ペルシアは次の日、思ったよりも寝起きが良かった。
まるで全てを洗い流したかのように身体が軽く感じた。
――不思議なくらい。
昨夜、泣いて、喚いて、笑って、酒をあおって。
胸の奥に溜めていた泥みたいなものを、全部ひっくり返して吐き出したせいだろうか。
目を開けた瞬間、空気が澄んでいる気がした。
「……あ、私……生きてる」
独り言がふっと漏れる。
自分の声がやけに明るく聞こえて、ペルシアは小さく笑った。
だけど、その笑いはすぐに止まる。
ベッドの端に座ったまま、シーツを握る指先が白くなる。
軽い。身体は軽い。
でも、心は軽くない。
“決めた”から軽い。
“決めたから、もう戻れない”って分かってるから、逆に軽い。
ペルシアは深呼吸して、顔を洗って、髪をまとめた。
鏡の中の自分を見つめる。
目の下に少しだけ影。
それでも、目の奥には――昨夜まで無かった火がある。
「よし」
声に出して、自分に合図を送る。
ドルトムント財閥の旅行会社へ向かう足は、妙に迷わなかった。
⸻
会社に着くと、いつもの事務所の空気が出迎えた。
端末の起動音。紙の匂い。空調の乾いた風。
いつも通りなのに、ペルシアだけが“いつも通りじゃない”。
扉を開けた瞬間、エリンがこちらを見た。
目が合う。言葉はない。
でも、その目が言っている。
――本当にやるのね。
ペルシアは口角を上げた。
大丈夫、という顔を作る。作ってしまう。
リュウジは何も言わず、席を立った。
タツヤは、少し遅れて顔を上げる。
「……おはよ」
ペルシアが言うと、タツヤが眉を寄せた。
「おはよう〜。ってお前、その顔……何か決めた顔してるな」
「うん」
「うん、じゃない」
タツヤの声が低くなる。
エリンが一歩近づいて、タツヤの横に立つ。
リュウジも自然にペルシアの後ろに回った。
――逃げ道を塞ぐようで、守るようで。
ペルシアは笑って、ごまかすのをやめた。
「会議室、行こ」
「……は?」
タツヤが目を瞬かせる。
エリンが小さく息を呑む。
リュウジは黙ったまま、視線だけが鋭くなる。
ペルシアは歩き出した。
止まらない。振り返らない。
背後で椅子が軋む音がして、三人がついてくる足音が重なる。
⸻
会議室の扉を開けた瞬間、空気がひやりとした。
外の雑音が遠のき、ここだけ時間が遅くなる。
ペルシアは椅子の背に手を置いたが、座らない。
立ったまま、タツヤを見た。
「……それでどうしたの。急に」
タツヤは眉間に皺を寄せたまま、けれど、目だけは真剣だった。
嫌な予感を隠しきれない目。
ペルシアは一度、唾を飲み込む。
心臓がうるさい。
「私、辞める」
一瞬、音が消えた。
タツヤが固まる。
エリンが目を見開く。
リュウジの表情が、硬くなる。
「……は?」
タツヤの声がかすれる。
言葉を理解するまで時間がかかったみたいに、もう一度聞く。
「辞めるって……何を」
「ドルトムント財閥の旅行会社。辞める」
言った瞬間、タツヤの顔色が変わった。
怒りと困惑と、何より“守れなかった”みたいな痛みが混ざった顔。
タツヤはエリンとリュウジに視線を飛ばす。
「お前たちは知ってたのか?」
エリンが首を振る。声が少し震えた。
「昨日、初めて聞きました」
リュウジも短く頷く。
「俺もです」
タツヤは椅子に手をつき、天井を見上げるように息を吐いた。
それから、目を戻してペルシアを見据える。
「ペルシア、本気か?」
「ええ。本気」
即答だった。
その即答が、タツヤの胸をさらに刺したのかもしれない。
「……理由を聞いていいか?」
ペルシアは頷いた。
そして、昨日のことを話した。
十班のチーフパーサーが、エリンを潰すつもりだと動いたこと。
“処罰”だの“解雇”だの、ありもしない罪を塗りたくるつもりだという話。
プライドを傷つけられた復讐だということ。
そして、ペルシアが――頭を下げて「自分が辞めるから見逃してほしい」と言ったこと。
