ペルシアが事務所を出ていった直後の空気は、妙に軽かった。
あれだけ騒いで、吐いて、笑って、最後はふらりと消えるように帰っていったのだ。まるで嵐が通り過ぎた後の、静けさだけが残ったみたいに。
けれど、その静けさが心地いいかと言えば――エリンにとっては、違った。
机に戻っても、端末を開いても、視線の端でペルシアの椅子が空であることが、ずっと気になってしまう。
タツヤは「今日は帰して正解だ」と言いながらも、どこか眉間にしわを寄せたままだったし、カイエは奥歯を噛みしめるような顔で、資料を整えている。ククルとエマは「ペルシアさん大丈夫かな」と何度も小声で囁き合っていた。
――このまま放っておけない。
エリンはそう思った。
「リュウジ」
呼ぶと、リュウジはすぐに顔を上げた。
その目は、いつもの無表情に見せかけて、芯が鋭い。余計なことを言わずに、必要なことだけを拾う目だ。
「十班、行くわよ。……ペルシアの件、謝りに」
リュウジはほんの一瞬だけ視線を逸らし、それから短く頷いた。
「分かりました」
声は平坦なのに、エリンには“分かってない部分”も見えた。
謝ると言いながら、リュウジの中には別の火種が確かにある。十班のやり方に対する怒り。ペルシアへの理不尽な当たりへの苛立ち。――仲間を傷つけられたことが、まだ冷めていない。
だからこそ、エリンは連れて行く必要があった。
止めるためじゃない。
“制御できる場所”に連れていくために。
***
十班のフロアは、十四班の事務所とは空気が違った。
人はいるのに、芯がない。忙しそうに見えるのに、リズムが揃っていない。何かを“回している”というより、目の前のものを“こなしている”だけに見える。
エリンは入り口で軽く頭を下げ、受付の乗務員に用件を伝えた。
「十四班のエリンです。……昨日の件で、十班のチーフパーサーさんにお話を」
受付の乗務員は一瞬だけ目を泳がせ、言葉を選ぶようにして答えた。
「本日は……チーフパーサーも、副パーサーのガーネットも、外出しております」
エリンの眉が僅かに動く。
外出。
こんなタイミングで。
――逃げたのか、意図的に避けているのか。どちらにせよ、都合の悪さだけが残る。
「そう……」
エリンは感情を顔に出さずに微笑んだ。
「では、戻られるまでこちらで待たせていただけますか?」
少しだけ迷ったあと、受付の乗務員が「会議室へ」と案内してくれた。
扉の向こうは、静かだった。
壁の色も照明も、どこか無機質で、空気が薄いように感じる。椅子に座ると、背もたれが硬く、身体が落ち着かない。
エリンは手を膝の上に置き、背筋を伸ばした。
リュウジは正面ではなく、少し斜めの位置に座った。入口が見える席。反射的に、警戒の取り方が“操縦室”のそれだ。
「……来ないわね」
エリンが呟くと、リュウジは返事をしない。
沈黙。
けれど、その沈黙は“無視”ではない。
その沈黙が、怒りの温度を隠すためのものだと、エリンは分かっていた。
しばらくして、会議室の扉がノックされた。
「失礼します……お茶をお持ちしました」
入ってきたのは若い女性の乗務員だった。
髪をきっちりまとめ、制服の襟元が少しだけ硬い。緊張しているのが分かる。
エリンは笑みを浮かべ、自然に視線を胸元へ移す。名札。
新人の名札は、なぜかやたらと目立つ。本人の意思とは関係なく、“見られる”ための札。
「ありがとう。えっと……」
エリンは一瞬だけ間を置き、名札を読み取った。
「ミラさん、で合ってる?」
ミラは目を丸くした。
「あ……いえ、はい……ミラです」
“いえ”が先に出るところが、まだ慣れていない証拠だった。
褒められたわけでも怒られたわけでもないのに、先に身構える。十班の空気が透けて見える。
ミラが湯気の立つ湯呑みを置き、軽く頭を下げようとした、その瞬間。
「お前も昨日の便に乗っていたのか?」
低い声で、リュウジが尋ねた。
ミラの肩が、ぴくりと跳ねた。
予想外の矢が飛んできたみたいに、目が泳ぐ。
「リュウジ」
エリンは声ではなく、視線で止めた。
“やめなさい”という圧。
言葉にしなくても伝わる。
リュウジは一度だけ瞬きをし、口を閉じる――が、目はまだ鋭い。
エリンはそれを見てから、ミラに向き直り、柔らかい声で続けた。
「ごめんなさいね、急に。ミラさん、答えなくていいのよ。」
そして、リュウジに小さく耳打ちする。
「まだ新人なんだから。……追い詰めないの」
「……すいません」
リュウジの謝罪は短い。
けれど、それでもちゃんと謝れるところが、彼の“真っ直ぐさ”だ。真っ直ぐ過ぎて、時々危ない。
ミラは慌てて首を横に振った。
「い、いえ……構いません」
そして、迷いがちに視線を落とし、また上げる。
何か言いたいのに、言っていいのか分からない顔。
その葛藤が、エリンの胸に刺さる。
「……あの」
ミラが、意を決したように言った。
