サヴァイヴ〜ドルトムント財閥〜   作:一塔

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宇宙管理局へ

 屋上の風は、昼より少しだけ冷えていた。

 人工の空の光が白くて、目の奥がじんと痛む。吐き気の残り香みたいに、胸の内側がむずむずする。

 

 ペルシアはベンチに横になっていた。

 膝を少し曲げて、腕で額を隠している。唇は乾いて、頬は青白い。目を開けたまま天井の“空”を見ているのに、焦点が合っていない。

 

 隣で、リュウジが背中をさすっていた。

 強くもなく、弱すぎもしない。呼吸に合わせて、ゆっくり。

 ペルシアの身体が「うっ」と小さく跳ねるたび、リュウジは手を止める。止めて、数秒待って、また撫でる。まるで揺れを鎮めるみたいに。

 

「……リュウジ」

 

 ペルシアの声は、砂みたいに掠れていた。

 

「ん?」

 

「ごめん」

 

 言った瞬間、ペルシアの喉がきゅっと縮まった。

 謝りたいのに、謝り方が分からないときの声だった。

 

 リュウジは背中をさする手を止めない。

 

「気にするな」

 

 短く、それで終わり。

 優しさを盛りすぎない。

 ペルシアがいちばん嫌う“慰めてる風”を、リュウジはやらない。

 

「……気にするわよ。あんだけやらかして、気にするなは無理でしょ……」

 

「今は体を戻せ。反省は後でいくらでもできる」

 

 ペルシアは唇を尖らせた。

 反論する元気があるのかないのか、自分でも分からない。だけど、リュウジの声が淡々としているせいで、変にムカつく。

 

「……あんた、ほんとムカつく言い方する」

 

「そうか?」

 

「そうか?じゃない。……でも、ありがと」

 

 ペルシアはそう言って、目を閉じた。

 閉じた瞬間に吐き気がふわっと浮く。胃の底からじわじわ上がってくる嫌な感覚。身体の中に残ったアルコールが、まだ暴れている。

 

 リュウジの手が、少しだけ下へ移動した。背中の中心から腰のあたりへ。

 そこをさすられると、呼吸が少し深くなる。ペルシアは自分でも驚いた。

 

「……その手、なんでそんなに慣れてんの」

 

「慣れてない」

 

「嘘。絶対、誰か介抱したことあるでしょ」

 

「……酔ったやつは、孤児院にもいた」

 

 その返しに、ペルシアは言葉を飲んだ。

 冗談で突いたつもりが、硬い現実に触れてしまった気がした。

 

「……ごめん」

 

「またごめんか」

 

「だって……今、あんたが優しいとさ……」

 

 ペルシアは額に当てていた腕を少し下ろした。

 リュウジの横顔が見えた。目はまっすぐ前を向いているのに、手だけはペルシアの背中に置かれている。そこに視線を落とすこともしない。

 

 “見てますよ”って顔をしない。

 “助けてますよ”って顔もしない。

 それが逆に、沁みる。

 

「……腹立つくらい、ちゃんとしてる」

 

 ペルシアがぼそっと言うと、リュウジは小さく鼻で笑った。

 

「ちゃんとしてない。こういう時、どうしたらいいか分からない」

 

「分からないやつは、背中さすったりしない」

 

「体の反応を見てるだけだ。吐きそうなら止める。落ち着いたら続ける。……それだけ」

 

「それを“ちゃんとしてる”って言うんだよ」

 

 ペルシアはため息を吐いた。吐くと、胃が少しだけ軽くなる気がした。

 呼吸の音が、風に混じる。

 

 屋上の扉の向こうの喧騒は遠い。

 ここは一時的な避難場所みたいだった。世界から少しだけ切り離されて、呼吸を取り戻す場所。

 

「……エリンは?」

 

 ペルシアが訊くと、リュウジは手を動かしたまま答えた。

 

「もう出社してる」

 

「……やっぱり」

 

 ペルシアは口の中で飴の塩気を転がす。

 

「エリン、怒ってた?」

 

「怒ってるだろうな」

 

「……でしょうね」

 

「でも、心配もしてる」

 

 ペルシアは眉間に皺を寄せた。

 

「……心配されるのが一番キツい」

 

「分かる」

 

「分かるんだ」

 

