比較の運航が終わった瞬間、ペルシアの中で張り詰めていた糸が、ぷつんと切れたわけじゃない。
――ほどけた。
じわじわと、熱が抜けていく感じ。
怒りも、焦りも、呆れも、全部ひっくるめて「終わった……」と肺の奥から息が出た。
そして次の瞬間、ペルシアは掌を鳴らした。
「よし! 飲みに行こう! 今日は祝杯よ!」
その一声が、場の空気を軽くした。
カイエが「その発想の切り替え、ほんと早いですね……」と呆れ半分に言い、ククルは「でも、行きたいです!」と乗って、リュウジは「……行くか」と短く頷いた。
四人は木星コロニーの繁華区にある居酒屋へ移動した。
賑やかな暖簾の下、引き戸を開けると、香ばしい焼き物の匂いと、人の笑い声と、グラスが触れ合う音が一気に流れ込んでくる。
「いらっしゃいませー!」
店員の声に、ペルシアが片手を上げる。
「四人! 奥の方、できれば静かめの席で!」
通されたのは、少し仕切りのある半個室。木の壁が音を柔らかくして、照明は程よく暗い。
“宙の上の緊張”から“地上のゆるさ”へ、切り替えるにはちょうどいい場所だった。
「とりあえず、生!」
ペルシアが即答して、メニューすら開かない。
「私は……すみません、オレンジジュースで」
ククルが控えめに言う。
「私もジュースで」
カイエが続く。
「……俺も」
リュウジが短く言った。
ビールが来た瞬間、ペルシアはもう待てない。
ジョッキを掴み、喉を鳴らして、ゴクゴクと吸い込んでいく。
泡が唇につき、肩が落ちて、目が少し潤む。
「あーーー……生き返る」
ペルシアが言うと、カイエがじとっとした目を向けた。
「さっきまで“現場の神”みたいな顔してた人とは思えませんね」
「神だって水分補給は必要でしょ?」
「それ神じゃなくてただの人間です」
「うるさいわね、褒めていいのよ」
ククルがくすっと笑って、ストローでジュースを混ぜた。
料理が並ぶ。枝豆、唐揚げ、焼き鳥、だし巻き。
油の匂いが、やっと“生身”に戻ってきた感じがした。
ペルシアは一杯目の半分くらいまで飲んだところで、ふと首を傾げた。
「あれ? エリンは?」
ククルがぴしっと姿勢を正す。
「エリンさんは、十班のチーフパーサーの代わりに報告書を書いてから来るそうです」
その言葉に、ペルシアは一瞬、ジョッキを止める。
次の瞬間、目を細めて笑った。
「真面目よねぇ……」
そして迷いなく手を上げる。
「すみませーん! ビールおかわり!」
カイエがため息をつく。
「……報告書書いてる間に、こっちはニ杯目に突入しそうですね」
「いいじゃない。来たら飲ませれば」
「それ、もはや罰ゲームですよ」
リュウジは黙って枝豆をつまんでいたが、どこか落ち着かない様子で時計を一度だけ見た。
その小さな仕草を、ペルシアは見逃さない。
にやり。
「ふぅん」
「……何だ」
リュウジが低く言う。
「いーや? 別に?」
わざとらしく言って、ペルシアはビールを一口。
泡を舌でぺろりと拭ってから、背もたれに寄りかかった。
少し酔いが回ると、人は普段言わないことを言い出す。
ペルシアも例外じゃない。
店内のざわめきが、遠くなる。
グラスの水滴が、ゆっくり落ちる音まで聞こえそうな瞬間があった。
「……ねぇ」
ペルシアが言った。
カイエが顔を上げる。
「はい?」
「今日さ。……エリン、やばくなかった?」
ククルの目がぱっと輝く。
「やばかったです!」
カイエも頷く。
「やばかったですね」
リュウジは一拍遅れて「……ああ」とだけ言う。
ペルシアはジョッキを持ったまま、少しだけ視線を落とす。
いつもみたいに軽口を叩いていない。
それが、逆に場を静かにした。
「……あの人さ」
ペルシアがぽつりと言う。
「優しいじゃない」
カイエが「はい」と短く返す。
「でも優しいって、ただ甘いってことじゃないのよ」
