サヴァイヴ〜ドルトムント財閥〜   作:一塔

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約束

 リュウジの家のキッチンでは、エリンが手際よく“おつまみ”を仕上げていた。

 まな板の上には、薄く切られたチーズと生ハム。小皿にはオリーブ。フライパンではガーリックが香りを立て、別の鍋では枝豆が湯気を上げている。

 揺れのない地上の台所。それなのに、エリンの指先は無駄なく動き、音は小さく、空気だけが整っていく。

 

 リュウジはリビングでグラスを並べ、氷を作っている。

 飲む気はない。だが、彼の手は“備える”ことを止めない。そうしないと落ち着かないのだ。

 

 玄関のチャイムが鳴った。

 

 ――次の瞬間、ドアが開く。

 

「やっほー!」

 

 ペルシアが、酒瓶を肩に担ぎ、もう片方の腕に缶ビール一箱を抱えたまま、どすん、と玄関に立った。

 笑顔は派手だ。声も明るい。

 でもその目の奥は、やっぱり乾いている。

 

「ちょっと重い、リュウジ〜」

 

 ペルシアが、わざとらしく肩を落とす。

 リュウジは眉をひそめた。

 

「買いすぎだ」

 

「まぁまぁ、いいじゃない」

 

 ペルシアは軽く舌を出して笑う。

 その“いつもの”仕草に、エリンがキッチンから顔を出した。

 

「ほら、早く来なさい」

 

「うひょー!」

 

 ペルシアはリビングに入った途端、机の上に並び始めている小皿を見て声を上げた。

 胡麻油の香り、ガーリックの香り、少し甘いタレの香り。

 “頑張った人の夜”の匂いだ。

 

「ほらほら、早く座りなさい」

 

「はーい」

 

 ペルシアは素直に座り、缶ビールをプシュッと開ける。

 冷たい泡が喉を落ちる音が、やけに大きく響いた。

 

「エリンもリュウジも呑む?」

 

 ペルシアが片手を振って聞く。

 

「ダメ」

 

 エリンが即答する。

 

「だそうだ」

 

 リュウジも淡々と続ける。

 

 ペルシアは「はいはい」と肩をすくめて、またビールを飲んだ。

 一口が深い。二口が早い。

 おつまみをつまむ手が、いつもより“乱暴”だ。

 

 最初は他愛ない会話が続いた。

 今日のブリーフィングの話。十班の新人が飲み込みが早かった話。ククルが星座を教えるのが上手かった話。

 ペルシアは笑う。エリンも相槌を打つ。リュウジは短く頷く。

 

 けれど、ペルシアの飲むペースだけが、確実に上がっていく。

 まるで言葉を追い越すために酒を飲んでいるみたいに。

 

 そして、リュウジが切り込んだ。

 

「……それで、何があったんだ?」

 

 ペルシアの手が一瞬止まる。

 缶が、テーブルに小さく当たってカン、と音がした。

 

 エリンが静かに言う。

 

「隠しても無駄よ」

 

 ペルシアは笑おうとした。

 でも、笑えなかった。

 目を伏せて、缶の縁を指でなぞる。

 

「……分かった」

 

 小さく言う。

 その声は、さっきまでの軽さがない。

 

 ペルシアは息を吸い、吐いた。

 そして――今日の昼を思い出す

 

◇◇◇◇

 

 役員室へ続く廊下は、やけに静かだった。

 照明は白く、床は磨かれすぎていて、足音が必要以上に響く。人の気配はないのに、視線だけがどこかから飛んでくる気がする――そういう“上の階”の空気。

 

 ペルシアは壁際に寄り、腕を組んで待った。

 端末は胸ポケット。録音アプリは立ち上げ済み。

 心臓は早鐘のくせに、指先だけが妙に冷たい。

 

(……来る。絶対、来る)

 

 ミラの言葉が頭の中で反芻される。

 “役員に報告した”。

 “処罰”。

 “最悪、解雇か異動”。

 

 エリンの顔が浮かぶ。

 あの完璧な距離感、優しい言葉、鋭い目。

 それが、上の気分ひとつで折られる。――そんなの、許せない。

 

 コツ、コツ、コツ。

 