「分かる」

 

 リュウジの返事は短かった。

 だがペルシアには、その“短さ”が救いだった。

 長々と説教されるより、ずっと。

 

「……私さ」

 

 ペルシアは喉を鳴らして言葉を探した。

 吐き気と頭痛が、思考を邪魔する。

 でも、言わなきゃいけない気がした。今このタイミングを逃すと、また強がって誤魔化す気がした。

 

「昨日、十班で……腹立った。ほんと、腹立った。あいつらが悪いとか、そういう一言で済ませられないくらい」

 

「うん」

 

「でも、私もダメだった。分かってる」

 

「何が?」

 

 リュウジが訊く。問い返し方が淡々としていて、ペルシアは少しだけ笑った。

 

「同乗拒否届、言ったこと」

 

「……あれか」

 

「言っちゃった。止まらなかった。言った瞬間、あ、やべって思ったのに……止まんなかった」

 

 ペルシアは顔を横に向けて、リュウジの方を見た。

 リュウジは一度だけ目を合わせた。すぐ逸らさない。だが、じっと見つめもしない。

 その距離感が、丁度いい。

 

「で?」

 

「……で、あいつらも、すぐ“関係ない”みたいな顔した。あの笑い方。ムカついた」

 

 ペルシアの声が少し荒くなる。

 胃が嫌な揺れを返してくる。リュウジの手が止まり、背中に手のひらを当てて固定した。

 

「吐くか?」

 

「……吐かない。今は大丈夫」

 

 ペルシアは唇を噛んで耐えた。

 自分の身体なのに、うまく制御できないのが悔しい。

 

「……ムカついたのはさ」

 

 ペルシアはゆっくり言葉を繋げる。

 

「“いつものこと”って顔してたから。怖がってる客を見ても、あれが普通だって。慣れてるからって、慣れちゃいけないところで慣れてた」

 

 リュウジは背中をさするのを再開した。今度は少しだけゆっくり。

 

「十四班なら、そこで声をかける」

 

「そう。十四班なら、声のかけ方も、顔の作り方も、動き方も……ちゃんと“客の心臓”を見てる」

 

 ペルシアは目を閉じたまま、吐き捨てるように言った。

 

「なのにさ、あいつら……“乗客に伝染したのは他の乗務員のせい”って言ったの。副パーサーが。副パーサーがだよ? だったら、お前が止めろよって話じゃん」

 

「……そうだな」

 

「そうなの。そうなんだよ。なのに、私が言うとさ、エリートが偉そうに、みたいな目するの。ムカつく」

 

 ペルシアの声が震えた。怒りじゃなく、悔しさだ。

 悔しいのは、“分かってもらえない”からじゃない。

 “分かってもらえない状況が、当たり前になってる”からだ。

 

「お前、負けず嫌いだな」

 

 リュウジがぽつりと言う。

 

「は? 今それ言う?」

 

「違う。……負けず嫌いっていうか、守りたがりだ」

 

 ペルシアは一瞬、呼吸を止めた。

 “守りたがり”――その言葉が、胸の奥に刺さった。

 

「……うるさい」

 

「図星か」

 

「図星でもうるさい。……私だって、別に守ってほしいって言ってない」

 

「守ってほしいって言わなくても、守るやつは守る」

 

「……リュウジ、それ、誰の真似」

 

「真似じゃない」

 

「エリンっぽい」

 

「そうか?」

 

「そうだよ。……あー、もう」

 

 ペルシアは腕で顔を覆った。

 恥ずかしいのか、悔しいのか、分からない。

 ただ、胸の奥がじわっと熱い。

 

「……私さ、昨日、ほんとは怖かった」

 

 ペルシアが絞り出すように言った。

 

「何が」

 

「全部。十班の空気も、客の空気も、パイロットの空気も。揺れた時の悲鳴も。怒鳴り声も。……あの瞬間、私の耳が全部拾った。全部」

 

 ペルシアは、いつもなら笑って誤魔化す。

 でも今は、誤魔化す元気がなかった。

 その代わりに“本当”が出た。

 

「耳が良いのってさ、便利でしょって言われるけど、便利じゃない。……便利なふりしてるだけ」

 

 リュウジの手が、一瞬だけ止まった。

 止まって、また動いた。

 

