが「おはようございます!」と跳ねるように返してくる。エマが「おはよう」と穏やかに笑って、カイエが軽く会釈する。タツヤが「おはよ〜」と眠そうに手を振って――そんな、いつもの朝がある。
今日は、ない。
ペルシアの耳が拾う。
誰かの怒気。紙の擦れる音。靴の踵が床を叩く音。
人の気配が、集団で鋭くなっている。
「ペルシア、ちょうど良かった。来てくれ」
タツヤの声。
いつもの“軽い”調子じゃない。困り切った、責任者の声。
ペルシアは返事もせず、ふらりとそちらに向かった。
タツヤの周りには女性が三人。制服のシルエットが違う。十四班じゃない。
その横に、カイエが立っていた。
カイエの顔色が、明らかに悪い。
怒りで血が引いているときの、あの白さ。
ペルシアは思わず眉を寄せた。
頭の奥で鐘が鳴る。強くなる。
(……あー、やめて。今の私に“面倒ごと”は刺激が強い)
その瞬間、鋭い声が刺さった。
「あなた、よくも私の十班で好き勝手に暴れてくれたようね」
言ったのは、先頭に立つ女。
短く整えた髪。眉が細く、目が鋭い。声の張りが“慣れている”。人を叱ることに、慣れている声だ。
タツヤが間に入ろうとする。
「まぁまぁチーフパーサー……」
「まぁまぁじゃない!」
一喝。
タツヤが口を閉じる。
その様子に、女が勝ち誇ったように口角を上げた。
「……あんなに私に啖呵を切っていたくせに、自分の時はこのザマなのね」
ペルシアは俯いたままだった。
落ち込んでいるのだと、相手は思ったらしい。声が更に上からになっていく。
「荒れたフライトだったようだけど、碌に指示も出さないで、失敗したら全部、十班の乗務員の所為にするなんて。全て副パーサーのガーネットから聞いたわよ」
――耳が、拾う。
ガーネットの呼吸。自信のある鼻息。
“私のせいじゃない”の温度。
反応したのはペルシアではなかった。
「……何言ってるんですか!」
カイエの声が、硬く割れた。
普段は落ち着いている、あのカイエの声が。
「それはそちらの副パーサーの事じゃないですか! 変な言い掛かりはやめてください!」
ガーネットが、眉を吊り上げる。
「変な言い掛かりはやめてください! あなたこそ、他人に罪をなすりつけるなんてどういう教育をしてるのよ!」
十班チーフパーサーが、カイエに向けて刃を投げる。
言葉の刃先が“若い”ところを狙っている。
格下だと見て、踏みにじるときの声だ。
カイエの拳が、わずかに震えた。
それでも引かない。目が、真っ直ぐだ。
「教育? ……違います」
カイエは一歩、踏み出した。
空気が張る。
ペルシアはその張りを、耳で感じた。
「あなたたちは、昨日、船内で何が起きていたか見てない。いえ、見てたのに“見なかった”ふりをしたんでしょう!」
「いい加減に——」
十班チーフが言いかけた、その瞬間。
「ごめん」
小さな声が割って入った。
ペルシアだった。
全員が一瞬止まる。
ガーネットが勝ち誇ったように息を吸う。
「ほら見なさい」
「ペルシアさん、どうして……!」
カイエの声が揺れた。怒りじゃない。困惑と、悔しさ。
ペルシアはもう一度だけ言った。
「ごめん」
それから、踵を返した。
走った。――いや、“走ったつもり”だ。現実はふらつきながら、早足で自分の席に向かう。
「……あはは。逃げるなんて随分と腰抜けね」
十班チーフの嘲笑が背中に刺さる。
刺さるけど、今はどうでもいい。
胃が、限界に近い。
ペルシアは自分の机にたどり着き、引き出しを乱暴に開けた。
紙袋を掴む。
次の瞬間――
「オェェ……!」
事務室の空気が凍った。
ペルシアは紙袋に顔を埋めた。
「オェェェ……っ……!」
胃の中の酸が喉を焼く。
