そのまま午前中は、拍子抜けするくらい“普通”に流れた。
普通のフロア、普通の端末作業、普通の申し送り。ペルシアの机が一度“机”として機能し、エリンが必要な資料だけを静かに揃え、リュウジが業務日誌を真面目に埋めていく。
――普通、のはずだった。
タツヤの端末に、ひとつ通知が入るまでは。
軽い振動。画面の右上に短い文字。
タツヤは一瞬だけ視線を落とし、ふっと口角を上げた。普段なら「はいはい」くらいで流す顔だ。
なのに、その笑いが途中で止まる。
目が、変わった。
椅子の背にもたれていた体が、わずかに前へ起きる。
指が画面をタップして固定する。
そして――のらりくらりの声が、急に消えた。
「……エリン」
名前を呼ばれた瞬間、エリンはすぐ立つ。タツヤに対してだけは反射に近い。
「はい、タツヤ班長」
「ペルシアも。……来い。会議室」
「え、なになに? 私の机、また汚いって言われた?」
「今は机の話じゃない」
タツヤの即答が早い。
ペルシアの冗談が、その場で弾かれた。
エリンは一瞬だけ、昨日のレストランでの会話を思い出した。――“上”が動く時、空気が変わる。
リュウジは端末から顔を上げる。
「俺も――」
言いかけて、すぐに言い直す。
「……自分も、ですか?」
タツヤが振り向く。
普段なら「どうだろうねぇ」で流しそうなところを、今日は違う。
「来い。……お前の話だ」
その一言で、フロアの音が一段落ちた気がした。
エリンとペルシアが顔を見合わせる。ペルシアの笑みが消え、エリンの目が細くなる。
四人は会議室に入った。
ドアが閉まると、外のざわめきが薄い壁に吸われる。モニターだけが白く光っていて、空調の音が妙に大きい。
タツヤは画面を表示し、短く言った。
「“上”から案件が来た」
ペルシアが喉を鳴らす。
「……早くない? 入社式、昨日だよ?」
「早いよ。だから厄介」
タツヤの声は淡々としている。でも、そこに“守る側”の硬さが混じっていた。
エリンが丁寧に問う。
「タツヤ班長、案件の種別は……?」
「特別フライト」
タツヤは一拍置いて、リュウジを見る。
「お前の、初フライトだ」
リュウジの表情が変わる。
驚きより先に、理解が走る。契約体系の説明を受けた時の、あの冷たい単語が頭をよぎったのだろう。
(必要な時は必ず来る)
タツヤの言葉が、現実になった。
「……具体的には、どのようなフライトでしょうか」
リュウジはタツヤ班長には敬語を徹底する。
タツヤは画面を指で叩き、簡潔に言った。
「セーシング領域内の航路だ」
ペルシアが首を傾げる。
「未探索じゃないの?」
「未探索じゃない。だからこそ、別の意味で厄介」
タツヤは画面を切り替え、航路図を出した。青い線が地球周回軌道をなぞり、そこから火星へ伸びている。
「地球の周りを一周」
タツヤの指が、地球のリング周辺をなぞる。
「そのまま火星のエアポートに到着。停泊は短い。着いたらすぐ、別便で木星に戻る」
「つまり、見せるためのフライトだ。セーシング領域内で安全に見せて、火星到着の絵も取って、すぐ木星に戻す。上はそういうのが好きだ」
ペルシアが顔をしかめる。
「うわ、宣伝くさ……」
エリンの目が鋭くなる。
「乗客は?」
「“乗客”扱いはされない。機密輸送。荷扱いだ。ただし生きてる」
ペルシアが小さく「うわ」と言った。
「最悪のやつじゃん。安全っぽい顔してるのに中身が重い」
タツヤが頷く。
「そういうこと。未探索じゃない分、操縦技術の見せ場は作りづらい。だから余計に“演出”が入る」
エリンが敬語で言う。
「タツヤ班長、客室クルーの編成は、こちらで握れますか」
タツヤは即答する。ここは流さない。
「握る。そこは絶対に譲らん」
その瞬間だけ、タツヤの“のらりくらり”が完全に消えた。
班長の声だ。部下を守る声だ。
「上が『誰それのチームでいいだろ』って言ってきたら、俺が止める。止めて、俺が責任を取る」
「ありがとうございます、タツヤ班長」
エリンが即座に返す。
ペルシアも珍しく真面目に頷いた。
「了解、タツヤ班長。変な人、入れないで」
