サヴァイヴ〜ドルトムント財閥〜   作:一塔

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開戦

 ペルシアが事務所を出ていった直後の空気は、妙に軽かった。

 あれだけ騒いで、吐いて、笑って、最後はふらりと消えるように帰っていったのだ。まるで嵐が通り過ぎた後の、静けさだけが残ったみたいに。

 

 けれど、その静けさが心地いいかと言えば――エリンにとっては、違った。

 机に戻っても、端末を開いても、視線の端でペルシアの椅子が空であることが、ずっと気になってしまう。

 

 タツヤは「今日は帰して正解だ」と言いながらも、どこか眉間にしわを寄せたままだったし、カイエは奥歯を噛みしめるような顔で、資料を整えている。ククルとエマは「ペルシアさん大丈夫かな」と何度も小声で囁き合っていた。

 

 ――このまま放っておけない。

 エリンはそう思った。

 

「リュウジ」

 

 呼ぶと、リュウジはすぐに顔を上げた。

 その目は、いつもの無表情に見せかけて、芯が鋭い。余計なことを言わずに、必要なことだけを拾う目だ。

 

「十班、行くわよ。……ペルシアの件、謝りに」

 

 リュウジはほんの一瞬だけ視線を逸らし、それから短く頷いた。

 

「分かりました」

 

 声は平坦なのに、エリンには“分かってない部分”も見えた。

 謝ると言いながら、リュウジの中には別の火種が確かにある。十班のやり方に対する怒り。ペルシアへの理不尽な当たりへの苛立ち。――仲間を傷つけられたことが、まだ冷めていない。

 

 だからこそ、エリンは連れて行く必要があった。

 止めるためじゃない。

 “制御できる場所”に連れていくために。

 

 ***

 

 十班のフロアは、十四班の事務所とは空気が違った。

 人はいるのに、芯がない。忙しそうに見えるのに、リズムが揃っていない。何かを“回している”というより、目の前のものを“こなしている”だけに見える。

 

 エリンは入り口で軽く頭を下げ、受付の乗務員に用件を伝えた。

 

「十四班のエリンです。……昨日の件で、十班のチーフパーサーさんにお話を」

 

 受付の乗務員は一瞬だけ目を泳がせ、言葉を選ぶようにして答えた。

 

「本日は……チーフパーサーも、副パーサーのガーネットも、外出しております」

 

 エリンの眉が僅かに動く。

 外出。

 こんなタイミングで。

 ――逃げたのか、意図的に避けているのか。どちらにせよ、都合の悪さだけが残る。

 

「そう……」

 

 エリンは感情を顔に出さずに微笑んだ。

 

「では、戻られるまでこちらで待たせていただけますか?」

 

 少しだけ迷ったあと、受付の乗務員が「会議室へ」と案内してくれた。

 

 扉の向こうは、静かだった。

 壁の色も照明も、どこか無機質で、空気が薄いように感じる。椅子に座ると、背もたれが硬く、身体が落ち着かない。

 

 エリンは手を膝の上に置き、背筋を伸ばした。

 リュウジは正面ではなく、少し斜めの位置に座った。入口が見える席。反射的に、警戒の取り方が“操縦室”のそれだ。

 

「……来ないわね」

 

 エリンが呟くと、リュウジは返事をしない。

 沈黙。

 けれど、その沈黙は“無視”ではない。

 その沈黙が、怒りの温度を隠すためのものだと、エリンは分かっていた。

 

 しばらくして、会議室の扉がノックされた。

 

「失礼します……お茶をお持ちしました」

 

 入ってきたのは若い女性の乗務員だった。

 髪をきっちりまとめ、制服の襟元が少しだけ硬い。緊張しているのが分かる。

 

 エリンは笑みを浮かべ、自然に視線を胸元へ移す。名札。

 新人の名札は、なぜかやたらと目立つ。本人の意思とは関係なく、“見られる”ための札。

 

「ありがとう。えっと……」

 

 エリンは一瞬だけ間を置き、名札を読み取った。

 

「ミラさん、で合ってる?」

 

 ミラは目を丸くした。

 

「あ……いえ、はい……ミラです」

 

 “いえ”が先に出るところが、まだ慣れていない証拠だった。

 褒められたわけでも怒られたわけでもないのに、先に身構える。十班の空気が透けて見える。

 

 ミラが湯気の立つ湯呑みを置き、軽く頭を下げようとした、その瞬間。

 

「お前も昨日の便に乗っていたのか?」

 

 低い声で、リュウジが尋ねた。

 

 ミラの肩が、ぴくりと跳ねた。

 予想外の矢が飛んできたみたいに、目が泳ぐ。

 

「リュウジ」

 

 エリンは声ではなく、視線で止めた。

 “やめなさい”という圧。

 言葉にしなくても伝わる。

 

 リュウジは一度だけ瞬きをし、口を閉じる――が、目はまだ鋭い。

 エリンはそれを見てから、ミラに向き直り、柔らかい声で続けた。

 

「ごめんなさいね、急に。ミラさん、答えなくていいのよ。」

 

 そして、リュウジに小さく耳打ちする。

 

「まだ新人なんだから。……追い詰めないの」

 

「……すいません」

 

 リュウジの謝罪は短い。

 けれど、それでもちゃんと謝れるところが、彼の“真っ直ぐさ”だ。真っ直ぐ過ぎて、時々危ない。

 

 ミラは慌てて首を横に振った。

 

「い、いえ……構いません」

 