 高いヒールの音。

 小刻みで、迷いのないリズム。

 “私はここを歩く資格がある”という歩き方だ。

 

 角を曲がって現れたのは、十班のチーフパーサーだった。

 額にはガーゼが貼られている。白い布の端が少し浮いていて、その下の皮膚が赤く腫れているのが分かる。

 だが姿勢は崩れていない。背筋はまっすぐ。顎は上がっている。

 怪我を“弱み”に見せる女じゃない。

 

 ペルシアは、彼女の進路を塞ぐように一歩出た。

 

「待ってました」

 

 チーフパーサーの視線が、ペルシアに止まった。

 ほんの一瞬だけ驚いた顔をして――すぐに“笑顔”を作る。

 唇の端を持ち上げる、あの作り笑い。

 

「あら。何してるのかしら?」

 

 声は柔らかい。

 柔らかいほど、刺さる。

 

 ペルシアは笑わなかった。

 声も飾らない。

 

「ちょっと小耳に挟んでね。昨日のフライトの件、役員に“盛って”報告したって」

 

 チーフパーサーの眉が、わずかに動く。

 次の瞬間、肩をすくめて見せた。

 

「盛って……? 言葉が下品ね。あなたらしいわ」

 

 ペルシアは一歩近づく。距離を詰める。

 相手の香水が鼻に刺さった。甘くて、重い。

 

「下品でもいい。エリンに手を出すな」

 

 チーフパーサーは、ふっと鼻で笑った。

 

「手を出す? 何か誤解してるみたいね。私は“正当な報告”をしただけよ」

 

 ペルシアは唇を噛む。

 この女は言葉を選ぶ。選んで、刺す。

 だからこちらも、言葉を選ばない。

 

「正当? あんたが倒れたの、誰のせい?」

 

 チーフパーサーの笑みが薄くなる。

 ほんの少し、目の奥が冷える。

 

「……揺れたからよ。古い船のせい」

 

「違う」

 

 ペルシアは即答した。

 

「Dブロックに人を固めた。チーフも副パーサーも、VIPに張り付いた。だから他が崩れた。全体を見なかった。その結果だ」

 

 チーフパーサーは、わざとらしく息を吐いた。

 

「……あなた、よく喋るわね。十四班は“耳”だけじゃなく“口”も達者なの?」

 

 ペルシアの目が細くなる。

 

「うるさい。論点ずらすな」

 

 チーフパーサーは一歩、ペルシアの横をすり抜けようとした。

 ペルシアは、もう一歩出て道を塞ぐ。

 

「どいて」

 

 チーフパーサーが低い声で言う。

 柔らかさが消える。素が覗く。

 

「どかない」

 

 ペルシアも低く返した。

 鼓動が耳の奥で鳴る。

 でも、引かない。

 

 チーフパーサーは、ガーゼの貼られた額に指を当てた。

 痛みを確かめるように、そして――わざと見せつけるように。

 

「あなた達はいいわよね。正しいこと言ってれば守られると思ってる」

 

「守られると思ってない。守るために言ってる」

 

「守る? 誰を?」

 

 チーフパーサーの口角が上がる。

 

「エリンよ」

 

 ペルシアは噛みしめるように言う。

 

「……あの女、完璧だったわ」

 

 チーフパーサーの瞳が、わずかに揺れた。

 その揺れを、ペルシアは見逃さない。

 

 チーフパーサーは微笑を保ったまま、囁くように吐いた。

 

「そう。完璧だった。だから……困るのよ」

 

 ペルシアの眉が上がる。

 

「困る?」

 

 チーフパーサーは、指先でガーゼの端を撫でた。

 痛みを思い出すように、でも声音は甘い。

 

「私が“チーフ”なのに、みんなが彼女を見た。私が倒れて、彼女が指示を出して、VIPも落ち着いて、乗務員も動いた。それでね……フライトが終わってから、十班の若い子が言ったの」

 

 チーフパーサーは、声色を変えて真似た。

 可愛らしい、無邪気な声。

 

『エリンさんみたいになりたいです』

 

 ペルシアの中で、何かが切れそうになる。

 

「……それが、気に入らないの?」

 

 チーフパーサーは、にこりと笑った。

 

「気に入らないわね。とても」

 

