屋上の風は、昼より少しだけ冷えていた。
人工の空の光が白くて、目の奥がじんと痛む。吐き気の残り香みたいに、胸の内側がむずむずする。
ペルシアはベンチに横になっていた。
膝を少し曲げて、腕で額を隠している。唇は乾いて、頬は青白い。目を開けたまま天井の“空”を見ているのに、焦点が合っていない。
隣で、リュウジが背中をさすっていた。
強くもなく、弱すぎもしない。呼吸に合わせて、ゆっくり。
ペルシアの身体が「うっ」と小さく跳ねるたび、リュウジは手を止める。止めて、数秒待って、また撫でる。まるで揺れを鎮めるみたいに。
「……リュウジ」
ペルシアの声は、砂みたいに掠れていた。
「ん?」
「ごめん」
言った瞬間、ペルシアの喉がきゅっと縮まった。
謝りたいのに、謝り方が分からないときの声だった。
リュウジは背中をさする手を止めない。
「気にするな」
短く、それで終わり。
優しさを盛りすぎない。
ペルシアがいちばん嫌う“慰めてる風”を、リュウジはやらない。
「……気にするわよ。あんだけやらかして、気にするなは無理でしょ……」
「今は体を戻せ。反省は後でいくらでもできる」
ペルシアは唇を尖らせた。
反論する元気があるのかないのか、自分でも分からない。だけど、リュウジの声が淡々としているせいで、変にムカつく。
「……あんた、ほんとムカつく言い方する」
「そうか?」
「そうか?じゃない。……でも、ありがと」
ペルシアはそう言って、目を閉じた。
閉じた瞬間に吐き気がふわっと浮く。胃の底からじわじわ上がってくる嫌な感覚。身体の中に残ったアルコールが、まだ暴れている。
リュウジの手が、少しだけ下へ移動した。背中の中心から腰のあたりへ。
そこをさすられると、呼吸が少し深くなる。ペルシアは自分でも驚いた。
「……その手、なんでそんなに慣れてんの」
「慣れてない」
「嘘。絶対、誰か介抱したことあるでしょ」
「……酔ったやつは、孤児院にもいた」
その返しに、ペルシアは言葉を飲んだ。
冗談で突いたつもりが、硬い現実に触れてしまった気がした。
「……ごめん」
「またごめんか」
「だって……今、あんたが優しいとさ……」
ペルシアは額に当てていた腕を少し下ろした。
リュウジの横顔が見えた。目はまっすぐ前を向いているのに、手だけはペルシアの背中に置かれている。そこに視線を落とすこともしない。
“見てますよ”って顔をしない。
“助けてますよ”って顔もしない。
それが逆に、沁みる。
「……腹立つくらい、ちゃんとしてる」
ペルシアがぼそっと言うと、リュウジは小さく鼻で笑った。
「ちゃんとしてない。こういう時、どうしたらいいか分からない」
「分からないやつは、背中さすったりしない」
「体の反応を見てるだけだ。吐きそうなら止める。落ち着いたら続ける。……それだけ」
「それを“ちゃんとしてる”って言うんだよ」
ペルシアはため息を吐いた。吐くと、胃が少しだけ軽くなる気がした。
呼吸の音が、風に混じる。
屋上の扉の向こうの喧騒は遠い。
ここは一時的な避難場所みたいだった。世界から少しだけ切り離されて、呼吸を取り戻す場所。
「……エリンは?」
ペルシアが訊くと、リュウジは手を動かしたまま答えた。
「もう出社してる」
「……やっぱり」
ペルシアは口の中で飴の塩気を転がす。
「エリン、怒ってた?」
「怒ってるだろうな」
「……でしょうね」
「でも、心配もしてる」
ペルシアは眉間に皺を寄せた。
「……心配されるのが一番キツい」
「分かる」
「分かるんだ」
「分かる」
リュウジの返事は短かった。
だがペルシアには、その“短さ”が救いだった。
長々と説教されるより、ずっと。
「……私さ」
ペルシアは喉を鳴らして言葉を探した。
吐き気と頭痛が、思考を邪魔する。
でも、言わなきゃいけない気がした。今このタイミングを逃すと、また強がって誤魔化す気がした。
「昨日、十班で……腹立った。ほんと、腹立った。あいつらが悪いとか、そういう一言で済ませられないくらい」
「うん」
「でも、私もダメだった。分かってる」
「何が?」
リュウジが訊く。問い返し方が淡々としていて、ペルシアは少しだけ笑った。
「同乗拒否届、言ったこと」
「……あれか」
「言っちゃった。止まらなかった。言った瞬間、あ、やべって思ったのに……止まんなかった」