 そして、迷いがちに視線を落とし、また上げる。

 何か言いたいのに、言っていいのか分からない顔。

 その葛藤が、エリンの胸に刺さる。

 

「……あの」

 

 ミラが、意を決したように言った。

 

「昨日の……ペルシアさんは、凄かったです」

 

 エリンのまつ毛が、僅かに震えた。

 リュウジは、黙ってミラを見ている。言葉を急かさない目。

 

 ミラは息を吸い込み、言葉を紡ぎ始めた。

 

「搭乗前のブリーフィングから、まず……違いました。いつもは、なんとなく……『いつも通りにやろう』って感じで、具体的な指示は……ほとんどなくて。……でも、ペルシアさんは、最初に『今日は状況が違う』って言って、乗客の層と、想定される混乱と、対応の優先順位を、短く……はっきり言いました」

 

 ミラは自分の記憶を確かめるように、言葉を区切って話した。

 緊張で、少し声が震える。でも、“敬意”の震えだった。

 

「それから、船内に入ってからも……。音が、違ったんです。えっと……」

 

 ミラは指先をぎゅっと握った。

 

「いつもは、呼び出しベルが鳴るまで動けないことが多いんです。……動いちゃいけない、というより……動く“余裕”がないというか。……でもペルシアさんは、鳴る前に動いてました」

 

 エリンが小さく頷く。

 “耳”だけじゃない。

 空気を読むこと、予兆を拾うこと。

 それが“船内の状態を整える”という仕事の核心だ。

 

 ミラは続ける。

 

「お客様が怖がる前に声をかけて、怒りになる前に受け止めて、騒ぎになる前に散らして……。指示も、短くて、分かりやすくて……。それなのに、強く押しつける感じじゃなくて……」

 

 ミラの目が少しだけ潤んだ。

 自分が見たものが、心の中で“羨ましさ”になっているのが分かる。

 

「姿勢制御ユニットが止まって揺れた時も……。あの瞬間、私、足がすくんで……声が出なくなりそうでした。でも、ペルシアさんの声が聞こえて、……背中が押されたんです」

 

 エリンは胸の奥が熱くなるのを、表情で抑えた。

 ペルシアは荒っぽい。言葉も刺さる。

 でも、“守る”と決めた時の彼女は、誰よりも速い。

 

 ミラはそこで一度、言葉を止め、視線を下げた。

 

「……ただ」

 

 声の温度が落ちる。

 

「最後のブリーフィングは……凄かった、というより……怖かった、です。……でも、怖いのに……正しいって、思ってしまって」

 

 ミラは唇を噛んだ。

 

「チーフパーサーから……昨日の便のことは、他言無用だって、厳しく言われてますので……誰も話さないかもしれません。……だから、今、私が話してるのも……本当は……」

 

 “怖い”。

 その言葉の重さが、会議室に沈んだ。

 

 エリンは、すぐに口を開いた。

 柔らかく、しかし芯を入れて。

 

「そうなのね。……話してくれてありがとう、ミラさん。無理させちゃったわね」

 

 ミラは慌てて首を振る。

 

「い、いえ……!」

 

 リュウジも低く言った。

 

「俺たちも、他言はしない」

 

 ミラはその言葉に、ほっとしたように肩を落とし、深く頭を下げた。

 

「ありがとうございます……」

 

「こちらこそ」

 

 エリンは微笑み、湯呑みに手を添えた。

 

「ありがとう」

 

 ミラは会議室を出ようとした。

 扉に手をかけて、――止まる。

 まるで、胸の中の何かが最後に押し出したみたいに。

 

 ミラは振り返って、少しだけ声を大きくした。

 

「ペルシアさんは、本当に凄かったです! 私と同じ……若い子は、みんなそう言ってます! それだけ……伝えたくて。失礼します!」

 

 そして、逃げるように扉を閉めた。

 

 扉の向こうで小走りの足音が遠ざかる。

 会議室に残ったのは、静けさと、湯気だけ。

 

 リュウジがふっと息を吐いた。

 

「……やっぱり、ペルシアの言ってることが正しかったようですね」

 

 その声には、安堵と同時に、怒りの残り火が混じっていた。

 “正しいのに、潰される”という状況への苛立ち。

 

 エリンは湯呑みを持ち上げずに、視線だけをリュウジに向けた。

 

「ええ。……でも、私たちは喧嘩しに来たわけじゃないのよ」

 

「分かってます」

 

 リュウジはお茶を口に含んだ。

 湯気が鼻先をかすめる。

 それでも彼の目は冷たいままだった。

 

「本当に?」

 

 エリンが訊く。

 声は穏やかなのに、圧は強い。

 彼女は“船内の状態を整える”のと同じ手つきで、場の空気を締める。

 

 リュウジはエリンの視線に合わせない。

 湯呑みの縁を見つめたまま、僅かに眉が動くだけ。

 

 エリンは、わざとらしくため息をついた。

 

「はぁ……」

 

 そして、にっこり笑う。

 その笑みは優しい。

 けれど、逃げ道は消える笑みだ。

 

「リュウジ。何も喋らなくていいからね」

 

 リュウジの肩が、ほんの少し固まった。

 

「……」

 

 沈黙。

 

 エリンの笑みが、ほんの一段階だけ“強く”なる。

 

「返事」

 

「……はい」

 

 絞り出すような声。

 エリンは満足そうに頷いた。

 

「よろしい」

 

 そのやり取りが可笑しいのか、救いなのか。

 リュウジは口元だけで、ほんの少しだけ笑いそうになり――堪えた。

 

 エリンは、心の中で呟く。

 