会議室の空気が、ぴりぴりと張り詰めていく。
エリンは唇を噛み、目に涙を溜めた。
リュウジは拳を握り、机の縁がきしむ。
最後に、ペルシアは小さく付け加えた。
「……約束もした。私が辞める代わりに、エリンには手を出さないって」
タツヤは黙って聞いていた。
顔を伏せたまま、長い沈黙が落ちる。
沈黙の間、ペルシアは自分の指先が冷えていくのを感じていた。
“言い訳”をしたいわけじゃない。
ただ、“決めた理由”を、ちゃんと見せたかった。
タツヤが顔を上げた。
目が――怒っている。
「……ペルシア」
呼び方だけで分かる。
冗談で流す空気じゃない。
「正直、そういうやり方は嫌いだ」
ペルシアの胸が、きゅっと縮む。
タツヤは続けた。
「何のために俺がいると思ってるんだ。お前が一人で頭下げて、一人で条件飲んで、一人で片付けるために、俺が班長やってると思ってるのか」
声が荒くなるわけじゃない。
でも、抑えている分だけ怖い。
ペルシアは視線を落とした。
言い返せない。
「……ごめんなさい」
頭を下げた。
本当に申し訳ないと思った。
タツヤの怒りが正しいことも分かっていた。
エリンの嗚咽が小さく漏れる。
涙をこぼさないようにしているのが、逆に痛い。
リュウジはペルシアを見たまま、低い声で言った。
「……勝手すぎる」
その言葉に、ペルシアの喉が詰まる。
“勝手”だ。分かってる。
でも、勝手でしか守れない現実があった。
タツヤは一つ息を吐いた。
怒りを吐き出すための息。
そして、ほんの少しだけ声の温度が落ちた。
「……で。ここを辞めて、どうする」
ペルシアは顔を上げる。
覚悟を作る。
「宇宙管理局に行きます」
エリンがハッと息を呑んだ。
リュウジの眉が動く。
タツヤは目を細めた。
「宇宙管理局……」
「宇宙管理局で、私が守りたいものを守る」
ペルシアは言った。
言いながら、胸が熱くなる。
「私は……リュウジもエリンもタツヤ班長も、ククルもエマもカイエも守りたい。そのために私の耳が活かせる場所で、みんなを守る」
言ってしまうと、涙が出た。
我慢できない。
口にした瞬間、痛みと愛しさが同時に溢れて、視界が滲む。
「ペルシア……」
エリンの声も涙で揺れている。
エリンは一歩前に出た。
手を伸ばして、ペルシアの腕を掴む。
「……いいの?やっぱり今ならまだ、間に合う。私のことはいいから、ペルシアは――」
「ダメ」
ペルシアは首を横に振った。
涙がぽろぽろ落ちる。
「戻ったら、また同じ。変わらない、変わらないどころか、十班のチーフパーサーがまた何かするかもしれない」
その言葉に、リュウジの目が鋭くなる。
怒りが剥き出しになる寸前で、タツヤがリュウジを見て首を振った。
今、爆発しても守れない。
タツヤは肩を落とした。
落とした肩が、今日はやけに重く見えた。
「……そうか」
短い言葉。
そこに諦めと、悔しさと、理解が全部詰まっていた。
タツヤは少し間を置いて、ふっと眉を上げる。
「宇宙管理局には、いつから誘われてたの?」
ペルシアは鼻をすすりながら答える。
「……前に、タツヤ班長に付いていったパーティで、局長が、声かけてきた」
「そんな前からかよ」
タツヤは苦笑した。
苦笑なのに、目は泣きそうだった。
「……まぁでも」
タツヤは、もう一度息を吐く。
怒りを飲み込む息。
そして、決める息。
「……いいんじゃない?」
ペルシアが目を見開く。
「え? いいの?」
エリンも驚いた顔でタツヤを見る。
リュウジも、ほんの少しだけ目を細めた。
タツヤは肩をすくめた。
「俺としては反対だよ、当たり前だろ。お前が辞めるのなんて、嫌だ」
その言葉に、ペルシアの涙が増える。
胸が痛い。
タツヤは続けた。
「でも……お前の顔見れば分かる」
「顔?」
ペルシアが頬を触る。