「……大変だな」

 

 それだけ。

 でもペルシアには、それが十分だった。

 

「……大変だよ。でね、ムカついたの。私は必死で客を落ち着かせてんのに、操縦室から“たいしたことない”って苛立った声が返ってきた。……何様だよって思った」

 

「思うだろ」

 

「思うよ。けど、客の前でキレられないじゃん。だから、笑って、落ち着いて、丁寧にして……それでさ、最後に降りてく客に文句言われて。刺さった。めっちゃ刺さった」

 

 ペルシアの喉が詰まる。

 言ってしまえば、昨日の怒りは、その“刺さり”が抜けないまま暴れたものだ。

 

「それで……終わった後、ブリーフィングで指摘して、平行線で……最後に同乗拒否届って言って……」

 

 ペルシアは吐息で笑った。

 

「……私、子どもだね」

 

「違う」

 

「違わない。エリンなら、言い方変えてる。あの場で、もっと上手くやる。私は上手くできない」

 

 リュウジが背中をさすりながら、淡々と言った。

 

「エリンさんと比べるな。お前はお前だ」

 

「……」

 

「お前が“上手くできない”って自覚してるなら、次は上手くできる」

 

 ペルシアは鼻で笑った。

 

「……何それ、変な励まし」

 

「励ましてない。事実だ」

 

 ペルシアは、目を開けた。

 視界が少しぼやける。二日酔いのせいか、涙のせいか、分からない。

 

「……リュウジ」

 

「ん」

 

「私、十四班が好き」

 

 言ってしまった。

 口に出した瞬間、胸が少し軽くなった。

 

「知ってる」

 

「知ってるの?」

 

「昨日の話を聞いただけでも分かる」

 

「……昨日の話、どこまで聞いてんの」

 

「カイエから、ざっくり。」

 

「……最悪。私の恥、みんなに流通してんじゃん」

 

「流通って言うな」

 

 リュウジが小さく笑う。

 それが、ペルシアには救いだった。

 誰かが笑ってくれると、自分を責める刃が少し鈍る。

 

「でもさ、十四班が好きって言っても、さ……」

 

 ペルシアは視線を空に向けた。

 

「十四班だけで生きていけるわけじゃない。会社って、組織って、他の班もあって、役員もいて……」

 

「うん」

 

「昨日みたいに、理不尽が来る。私がどんだけ正しくても、立場で潰されるかもしれない。……それが嫌」

 

 リュウジは一拍置いて言う。

 

「嫌なら、潰されないようにする」

 

「簡単に言うな」

 

「簡単じゃない。でも、やる」

 

 ペルシアは笑った。

 笑ってしまう自分に驚く。

 吐き気はまだあるのに、笑える。

 

「……あんた、ほんと“S級”っぽい発言するよね」

 

「そうか?」

 

「そう。大体そう。……でも、ありがと」

 

 ペルシアはふっと息を吐いた。

 呼吸が少し整う。

 

「吐き気、どうだ」

 

「……まだ気持ち悪いけど、さっきよりはマシ」

 

「水、飲むか」

 

「……飲む。ちょっとだけ」

 

 リュウジはペルシアの頭を少し持ち上げるように支え、ボトルを口元に持っていった。

 ペルシアはちびちびと飲む。飲むと胃が動く感じがして怖いが、喉の乾きが勝っていた。

 

「……くそ、うまい。水がうまいってどういうこと」

 

「二日酔い」

 

「分かってるよ」

 

 ペルシアは水を飲み終えると、またベンチに沈んだ。

 風が頬を撫でる。

 

「……私さ」

 

 ペルシアが小さく続ける。

 

「昨日、管理局長にも会った」

 

 リュウジの手が一瞬止まった。

 

「宇宙管理局長?」

 

「そう。あの白髪のおじさん。バーで隣座ってきた」

 

「……また会ったのか」

 

「“またあんたか”って言った」

 

「言い方」

 

「だってほんとにまただったし。で、“やっぱり君みたいなのが必要”とか言って、見学来いとか言われた」

 

「行くのか」

 

 ペルシアは鼻で笑った。

 

「行かない。……たぶん」

 

「たぶん?」

 

「だってムカつくじゃん。ああいうの。組織がどうとか、正義がどうとか。……でも」

 

