サヴァイヴ〜ドルトムント財閥〜   作:一塔

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組織とは

 比較の運航が終わった瞬間、ペルシアの中で張り詰めていた糸が、ぷつんと切れたわけじゃない。

 ――ほどけた。

 じわじわと、熱が抜けていく感じ。

 怒りも、焦りも、呆れも、全部ひっくるめて「終わった……」と肺の奥から息が出た。

 

 そして次の瞬間、ペルシアは掌を鳴らした。

 

「よし! 飲みに行こう! 今日は祝杯よ!」

 

 その一声が、場の空気を軽くした。

 カイエが「その発想の切り替え、ほんと早いですね……」と呆れ半分に言い、ククルは「でも、行きたいです!」と乗って、リュウジは「……行くか」と短く頷いた。

 

 四人は木星コロニーの繁華区にある居酒屋へ移動した。

 賑やかな暖簾の下、引き戸を開けると、香ばしい焼き物の匂いと、人の笑い声と、グラスが触れ合う音が一気に流れ込んでくる。

 

「いらっしゃいませー!」

 

 店員の声に、ペルシアが片手を上げる。

 

「四人! 奥の方、できれば静かめの席で!」

 

 通されたのは、少し仕切りのある半個室。木の壁が音を柔らかくして、照明は程よく暗い。

 “宙の上の緊張”から“地上のゆるさ”へ、切り替えるにはちょうどいい場所だった。

 

「とりあえず、生!」

 

 ペルシアが即答して、メニューすら開かない。

 

「私は……すみません、オレンジジュースで」

 

 ククルが控えめに言う。

 

「私もジュースで」

 

 カイエが続く。

 

「……俺も」

 

 リュウジが短く言った。

 

 ビールが来た瞬間、ペルシアはもう待てない。

 ジョッキを掴み、喉を鳴らして、ゴクゴクと吸い込んでいく。

 

 泡が唇につき、肩が落ちて、目が少し潤む。

 

「あーーー……生き返る」

 

 ペルシアが言うと、カイエがじとっとした目を向けた。

 

「さっきまで“現場の神”みたいな顔してた人とは思えませんね」

 

「神だって水分補給は必要でしょ?」

 

「それ神じゃなくてただの人間です」

 

「うるさいわね、褒めていいのよ」

 

 ククルがくすっと笑って、ストローでジュースを混ぜた。

 

 料理が並ぶ。枝豆、唐揚げ、焼き鳥、だし巻き。

 油の匂いが、やっと“生身”に戻ってきた感じがした。

 

 ペルシアは一杯目の半分くらいまで飲んだところで、ふと首を傾げた。

 

「あれ? エリンは?」

 

 ククルがぴしっと姿勢を正す。

 

「エリンさんは、十班のチーフパーサーの代わりに報告書を書いてから来るそうです」

 

 その言葉に、ペルシアは一瞬、ジョッキを止める。

 次の瞬間、目を細めて笑った。

 

「真面目よねぇ……」

 

 そして迷いなく手を上げる。

 

「すみませーん! ビールおかわり!」

 

 カイエがため息をつく。

 

「……報告書書いてる間に、こっちはニ杯目に突入しそうですね」

 

「いいじゃない。来たら飲ませれば」

 

「それ、もはや罰ゲームですよ」

 

 リュウジは黙って枝豆をつまんでいたが、どこか落ち着かない様子で時計を一度だけ見た。

 その小さな仕草を、ペルシアは見逃さない。

 

 にやり。

 

「ふぅん」

 

「……何だ」

 

 リュウジが低く言う。

 

「いーや? 別に?」

 

 わざとらしく言って、ペルシアはビールを一口。

 泡を舌でぺろりと拭ってから、背もたれに寄りかかった。

 

 少し酔いが回ると、人は普段言わないことを言い出す。

 ペルシアも例外じゃない。

 

 店内のざわめきが、遠くなる。

 グラスの水滴が、ゆっくり落ちる音まで聞こえそうな瞬間があった。

 

「……ねぇ」

 