ペルシアは顔を横に向けて、リュウジの方を見た。
リュウジは一度だけ目を合わせた。すぐ逸らさない。だが、じっと見つめもしない。
その距離感が、丁度いい。
「で?」
「……で、あいつらも、すぐ“関係ない”みたいな顔した。あの笑い方。ムカついた」
ペルシアの声が少し荒くなる。
胃が嫌な揺れを返してくる。リュウジの手が止まり、背中に手のひらを当てて固定した。
「吐くか?」
「……吐かない。今は大丈夫」
ペルシアは唇を噛んで耐えた。
自分の身体なのに、うまく制御できないのが悔しい。
「……ムカついたのはさ」
ペルシアはゆっくり言葉を繋げる。
「“いつものこと”って顔してたから。怖がってる客を見ても、あれが普通だって。慣れてるからって、慣れちゃいけないところで慣れてた」
リュウジは背中をさするのを再開した。今度は少しだけゆっくり。
「十四班なら、そこで声をかける」
「そう。十四班なら、声のかけ方も、顔の作り方も、動き方も……ちゃんと“客の心臓”を見てる」
ペルシアは目を閉じたまま、吐き捨てるように言った。
「なのにさ、あいつら……“乗客に伝染したのは他の乗務員のせい”って言ったの。副パーサーが。副パーサーがだよ? だったら、お前が止めろよって話じゃん」
「……そうだな」
「そうなの。そうなんだよ。なのに、私が言うとさ、エリートが偉そうに、みたいな目するの。ムカつく」
ペルシアの声が震えた。怒りじゃなく、悔しさだ。
悔しいのは、“分かってもらえない”からじゃない。
“分かってもらえない状況が、当たり前になってる”からだ。
「お前、負けず嫌いだな」
リュウジがぽつりと言う。
「は? 今それ言う?」
「違う。……負けず嫌いっていうか、守りたがりだ」
ペルシアは一瞬、呼吸を止めた。
“守りたがり”――その言葉が、胸の奥に刺さった。
「……うるさい」
「図星か」
「図星でもうるさい。……私だって、別に守ってほしいって言ってない」
「守ってほしいって言わなくても、守るやつは守る」
「……リュウジ、それ、誰の真似」
「真似じゃない」
「エリンっぽい」
「そうか?」
「そうだよ。……あー、もう」
ペルシアは腕で顔を覆った。
恥ずかしいのか、悔しいのか、分からない。
ただ、胸の奥がじわっと熱い。
「……私さ、昨日、ほんとは怖かった」
ペルシアが絞り出すように言った。
「何が」
「全部。十班の空気も、客の空気も、パイロットの空気も。揺れた時の悲鳴も。怒鳴り声も。……あの瞬間、私の耳が全部拾った。全部」
ペルシアは、いつもなら笑って誤魔化す。
でも今は、誤魔化す元気がなかった。
その代わりに“本当”が出た。
「耳が良いのってさ、便利でしょって言われるけど、便利じゃない。……便利なふりしてるだけ」
リュウジの手が、一瞬だけ止まった。
止まって、また動いた。
「……大変だな」
それだけ。
でもペルシアには、それが十分だった。
「……大変だよ。でね、ムカついたの。私は必死で客を落ち着かせてんのに、操縦室から“たいしたことない”って苛立った声が返ってきた。……何様だよって思った」
「思うだろ」
「思うよ。けど、客の前でキレられないじゃん。だから、笑って、落ち着いて、丁寧にして……それでさ、最後に降りてく客に文句言われて。刺さった。めっちゃ刺さった」
ペルシアの喉が詰まる。
言ってしまえば、昨日の怒りは、その“刺さり”が抜けないまま暴れたものだ。
「それで……終わった後、ブリーフィングで指摘して、平行線で……最後に同乗拒否届って言って……」
ペルシアは吐息で笑った。
「……私、子どもだね」
「違う」
「違わない。エリンなら、言い方変えてる。あの場で、もっと上手くやる。私は上手くできない」
リュウジが背中をさすりながら、淡々と言った。
「エリンさんと比べるな。お前はお前だ」
「……」
「お前が“上手くできない”って自覚してるなら、次は上手くできる」
ペルシアは鼻で笑った。
「……何それ、変な励まし」
「励ましてない。事実だ」
ペルシアは、目を開けた。
視界が少しぼやける。二日酔いのせいか、涙のせいか、分からない。
「……リュウジ」
「ん」
「私、十四班が好き」
言ってしまった。
口に出した瞬間、胸が少し軽くなった。