 ペルシアは言葉を止めた。

 言うと、揺れそうだった。

 

「でも、心が揺れた?」

 

 リュウジが静かに言う。

 

 ペルシアはしばらく黙って、やがて小さく頷いた。

 

「……うん。揺れた。だって“守りたいもの守れる”とか言うんだよ? ズルいじゃん」

 

「ズルいな」

 

「ズルいよ。……でも、私が守りたいのって、でっかい正義とかじゃない」

 

 ペルシアは目を閉じ、呼吸を整えながら言った。

 

「ククルとか、カイエとか、エマとか。乗務員の子たちとか。……それと、十四班の空気。あれが好き」

 

 リュウジは背中をさすりながら、少しだけ声を低くした。

 

「それでいい」

 

「……うん」

 

「で、お前は昨日、守ろうとした」

 

 ペルシアは苦笑した。

 

「守ろうとして、暴れたけどね」

 

「暴れるな」

 

「うるさい」

 

 ペルシアは言い返すが、その声はもう尖っていなかった。

 尖らせる元気が戻ってきた、というより、尖らせなくても大丈夫だと思えた。

 

 遠くで、屋上の扉が開く音がした。

 誰かが来た気配。風と足音。

 

 リュウジがそちらを見た。

 

「……エリンさんだ」

 

 ペルシアは顔をしかめる。

 

「やだ……怒られる……」

 

「怒られないだろ」

 

「怒られるよ。絶対怒られる。私のこと好きなくせに、怒るタイプだからあの人」

 

「褒め方が雑」

 

「事実だもん」

 

 ペルシアは腕で顔を覆った。

 でも、心のどこかで安心している。

 エリンが来たということは、“整う”ということだから。

 

 エリンの足音が近づき、止まる。

 

「ペルシア」

 

 声はいつも通り、落ち着いていた。

 だけど、心配が滲んでいる。

 

「……生きてる?」

 

 ペルシアは腕の隙間から、ぼそっと返した。

 

「生きてる……でも死にたい……」

 

「死なないで」

 

 エリンの返しが即答で、ペルシアは思わず笑ってしまった。

 笑ったら胃が揺れて「うっ」となる。

 

 リュウジが背中に手を当てて止める。

 

「笑うな」

 

「だって……」

 

 エリンはベンチの反対側に腰を下ろし、ペルシアの顔色を観察する。

 そして小さく頷いた。

 

「水、飲めてる?」

 

「飲んだ……」

 

「よし。今日は休憩室で寝るわよ。タツヤ班長にも話は通した」

 

「……エリン、ありがと……」

 

 ペルシアが小さく言うと、エリンは一瞬だけ目を細めた。

 

「ありがとうは後でいい。まず回復」

 

「はいはい……」

 

 ペルシアは素直に頷く。

 その素直さを見て、エリンが少しだけ表情を緩めた。

 

 リュウジは立ち上がり、ペルシアに手を差し出した。

 

「行くぞ」

 

「……やだ……立つと世界が回る……」

 

「回ってもいい。支える」

 

「……ほんとムカつく優しさ……」

 

「文句言う元気があるなら歩ける」

 

「理屈がS級……」

 

 ペルシアはふらつきながらも起き上がった。

 リュウジの腕に体重を預ける。

 エリンは反対側に立って、さりげなく支える位置に入る。

 

 屋上のベンチから離れる瞬間、ペルシアは小さく呟いた。

 

「……リュウジ」

 

「ん」

 

「さっきの、ありがと。背中……気持ち悪いの、少しマシになった」

 

「よかった」

 

「……気にするなって言ったけど、私、気にしてるからね。昨日のこと」

 

「気にしていい。次に繋げれば」

 

「……次」

 

 ペルシアはふっと笑った。

 まだ頭は痛いし、胃も不安定だ。

 でも、“次”と言えるだけの気力が戻ってきた。

 

「……次は、もっと上手くやる」

 

 リュウジは横目でペルシアを見て、短く言った。

 

「それでいい」

 

 エリンがその言葉を聞いて、ほんの少しだけ微笑んだ。

 

「ほら。もう十分、上手くやってる」

 

「エリンまで甘やかすのやめて……」

 

「甘やかしてない。回復したら、ちゃんと叱るから」

 