 その言葉の軽さが、逆に本音だ。

 

「十班は、十班のままでいいのよ。勝手に“正しく”ならないでほしい、“上”に対して従順で、“下”に対して適当に優しくして、事故が起きなければそれでいい。私が今まで作ってきた空気を、あの女が壊したの。だから復讐する」

 

 ペルシアは喉の奥で唸る。

 怒りが熱になって頬が痛い。

 

「あんた、自分が何言ってるか分かってる?」

 

 チーフパーサーは肩をすくめる。

 

「分かってるわよ。だから“戻す”の」

 

「戻すためにエリンを潰すのか」

 

「潰す、は言い過ぎ。……“適材適所”に戻すだけ」

 

 “適材適所”。

 上の連中が好きな言葉。

 人を動かす時だけ“正しい顔”をする、卑怯な言葉。

 

 ペルシアの指先が震えた。

 

「……復讐って、言ったわね」

 

 チーフパーサーは少し目を細めた。

 

「ええ。恥をかかされたから」

 

 ペルシアは歯を噛みしめる。

 

「恥をかいたのは、あんたの判断の結果だろ」

 

 チーフパーサーの笑みが消える。

 目が鋭くなる。

 

「……あなた、私に説教する立場なの?」

 

 ペルシアは一歩、さらに踏み込んだ。

 声を落とす。耳を澄ませば、壁の向こうにも届くかもしれない音量で。

 

「立場なんて関係ない。エリンを処罰させない」

 

 チーフパーサーは、今度は静かに笑った。

 それは嘲りではなく――確信の笑い。

 

「無理よ」

 

 ペルシアの背中に冷たいものが走る。

 

「……何が」

 

「役員は、私の家を選ぶ」

 

 言い切った。

 そこに一点の迷いもない。

 “現実”というナイフを、躊躇なく突きつける。

 

「あなた達がどれだけ現場で頑張ろうが、VIPが何を褒めようが、関係ない。家。取引。顔。バランス、それがこの会社。……あなたも知ってるでしょ?」

 

 ペルシアは、唇を噛み、息を止めて、吐いた。

 それから――頭を下げた。

 

 深く。

 悔しさで視界が滲むほど。

 

「……私が辞める」

 

 チーフパーサーが、瞬きをした。

 それでもすぐに表情を整える。

 

「は?」

 

 ペルシアは、顔を上げずに続けた。

 

「私がドルトムントを辞める。だから、エリンは見逃して」

 

 廊下の空気が止まった。

 チーフパーサーは数秒、沈黙した。

 

 次に出た声は、甘くて、冷たかった。

 

「……それでもいいわよ」

 

 ペルシアは、心臓が落ちた気がした。

 “勝った”わけじゃない。

 ただ、最悪を回避しただけ。

 

「ありがとう」

 

 ペルシアは顔を上げた。

 涙は出していない。

 ここで泣いたら、負ける気がした。

 

 チーフパーサーは、口元を歪める。

 

「本当に、十四班って――仲間のためなら自分を捨てるのね。美しいわ。……馬鹿みたいに」

 

 ペルシアの目が、すっと細くなる。

 

「それと――」

 

 ペルシアは胸ポケットから端末を取り出した。

 画面を見せる。

 録音中の波形が揺れている。

 

「今の、全部録音してる」

 

 チーフパーサーの表情が、初めて崩れた。

 ほんの一瞬。

 けれど、確かに“焦り”の色が浮かぶ。

 

「……何を」

 

「約束を破ったら、流す」

 

 ペルシアは淡々と告げた。

 

「“復讐する”って言った」

「“家があるから役員は私を選ぶ”って言った」

「“十班は正しくならないでほしい”って言った」

「全部、世の中に出したらどうなるか……分かるよね?」

 

 チーフパーサーの喉が小さく動く。

 その間、ペルシアの耳は拾う。

 呼吸が浅くなった。心拍が上がった。

 目線が一瞬だけ端末から逃げた。

 

「……脅迫?」

 

 チーフパーサーが低く言う。

 

 ペルシアは、首を傾げた。

 

「保険」

 

 短く言う。

 

「私は“約束”が欲しいだけ、エリンに手を出さないって約束。破ったら、世の中に流す。それだけ」

 