 ――まったく。

 ――仲間のことになると、真っ直ぐ進むタイプね。

 ――その真っ直ぐさは、好きよ。

 ――でも、真っ直ぐすぎると、折れる。

 

 エリンは湯呑みを手に取り、一口だけ飲んだ。

 温かさが喉を通る。

 同時に、冷たい覚悟も胸に降りる。

 

「チーフパーサーとガーネットが戻ってきたら、私は謝る。ペルシアの行動が組織に与えた影響は、否定できないもの」

 

 リュウジの眉が動いた。

 否定したい、という顔。

 でも言わない。エリンの指示を守っている。

 

「ただし」

 

 エリンは言葉を切った。

 その“ただし”に、空気が変わる。

 

「ペルシアが一人で背負う話でもない。ここで、彼女を悪者にして終わらせるなら……私が許さない」

 

 言い切る声は静かだった。

 静かなのに、床が鳴るほど重い。

 

 リュウジがようやく、エリンと目を合わせた。

 その目に、熱が戻る。

 怒りじゃなく、信頼の熱。

 

「……俺も、同じです」

 

 短い言葉。

 でも、嘘のない言葉。

 

 エリンは小さく笑った。

 

「なら、今はそのまま座ってて。……ここは私が整える」

 

 リュウジは頷いた。

 頷き方が、操縦室でのそれと同じだった。

 “了解”の頷き。

 

 会議室の外はまだ静かで、十班のフロアの雑音が薄く滲むだけ。

 いつ戻ってくるのか分からない相手を待つ時間は、長い。

 

 けれど、エリンの背筋は崩れなかった。

 ペルシアがいない間に、守るべきものがある。

 十班と争うためではなく、ペルシアが戻ってこられる場所を残すために。

 

 そして、リュウジは喋らない。

 ただ、黙って、エリンの背中を見ていた。

 

 ――仲間のために真っ直ぐ進む彼の危うさを、エリンは理解している。

 ――だからこそ、彼女は“返事”をさせた。

 言葉を縛るためじゃない。

 暴走を止めるためでもない。

 

 “守るため”に。

 

 扉の外で、誰かの足音が止まる気配がした。

 エリンは湯呑みを置き、膝の上で指を組む。

 その目は、優しく――そして、戦う目だった。

 

ーーーー

 

 しばらくして、廊下の足音が止まった。会議室の外――一瞬だけ空気が張り、扉の前で誰かが呼吸を整える気配がする。

 

 コン、コン。

 

「失礼します」

 

 扉が開く。

 入ってきたのは十班のチーフパーサーと、副パーサーのガーネットだった。

 

 チーフパーサーは背筋がまっすぐで、歩幅も一定。髪はきっちりまとめられ、耳元のアクセサリーまで抜かりがない。

 ガーネットも同様だが、こちらは“整っている”というより“尖っている”。視線が細く、口元が最初から少しだけ上がっている。

 

 二人はまずリュウジを見る。

 ほんの一拍だけ間を置いて、軽く会釈。礼儀としての形はある。だが温度がない。会釈の角度が浅いのは、意図的だろう。

 

 エリンが立ち上がり、リュウジも同時に立ち上がった。

 立ち上がる速度まで揃っているのが、逆に“守りの態勢”を匂わせる。

 

「昨日のフライトでご迷惑をお掛けして、申し訳ありませんでした」

 

 エリンは深く頭を下げた。

 言葉は短く、余計な飾りをつけない。謝罪は、まず場を整えるための第一手だ。

 

 チーフパーサーは椅子に腰を下ろしながら、鼻で笑うように言った。

 

「はっきり言って、やりすぎよ」

 

 ガーネットが小さく頷き、すぐに口を挟む。

 

「乗務員同士であれだけ揉めるなんて、常識がないと思います」

 

 エリンは頭を上げ、目を逸らさずに受け止める。

 

「分かっています。こちらの指導不足で申し訳ありません」

 

 “指導不足”――便利な言葉だ。

 責任を背負うように見せながら、相手の怒りを吸い取る。火の粉が周囲に飛び散らないようにする。エリンはそれを自然にやってのける。

 

 だが、チーフパーサーの怒りは“吸い取られる”タイプではなかった。むしろ、吸い取られるほどに強くなる。

 

「指導不足? 違うわね。あなたたち十四班は勘違いしてるのよ。自分たちが特別で、何でも許されるって」

 

 チーフパーサーは視線をエリンの胸元――名札の位置に落とす。そこからゆっくり顔に戻してくる。値踏みだ。

 

「応援に来た分際で、十班の空気を荒らした。あれは指導じゃない。威圧よ」

 

 ガーネットが重ねる。

 

「それに、同乗拒否届……。あれ、脅しですよね。形だけの書類を持ち出して、相手を黙らせる。そういうの、嫌いです」

 

 会議室の空気が少しずつ冷えていく。

 テーブルの上のお茶から、湯気が立つ音だけが妙に大きい。

 

 リュウジの視線が細くなる。

 何も言わないが、目が言っている――“今のは違う”。

 

 エリンはその変化を感じながら、先に言葉を置いた。

 

「書類を持ち出したことは行き過ぎでした。その点は、十四班として重く受け止めています。再発はさせません」

 

「受け止めてる? 口では何とでも言えるわ」

 

 チーフパーサーは指先で机を一度、トン、と叩く。

 音を立てたのは、リズムではなく“支配”の合図だ。

 

「それに、うちの乗務員が泣いたのよ」

 