涙で濡れているだけなのに、何か変わって見えたのだろうか。
タツヤは、少しだけ笑った。
「久しぶりに、やる気に満ちた顔してる……腹立つくらい、前向いてる顔だ」
ペルシアは声にならない笑いを漏らした。
泣きながら笑う。最悪だ。
でも、嬉しい。
タツヤはエリンとリュウジに視線を向ける。
「だから、エリンもリュウジも……見送ることに決めたんでしょ」
エリンは、涙を拭いもせずに頷いた。
「はい。辞めるきっかけはどうであれ……ペルシアがやりたいことなら、応援したい」
リュウジも短く言った。
「……行かせるしかない」
その言葉が、刃みたいに胸に刺さる。
“しかない”――そうだ。
選択じゃない。現実だ。
ペルシアはもう一度、深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
タツヤは手を振った。
「やめろ、そういうの……何かあったら、いつでも相談しろ。辞めても、お前は十四班の仲間だ」
エリンの涙が、ぽろっと落ちた。
声が震える。
「……勝手にいなくならないで、いなくなるなら、ちゃんと戻ってきて……戻ってこれる場所、作っておくから」
ペルシアは顔を上げた。
涙だらけの顔で、笑った。
「……うん」
リュウジが、拳をほどきながら言う。
「宇宙管理局でも、お前はお前だ。だから……無茶はするな」
「誰に言ってんのよ」
ペルシアが鼻をすすって言い返すと、リュウジの口元がわずかに緩んだ。
タツヤが最後に、少しだけ声を強くした。
「じゃあまず、退職の手続きと、引き継ぎの段取りだ。やるなら、綺麗に辞めろ……俺が班長として、最後まで面倒見るから」
ペルシアは胸がいっぱいになって、言葉が詰まった。
泣きながら何度も頷く。
「……ほんと、嫌い。でもこういうとこ、好き」
「どっちだよ」
タツヤが苦笑する。
会議室の空気が、ほんの少しだけ温かくなる。
でも、終わりじゃない。
始まりでもない。
ただ――決まった。
ペルシアがここを辞めること。
そしてそれを、四人で受け止めること。
ペルシアは、涙を拭いて、もう一度深呼吸した。
逃げないための呼吸。
守るための呼吸。
そして、静かに言った。
「……じゃあ、行くよ。私、守りに行く」
エリンが泣きながら笑った。
「ええ。行ってらっしゃい」
リュウジが短く頷く。
「行け」
タツヤが、少しだけ照れくさそうに言った。
「……行ってこい。バカ」
ペルシアは、泣きながら笑って、頷いた。
ーーーー
その後のペルシアは早かった。
会議室を出た足で事務室へ戻ると、いつもなら机の上に転がっているペンやメモ、飲みかけの缶が――今日は一つもない。
ペルシアは自分の席に座るなり、端末を立ち上げ、指を走らせた。
カタ、カタ、カタ……。
打鍵の音が、妙に乾いて響く。
速い。迷いがない。
まるで“今この瞬間だけ”は、泣くことも悩むことも禁止だと決めたみたいに。
画面には「引き継ぎ」「担当業務一覧」「定期便対応フロー」「非常時報告の提出先」――見慣れた項目が次々と並ぶ。
端末の隅で、ペルシアの名前が、何度も何度も入力される。
周りは、ひそひそと視線を送った。
何があった。
どういう風の吹き回しだ。
サボり癖の塊みたいなあいつが、なぜ今そんなに真面目に。
ペルシアは気づいていないふりをする。
気づいていても、気づかないふりをする。
ペルシアの背中は、いつもより少しだけ細く見えた。
その背中を、エリンが黙って見ている。
リュウジも横目で追っている。
声をかければ崩れると、二人とも分かっていた。
――そのとき。
「ペルシア」
タツヤの声が、事務室の空気を切った。
ペルシアの指が止まる。
ほんの一拍遅れて、椅子が軋む音とともに、ペルシアが立ち上がった。
「はーい、班長」
いつもの軽口。
だけど、笑っていない。
タツヤは目だけで告げた。
「……役員室。提出に行く」