「入れない」
タツヤは画面をもう一度見て、現実的な段取りに入る。
「フライトは三日後。準備は今日から。リュウジ、お前は訓練枠を組む。詰め込みじゃない。地球周回と火星アプローチの“癖”を体に入れとけ」
「承知しました。タツヤ班長」
リュウジの返事は短いが、丁寧だ。
タツヤは続ける。
「ペルシア、エリン。客室側の段取り。隔離区画の管理、機密輸送時のプロトコル、火星エアポートでの動線。短時間で回す」
ペルシアが眉を上げる。
「え、私、乗るの?」
「乗る」
タツヤは淡々と言った。
「副パーサーが必要だ。お前の雑さが必要」
「褒めてる?」
「褒めてない。武器って言ってる」
「最高」
ペルシアが言い切って、次の瞬間、ふっと真面目な顔に戻る。
「……リュウジ、初フライトで地球一周して火星行って、すぐ木星戻りって、だいぶキツくない?」
リュウジはペルシアにはタメ口で返す。
「キツいと言うより重いな。でも、契約で呼ばれたなら飛ぶ」
言い方は強がりに聞こえない。淡々とした事実だ。
エリンがリュウジを見る。声は通常口調だが、目は真剣だ。
「重いのは普通。重いって分かってる人のほうが、変な無茶しない」
「はい、エリンさん。……自分もそう思います」
リュウジはエリンには敬語だ。
ペルシアが腕を組んで、わざと軽く言う。
「じゃあ猫被ってるかどうか、三日後に分かるね」
「被ってない」
「それ、猫ほど言う」
「うるさい」
ペルシアが笑い、リュウジも小さく息を吐く。
ほんの少しだけ“素”が出た。
タツヤが会議室の空気を一度締める。
「よし。ここから真面目な話」
声のトーンが落ちる。
全員の背筋が自然に伸びる。
「上は結果と絵しか見ない。『英雄ならできる』って勝手に決める。だから俺たちは、結果を出すために現場を守る」
タツヤはリュウジを見る。
「リュウジ。お前はS級で、英雄だ。――でも勘違いするな。英雄は一人で飛ばない。班で飛ぶ」
「……承知しました、タツヤ班長」
「承知、じゃなくて覚えろ」
タツヤの言い方は厳しい。
でもそこには、突き放しではなく“守るための線”がある。
タツヤは次に、エリンとペルシアを見る。
「エリン、ペルシア。客室は絶対に道具じゃない。誰が何と言おうと、そこは譲らん」
エリンが敬語で答える。
「はい、タツヤ班長。こちらも譲りません」
ペルシアも珍しく真面目に言う。
「了解、タツヤ班長。私、雑だけど踏んじゃいけない線は分かる」
「よし」
タツヤは最後に、少しだけのらりと笑った。
「……じゃあ、朝から来た新人くん。今日の予定、変えようか」
リュウジが眉を上げる。
「変える、というのは……?」
「変える変える。訓練枠、ちゃんと組む。休みも組む。出社も組む。全部“任せる”って言ったけど、最初は俺が型を作る」
「……助かります、タツヤ班長」
リュウジが素直に言うと、タツヤは肩をすくめた。
「助けるのが班長の仕事でしょ。……ただし、俺の言うことは聞け」
「承知しました」
「よし」
会議室のドアが開く。
外のフロアの音が戻ってくる。さっきまでの“普通”が、もう同じ温度では感じられない。
リュウジの初フライト。
地球を一周し、火星のエアポートへ。
そしてすぐ、別便で木星へ戻る。
安全に見せるための航路。
けれど中身は機密。
“英雄”の看板を固定するための舞台。
エリンは歩きながら、ペルシアの横で小さく呟いた。
「来たね。思ったより早く」
ペルシアは笑う。昨日みたいな軽さではないけれど、ちゃんと前を向ける笑いだ。
「うん。来ちゃったね。……でもさ」
ペルシアがリュウジの背中を見る。
「猫でも英雄でも何でもいいから、ちゃんと帰ってこよう。班で」
エリンは頷いた。
「うん。班で」
そして、リュウジはまだ知らない。
この初フライトが、ただの“仕事”ではなく――
彼を「英雄」として固定するための“絵”でもあることを。
幕は、もう上がり始めていた。
ーーーー
発進ゲートの先にあるハンガーは、いつ来ても“金属の匂い”がする。