ペルシアは眉を寄せた。
「優しいのに、冷たいとこ冷たいの。必要なとこで、容赦なく線を引く。で、線を引いた瞬間に、全員“あ、これは従わなきゃ”ってなる」
ククルが小さく頷く。
「空気が……変わります」
「そう。空気を変えるの」
ペルシアは指でテーブルを軽く叩いた。
「叫ばないのに、怒鳴らないのに、怖い。……怖いのに、嫌じゃない」
カイエが少しだけ笑う。
「矛盾してますね」
「矛盾じゃない。あれは“信頼”よ」
ペルシアは言い切った。
「だってさ。怒られるのって、見捨てられてないってことじゃない? あの人、叱る時もちゃんと見てる。見てる上で、叱る。だから刺さる」
ククルが両手を膝の上で握った。
「私……エリンさんに怒られると、すごく落ち込みますけど……同時に、次頑張りたいって思えます」
「でしょ?」
ペルシアはククルに笑ってみせる。
でもその笑い方が、いつものからかいじゃない。
どこか、守るような笑い方だった。
「今日だってさ」
ペルシアが続ける。
「チーフ倒れた瞬間、ガーネットの顔、完全に固まっだと思うの」
カイエが頷く。
「あの瞬間、現場って簡単に崩れます」
「そう。崩れるの」
ペルシアはジョッキを置いた。
普段なら置かない。飲みながら喋るのに。
「でもエリンはさ……崩れる前に、手を突っ込んで、骨組みを支えたみたいな感じだった」
ククルが息を呑む。
「骨組み……」
「うん。たぶん、私が同じ立場なら――まず怒る」
ペルシアは自嘲気味に笑う。
「“何やってんのよ!”って。
でもエリンは違う。怒りそうな場面ほど、逆に“やるべき順番”を守るの」
カイエが静かに言った。
「順番を守る人は、強いです」
「そうなのよ」
ペルシアはカイエの言葉に頷いて、少しだけ声を落とす。
「しかもさ……」
ペルシアは言葉を探すように、視線を宙に彷徨わせた。
「ガーネットに、“その後の対応は見事”って言ったでしょ」
ククルが「はい……!」と頷く。
「普通なら、あんなの言わない。言いたくない。
でもあの一言で、ガーネットの“逃げ道”じゃなくて“立ち直り方”を作った」
カイエが小さく息を吐く。
「敵を作らないんじゃなくて……敵を減らす」
「そう、そうそれ」
ペルシアが指を立てる。
「しかも本人、狙ってやってる感じがないのよ。
あれが“自然”なの。怖いでしょ」
リュウジが、珍しく口を開いた。
「……自然にできるから、強い」
短い言葉。
だけど、その一言が重かった。
ペルシアはリュウジを見て、ほんの少しだけ笑う。
「アンタがそれ言うの、説得力あるわね」
リュウジは返事をしない。
ジュースのグラスを指で回すだけ。
ペルシアはもう一度ジョッキを持ち上げ、今度はゆっくり飲んだ。
酔いの熱が胸の辺りを温める。
「……私さ」
ペルシアがぽつりと言う。
カイエとククルが見る。
リュウジも、ほんの少しだけ視線を向けた。
「エリンに、嫉妬してた時期あるのよ」
ククルが目を丸くする。
「えっ」
「あるある。だってさ、チーフの器っていうか……“安心させる力”が違うんだもん」
ペルシアは苦笑して、髪をかき上げた。
「私はさ、空気を読める。聞こえる。見える。
でもそれって、見えたものに反応しちゃうってことでもあるでしょ?」
カイエがうなずく。
「はい」
「だから私、刺しに行くのよ。ズバッと。
悪い癖だって分かってる。止めようとも思う。
でも止めると、今度は“守れない”気がしてさ」
ペルシアは笑いながら、少しだけ目が潤む。
酔いのせいにしてもいい程度の、薄い潤み。
「エリンは違う。刺さない。
“整える”の。
刺すんじゃなくて、形を戻す。
で、戻した後に、必要なところだけちくっと刺す」
ククルが小さく言った。
「……痛いけど、納得できます」
「そう、それ!」
ペルシアがククルの言葉に指を鳴らした。
「痛いけど、納得できるのよ。