「昨日の……ペルシアさんは、凄かったです」
エリンのまつ毛が、僅かに震えた。
リュウジは、黙ってミラを見ている。言葉を急かさない目。
ミラは息を吸い込み、言葉を紡ぎ始めた。
「搭乗前のブリーフィングから、まず……違いました。いつもは、なんとなく……『いつも通りにやろう』って感じで、具体的な指示は……ほとんどなくて。……でも、ペルシアさんは、最初に『今日は状況が違う』って言って、乗客の層と、想定される混乱と、対応の優先順位を、短く……はっきり言いました」
ミラは自分の記憶を確かめるように、言葉を区切って話した。
緊張で、少し声が震える。でも、“敬意”の震えだった。
「それから、船内に入ってからも……。音が、違ったんです。えっと……」
ミラは指先をぎゅっと握った。
「いつもは、呼び出しベルが鳴るまで動けないことが多いんです。……動いちゃいけない、というより……動く“余裕”がないというか。……でもペルシアさんは、鳴る前に動いてました」
エリンが小さく頷く。
“耳”だけじゃない。
空気を読むこと、予兆を拾うこと。
それが“船内の状態を整える”という仕事の核心だ。
ミラは続ける。
「お客様が怖がる前に声をかけて、怒りになる前に受け止めて、騒ぎになる前に散らして……。指示も、短くて、分かりやすくて……。それなのに、強く押しつける感じじゃなくて……」
ミラの目が少しだけ潤んだ。
自分が見たものが、心の中で“羨ましさ”になっているのが分かる。
「姿勢制御ユニットが止まって揺れた時も……。あの瞬間、私、足がすくんで……声が出なくなりそうでした。でも、ペルシアさんの声が聞こえて、……背中が押されたんです」
エリンは胸の奥が熱くなるのを、表情で抑えた。
ペルシアは荒っぽい。言葉も刺さる。
でも、“守る”と決めた時の彼女は、誰よりも速い。
ミラはそこで一度、言葉を止め、視線を下げた。
「……ただ」
声の温度が落ちる。
「最後のブリーフィングは……凄かった、というより……怖かった、です。……でも、怖いのに……正しいって、思ってしまって」
ミラは唇を噛んだ。
「チーフパーサーから……昨日の便のことは、他言無用だって、厳しく言われてますので……誰も話さないかもしれません。……だから、今、私が話してるのも……本当は……」
“怖い”。
その言葉の重さが、会議室に沈んだ。
エリンは、すぐに口を開いた。
柔らかく、しかし芯を入れて。
「そうなのね。……話してくれてありがとう、ミラさん。無理させちゃったわね」
ミラは慌てて首を振る。
「い、いえ……!」
リュウジも低く言った。
「俺たちも、他言はしない」
ミラはその言葉に、ほっとしたように肩を落とし、深く頭を下げた。
「ありがとうございます……」
「こちらこそ」
エリンは微笑み、湯呑みに手を添えた。
「ありがとう」
ミラは会議室を出ようとした。
扉に手をかけて、――止まる。
まるで、胸の中の何かが最後に押し出したみたいに。
ミラは振り返って、少しだけ声を大きくした。
「ペルシアさんは、本当に凄かったです! 私と同じ……若い子は、みんなそう言ってます! それだけ……伝えたくて。失礼します!」
そして、逃げるように扉を閉めた。
扉の向こうで小走りの足音が遠ざかる。
会議室に残ったのは、静けさと、湯気だけ。
リュウジがふっと息を吐いた。
「……やっぱり、ペルシアの言ってることが正しかったようですね」
その声には、安堵と同時に、怒りの残り火が混じっていた。
“正しいのに、潰される”という状況への苛立ち。
エリンは湯呑みを持ち上げずに、視線だけをリュウジに向けた。
「ええ。……でも、私たちは喧嘩しに来たわけじゃないのよ」
「分かってます」
リュウジはお茶を口に含んだ。
湯気が鼻先をかすめる。
それでも彼の目は冷たいままだった。
「本当に?」
エリンが訊く。
声は穏やかなのに、圧は強い。
彼女は“船内の状態を整える”のと同じ手つきで、場の空気を締める。
リュウジはエリンの視線に合わせない。
湯呑みの縁を見つめたまま、僅かに眉が動くだけ。
エリンは、わざとらしくため息をついた。
「はぁ……」
そして、にっこり笑う。
その笑みは優しい。
けれど、逃げ道は消える笑みだ。
「リュウジ。何も喋らなくていいからね」
リュウジの肩が、ほんの少し固まった。
「……」
沈黙。
エリンの笑みが、ほんの一段階だけ“強く”なる。
「返事」
「……はい」
絞り出すような声。
エリンは満足そうに頷いた。
「よろしい」
そのやり取りが可笑しいのか、救いなのか。
リュウジは口元だけで、ほんの少しだけ笑いそうになり――堪えた。
エリンは、心の中で呟く。
――まったく。
――仲間のことになると、真っ直ぐ進むタイプね。
――その真っ直ぐさは、好きよ。
――でも、真っ直ぐすぎると、折れる。
エリンは湯呑みを手に取り、一口だけ飲んだ。
温かさが喉を通る。