 ペルシアが言った。

 

 カイエが顔を上げる。

 

「はい?」

 

「今日さ。……エリン、やばくなかった?」

 

 ククルの目がぱっと輝く。

 

「やばかったです!」

 

 カイエも頷く。

 

「やばかったですね」

 

 リュウジは一拍遅れて「……ああ」とだけ言う。

 

 ペルシアはジョッキを持ったまま、少しだけ視線を落とす。

 いつもみたいに軽口を叩いていない。

 それが、逆に場を静かにした。

 

「……あの人さ」

 

 ペルシアがぽつりと言う。

 

「優しいじゃない」

 

 カイエが「はい」と短く返す。

 

「でも優しいって、ただ甘いってことじゃないのよ」

 

 ペルシアは眉を寄せた。

 

「優しいのに、冷たいとこ冷たいの。必要なとこで、容赦なく線を引く。で、線を引いた瞬間に、全員“あ、これは従わなきゃ”ってなる」

 

 ククルが小さく頷く。

 

「空気が……変わります」

 

「そう。空気を変えるの」

 

 ペルシアは指でテーブルを軽く叩いた。

 

「叫ばないのに、怒鳴らないのに、怖い。……怖いのに、嫌じゃない」

 

 カイエが少しだけ笑う。

 

「矛盾してますね」

 

「矛盾じゃない。あれは“信頼”よ」

 

 ペルシアは言い切った。

 

「だってさ。怒られるのって、見捨てられてないってことじゃない? あの人、叱る時もちゃんと見てる。見てる上で、叱る。だから刺さる」

 

 ククルが両手を膝の上で握った。

 

「私……エリンさんに怒られると、すごく落ち込みますけど……同時に、次頑張りたいって思えます」

 

「でしょ?」

 

 ペルシアはククルに笑ってみせる。

 でもその笑い方が、いつものからかいじゃない。

 どこか、守るような笑い方だった。

 

「今日だってさ」

 

 ペルシアが続ける。

 

「チーフ倒れた瞬間、ガーネットの顔、完全に固まっだと思うの」

 

 カイエが頷く。

 

「あの瞬間、現場って簡単に崩れます」

 

「そう。崩れるの」

 

 ペルシアはジョッキを置いた。

 普段なら置かない。飲みながら喋るのに。

 

「でもエリンはさ……崩れる前に、手を突っ込んで、骨組みを支えたみたいな感じだった」

 

 ククルが息を呑む。

 

「骨組み……」

 

「うん。たぶん、私が同じ立場なら――まず怒る」

 

 ペルシアは自嘲気味に笑う。

 

「“何やってんのよ!”って。

 でもエリンは違う。怒りそうな場面ほど、逆に“やるべき順番”を守るの」

 

 カイエが静かに言った。

 

「順番を守る人は、強いです」

 

「そうなのよ」

 

 ペルシアはカイエの言葉に頷いて、少しだけ声を落とす。

 

「しかもさ……」

 

 ペルシアは言葉を探すように、視線を宙に彷徨わせた。

 

「ガーネットに、“その後の対応は見事”って言ったでしょ」

 

 ククルが「はい……!」と頷く。

 

「普通なら、あんなの言わない。言いたくない。

 でもあの一言で、ガーネットの“逃げ道”じゃなくて“立ち直り方”を作った」

 

 カイエが小さく息を吐く。

 

「敵を作らないんじゃなくて……敵を減らす」

 

「そう、そうそれ」

 

 ペルシアが指を立てる。

 

「しかも本人、狙ってやってる感じがないのよ。

 あれが“自然”なの。怖いでしょ」

 

 リュウジが、珍しく口を開いた。

 

「……自然にできるから、強い」

 

 短い言葉。

 だけど、その一言が重かった。

 

 ペルシアはリュウジを見て、ほんの少しだけ笑う。

 

「アンタがそれ言うの、説得力あるわね」

 

 リュウジは返事をしない。

 ジュースのグラスを指で回すだけ。

 