「やっぱり怒るじゃん!」

 

「当然でしょ」

 

 ペルシアは「最悪」と言いながら、どこか安心した顔で屋上を後にした。

 背中の熱が、まだ残っている。

 

 ――守られることは、恥ずかしい。

 でも、守られたぶんだけ、また守れる。

 

 そう思えるくらいには、ペルシアの中の嵐は少しだけ静まっていた。

 

ーーーー

 

 午後になり、ペルシアは休憩室から事務所に戻った。

 遮光カーテンの薄暗さと、枕に沈む綿の匂いがまだ髪に残っている気がする。頭の奥は鈍く脈打っていたが、朝のように胃がひっくり返る気配はない。口の中に残っていた最悪の酸っぱさも、ようやく引いていた。

 

 扉を開けた瞬間、十四班の空気が一斉にこちらを見る――そんな感じがして、ペルシアは反射で背筋を伸ばした。

 別に、誰も責める目をしていない。むしろ、見ているのは「大丈夫か」の確認だ。

 分かっているのに、それがきつい。

 

「……戻った」

 

 小さく言った声は、いつもみたいに張れなかった。

 

「ペルシア、今日はもう帰っていいよ」

 

 タツヤがいつもの調子で言った。わざと軽く言ってくれているのが、耳じゃなくても分かる。

 

「え? いいの?」

 

 言い返した途端、喉の奥に変な熱がこみ上げる。

 “いいの?”って、何。

 自分で言って、自分に腹が立った。まるで、許可がないと呼吸すらできないみたいじゃない。

 

「ああ。今日はゆっくり休むといいよ」

 

「やったー!」

 

 反射で明るく言った。

 明るく言えたから、少しだけ安心した。

 あ、まだいつもの私、出せる。

 でも、その安心のすぐ裏で、胸の奥がズキっと痛んだ。

 “いつもの私”を出すことが、逃げになってる気がして。

 

「ゆっくり休むのよ」

 

 エリンが言う。声は柔らかいのに、逃げ道がない。

 “休め”じゃなくて、“休むのよ”。

 命令じゃないのに、従わない選択肢が消える言い方。

 

「分かってる分かってる」

 

 ペルシアは手をひらひらさせて、いつもの雑な返事をした。

 

「それじゃあ、お先に〜」

 

 最後にもう一回、明るく。

 明るく、軽く、ちゃんと“いつも通り”。

 そうしてペルシアは足早に事務所を後にした。

 

 扉が閉まる直前、背中に聞こえた声がある。

 

「あっさりいなくなったな」

 

 リュウジの声。

 

「平気な顔をしてるけど、疲れてるのよ」

 

 エリンの返し。

 その次の言葉は、少し遅れて、少しだけ小さかった。

 

「……心が」

 

 その一言が、ペルシアの背中に刺さった。

 足が止まりそうになる。

 でも止まれない。止まったら、泣く。

 

 ペルシアは廊下を曲がり、エレベーターに乗った。

 鏡に映る自分の顔が、思ったよりひどい。

 肌は青いし、目の下が薄く影になっている。

 でも、口角だけは器用に上げられる。上げ方を知っている。

 

 ――これが、癖。

 “上手く生きる癖”。

 

 エアバスの乗り場に出ると、外気が思った以上に冷たかった。

 人工コロニーの風は、匂いが薄い。

 薄いのに、何故か胸が締めつけられる。

 

 ペルシアは頭を押さえたまま、エアバスに乗り込んだ。

 座席に沈み、窓側に身体を寄せる。

 バスが滑るように動き出して、窓の外の景色が流れた。

 

 街はいつも通りだ。人は歩き、広告は光り、雑踏は生きている。

 なのに、ペルシアだけが取り残されている気がした。

 

 頭痛が、ひとつ波を打つ。

 その波が来るたび、昨日の光景が勝手に蘇る。

 

 ――十班のブリーフィングルーム。

 笑っているベテラン。縮こまる若手。

 “いつものこと”って顔。

 揺れた瞬間の悲鳴。

 震える声。震える手。

 そして、操縦室から返ってきた苛立ち混じりの言葉。

 

『大した事はない』

 

 あの言い方。

 その一言が、どれだけ客の心臓に刺さるか。

 現場を知らない人間の言葉みたいで、腹が立った。

 