同時に、冷たい覚悟も胸に降りる。
「チーフパーサーとガーネットが戻ってきたら、私は謝る。ペルシアの行動が組織に与えた影響は、否定できないもの」
リュウジの眉が動いた。
否定したい、という顔。
でも言わない。エリンの指示を守っている。
「ただし」
エリンは言葉を切った。
その“ただし”に、空気が変わる。
「ペルシアが一人で背負う話でもない。ここで、彼女を悪者にして終わらせるなら……私が許さない」
言い切る声は静かだった。
静かなのに、床が鳴るほど重い。
リュウジがようやく、エリンと目を合わせた。
その目に、熱が戻る。
怒りじゃなく、信頼の熱。
「……俺も、同じです」
短い言葉。
でも、嘘のない言葉。
エリンは小さく笑った。
「なら、今はそのまま座ってて。……ここは私が整える」
リュウジは頷いた。
頷き方が、操縦室でのそれと同じだった。
“了解”の頷き。
会議室の外はまだ静かで、十班のフロアの雑音が薄く滲むだけ。
いつ戻ってくるのか分からない相手を待つ時間は、長い。
けれど、エリンの背筋は崩れなかった。
ペルシアがいない間に、守るべきものがある。
十班と争うためではなく、ペルシアが戻ってこられる場所を残すために。
そして、リュウジは喋らない。
ただ、黙って、エリンの背中を見ていた。
――仲間のために真っ直ぐ進む彼の危うさを、エリンは理解している。
――だからこそ、彼女は“返事”をさせた。
言葉を縛るためじゃない。
暴走を止めるためでもない。
“守るため”に。
扉の外で、誰かの足音が止まる気配がした。
エリンは湯呑みを置き、膝の上で指を組む。
その目は、優しく――そして、戦う目だった。
ーーーー
しばらくして、廊下の足音が止まった。会議室の外――一瞬だけ空気が張り、扉の前で誰かが呼吸を整える気配がする。
コン、コン。
「失礼します」
扉が開く。
入ってきたのは十班のチーフパーサーと、副パーサーのガーネットだった。
チーフパーサーは背筋がまっすぐで、歩幅も一定。髪はきっちりまとめられ、耳元のアクセサリーまで抜かりがない。
ガーネットも同様だが、こちらは“整っている”というより“尖っている”。視線が細く、口元が最初から少しだけ上がっている。
二人はまずリュウジを見る。
ほんの一拍だけ間を置いて、軽く会釈。礼儀としての形はある。だが温度がない。会釈の角度が浅いのは、意図的だろう。
エリンが立ち上がり、リュウジも同時に立ち上がった。
立ち上がる速度まで揃っているのが、逆に“守りの態勢”を匂わせる。
「昨日のフライトでご迷惑をお掛けして、申し訳ありませんでした」
エリンは深く頭を下げた。
言葉は短く、余計な飾りをつけない。謝罪は、まず場を整えるための第一手だ。
チーフパーサーは椅子に腰を下ろしながら、鼻で笑うように言った。
「はっきり言って、やりすぎよ」
ガーネットが小さく頷き、すぐに口を挟む。
「乗務員同士であれだけ揉めるなんて、常識がないと思います」
エリンは頭を上げ、目を逸らさずに受け止める。
「分かっています。こちらの指導不足で申し訳ありません」
“指導不足”――便利な言葉だ。
責任を背負うように見せながら、相手の怒りを吸い取る。火の粉が周囲に飛び散らないようにする。エリンはそれを自然にやってのける。
だが、チーフパーサーの怒りは“吸い取られる”タイプではなかった。むしろ、吸い取られるほどに強くなる。
「指導不足? 違うわね。あなたたち十四班は勘違いしてるのよ。自分たちが特別で、何でも許されるって」
チーフパーサーは視線をエリンの胸元――名札の位置に落とす。そこからゆっくり顔に戻してくる。値踏みだ。
「応援に来た分際で、十班の空気を荒らした。あれは指導じゃない。威圧よ」
ガーネットが重ねる。
「それに、同乗拒否届……。あれ、脅しですよね。形だけの書類を持ち出して、相手を黙らせる。そういうの、嫌いです」
会議室の空気が少しずつ冷えていく。
テーブルの上のお茶から、湯気が立つ音だけが妙に大きい。
リュウジの視線が細くなる。
何も言わないが、目が言っている――“今のは違う”。
エリンはその変化を感じながら、先に言葉を置いた。
「書類を持ち出したことは行き過ぎでした。その点は、十四班として重く受け止めています。再発はさせません」
「受け止めてる? 口では何とでも言えるわ」
チーフパーサーは指先で机を一度、トン、と叩く。
音を立てたのは、リズムではなく“支配”の合図だ。
「それに、うちの乗務員が泣いたのよ」
エリンのまつげが一度だけ揺れた。
泣いた――その言葉の強さ。責任を“感情”で縛ってくる。
「あなたたちのやり方で、十班の士気が落ちた。責任取れるの?」
ガーネットがわざとらしくため息をついた。
「私たちは十四班みたいに、完璧な環境じゃないんです。余裕がないのに、外から来て正論だけぶつけられても……」