 ペルシアはもう一度ジョッキを持ち上げ、今度はゆっくり飲んだ。

 酔いの熱が胸の辺りを温める。

 

「……私さ」

 

 ペルシアがぽつりと言う。

 

 カイエとククルが見る。

 リュウジも、ほんの少しだけ視線を向けた。

 

「エリンに、嫉妬してた時期あるのよ」

 

 ククルが目を丸くする。

 

「えっ」

 

「あるある。だってさ、チーフの器っていうか……“安心させる力”が違うんだもん」

 

 ペルシアは苦笑して、髪をかき上げた。

 

「私はさ、空気を読める。聞こえる。見える。

 でもそれって、見えたものに反応しちゃうってことでもあるでしょ?」

 

 カイエがうなずく。

 

「はい」

 

「だから私、刺しに行くのよ。ズバッと。

 悪い癖だって分かってる。止めようとも思う。

 でも止めると、今度は“守れない”気がしてさ」

 

 ペルシアは笑いながら、少しだけ目が潤む。

 酔いのせいにしてもいい程度の、薄い潤み。

 

「エリンは違う。刺さない。

 “整える”の。

 刺すんじゃなくて、形を戻す。

 で、戻した後に、必要なところだけちくっと刺す」

 

 ククルが小さく言った。

 

「……痛いけど、納得できます」

 

「そう、それ!」

 

 ペルシアがククルの言葉に指を鳴らした。

 

「痛いけど、納得できるのよ。

 納得できるから、悔しいのよ。

 悔しいけど、好きなのよ。

 ……あーもう、めんどくさい!」

 

 ペルシアは自分で自分に腹を立てたように笑って、ビールを一口。

 

 カイエがふっと表情を柔らかくする。

 

「ペルシアさんがそこまで言うの、珍しいですね」

 

「うるさいわよ。今日は祝杯なの。

 祝杯ってのは、正直になる日なの」

 

 ペルシアは鼻を鳴らす。

 

「ていうか、エリンの“すごさ”って、別に特別な技術じゃないのよね。

 誰でもできそうに見える。

 でも誰もできない」

 

 その言葉に、場が静かになった。

 

 リュウジが、低い声で言う。

 

「……できそうに見えるのが、一番難しい」

 

 ペルシアはそれを聞いて、少しだけ嬉しそうに笑った。

 

「ね。アンタ、たまに良いこと言う」

 

「……たまに、は余計だ」

 

「はいはい、自分で言うな」

 

 ククルがくすくす笑う。

 

 その時、個室の引き戸が、すっと開いた。

 

「遅くなってごめんね」

 

 聞き慣れた声。

 

 エリンが立っていた。

 いつものように背筋はまっすぐで、髪は乱れていない。

 でも目の奥に、今日の疲れがちゃんと残っている。

 

「お疲れ様です、エリンさん」

 

 ククルが立ち上がりかける。

 

「座ってていいわよ」

 

 エリンが穏やかに言って、席に着く。

 

 ペルシアは一瞬、言葉が止まった。

 さっきまで散々、本音で褒めていたのに。

 本人が来た途端、照れが先に立つ。

 

「……遅かったじゃない」

 

 ペルシアがぶっきらぼうに言う。

 

「報告書がね。あのチーフの代わりは、さすがに一枚じゃ済まないわ」

 

 エリンが苦笑する。

 

「真面目よねぇ」

 

 ペルシアが言った、その声はさっきより少しだけ優しい。

 

 エリンがペルシアを見て、目を細めた。

 

「……何? その顔。何かあった?」

 

「別に」

 

「嘘」

 

 エリンが即座に言う。

 

 ペルシアはむっとして、ジョッキをぐいっと飲んだ。

 泡が唇につく。

 

 そして――観念したみたいに、息を吐く。

 

「……エリン」

 

「なに」

 

「今日、すごかった」

 

 ペルシアの言葉は短い。

 でも、それがペルシアの“本音の出し方”だった。

 

 エリンが少し驚いた顔をして、それから柔らかく笑う。

 