涙が勝手に滲む。
最悪だ。最悪の朝だ。最悪のタイミングだ。
音だけが響いて、時間が止まっていた。
そして、ペルシアがふらりと顔を上げる。
「……気持ち悪い」
その一言で、止まっていた時間が一気に動き出した。
「窓あけろ!」
タツヤの号令。
ククルとエマが、反射で窓へ走り、ロックを外す。
冷たい外気が流れ込み、吐き気の匂いを押し流し始める。
「ごめん……」
ペルシアは紙袋を握ったまま、肩で息をした。
――今の「ごめん」は、さっきの「ごめん」と違う。
だから十班チーフとガーネットの眉が、ぴくりと上がる。
ペルシアはよろよろとタツヤの元へ戻った。
顔色は青い。唇も白い。
でも、その目だけは、変に冴えている。
「貴方、いいご身分ね」
十班チーフが吐き捨てた。
ペルシアはチーフを一瞥し、すぐタツヤに視線を戻した。
頭が痛い。
目の奥が痛い。
けど――この人たちの声は、もっと痛い。
「……誰、この人たち」
ペルシアの声は、掠れていた。
掠れているのに、妙に刺さる言い方だった。
タツヤが、ぷっと吹き出した。
すぐに口を手で塞ぐ。
十班チーフの視線がギロリと向き、タツヤは咳払いで誤魔化した。
「私、どうでもいい人の顔を覚えるのが苦手で」
ペルシアは苦笑した。
その笑いは、ふらつきと二日酔いの汗で、全然可愛くない。
でも、“効く”。
「いい加減にしなさい!!」
ガーネットが叫んだ。
声が高い。自己防衛の叫びだ。
ペルシアの耳が、きんと痛む。
「ちょっと大声出さないでよ……頭に響くじゃない」
ペルシアはこめかみを押さえた。
「こっちは二日酔いなんだから」
十班チーフが歯噛みする。
「ちょっと班長! エリンはいないの!?」
タツヤが肩を落とした。
「エリンは昨日、長期フライトだったから午前中は休み」
「……くそ!」
十班チーフが舌打ちをする。
その“くそ”に、ペルシアは薄く笑った。
(エリンがいないから、今ここで私を吊し上げる。そういう算段か)
ペルシアは息を吸って、吐く。
吐く息が震える。
震えてるのは怒りじゃない。身体が、まだ戻ってない。
「それで……何の用なの?」
青ざめた顔のまま、ペルシアは言った。
十班チーフが待ってましたとばかりに口を開く。
「昨日のフライトで、十班の乗務員が出来なかった対応。あれ、全部あなたの責任よね?」
「副パーサーのガーネットからも報告が上がっているわ」
ガーネットが頷き、胸を張った。
“私は正しい”の顔。
その顔を見た瞬間、カイエの目が、ぶつりと音を立てて切れた。
「……ふざけないでください」
低い声。
それが怖かったのか、十班の乗務員たちが息を呑む音がした。
「あなたたちが出来なかったことを、応援に来た人間に押し付ける? それがチーフパーサーと副パーサーのやることですか?」
十班チーフが鼻で笑う。
「若い子には分からないでしょうね。組織っていうのは——」
「分かってますよ」
カイエが遮った。
遮り方が鋭い。
刃物で糸を断つみたいに。
「組織だからって、“守るべきもの”の順番を間違えていい理由にはならない。お客様の安全と安心が先でしょう!」
「……安心?」
ガーネットが笑った。
「安心なんて、十四班みたいなエリートじゃないと無理よ。私たちは現実的にやってるの」
その言葉で、カイエの表情が完全に冷えた。
「現実的? 怖さも焦りも表情に出していない? 声も震えていない? あなた、それ、本気で言ってます?」
ガーネットがむっとする。
「言ってます」
「……嘘です」
カイエが、はっきり言った。
「震えてました。焦ってました。お客様の方がそれを拾って、余計に不安になっていました。ペルシアさんは、その尻拭いをしていました」