“完璧”という単語が、棘のように刺さる。
わざとだ。十四班を“エリート”として固定し、反発を正当化するための言葉。
エリンは静かに頷いた。
「十班の皆さんの努力を否定するつもりはありません。泣かせてしまったことも、申し訳なく思っています」
その瞬間、チーフパーサーの口元がほんの少しだけ上がる。
“取った”という表情。
「なら、分かってるわよね? ペルシアの処分よ」
エリンの心臓が一拍、遅れる。
――来た。ここが本命だ。
ガーネットがすぐに畳み掛ける。
「副パーサーの私にあそこまで言うなんて、前例がありません。しかも、同乗拒否届を出せって……。あれ、パワハラです」
リュウジの眉が僅かに動いた。
“パワハラ”という言葉が、単語だけで刃になるのをリュウジは知っている。組織の中では、それは“正義”の顔をして人を切る。
リュウジが口を開きかけた――その瞬間。
机の下で、エリンがリュウジの制服の裾を掴んだ。
ぎゅっと。
強く。
お願い、今は――。
声にしない合図。
リュウジの喉が動く。言葉を飲み込む音が、エリンには聞こえた気がした。
チーフパーサーは、そのやり取りを見逃さない。
「……ねえ、S級パイロットさん」
チーフパーサーの声が、妙に甘くなる。
甘いほど危ない。
「あなた、客室のこと分かってるの? 操縦席にいる人って、現場の苦労を知らないから軽々しく言えるのよね」
ガーネットが笑う。
「パイロットさんって、基本、客室に関わらないですもんね。知らないんですよ。私たちがどれだけ大変か」
エリンの指が、裾を掴む力をさらに強めた。
リュウジの肩が僅かに揺れる。怒りで動く体を、理性が止めている。
チーフパーサーは楽しそうに続けた。
「結局あなたたち、仲間が大事なだけでしょ。お客様よりも、十四班の絆が大事。そういうの、現場では迷惑なのよ」
その一言で、会議室の空気がピンと張った。
“迷惑”――
仲間を守ることを、迷惑だと言う。
乗務員の矜持を、迷惑だと言う。
それは、リュウジの一番踏んではいけない場所を踏んだ。
エリンの目が一瞬だけ、強くなる。
だが、すぐに柔らかく戻す。戻さなければ、この場が壊れる。
リュウジは、ゆっくり息を吐いた。
そして、ついに口を開く。
「……だったら」
低い声。
室内の誰もが、その声に反射で背筋を伸ばす。
エリンの顔が強張る。
止められない。止めるための裾は掴んでいる。でも、言葉は出てしまう。
「だったら、俺にも十班のフライトを見せてくれ」
エリンの指が、裾を掴んだまま固まった。
“挑戦”になる。
謝罪が“勝負”に変わる。
それがどれだけ危ないか、エリンは分かっている。
だが――予想に反して。
チーフパーサーは、目を細めた。
「……へえ」
ガーネットも、口角を上げる。
「面白いこと言いますね」
二人とも、乗り気だ。
勝てると思っている顔だ。
もしくは、勝って“十四班を黙らせる材料”が欲しい顔。
「見てみたいって、何を?」
チーフパーサーが言う。
「現場。乗務員の動き。お客様の反応。……そして、“どこが問題で、何が足りないのか”」
リュウジの声は淡々としている。淡々としているほど、鋭い。
ガーネットが鼻で笑った。
「言うじゃないですか。S級パイロットの目で見て、何が分かるんです?」
リュウジは一瞬も揺れない。
「分かるかどうかは、見てから決める」
チーフパーサーが椅子に深く座り直す。
その動きが、“受けて立つ”の合図になる。
「なるほど。十班と十四班で力比べという訳ね」
その言葉に、エリンの胃がきゅっと縮む。
力比べ。
そんな言葉が組織に乗れば、簡単に噂になり、簡単に報告になる。
報告になれば、上は“数字”で裁く。
数字で裁かれるのはいつだって、現場だ。
エリンは口を開きかけた。止めたい。
でも止めれば、今度は“逃げた”になる。
リュウジは条件を口にした。
「今度の定期便でやる」
チーフパーサーの眉が上がる。
現実味が出た瞬間だ。
「そして、船内の一ブロックを――十四班に任せろ」
ガーネットの表情が、ほんの少しだけ硬くなる。
一ブロック。つまり、逃げ場がない。比較される。
“やってみせる”側も、“見られる”側も。
チーフパーサーは、楽しそうに笑った。
「いいわ。乗りなさい。見ればいい」
その笑みは、“勝つ”と決めた笑みだ。
「ただし条件があるわ」
エリンが息を飲む。
来る。必ず来る。ここで相手は“代償”を要求する。
「もし十四班が、十班より見劣りしたら――」
チーフパーサーはゆっくり言う。
「ペルシアの同乗拒否届の件、正式に上へ上げる。取り下げはしない」
ガーネットが頷く。
「当然です。こちらだって、引けません」
会議室の空気が一気に重くなる。
エリンは、心の中で歯を噛みしめた。
これが狙い。勝負の形にして、負けたら“正義”で切る。
リュウジは一瞬だけ、エリンを見る。
目が問いかけている――“どうする?”
