リュウジの家のキッチンでは、エリンが手際よく“おつまみ”を仕上げていた。
まな板の上には、薄く切られたチーズと生ハム。小皿にはオリーブ。フライパンではガーリックが香りを立て、別の鍋では枝豆が湯気を上げている。
揺れのない地上の台所。それなのに、エリンの指先は無駄なく動き、音は小さく、空気だけが整っていく。
リュウジはリビングでグラスを並べ、氷を作っている。
飲む気はない。だが、彼の手は“備える”ことを止めない。そうしないと落ち着かないのだ。
玄関のチャイムが鳴った。
――次の瞬間、ドアが開く。
「やっほー!」
ペルシアが、酒瓶を肩に担ぎ、もう片方の腕に缶ビール一箱を抱えたまま、どすん、と玄関に立った。
笑顔は派手だ。声も明るい。
でもその目の奥は、やっぱり乾いている。
「ちょっと重い、リュウジ〜」
ペルシアが、わざとらしく肩を落とす。
リュウジは眉をひそめた。
「買いすぎだ」
「まぁまぁ、いいじゃない」
ペルシアは軽く舌を出して笑う。
その“いつもの”仕草に、エリンがキッチンから顔を出した。
「ほら、早く来なさい」
「うひょー!」
ペルシアはリビングに入った途端、机の上に並び始めている小皿を見て声を上げた。
胡麻油の香り、ガーリックの香り、少し甘いタレの香り。
“頑張った人の夜”の匂いだ。
「ほらほら、早く座りなさい」
「はーい」
ペルシアは素直に座り、缶ビールをプシュッと開ける。
冷たい泡が喉を落ちる音が、やけに大きく響いた。
「エリンもリュウジも呑む?」
ペルシアが片手を振って聞く。
「ダメ」
エリンが即答する。
「だそうだ」
リュウジも淡々と続ける。
ペルシアは「はいはい」と肩をすくめて、またビールを飲んだ。
一口が深い。二口が早い。
おつまみをつまむ手が、いつもより“乱暴”だ。
最初は他愛ない会話が続いた。
今日のブリーフィングの話。十班の新人が飲み込みが早かった話。ククルが星座を教えるのが上手かった話。
ペルシアは笑う。エリンも相槌を打つ。リュウジは短く頷く。
けれど、ペルシアの飲むペースだけが、確実に上がっていく。
まるで言葉を追い越すために酒を飲んでいるみたいに。
そして、リュウジが切り込んだ。
「……それで、何があったんだ?」
ペルシアの手が一瞬止まる。
缶が、テーブルに小さく当たってカン、と音がした。
エリンが静かに言う。
「隠しても無駄よ」
ペルシアは笑おうとした。
でも、笑えなかった。
目を伏せて、缶の縁を指でなぞる。
「……分かった」
小さく言う。
その声は、さっきまでの軽さがない。
ペルシアは息を吸い、吐いた。
そして――今日の昼を思い出す
◇◇◇◇
役員室へ続く廊下は、やけに静かだった。
照明は白く、床は磨かれすぎていて、足音が必要以上に響く。人の気配はないのに、視線だけがどこかから飛んでくる気がする――そういう“上の階”の空気。
ペルシアは壁際に寄り、腕を組んで待った。
端末は胸ポケット。録音アプリは立ち上げ済み。
心臓は早鐘のくせに、指先だけが妙に冷たい。
(……来る。絶対、来る)
ミラの言葉が頭の中で反芻される。
“役員に報告した”。
“処罰”。
“最悪、解雇か異動”。
エリンの顔が浮かぶ。
あの完璧な距離感、優しい言葉、鋭い目。
それが、上の気分ひとつで折られる。――そんなの、許せない。
コツ、コツ、コツ。
高いヒールの音。
小刻みで、迷いのないリズム。
“私はここを歩く資格がある”という歩き方だ。
角を曲がって現れたのは、十班のチーフパーサーだった。
額にはガーゼが貼られている。白い布の端が少し浮いていて、その下の皮膚が赤く腫れているのが分かる。
だが姿勢は崩れていない。背筋はまっすぐ。顎は上がっている。
怪我を“弱み”に見せる女じゃない。
ペルシアは、彼女の進路を塞ぐように一歩出た。
「待ってました」
チーフパーサーの視線が、ペルシアに止まった。
ほんの一瞬だけ驚いた顔をして――すぐに“笑顔”を作る。