納得できるから、悔しいのよ。
悔しいけど、好きなのよ。
……あーもう、めんどくさい!」
ペルシアは自分で自分に腹を立てたように笑って、ビールを一口。
カイエがふっと表情を柔らかくする。
「ペルシアさんがそこまで言うの、珍しいですね」
「うるさいわよ。今日は祝杯なの。
祝杯ってのは、正直になる日なの」
ペルシアは鼻を鳴らす。
「ていうか、エリンの“すごさ”って、別に特別な技術じゃないのよね。
誰でもできそうに見える。
でも誰もできない」
その言葉に、場が静かになった。
リュウジが、低い声で言う。
「……できそうに見えるのが、一番難しい」
ペルシアはそれを聞いて、少しだけ嬉しそうに笑った。
「ね。アンタ、たまに良いこと言う」
「……たまに、は余計だ」
「はいはい、自分で言うな」
ククルがくすくす笑う。
その時、個室の引き戸が、すっと開いた。
「遅くなってごめんね」
聞き慣れた声。
エリンが立っていた。
いつものように背筋はまっすぐで、髪は乱れていない。
でも目の奥に、今日の疲れがちゃんと残っている。
「お疲れ様です、エリンさん」
ククルが立ち上がりかける。
「座ってていいわよ」
エリンが穏やかに言って、席に着く。
ペルシアは一瞬、言葉が止まった。
さっきまで散々、本音で褒めていたのに。
本人が来た途端、照れが先に立つ。
「……遅かったじゃない」
ペルシアがぶっきらぼうに言う。
「報告書がね。あのチーフの代わりは、さすがに一枚じゃ済まないわ」
エリンが苦笑する。
「真面目よねぇ」
ペルシアが言った、その声はさっきより少しだけ優しい。
エリンがペルシアを見て、目を細めた。
「……何? その顔。何かあった?」
「別に」
「嘘」
エリンが即座に言う。
ペルシアはむっとして、ジョッキをぐいっと飲んだ。
泡が唇につく。
そして――観念したみたいに、息を吐く。
「……エリン」
「なに」
「今日、すごかった」
ペルシアの言葉は短い。
でも、それがペルシアの“本音の出し方”だった。
エリンが少し驚いた顔をして、それから柔らかく笑う。
「ありがとう。でも、みんなのおかげよ」
「そういうとこが、ムカつく」
「褒めてる?」
「褒めてる」
ペルシアがそう言った瞬間、カイエが小さく笑い、ククルは嬉しそうに頷いた。
リュウジは何も言わないが、肩の力が少し抜けたように見えた。
エリンはペルシアのジョッキを見て、軽く眉を上げる。
「……祝杯はいいけど、飲みすぎないでね」
「分かってるってば」
「返事」
「……はい」
ペルシアの返事に、全員が笑った。
祝杯は、まだ始まったばかりだった。
ーーーー
次の日。
木星コロニーの朝は、いつだって“予定通り”に始まるようでいて、実際はそうでもない。
昨日の比較運航の余波が、まだ床の下に残っている。足を置くたび、ほんの少しだけ沈むような感覚がした。
十四班の事務室では、エリンがすでに端末を開き、簡潔にまとめた報告をタツヤに上げていた。
書類の文面は淡々としているのに、行間からは“現場”の温度が滲んでいる。
「タツヤ班長、昨日の件、こちらが概要になります。比較は中止にしました。チーフパーサーの負傷が発生した以上、継続はリスクが大きいと判断しました」
エリンはタツヤ班長に対して、いつものようにきっちり敬語だ。
言い訳も、媚びもない。結論を先に置き、必要な背景だけを添える。
タツヤはそれを読みながら、口の端を引き上げるでもなく、ただ大きく息を吐いた。
「……よくやった」
その一言が、妙に重い。
褒め言葉なのに、同時に“疲労の塊”みたいな声だった。
「ありがとうございます」
「いや、マジで。比較を続けてたら、怪我人が増える。客も荒れる。最悪、事故が起きる。お前の判断は正しいよ」
タツヤはそう言ってから、椅子の背にもたれ、天井を仰いだ。
