宇宙管理局のロビーは、静かすぎるほど静かだった。
足音は吸い込まれるように消え、空調の風だけが均一に流れている。天井は高く、白い壁面は光を反射して、眩しいのに温度がない。受付カウンターの奥にいる職員も、端末を打つ指先も、まるで“雑音”を許されない世界の住人みたいだった。
ペルシアは案内されたソファに腰を下ろし、膝の上で指を組んだ。
指先が少し冷たい。
手のひらの内側に、じわりと汗が滲む。
――来ちゃった。
――ほんとに、来ちゃった。
今朝、あれだけ吐いて、頭を抱えて、悔しくて、情けなくて。
それでも事務所を出た瞬間は、帰って寝るつもりだった。
なのに、いつの間にかエアバスはここへ向かっていて、降りてしまって、今こうして座っている。
背中がむず痒い。
誰かに見られている気がする。
実際、見られているのは“監視”じゃなくて“警備”だ。壁際の警備員の視線、入口のセンサー、通行証のチェック音。全てが“守るため”にあるのに、守られている側は、どうしてこんなに落ち着かないのだろう。
ペルシアは視線を落とし、名刺を見た。
宇宙管理局長 マーカス。
名前の文字だけがやけにくっきりして、紙が重く感じる。
胸の奥が、また小さく揺れた。
その揺れを誤魔化すように、耳を澄ます。
ロビーの遠く、扉の向こうの会話。
走るカートの車輪。
低い声で交わされる指示。
端末の通知音。
どれも無駄がなくて、焦りがなくて、“整っている”。
――整ってる、って、こういうことか。
ふと、思ってしまった。
十四班の事務所は、いつも誰かの笑い声がある。
ペルシアの愚痴、タツヤの軽口、ククルのテンション、リュウジの「うるさい」、エリンのため息。
あそこは整っていない。
でも、温かい。
雑音だらけで、生きている。
この場所は、綺麗すぎて、怖い。
“失敗”が許されない匂いがする。
ソファに沈む身体が、じわじわ重くなる。
その時、ロビーの空気が僅かに変わった。
足音が近づく。
歩幅が大きい。革靴の音が硬い。
呼吸が、落ち着いている。
――来た。
視線を上げると、白髪混じりの短髪の男が、こちらへ歩いてくるところだった。
あの夜、バーで見た顔。
宇宙管理局長、マーカス。
「やあ、来てくれたね」
声は低く、柔らかい。
柔らかいのに、言葉の芯が折れない。
この人の声は“命令”と“お願い”の境界が曖昧だ。頼まれている気がするのに、断るとこちらが悪いみたいに感じてしまう。
ペルシアは反射で立ち上がり、頭を下げた。
体が勝手に礼儀を作る。ドルトムントで染みついた癖だ。
「……見学だけ。だから」
自分で言って、ちょっと驚いた。
“見学だけ”って、言い訳みたいに響く。
「もちろん。歓迎するよ」
マーカスは嬉しそうに目を細めた。
嬉しそう、というより――“手応え”を感じている顔だ。
それがまた、むしゃくしゃする。
「案内しよう。あまり時間は取らせない。君は忙しいだろうからね」
「……忙しいっていうか」
忙しいのは心だ、と言いかけて飲み込む。
そんなこと、言ったら負けだ。
マーカスは軽く手を振り、職員に合図を送った。
すぐに通行証のようなカードが用意され、ペルシアに渡される。
「これを付けて。セキュリティの都合で、立ち入りは制限されるが……君には見せたいものがある」
「……見せたいもの?」
「この宇宙の“動脈”だ」
言い切るのが、ずるい。
ペルシアは鼻で笑ってやろうとしたのに、喉が動かなかった。
通路を歩き始める。
ロビーの“静けさ”とは違う、働く音が増える。
扉の開閉音、短い報告、規則正しい足音、端末の操作音。