唇の端を持ち上げる、あの作り笑い。
「あら。何してるのかしら?」
声は柔らかい。
柔らかいほど、刺さる。
ペルシアは笑わなかった。
声も飾らない。
「ちょっと小耳に挟んでね。昨日のフライトの件、役員に“盛って”報告したって」
チーフパーサーの眉が、わずかに動く。
次の瞬間、肩をすくめて見せた。
「盛って……? 言葉が下品ね。あなたらしいわ」
ペルシアは一歩近づく。距離を詰める。
相手の香水が鼻に刺さった。甘くて、重い。
「下品でもいい。エリンに手を出すな」
チーフパーサーは、ふっと鼻で笑った。
「手を出す? 何か誤解してるみたいね。私は“正当な報告”をしただけよ」
ペルシアは唇を噛む。
この女は言葉を選ぶ。選んで、刺す。
だからこちらも、言葉を選ばない。
「正当? あんたが倒れたの、誰のせい?」
チーフパーサーの笑みが薄くなる。
ほんの少し、目の奥が冷える。
「……揺れたからよ。古い船のせい」
「違う」
ペルシアは即答した。
「Dブロックに人を固めた。チーフも副パーサーも、VIPに張り付いた。だから他が崩れた。全体を見なかった。その結果だ」
チーフパーサーは、わざとらしく息を吐いた。
「……あなた、よく喋るわね。十四班は“耳”だけじゃなく“口”も達者なの?」
ペルシアの目が細くなる。
「うるさい。論点ずらすな」
チーフパーサーは一歩、ペルシアの横をすり抜けようとした。
ペルシアは、もう一歩出て道を塞ぐ。
「どいて」
チーフパーサーが低い声で言う。
柔らかさが消える。素が覗く。
「どかない」
ペルシアも低く返した。
鼓動が耳の奥で鳴る。
でも、引かない。
チーフパーサーは、ガーゼの貼られた額に指を当てた。
痛みを確かめるように、そして――わざと見せつけるように。
「あなた達はいいわよね。正しいこと言ってれば守られると思ってる」
「守られると思ってない。守るために言ってる」
「守る? 誰を?」
チーフパーサーの口角が上がる。
「エリンよ」
ペルシアは噛みしめるように言う。
「……あの女、完璧だったわ」
チーフパーサーの瞳が、わずかに揺れた。
その揺れを、ペルシアは見逃さない。
チーフパーサーは微笑を保ったまま、囁くように吐いた。
「そう。完璧だった。だから……困るのよ」
ペルシアの眉が上がる。
「困る?」
チーフパーサーは、指先でガーゼの端を撫でた。
痛みを思い出すように、でも声音は甘い。
「私が“チーフ”なのに、みんなが彼女を見た。私が倒れて、彼女が指示を出して、VIPも落ち着いて、乗務員も動いた。それでね……フライトが終わってから、十班の若い子が言ったの」
チーフパーサーは、声色を変えて真似た。
可愛らしい、無邪気な声。
『エリンさんみたいになりたいです』
ペルシアの中で、何かが切れそうになる。
「……それが、気に入らないの?」
チーフパーサーは、にこりと笑った。
「気に入らないわね。とても」
その言葉の軽さが、逆に本音だ。
「十班は、十班のままでいいのよ。勝手に“正しく”ならないでほしい、“上”に対して従順で、“下”に対して適当に優しくして、事故が起きなければそれでいい。私が今まで作ってきた空気を、あの女が壊したの。だから復讐する」
ペルシアは喉の奥で唸る。
怒りが熱になって頬が痛い。
「あんた、自分が何言ってるか分かってる?」
チーフパーサーは肩をすくめる。
「分かってるわよ。だから“戻す”の」
「戻すためにエリンを潰すのか」
「潰す、は言い過ぎ。……“適材適所”に戻すだけ」
“適材適所”。
上の連中が好きな言葉。
人を動かす時だけ“正しい顔”をする、卑怯な言葉。
ペルシアの指先が震えた。
「……復讐って、言ったわね」
チーフパーサーは少し目を細めた。
「ええ。恥をかかされたから」
ペルシアは歯を噛みしめる。
「恥をかいたのは、あんたの判断の結果だろ」
チーフパーサーの笑みが消える。
目が鋭くなる。
「……あなた、私に説教する立場なの?」