 腹が立ったから、動いた。

 動いて、抑えて、指示して、笑って、謝って、怒鳴り声を薄めて――

 それでも、降りていく客の言葉は刃だった。

 

『二度と乗らない』

『怖かった』

『最悪だった』

『なんでこんなサービスなの』

 

 それを聞いた時、胸の奥で何かが折れた。

 折れたのに、立っていた。

 立っていたから、余計に折れた。

 

 そして最後の最後で、ペルシアは“言ってはいけない言葉”を口にした。

 

『同乗拒否届を提出しなさい!!』

 

 叫んだ瞬間、空気が凍るのが分かった。

 凍って、割れて、欠片になって、床に散った。

 拾えない欠片。踏めば痛い欠片。

 

 ――やりすぎだ。

 ――分かってる。

 ――でも、止まらなかった。

 

 ペルシアは窓ガラスに額を軽く当てた。冷たい。

 冷たいのに、頭の中は熱い。

 

 何が悔しいって、怒りの矛先がずれることだ。

 ほんとうは“システム”に腹が立っている。

 仕組みに。文化に。慣れに。

 それなのに、人の顔が見える場所に立った瞬間、矛先は人へ向く。

 

 ガーネット。

 十班のチーフパーサー。

 役員筋。取引先。血筋。立場。

 

 そういうものが、現場の呼吸を縛る。

 縛るのに、縛っている本人たちは息をしている。

 むしろ、こっちが息を止めさせられる。

 

 ペルシアは自分の拳を握って、ほどいた。

 また握って、ほどいた。

 握った拳が、何も掴んでいない。

 

 ――私、何のために怒ったんだっけ。

 

 守りたいから。

 守りたい、って言うのは簡単だ。

 

 客を守る。

 乗務員を守る。

 十四班の誇りを守る。

 “ちゃんとやる”って空気を守る。

 

 でも、守るには、技術が要る。

 怒りを扱う技術。言葉を選ぶ技術。

 敵を作らずに、状況を変える技術。

 

 エリンはそれができる。

 誰も傷つけずに動かす。

 背中の力の抜け方を変える。

 そういう、目に見えない仕事を、当たり前みたいにやる。

 

 ペルシアは、できない。

 できないから、噛みつく。

 噛みついて、血が出て、後で自分がその血を飲む羽目になる。

 

 ――私、子どもだ。

 ――でも、子どもみたいに怒ることしかできない瞬間がある。

 ――その瞬間に、誰かが死ぬかもしれないのが、現場だ。

 

 ペルシアは息を吐いた。

 吐くと、胸の中の何かが少しだけ落ちる。

 だけど落ちた先は底じゃない。底が見えない。

 

 その時、ふっと思い出した声がある。

 バーのカウンター。

 氷の音。

 隣に座った白髪混じりの男。

 

『やっぱり君のような誰かを守ろうとする人間は管理局に必要だ!』

 

 あの言い方が、腹が立った。

 “必要だ”って、何。

 必要かどうかを決めるのは私だろ。

 そう思ったのに。

 

 ――心が揺れた。

 

 だって、“守れる場所”って言ったから。

 “組織や規則に縛られない”って言ったから。

 嘘かもしれない。綺麗事かもしれない。

 でも、昨日の私には、その綺麗事が麻薬みたいに甘かった。

 

 十四班が好きだ。

 エリンが好きだ。

 タツヤの適当な優しさが好きだ。

 リュウジの不器用な手が好きだ。

 ククルの明るさが好きだ。

 カイエの真面目さが好きだ。

 エマの言葉の選び方が好きだ。

 

 だから、ここから離れるのは嫌だ。

 

 ――でも、ここにいる限り、昨日みたいなことは起きる。

 ――昨日みたいなことが起きたとき、私はまた暴れる。

 ――また暴れたら、今度は十四班に迷惑がかかる。

 

 エリンが“止める”と言ってくれた。

 タツヤが“なんとかする”と言ってくれた。

 リュウジは支えてくれる。

 そうやって守ってくれる人がいるから、私はここにいられる。

 

 でも、それって。

 守られている私は、守れているのか?