エリンは机の下で掴んでいた裾を、そっと離した。
代わりに、テーブルの上で指先を揃え、背筋を伸ばす。
ここからは、チーフパーサーの仕事だ。
場を壊さず、相手の刃を鈍らせ、こちらの守りを作る。
「条件をつけるのは結構です」
エリンの声は穏やかだ。
穏やかだからこそ、芯がある。
「ただし、こちらにも条件があります」
チーフパーサーの目が細くなる。
「何?」
「安全基準と運航規定の範囲内での比較に限ります。乗務員配置、担当区画、権限の範囲――その確認を事前に文書で取り交わしましょう」
ガーネットが眉をひそめる。
面倒だ、という顔。だがエリンはそこで引かない。
「そして、ブロックを任せると言っても、十班の乗務員の補助を奪うことはしません。お客様の安全が第一です。勝負を優先して安全を落とすなら、その時点で双方の負けです」
チーフパーサーは鼻で笑いかけ、しかし笑い切れない。
“安全”という言葉は、誰も否定できないからだ。
「……言うわね」
「現場を守るために必要な確認です」
エリンは淡々と続けた。
「それと、ペルシアの件。書類を振り回したことは謝ります。ただ――十班の育成の問題と、十四班の謝罪は切り分けてください。混ぜると、現場が壊れます」
チーフパーサーの視線が一瞬鋭くなる。
“育成の問題”と言われたのが癪なのだろう。
だが、エリンは引かない。
引いたら、ペルシアが切られる。
カイエも巻き込まれる。
そして十班の若手も、結局守られない。
ガーネットが口を挟む。
「……あなた、偉そうですね」
リュウジの空気が、わずかに冷える。
机の下で握った拳がきゅっと固くなる。
エリンはリュウジを見ないまま、言った。
「偉そうに聞こえたなら、申し訳ありません。でも私は、乗務員として“現場が壊れる”のが一番怖いんです」
その言葉は、嘘じゃない。
エリンは誰よりも、壊れる瞬間を知っている。
だから“整える”。
だから“謝る”。
だから“守る”。
チーフパーサーは一拍置いてから、頷いた。
「いいわ。文書で確認。……面倒だけど、あなたがそこまで言うなら」
ガーネットが不満そうに唇を尖らせるが、チーフパーサーが目で制す。
「で、力比べの話。十四班は一ブロック担当。こちらは全体の統括。公平ね」
「公平です」
エリンが言った。
その瞬間、チーフパーサーはリュウジを見る。
「よろしく頼む、S級パイロットさん」
挑発を含んだ笑み。
リュウジは、笑わない。
ただ、真っ直ぐに返す。
「ああ、よろしく頼む」
短い言葉。
短いのに、重い。
エリンは心の中で、小さく息を吐いた。
ここまで来たら、もう後戻りはできない。
“勝負”になってしまった。
だけど、勝負の形にしなければ、ペルシアは切られる可能性が高かった。
なら、勝負の土俵に上がって――“安全と現場の矜持”を守りながら勝つしかない。
エリンは深く頭を下げた。
「本日はお時間をいただき、ありがとうございました。文書の取り交わしは私の方から連絡します」
チーフパーサーが立ち上がる。
「ええ。楽しみにしてるわ」
ガーネットも、最後に一言だけ置いていく。
「……後悔しないでくださいね」
扉が閉まる。
足音が遠ざかる。
会議室に残ったのは、湯気の消えたお茶と、妙に重い沈黙だけだった。
エリンは、ようやく肩の力を抜いた。
抜いた瞬間、背中に冷たい汗が伝う。
「……リュウジ」
エリンが名前を呼ぶ。
責めたいわけじゃない。
でも、確認しなきゃいけない。
リュウジは椅子に座ったまま、目を伏せた。
「分かってます。余計なことを言いました」
「ううん」
エリンは首を振る。
そして、静かに言った。
「言わなかったら、ペルシアが潰されてた。……たぶん」
リュウジの喉が動いた。
怒りがまだ残っているのに、後悔も混ざっている顔。
「俺は、ああいう言い方が嫌いです。仲間を守るのが迷惑だなんて」
「私も嫌い」
エリンは小さく笑って、でも目だけは真剣なまま言った。
「だから、勝つよ。勝って、あの人たちに“現場”を見せる」
リュウジが顔を上げる。
「勝つ、って言い方……」
「勝負に乗ったのは、向こうも同じ」
エリンは机の上のメモを取り、ペンを走らせ始めた。
もう、整えるしかない。
安全と規定と権限と、配置と、導線と、訓練の積み上げを――全部、形にする。
そして、最後にだけ小さく呟く。
「……ペルシアのこと、守らないと」
リュウジは、短く頷いた。
「はい。俺も守ります」
その声は、さっきより少しだけ柔らかい。
でも芯は同じだ。
会議室の時計が、カチ、と鳴った。
まるで“次のフライト”までの秒読みが始まったみたいに。
ーーーー