それらが重なって、奇妙なリズムを作っていた。
ペルシアの耳は、勝手に情報を拾う。
拾ってしまう。
“未探索領域の観測データ”
“救難艇の出動準備”
“航路の安全確認”
“補給ラインの更新”
単語だけが断片的に流れ込み、頭の中で勝手に繋がっていく。
ドルトムントの社交パーティーで聞こえてきた、嫌な噂の塊とは違う。
ここで飛び交う言葉には、目的がある。
守るための言葉。
生きるための言葉。
ペルシアはそれが、少し羨ましかった。
「ここは情報課だ。各コロニーの管制、宇宙船の動向、救助要請の解析もここでやる」
マーカスが説明する。
ガラス越しに見える部屋の中では、数人の職員がモニターと向き合っている。
表情は硬い。でも焦っていない。
“緊張”が日常に溶けている。
「ここは救難支援課。事故が起きたときの初動と、後方支援を繋ぐ。現場に行く者、支える者、両方が必要だ」
次の区画。
壁に貼られた手順書の量が目に入る。
細かい。膨大。
嫌になるほど、丁寧だ。
――規則や組織なんて現場じゃ役に立たない。
昨日までの自分なら、そう吐き捨てていただろう。
でも、今見ているものは違う。
規則は現場を縛るためじゃなく、現場を助けるために積み上げられているように見える。
もちろん、綺麗事かもしれない。
実際の現場は泥だらけだ。
でも、この“泥だらけ”を支えるための、骨組みがここにある――そんな感じがした。
ペルシアの胸の奥が、また揺れた。
「……ここ、息苦しくない?」
思わず口から出た。
自分でも意外だった。
マーカスは歩みを止めず、穏やかに返した。
「息苦しい、と感じる人もいる。だがそれは、“責任”の匂いだ。ここは命を扱う場所だ。誰も軽口では済まされない」
「軽口……」
タツヤの顔が浮かぶ。
エリンのため息が浮かぶ。
十四班の事務所の、あの雑音が浮かぶ。
――軽口があるから、息ができる日もあるのに。
――軽口があるから、持ち堪えられる日もあるのに。
「だが、君は軽口もできる。責任も背負える。両方を持っている人間は、珍しい」
マーカスの言葉が、ペルシアの背中を押してくる。
押すのが上手い。
“君は特別”と持ち上げるのではなく、“君の資質はここで役に立つ”と言う。
それは称賛じゃない。採用面接だ。
ペルシアは口を尖らせた。
「……私を口説いても無駄だよ。あんたの愛人にはならない」
「残念だ」
マーカスは笑った。
笑い方に余裕がある。腹が立つ。
「君に頼みたいのは、愛人ではない。――“統括官”だ」
ペルシアの足が、ほんの少しだけ止まりかける。
その瞬間を逃さないように、マーカスは最後の扉の前で立ち止まった。
指紋認証と、虹彩認証。
短い電子音。
重い扉が、静かに開く。
ペルシアは中を見て、息を呑んだ。
オペレーションルーム。
そこは、まるで“宇宙”そのものが室内に凝縮されたみたいだった。
正面の大型モニター群には、航路、警戒域、救助要請、未探索領域の観測データ、各コロニーの警報レベルが並び、色と数字と線が絶えず更新されている。
各席のオペレーターの前にも複数のモニターがあり、手元で情報が流れる。
キーボードを叩く音。
短く交わされる報告。
抑えた声での確認。
機械が低く唸る音。
それだけが、耳に入ってくる。
変な話――心が落ち着く音だった。
余計な感情がない。
言い訳もない。
“やるべきこと”だけがここにある。
ペルシアは、自分の胸が少し軽くなるのを感じて、怖くなった。
軽くなることが、怖い。
ここに居たら、昨日の怒りが、正しい形に収まってしまいそうで。
収まってしまったら、十四班の自分は何になる?