「ありがとう。でも、みんなのおかげよ」

 

「そういうとこが、ムカつく」

 

「褒めてる?」

 

「褒めてる」

 

 ペルシアがそう言った瞬間、カイエが小さく笑い、ククルは嬉しそうに頷いた。

 リュウジは何も言わないが、肩の力が少し抜けたように見えた。

 

 エリンはペルシアのジョッキを見て、軽く眉を上げる。

 

「……祝杯はいいけど、飲みすぎないでね」

 

「分かってるってば」

 

「返事」

 

「……はい」

 

 ペルシアの返事に、全員が笑った。

 

 祝杯は、まだ始まったばかりだった。

 

ーーーー

 

 次の日。

 

 木星コロニーの朝は、いつだって“予定通り”に始まるようでいて、実際はそうでもない。

 昨日の比較運航の余波が、まだ床の下に残っている。足を置くたび、ほんの少しだけ沈むような感覚がした。

 

 十四班の事務室では、エリンがすでに端末を開き、簡潔にまとめた報告をタツヤに上げていた。

 書類の文面は淡々としているのに、行間からは“現場”の温度が滲んでいる。

 

「タツヤ班長、昨日の件、こちらが概要になります。比較は中止にしました。チーフパーサーの負傷が発生した以上、継続はリスクが大きいと判断しました」

 

 エリンはタツヤ班長に対して、いつものようにきっちり敬語だ。

 言い訳も、媚びもない。結論を先に置き、必要な背景だけを添える。

 

 タツヤはそれを読みながら、口の端を引き上げるでもなく、ただ大きく息を吐いた。

 

「……よくやった」

 

 その一言が、妙に重い。

 褒め言葉なのに、同時に“疲労の塊”みたいな声だった。

 

「ありがとうございます」

 

「いや、マジで。比較を続けてたら、怪我人が増える。客も荒れる。最悪、事故が起きる。お前の判断は正しいよ」

 

 タツヤはそう言ってから、椅子の背にもたれ、天井を仰いだ。

 

「……ていうか、比較とか俺、嫌いなんだよな。本来。現場は競技じゃないしね」

 

「はい。私も同意です」

 

 エリンは頷いて、続ける。

 

「ただ……今回に限っては、十班の体制の問題が浮き彫りになりました。報告書にも記載しましたが、今後、同様の便が出る可能性があります。安全とサービスの観点から、上に伝える必要はあると思います」

 

「うん、そこは正しい。……正しいんだけどさ」

 

 タツヤの声が、少しだけ渋くなる。

 

「正しいことが、いつも守られるとは限らないんだよなぁ……」

 

 エリンは言葉を止めた。

 その“苦さ”を、分かっているからだ。

 

 同じ頃。

 

 リュウジはトレーニングに赴いていた。

 操縦シミュレーターの中で、昨日の揺れを思い出すように、機体の癖を読み直す。

 あの古い機体の揺れは、ただの“老朽化”じゃない。整備、負荷、航路、姿勢制御の癖――要素はいくつも重なる。

 それを一つずつほどいて、次はもっと早く、もっと静かに抑え込む。

 彼の中では“勝ち負け”ではなく、“次の現場で誰も怪我をしないこと”だけが目的だった。

 

 そして――。

 

 ペルシアは、いつものように仕事をサボっていた。

 

 いや、本人に言わせれば“戦略的休憩”だ。

 事務室に顔だけ出して、挨拶だけして、端末を机に置いて――すぐ消える。

 そして今、彼女はドーナツ屋のカウンター席で、砂糖の香りに包まれていた。

 

「はぁ……天国」

 

 紙袋を覗き込んで、ペルシアは満足げに笑う。

 チョコスプレー。シナモン。ハニーグレーズ。

 昨日あれだけギリギリで神経を張り続けたのだから、糖分補給は必要だ。これは正義。

 

 彼女の前にはコーヒーが置かれている。

 ブラック――ではない。砂糖もミルクも入っている。

 “甘い”のはドーナツだけでいいなんて、ペルシアは言わない。

 