ペルシアは一歩、さらに踏み込んだ。
声を落とす。耳を澄ませば、壁の向こうにも届くかもしれない音量で。
「立場なんて関係ない。エリンを処罰させない」
チーフパーサーは、今度は静かに笑った。
それは嘲りではなく――確信の笑い。
「無理よ」
ペルシアの背中に冷たいものが走る。
「……何が」
「役員は、私の家を選ぶ」
言い切った。
そこに一点の迷いもない。
“現実”というナイフを、躊躇なく突きつける。
「あなた達がどれだけ現場で頑張ろうが、VIPが何を褒めようが、関係ない。家。取引。顔。バランス、それがこの会社。……あなたも知ってるでしょ?」
ペルシアは、唇を噛み、息を止めて、吐いた。
それから――頭を下げた。
深く。
悔しさで視界が滲むほど。
「……私が辞める」
チーフパーサーが、瞬きをした。
それでもすぐに表情を整える。
「は?」
ペルシアは、顔を上げずに続けた。
「私がドルトムントを辞める。だから、エリンは見逃して」
廊下の空気が止まった。
チーフパーサーは数秒、沈黙した。
次に出た声は、甘くて、冷たかった。
「……それでもいいわよ」
ペルシアは、心臓が落ちた気がした。
“勝った”わけじゃない。
ただ、最悪を回避しただけ。
「ありがとう」
ペルシアは顔を上げた。
涙は出していない。
ここで泣いたら、負ける気がした。
チーフパーサーは、口元を歪める。
「本当に、十四班って――仲間のためなら自分を捨てるのね。美しいわ。……馬鹿みたいに」
ペルシアの目が、すっと細くなる。
「それと――」
ペルシアは胸ポケットから端末を取り出した。
画面を見せる。
録音中の波形が揺れている。
「今の、全部録音してる」
チーフパーサーの表情が、初めて崩れた。
ほんの一瞬。
けれど、確かに“焦り”の色が浮かぶ。
「……何を」
「約束を破ったら、流す」
ペルシアは淡々と告げた。
「“復讐する”って言った」
「“家があるから役員は私を選ぶ”って言った」
「“十班は正しくならないでほしい”って言った」
「全部、世の中に出したらどうなるか……分かるよね?」
チーフパーサーの喉が小さく動く。
その間、ペルシアの耳は拾う。
呼吸が浅くなった。心拍が上がった。
目線が一瞬だけ端末から逃げた。
「……脅迫?」
チーフパーサーが低く言う。
ペルシアは、首を傾げた。
「保険」
短く言う。
「私は“約束”が欲しいだけ、エリンに手を出さないって約束。破ったら、世の中に流す。それだけ」
チーフパーサーは、しばらく黙った。
額のガーゼが白く浮く。
爪が手のひらに食い込んでいるのが見えた。
怒りを抑えている仕草だ。
やがて、チーフパーサーは鼻で笑った。
「……ふっ。分かったわ」
その声は、折れた音だった。
屈服ではない。
“今は引く”という、計算の音。
ペルシアは端末を胸ポケットに戻した。
背筋を伸ばす。
「ありがとう」
チーフパーサーは、すれ違いざまに囁いた。
「ねえ、ペルシア」
「なに」
「あなた、自分が辞めるって言ったこと……後悔しないといいわね」
ペルシアは立ち止まらなかった。
振り向きもしなかった。
ただ、声だけを返す。
「後悔するかどうかは、私が決める」
チーフパーサーのヒール音がまた鳴り始める。
コツ、コツ、コツ。
さっきより少し、乱れている。
ペルシアは廊下の端で、やっと息を吐いた。
胸の奥が痛い。
勝ったわけじゃない。
でも――エリンを守るために、“今できる最悪回避”は取った。
指先が震えた。
握りしめて、震えを止める。
(……明日、言う。タツヤ班長に)
(……ごめん。エリン)
そう呟いた声は、誰にも届かない。
届かなくていい。
ここは“上の階”だ。
この階では、弱さは武器にされるだけだから。
◇◇◇◇
「……まあ、そんなことがあったのよ」
ペルシアが言い終える頃には、缶ビールは二本目が空になっていた。
指先が少し震えている。
震えを誤魔化すように、おつまみを口に放り込んだ。