 チーフパーサーは、しばらく黙った。

 額のガーゼが白く浮く。

 爪が手のひらに食い込んでいるのが見えた。

 怒りを抑えている仕草だ。

 

 やがて、チーフパーサーは鼻で笑った。

 

「……ふっ。分かったわ」

 

 その声は、折れた音だった。

 屈服ではない。

 “今は引く”という、計算の音。

 

 ペルシアは端末を胸ポケットに戻した。

 背筋を伸ばす。

 

「ありがとう」

 

 チーフパーサーは、すれ違いざまに囁いた。

 

「ねえ、ペルシア」

 

「なに」

 

「あなた、自分が辞めるって言ったこと……後悔しないといいわね」

 

 ペルシアは立ち止まらなかった。

 振り向きもしなかった。

 ただ、声だけを返す。

 

「後悔するかどうかは、私が決める」

 

 チーフパーサーのヒール音がまた鳴り始める。

 コツ、コツ、コツ。

 さっきより少し、乱れている。

 

 ペルシアは廊下の端で、やっと息を吐いた。

 胸の奥が痛い。

 勝ったわけじゃない。

 でも――エリンを守るために、“今できる最悪回避”は取った。

 

 指先が震えた。

 握りしめて、震えを止める。

 

(……明日、言う。タツヤ班長に)

(……ごめん。エリン)

 

 そう呟いた声は、誰にも届かない。

 届かなくていい。

 ここは“上の階”だ。

 この階では、弱さは武器にされるだけだから。

 

◇◇◇◇

 

「……まあ、そんなことがあったのよ」

 

 ペルシアが言い終える頃には、缶ビールは二本目が空になっていた。

 指先が少し震えている。

 震えを誤魔化すように、おつまみを口に放り込んだ。

 

 リュウジの顔が、強張っていた。

 顎の筋が浮いて、拳が固く握られている。

 彼の怒りは、いつも遅れてくる。遅れて来て――深い。

 

「リュウジ、顔が怖いわよ」

 

 ペルシアは笑って言った。

 笑っているのに、目が濡れている。

 

 リュウジが低い声で言いかける。

 

「お前――」

 

 その瞬間、エリンが机の下でリュウジの裾を掴んだ。

 強く。必死に。

 “今は言うな”と、指先が叫んでいる。

 

 だがエリン自身は、止められなかった。

 胸の奥が熱くなって、目に水が溜まり、声が震える。

 

「どうして……どうして相談もなしに勝手に決めるのよ!!」

 

 涙が頬を伝った。

 怒りと、恐怖と、悔しさが混ざった涙。

 

 ペルシアも泣いていた。

 泣きながら、笑いながら、言う。

 

「ごめん……!」

 

 そして、言葉が溢れた。

 止めようとしても止まらない。

 

「私、組織のやり方、嫌い。……ほんと嫌い。十四班が好き。エリンが好き。……あんたが乗務員辞めるとこなんて、見たくない、エリンがいない会社で、私だけ乗務員で働くとか……無理。それに……リュウジも、あんたも、タツヤ班長も、皆が整えてきたものが、あんな“上の都合”で壊れるの、耐えられない!」

 

 エリンは涙を拭わずに、叫ぶ。

 

「だからって!!」

 

 声が裏返る。

 怒っているのに、同じくらい怖い。

 ペルシアがいなくなる未来が、急に現実の形を帯びたから。

 

 ペルシアは唇を噛み、泣きながら言った。

 

「私は……大丈夫」

 

 震える声で、でも言い切った。

 

「宇宙管理局で働くから」

 

 リュウジが眉をひそめる。

 エリンの呼吸が止まる。

 

 ペルシアは続けた。

 

「あそこはね……組織とか家とか、そういう“上のしがらみ”で人を潰すとこじゃないって言ってた。私を迎え入れてくれるって話があるの……だから、リュウジも変な気は起こさないで」

 

 リュウジの拳が、さらに固くなる。

 “変な気”という言葉が、逆に彼の正義に火をつけるのを、ペルシアは知っている。

 

 ペルシアは涙を拭いもせず、まっすぐ言った。

 

「タツヤ班長には……明日、言うから」

 