 そして彼女は、そのまま“戻るタイミング”を失った。

 

「……ま、いっか。今日くらい」

 

 言い訳のように呟いて、ドーナツを齧った、その時。

 

 端末が震えた。

 通知ではない。呼び出し――ではない。

 “違和感”が、音にならない音として耳に触れた。

 

 ペルシアは顔を上げる。

 ドーナツ屋の中は穏やかだ。笑い声も、紙袋の擦れる音も、コーヒーミルの機械音も、全部いつも通り。

 なのに、彼女の耳が拾ったのは、その外側――コロニーの通路を走る足音。慌てた呼吸。衣擦れ。

 

「……来るな」

 

 そう思った直後、入口のベルが鳴り、誰かが飛び込んできた。

 

 ミラだった。

 十班の若い乗務員。会議室でお茶を持ってきた、あの新人。

 

 ミラは店内を見回し、ペルシアを見つけた瞬間、顔をぱっと明るくしたが――すぐに、泣きそうな表情に変わる。

 

「……っ、ペルシアさん!」

 

「やっぱ来た」

 

 ペルシアはドーナツを置き、ため息をつきながら立ち上がった。

 

「どした、ミラ。そんなに慌てて」

 

「大変です……!」

 

「分かった分かった、落ち着いて。ここ、砂糖の匂いで余計に息上がるから」

 

 ペルシアはミラの背中をぽんぽんと叩いて、呼吸のリズムを整えさせる。

 その手つきは雑に見えて、ちゃんと“落ち着かせる場所”を押さえている。

 

「ほら、歩きながら聞く。こっち、持って」

 

 ペルシアはミラの手から紙の資料束を受け取り、会計を済ませると店を出た。

 ドーナツの紙袋は、しっかり抱えている。そこは譲らない。

 

◇◇◇◇

 

扉がノックされた。

 

「失礼します」

 

 入ってきたのは、ガーネットだった。

 十班の副パーサー。昨日、Dブロックでエリンの指示を受け、渋々ながらも動いた女。

 

 タツヤの眉がわずかに上がる。

 

「お前がここに来るってことは……何かあるな」

 

 ガーネットは一度、唇を噛んだ。

 迷いがある。しかし逃げるつもりはない。そういう顔だった。

 

「……話があります。十班の件です」

 

 エリンが椅子から立ち上がり、丁寧に会釈する。

 

「忙しいところありがとう。どうしたの?」

 

 ガーネットは視線を泳がせてから、腹を括ったように言う。

 

「昨日のフライト……チーフパーサーが、役員に報告したみたいです」

 

 空気が、ほんの少しだけ凍った。

 

 タツヤは反射で鼻の奥を押さえた。

 “ああ、来たか”という種類の頭痛だ。

 

「……やっぱりな」

 

 エリンは表情を崩さない。だが、目が少しだけ細くなる。

 これは怒りではなく、警戒の目だった。

 

「内容は、分かる?」

 

 ガーネットは頷いた。

 

「全部は……でも、だいたい」

 

 そして、言葉を選ぶように続ける。

 

「チーフパーサーは怪我を負いました。エリンさんに代わったのですが……それが、プライドを傷つけたみたいでして」

 

「それで何のプライドが傷つくんだよ」

 

 タツヤの声が、低くなる。

 怒鳴っていない。だから余計に怖い。

 

 ガーネットは一瞬ひるんだが、言うべきことを言う。

 

「……エリンさんの対応が完璧で。VIP客からエリンさんの評判が上がっているそうです。それが、チーフパーサーの家にも届いたみたいでして」

 

 エリンが、ついに息を吐いた。

 

「……呆れて何も言えないわ」

 

 普段の彼女なら、ここまで感情を言葉にしない。

 それほど、その報告は“現場”を踏みにじる匂いが強かった。

 

 ガーネットは視線を落としながらも、続ける。

 ここで止めれば、言いに来た意味がなくなる。

 

「ある事、ない事を役員に言って、エリンさんに処罰を考えているみたいです」

 