新しい塗装、油脂、熱を持った配線、冷えた空調――それらが混ざって、宇宙船という巨大な道具が「いま生きている」ことを知らせてくる。
エリンとペルシアは、キャリーケースを転がしながら通路を進んでいた。
床は滑らかで、車輪の音が一定のリズムで響く。
隣を走る搬入カートには、機密輸送用のケースがいくつも積まれていて、シールの色も封印の種類も、いつもより多い。
「ねえ、今日の“お客”さ」
ペルシアが声を落とす。いつもの軽さはあるが、音量は自然に抑えられている。
「政財界の大物ばっかりなんだって。政治局の人もいるし、ドルトムントの役員もいるし、連盟の監察局っぽいのもいる」
「うん。名簿見た」
エリンは淡々と答えた。表情はいつも通り。でも目は鋭い。
名簿に並ぶ肩書きは、客室の空気を一瞬で重くする。笑い声の出し方ひとつで“評価”が付くような連中だ。
「これがリュウジの初フライトって……ね」
ペルシアがわざと明るく言って、すぐに口元を引き結んだ。
「運がいいのか悪いのか、分かんない」
「悪いとは言い切れない」
エリンは静かに言う。
「最初から“演出”の中に放り込まれた方が、彼がどう動くか見える」
「チーフパーサー、冷たい〜」
「冷たくない。」
エリンはキャリーの持ち手を握り直した。
今日は“客”の機嫌を取る日ではない。
客の顔を見ながら、“安全”を取る日だ。
「それに……」
エリンが少し声を落とす。
「今日は機密輸送もある。客室の線引き、いつもより厳しくなる。あなた、余計な軽口は控えて」
「分かってる。雑だけど、バカじゃない」
ペルシアは唇を尖らせ、でも目は真面目だった。
「ねえ、エリン。リュウジ、緊張してると思う?」
「してると思う」
「してるように見えないよ?」
「見せないだけ」
エリンは言い切る。
「見せない人ほど、内側で固くなってる。……だから、客室側が余計に乱れないようにする」
「はいはい、チーフパーサー」
二人が搭乗ブリッジに差しかかった時、機体の側面が見えた。
白い機体にドルトムントの管理番号。整備灯の下で、金属のラインが淡く光っている。
船体の中からは、作業員の声と工具の音が断続的に聞こえた。
ペルシアが小さく呟く。
「……今日、なんか整備、忙しそうじゃない?」
「忙しいのはいつもじゃないかしら」
エリンはそう返しつつ、心の中で“気に留める”を立てた。
忙しい、は普通だ。
でも“焦っている忙しさ”は普通じゃない。
⸻
操縦区画へ続く通路は、客室よりもさらに静かだった。
空気の温度が少し低く、金属音が響きやすい。
タツヤは足取りを崩さず、のらりくらりとした顔で歩いていく――表面は、いつも通り。
だが、扉の前で一度だけ呼吸を整える。
それは癖ではなく、スイッチだった。
操縦室の扉が開く。
タツヤが中に入ると、すでに誰かが定位置にいた。
リュウジだ。
椅子の前で立ち、端末を確認し、チェックリストを淡々と読み込んでいる。
時間はまだある。あるのに、彼は“待機”を始めていた。
タツヤが肩をすくめる。
口調は軽い。いつもののらりくらり。
「早いねぇ」
リュウジは振り向き、すぐに頭を下げた。
「おはようございます、タツヤ班長。お待たせしました」
「待ってない待ってない。こっちが遅いだけ」
タツヤは椅子に腰を下ろしながら、わざと気楽に言う。
「まぁ、S級になっての最初のフライトなんだし。少しリラックスしなよ」
リュウジは敬語のまま、いつもより短く返す。
「はい。大丈夫です」
「大丈夫って言う人ほど、大丈夫じゃないんだよねぇ」
タツヤは笑って言った。
だが、その笑いは薄い。
今日の彼は“流す”ために笑っている。
そこへ、操縦室の外から足音が近づいてきた。
整備士が、分厚いバインダーを抱えて現れる。紙の束は異様な厚みで、最終点検報告書の重さがそのまま責任の重さに見えた。
「最終点検報告です。機長、班長」
整備士はタツヤにではなく、リュウジへ先に差し出した。
“今日の主役”は誰か、現場の人間は分かっている。
リュウジは両手で受け取り、礼を言う。
「ありがとうございます。確認します」
ページをめくる音が、操縦室の静けさを切る。