「知ってる」
「知ってるの?」
「昨日の話を聞いただけでも分かる」
「……昨日の話、どこまで聞いてんの」
「カイエから、ざっくり。」
「……最悪。私の恥、みんなに流通してんじゃん」
「流通って言うな」
リュウジが小さく笑う。
それが、ペルシアには救いだった。
誰かが笑ってくれると、自分を責める刃が少し鈍る。
「でもさ、十四班が好きって言っても、さ……」
ペルシアは視線を空に向けた。
「十四班だけで生きていけるわけじゃない。会社って、組織って、他の班もあって、役員もいて……」
「うん」
「昨日みたいに、理不尽が来る。私がどんだけ正しくても、立場で潰されるかもしれない。……それが嫌」
リュウジは一拍置いて言う。
「嫌なら、潰されないようにする」
「簡単に言うな」
「簡単じゃない。でも、やる」
ペルシアは笑った。
笑ってしまう自分に驚く。
吐き気はまだあるのに、笑える。
「……あんた、ほんと“S級”っぽい発言するよね」
「そうか?」
「そう。大体そう。……でも、ありがと」
ペルシアはふっと息を吐いた。
呼吸が少し整う。
「吐き気、どうだ」
「……まだ気持ち悪いけど、さっきよりはマシ」
「水、飲むか」
「……飲む。ちょっとだけ」
リュウジはペルシアの頭を少し持ち上げるように支え、ボトルを口元に持っていった。
ペルシアはちびちびと飲む。飲むと胃が動く感じがして怖いが、喉の乾きが勝っていた。
「……くそ、うまい。水がうまいってどういうこと」
「二日酔い」
「分かってるよ」
ペルシアは水を飲み終えると、またベンチに沈んだ。
風が頬を撫でる。
「……私さ」
ペルシアが小さく続ける。
「昨日、管理局長にも会った」
リュウジの手が一瞬止まった。
「宇宙管理局長?」
「そう。あの白髪のおじさん。バーで隣座ってきた」
「……また会ったのか」
「“またあんたか”って言った」
「言い方」
「だってほんとにまただったし。で、“やっぱり君みたいなのが必要”とか言って、見学来いとか言われた」
「行くのか」
ペルシアは鼻で笑った。
「行かない。……たぶん」
「たぶん?」
「だってムカつくじゃん。ああいうの。組織がどうとか、正義がどうとか。……でも」
ペルシアは言葉を止めた。
言うと、揺れそうだった。
「でも、心が揺れた?」
リュウジが静かに言う。
ペルシアはしばらく黙って、やがて小さく頷いた。
「……うん。揺れた。だって“守りたいもの守れる”とか言うんだよ? ズルいじゃん」
「ズルいな」
「ズルいよ。……でも、私が守りたいのって、でっかい正義とかじゃない」
ペルシアは目を閉じ、呼吸を整えながら言った。
「ククルとか、カイエとか、エマとか。乗務員の子たちとか。……それと、十四班の空気。あれが好き」
リュウジは背中をさすりながら、少しだけ声を低くした。
「それでいい」
「……うん」
「で、お前は昨日、守ろうとした」
ペルシアは苦笑した。
「守ろうとして、暴れたけどね」
「暴れるな」
「うるさい」
ペルシアは言い返すが、その声はもう尖っていなかった。
尖らせる元気が戻ってきた、というより、尖らせなくても大丈夫だと思えた。
遠くで、屋上の扉が開く音がした。
誰かが来た気配。風と足音。
リュウジがそちらを見た。
「……エリンさんだ」
ペルシアは顔をしかめる。
「やだ……怒られる……」
「怒られないだろ」
「怒られるよ。絶対怒られる。私のこと好きなくせに、怒るタイプだからあの人」
「褒め方が雑」
「事実だもん」
ペルシアは腕で顔を覆った。
でも、心のどこかで安心している。
エリンが来たということは、“整う”ということだから。
エリンの足音が近づき、止まる。
「ペルシア」
声はいつも通り、落ち着いていた。
だけど、心配が滲んでいる。
「……生きてる?」
ペルシアは腕の隙間から、ぼそっと返した。
「生きてる……でも死にたい……」
「死なないで」
エリンの返しが即答で、ペルシアは思わず笑ってしまった。
笑ったら胃が揺れて「うっ」となる。
リュウジが背中に手を当てて止める。
「笑うな」
「だって……」
エリンはベンチの反対側に腰を下ろし、ペルシアの顔色を観察する。
そして小さく頷いた。
「水、飲めてる?」
「飲んだ……」
「よし。今日は休憩室で寝るわよ。タツヤ班長にも話は通した」