十班チーフが眉を吊り上げる。
「証拠は?」
カイエが一瞬、言葉を失う。
耳がいいのはペルシアだ。カイエは“感じた”だけで、記録があるわけじゃない。
けれど、カイエは引かなかった。
「証拠? ……証拠がないと、人の必死さは守れないんですか?」
その言葉が、事務室に落ちた。
重い。
十班チーフは苛立ったように鼻を鳴らす。
「感情論ね」
カイエの手が震えた。
怒りで、ではない。
耐えている震えだ。
ここで殴りかかったら負けだと理解している。
「感情論じゃない。現場論です」
カイエは一歩も退かない。
その背中が、ペルシアにはまぶしかった。
耳が拾う。“守ろう”としている音がする。
ペルシアは、頭の痛みを押し込めるように眉間を押さえながら、ぼそっと言った。
「……カイエ」
「はい」
カイエは即答した。
ペルシアは言葉を探す。
探すのに、脳が重い。二日酔いは最悪だ。
「いいから……水買ってきて」
「え?」
カイエが目を見開く。
今、この状況で? という顔。
でもペルシアは、ICカードを差し出した。
「……お願い。今、口の中、砂漠」
ペルシアの顔色は本当に悪い。
さっき吐いたばかりだ。
カイエは歯を噛み、カードを受け取った。
「……分かりました。すぐ戻ります」
カイエが踵を返した瞬間、十班チーフが言った。
「逃がしたわね。あの子、あなたの盾だったの?」
ペルシアは、ゆっくり顔を上げた。
青白い顔。目の下のクマ。
なのに、その目だけは鋭い。
「盾? ……違うよ」
ペルシアは短く笑った。
「カイエがここでキレたら、あんたら“若いから”で潰すでしょ。そういうの、見飽きた」
十班チーフが顔を歪める。
「なに、それ。被害者ぶって——」
「被害者じゃない」
ペルシアは、言葉を切った。
酔いの残りが、妙に冷静さを連れてくる。
酒が抜けきってないから、遠慮が抜ける。
「私、今めちゃくちゃ気持ち悪いし、頭痛いし、喉カラカラで、たぶん今このままもう一回吐けって言われたら吐けるけど」
十班チーフの眉が上がる。
ガーネットが顔をしかめる。
「それでも――」
ペルシアは、一歩、前に出た。
ふらつくのを、気合で止める。
「昨日のフライトで“十班が出来なかったこと全部、私の責任”って? それ、言い掛かりだよ」
声は大きくない。
でも、事務室の空気が変わる。
耳が拾う。“ざわっ”という音。
十四班の机の向こうでも、誰かが息を止めた。
「私がやったのは、壊れかけた現場を“今この瞬間だけでも回す”こと。回さなかったら、お客様はもっと怖がった。もっと怒った。もっと傷ついた」
ペルシアはガーネットを見た。
真正面から。
「副パーサーってさ。偉い役職なんでしょ?」
ガーネットが唇を噛む。
「だったら、現場で“他の乗務員の所為”なんて口が裂けても言うな。あんたの仕事は、守る側を守ることでもあるんだよ」
「……私を侮辱する気?」
ガーネットが声を荒げる。
十班チーフが口を挟もうとする。
そのとき、ペルシアが手を上げた。
「ちょっと黙って。今、頭に響く」
十班チーフが呆れたように鼻で笑う。
「二日酔いを盾にするなんて」
「盾じゃない。……ただの事実」
ペルシアは、ゆっくり息を吐いた。
胃がまだ波打っている。
でも、言わなきゃいけない。
「昨日、乗務員が怖がってた。揺れたとき、震えてた。声が上ずってた。そこに“平然としてる副パーサー”が一人でも立ってれば、全員が救われた。お客様も、救われた」
ガーネットが目を逸らす。
逸らした瞬間、ペルシアは確信する。
(こいつ、自分でも分かってる)
十班チーフが苛立ちを隠さずに言う。
「だから何? 結果としてクレームが出た。責任者は誰?」