リュウジは読むのが速い。目が滑らない。数字の列を“見ている”ではなく“拾っている”。
タツヤは、軽い調子で言った。
「分厚いねぇ。紙だけで機体が重くなる」
「笑えませんよ、タツヤ班長」
リュウジは敬語で返しながら、視線を上げずに答えた。
その“笑えない”が、冗談ではなく本音だと伝わる。
数ページ進んだところで、リュウジの手が止まった。
指先が、ある項目を押さえる。
姿勢制御ユニット。周辺の外装、配線、固定具、振動係数――。
リュウジは顔を上げ、整備士へ静かに言った。
「今朝、点検した時に姿勢制御ユニット周り、かなり損傷しているように感じました。……大丈夫ですか?」
一瞬、空気が止まる。
タツヤが、のらりとした声で首を傾げた。
「……いつの間にそんなとこ見たの?」
リュウジは淡々と答える。
「客室に上がる前、外回りを一周しました。目視できる範囲だけですが」
“外回りを一周”
それは、普通のパイロットが初フライトでやる行動ではない。
整備士がわずかに目を見開く。
「……急ピッチで仕上げたもので。ですが、問題ないです。定格内です」
言葉は整っている。
だが声の端に、ほんの少しだけ“焦り”が混ざった。
タツヤはそれを聞き逃さない。だが、まだ突っ込まない。状況を見る。
リュウジは報告書に視線を落とし、数秒だけ考えるように黙った。
考えているのは、正しさではなく、リスクと時間と選択肢だ。
そして、顔を上げる。
「交換すると、どれくらいかかりますか」
整備士が目を丸くする。
「え!?」
タツヤが、今度は軽くない声を出す。
ここは現場の線だ。
「おい、そんな時間……」
だが、言い切る前にタツヤは止まった。
リュウジの雰囲気が変わったからだ。
さっきまでの“丁寧な新人”の空気が消えた。
代わりに、冷静で、温度が低く、判断が速い――“操縦者”の顔になる。
整備士も、空気の変化を感じ取ったのだろう。慌てて言葉を探す。
「そ、そうですね……。今からですと……一時間もあれば、交換自体は……」
タツヤが口を挟みかける。
けれどリュウジが先に言った。
「ギリギリですが、交換しましょう」
整備士が固まる。
「……本気ですか?」
タツヤが低い声で呼ぶ。
「おい、リュウジ」
呼び方が“班長の制止”だ。
だが、リュウジは怯まない。タツヤ班長に対しても、敬語を崩さず、淡々と返す。
「大丈夫です、タツヤ班長」
そして、続ける。
冷静さが、かえって怖い。
「自分にとっては初フライトです。手間取ったと言えば、少しは時間も稼げます」
タツヤの眉が上がる。
それは“言い訳”じゃない。
上に対する“盾”を、すでに作っている言い方だった。
リュウジはさらに言う。
「それと――自分も手伝います」
整備士が声を裏返した。
「え? 機長もですか!?」
リュウジは頷き、まっすぐ答える。
「ええ。この目で見たいですし、それなりに知識はあります。姿勢制御ユニットは、扱いを間違えると余計に危険になります。整備の方だけに背負わせたくありません」
その最後の一文で、整備士の表情が変わった。
“背負わせたくない”という言葉は、現場の人間に効く。
責任を押し付ける人間は多い。
責任を分ける人間は、少ない。
タツヤは、数秒だけ黙った。
のらりくらりで流す余地はない。
ここは“守る”か、“止める”かを決める場面だ。
タツヤは、ゆっくり息を吐く。
そして、声の温度を落とした。真面目な声だ。
「……分かった。交換だ」
整備士が「えっ」と言いかけて口を閉じる。
タツヤは続けた。
「ただし、手順は守れ。勝手に触るな。指揮は整備主任。リュウジは補助。いいな」
「承知しました、タツヤ班長」
リュウジの返事は即答だった。
勢いだけじゃない。ルールを受け入れる速さもある。
タツヤは整備士に目を向ける。口調は少しだけ柔らかく、でも芯は硬い。
「一時間。ギリギリ。間に合わせる。必要な人員、すぐ呼んで。……俺が上には話す」
「……ありがとうございます、班長」
整備士の声に、明らかに安堵が混じった。