「ここが、心臓部だ」
マーカスは声を落として言った。
落としても、耳にはちゃんと届く。
「オペレーションルームは、この宇宙を守るために宇宙啓開や未探索領域への捜索補助、事故があれば救出から後方支援まで行う。
この宇宙の指揮、その全てを集約した場所だ」
ペルシアは大型モニターを見上げた。
いくつもの光点が動き、線が伸び、危険域が赤く点滅する。
誰かの声が短く響いた。
『救難支援、座標更新。再送します』
『受領。ドローン班、確認』
その言葉だけで、誰かの命が繋がっていくのが分かる。
現場の船が揺れて悲鳴が上がるより前に、ここで“揺れ”が予測される。
現場が混乱するより先に、ここで“線”が引かれる。
その線が、救助の線になる。
ペルシアは喉が乾いた。
唾を飲み込む音が、自分の耳にやけに大きく響く。
「ここの統括を、君にお願いしたいと思っている」
マーカスが言った。
「……私に?」
声が裏返りそうになって、ペルシアは咳払いで誤魔化した。
「君の力なら、この宇宙を守ることができる」
マーカスの目は、真っ直ぐだった。
「君が守りたいものも含めて、だ」
その言葉の“含めて”が、ペルシアを揺さぶった。
守りたいもの。
十四班。
あの事務所。
笑い声。
苛立ち。
怒鳴り合い。
それでも最後は守り合う、あの場所。
――守りたいのに。
――私は昨日、守れなかった。
――守ろうとして、壊した。
ガーネットの「私たちはエリートの十四班とは違うんです」という言葉が蘇る。
違う?
何が違う?
覚悟?
訓練?
それとも、ただの環境?
“いつものこと”で済ませる文化が、十班を作った。
“いつものこと”で済ませる文化が、客を傷つけた。
でも、ペルシアは知っている。
十班の若手だって、誰だって、最初から強いわけじゃない。
恐怖が顔に出る日だってある。
声が震える日だってある。
それは、責められることじゃない。
責められるべきなのは、“震えている人間を放置する空気”だ。
“震えている人間が震えなくていいように整える仕組み”がないことだ。
ここには、仕組みがある。
ここには、整える力がある。
ここなら、震える声が震える前に、支えられるのかもしれない。
ペルシアは拳を握った。
爪が掌に食い込む。
「……私がここに来たら、十四班はどうなるの」
口から出た瞬間、自分の声が少し震えているのに気づいた。
ああ、私も震えるんだ。
昨日、十班の副パーサーに言ったことが、頭に刺さってくる。
“表情に出すな”“声を震わせるな”――言うのは簡単だ。
でも人は人だ。震える。
「十四班は君がいなくても回る。優秀な人材はいるだろう」
マーカスは即答した。
その即答が、冷たく感じて、胸が痛い。
「でも、君がいれば、ここは変わる」
次の言葉は、熱を帯びていた。
冷たさと熱さが同居していて、ずるい。
「君の耳は、情報を“聞く”ためだけじゃない。
聞こえたものを、“守るための指示”に変える。
現場を俯瞰して、最短で動かす。
その才は、ここで最大限に活きる」
「……そんなの、誰だって」
「誰だって、ではない」
マーカスは一歩近づいた。
近づいても威圧じゃない。
説得の距離だ。逃げ道を塞がない距離で、逃げたくなる圧だけを与える。
「君は、昨日のような混乱を嫌う。
混乱の中で、誰かが置き去りにされるのが許せない。
その感情は、組織では厄介者として扱われることが多い」
ペルシアは息を止めた。
その通りだ。
厄介者。面倒。うるさい。
空気が読めない。
言い方がきつい。
全部、言われたことがある。
耳がいいから、陰口すら聞こえた。
聞こえたから、余計に刺さった。
「だが、ここではその感情が“資質”だ。
誰かを置き去りにしないために、感情を燃料にして動く者が必要なんだ」
ペルシアの喉が熱くなった。
泣きそうになるのが悔しくて、奥歯を噛む。
「……私、怒りっぽいだけだよ」
絞るように言う。
「怒りは悪ではない。
怒りを“目的”にしてしまうのが悪い。