ペルシアは、苦笑した。
乾いた笑い。
喉が痛い。
「責任者? 責任者は“その班の責任者”でしょ」
十班チーフの顔が引き攣る。
「応援に来た人間に全部押し付けるってことは、つまり……自分の班を、自分で守る気がないって言ってるのと同じだよ」
その一言で、空気がさらに冷える。
ペルシアは続けたくない。
本音では、こんな口論に時間を使いたくない。
今は水が欲しい。今は横になりたい。
でも、ここで引いたら――昨日の現場が“いつもの事”にされる。
それが一番嫌だ。
足音が戻ってきた。
カイエだ。水のボトルを二本、息を切らして持っている。
カイエの顔はまだ怒っている。怒りが冷えた怒りだ。
「ペルシアさん」
「ありがと……ほんと助かる」
ペルシアは水を受け取り、キャップを開けて一気に飲んだ。
冷たさが喉を通って、胃に落ちていく。
――ようやく、少しだけ世界が戻る。
ペルシアは息を吐き、もう一本の水を机の上に置いた。
「で」
短い一音。
それだけで、相手が身構える音がした。
「私の責任にしたいなら、正式に書類回して」
十班チーフが目を細める。
「書類?」
「うん。報告書。事実関係。タイムライン。誰がどの指示を出して、誰がどの対応をして、誰が何を見逃したか。ぜーんぶ」
ペルシアは口角を上げた。
笑ってるように見えて、笑っていない。
「私、“耳”がいいからさ。覚えてるよ。昨日の船内の音。声。足音。呼吸。……嘘は通らない」
ガーネットが顔色を変える。
十班チーフも、一瞬だけ言葉を失った。
カイエが、横で息を吐いた。
怒りで燃え上がっていた火が、今は“守るための火”に変わっているのが分かる。
カイエはペルシアの横に立ち、はっきり言った。
「言い掛かりで人を潰すなら、十四班は黙っていません」
その声に、十班チーフが舌打ちをしそうになる。
でも、さすがに周囲の視線がある。
十四班の事務室だ。タツヤもいる。今ここで無理をすれば、自分たちの方が不利になる。
「……今日は引くわ」
十班チーフが言った。
引く、というより、退避だ。
面倒が大きくなるのを避けた。
「でも忘れないで。あなたが余計なことをしたせいで——」
「余計なこと?」
ペルシアが遮った。
低い声。
二日酔いのせいで、逆に迫力がある。
「余計なことって、“守ること”のこと?」
十班チーフが口を閉じた。
ガーネットが唇を噛み、視線を逸らす。
ペルシアは水をもう一口飲んで、肩で息をした。
まだ気持ち悪い。
頭も痛い。
でも――少しだけ、楽になった。
カイエが小さく言った。
「……ペルシアさん、さっきの“ごめん”は……」
ペルシアは机にもたれ、目を閉じた。
「……吐く方のごめん」
カイエが一瞬固まり、次の瞬間、堪えきれずに笑いそうになって口を押さえた。
笑ったら怒られる、って顔をしている。
でもその顔が、ペルシアには救いだった。
「それと」
ペルシアは目を開け、カイエを見た。
いつもの軽口じゃない目。
「守ってくれてありがと。……今日の私、弱い」
カイエが、真っ直ぐ頷いた。
「弱くないです。……守るって決めてる人は、弱く見えない」
ペルシアはふっと笑った。
そしてこめかみを押さえ、ぼそっと呟く。
「……水、あと三本ほしい」
タツヤがその場で吹き出しそうになって、咳払いで誤魔化した。
十班の女たちは、最後にもう一度だけ鋭い視線を投げて、事務室を出ていった。
扉が閉まる。
ようやく、空気が少し柔らかくなる。
ペルシアは椅子に沈み込み、背もたれに頭を預けた。
「……最悪の朝」
呟くと、カイエが横で低く言った。
「最悪じゃないです。……言い返せました」
ペルシアは目を閉じたまま、苦笑した。
「うん。……次は、エリンがいる日にやってほしい」