リュウジは報告書を閉じ、立ち上がる。
「では、案内してください。どこから入りますか」
「こ、こちらです……!」
整備士は慌てて扉を開ける。
タツヤも立ち上がり、最後にリュウジへ視線を向けた。
のらりくらりの顔が、一瞬だけ戻る。
「初フライトでいきなり整備に潜る機長、初めて見たよ」
リュウジは一拍置いて、少しだけ口元を緩めた。
「……自分も、初めてです」
そして、敬語のまま付け足す。
「ですが、初めてだからこそ、最初から妥協はしたくありません」
その言葉は、操縦の話ではない。
人の命と、現場の矜持の話だった。
フライトまで、あと一時間。
時間は足りない。
けれど――判断が早い時、人は間に合わせてしまうことがある。
リュウジは整備士の後ろを追い、金属の匂いの中へ消えていった。
タツヤはその背中を見送りながら、ひとつだけ心の中で呟く。
(英雄、ねぇ……)
英雄は、絵になることより先に、危ない箇所を見つける。
そして、危ない箇所を“誰かのせい”にしない。
その性質が、救いになるか。
それとも、上にとって“もっと便利な道具”になるか。
幕は、もう上がっている。
そして機体は、いまから“やり直される”。
ーーーー
搭乗ブリッジの灯りは、いつもより“白く”感じた。
白いというより、評価と監視の色。今日の客は政財界の大物ばかり――光まで、人の目になる日だ。
エリンは客室側の最終確認を終えると、通路の端で一度だけ呼吸を整えた。
制服の襟元、インカムの位置、名札の角度。整えるのは見た目だけじゃない。心拍も、声もだ。
機密ケースの固定は完了。封印番号の照合も終わっている。
客室は静かで整然としている。だからこそ、違和感は小さくても目立つ。
エリンはインカムに指を当て、無線を入れた。
この回線は、操縦室だけじゃない。全乗務員に聞こえている。だから言葉は余計に選ぶ必要がある。
「機長、準備整いました。乗客の受け入れを開始してよろしいでしょうか」
一拍。
ノイズが薄く走って、返事が返ってきた。
『了解。エアロック解除しておくよ』
タツヤの声だった。
その瞬間、エリンの胸の奥がひやりとする。
ただし顔には出さない。出したら、回線の向こうで誰かが息を呑む。
エリンは“確認”の形にして返す。あくまで業務連絡として、淡々と。
「……タツヤ班長。確認です。機長回線ではなく、班長回線ということでよろしいでしょうか」
回線の向こうで、タツヤが軽く笑った気配がする。
のらりくらり――ただし、全員が聞いているから、余計な説明は避けている温度。
『うん。こっちで出てる。リュウジはちょっと席外してるだけ。すぐ戻るよ』
“席外してるだけ”
その言い方が、逆に引っかかる。しかもこのタイミングで。
エリンは一呼吸置いて、短く返した。
「承知しました」
それ以上は聞かない。回線上で深掘りするのは悪手だ。
ただ、エリンの言葉の端に混ざったわずかな硬さを、客室の誰かが聞き取った気配があった。
インカム越しに、別の乗務員の呼吸が一瞬だけ詰まる。――すぐに戻る。みんな、仕事ができる。
エリンは続けて、同じ回線で宣言する。
「それでは、乗客の受け入れを開始します。各セクション、受け入れ体制に入ってください」
『了解。頼むね』
タツヤの声は軽い。軽いが、最後だけ少し硬い。
“頼む”の一言が、班長の責任の重さを含んでいた。
無線を切る。
エリンはすぐに笑顔を作って、搭乗ブリッジの方向へ視線を戻した。
最初の客の靴音が近づいてくる。スーツ、バッジ、随行員、護衛。客室の温度が一段下がる。
その横から、影が寄ってきた。
「……エリン」
ペルシアだ。声は小さい。顔は笑っていない。
さっきの無線が全員に聞こえていたことを、彼女は当然理解している。
「席外してるって……どういうことかな」
エリンは笑顔のまま、口だけで返した。
「あとで話す。今、お客様の前よ」
「うん」
ペルシアも即座に笑顔に切り替える。
二人は並んで頭を下げ、最初の客を迎えた。
「おはようございます。本日はご搭乗ありがとうございます」
「こちらのお席でございます。お足元お気をつけください」