 エリンのまつげが一度だけ揺れた。

 泣いた――その言葉の強さ。責任を“感情”で縛ってくる。

 

「あなたたちのやり方で、十班の士気が落ちた。責任取れるの?」

 

 ガーネットがわざとらしくため息をついた。

 

「私たちは十四班みたいに、完璧な環境じゃないんです。余裕がないのに、外から来て正論だけぶつけられても……」

 

 “完璧”という単語が、棘のように刺さる。

 わざとだ。十四班を“エリート”として固定し、反発を正当化するための言葉。

 

 エリンは静かに頷いた。

 

「十班の皆さんの努力を否定するつもりはありません。泣かせてしまったことも、申し訳なく思っています」

 

 その瞬間、チーフパーサーの口元がほんの少しだけ上がる。

 “取った”という表情。

 

「なら、分かってるわよね? ペルシアの処分よ」

 

 エリンの心臓が一拍、遅れる。

 ――来た。ここが本命だ。

 

 ガーネットがすぐに畳み掛ける。

 

「副パーサーの私にあそこまで言うなんて、前例がありません。しかも、同乗拒否届を出せって……。あれ、パワハラです」

 

 リュウジの眉が僅かに動いた。

 “パワハラ”という言葉が、単語だけで刃になるのをリュウジは知っている。組織の中では、それは“正義”の顔をして人を切る。

 

 リュウジが口を開きかけた――その瞬間。

 

 机の下で、エリンがリュウジの制服の裾を掴んだ。

 

 ぎゅっと。

 強く。

 お願い、今は――。

 声にしない合図。

 

 リュウジの喉が動く。言葉を飲み込む音が、エリンには聞こえた気がした。

 

 チーフパーサーは、そのやり取りを見逃さない。

 

「……ねえ、S級パイロットさん」

 

 チーフパーサーの声が、妙に甘くなる。

 甘いほど危ない。

 

「あなた、客室のこと分かってるの? 操縦席にいる人って、現場の苦労を知らないから軽々しく言えるのよね」

 

 ガーネットが笑う。

 

「パイロットさんって、基本、客室に関わらないですもんね。知らないんですよ。私たちがどれだけ大変か」

 

 エリンの指が、裾を掴む力をさらに強めた。

 リュウジの肩が僅かに揺れる。怒りで動く体を、理性が止めている。

 

 チーフパーサーは楽しそうに続けた。

 

「結局あなたたち、仲間が大事なだけでしょ。お客様よりも、十四班の絆が大事。そういうの、現場では迷惑なのよ」

 

 その一言で、会議室の空気がピンと張った。

 

 “迷惑”――

 仲間を守ることを、迷惑だと言う。

 乗務員の矜持を、迷惑だと言う。

 それは、リュウジの一番踏んではいけない場所を踏んだ。

 

 エリンの目が一瞬だけ、強くなる。

 だが、すぐに柔らかく戻す。戻さなければ、この場が壊れる。

 

 リュウジは、ゆっくり息を吐いた。

 

 そして、ついに口を開く。

 

「……だったら」

 

 低い声。

 室内の誰もが、その声に反射で背筋を伸ばす。

 

 エリンの顔が強張る。

 止められない。止めるための裾は掴んでいる。でも、言葉は出てしまう。

 

「だったら、俺にも十班のフライトを見せてくれ」

 

 エリンの指が、裾を掴んだまま固まった。

 “挑戦”になる。

 謝罪が“勝負”に変わる。

 それがどれだけ危ないか、エリンは分かっている。

 

 だが――予想に反して。

 

 チーフパーサーは、目を細めた。

 

「……へえ」

 

 ガーネットも、口角を上げる。

 

「面白いこと言いますね」

 

 二人とも、乗り気だ。

 勝てると思っている顔だ。

 もしくは、勝って“十四班を黙らせる材料”が欲しい顔。

 

「見てみたいって、何を?」

 

 チーフパーサーが言う。

 

「現場。乗務員の動き。お客様の反応。……そして、“どこが問題で、何が足りないのか”」

 

 リュウジの声は淡々としている。淡々としているほど、鋭い。

 

 ガーネットが鼻で笑った。

 

「言うじゃないですか。S級パイロットの目で見て、何が分かるんです?」

 

 リュウジは一瞬も揺れない。

 

「分かるかどうかは、見てから決める」

 

 チーフパーサーが椅子に深く座り直す。

 その動きが、“受けて立つ”の合図になる。

 

「なるほど。十班と十四班で力比べという訳ね」

 

 その言葉に、エリンの胃がきゅっと縮む。

 力比べ。

 そんな言葉が組織に乗れば、簡単に噂になり、簡単に報告になる。

 報告になれば、上は“数字”で裁く。

 数字で裁かれるのはいつだって、現場だ。

 

 エリンは口を開きかけた。止めたい。

 でも止めれば、今度は“逃げた”になる。

 

 リュウジは条件を口にした。

 

「今度の定期便でやる」

 

 チーフパーサーの眉が上がる。

 現実味が出た瞬間だ。

 

「そして、船内の一ブロックを――十四班に任せろ」

 

 ガーネットの表情が、ほんの少しだけ硬くなる。

 一ブロック。つまり、逃げ場がない。比較される。

 “やってみせる”側も、“見られる”側も。

 

 チーフパーサーは、楽しそうに笑った。

 

「いいわ。乗りなさい。見ればいい」

 

 その笑みは、“勝つ”と決めた笑みだ。

 

「ただし条件があるわ」

 

 エリンが息を飲む。

 来る。必ず来る。ここで相手は“代償”を要求する。

 

「もし十四班が、十班より見劣りしたら――」

 

 チーフパーサーはゆっくり言う。

 

「ペルシアの同乗拒否届の件、正式に上へ上げる。取り下げはしない」

 

 ガーネットが頷く。

 

「当然です。こちらだって、引けません」

 

 会議室の空気が一気に重くなる。

 エリンは、心の中で歯を噛みしめた。

 これが狙い。勝負の形にして、負けたら“正義”で切る。

 

 リュウジは一瞬だけ、エリンを見る。

 目が問いかけている――“どうする?”