そう言って、ペルシアは水を抱えた。
胸の奥で、まだ怒りはくすぶっている。
でも――その怒りは、“誰かを守るため”の形をしていた。
ーーーー
昨日のフライトの件は、朝の騒動で“表に噴き出した”だけだった。
その根っこはもっと深くて、もっと苦くて、そして――十四班にとっては見過ごせない匂いがする。
エリンとタツヤが揃って事務室に戻ったのは、午前の終わり頃だった。
エリンの顔には、長距離フライト明け特有の薄い疲れが残っている。けれど歩き方は崩れていない。人を安心させる“いつものリズム”だ。
ただ、扉を開けた瞬間に、エリンの空気が変わった。
視線が机の並びを一度撫でる。誰がどこにいて、誰がどんな顔をしているか。声にならない情報を拾い、整理し、優先順位をつける。
そして、いちばん最初に口にしたのは――
「……ペルシア、いないのね」
その声は平坦だった。
感情を隠しているのではない。感情を暴走させないために“整えている”声だ。
タツヤが苦笑いを浮かべる。
「今朝はなかなかのことになっててね」
その横で、カイエが一歩前に出た。
いつもより肩が硬い。目が冴えすぎている。怒りを押し込める癖が、まだ抜けていない。
「……話します」
カイエがそう言った瞬間、エリンの視線が柔らかくなった。
責める目じゃない。守る目だ。
「うん。会議室に行きましょう。落ち着いて話せるところで」
エリンがそう言うと、周囲の空気がすっと整う。
ククルもエマも、言葉は出さないが、胸の奥で安心する音がした。
会議室の扉が閉まる。
外のざわめきが一枚の壁で切り落とされ、静けさが降りてきた。
エリンが椅子に座り、タツヤも向かいに腰を下ろす。
エリンはメモ端末を開かない。カイエの顔を見て、まず呼吸を合わせる。
「大丈夫。責めない。順番に、事実を教えて」
その一言で、カイエの肩がほんの少しだけ下がった。
カイエは話し始めた。
十班のブリーフィングがどれだけ軽かったか。
定期便では“ほとんどやらない”という現実。
出発した後の船内が想像以上に酷かったこと。乗務員同士の連携がぎこちないだけでなく、客の対応に追いつかず、危険の芽があちこちで膨らんでいったこと。
「……揺れた時も、そうでした。姿勢制御ユニットが止まって……」
カイエが言葉を詰まらせる。
タツヤが眉を寄せた。
「止まっただけで済ませたのか、操縦室は?」
「はい。確認したら“大したことはない”と。……苛立った声で」
エリンの指が、机の上で小さく止まった。
その止まり方は、怒りを飲み込んだ合図だ。
カイエは続ける。
副パーサーのガーネットが、表情に怖さと焦りを滲ませていたこと。声も震え、乗客の不安を増幅させていたこと。
そして何より、事後のブリーフィングで――“いつものこと”として片付けようとする空気があったこと。
エリンは黙って聞き続けた。
途中で頷くが、口を挟まない。
カイエの言葉が途切れないように、呼吸の間だけを作る。
「……それで、ペルシアさんが、容赦なく指摘をして……」
カイエの声が少し低くなる。
「ガーネットさんが“自分のせいじゃない、乗客に伝染したのは他の乗務員のせい”って」
タツヤが顔を覆った。
「……おいおい」
カイエは一度だけ唇を噛み、続けた。
「それで……口論になって。ペルシアさんが……“私の言うことが聞けないなら、同乗拒否届を提出しなさい”って」
その言葉が落ちた瞬間、エリンとタツヤが同時に頭に手を当てた。
まるで同じ痛みが走ったみたいに。
「同乗拒否届は……やり過ぎだわ」
エリンの声は静かだった。
静かだからこそ、重い。
タツヤが低く唸る。
「しかも相手が……あの十班のチーフパーサーだもんな」