 タツヤのこめかみが微かに動いた。

 怒りが頭の中で“形”になっていくのが分かる。

 

「……処罰?」

 

 タツヤが聞き返す。

 

「はい。最悪の場合は解雇。若しくは十四班から外して、どこか子会社に異動になるかもしれません」

 

 その言葉を受け止めるように、エリンは一度だけ目を伏せた。

 驚いてはいない。覚悟していた“最悪”が言語化された、それだけだ。

 

 タツヤは天井を見上げた。

 怒りを吐き出す前に、冷静さを拾い集める癖がある。

 今ここで怒鳴っても、状況は改善しないと分かっているからだ。

 

 数秒の沈黙のあと、エリンが口を開く。

 

「……教えてくれてありがとう」

 

 その声は穏やかだった。

 穏やかすぎて、ガーネットの方が目を丸くする。

 

「ガーネットが教えてくれるなんて、思いもしなかったけど」

 

 エリンが小さく笑みを浮かべる。

 その笑みは強がりではなく、本当に“ありがとう”の笑みだった。

 

 ガーネットの耳まで赤くなる。

 彼女は照れを隠すように、少しだけ顎を上げて言い返した。

 

「……私にだって、人を見る目はあるんです」

 

 恥ずかしさを誤魔化すような言い方。

 でも、その言葉は不器用な“誠意”だった。

 

 タツヤがようやく視線を戻し、ガーネットを真っ直ぐに見る。

 

「知らせてくれて助かった。これ、マジで助かる」

 

「……いえ」

 

 ガーネットは小さく頷いた。

 

 エリンは静かに端末を閉じる。

 そして、いつものように“次”へ視線を向けた。

 

「班長、私からも整理した報告を上げます。事実関係と、判断の根拠と、乗客への影響。客観的に」

 

「頼む。……俺も動く」

 

 タツヤの声には、もう迷いがなかった。

 “十四班のメンツ”のためではない。

 現場が正しくあるために、動く声だ。

 

 エリンが、ガーネットへ向けてもう一度だけ会釈する。

 

「ガーネット、本当にありがとう。今の話、十班の中であなたが不利にならないよう、こちらも配慮する」

 

 ガーネットは目を伏せ、短く答えた。

 

「……そんなの、別に」

 

 別に――と言いながら、彼女の指先はまだ少し震えていた。

 怖くないわけがない。相手は“役員”で、さらに“家”と繋がっている。

 それでも言いに来た。彼女なりの線を越えたのだ。

 

 タツヤが椅子から立ち上がり、低い声で告げる。

 

「よし。エリン、まずは事実を固める。俺は上の動きを先回りして読む。……こっちは、現場の正しさで殴る」

 

 エリンは頷いた。

 

「はい。タツヤ班長、よろしくお願いします」

 

 その言葉は敬語で、でもどこか“仲間”の響きがあった。

 

ーーーー

 

 とりあえず、チーフパーサーの件は――タツヤとエリンの胸の内にしまっていた。

 今は「余計な波紋を広げない」が正解だと、二人とも分かっている。リュウジに知らせれば、あの人は正面から殴りに行く。しかも、殴るべき相手が“役員”であっても、躊躇しない。そうなれば十四班そのものが潰されかねない。

 

 だからこそ、言わない。

 守るために、黙る。

 

 ――そこへ、リュウジが戻ってきた。

 

 扉が開く音。足音。室内の空気が一瞬だけ変わる。

 リュウジはその変化に気づく。気づくが、掴まない。掴まないという選択を、あえてする。

 

 “いつもと違う”と感じたとき、彼は焦って答えを取りに行かない。

 まずは状況を観察する。相手が言いたいなら、いつか言う。

 それまで自分がすべきことをする――それが、彼の“現場”の癖だった。

 

 リュウジは静かに自席へ戻り、端末を開き、作業を再開した。

 エリンはそれを横目で見送りながら、心の奥で小さく息を吐く。いまのリュウジは、余計な刺激を受けないほうがいい。今日は特に。

 