十班の会議室を出た瞬間、廊下の空調はいつも通り一定の温度を保っているはずなのに、エリンの肌には薄い汗が浮かんでいた。
照明は白く、床は艶がある。人の往来も普段通り。――なのに、さっきまであの狭い部屋に充満していた刺々しい言葉だけが、二人の背中に張り付いて離れない。
リュウジは無意識に拳を握っていた。
握ったままではいけないと分かっているのに、ほどけない。
“やりすぎ”という言葉を、あんなふうに正面から投げつけられれば当然だ。まして、それがエリンに向けられていたのだから。
エリンは一度も足を止めず、端末の画面を滑らせながら歩く。
どこか淡々としている。
けれどそれは冷たいのではない。冷静さを“形”として保つことで、場の温度を下げているのだと、リュウジには分かる。
「……エリンさん」
思わず声が漏れた。
エリンは歩幅を変えないまま、横目だけでリュウジを見た。
その視線は、言葉より強い。
『まだ。ここじゃない』
そう言われた気がして、リュウジは口をつぐんだ。
十四班のフロアが近づく。
いつもの空気が見えてくる。端末の打鍵音、紙の擦れる音、誰かが淹れたコーヒーの匂い。
その“日常”が、さっきの出来事を逆に鮮明にする。
扉を開けると、ククルが「おかえりなさーい!」と元気に言いかけて、二人の顔を見て言葉を飲み込んだ。
カイエも手を止め、エマは眉を上げる。
エリンは小さく息を吸い、いつも通りの声色を作った。
「……タツヤ班長、少しお時間いただけますでしょうか」
ちょうど手元の書類をまとめていたタツヤが、顔を上げる。
そして、エリンとリュウジの並びを見た瞬間、目だけで理解した。
「……うん。ミーティングスペース行くか」
タツヤは立ち上がり、肩を回しながら歩く。
その仕草は軽く見えて、内側では既に構えている。
班長という役は、こういうとき一番最初に“受け止める”役だ。
丸テーブルに三人が座る。
エリンは端末を置き、リュウジは背筋を伸ばしたまま沈黙し、タツヤは椅子に深く腰を沈める。
何か言おうとして、やっぱり言わない。
それが、タツヤの“嫌な予感”の強さを物語っていた。
「で?」
タツヤが短く促す。
エリンは頷き、言葉を整えた。
「十班のチーフパーサーと副パーサーのガーネットに、昨日の件について正式に謝罪してきました。……結果として、こちらの対応が“やりすぎ”だと強く指摘を受けました」
「……うん」
タツヤの相槌は軽いが、目は笑っていない。
「こちらの指導不足という点については、私が責任を負う旨をお伝えしました。しかし――」
エリンは一瞬だけ目を伏せ、それから顔を上げる。
口調は丁寧なまま、芯が硬くなる。
「十班から、十四班そのものに対する侮辱的な言葉もありました」
リュウジの指が、膝の上でぎゅっと握られる。
エリンはそれに気づいている。気づいた上で、あえて淡々と続けた。
「その場で私が反論すべき内容もありましたが、目的は謝罪であり、対立ではありません。ですので、必要以上のやり取りは避けました」
「……うん、そこは正しい」
タツヤが頷く。
そして、少し間を置いて尋ねた。
「で、肝心の“火種”は?」
エリンが視線をリュウジに向ける。
リュウジは一度だけ息を吐き、敬語で言った。
「……エリンさんが止めてくださらなければ、俺は途中で口を挟んでいました」
「でしょうね」
タツヤの声が乾く。
エリンは小さく頷いた。
「最後に、リュウジが提案をしました。……次の定期便で、十班のフライトを見せていただきたい、と」
タツヤの眉がぴくりと動いた。
「……は?」
間抜けな声。
だが、それは驚きが本物だという証拠だった。
エリンは崩さず続ける。
「十班も、思った以上に前向きでした。リュウジの条件として“船内の一ブロックを十四班に任せる”ことを提示しています」
――沈黙。
タツヤの視線が、エリンからリュウジへ移り、またエリンへ戻る。
そして、数秒遅れて。
「……はぁぁぁぁぁぁぁぁ……」
大きなため息が、椅子の背もたれごと沈むように漏れた。
それは諦めでも怒りでもなく、両方を飲み込むための息だ。
「リュウジだけならまだしも……」
タツヤは両手で顔を覆い、指の間から二人を見る。
「エリンがついていながら……」
もう一度、ため息。
今度は短く、刺がある。
エリンは少しも怯まない。
背筋を伸ばし、きっぱり言った。
「後悔はしていません」
「うわ、言い切った」
タツヤが乾いた笑いを漏らす。
リュウジは視線を落とし、敬語で添える。
「……俺の提案が軽率だったのであれば、申し訳ありません。ただ、相手が“勝負”の形に持ち込む気配がありました。あのまま終えると、十四班の評価だけが傷つくと判断しました」