君は怒りを目的にしていない。守るために怒っている。
その違いは大きい」
マーカスは、言い切った。
言い切られると、逃げにくい。
ペルシアは大型モニターを見た。
光点が動き続けている。
今もどこかで、誰かが揺れている。
誰かが恐怖を飲み込んでいる。
誰かが“いつものこと”と諦めている。
――助けたい。
その衝動が、胸を突き上げる。
でも同時に、十四班の事務所の扉が浮かぶ。
エリンの顔。
タツヤの笑い。
リュウジの無言の背中。
ククルの「やりたーい!」
カイエの真面目な目。
エマの控えめな頷き。
あそこも、守りたい。
あそこから離れたくない。
ペルシアの心は、綱引きみたいに引き裂かれていく。
片方は“広い宇宙”。
片方は“狭いけど温かい居場所”。
マーカスは、急かさなかった。
急かさないのが、また怖い。
急かされないと、自分で決めなきゃいけない。
決めるのが、いちばん怖い。
「……見学だけって言ったのに」
ペルシアは、精一杯の抵抗を口にした。
冗談めかして言わないと、崩れる。
「見学で十分だ。今日は」
マーカスは微笑んだ。
「だが、君はもう見た。
ここが何をしているか。
そして、君が何をしたいかを考える材料も、手に入れた」
ペルシアは唇を噛んだ。
“考える材料”という言葉が、優しさに聞こえた。
優しさが、いちばん厄介だ。
拒絶しにくい。
オペレーションルームの空気は冷えているのに、ペルシアの耳の奥は熱かった。
胸の奥がぐらぐらして、足元が少し浮く。
二日酔いの残りなのか、心の揺れなのか、もう分からない。
ペルシアは、深呼吸した。
この場所の匂いを肺に入れる。
整った匂い。
責任の匂い。
冷たい匂い。
「……私が守りたいものも含めて、って言ったよね」
ペルシアは、マーカスを見た。
「もちろんだ」
即答。
揺れが増す。
「……それ、どういう意味?」
聞いてしまった。
聞いた瞬間、引き返せない一歩を踏んだ気がした。
マーカスは少しだけ視線を落とし、次に、真っ直ぐペルシアを見据えた。
「君の“居場所”も守るという意味だ。
君が守りたい人間たちを、事故や理不尽や無駄な犠牲から遠ざける。
君が守りたい現場を、守れる仕組みに変える」
ペルシアの喉が鳴った。
それは、甘い言葉だ。
でも、甘さの裏に、実行できる力がありそうなのが、怖い。
ペルシアは、ほんの少しだけ笑った。
笑ったつもりだった。
でも声は震えていた。
「……ずるいね、あんた」
マーカスは答えない。
答えないまま、オペレーションルームの光が、ペルシアの頬を照らす。
ペルシアの心は、揺れて、揺れて、揺れて――
揺れの中心が、少しずつこちら側へ傾いていくのを、本人がいちばん怖がっていた。
ーーーー
玄関のオートロックが閉まる音が、やけに大きく響いた。
ペルシアは靴を脱ぐのも面倒くさくて、ヒールを片足ずつ蹴るように脱ぎ捨てる。脱いだ靴は左右も揃わず、廊下の端に転がったまま。いつもなら「だらしない」と自分で笑って片づけるのに、今日はその笑いすら出ない。
コートを脱いでソファに放る。ハンドバッグが床に落ちて、鈍い音を立てた。
“鈍い音”のはずなのに、耳には金属みたいに刺さる。
その刺さり方が、さっきの宇宙管理局のオペレーションルームを思い出させた。
機械音。短い指示。規則正しい打鍵。
無駄な言葉が一つもない世界。
ペルシアは口の中を舌でなぞった。まだ、シャンパンの甘ったるさが残っているような気がする。二日酔いはだいぶ引いたはずなのに、胸の奥にだけ“酔い”が残っている。
酒の酔いじゃない。
あの場所の空気に、頭がくらくらしている。
「……見学だけ、って言ったのに」
ぽつりと呟く。
誰もいない部屋なのに、言葉が壁に跳ね返って帰ってくる。
自分の声が思ったより弱くて、嫌になる。
リビングの照明もつけないまま、寝室へ向かった。
部屋は暗い。窓の外から差し込む街の光だけが、カーテンの隙間で薄く床を撫でている。
ベッドのシーツが、ひやりとしている。