 そして――事務所の扉が、もう一度開いた。

 

「ただいま〜」

 

 紙袋を抱えたペルシアが、いつも通りの声を投げて入ってくる。

 袋の中身は分かりやすい。甘い匂いがふわっと漂った。ドーナツだ。

 

 エリンはすぐに反応する。

 

「ペルシア、またサボってたでしょ」

 

「サボりじゃないよ。戦略的、休憩よ」

 

 ペルシアは悪びれもせず、笑みを浮かべた。

 いつもなら、その笑みには“余裕”がある。いたずらが成功した子どもみたいな、跳ねる光がある。

 

 でも今日は、違った。

 

 笑っているのに、眼の奥が乾いている。

 軽口を叩いているのに、声の芯が硬い。

 まるで“いつもの自分”を、上から被せているみたいな――そんな違和感。

 

 エリンは一瞬、言葉を失った。

 

「……そ、そう」

 

 たったそれだけ。

 追及しない。責めない。

 エリンの直感が「ここで突いたら壊れる」と告げていた。

 

 ペルシアは紙袋を机の上に置き、適当に一つ取り出してひょいと投げる。

 

「ほら。今日も頑張る子たちに、糖分の恵み」

 

 ククルが受け取って目を輝かせる。

 

「わぁ……ありがとうございます!」

 

 エマは嬉しそうに手を伸ばす。

 

「幸せです〜!」

 

 カイエも一つ手に取り、ペルシアに小さく頷いた。

 

「……助かります」

 

 ペルシアはニヤッとする。

 

「でしょ? 分かってるじゃん、カイエ」

 

 そのまま彼女は自席に座り、淡々と仕事をこなし始めた。

 

 淡々と、というのが不気味だった。

 もちろん、席を外す。少しして戻ってくる。軽口も叩く。笑い声も上がる。

 いつも通りの“動き”だけが続く。

 

 けれど、背中が――やけに遠い。

 

 エリンはその背中を見つめた。

 リュウジもまた、横目で追っていた。目が合うことはない。だが、二人とも同じものを見ている。

 

 笑っているのに、笑っていない。

 元気そうに見えるのに、どこか“しぼんで”いる。

 

 ペルシアの耳は、嫌なものを拾いすぎる。

 拾いすぎて、吐き出す場所がないとき、彼女は酒を飲む。

 そして、今日の彼女は――酒ですら足りないような顔をしていた。

 

 業務が進み、端末の通知音とキーボードの音だけが事務所を満たす。

 タツヤは普段通り、資料を確認し、指示を出し、冗談を挟む。

 “普段通り”を演じるのが上手い。班長とはそういう仕事だ。

 

 エリンも普段通りに振る舞う。

 優しく、厳しく、必要なことだけを言う。

 リュウジも普段通りに黙々と働く。

 十四班の空気は整っている。整っているのに――中心が微妙に軋んでいる。

 

 そして夕方。

 業務終了のチャイムが鳴った。

 

 ペルシアは椅子を引いて立ち上がる。

 その動きは軽い。軽すぎる。

 

「じゃあお先〜」

 

 ひらひらと手を振りながら出口へ向かう。

 

「ペルシア〜、昨日の報告書がまだ出てないよ〜」

 

 タツヤの声は、からかい半分。

 いつもならペルシアは「今から書く〜」と大袈裟に嘆いて、皆が笑って終わる。

 

 だが今日は、ペルシアは笑いながらも、少しだけ冷たい。

 

「タツヤ班長、業務時間外」

 

 軽く言う。

 それは“冗談”の形をしている。

 でも、ほんの少しだけ棘が混ざっていた。

 

「……明日には出してよ」

 

 タツヤも深追いしない。今日は、深追いしてはいけない空気だと分かっている。

 

「はーい」

 

 いつも通りの返事。

 いつも通りの声。

 それでも、背中はやっぱり遠かった。

 

「お疲れ様〜」

 

「お疲れ様〜」

 