 

 エリンは机の下で掴んでいた裾を、そっと離した。

 代わりに、テーブルの上で指先を揃え、背筋を伸ばす。

 

 ここからは、チーフパーサーの仕事だ。

 場を壊さず、相手の刃を鈍らせ、こちらの守りを作る。

 

「条件をつけるのは結構です」

 

 エリンの声は穏やかだ。

 穏やかだからこそ、芯がある。

 

「ただし、こちらにも条件があります」

 

 チーフパーサーの目が細くなる。

 

「何?」

 

「安全基準と運航規定の範囲内での比較に限ります。乗務員配置、担当区画、権限の範囲――その確認を事前に文書で取り交わしましょう」

 

 ガーネットが眉をひそめる。

 面倒だ、という顔。だがエリンはそこで引かない。

 

「そして、ブロックを任せると言っても、十班の乗務員の補助を奪うことはしません。お客様の安全が第一です。勝負を優先して安全を落とすなら、その時点で双方の負けです」

 

 チーフパーサーは鼻で笑いかけ、しかし笑い切れない。

 “安全”という言葉は、誰も否定できないからだ。

 

「……言うわね」

 

「現場を守るために必要な確認です」

 

 エリンは淡々と続けた。

 

「それと、ペルシアの件。書類を振り回したことは謝ります。ただ――十班の育成の問題と、十四班の謝罪は切り分けてください。混ぜると、現場が壊れます」

 

 チーフパーサーの視線が一瞬鋭くなる。

 “育成の問題”と言われたのが癪なのだろう。

 

 だが、エリンは引かない。

 引いたら、ペルシアが切られる。

 カイエも巻き込まれる。

 そして十班の若手も、結局守られない。

 

 ガーネットが口を挟む。

 

「……あなた、偉そうですね」

 

 リュウジの空気が、わずかに冷える。

 机の下で握った拳がきゅっと固くなる。

 

 エリンはリュウジを見ないまま、言った。

 

「偉そうに聞こえたなら、申し訳ありません。でも私は、乗務員として“現場が壊れる”のが一番怖いんです」

 

 その言葉は、嘘じゃない。

 エリンは誰よりも、壊れる瞬間を知っている。

 だから“整える”。

 だから“謝る”。

 だから“守る”。

 

 チーフパーサーは一拍置いてから、頷いた。

 

「いいわ。文書で確認。……面倒だけど、あなたがそこまで言うなら」

 

 ガーネットが不満そうに唇を尖らせるが、チーフパーサーが目で制す。

 

「で、力比べの話。十四班は一ブロック担当。こちらは全体の統括。公平ね」

 

「公平です」

 

 エリンが言った。

 その瞬間、チーフパーサーはリュウジを見る。

 

「よろしく頼む、S級パイロットさん」

 

 挑発を含んだ笑み。

 

 リュウジは、笑わない。

 ただ、真っ直ぐに返す。

 

「ああ、よろしく頼む」

 

 短い言葉。

 短いのに、重い。

 

 エリンは心の中で、小さく息を吐いた。

 ここまで来たら、もう後戻りはできない。

 

 “勝負”になってしまった。

 だけど、勝負の形にしなければ、ペルシアは切られる可能性が高かった。

 なら、勝負の土俵に上がって――“安全と現場の矜持”を守りながら勝つしかない。

 

 エリンは深く頭を下げた。

 

「本日はお時間をいただき、ありがとうございました。文書の取り交わしは私の方から連絡します」

 

 チーフパーサーが立ち上がる。

 

「ええ。楽しみにしてるわ」

 

 ガーネットも、最後に一言だけ置いていく。

 

「……後悔しないでくださいね」

 

 扉が閉まる。

 足音が遠ざかる。

 

 会議室に残ったのは、湯気の消えたお茶と、妙に重い沈黙だけだった。

 

 エリンは、ようやく肩の力を抜いた。

 抜いた瞬間、背中に冷たい汗が伝う。

 

「……リュウジ」

 

 エリンが名前を呼ぶ。

 責めたいわけじゃない。

 でも、確認しなきゃいけない。

 

 リュウジは椅子に座ったまま、目を伏せた。

 

「分かってます。余計なことを言いました」

 

「ううん」

 

 エリンは首を振る。

 そして、静かに言った。

 

「言わなかったら、ペルシアが潰されてた。……たぶん」

 

 リュウジの喉が動いた。

 怒りがまだ残っているのに、後悔も混ざっている顔。

 

「俺は、ああいう言い方が嫌いです。仲間を守るのが迷惑だなんて」

 

「私も嫌い」

 

 エリンは小さく笑って、でも目だけは真剣なまま言った。

 

「だから、勝つよ。勝って、あの人たちに“現場”を見せる」

 

 リュウジが顔を上げる。

 

「勝つ、って言い方……」

 

「勝負に乗ったのは、向こうも同じ」

 