「……エリン、ありがと……」
ペルシアが小さく言うと、エリンは一瞬だけ目を細めた。
「ありがとうは後でいい。まず回復」
「はいはい……」
ペルシアは素直に頷く。
その素直さを見て、エリンが少しだけ表情を緩めた。
リュウジは立ち上がり、ペルシアに手を差し出した。
「行くぞ」
「……やだ……立つと世界が回る……」
「回ってもいい。支える」
「……ほんとムカつく優しさ……」
「文句言う元気があるなら歩ける」
「理屈がS級……」
ペルシアはふらつきながらも起き上がった。
リュウジの腕に体重を預ける。
エリンは反対側に立って、さりげなく支える位置に入る。
屋上のベンチから離れる瞬間、ペルシアは小さく呟いた。
「……リュウジ」
「ん」
「さっきの、ありがと。背中……気持ち悪いの、少しマシになった」
「よかった」
「……気にするなって言ったけど、私、気にしてるからね。昨日のこと」
「気にしていい。次に繋げれば」
「……次」
ペルシアはふっと笑った。
まだ頭は痛いし、胃も不安定だ。
でも、“次”と言えるだけの気力が戻ってきた。
「……次は、もっと上手くやる」
リュウジは横目でペルシアを見て、短く言った。
「それでいい」
エリンがその言葉を聞いて、ほんの少しだけ微笑んだ。
「ほら。もう十分、上手くやってる」
「エリンまで甘やかすのやめて……」
「甘やかしてない。回復したら、ちゃんと叱るから」
「やっぱり怒るじゃん!」
「当然でしょ」
ペルシアは「最悪」と言いながら、どこか安心した顔で屋上を後にした。
背中の熱が、まだ残っている。
――守られることは、恥ずかしい。
でも、守られたぶんだけ、また守れる。
そう思えるくらいには、ペルシアの中の嵐は少しだけ静まっていた。
ーーーー
午後になり、ペルシアは休憩室から事務所に戻った。
遮光カーテンの薄暗さと、枕に沈む綿の匂いがまだ髪に残っている気がする。頭の奥は鈍く脈打っていたが、朝のように胃がひっくり返る気配はない。口の中に残っていた最悪の酸っぱさも、ようやく引いていた。
扉を開けた瞬間、十四班の空気が一斉にこちらを見る――そんな感じがして、ペルシアは反射で背筋を伸ばした。
別に、誰も責める目をしていない。むしろ、見ているのは「大丈夫か」の確認だ。
分かっているのに、それがきつい。
「……戻った」
小さく言った声は、いつもみたいに張れなかった。
「ペルシア、今日はもう帰っていいよ」
タツヤがいつもの調子で言った。わざと軽く言ってくれているのが、耳じゃなくても分かる。
「え? いいの?」
言い返した途端、喉の奥に変な熱がこみ上げる。
“いいの?”って、何。
自分で言って、自分に腹が立った。まるで、許可がないと呼吸すらできないみたいじゃない。
「ああ。今日はゆっくり休むといいよ」
「やったー!」
反射で明るく言った。
明るく言えたから、少しだけ安心した。
あ、まだいつもの私、出せる。
でも、その安心のすぐ裏で、胸の奥がズキっと痛んだ。
“いつもの私”を出すことが、逃げになってる気がして。
「ゆっくり休むのよ」
エリンが言う。声は柔らかいのに、逃げ道がない。
“休め”じゃなくて、“休むのよ”。
命令じゃないのに、従わない選択肢が消える言い方。
「分かってる分かってる」
ペルシアは手をひらひらさせて、いつもの雑な返事をした。
「それじゃあ、お先に〜」
最後にもう一回、明るく。
明るく、軽く、ちゃんと“いつも通り”。
そうしてペルシアは足早に事務所を後にした。
扉が閉まる直前、背中に聞こえた声がある。
「あっさりいなくなったな」
リュウジの声。
「平気な顔をしてるけど、疲れてるのよ」
エリンの返し。
その次の言葉は、少し遅れて、少しだけ小さかった。
「……心が」
その一言が、ペルシアの背中に刺さった。
足が止まりそうになる。
でも止まれない。止まったら、泣く。
ペルシアは廊下を曲がり、エレベーターに乗った。
鏡に映る自分の顔が、思ったよりひどい。
肌は青いし、目の下が薄く影になっている。
でも、口角だけは器用に上げられる。上げ方を知っている。
――これが、癖。
“上手く生きる癖”。
エアバスの乗り場に出ると、外気が思った以上に冷たかった。
人工コロニーの風は、匂いが薄い。