ペルシアは一瞬だけ瞬きをして、すぐ頷いた。
「私も行く」
「……お前が?」
「当たり前でしょ。私の退職届だもの」
その言い方が、あまりに真っ直ぐで。
タツヤは苦い顔のまま、短く息を吐いた。
後ろで、椅子が引かれる音。
エリンとリュウジが立ち上がろうとしたのが分かる。
――ペルシアは振り返らない。
ただ、視線だけを後ろへ流して、二人を止めた。
“来なくていい”
声にしない。
目だけで伝える。
“大丈夫。ちゃんとやれる”
“ここは私の仕事”
エリンの眉がわずかに寄る。
リュウジの唇がきゅっと結ばれる。
それでも二人は、立ち上がるのをやめた。
ペルシアはそれを確認して、タツヤの横に並んだ。
「行こ」
タツヤは頷き、歩き出す。
廊下に出た瞬間、事務室のざわめきが背中に刺さった。
でも、ペルシアは止まらない。
⸻
役員室の前は、いつも空気が重い。
廊下の照明まで、ここだけ白く冷たく見える。
タツヤがノックをする。
中から「入れ」という短い声。
扉が開いた瞬間、甘い香りがした。
香水だ。
それが余計に鼻につく。
部屋の奥には、大きな机。
背もたれの高い椅子に座る役員が二人。
片方は眼鏡の奥で目を細め、もう片方は指で机を軽く叩いている。
「……十四班の班長。何の用だ」
タツヤが一歩進み、背筋を伸ばす。
「失礼いたします。提出がありまして」
タツヤの声は落ち着いている。
だが、その横で、ペルシアは――少しだけ顎を上げた。
役員の目がペルシアを捉える。
「……お前は?」
「十四班、ペルシアです」
役員が鼻で笑う。
「お前がここに来る理由はない。退室しろ」
タツヤが口を開こうとするより早く、ペルシアが言った。
「あります」
短い。
きっぱり。
その場の空気が一段と凍る。
タツヤが横目で“やめろ”と止める。
ペルシアは横目で“任せて”と返す。
役員が机を指で叩く音が止まった。
「……何だ」
ペルシアは、胸ポケットから書類を取り出し、机の上に置いた。
退職届。
その文字が見えた瞬間、役員の眉が動く。
「ふざけているのか」
「ふざけてません」
「お前は“耳”がある。替えが効かない人材だ。辞めるなど認めない」
その言葉に、ペルシアの口角がほんの少し上がった。
笑みではない。
“嗤い”に近い。
「替えが効かないなら、今まで大事に扱えばよかったじゃないですか」
タツヤの肩がわずかに揺れる。
息を呑むのを、ペルシアは聞き取った気がした。
役員の片方が、低い声で言う。
「……口の利き方を――」
「事実だけ言います」
ペルシアは被せた。
エリンに言われた言葉を、わざと口に出す。
自分への鎖にするために。
「私は現場で、規則と数字で命を踏む人間を見てきました」
「安全を最優先にするべき場所で、優先順位が“体裁”になっているのを見てきました」
役員が目を細める。
「具体的に言え」
「具体的に言うと、あなた方は“現場を見ていない”」
言い切った。
机を叩く音が戻る。
役員の指が苛立ちを刻む。
「……十四班が偉そうに」
「偉そうにしてるんじゃない」
「偉いなら、責任を取ってくださいって言ってるんです」
ペルシアの声は震えていなかった。
震えないように、喉の奥に釘を打っている。
タツヤが静かに口を挟む。
「失礼いたします。ペルシアの退職は本人の意思です。引き継ぎは――」
「黙れ、班長」
「お前は操縦もしないのに籍を置けている分際で、何を――」
その瞬間、タツヤの目が細くなる。
怒りが、表面に出る前の怖さ。
ペルシアは、タツヤを守るみたいに一歩前に出た。
「班長を侮辱するなら、私の話はここで終わりです」
「……脅すのか?」
「脅してません」
「選ばせてるだけ」
「私の退職を受理するか、現場があなた方を見限るか」
役員の片方が鼻で笑った。
「現場が見限る? 現場は従う。従わせる」
ペルシアは、笑わなかった。
その代わり、刺すように言った。