 エリンは机の上のメモを取り、ペンを走らせ始めた。

 もう、整えるしかない。

 安全と規定と権限と、配置と、導線と、訓練の積み上げを――全部、形にする。

 

 そして、最後にだけ小さく呟く。

 

「……ペルシアのこと、守らないと」

 

 リュウジは、短く頷いた。

 

「はい。俺も守ります」

 

 その声は、さっきより少しだけ柔らかい。

 でも芯は同じだ。

 

 会議室の時計が、カチ、と鳴った。

 まるで“次のフライト”までの秒読みが始まったみたいに。

 

ーーーー

 

 十班の会議室を出た瞬間、廊下の空調はいつも通り一定の温度を保っているはずなのに、エリンの肌には薄い汗が浮かんでいた。

 照明は白く、床は艶がある。人の往来も普段通り。――なのに、さっきまであの狭い部屋に充満していた刺々しい言葉だけが、二人の背中に張り付いて離れない。

 

 リュウジは無意識に拳を握っていた。

 握ったままではいけないと分かっているのに、ほどけない。

 “やりすぎ”という言葉を、あんなふうに正面から投げつけられれば当然だ。まして、それがエリンに向けられていたのだから。

 

 エリンは一度も足を止めず、端末の画面を滑らせながら歩く。

 どこか淡々としている。

 けれどそれは冷たいのではない。冷静さを“形”として保つことで、場の温度を下げているのだと、リュウジには分かる。

 

「……エリンさん」

 

 思わず声が漏れた。

 エリンは歩幅を変えないまま、横目だけでリュウジを見た。

 その視線は、言葉より強い。

 

『まだ。ここじゃない』

 

 そう言われた気がして、リュウジは口をつぐんだ。

 

 十四班のフロアが近づく。

 いつもの空気が見えてくる。端末の打鍵音、紙の擦れる音、誰かが淹れたコーヒーの匂い。

 その“日常”が、さっきの出来事を逆に鮮明にする。

 

 扉を開けると、ククルが「おかえりなさーい!」と元気に言いかけて、二人の顔を見て言葉を飲み込んだ。

 カイエも手を止め、エマは眉を上げる。

 

 エリンは小さく息を吸い、いつも通りの声色を作った。

 

「……タツヤ班長、少しお時間いただけますでしょうか」

 

 ちょうど手元の書類をまとめていたタツヤが、顔を上げる。

 そして、エリンとリュウジの並びを見た瞬間、目だけで理解した。

 

「……うん。ミーティングスペース行くか」

 

 タツヤは立ち上がり、肩を回しながら歩く。

 その仕草は軽く見えて、内側では既に構えている。

 班長という役は、こういうとき一番最初に“受け止める”役だ。

 

 丸テーブルに三人が座る。

 エリンは端末を置き、リュウジは背筋を伸ばしたまま沈黙し、タツヤは椅子に深く腰を沈める。

 何か言おうとして、やっぱり言わない。

 それが、タツヤの“嫌な予感”の強さを物語っていた。

 

「で?」

 

 タツヤが短く促す。

 

 エリンは頷き、言葉を整えた。

 

「十班のチーフパーサーと副パーサーのガーネットに、昨日の件について正式に謝罪してきました。……結果として、こちらの対応が“やりすぎ”だと強く指摘を受けました」

 

「……うん」

 

 タツヤの相槌は軽いが、目は笑っていない。

 

「こちらの指導不足という点については、私が責任を負う旨をお伝えしました。しかし――」

 

 エリンは一瞬だけ目を伏せ、それから顔を上げる。

 口調は丁寧なまま、芯が硬くなる。

 

「十班から、十四班そのものに対する侮辱的な言葉もありました」

 

 リュウジの指が、膝の上でぎゅっと握られる。

 エリンはそれに気づいている。気づいた上で、あえて淡々と続けた。

 

「その場で私が反論すべき内容もありましたが、目的は謝罪であり、対立ではありません。ですので、必要以上のやり取りは避けました」

 

「……うん、そこは正しい」

 

 タツヤが頷く。

 そして、少し間を置いて尋ねた。

 

「で、肝心の“火種”は?」

 

 エリンが視線をリュウジに向ける。

 リュウジは一度だけ息を吐き、敬語で言った。

 

「……エリンさんが止めてくださらなければ、俺は途中で口を挟んでいました」

 

「でしょうね」

 

 タツヤの声が乾く。

 

 エリンは小さく頷いた。

 

「最後に、リュウジが提案をしました。……次の定期便で、十班のフライトを見せていただきたい、と」

 

 タツヤの眉がぴくりと動いた。

 

「……は?」

 

 間抜けな声。

 だが、それは驚きが本物だという証拠だった。

 

 エリンは崩さず続ける。

 

「十班も、思った以上に前向きでした。リュウジの条件として“船内の一ブロックを十四班に任せる”ことを提示しています」

 

 ――沈黙。

 

 タツヤの視線が、エリンからリュウジへ移り、またエリンへ戻る。

 そして、数秒遅れて。

 

「……はぁぁぁぁぁぁぁぁ……」

 

 大きなため息が、椅子の背もたれごと沈むように漏れた。

 それは諦めでも怒りでもなく、両方を飲み込むための息だ。

 

「リュウジだけならまだしも……」

 

 タツヤは両手で顔を覆い、指の間から二人を見る。

 

「エリンがついていながら……」

 

 もう一度、ため息。

 今度は短く、刺がある。

 

 エリンは少しも怯まない。

 背筋を伸ばし、きっぱり言った。

 

「後悔はしていません」

 

「うわ、言い切った」

 