「……ていうか、比較とか俺、嫌いなんだよな。本来。現場は競技じゃないしね」
「はい。私も同意です」
エリンは頷いて、続ける。
「ただ……今回に限っては、十班の体制の問題が浮き彫りになりました。報告書にも記載しましたが、今後、同様の便が出る可能性があります。安全とサービスの観点から、上に伝える必要はあると思います」
「うん、そこは正しい。……正しいんだけどさ」
タツヤの声が、少しだけ渋くなる。
「正しいことが、いつも守られるとは限らないんだよなぁ……」
エリンは言葉を止めた。
その“苦さ”を、分かっているからだ。
同じ頃。
リュウジはトレーニングに赴いていた。
操縦シミュレーターの中で、昨日の揺れを思い出すように、機体の癖を読み直す。
あの古い機体の揺れは、ただの“老朽化”じゃない。整備、負荷、航路、姿勢制御の癖――要素はいくつも重なる。
それを一つずつほどいて、次はもっと早く、もっと静かに抑え込む。
彼の中では“勝ち負け”ではなく、“次の現場で誰も怪我をしないこと”だけが目的だった。
そして――。
ペルシアは、いつものように仕事をサボっていた。
いや、本人に言わせれば“戦略的休憩”だ。
事務室に顔だけ出して、挨拶だけして、端末を机に置いて――すぐ消える。
そして今、彼女はドーナツ屋のカウンター席で、砂糖の香りに包まれていた。
「はぁ……天国」
紙袋を覗き込んで、ペルシアは満足げに笑う。
チョコスプレー。シナモン。ハニーグレーズ。
昨日あれだけギリギリで神経を張り続けたのだから、糖分補給は必要だ。これは正義。
彼女の前にはコーヒーが置かれている。
ブラック――ではない。砂糖もミルクも入っている。
“甘い”のはドーナツだけでいいなんて、ペルシアは言わない。
そして彼女は、そのまま“戻るタイミング”を失った。
「……ま、いっか。今日くらい」
言い訳のように呟いて、ドーナツを齧った、その時。
端末が震えた。
通知ではない。呼び出し――ではない。
“違和感”が、音にならない音として耳に触れた。
ペルシアは顔を上げる。
ドーナツ屋の中は穏やかだ。笑い声も、紙袋の擦れる音も、コーヒーミルの機械音も、全部いつも通り。
なのに、彼女の耳が拾ったのは、その外側――コロニーの通路を走る足音。慌てた呼吸。衣擦れ。
「……来るな」
そう思った直後、入口のベルが鳴り、誰かが飛び込んできた。
ミラだった。
十班の若い乗務員。会議室でお茶を持ってきた、あの新人。
ミラは店内を見回し、ペルシアを見つけた瞬間、顔をぱっと明るくしたが――すぐに、泣きそうな表情に変わる。
「……っ、ペルシアさん!」
「やっぱ来た」
ペルシアはドーナツを置き、ため息をつきながら立ち上がった。
「どした、ミラ。そんなに慌てて」
「大変です……!」
「分かった分かった、落ち着いて。ここ、砂糖の匂いで余計に息上がるから」
ペルシアはミラの背中をぽんぽんと叩いて、呼吸のリズムを整えさせる。
その手つきは雑に見えて、ちゃんと“落ち着かせる場所”を押さえている。
「ほら、歩きながら聞く。こっち、持って」
ペルシアはミラの手から紙の資料束を受け取り、会計を済ませると店を出た。
ドーナツの紙袋は、しっかり抱えている。そこは譲らない。
◇◇◇◇
扉がノックされた。
「失礼します」
入ってきたのは、ガーネットだった。
十班の副パーサー。昨日、Dブロックでエリンの指示を受け、渋々ながらも動いた女。
タツヤの眉がわずかに上がる。
「お前がここに来るってことは……何かあるな」
ガーネットは一度、唇を噛んだ。
迷いがある。しかし逃げるつもりはない。そういう顔だった。
「……話があります。十班の件です」
エリンが椅子から立ち上がり、丁寧に会釈する。
「忙しいところありがとう。どうしたの?」
ガーネットは視線を泳がせてから、腹を括ったように言う。