 その瞬間、部屋の空気が、しんと静まった。

 酒の匂い。おつまみの香り。

 さっきまで“祝杯”の匂いだったものが、一気に重くなる。

 

 エリンは涙を流したまま、怒りの声を落とす。

 落とした声のほうが、ずっと怖い。

 

「……ペルシア。あなたね、あなたが“守りたい”って思ってくれるのは、嬉しい。……本当に嬉しいわ。でも……自分を差し出すのは違う。あなたが辞めたら、私が守られたことにならないのよ」

 

 ペルシアは首を振る。

 涙が頬を滑り落ちて、缶の縁に落ちた。

 

「守られるって……そういうことじゃないの。私が見たくないの。エリンが折れるところ、消えていくところ。それが一番、嫌なの」

 

 リュウジが、ようやく口を開いた。

 低く、怒りを抑えた声。

 

「……ペルシア」

 

 ペルシアが顔を上げる。

 リュウジの目が、真っ直ぐ過ぎて刺さる。

 

「……お前は、自分の命を道具にするな」

 

 短い言葉。

 でも、その一言にリュウジの怒りも、恐怖も、覚悟も入っている。

 

 ペルシアは泣き笑いで言った。

 

「だって……私、耳が良すぎるからさ、嫌なこと、拾いすぎるの。拾って……拾って……抱えて……最後に守りたい人が傷つくのが一番嫌なの」

 

 エリンが、震える息で言う。

 

「……明日、タツヤ班長に言うって言ったわね」

 

「うん……」

 

「なら――明日までに、ちゃんと整理しなさい。今夜ここで決めたことが、あなたの人生を決めるわけじゃない……私たちがいる」

 

 ペルシアが目を閉じる。

 涙がまた落ちる。

 

「……ほんと、ずるいよね、エリン。そういうとこ……」

 

 言い切れずに、肩が震えた。

 

 リュウジは立ち上がりそうになる。

 でもエリンの手が、また机の下で裾を掴む。

 “今は動くな”と。

 

 リュウジは一度、深く息を吸って、吐いた。

 そして椅子に沈むように座り直す。

 

 この夜は、解決の夜ではない。

 告白の夜だ。

 抱えていたものが、ようやく言葉になった夜だ。

 

 ペルシアが、最後に小さく言う。

 

「……お願い。明日までは……私のこと、怒らないで、今日だけは……飲ませて」

 

 エリンは涙を拭って、強く言った。

 

「怒るわよ。もちろん。でも――」

 

 エリンはペルシアの前に、温かいお茶の入ったカップを置いた。

 アルコールじゃない。身体を戻すためのもの。

 

「まずこれ飲みなさい。泣きながら飲むのは、身体が持たないから」

 

 ペルシアは、泣きながら笑った。

 

「……はいはい。ほんと、敵わない」

 

 リュウジはその様子を見て、拳をゆっくり開いた。

 怒りは消えていない。

 でも今夜は、怒りで動く夜じゃない。

 

 守るために、整える夜だ。

 

 ――三人の間で、静かに火が灯り続けていた。

 

ーーーー

 

 缶がまた一本、空になった。

 

 ペルシアはそれを「はい次」とでも言うみたいに、机の端へ寄せる。指先がほんの少し震えているのに、本人は気づかないふりをしていた。

 エリンは再び料理の手を止めていない。――止めたら、この夜が崩れる気がしたからだ。

 リュウジは黙って、ペルシアの前に水を置いた。飲めとは言わない。置くだけ。

 

「ねえ、二人とも」

 

 ペルシアが缶の縁を指でなぞりながら言った。

 声がいつもより小さくて、言葉が床に落ちる音がする。

 

「……宇宙管理局に行けばさ」

 

 そこで一回、息が詰まる。笑おうとして失敗した顔になる。

 

「私が守りたいもの、守れるんだよ」

 

 エリンは包丁を置いた。金属がまな板に触れる、乾いた音。

 目だけがペルシアを見た。責める目じゃない。逃げない目。

 

「守りたいものって、何」

 

 エリンの声は普通だ。普通を装ってる。

 ペルシアは少し首を傾げる。酔ってるふりで、涙が出そうなのをごまかす。

 

「……欲張りだよ」

 

 ぽつり。

 