エリンがすぐに続ける。
「タツヤ班長、これは“喧嘩”ではありません。安全と現場の質の話です。十班の方々に勝つためではなく、乗客にとって何が正しい運用かを示す機会になります」
タツヤは口を開けたまま、閉じる。
言い返したい気持ちがあるのに、理屈は二人の方が正しい。
その矛盾が、班長の疲労を増やしていく。
「……はぁ」
タツヤは天井を見上げた。
「ストレスで俺、ハゲちゃいそう」
リュウジが即答する。
「まだふさふさです」
タツヤの視線が鋭く戻る。
「おじさん舐めるなよ」
エリンが小さく咳払いをする。
笑いを抑えているのではない。空気を整えているのだ。
「タツヤ班長、まずは実務の整理をします。とりあえず、メンバーはこちらで決めます」
タツヤが、また大きく息を吐く。
「まぁ……仕方ないね」
言いながらも、机に肘をついて指を組む。
班長の顔になった。
「こういうのはあんまり好きじゃないけど……」
タツヤは目を細める。
嫌いなのだ。争いの形になることが。
誰かを下げて、誰かを上げるための場が。
それでも――
「十四班のメンツに関わるからね」
その言葉が落ちた瞬間、リュウジの胸の奥の硬い塊が、少しだけほどけた。
班長が、背中を預ける覚悟を決めた。
それは“許可”でも“賛同”でもない。
班長の責任の引き受けだ。
「ありがとうございます、タツヤ班長」
エリンは深く頭を下げる。
敬語の形は崩さず、しかしそこに感情がある。
“守る”ための謝意だ。
「礼はいいよ。……で、どこまで決まってる?」
タツヤが現実に引き戻す。
この人はそういう人だ。
決めたら、動く。愚痴りながらも、最後に走る。
エリンは端末を操作し、表示させたメモを示す。
「相手の条件は“十班の定期便に同乗”です。こちらの条件は、十四班が担当するブロックを明確にし、そのブロック内の指揮系統と緊急時の権限を文章化すること。曖昧なまま乗ると、責任のなすりつけが発生します」
タツヤが頷く。
「うん。相手はそういうの好きそうだ」
リュウジが低い声で補足する。
「“勝負”に見せたいなら、事故が起きたとき、誰のせいかにしたいはずです。俺たちはそこを先に潰す必要があります」
エリンが頷き、言葉を切る。
「ですので、事前に広報ではなく運航管理・安全管理にも通します。班長の承認が必要です」
「……うん、やれ」
タツヤが即答する。
そして少しだけ顔をしかめた。
「ただし、役員に嗅ぎつかれると面倒だぞ。あいつら、“数字”と“見栄え”が好きだからな」
エリンは落ち着いて返す。
「承知しています。役員が介入すると、現場ではなく“政治”になります。ですので、こちらは“教育交流”と“安全向上”の名目で整えます。勝負という言葉は使いません」
タツヤが笑う。
「さすがだね、エリン。怖いくらい」
「ありがとうございます。褒め言葉として受け取ります」
エリンは表情を崩さない。
そういうところが、彼女の“強さ”だ。
リュウジはその横で、少しだけ眉を寄せたまま言った。
「……エリンさん、俺は――」
言いかけた言葉を飲み込む。
“怒り”を出せば簡単だ。
だが、それはエリンの作った線を越える。
エリンはリュウジの視線を受け止め、柔らかく、しかし明確に言った。
「リュウジ、大丈夫。あなたの気持ちは分かる。でも、今は“勝つ”ではなく、“示す”のよ」
けれど、その言葉に上下はない。
同じ現場に立つ者同士の合図だ。
リュウジは一拍置いて、敬語で答える。
「……はい。承知しました」
タツヤが二人を見て、わざとらしく肩を落とした。
「はぁ……俺、ほんとにハゲるかもしれん」
「その時は育毛剤を買っておきます」
リュウジが真面目な顔で言う。
「やめろ。具体的にするな」
タツヤが即座に突っ込む。
エリンが、小さく息を吐いてから話を戻した。
「班長、メンバー構成ですが、十班の状況を考えると、こちらは“安定”を第一にします。ククルのように場を温める人材も必要ですが、今回はブロック運用です。揺れやトラブル時の対応速度を見られます」
タツヤが頷く。
「つまり、現場の“基礎体力”を見せるってことだな」
「はい」
エリンは端末を指先で軽く叩く。
「候補は、カイエ、エマ、ククル。加えて、補助でもう一名。ブロックの規模によりますが、私が現場に入ります」
タツヤが顔をしかめる。
「エリンが入ると、相手が言い訳できなくなるから強いけど……」
そして、少しだけ真面目に続けた。
「……お前の負担が大きい」
エリンは即答する。
「承知しています。ただ、今回はこちらの名誉のためではなく、乗客の安全のためです。負担の大小で判断はしません」