ペルシアはそのまま倒れ込むように、ベッドの上に寝転がった。
マットレスが沈んで、身体が吸い込まれる。
天井が近い。
呼吸の音が大きい。
自分の心臓の音が、耳にうるさい。
両腕を広げる。
何かを掴みたいのに、掴めるものが何もない。
――惹かれてる。
――完全に。
言い訳できないほど、心は宇宙管理局に惹かれていた。
あの整った音。
あの無駄のなさ。
あの“守る”が仕事の中心にある感覚。
誰かのために動くことが、当たり前で、誰もそれを笑わない場所。
ペルシアは布団を掴んだ。指先に布の柔らかさが伝わる。柔らかいのに、胸の中は硬い。
「でも……辞めるわけにはいかない」
声に出して言うと、少しだけ現実味が増した。
“辞める”という単語が、刃物みたいに冷たい。
辞める。
十四班を。
エリンを。
タツヤ班長を。
リュウジを。
ククルを。
カイエを。
エマを。
あの事務所を。
思い浮かべるだけで、胸がきゅっと縮む。
痛い。
痛いのに、その痛みが“生きてる”感じもして、余計にややこしい。
ペルシアは枕に顔を押し付けた。
枕の繊維が頬をくすぐる。
涙が出そうなのを誤魔化すために、わざと強く押し付ける。
――辞められない理由なんて、いくらでもある。
――だけど、それって本当?
――本当は“怖い”だけじゃない?
脳内で、誰かが囁く。
ペルシア自身の声だ。
怖い。
変わるのが怖い。
自分の居場所を変えるのが怖い。
でも、変わらないでいることも、もう怖い。
十班のフライト。
姿勢制御ユニットが止まった瞬間の揺れ。
悲鳴。怒声。
震える声で「落ち着いてください」と言う乗務員。
震えが伝染していくのを、目の前で見た。
あれを“いつものこと”で流す空気。
それを“問題ありませんでした”と平然と言える神経。
乗客が降りるときに吐き捨てた不満と非難。
刺さった言葉。刺さったまま抜けない棘。
――私は、あんなの許せない。
――許せないから、暴れた。
――暴れた結果、同乗拒否届なんて言った。
――言い過ぎた。
――分かってる。
分かっている。
分かっているのに、後悔と正当化が同時に胸の中で暴れる。
ペルシアは仰向けになり、天井を睨んだ。
天井は何も答えない。
目を閉じると、今度は宇宙管理局のオペレーションルームが浮かぶ。
光点。
航路。
警戒域。
救助要請。
落ち着いた声。
短い指示。
『受領。ドローン班、確認』
『救難支援、座標更新』
その言葉だけで、何かが救われていく感じがした。
“現場が混乱する前に”動ける仕組み。
“いつものこと”を、“いつものこと”で終わらせない仕組み。
――私が欲しかったの、これじゃない?
胸の奥が、また揺れた。
守りたいもの。
自分の耳の力を、誰かを傷つけるためじゃなく、守るために使える場所。
聞きたくない言葉まで聞こえてしまう自分が、それでも“仕事になる”場所。
耳がいいせいで疲れるんじゃなく、耳がいいことが“役に立つ”場所。
“統括官”
その言葉が、じわじわ熱を持つ。
背筋がぞくりとした。
――統括官なんて柄じゃない。
――私、そんなに偉くなりたいわけじゃない。
――でも……偉くなることが目的じゃない。
――仕組みを動かせる立場が欲しい。
――現場を守れる立場が欲しい。
思考がそこまで進んで、ペルシアは自分で自分に腹が立った。
「うっわ……私、野心あるじゃん」
笑い声は出ない。
代わりに、喉が詰まったみたいに息が止まる。
違う。
野心じゃない。
ただ、悔しいだけだ。
昨日も今日も、結局“組織の都合”に殴られている。
ドルトムントの役員室。
無茶な航路を押し付ける権力。
娘の話を盾にする卑怯。
十班のチーフパーサーとガーネットの言い掛かり。
取引先の娘、という肩書きが、正しさを捻じ曲げる。
ペルシアはその場で戦った。
戦って、負けた。
正確には、“勝てない土俵”だった。
勝敗以前に、土俵が腐っている。
――腐った土俵の上で、どれだけ正しく立っても、足元が崩れる。
――だったら、土俵ごと作り替える場所に行く?