「リュウジも、エリンも、タツヤ班長も、ククルも、エマも、カイエも……守りたい」

 

 リュウジの喉が動いた。何か言いかけて、飲み込む。

 飲み込んだ言葉の代わりに、拳が少しだけ握られる。

 

「変じゃない?」

 

 ペルシアが笑う。笑えてない。

 

「私さ、嫌いなんだよ。会社のこういうとこ。偉い奴が偉い顔して、現場のこと何も見ないで、数字だけ見て、誰かを踏み潰すやつ」

 

 エリンが小さく息を吐いた。

 

「嫌いだね」

 

「でしょ?」

 

 ペルシアはビールを煽ろうとして、缶が空だと気づく。

 舌打ちしそうになって、やめた。

 

「十四班ってさ。……あったかいんだよ。私、最初はさ、“別に仲間とか興味ないし”って顔してたじゃん」

 

 エリンが即答する。

 

「してた。凄いしてた」

 

「うっさい」

 

 ペルシアが鼻で笑った。

 笑って、少しだけ呼吸が楽になる。

 でも次の瞬間、視線が落ちる。

 

「だけどさ……」

 

 言葉が詰まる。

 ペルシアは机に頬杖をついた。体重を預けるみたいに。

 

「私の“耳”ってさ」

 

 自分の耳たぶを軽く触る。

 

「うるさいの、拾うんだよ。声の裏のやつ。嘘とか、焦りとか、怖さとか、そういうの」

 

 リュウジが静かに頷く。冗談じゃないと知っているから。

 

「十四班にいるとさ、それが役に立つ。……立ちすぎて、しんどい時もあるけど、でも管理局なら、もっと役に立つんだよ」

 

 ペルシアは顔を上げる。目が少し潤んでいて、光を反射する。

 

「宇宙管理局ってさ、事故があったら救出もするし、後方支援もするんでしょ。宇宙啓開だっけ。未探索領域の補助も。全部、まとめて“守る”場所」

 

 エリンが腕を組んだまま頷いた。

 

「……うん。守る側のど真ん中だね」

 

「そう」

 

 ペルシアは指を鳴らそうとして鳴らない。その失敗に苦く笑う。

 

「だからね」

 

 言葉を選ぶみたいに、ゆっくりと言う。

 出てくるのは飾りのない本音だった。

 

「私の耳が活かせる場所で、皆んな守る」

 

 エリンの目から、ぽろっと涙が落ちる。

 拭わない。拭ったら、ペルシアの言葉を否定するみたいで嫌だった。

 

「……ずるい言い方」

 

 エリンが笑う。泣きながら。

 

「そんなこと言われたら、止められないじゃん」

 

「止めないで」

 

 ペルシアが即答した。

 その瞬間だけ、酔いが抜けたみたいな目になる。

 

「止めないで。今は、止められたら壊れる」

 

 リュウジが低い声で言った。

 

「……お前、壊れかけてるだろ」

 

 ペルシアは肩をすくめる。いつもの“あっけらかん”が戻る一瞬。すぐ崩れる。

 

「壊れてるよ、もう半分。でも大丈夫」

 

 強がりが分かりやすすぎる。

 

「だって私、負けてないもん」

 

 エリンが首を傾げる。涙の跡を残したまま。

 

「負けてない?」

 

「負けてない。撤退は負けじゃない」

 

 ――ペルシアが静かに呟く。

 その声が優しくて、痛い。

 

 リュウジは視線を逸らした。正面から受けると怒りが出るから。

 

 ペルシアは、それを見て薄く笑った。

 

「……ねえ、リュウジ」

 

「なんだ」

 

「顔、怖い」

 

「……」

 

「怖いって。黙ってキレてる顔、いっちばん怖いから」

 

 リュウジは鼻から息を吐いた。

 

「黙ってないと、余計なこと言うだろ」

 

「余計なこと言っていいよ」

 

 ペルシアが言った瞬間、エリンが鋭く言う。

 

「ダメ」

 

「え」

 

「ダメ。今夜は、ダメ」

 

 エリンはペルシアを見て、言い切る。

 

「あなたが辞める話は、もう動かせない。――それは分かってる」

「でも、だからこそ、ここで余計な火種は増やさない」

 