 タツヤが乾いた笑いを漏らす。

 

 リュウジは視線を落とし、敬語で添える。

 

「……俺の提案が軽率だったのであれば、申し訳ありません。ただ、相手が“勝負”の形に持ち込む気配がありました。あのまま終えると、十四班の評価だけが傷つくと判断しました」

 

 エリンがすぐに続ける。

 

「タツヤ班長、これは“喧嘩”ではありません。安全と現場の質の話です。十班の方々に勝つためではなく、乗客にとって何が正しい運用かを示す機会になります」

 

 タツヤは口を開けたまま、閉じる。

 言い返したい気持ちがあるのに、理屈は二人の方が正しい。

 その矛盾が、班長の疲労を増やしていく。

 

「……はぁ」

 

 タツヤは天井を見上げた。

 

「ストレスで俺、ハゲちゃいそう」

 

 リュウジが即答する。

 

「まだふさふさです」

 

 タツヤの視線が鋭く戻る。

 

「おじさん舐めるなよ」

 

 エリンが小さく咳払いをする。

 笑いを抑えているのではない。空気を整えているのだ。

 

「タツヤ班長、まずは実務の整理をします。とりあえず、メンバーはこちらで決めます」

 

 タツヤが、また大きく息を吐く。

 

「まぁ……仕方ないね」

 

 言いながらも、机に肘をついて指を組む。

 班長の顔になった。

 

「こういうのはあんまり好きじゃないけど……」

 

 タツヤは目を細める。

 嫌いなのだ。争いの形になることが。

 誰かを下げて、誰かを上げるための場が。

 

 それでも――

 

「十四班のメンツに関わるからね」

 

 その言葉が落ちた瞬間、リュウジの胸の奥の硬い塊が、少しだけほどけた。

 班長が、背中を預ける覚悟を決めた。

 それは“許可”でも“賛同”でもない。

 班長の責任の引き受けだ。

 

「ありがとうございます、タツヤ班長」

 

 エリンは深く頭を下げる。

 敬語の形は崩さず、しかしそこに感情がある。

 “守る”ための謝意だ。

 

「礼はいいよ。……で、どこまで決まってる?」

 

 タツヤが現実に引き戻す。

 この人はそういう人だ。

 決めたら、動く。愚痴りながらも、最後に走る。

 

 エリンは端末を操作し、表示させたメモを示す。

 

「相手の条件は“十班の定期便に同乗”です。こちらの条件は、十四班が担当するブロックを明確にし、そのブロック内の指揮系統と緊急時の権限を文章化すること。曖昧なまま乗ると、責任のなすりつけが発生します」

 

 タツヤが頷く。

 

「うん。相手はそういうの好きそうだ」

 

 リュウジが低い声で補足する。

 

「“勝負”に見せたいなら、事故が起きたとき、誰のせいかにしたいはずです。俺たちはそこを先に潰す必要があります」

 

 エリンが頷き、言葉を切る。

 

「ですので、事前に広報ではなく運航管理・安全管理にも通します。班長の承認が必要です」

 

「……うん、やれ」

 

 タツヤが即答する。

 そして少しだけ顔をしかめた。

 

「ただし、役員に嗅ぎつかれると面倒だぞ。あいつら、“数字”と“見栄え”が好きだからな」

 

 エリンは落ち着いて返す。

 

「承知しています。役員が介入すると、現場ではなく“政治”になります。ですので、こちらは“教育交流”と“安全向上”の名目で整えます。勝負という言葉は使いません」

 

 タツヤが笑う。

 

「さすがだね、エリン。怖いくらい」

 

「ありがとうございます。褒め言葉として受け取ります」

 

 エリンは表情を崩さない。

 そういうところが、彼女の“強さ”だ。

 

 リュウジはその横で、少しだけ眉を寄せたまま言った。

 

「……エリンさん、俺は――」

 

 言いかけた言葉を飲み込む。

 “怒り”を出せば簡単だ。

 だが、それはエリンの作った線を越える。

 

 エリンはリュウジの視線を受け止め、柔らかく、しかし明確に言った。

 

「リュウジ、大丈夫。あなたの気持ちは分かる。でも、今は“勝つ”ではなく、“示す”のよ」

 

 けれど、その言葉に上下はない。

 同じ現場に立つ者同士の合図だ。

 

 リュウジは一拍置いて、敬語で答える。

 

「……はい。承知しました」

 

 タツヤが二人を見て、わざとらしく肩を落とした。

 

「はぁ……俺、ほんとにハゲるかもしれん」

 

「その時は育毛剤を買っておきます」

 

 リュウジが真面目な顔で言う。

 

「やめろ。具体的にするな」

 

 タツヤが即座に突っ込む。

 

 エリンが、小さく息を吐いてから話を戻した。

 

「班長、メンバー構成ですが、十班の状況を考えると、こちらは“安定”を第一にします。ククルのように場を温める人材も必要ですが、今回はブロック運用です。揺れやトラブル時の対応速度を見られます」

 

 タツヤが頷く。

 

「つまり、現場の“基礎体力”を見せるってことだな」

 

「はい」

 

 エリンは端末を指先で軽く叩く。

 

「候補は、カイエ、エマ、ククル。加えて、補助でもう一名。ブロックの規模によりますが、私が現場に入ります」

 

 タツヤが顔をしかめる。

 

「エリンが入ると、相手が言い訳できなくなるから強いけど……」

 

 そして、少しだけ真面目に続けた。

 

「……お前の負担が大きい」

 

 エリンは即答する。

 