――宇宙管理局なら?
――そこなら、腐ってない?
――本当に?
疑いが出る。
当然だ。組織はどこも汚れる。
宇宙管理局だって例外じゃないかもしれない。
マーカスの言葉だって、都合のいい勧誘かもしれない。
あの笑みだって、手応えを感じていた。
あの人は“欲しい”と思ったら手を伸ばすタイプだ。
ドルトムントの役員と形は違うが、本質は同じかもしれない。
――信じるの?
――信じないの?
どちらにしても、答えは簡単に出ない。
ペルシアはベッドの上で横向きになり、膝を抱えた。
肌に触れるシーツが冷たくて、少し落ち着く。
耳を澄ますと、部屋の外で隣人が水を流す音がした。
配管を通る水音。
遠くの車の走行音。
誰かの笑い声。
生活の音。
“守る”とは関係ない、ただの日常。
日常の音に包まれると、逆に、宇宙管理局の音が恋しくなる。
あの音は、“今日も誰かが生きるために動いている”音だ。
それが落ち着くのが、自分でもおかしいと思う。
でも、落ち着く。
ペルシアは枕元の端末を手に取った。
画面が光る。
眩しい。
通知がいくつも溜まっている。
十四班のグループチャット。
タツヤ班長。
エリン。
カイエ。
ククル。
スタンプが並んでいる。
指が勝手にスクロールする。
『ペルシア、ちゃんと帰れた?(エリン)』
『水飲め。あと二日酔いなら二度と飲むな(リュウジ)』
『ペルシアさん、無理しないでください(カイエ)』
『ペルシアさーん!次一緒にアイス食べましょう!(ククル)』
『……(エマ:控えめなハート)』
それだけで、胸がぎゅっとなる。
ああ、ここが居場所だ。
ここが“守りたいもの”だ。
こんなの、ずるい。
ペルシアは端末を握りしめた。
返信しなきゃ。
でも、何を返せばいい?
――「大丈夫」?
嘘になる。
心は揺れている。
――「ごめん」?
また謝るの?昨日からずっと謝ってばかりじゃない。
――「ありがとう」?
それが一番近い。でも、ありがとうだけで済ませたら、置いていくみたいになる。
ペルシアは、指を止めた。
画面に、返信欄が空しく光っている。
“宇宙管理局”の文字が頭の中でちらつく。
マーカスの名刺。
統括官。
守りたいものも含めて。
――守りたいものを守るために、離れる。
――それって、裏切り?
――それとも、覚悟?
ペルシアは自分の頬を両手で叩いた。
ぱちん、と小さな音。
少しだけ目が冴えた。
「……私、何やってんの」
声がかすれる。
二日酔いの残りじゃない。
心が疲れている。
ペルシアは、エリンの顔を思い浮かべた。
あの人は、怒るときはちゃんと怒る。
でも、守るときは命がけで守る。
あの強さは、憧れでもあり、怖さでもある。
もし自分が「宇宙管理局に誘われた」なんて言ったら、エリンはどうするだろう。
怒る?
笑う?
心配する?
たぶん全部だ。
そして最後に、きっとこう言う。
――「あなたが決めなさい」
その“決めなさい”が、いちばん重い。
タツヤ班長は?
最初は軽口で誤魔化す。
でも、最後に真剣な目で言うだろう。
――「ペルシアの人生だ」
それもまた重い。
リュウジは?
あいつは余計なことを言わない。
でも、背中で示す。
そして、ぽつりと落とす。
――「逃げるな」
そんな言葉を言われたら、泣く。
泣くのが悔しくて、怒る。
そしてまた、揺れる。
カイエは?
真っ直ぐ怒る。
「ペルシアさんのせいじゃない」って言ってくれる。
でも、もし私が離れるって言ったら――カイエは多分、笑って送り出す。
その笑顔が、胸に刺さる。
ククルは?