薄いのに、何故か胸が締めつけられる。
ペルシアは頭を押さえたまま、エアバスに乗り込んだ。
座席に沈み、窓側に身体を寄せる。
バスが滑るように動き出して、窓の外の景色が流れた。
街はいつも通りだ。人は歩き、広告は光り、雑踏は生きている。
なのに、ペルシアだけが取り残されている気がした。
頭痛が、ひとつ波を打つ。
その波が来るたび、昨日の光景が勝手に蘇る。
――十班のブリーフィングルーム。
笑っているベテラン。縮こまる若手。
“いつものこと”って顔。
揺れた瞬間の悲鳴。
震える声。震える手。
そして、操縦室から返ってきた苛立ち混じりの言葉。
『大した事はない』
あの言い方。
その一言が、どれだけ客の心臓に刺さるか。
現場を知らない人間の言葉みたいで、腹が立った。
腹が立ったから、動いた。
動いて、抑えて、指示して、笑って、謝って、怒鳴り声を薄めて――
それでも、降りていく客の言葉は刃だった。
『二度と乗らない』
『怖かった』
『最悪だった』
『なんでこんなサービスなの』
それを聞いた時、胸の奥で何かが折れた。
折れたのに、立っていた。
立っていたから、余計に折れた。
そして最後の最後で、ペルシアは“言ってはいけない言葉”を口にした。
『同乗拒否届を提出しなさい!!』
叫んだ瞬間、空気が凍るのが分かった。
凍って、割れて、欠片になって、床に散った。
拾えない欠片。踏めば痛い欠片。
――やりすぎだ。
――分かってる。
――でも、止まらなかった。
ペルシアは窓ガラスに額を軽く当てた。冷たい。
冷たいのに、頭の中は熱い。
何が悔しいって、怒りの矛先がずれることだ。
ほんとうは“システム”に腹が立っている。
仕組みに。文化に。慣れに。
それなのに、人の顔が見える場所に立った瞬間、矛先は人へ向く。
ガーネット。
十班のチーフパーサー。
役員筋。取引先。血筋。立場。
そういうものが、現場の呼吸を縛る。
縛るのに、縛っている本人たちは息をしている。
むしろ、こっちが息を止めさせられる。
ペルシアは自分の拳を握って、ほどいた。
また握って、ほどいた。
握った拳が、何も掴んでいない。
――私、何のために怒ったんだっけ。
守りたいから。
守りたい、って言うのは簡単だ。
客を守る。
乗務員を守る。
十四班の誇りを守る。
“ちゃんとやる”って空気を守る。
でも、守るには、技術が要る。
怒りを扱う技術。言葉を選ぶ技術。
敵を作らずに、状況を変える技術。
エリンはそれができる。
誰も傷つけずに動かす。
背中の力の抜け方を変える。
そういう、目に見えない仕事を、当たり前みたいにやる。
ペルシアは、できない。
できないから、噛みつく。
噛みついて、血が出て、後で自分がその血を飲む羽目になる。
――私、子どもだ。
――でも、子どもみたいに怒ることしかできない瞬間がある。
――その瞬間に、誰かが死ぬかもしれないのが、現場だ。
ペルシアは息を吐いた。
吐くと、胸の中の何かが少しだけ落ちる。
だけど落ちた先は底じゃない。底が見えない。
その時、ふっと思い出した声がある。
バーのカウンター。
氷の音。
隣に座った白髪混じりの男。
『やっぱり君のような誰かを守ろうとする人間は管理局に必要だ!』
あの言い方が、腹が立った。
“必要だ”って、何。
必要かどうかを決めるのは私だろ。
そう思ったのに。
――心が揺れた。
だって、“守れる場所”って言ったから。
“組織や規則に縛られない”って言ったから。
嘘かもしれない。綺麗事かもしれない。
でも、昨日の私には、その綺麗事が麻薬みたいに甘かった。
十四班が好きだ。
エリンが好きだ。
タツヤの適当な優しさが好きだ。
リュウジの不器用な手が好きだ。
ククルの明るさが好きだ。
カイエの真面目さが好きだ。
エマの言葉の選び方が好きだ。
だから、ここから離れるのは嫌だ。
――でも、ここにいる限り、昨日みたいなことは起きる。
――昨日みたいなことが起きたとき、私はまた暴れる。
――また暴れたら、今度は十四班に迷惑がかかる。
エリンが“止める”と言ってくれた。
タツヤが“なんとかする”と言ってくれた。
リュウジは支えてくれる。
そうやって守ってくれる人がいるから、私はここにいられる。
でも、それって。
守られている私は、守れているのか?