客はエリンたちを“見ない”。
エリンも感情を乗せない。乗せた瞬間、判断が鈍る。
搭乗が少し落ち着いたタイミングで、エリンはペルシアをギャレー寄りの死角に誘導した。
声を落とす。ここは無線が届かないわけじゃないが、少なくとも“全員の耳”ではない。
ペルシアが先に切り出す。
「……ねえ。機長が離陸前に席外してるって、普通じゃないよね」
「普通じゃない」
エリンは即答した。表情は崩さないが、声の温度は低い。
「しかも初フライト。政財界の大物だらけ。機密輸送もある。――この状況で、機長が“席外す”って、あり得ない」
ペルシアが眉を寄せる。
「上に呼ばれたとかじゃないの?」
「違うと思う」
エリンはきっぱり言った。
「もし上に呼ばれてるなら、タツヤ班長はあんな言い方しない。『席外してるだけ』なんて曖昧にしない。回線が全員に聞こえてるのも分かってる。……班長は、乗務員を不安にさせる言葉は避ける」
ペルシアが小さく息を吐く。
「じゃあ、なんなの。ほんとに“席を外してるだけ”?」
エリンの目が鋭くなる。
「私には、“責任感がない”ように見える」
ペルシアが一瞬だけ固まる。
「……エリン、言うね」
「言うよ。仕事だから」
エリンは淡々と続けた。
「操縦室の中だけが世界になってる。操縦にしか頭が回ってない。結局、乗客のことも、私たちのことも、何も考えてない――そういうふうに見える」
ペルシアが反射的に言い返しかけて、飲み込んだ。
代わりに、慎重に言葉を選ぶ。
「でもさ、リュウジって、昨日はちゃんとしてたじゃん――」
「“言葉”はね」
エリンは遮るように、ただ短く切った。
「現場は、言葉じゃない。行動」
そして、核心を落とす。
「離陸前に機長が席を外す。これは、客室にとって最悪に近い。
乗客の受け入れって、“サービス開始”じゃない。安全の入り口。心理の制御。トラブルの芽の摘み取り。
その瞬間に、機長がいないって――乗務員に全部背負わせる形になる」
ペルシアの口元が歪む。冗談に逃げたい顔。でも逃げない。
「……それ、まさに“道具扱い”に近いよね」
エリンは頷いた。
「そう。怒鳴らなくても、命令しなくても、結果として“私たち任せ”にしてる。
タツヤ班長が代わりに座るから大丈夫、って話じゃない。
初フライトの機長が、最初の責任から目を逸らした形になるのが、私は許せない」
ペルシアが低い声で言う。
「許せない、って……エリン、止めるの?」
「止められるなら止めたい」
エリンの声は静かだ。静かなぶん、強い。
「でも、今は受け入れを止められない。止めた瞬間、上が嗅ぎ取る。
だから私は別の形で守る。客室側で“崩れない”ようにする。
そして、機長が戻ってきた瞬間に確認する。理由じゃない。姿勢。――何を優先したのか」
ペルシアは腕を組んで、苦い顔をする。
「……戻ってきて、何事もなかった顔してたら?」
「その時は、私の見解は固まる」
エリンは言い切った。
「“操縦ができればいい”って人間は、客室を壊す。
私たちを物みたいに扱う人間は、最初からそういう態度を取るとは限らない。
“席を外す”みたいな小さな行動に、本音が出る」
ペルシアが唇を噛む。
「……初フライトで、いきなりそれって、最悪」
「最悪に近い」
エリンは視線を搭乗ブリッジへ戻した。
客の列はまだ続いている。笑顔は必要だ。完璧に、必要だ。
「ペルシア」
「なに」
「さっきの無線、全員が聞いてる。もう不安は広がってる。広がり切る前に、客室の空気をこちらで固定する」
ペルシアが頷く。
「了解。私、雑だけど空気は読める。……読ませる」
「頼む」
エリンは短く言う。
“頼む”という言葉を、客室側でも使えるのが救いだ。
「で、エリン。機長が戻ってきたら……私、どうする?」
「あなたはいつも通りでいい」
エリンは言った。
「でも一つだけ。もし機長が“客室を軽く見る言い方”をしたら、笑って流さないで。軽く返して刺す。あなたのやり方で」
ペルシアが小さく笑った。
「それ、得意。私、刺すの得意」
「得意げに言わない」