絶対に泣く。
「やだー!」って言う。
エマは何も言わない。でも、目が寂しくなる。
――そんな顔、見たくない。
――だから辞められない。
そう結論づけた瞬間、別の声が胸の底から湧いた。
――見たくないから辞めない、って。
――それは、誰のため?
――自分のためじゃない?
ペルシアは息を止めた。
心臓が一回大きく鳴った気がした。
自分のため。
そうかもしれない。
でも、それが悪いのか?
自分を守ることは、悪なのか?
ペルシアは目を閉じた。
今日の宇宙管理局で感じた“落ち着き”が、また胸の奥でふわりと浮かぶ。
あの場所にいたら、私は疲れないのかもしれない。
いや、疲れる。絶対疲れる。責任の塊だ。
でも、その疲れは、昨日のような“理不尽”から来る疲れじゃないかもしれない。
理不尽の疲れは、魂を削る。
正しい疲れは、筋肉みたいに残る。
そんな気がした。
ペルシアは端末をもう一度見た。
返信欄に、短く打ち込む。
『帰れた。頭痛いけど生きてる。心配しないで。』
送信。
たったそれだけ。
でも、送れただけで少し楽になった。
次に、別の連絡先が頭をよぎる。
マーカス。
名刺の番号は端末に入れた。
帰り道、無意識に入力してしまっていた。
自分が怖い。
惹かれている証拠だから。
ペルシアは画面を開いて、指を止めた。
“送信”の手前で、止まった。
――連絡したら、もう後戻りできない気がする。
――連絡しなかったら、ずっとモヤモヤする気がする。
どっちにしても、苦しい。
ペルシアは端末を枕の横に置き、両腕で顔を覆った。
暗闇に自分の呼吸が響く。
「……私、何がしたいの」
問いかけても答えは出ない。
でも、答えが出ないことが、今の答えだ。
“今は”決められない。
“今は”辞められない。
“今は”惹かれている。
全部、事実。
ペルシアは布団を鼻まで引き上げた。
ほんの少し、落ち着く。
布の匂いがする。自分の家の匂い。
それが、寂しい匂いにも感じる。
十四班の事務所の匂いは、もっと雑多だ。
コーヒー。紙。端末。誰かの香水。
エリンの整った匂い。
リュウジの石鹸の匂い。
ククルの甘い匂い。
生活と仕事が混ざった匂い。
――あの匂いが好き。
――だけど、あの匂いの中で、私はまた怒る。
――また傷つく。
――また戦う。
戦える。
私は戦える。
でも、戦うだけが正解じゃない。
ペルシアは、ゆっくりと目を開けた。
暗い天井があるだけ。
でも、その暗さの中に、薄い光が差している。カーテンの隙間から。
その光は細い。頼りない。
けれど、消えてはいない。
――守りたいものを守るために、私は何を選ぶ?
今はまだ、答えを出さない。
出せない。
でも、“揺れている自分”を誤魔化すのは、もうやめる。
ペルシアは、枕元の端末をもう一度手に取った。
マーカスの連絡先を開く。
数秒だけ見つめて、閉じた。
「……気が向いたら、ね」
昨日みたいに、軽口で自分を守る。
でも今日は、その軽口が“逃げ”じゃない。
“猶予”だ。
今は休む。
明日、また十四班の事務所へ行く。
エリンのため息を聞く。
タツヤ班長の軽口に呆れる。
リュウジの無愛想に腹を立てる。
ククルの元気に救われる。
カイエの真っ直ぐさに心が熱くなる。
それが、今の私の現実だ。
そして――
もしまた、理不尽が来たら。
もしまた、守れない悔しさが来たら。
そのときは、今日見た“別の土俵”を思い出す。
ペルシアは布団の中で、ゆっくり息を吐いた。
胸の奥の揺れは消えない。
でも、揺れを抱えたままでも、眠れる気がした。
心は確かに宇宙管理局に惹かれている。
だけど、辞めるわけにはいかない。
その矛盾を抱えたまま――
ペルシアは、目を閉じた。