リュウジの顔が、強張っていた。
顎の筋が浮いて、拳が固く握られている。
彼の怒りは、いつも遅れてくる。遅れて来て――深い。
「リュウジ、顔が怖いわよ」
ペルシアは笑って言った。
笑っているのに、目が濡れている。
リュウジが低い声で言いかける。
「お前――」
その瞬間、エリンが机の下でリュウジの裾を掴んだ。
強く。必死に。
“今は言うな”と、指先が叫んでいる。
だがエリン自身は、止められなかった。
胸の奥が熱くなって、目に水が溜まり、声が震える。
「どうして……どうして相談もなしに勝手に決めるのよ!!」
涙が頬を伝った。
怒りと、恐怖と、悔しさが混ざった涙。
ペルシアも泣いていた。
泣きながら、笑いながら、言う。
「ごめん……!」
そして、言葉が溢れた。
止めようとしても止まらない。
「私、組織のやり方、嫌い。……ほんと嫌い。十四班が好き。エリンが好き。……あんたが乗務員辞めるとこなんて、見たくない、エリンがいない会社で、私だけ乗務員で働くとか……無理。それに……リュウジも、あんたも、タツヤ班長も、皆が整えてきたものが、あんな“上の都合”で壊れるの、耐えられない!」
エリンは涙を拭わずに、叫ぶ。
「だからって!!」
声が裏返る。
怒っているのに、同じくらい怖い。
ペルシアがいなくなる未来が、急に現実の形を帯びたから。
ペルシアは唇を噛み、泣きながら言った。
「私は……大丈夫」
震える声で、でも言い切った。
「宇宙管理局で働くから」
リュウジが眉をひそめる。
エリンの呼吸が止まる。
ペルシアは続けた。
「あそこはね……組織とか家とか、そういう“上のしがらみ”で人を潰すとこじゃないって言ってた。私を迎え入れてくれるって話があるの……だから、リュウジも変な気は起こさないで」
リュウジの拳が、さらに固くなる。
“変な気”という言葉が、逆に彼の正義に火をつけるのを、ペルシアは知っている。
ペルシアは涙を拭いもせず、まっすぐ言った。
「タツヤ班長には……明日、言うから」
その瞬間、部屋の空気が、しんと静まった。
酒の匂い。おつまみの香り。
さっきまで“祝杯”の匂いだったものが、一気に重くなる。
エリンは涙を流したまま、怒りの声を落とす。
落とした声のほうが、ずっと怖い。
「……ペルシア。あなたね、あなたが“守りたい”って思ってくれるのは、嬉しい。……本当に嬉しいわ。でも……自分を差し出すのは違う。あなたが辞めたら、私が守られたことにならないのよ」
ペルシアは首を振る。
涙が頬を滑り落ちて、缶の縁に落ちた。
「守られるって……そういうことじゃないの。私が見たくないの。エリンが折れるところ、消えていくところ。それが一番、嫌なの」
リュウジが、ようやく口を開いた。
低く、怒りを抑えた声。
「……ペルシア」
ペルシアが顔を上げる。
リュウジの目が、真っ直ぐ過ぎて刺さる。
「……お前は、自分の命を道具にするな」
短い言葉。
でも、その一言にリュウジの怒りも、恐怖も、覚悟も入っている。
ペルシアは泣き笑いで言った。
「だって……私、耳が良すぎるからさ、嫌なこと、拾いすぎるの。拾って……拾って……抱えて……最後に守りたい人が傷つくのが一番嫌なの」
エリンが、震える息で言う。
「……明日、タツヤ班長に言うって言ったわね」
「うん……」
「なら――明日までに、ちゃんと整理しなさい。今夜ここで決めたことが、あなたの人生を決めるわけじゃない……私たちがいる」
ペルシアが目を閉じる。
涙がまた落ちる。
「……ほんと、ずるいよね、エリン。そういうとこ……」
言い切れずに、肩が震えた。
リュウジは立ち上がりそうになる。
でもエリンの手が、また机の下で裾を掴む。
“今は動くな”と。
リュウジは一度、深く息を吸って、吐いた。
そして椅子に沈むように座り直す。
この夜は、解決の夜ではない。
告白の夜だ。
抱えていたものが、ようやく言葉になった夜だ。
ペルシアが、最後に小さく言う。