 リュウジが、エリンにだけ少し丁寧な声を向けた。

 

「……エリンさんの言うとおりです」

 

 エリンが泣き顔のまま頷く。

 

「でしょ」

 

 ペルシアは口を尖らせる。

 

「なんか二人してずるい」

 

「ずるくていい」

 

 エリンが言う。

 

「ペルシアが一番ずるいこと言ってるから」

 

「なにそれ」

 

 ペルシアは笑って、笑って、急に静かになった。

 

「……でもさ」

 

 今度は本当に小さな声。

 

「私、辞める前にやりたいことある」

 

 リュウジの目が細くなる。嫌な予感の目。

 

「……なんだ」

 

 ペルシアはビールの代わりに水を掴んだ。ひと口飲んで喉を潤し、唇を歪めて言う。

 

「役員に」

 

 間。

 

「ボロカス言ってやる」

 

 エリンが目を閉じる。そして開く。

 

「……ペルシア」

 

 静かな声。静かなのに圧がある。

 

「何」

 

「言っていいことと、言っちゃいけないことがある」

 

「言っていいことだよ」

 

「違う」

 

 エリンは首を振った。涙が頬に残っているのに、声は仕事の冷静さに戻っている。

 

「あなたが“ボロカス”言った瞬間、向こうはそれを“正当化の材料”にする。『問題児だった』って言える。『脅迫した』って色を付けられる」

 

 ペルシアがムッとする。でも反論しきれない。分かってるから。

 

「……それでも言いたい」

 

 声が震える。

 

「だって理不尽じゃん、現場が頑張ったのに、上がぐちゃぐちゃにする。私たちの努力、何だと思ってんの」

 

 リュウジが低く言った。

 

「それは俺も同じだ」

 

 エリンがリュウジを見る。

 

「うん。分かってる」

 

 そしてペルシアに戻る。

 

「気持ちは分かる。でも“言い方”を選ぶの」

 

「言い方?」

 

「そう」

 

 エリンは指を一本立てる。

 

「ボロカスじゃなくて、“事実”相手が逃げられない形。感情じゃなくて、報告書みたいに刺す」

 

 ペルシアが目を瞬く。次の瞬間、ふっと笑った。

 

「……エリン、ほんと怖い」

 

「褒め言葉」

 

「褒めてない」

 

「褒めてる」

 

 エリンが即答する。

 そのやり取りにペルシアの目からまた涙が落ちた。笑いながら泣く、いちばん苦しい泣き方。

 

「……ああ、もう」

 

 ペルシアは両手で顔を覆った。

 

「やだ。泣きたくない。泣くとさ、決まっちゃうじゃん」

 

 エリンが立ち上がって、ペルシアの隣に座る。

 肩を抱く。強くは抱かない。寄り添う強さ。

 

「決まってるよ」

 

 エリンは優しく言った。

 

「もう決まってる。でもね、決まったって終わりじゃない。あなたが守りたいなら、守れる場所に行けばいい……悔しいけど、それが一番正しい」

 

 ペルシアが嗚咽を漏らす。それを聞いて、エリンも涙が溢れる。

 二人の涙が、同じ速度で落ちる。

 

 リュウジが少しだけ距離を詰めた。

 不器用に、テーブルの端のティッシュ箱をスッと寄せる。

 

 そして、ペルシアを見て言う。いつもの口調。だけど奥が熱い。

 

「お前、守るとか言うなら」

 

「なに」

 

「まず自分のこと守れ」

 

 ペルシアが顔を上げる。涙で滲んだ視界の中で、リュウジの輪郭がぼやける。

 

「自分を守るのが一番難しいんだよ」

 

「知るか。難しいなら、余計にやれ」

 

 不器用で、優しい。

 ペルシアはくしゃっと笑った。

 

「……はいはい」

 

 エリンがペルシアの肩を軽く叩く。

 

「で、役員に“言う”なら、私とタツヤとリュウジで、形作る。あなた一人で突っ込まない」

 

「え、私の見せ場が」

 

「ない」

 

「ひどい!」

 

「ひどくない。守るってそういうこと」

 

 エリンが言い切る。

 ペルシアは口を尖らせたまま、でも頷く。

 