「昨日のフライト……チーフパーサーが、役員に報告したみたいです」
空気が、ほんの少しだけ凍った。
タツヤは反射で鼻の奥を押さえた。
“ああ、来たか”という種類の頭痛だ。
「……やっぱりな」
エリンは表情を崩さない。だが、目が少しだけ細くなる。
これは怒りではなく、警戒の目だった。
「内容は、分かる?」
ガーネットは頷いた。
「全部は……でも、だいたい」
そして、言葉を選ぶように続ける。
「チーフパーサーは怪我を負いました。エリンさんに代わったのですが……それが、プライドを傷つけたみたいでして」
「それで何のプライドが傷つくんだよ」
タツヤの声が、低くなる。
怒鳴っていない。だから余計に怖い。
ガーネットは一瞬ひるんだが、言うべきことを言う。
「……エリンさんの対応が完璧で。VIP客からエリンさんの評判が上がっているそうです。それが、チーフパーサーの家にも届いたみたいでして」
エリンが、ついに息を吐いた。
「……呆れて何も言えないわ」
普段の彼女なら、ここまで感情を言葉にしない。
それほど、その報告は“現場”を踏みにじる匂いが強かった。
ガーネットは視線を落としながらも、続ける。
ここで止めれば、言いに来た意味がなくなる。
「ある事、ない事を役員に言って、エリンさんに処罰を考えているみたいです」
タツヤのこめかみが微かに動いた。
怒りが頭の中で“形”になっていくのが分かる。
「……処罰?」
タツヤが聞き返す。
「はい。最悪の場合は解雇。若しくは十四班から外して、どこか子会社に異動になるかもしれません」
その言葉を受け止めるように、エリンは一度だけ目を伏せた。
驚いてはいない。覚悟していた“最悪”が言語化された、それだけだ。
タツヤは天井を見上げた。
怒りを吐き出す前に、冷静さを拾い集める癖がある。
今ここで怒鳴っても、状況は改善しないと分かっているからだ。
数秒の沈黙のあと、エリンが口を開く。
「……教えてくれてありがとう」
その声は穏やかだった。
穏やかすぎて、ガーネットの方が目を丸くする。
「ガーネットが教えてくれるなんて、思いもしなかったけど」
エリンが小さく笑みを浮かべる。
その笑みは強がりではなく、本当に“ありがとう”の笑みだった。
ガーネットの耳まで赤くなる。
彼女は照れを隠すように、少しだけ顎を上げて言い返した。
「……私にだって、人を見る目はあるんです」
恥ずかしさを誤魔化すような言い方。
でも、その言葉は不器用な“誠意”だった。
タツヤがようやく視線を戻し、ガーネットを真っ直ぐに見る。
「知らせてくれて助かった。これ、マジで助かる」
「……いえ」
ガーネットは小さく頷いた。
エリンは静かに端末を閉じる。
そして、いつものように“次”へ視線を向けた。
「班長、私からも整理した報告を上げます。事実関係と、判断の根拠と、乗客への影響。客観的に」
「頼む。……俺も動く」
タツヤの声には、もう迷いがなかった。
“十四班のメンツ”のためではない。
現場が正しくあるために、動く声だ。
エリンが、ガーネットへ向けてもう一度だけ会釈する。
「ガーネット、本当にありがとう。今の話、十班の中であなたが不利にならないよう、こちらも配慮する」
ガーネットは目を伏せ、短く答えた。
「……そんなの、別に」
別に――と言いながら、彼女の指先はまだ少し震えていた。
怖くないわけがない。相手は“役員”で、さらに“家”と繋がっている。
それでも言いに来た。彼女なりの線を越えたのだ。
タツヤが椅子から立ち上がり、低い声で告げる。
「よし。エリン、まずは事実を固める。俺は上の動きを先回りして読む。……こっちは、現場の正しさで殴る」
エリンは頷いた。
「はい。タツヤ班長、よろしくお願いします」
その言葉は敬語で、でもどこか“仲間”の響きがあった。
ーーーー