 

 ――守るって何。

 ――正しいって何。

 ――現場の正しさは、誰が決めるの。

 

 ペルシアは窓の外を見た。

 いつの間にか、バスは中心街から外れ、行政区画の方へ向かっていた。

 高層のビル群が少しずつ整然として、道路が広くなる。

 警備の巡回ドローンが、規則正しく空を切る。

 

 “宇宙管理局”の建物が見えたとき、ペルシアは自分の呼吸が止まったのに気づいた。

 

 ――え?

 

 ペルシアは背筋を伸ばし、周囲を確認した。

 車内のアナウンスが淡々と流れる。

 

『次は、宇宙管理局前。お降りの方は――』

 

 ペルシアは膝の上の手を見た。

 そこに、いつの間にか握られているカードケースがある。

 自分の社員証。

 それから、事務所で買ったミネラルウォーター。

 そして――名刺。

 

 バーで渡された名刺。

 宇宙管理局長、マーカス。

 薄い紙なのに、重い。

 

 ペルシアは喉を鳴らした。

 

「……なんで」

 

 声が漏れた。

 

 なんでここに来てるの。

 なんで降りようとしてるの。

 なんで、止めないの。

 

 止めたいのに、身体が先に動く。

 それが怖い。

 自分の中の“揺れ”が、もう舵を取っている。

 

 バスが停まり、扉が開いた。

 外気が流れ込む。冷たい。

 その冷たさが、ペルシアの頬を叩いた。

 

 立つ。

 足がふらつく。二日酔いの残りが、まだそこにいる。

 でも立つ。

 立ってしまう。

 

 ペルシアは降りた。

 降りた瞬間、バスが去っていく音が背中で遠ざかる。

 まるで、帰り道が消えたみたいに。

 

 目の前に、宇宙管理局のエントランス。

 磨かれた床。静かな警備員。

 受付の端末が無感情に光っている。

 

 ペルシアは数歩進んで、そこで止まった。

 

 ――何しに来たの。

 

 答えが出ない。

 出ないのに、胸の奥がじわじわ熱くなる。

 昨日の悔しさが、まだ抜けていない。

 でも、十四班の空気も、まだ身体に残っている。

 両方が引っ張る。右と左に。

 

 ペルシアは自分のこめかみに指を当てた。

 頭が痛い。

 痛いのに、思考は妙に冴えている。

 酒が抜けていくぶん、昨日の言葉が鮮明になる。

 

『君が守りたいものを、一緒に守ってほしい』

 

 守りたいもの。

 それは、誰。どこ。何。

 

 ――私が守りたいのは。

 ――私が守りたいのは……。

 

 ペルシアは名刺を見た。

 指が少し震えている。

 震えが恥ずかしい。

 でも震える。人間だから。

 

 受付の端末が、淡々と表示する。

 

【ご用件を入力してください】

 

 ペルシアは、その文字を見つめた。

 まるで、選択肢がそこに並んでいるみたいに。

 

 帰る?

 入る?

 見学だけ?

 話すだけ?

 

 分からない。

 分からないのに、ここに来てしまった。

 それが、いちばん怖い。

 

 ペルシアはゆっくり息を吸って、吐いた。

 その呼吸で、自分の中の揺れを、ほんの少しだけ掴もうとする。

 

 ――私は、逃げたいわけじゃない。

 ――でも、変わりたい。

 ――守りたい。

 ――守り方を、知りたい。

 

 そんな言葉が喉元まで上がってきて、飲み込まれた。

 まだ、声にするには生々しい。

 

 ペルシアは、もう一度だけ建物を見上げた。

 高くて、冷たくて、強そうで。

 そして、どこか“綺麗すぎる”。

 

 その瞬間、ペルシアは気づいた。

 

 自分がここに来た理由を、まだ言語化できないだけで――

 理由そのものは、ちゃんと胸の中にある。

 

 ただ、怖いのだ。

 その理由を認めた瞬間、何かが変わってしまう気がして。

 

 ペルシアは端末の前に立ったまま、指を伸ばしかけて、止めた。

 伸ばしかけて、止めた。

 

「……私、何やってんだろ」

 

 呟きは、誰にも届かない。

 でも、耳のいい自分には届く。

 自分の声が、こんなに弱いのを、初めて聞いた気がした。

 

 そしてペルシアは、もう一度だけ深呼吸をして――

 指先を、端末へ向けた。

 

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