「……お願い。明日までは……私のこと、怒らないで、今日だけは……飲ませて」
エリンは涙を拭って、強く言った。
「怒るわよ。もちろん。でも――」
エリンはペルシアの前に、温かいお茶の入ったカップを置いた。
アルコールじゃない。身体を戻すためのもの。
「まずこれ飲みなさい。泣きながら飲むのは、身体が持たないから」
ペルシアは、泣きながら笑った。
「……はいはい。ほんと、敵わない」
リュウジはその様子を見て、拳をゆっくり開いた。
怒りは消えていない。
でも今夜は、怒りで動く夜じゃない。
守るために、整える夜だ。
――三人の間で、静かに火が灯り続けていた。
ーーーー
缶がまた一本、空になった。
ペルシアはそれを「はい次」とでも言うみたいに、机の端へ寄せる。指先がほんの少し震えているのに、本人は気づかないふりをしていた。
エリンは再び料理の手を止めていない。――止めたら、この夜が崩れる気がしたからだ。
リュウジは黙って、ペルシアの前に水を置いた。飲めとは言わない。置くだけ。
「ねえ、二人とも」
ペルシアが缶の縁を指でなぞりながら言った。
声がいつもより小さくて、言葉が床に落ちる音がする。
「……宇宙管理局に行けばさ」
そこで一回、息が詰まる。笑おうとして失敗した顔になる。
「私が守りたいもの、守れるんだよ」
エリンは包丁を置いた。金属がまな板に触れる、乾いた音。
目だけがペルシアを見た。責める目じゃない。逃げない目。
「守りたいものって、何」
エリンの声は普通だ。普通を装ってる。
ペルシアは少し首を傾げる。酔ってるふりで、涙が出そうなのをごまかす。
「……欲張りだよ」
ぽつり。
「リュウジも、エリンも、タツヤ班長も、ククルも、エマも、カイエも……守りたい」
リュウジの喉が動いた。何か言いかけて、飲み込む。
飲み込んだ言葉の代わりに、拳が少しだけ握られる。
「変じゃない?」
ペルシアが笑う。笑えてない。
「私さ、嫌いなんだよ。会社のこういうとこ。偉い奴が偉い顔して、現場のこと何も見ないで、数字だけ見て、誰かを踏み潰すやつ」
エリンが小さく息を吐いた。
「嫌いだね」
「でしょ?」
ペルシアはビールを煽ろうとして、缶が空だと気づく。
舌打ちしそうになって、やめた。
「十四班ってさ。……あったかいんだよ。私、最初はさ、“別に仲間とか興味ないし”って顔してたじゃん」
エリンが即答する。
「してた。凄いしてた」
「うっさい」
ペルシアが鼻で笑った。
笑って、少しだけ呼吸が楽になる。
でも次の瞬間、視線が落ちる。
「だけどさ……」
言葉が詰まる。
ペルシアは机に頬杖をついた。体重を預けるみたいに。
「私の“耳”ってさ」
自分の耳たぶを軽く触る。
「うるさいの、拾うんだよ。声の裏のやつ。嘘とか、焦りとか、怖さとか、そういうの」
リュウジが静かに頷く。冗談じゃないと知っているから。
「十四班にいるとさ、それが役に立つ。……立ちすぎて、しんどい時もあるけど、でも管理局なら、もっと役に立つんだよ」
ペルシアは顔を上げる。目が少し潤んでいて、光を反射する。
「宇宙管理局ってさ、事故があったら救出もするし、後方支援もするんでしょ。宇宙啓開だっけ。未探索領域の補助も。全部、まとめて“守る”場所」
エリンが腕を組んだまま頷いた。
「……うん。守る側のど真ん中だね」
「そう」
ペルシアは指を鳴らそうとして鳴らない。その失敗に苦く笑う。
「だからね」
言葉を選ぶみたいに、ゆっくりと言う。
出てくるのは飾りのない本音だった。
「私の耳が活かせる場所で、皆んな守る」
エリンの目から、ぽろっと涙が落ちる。
拭わない。拭ったら、ペルシアの言葉を否定するみたいで嫌だった。
「……ずるい言い方」
エリンが笑う。泣きながら。
「そんなこと言われたら、止められないじゃん」
「止めないで」
ペルシアが即答した。
その瞬間だけ、酔いが抜けたみたいな目になる。
「止めないで。今は、止められたら壊れる」