「えへ」
その瞬間、ギャレーの外から、別の乗務員の声が飛んだ。
「エリンさん、次のグループ来ます」
「はい、すぐ行く」
エリンは笑顔のスイッチを入れ直した。
ペルシアも同じように表情を整える。
客室は舞台だ。
でも舞台の裏では、命が動いている。
エリンの中に、冷たい確信が残っていた。
――機長が戻るまで、客室は崩さない。
そして戻った時、彼が何を優先した人間なのか、目を逸らさずに見る。
“英雄”かどうかじゃない。
“現場の人間”かどうかだ。
ーーーー
整備区画の空気は、最後まで落ち着かなかった。
工具の乾いた音、作業員の短い指示、締結トルクの読み上げ、チェックシートの紙が擦れる音――それらが重なって、時間そのものが金属に擦られているみたいに感じる。
姿勢制御ユニットの交換作業は、工程だけ見れば単純だ。
けれど“単純”ほど怖い。
単純だからこそ、どこか一つの見落としが致命的になる。
最後の封印確認が終わり、整備士が端末に最終署名を入れた瞬間、張り詰めていた空気がふっと緩んだ。
作業灯の光が同じなのに、明るく感じる。
リュウジは手袋を外し、工具の油をウェスで拭ってから、整備士の前に立った。
呼吸を整える余裕もないはずなのに、彼はきちんと姿勢を正す。
「……わがまま言ってすみませんでした」
リュウジは深く頭を下げた。
整備士が一瞬だけ目を瞬かせる。機長が、こういう場で頭を下げることに慣れていない顔だ。
「い、いえ……」
整備士は照れたように咳払いして、続けた。
「時間ギリギリですけど、交換できて良かったです」
その言い方が、現場の人間の言い方だった。
“間に合わせた”ではなく、“できて良かった”。
成功の評価より先に、胸を撫で下ろす言葉が出る。
もう一人、作業に入っていた整備スタッフが口を挟む。
「……私達も、これで一抹の不安はなくなりました」
その一言に、リュウジは顔を上げた。
“私達も”――そこに、同じ船に乗る人間としての意識が混ざっている。
リュウジは短く頷き、まっすぐ言った。
「ありがとうございます」
それから、もう一度だけ整備士に視線を向ける。
「……本当に助かりました。安全のために、必要な判断でした」
整備士は、ふっと笑う。
「機長がそう言ってくれるなら、現場も報われます」
リュウジは返事をしなかった。
しなかったというより、返す言葉を探さなかった。
代わりに、もう一度だけ小さく頭を下げた。
その姿を、少し離れたところで見ていたタツヤは、のらりとした顔のまま、心の中で小さく息を吐く。
(……やっぱり、変なやつだな)
変、というのは悪口じゃない。
この会社で“珍しい種類”だという意味だ。
上は、こういう種類を嫌う。
上は、こういう種類を利用する。
タツヤはそれを知っている。
だからこそ、守り方を考えなければならない――そう思いながら、操縦区画へ急いだ。
⸻
客室ではすでに誘導が終わり、通路は静かになっていた。
席に着いた政財界の大物たちは、雑誌をめくるでもなく、隣と談笑するでもなく、それぞれが“何かを待っている”顔をしている。
待っているのは出発ではない。
“予定通りに動くこと”だ。
エリンはギャレーで最終チェックを終え、インカムに指を当てた。
無線は全乗務員に聞こえる回線。だから、言葉はいつも以上に整える。
「機長、こちら準備整いました」
返事はすぐに返ってきた。
『了解。――もう少しだけ待ってて』
タツヤの声。
エリンの胸の奥が、また冷える。
さっきの無線で“機長が席を外している”と聞いている乗務員は、全員が同じように胸を冷やしているはずだ。
なのに、今また“待ってて”が来た。
エリンは声の形を崩さず、確認する。
「……タツヤ班長、承知しました。待機理由は?」
問い方は“業務”。
責める音は入れない。入れたら、回線の向こうで空気が割れる。
『スタッフルームでペルシアが、まだ戻って来てないんだ』
その言葉が耳に入った瞬間、エリンの眉がわずかに動いた。
動いたのは一瞬。すぐに戻す。だが、心の中は戻らない。
(……ペルシア?)