「ええ。ドルトムント財閥の取引先の娘ですよね」
エリンが言うと、タツヤが苦い顔で頷いた。
「ああ。しかもガーネットもだ」
「……まったく」
エリンの呟きは、落胆じゃない。
“やっぱり来たか”という、現場を知る者の疲労だ。
カイエは思わず前のめりになる。
「ですが、ペルシアさんが怒るのは当たり前です。……私でも、怒ってました」
エリンの目が少しだけ柔らかくなる。
カイエの怒りを否定しない。正しい方向へ戻すために受け止める。
「それは分かるわ。私でもきっと怒ってる」
エリンは一拍置いて続けた。
「ペルシアが取った行動が、根っこから間違っているとは思わない。……守ろうとしたのは事実だから」
タツヤも頷く。
「俺だって、現場を見たらぶち切れる」
カイエの胸の奥が、少しだけ軽くなった。
理解される、ということが人を救う。
――だが、エリンはそこで止めない。
守る人間は、優しさだけで終わらせない。
「ただ」
エリンの声が一段落ちる。
熱を引いた冷静さが戻ってくる。
「同乗拒否届は、役員の手元にも行くのよ」
カイエが息を止めた。
タツヤも、苦い顔で頷く。
「ああ。そうなれば、ガーネットの件で有利に働いてしまう」
“有利”という単語が、胸に嫌な棘を残す。
正しさが勝つのではなく、立場が勝つ――その構造の話だ。
カイエは唇を噛み、勢いで言ってしまった。
「……もし、それでペルシアさんが何か罰を受けるのでしたら、私も受けます」
言い切った瞬間、エリンの目が鋭くなった。
怒るためじゃない。止めるための鋭さ。
「バカなこと、言わないで」
エリンの声には揺れがない。
カイエの覚悟を、真っ向から折る。
「そんなことは絶対にさせないから」
その言葉が、会議室の空気を変えた。
“十四班のチーフパーサー”の言葉だ。
現場を守る人間が、責任を背負うと決めた声。
タツヤも、同じ方向を見た。
「ああ。その時は俺がなんとかする」
カイエは思わず息を吐いた。
胸の奥に、熱いものが残る。
守られるというのは、こういうことなのだ。
「……エリンさん、タツヤ班長……」
カイエが呟く。
言葉がそれ以上出ない。
エリンは、ふっと表情を柔らかくした。
“守る”は、硬いだけでは続かない。安心も必要だ。
「それはそうと」
エリンは話を切り替えた。切り替え方が鮮やかで、カイエの脳内の混乱が少し整理される。
「ペルシアはどこに行ったの?」
カイエはすぐ答えた。
「ペルシアさんでしたら……二日酔いでダウンして、今、屋上でリュウジさんが介抱しています」
エリンの眉が、きゅっと寄った。
その表情だけで心配が伝わる。
「……フライトの後で二日酔いなんて。よっぽど辛かったのね」
エリンは立ち上がった。
座ったままでも指示は出せる。だが、エリンは“行く”を選んだ。
本人の顔を見なければ、守り方を決められないから。
「タツヤ班長、私、屋上に行ってきます」
「俺も行く。……いや、俺は下で役員筋の動きの予測と対策を組む。エリン、頼む」
「ええ。任せてください」
エリンは会議室を出る。
廊下の空気が変わる。人がエリンの存在を感じ、背筋を正す。
怒られるのが怖いのではなく、“この人が来たら状況が整う”と本能で知っているからだ。
エリンは事務室に戻り、ククルとエマに短く告げる。
「ククル、エマ。今朝の件、動揺してる子がいたら、無理させないで。声がけをお願い」
「は、はい!」
「分かりました」
エリンはさらにカイエに視線を向ける。
「カイエ、あなたも。今日は“戦った”日よ。あとで必ず休憩を取って」
「……でも——」
「でもじゃない。命令」
優しく言うのに、拒否できない。
それがエリンの強さだった。