「承知しています。ただ、今回はこちらの名誉のためではなく、乗客の安全のためです。負担の大小で判断はしません」

 

 タツヤは、またため息をついた。

 だが今度は、諦めではなく決意の息だった。

 

「……分かった。じゃあ、俺も腹括る」

 

 タツヤは机を指で二回叩く。

 

「こういうのはあんまり好きじゃない。だけど、十四班は“特別”で、“現場を背負ってる”。そこをナメられるのは許せない」

 

 リュウジの目が少しだけ鋭くなる。

 それは怒りではなく、同意の光だ。

 

「タツヤ班長」

 

 リュウジが敬語で言う。

 

「十班がどうこうというより、彼女たちの“言い方”が問題です。現場を知らない言葉で現場を縛るのは、事故の種になります」

 

「だよな」

 

 タツヤが頷く。

 

「だから、勝負にするなら“勝ち方”がある。相手を潰して勝つんじゃない。乗客の前で、“正しい運用”を出して勝つ」

 

 エリンが静かに頷いた。

 

「はい。ですので、事前に運用手順を全員で共有します。十班側にも、最低限の線引きは提示します。これは喧嘩ではなく、安全運用の擦り合わせですから」

 

 タツヤが口元を歪める。

 

「……向こうがそれを受け取るかは別だけどな」

 

「受け取らなくても構いません」

 

 エリンが淡々と言い切る。

 

「こちらは形に残します。記録に残せば、事故が起きた時に“誰が何を決めたか”が明確になります」

 

「怖いね、エリン」

 

「仕事ですので」

 

 エリンはさらりと言う。

 

 タツヤは椅子にもたれ、両手を上げて降参のポーズをした。

 

「はいはい。分かったよ。……やるしかない」

 

 そして、少しだけ笑って付け加える。

 

「で、俺に何を求める?」

 

 エリンは端末を閉じ、班長を見る。

 

「タツヤ班長には、“責任者としての承認”と、“外部への根回し”をお願いしたいです。特に運航管理と安全管理への通達です。私が文面を整えますので、最終的な提出は班長のお名前で」

 

「了解」

 

 タツヤが即答する。

 こういうとき、迷いがないのが彼の強さだ。

 

 リュウジも頭を下げる。

 

「ありがとうございます。タツヤ班長に負担をおかけします」

 

「今さらだろ」

 

 タツヤが肩をすくめる。

 

「お前らの尻拭いが班長の仕事だ。……まぁ、尻拭いって言うと失礼か。俺も守りたいんだよ。十四班を」

 

 その言葉に、エリンのまつ毛がほんの少しだけ揺れた。

 感情を出さない人が、出さずに“見せた”揺れ。

 

「タツヤ班長、ありがとうございます」

 

 エリンはもう一度だけ、深く頭を下げた。

 

 タツヤは手を振り、照れ隠しのように言った。

 

「いいから。……でさ」

 

 言いながら、タツヤは口角を上げる。

 冗談の形を借りて、緊張を少しだけ落とす。

 

「けちょん、けちょんにしてあげて」

 

 リュウジが眉を寄せる。

 

「班長、その言い方は――」

 

 

「俺だって言葉選びたいよ! でも今、頭の中がストレスでぐちゃぐちゃなんだよ! せめて“けちょんけちょん”って言わせろ!」

 

 エリンが小さく息を吐いた。

 笑いではない。

 “この人は大丈夫だ”と確認するための息だ。

 

「タツヤ班長、けちょんけちょんはしません」

 

 エリンは真面目に言う。

 だが、その真面目さが逆に可笑しい。

 

「ただ――」

 

 エリンは少しだけ声を落とし、まっすぐ班長を見る。

 

「十四班として、恥のない運用をします。安全を、結果で示します」

 

 リュウジも続ける。

 言葉の端に、熱が残っている。だが、敬語がそれを抑える。

 

「はい。俺も、現場の積み重ねが何かを示したいです。勝つためではなく、守るために」

 

 タツヤは二人を見て、うん、と頷いた。

 そして、班長としての顔で言う。

 

「よし。じゃあ準備だ。俺も嫌だけど、やるならやる。十四班が“十四班”であることを、現場で見せよう」

 

「はい、タツヤ班長」

 

「はい。エリンさん、準備、進めます」

 

 エリンは立ち上がり、端末を抱え直した。

 その動作には無駄がない。

 “勝負”と言われた舞台を、“安全”の舞台に変えるための動きだ。

 

 タツヤは最後にもう一度、ため息を吐いて、笑う。

 

「……ほんと、ハゲそう」

 

 リュウジが真顔で返す。

 

「その時は、俺が育毛剤の候補を――」

 

「やめろ!」

 

 タツヤが叫び、エリンが小さく咳払いをして締めた。

 

「班長、ふさふさのままでいてください。こちらが困ります」

 

「エリンまで!」

 

 タツヤが頭を抱える。

 

 けれど、その声には、さっきまでの重さが少しだけ薄れていた。

 勝負の舞台に乗る。

 嫌だ。面倒だ。腹が立つ。

 それでも――十四班は、そこで“正しいやり方”を示す。

 

 誰かを叩き潰すためじゃない。

 乗客を守るために。

 現場を守るために。

 そして、班の誇りを守るために。

 

 エリンが歩き出し、リュウジがその半歩後ろにつく。

 タツヤは二人の背中を見送りながら、もう一度だけため息を吐いた。

 

「……ったく。うちの班、厄介だな」

 

 けれど、その呟きの最後には――確かな笑みが混じっていた。

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