リュウジが低い声で言った。
「……お前、壊れかけてるだろ」
ペルシアは肩をすくめる。いつもの“あっけらかん”が戻る一瞬。すぐ崩れる。
「壊れてるよ、もう半分。でも大丈夫」
強がりが分かりやすすぎる。
「だって私、負けてないもん」
エリンが首を傾げる。涙の跡を残したまま。
「負けてない?」
「負けてない。撤退は負けじゃない」
――ペルシアが静かに呟く。
その声が優しくて、痛い。
リュウジは視線を逸らした。正面から受けると怒りが出るから。
ペルシアは、それを見て薄く笑った。
「……ねえ、リュウジ」
「なんだ」
「顔、怖い」
「……」
「怖いって。黙ってキレてる顔、いっちばん怖いから」
リュウジは鼻から息を吐いた。
「黙ってないと、余計なこと言うだろ」
「余計なこと言っていいよ」
ペルシアが言った瞬間、エリンが鋭く言う。
「ダメ」
「え」
「ダメ。今夜は、ダメ」
エリンはペルシアを見て、言い切る。
「あなたが辞める話は、もう動かせない。――それは分かってる」
「でも、だからこそ、ここで余計な火種は増やさない」
リュウジが、エリンにだけ少し丁寧な声を向けた。
「……エリンさんの言うとおりです」
エリンが泣き顔のまま頷く。
「でしょ」
ペルシアは口を尖らせる。
「なんか二人してずるい」
「ずるくていい」
エリンが言う。
「ペルシアが一番ずるいこと言ってるから」
「なにそれ」
ペルシアは笑って、笑って、急に静かになった。
「……でもさ」
今度は本当に小さな声。
「私、辞める前にやりたいことある」
リュウジの目が細くなる。嫌な予感の目。
「……なんだ」
ペルシアはビールの代わりに水を掴んだ。ひと口飲んで喉を潤し、唇を歪めて言う。
「役員に」
間。
「ボロカス言ってやる」
エリンが目を閉じる。そして開く。
「……ペルシア」
静かな声。静かなのに圧がある。
「何」
「言っていいことと、言っちゃいけないことがある」
「言っていいことだよ」
「違う」
エリンは首を振った。涙が頬に残っているのに、声は仕事の冷静さに戻っている。
「あなたが“ボロカス”言った瞬間、向こうはそれを“正当化の材料”にする。『問題児だった』って言える。『脅迫した』って色を付けられる」
ペルシアがムッとする。でも反論しきれない。分かってるから。
「……それでも言いたい」
声が震える。
「だって理不尽じゃん、現場が頑張ったのに、上がぐちゃぐちゃにする。私たちの努力、何だと思ってんの」
リュウジが低く言った。
「それは俺も同じだ」
エリンがリュウジを見る。
「うん。分かってる」
そしてペルシアに戻る。
「気持ちは分かる。でも“言い方”を選ぶの」
「言い方?」
「そう」
エリンは指を一本立てる。
「ボロカスじゃなくて、“事実”相手が逃げられない形。感情じゃなくて、報告書みたいに刺す」
ペルシアが目を瞬く。次の瞬間、ふっと笑った。
「……エリン、ほんと怖い」
「褒め言葉」
「褒めてない」
「褒めてる」
エリンが即答する。
そのやり取りにペルシアの目からまた涙が落ちた。笑いながら泣く、いちばん苦しい泣き方。
「……ああ、もう」
ペルシアは両手で顔を覆った。
「やだ。泣きたくない。泣くとさ、決まっちゃうじゃん」
エリンが立ち上がって、ペルシアの隣に座る。
肩を抱く。強くは抱かない。寄り添う強さ。
「決まってるよ」
エリンは優しく言った。
「もう決まってる。でもね、決まったって終わりじゃない。あなたが守りたいなら、守れる場所に行けばいい……悔しいけど、それが一番正しい」
ペルシアが嗚咽を漏らす。それを聞いて、エリンも涙が溢れる。
二人の涙が、同じ速度で落ちる。
リュウジが少しだけ距離を詰めた。
不器用に、テーブルの端のティッシュ箱をスッと寄せる。
そして、ペルシアを見て言う。いつもの口調。だけど奥が熱い。
「お前、守るとか言うなら」
「なに」
「まず自分のこと守れ」
ペルシアが顔を上げる。涙で滲んだ視界の中で、リュウジの輪郭がぼやける。