タツヤは、またため息をついた。
だが今度は、諦めではなく決意の息だった。
「……分かった。じゃあ、俺も腹括る」
タツヤは机を指で二回叩く。
「こういうのはあんまり好きじゃない。だけど、十四班は“特別”で、“現場を背負ってる”。そこをナメられるのは許せない」
リュウジの目が少しだけ鋭くなる。
それは怒りではなく、同意の光だ。
「タツヤ班長」
リュウジが敬語で言う。
「十班がどうこうというより、彼女たちの“言い方”が問題です。現場を知らない言葉で現場を縛るのは、事故の種になります」
「だよな」
タツヤが頷く。
「だから、勝負にするなら“勝ち方”がある。相手を潰して勝つんじゃない。乗客の前で、“正しい運用”を出して勝つ」
エリンが静かに頷いた。
「はい。ですので、事前に運用手順を全員で共有します。十班側にも、最低限の線引きは提示します。これは喧嘩ではなく、安全運用の擦り合わせですから」
タツヤが口元を歪める。
「……向こうがそれを受け取るかは別だけどな」
「受け取らなくても構いません」
エリンが淡々と言い切る。
「こちらは形に残します。記録に残せば、事故が起きた時に“誰が何を決めたか”が明確になります」
「怖いね、エリン」
「仕事ですので」
エリンはさらりと言う。
タツヤは椅子にもたれ、両手を上げて降参のポーズをした。
「はいはい。分かったよ。……やるしかない」
そして、少しだけ笑って付け加える。
「で、俺に何を求める?」
エリンは端末を閉じ、班長を見る。
「タツヤ班長には、“責任者としての承認”と、“外部への根回し”をお願いしたいです。特に運航管理と安全管理への通達です。私が文面を整えますので、最終的な提出は班長のお名前で」
「了解」
タツヤが即答する。
こういうとき、迷いがないのが彼の強さだ。
リュウジも頭を下げる。
「ありがとうございます。タツヤ班長に負担をおかけします」
「今さらだろ」
タツヤが肩をすくめる。
「お前らの尻拭いが班長の仕事だ。……まぁ、尻拭いって言うと失礼か。俺も守りたいんだよ。十四班を」
その言葉に、エリンのまつ毛がほんの少しだけ揺れた。
感情を出さない人が、出さずに“見せた”揺れ。
「タツヤ班長、ありがとうございます」
エリンはもう一度だけ、深く頭を下げた。
タツヤは手を振り、照れ隠しのように言った。
「いいから。……でさ」
言いながら、タツヤは口角を上げる。
冗談の形を借りて、緊張を少しだけ落とす。
「けちょん、けちょんにしてあげて」
リュウジが眉を寄せる。
「班長、その言い方は――」
「俺だって言葉選びたいよ! でも今、頭の中がストレスでぐちゃぐちゃなんだよ! せめて“けちょんけちょん”って言わせろ!」
エリンが小さく息を吐いた。
笑いではない。
“この人は大丈夫だ”と確認するための息だ。
「タツヤ班長、けちょんけちょんはしません」
エリンは真面目に言う。
だが、その真面目さが逆に可笑しい。
「ただ――」
エリンは少しだけ声を落とし、まっすぐ班長を見る。
「十四班として、恥のない運用をします。安全を、結果で示します」
リュウジも続ける。
言葉の端に、熱が残っている。だが、敬語がそれを抑える。
「はい。俺も、現場の積み重ねが何かを示したいです。勝つためではなく、守るために」
タツヤは二人を見て、うん、と頷いた。
そして、班長としての顔で言う。
「よし。じゃあ準備だ。俺も嫌だけど、やるならやる。十四班が“十四班”であることを、現場で見せよう」
「はい、タツヤ班長」
「はい。エリンさん、準備、進めます」
エリンは立ち上がり、端末を抱え直した。
その動作には無駄がない。
“勝負”と言われた舞台を、“安全”の舞台に変えるための動きだ。
タツヤは最後にもう一度、ため息を吐いて、笑う。
「……ほんと、ハゲそう」
リュウジが真顔で返す。
「その時は、俺が育毛剤の候補を――」
「やめろ!」
タツヤが叫び、エリンが小さく咳払いをして締めた。
「班長、ふさふさのままでいてください。こちらが困ります」
「エリンまで!」
タツヤが頭を抱える。
けれど、その声には、さっきまでの重さが少しだけ薄れていた。
勝負の舞台に乗る。
嫌だ。面倒だ。腹が立つ。
それでも――十四班は、そこで“正しいやり方”を示す。
誰かを叩き潰すためじゃない。
乗客を守るために。
現場を守るために。
そして、班の誇りを守るために。
エリンが歩き出し、リュウジがその半歩後ろにつく。
タツヤは二人の背中を見送りながら、もう一度だけため息を吐いた。
「……ったく。うちの班、厄介だな」
けれど、その呟きの最後には――確かな笑みが混じっていた。