――守るって何。
――正しいって何。
――現場の正しさは、誰が決めるの。
ペルシアは窓の外を見た。
いつの間にか、バスは中心街から外れ、行政区画の方へ向かっていた。
高層のビル群が少しずつ整然として、道路が広くなる。
警備の巡回ドローンが、規則正しく空を切る。
“宇宙管理局”の建物が見えたとき、ペルシアは自分の呼吸が止まったのに気づいた。
――え?
ペルシアは背筋を伸ばし、周囲を確認した。
車内のアナウンスが淡々と流れる。
『次は、宇宙管理局前。お降りの方は――』
ペルシアは膝の上の手を見た。
そこに、いつの間にか握られているカードケースがある。
自分の社員証。
それから、事務所で買ったミネラルウォーター。
そして――名刺。
バーで渡された名刺。
宇宙管理局長、マーカス。
薄い紙なのに、重い。
ペルシアは喉を鳴らした。
「……なんで」
声が漏れた。
なんでここに来てるの。
なんで降りようとしてるの。
なんで、止めないの。
止めたいのに、身体が先に動く。
それが怖い。
自分の中の“揺れ”が、もう舵を取っている。
バスが停まり、扉が開いた。
外気が流れ込む。冷たい。
その冷たさが、ペルシアの頬を叩いた。
立つ。
足がふらつく。二日酔いの残りが、まだそこにいる。
でも立つ。
立ってしまう。
ペルシアは降りた。
降りた瞬間、バスが去っていく音が背中で遠ざかる。
まるで、帰り道が消えたみたいに。
目の前に、宇宙管理局のエントランス。
磨かれた床。静かな警備員。
受付の端末が無感情に光っている。
ペルシアは数歩進んで、そこで止まった。
――何しに来たの。
答えが出ない。
出ないのに、胸の奥がじわじわ熱くなる。
昨日の悔しさが、まだ抜けていない。
でも、十四班の空気も、まだ身体に残っている。
両方が引っ張る。右と左に。
ペルシアは自分のこめかみに指を当てた。
頭が痛い。
痛いのに、思考は妙に冴えている。
酒が抜けていくぶん、昨日の言葉が鮮明になる。
『君が守りたいものを、一緒に守ってほしい』
守りたいもの。
それは、誰。どこ。何。
――私が守りたいのは。
――私が守りたいのは……。
ペルシアは名刺を見た。
指が少し震えている。
震えが恥ずかしい。
でも震える。人間だから。
受付の端末が、淡々と表示する。
【ご用件を入力してください】
ペルシアは、その文字を見つめた。
まるで、選択肢がそこに並んでいるみたいに。
帰る?
入る?
見学だけ?
話すだけ?
分からない。
分からないのに、ここに来てしまった。
それが、いちばん怖い。
ペルシアはゆっくり息を吸って、吐いた。
その呼吸で、自分の中の揺れを、ほんの少しだけ掴もうとする。
――私は、逃げたいわけじゃない。
――でも、変わりたい。
――守りたい。
――守り方を、知りたい。
そんな言葉が喉元まで上がってきて、飲み込まれた。
まだ、声にするには生々しい。
ペルシアは、もう一度だけ建物を見上げた。
高くて、冷たくて、強そうで。
そして、どこか“綺麗すぎる”。
その瞬間、ペルシアは気づいた。
自分がここに来た理由を、まだ言語化できないだけで――
理由そのものは、ちゃんと胸の中にある。
ただ、怖いのだ。
その理由を認めた瞬間、何かが変わってしまう気がして。
ペルシアは端末の前に立ったまま、指を伸ばしかけて、止めた。
伸ばしかけて、止めた。
「……私、何やってんだろ」
呟きは、誰にも届かない。
でも、耳のいい自分には届く。
自分の声が、こんなに弱いのを、初めて聞いた気がした。
そしてペルシアは、もう一度だけ深呼吸をして――
指先を、端末へ向けた。