とりあえず、チーフパーサーの件は――タツヤとエリンの胸の内にしまっていた。
今は「余計な波紋を広げない」が正解だと、二人とも分かっている。リュウジに知らせれば、あの人は正面から殴りに行く。しかも、殴るべき相手が“役員”であっても、躊躇しない。そうなれば十四班そのものが潰されかねない。
だからこそ、言わない。
守るために、黙る。
――そこへ、リュウジが戻ってきた。
扉が開く音。足音。室内の空気が一瞬だけ変わる。
リュウジはその変化に気づく。気づくが、掴まない。掴まないという選択を、あえてする。
“いつもと違う”と感じたとき、彼は焦って答えを取りに行かない。
まずは状況を観察する。相手が言いたいなら、いつか言う。
それまで自分がすべきことをする――それが、彼の“現場”の癖だった。
リュウジは静かに自席へ戻り、端末を開き、作業を再開した。
エリンはそれを横目で見送りながら、心の奥で小さく息を吐く。いまのリュウジは、余計な刺激を受けないほうがいい。今日は特に。
そして――事務所の扉が、もう一度開いた。
「ただいま〜」
紙袋を抱えたペルシアが、いつも通りの声を投げて入ってくる。
袋の中身は分かりやすい。甘い匂いがふわっと漂った。ドーナツだ。
エリンはすぐに反応する。
「ペルシア、またサボってたでしょ」
「サボりじゃないよ。戦略的、休憩よ」
ペルシアは悪びれもせず、笑みを浮かべた。
いつもなら、その笑みには“余裕”がある。いたずらが成功した子どもみたいな、跳ねる光がある。
でも今日は、違った。
笑っているのに、眼の奥が乾いている。
軽口を叩いているのに、声の芯が硬い。
まるで“いつもの自分”を、上から被せているみたいな――そんな違和感。
エリンは一瞬、言葉を失った。
「……そ、そう」
たったそれだけ。
追及しない。責めない。
エリンの直感が「ここで突いたら壊れる」と告げていた。
ペルシアは紙袋を机の上に置き、適当に一つ取り出してひょいと投げる。
「ほら。今日も頑張る子たちに、糖分の恵み」
ククルが受け取って目を輝かせる。
「わぁ……ありがとうございます!」
エマは嬉しそうに手を伸ばす。
「幸せです〜!」
カイエも一つ手に取り、ペルシアに小さく頷いた。
「……助かります」
ペルシアはニヤッとする。
「でしょ? 分かってるじゃん、カイエ」
そのまま彼女は自席に座り、淡々と仕事をこなし始めた。
淡々と、というのが不気味だった。
もちろん、席を外す。少しして戻ってくる。軽口も叩く。笑い声も上がる。
いつも通りの“動き”だけが続く。
けれど、背中が――やけに遠い。
エリンはその背中を見つめた。
リュウジもまた、横目で追っていた。目が合うことはない。だが、二人とも同じものを見ている。
笑っているのに、笑っていない。
元気そうに見えるのに、どこか“しぼんで”いる。
ペルシアの耳は、嫌なものを拾いすぎる。
拾いすぎて、吐き出す場所がないとき、彼女は酒を飲む。
そして、今日の彼女は――酒ですら足りないような顔をしていた。
業務が進み、端末の通知音とキーボードの音だけが事務所を満たす。
タツヤは普段通り、資料を確認し、指示を出し、冗談を挟む。
“普段通り”を演じるのが上手い。班長とはそういう仕事だ。
エリンも普段通りに振る舞う。
優しく、厳しく、必要なことだけを言う。
リュウジも普段通りに黙々と働く。
十四班の空気は整っている。整っているのに――中心が微妙に軋んでいる。
そして夕方。
業務終了のチャイムが鳴った。
ペルシアは椅子を引いて立ち上がる。
その動きは軽い。軽すぎる。
「じゃあお先〜」
ひらひらと手を振りながら出口へ向かう。
「ペルシア〜、昨日の報告書がまだ出てないよ〜」
タツヤの声は、からかい半分。
いつもならペルシアは「今から書く〜」と大袈裟に嘆いて、皆が笑って終わる。