 ペルシアは事務所を去っていく。

 扉が閉まる音が、妙に大きく聞こえた。

 

 ――その後。

 

 リュウジが静かに端末を閉じる。

 エリンも書類をまとめる。

 タツヤは二人の様子を一瞥して、何も言わない。言わないことが、今の最善だと理解している。

 

 会社を出て、エレベーターで一階まで降り、外に出た。

 

 夕暮れの空気が冷たい。

 それでもコロニーの灯りは、いつもと同じように眩しい。

 

 その時――背後から声が響いた。

 

「ペルシア!」

 

 同じタイミングで、もう一つ。

 

「ペルシア!」

 

 振り返ったペルシアは、先にエリンを見て、次にリュウジを見る。

 そして、二人が同時に口を開いたのを見て、目を丸くした。

 

「……リュウジ!?」

 

 エリンも同時に驚く。

 

「……エリンさん!?」

 

 互いの声がかぶった瞬間、ペルシアは吹き出した。

 

「相変わらず気が合うわね〜お二人さん」

 

 ニヤニヤしながら、肩を揺らして笑う。

 ケラケラと笑い尽くして、息を整え――

 

「それで、どしたの?」

 

 いつもの調子。

 だが、二人の表情には笑いがない。

 エリンの目は静かに、リュウジの目は真っ直ぐに、ペルシアを見ている。

 

 ペルシアはその視線で察した。

 “これは冗談じゃないやつだ”と。

 

 笑みが、ふっと消える。

 肩の力が抜ける。

 そして少しだけ、寂しげな顔が覗いた。

 

 リュウジが先に言う。

 

「ペルシア、今夜話せるか?」

 

 同時にエリンも言う。

 

「ペルシア、今夜、話せるかしら?」

 

 また被った。

 二人は互いに目が合う。

 ペルシアは一拍置いてから、腹の底から笑った。

 

「あははははは!」

 

 でも、その笑いもすぐに止まる。

 彼女は二人を見上げて、小さく頷いた。

 

「……いいわよ」

 

 そして、なぜか当たり前みたいに言う。

 

「リュウジの家でいい?」

 

「おい」

 

 リュウジが反射で止める。

 だがペルシアの表情は、寂しげだった。

 “誰かの家”じゃないとダメな顔。ひとりで帰って、ひとりで抱えたくない顔。

 

 リュウジは一瞬だけ黙り――結局、頷いた。

 

「……分かった」

 

 エリンがすかさず、いつもの“段取り”に入る。

 空気を整えるのは、彼女の本能だ。

 

「何が食べたい?」

 

 エリンは微笑みながら、でも目は真剣だった。

 

「今日は何でも作るわよ」

 

 ペルシアは肩をすくめ、少しだけ元気なフリをする。

 

「ありがとう。じゃあお酒に合うおつまみ」

 

「分かったわ」

 

 エリンの返事は迷いがない。

 

「やったー!」

 

 ペルシアは急に明るくなって、歩き出した。

 

「それじゃあ、18時にリュウジの家で!」

 

 軽く手を振り、先に行く。

 その背中は、さっきより少しだけ軽い。

 でも、軽さの下にはやっぱり疲れが見える。

 

 ペルシアが角を曲がって見えなくなったところで、エリンとリュウジは再度、顔を見合わせた。

 

 言葉は要らなかった。

 “今日はちゃんと受け止める日だ”

 それだけが、二人の間で共有されていた。

 

 リュウジが小さく息を吐く。

 

「……何があったんだ」

 

 エリンは答えない。

 答えられないのではなく、今言うべきじゃないからだ。

 ペルシアの口から、ちゃんと聞く。それが大事だと、エリンは分かっている。

 

 だから彼女はただ、静かに言った。

 

「……帰って、準備しましょ」

 

 リュウジは頷く。

 

「……はい。エリンさん」

 

 その敬語の奥には、同じ覚悟があった。

 今日は、いつもの冗談で済ませる夜じゃない。

 笑って誤魔化してきたペルシアが、ようやく“話す”夜だ。

 

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