「……分かった。分かったよ。ボロカスじゃなくて、事実ね」

 

「そう」

 

 エリンが頷く。

 

「事実で、心を折る」

 

「怖いって!」

 

「褒め言葉」

 

「だから褒めてないって!」

 

 また笑いが起きる。

 でも笑いの端っこに涙が絡む。

 

 ペルシアはふと真面目な顔になった。酔いで頬が赤いのに、目だけが冴えている。

 

「……ねえ。私さ」

 

「うん」

 

 エリンが返事をする。

 

「管理局に行ったら、ずっと“守る側”にいる。だからさ、お願い」

 

 ペルシアはリュウジを見て、次にエリンを見る。

 

「二人とも、勝手に壊れないで。私がいないからって、無茶しないで」

 

 リュウジの眉が寄る。言い返したい。言い返せない。

 代わりに、エリンを見た。少し丁寧に、でも敬語じゃない。

 

「……エリンさん、俺が無茶しないように見ててください」

 

 エリンが泣き顔のまま苦笑する。

 

「私に丸投げしないで」

 

「でも、頼みます」

 

 リュウジはほんの少し頭を下げた。

 それがリュウジなりの“頼る”だった。

 

 エリンはため息みたいに笑った。

 

「……分かった。見てる。その代わり、リュウジも私を止めて」

 

「……分かりました」

 

 ペルシアが二人を見て笑った。泣きながら笑う。

 

「何それ。夫婦かよ」

 

「違う」

 

 エリンが即答。

 

「違う」

 

 リュウジも即答。

 二人の声が重なって、ペルシアが腹を抱えて笑う。笑って、また涙が出る。

 

「ほら、仲良しじゃん……」

 

 ペルシアはふらっと立ち上がって冷蔵庫の方へ行こうとして、よろけた。

 リュウジがすっと手を伸ばして支える。倒れない程度に。

 

「おい、飲みすぎ」

 

「まだ飲む」

 

「水」

 

「やだ」

 

 エリンが言う。

 

「水。命令」

 

「……はい」

 

 ペルシアは不満そうに水を飲む。

 飲みながら、ぽつりぽつりと呟いた。

 

「守りたいんだよ……ほんとに」

 

 水のグラス越しに、涙が落ちる。

 

「守りたいから、行く。私の耳が役に立つ場所で……皆んな守る」

 

 エリンがペルシアの背中を撫でた。撫でながら、自分も泣く。

 

「……うん。分かった。その代わり、あなたも守られて、一人で全部やらないで」

 

 ペルシアは鼻を啜って頷いた。

 

「……分かったよ」

 

 そして急に目を細める。子どもみたいな悪い顔。

 

「でもさ」

 

 エリンが嫌な予感で眉を寄せる。

 

「なに」

 

「役員にはさ」

 

 ペルシアは指を立てる。酔っているのに妙に力強い。

 

「辞める前に、絶対、言う。“ボロカス”はやめる。でも、刺す」

 

 エリンが深く頷く。

 

「うん。刺そう」

 

 リュウジが低く言う。

 

「……その時は俺もいる」

 

 ペルシアが笑った。涙のままの笑顔。

 

「うん。頼んだ」

 

 その瞬間、エリンの涙がまた溢れた。

 ペルシアの肩に額を押し当てるみたいにして、声を殺して泣く。

 

「……やだな」

 

「やだね」

 

 ペルシアも泣く。肩を震わせる。

 

「でも、やる」

 

 リュウジは二人を見て目を閉じた。怒りを沈めるように。

 そして開いて、短く言った。

 

「……やるなら、最後までやれ」

 

 ペルシアが頷く。

 その頷きはさっきより少しだけ重くて、少しだけ強かった。

 

 今夜、決まったことは変わらない。

 ペルシアは辞める。

 それでも――守るという言葉は、ここで終わらない。

 

 冷めたおつまみの匂いと、ビールと、涙と。

 それ全部が混ざった部屋の中で、ペルシアは最後にもう一度、ぽつりと呟いた。

 

「……私、守る側に行く。だから、二人とも、守られ方、覚えといてよ」

 

 エリンが泣きながら笑って、リュウジが小さく頷く。

 その静かな頷きが、今夜の約束になった。

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