「自分を守るのが一番難しいんだよ」
「知るか。難しいなら、余計にやれ」
不器用で、優しい。
ペルシアはくしゃっと笑った。
「……はいはい」
エリンがペルシアの肩を軽く叩く。
「で、役員に“言う”なら、私とタツヤとリュウジで、形作る。あなた一人で突っ込まない」
「え、私の見せ場が」
「ない」
「ひどい!」
「ひどくない。守るってそういうこと」
エリンが言い切る。
ペルシアは口を尖らせたまま、でも頷く。
「……分かった。分かったよ。ボロカスじゃなくて、事実ね」
「そう」
エリンが頷く。
「事実で、心を折る」
「怖いって!」
「褒め言葉」
「だから褒めてないって!」
また笑いが起きる。
でも笑いの端っこに涙が絡む。
ペルシアはふと真面目な顔になった。酔いで頬が赤いのに、目だけが冴えている。
「……ねえ。私さ」
「うん」
エリンが返事をする。
「管理局に行ったら、ずっと“守る側”にいる。だからさ、お願い」
ペルシアはリュウジを見て、次にエリンを見る。
「二人とも、勝手に壊れないで。私がいないからって、無茶しないで」
リュウジの眉が寄る。言い返したい。言い返せない。
代わりに、エリンを見た。少し丁寧に、でも敬語じゃない。
「……エリンさん、俺が無茶しないように見ててください」
エリンが泣き顔のまま苦笑する。
「私に丸投げしないで」
「でも、頼みます」
リュウジはほんの少し頭を下げた。
それがリュウジなりの“頼る”だった。
エリンはため息みたいに笑った。
「……分かった。見てる。その代わり、リュウジも私を止めて」
「……分かりました」
ペルシアが二人を見て笑った。泣きながら笑う。
「何それ。夫婦かよ」
「違う」
エリンが即答。
「違う」
リュウジも即答。
二人の声が重なって、ペルシアが腹を抱えて笑う。笑って、また涙が出る。
「ほら、仲良しじゃん……」
ペルシアはふらっと立ち上がって冷蔵庫の方へ行こうとして、よろけた。
リュウジがすっと手を伸ばして支える。倒れない程度に。
「おい、飲みすぎ」
「まだ飲む」
「水」
「やだ」
エリンが言う。
「水。命令」
「……はい」
ペルシアは不満そうに水を飲む。
飲みながら、ぽつりぽつりと呟いた。
「守りたいんだよ……ほんとに」
水のグラス越しに、涙が落ちる。
「守りたいから、行く。私の耳が役に立つ場所で……皆んな守る」
エリンがペルシアの背中を撫でた。撫でながら、自分も泣く。
「……うん。分かった。その代わり、あなたも守られて、一人で全部やらないで」
ペルシアは鼻を啜って頷いた。
「……分かったよ」
そして急に目を細める。子どもみたいな悪い顔。
「でもさ」
エリンが嫌な予感で眉を寄せる。
「なに」
「役員にはさ」
ペルシアは指を立てる。酔っているのに妙に力強い。
「辞める前に、絶対、言う。“ボロカス”はやめる。でも、刺す」
エリンが深く頷く。
「うん。刺そう」
リュウジが低く言う。
「……その時は俺もいる」
ペルシアが笑った。涙のままの笑顔。
「うん。頼んだ」
その瞬間、エリンの涙がまた溢れた。
ペルシアの肩に額を押し当てるみたいにして、声を殺して泣く。
「……やだな」
「やだね」
ペルシアも泣く。肩を震わせる。
「でも、やる」
リュウジは二人を見て目を閉じた。怒りを沈めるように。
そして開いて、短く言った。
「……やるなら、最後までやれ」
ペルシアが頷く。
その頷きはさっきより少しだけ重くて、少しだけ強かった。
今夜、決まったことは変わらない。
ペルシアは辞める。
それでも――守るという言葉は、ここで終わらない。
冷めたおつまみの匂いと、ビールと、涙と。
それ全部が混ざった部屋の中で、ペルシアは最後にもう一度、ぽつりと呟いた。
「……私、守る側に行く。だから、二人とも、守られ方、覚えといてよ」
エリンが泣きながら笑って、リュウジが小さく頷く。
その静かな頷きが、今夜の約束になった。