だが今日は、ペルシアは笑いながらも、少しだけ冷たい。
「タツヤ班長、業務時間外」
軽く言う。
それは“冗談”の形をしている。
でも、ほんの少しだけ棘が混ざっていた。
「……明日には出してよ」
タツヤも深追いしない。今日は、深追いしてはいけない空気だと分かっている。
「はーい」
いつも通りの返事。
いつも通りの声。
それでも、背中はやっぱり遠かった。
「お疲れ様〜」
「お疲れ様〜」
ペルシアは事務所を去っていく。
扉が閉まる音が、妙に大きく聞こえた。
――その後。
リュウジが静かに端末を閉じる。
エリンも書類をまとめる。
タツヤは二人の様子を一瞥して、何も言わない。言わないことが、今の最善だと理解している。
会社を出て、エレベーターで一階まで降り、外に出た。
夕暮れの空気が冷たい。
それでもコロニーの灯りは、いつもと同じように眩しい。
その時――背後から声が響いた。
「ペルシア!」
同じタイミングで、もう一つ。
「ペルシア!」
振り返ったペルシアは、先にエリンを見て、次にリュウジを見る。
そして、二人が同時に口を開いたのを見て、目を丸くした。
「……リュウジ!?」
エリンも同時に驚く。
「……エリンさん!?」
互いの声がかぶった瞬間、ペルシアは吹き出した。
「相変わらず気が合うわね〜お二人さん」
ニヤニヤしながら、肩を揺らして笑う。
ケラケラと笑い尽くして、息を整え――
「それで、どしたの?」
いつもの調子。
だが、二人の表情には笑いがない。
エリンの目は静かに、リュウジの目は真っ直ぐに、ペルシアを見ている。
ペルシアはその視線で察した。
“これは冗談じゃないやつだ”と。
笑みが、ふっと消える。
肩の力が抜ける。
そして少しだけ、寂しげな顔が覗いた。
リュウジが先に言う。
「ペルシア、今夜話せるか?」
同時にエリンも言う。
「ペルシア、今夜、話せるかしら?」
また被った。
二人は互いに目が合う。
ペルシアは一拍置いてから、腹の底から笑った。
「あははははは!」
でも、その笑いもすぐに止まる。
彼女は二人を見上げて、小さく頷いた。
「……いいわよ」
そして、なぜか当たり前みたいに言う。
「リュウジの家でいい?」
「おい」
リュウジが反射で止める。
だがペルシアの表情は、寂しげだった。
“誰かの家”じゃないとダメな顔。ひとりで帰って、ひとりで抱えたくない顔。
リュウジは一瞬だけ黙り――結局、頷いた。
「……分かった」
エリンがすかさず、いつもの“段取り”に入る。
空気を整えるのは、彼女の本能だ。
「何が食べたい?」
エリンは微笑みながら、でも目は真剣だった。
「今日は何でも作るわよ」
ペルシアは肩をすくめ、少しだけ元気なフリをする。
「ありがとう。じゃあお酒に合うおつまみ」
「分かったわ」
エリンの返事は迷いがない。
「やったー!」
ペルシアは急に明るくなって、歩き出した。
「それじゃあ、18時にリュウジの家で!」
軽く手を振り、先に行く。
その背中は、さっきより少しだけ軽い。
でも、軽さの下にはやっぱり疲れが見える。
ペルシアが角を曲がって見えなくなったところで、エリンとリュウジは再度、顔を見合わせた。
言葉は要らなかった。
“今日はちゃんと受け止める日だ”
それだけが、二人の間で共有されていた。
リュウジが小さく息を吐く。
「……何があったんだ」
エリンは答えない。
答えられないのではなく、今言うべきじゃないからだ。
ペルシアの口から、ちゃんと聞く。それが大事だと、エリンは分かっている。
だから彼女はただ、静かに言った。
「……帰って、準備しましょ」
リュウジは頷く。
「……はい。エリンさん」
その敬語の奥には、同じ覚悟があった。
今日は、いつもの冗談で済ませる夜じゃない。
笑って誤魔化してきたペルシアが、ようやく“話す”夜だ。