エリンは無線を切り、すぐ横を見る。
スタッフルームの入口――そこに、ペルシアがいた。普通に、腕を組んで立っている。
「……いるわよ」
エリンの口から、思わず低い声が漏れた。
「ありえない……」
言葉にした瞬間、胃の辺りが重くなる。
“ありえない”のはペルシアが戻っていないという情報じゃない。
“操縦室が、客室の状態を正確に掴めていない”という事実だ。
それは、初フライトだとかそういう問題じゃない。
安全運用の根幹の問題だ。
ペルシアが、エリンの横にぴたりと寄ってきた。
顔を覗き込むようにして、小声で言う。
「ねえ、エリン」
「なに」
「……顔、怖いって」
エリンは一拍置いて、ようやく自分の表情筋が固まっていることに気づいた。
作った笑顔ではない。
怒りが“固めた顔”だ。
「怖くない」
「怖いよ。私、怒られるときの班長より怖い」
「それは言い過ぎ」
「言い過ぎじゃない。今のエリン、目が“現場”」
ペルシアは冗談めかして言いながら、視線だけは真面目だ。
彼女も分かっている。今の状況が、冗談で流せないやつだということを。
エリンは声を落とす。無線回線ではない場所で、言葉を短く切る。
「ペルシア、あなたここにいる」
「いるよ。ずっといたよ。さっきから、“客室の空気”聞いてた」
「なら、なぜ操縦室は“戻ってない”って言うの」
ペルシアが肩をすくめる。
「知らない。……でも、班長がそんなミスする?」
「タツヤ班長ならしない」
エリンは即答した。
だから余計に不安が増える。
「じゃあ、機長が把握してない」
ペルシアの声が低くなる。
エリンは頷いた。
「そう。連絡系統が乱れてる。今は離陸直前。いちばんやっちゃいけない」
ペルシアが唇を噛む。
「……機長、まだ戻ってないの?」
エリンは一瞬だけ視線を操縦室側の通路へ向けた。
返ってくる足音は、まだない。
「戻ってない。タツヤ班長が“待ってて”って言った」
「……うわ」
ペルシアが小さく呻く。
政財界の大物を座らせたまま待たせるのは、単なる遅延じゃない。
“演出の破綻”だ。
上が好きな絵が、崩れる。
そしてそれは、現場に圧をかける。
エリンは息を吸って、吐いた。
怒りと不安の間で、判断だけを残す。
「ペルシア。あなた、ここにいるってことを“正式に”入れて」
「無線?」
「ううん。客室のセクション内連絡。記録が残る形で」
エリンは淡々と言う。
「“戻ってない”って情報が流れてるなら、訂正しないと。乗務員が変に動く。変に動けば客が気づく」
ペルシアが頷く。
「了解。私、今すぐ入れる」
ペルシアが端末に手を伸ばしかけた時、エリンが一言付け足す。
「あと――」
「ん?」
「次に無線を入れる時、私が言う。あなたは黙ってて」
ペルシアが目を丸くする。
「え、なんで」
「回線が全員に聞こえる」
エリンは短く答える。
「私が言うなら、業務として整えられる。あなたが言うと、刺さる」
「刺すの得意だから?」
「得意げに言わない」
ペルシアが小さく笑って、でもすぐ真面目に戻った。
「分かった。任せる」
エリンはインカムに指を当てた。
今度は、ただの“準備完了”では足りない。
操縦室が客室を正しく把握していない――その兆候が出た以上、確認を取らないと危険だ。
エリンは声を整え、無線を入れる。
「タツヤ班長、こちら客室。確認です。副パーサーのペルシアは、現在スタッフルーム付近で待機中。客室は最終配置完了しています。離陸までの手順、次の指示をお願いします」
言い方は淡々と、事実だけ。
責めない。だが、逃げ道も与えない。
“確認”の形で、操縦室に現実を突き付ける。
無線の向こうで、短い沈黙が落ちた。
その沈黙が、客室の全員の神経をさらに細くする。
そして――ようやく返事が来る。
『……了解。こっちの情報がズレてた。助かった』
タツヤの声は、いつもののらりくらりに戻りかけていた。
でも“助かった”の一言だけは本物だ。
班長が、現場の危うさを理解している証拠。
『今、機長が戻る。戻り次第、離陸手順に入る。客室はそのまま保持。頼む』
「承知しました」
エリンは短く答え、無線を切った。
ペルシアが息を吐く。
「……エリン、今の言い方、班長みたい」
「必要な言い方」
「うん。必要だった」
エリンは視線を客室に走らせた。
座る大物たちは、表情を崩していない。
けれど、“待たされている”ことは分かっている。
分かっているのに、言わない。
それが一番怖い。
エリンは小さく呟いた。
「……戻ってきて」
誰に向けた言葉か、自分でも分からない。
リュウジにか。タツヤにか。班にか。
あるいは、このフライトそのものにか。
ペルシアが横から囁く。
「ねえ、エリン」
「なに」
「もし戻ってきた機長が、何も気にしてない顔してたら……どうする?」
エリンは、迷わず言った。
「その時は――“客室は道具じゃない”って、行動で教える」
ペルシアが小さく笑った。
「怖いって」
「怖くない。現場」
その瞬間、操縦室側の通路から、ようやく足音が聞こえた。
金属床を踏む、速い足音。
遅れてきた“機長”の気配。
客室の空気が、ぴんと張り詰めた。