「従わせるだけなら、誰でもできる」
「あなた方がやってるのは、指揮じゃなくて“恐怖”です」
役員の顔が歪む。
「……言い過ぎだ」
「言い過ぎじゃない」
「“やる気がある人間”ほど消えていく会社って、普通ですか?」
タツヤが小さく息を吐いた。
止めるか迷っている息。
でも止めなかった。
ペルシアに喋らせると決めた顔だった。
役員が冷たく言う。
「お前が辞めたところで、何も変わらない。お前一人が消えるだけだ」
ペルシアは、わずかに瞼を伏せた。
「変わらないなら、なおさら辞めます」
「私はここで“守る”仕事がしたかった」
「でもここは、“守る人間”を守らない」
部屋の空調の音だけが、しばらく聞こえた。
役員の片方が、ゆっくりと椅子にもたれかかる。
「……宇宙管理局に行くという噂がある。そうか」
その言葉に、タツヤが眉を動かす。
役員室には、情報が回っている。
当然だ。ここはそういう場所だ。
ペルシアは動じないふりをして、頷いた。
「はい」
「なら、なおさら好都合だ。裏切り者は早く切れる」
その言い方が、あまりにも軽くて。
タツヤの拳が握られる。
ペルシアの胸の奥で、熱いものが弾けた。
でも――約束がある。
ここで暴れて、余計な火種を残したら、守れない。
エリンを守るために辞めると決めたのに、エリンの足元を燃やしたら意味がない。
ペルシアは唇を噛んで、言葉を選んだ。
「裏切り者で結構」
「ただ一つだけ、言っておきます」
役員が目で促す。
ペルシアは、まっすぐ見た。
「現場は、あなた方が思ってるほど愚かじゃない」
「誰が命を守って、誰が命を数字にしてるか――ちゃんと見てる」
役員の片方が、苛立ちを隠さず言った。
「……もういい。退職届は受理する」
「ただし、守秘義務は徹底しろ」
「余計なことを喋れば――」
「喋りません」
即答だった。
“約束を守る”という意味でも、
“あなた方に餌をやらない”という意味でも。
タツヤが深く頭を下げる。
「失礼いたします」
ペルシアも、最低限の礼だけはした。
頭を下げながら、最後に一言だけ落とす。
「……役員室って、息が詰まりますね」
それは挑発じゃない。
本音だった。
扉が閉まる。
廊下に出た瞬間、ペルシアの肺に空気が流れ込んだ。
生き返るような感覚。
タツヤが、歩きながら小さく言う。
「……お前、刺しにいったな」
「刺したよ」
「約束守りつつね」
「エリンに怒られるぞ」
「もう怒られてもいい」
「怒られても、守れたならいい」
タツヤは何も言わなかった。
その沈黙が、ペルシアには救いだった。
⸻
事務室に戻ると、視線が一斉に集まった。
戻ってきた二人の空気が、いつもと違う。
何かが“終わった”空気だ。
ペルシアは、笑って手を振ろうとして――やめた。
今笑ったら、崩れる。
タツヤが周りに向かって短く言う。
「……業務に戻れ」
その一言で、視線が散る。
散ってくれる優しさに、ペルシアは喉が熱くなった。
ペルシアは自分の机に向かい、最後の引き継ぎデータを送信する。
送信完了の表示が出て、画面が静かになる。
業務終了のチャイムが鳴った。
ペルシアは立ち上がり、タツヤの前に行く。
椅子の足が床を擦る音が、やけに大きく響く。
「……私はこれで帰る」
タツヤが顔を上げる。
「皆に挨拶は?」
ペルシアは、少しだけ口元を歪めた。
「さよならは嫌い」
その声が、かすかに揺れた。
肩が、微かに震えている。
タツヤはそれを見て、眉を寄せる。
次の瞬間、荒っぽくペルシアの頭を撫でた。
「……バカ」
ペルシアは笑おうとして、笑えない。
涙が出そうで、出ない。
喉の奥が痛い。
ペルシアはタツヤを見上げて、早口で言った。
泣く前に言い切るために。
「タツヤ班長、私の空いた穴は十班のミラを入れてあげて」
「あの子、磨けばきっと戦力になるから」
「分かった」
「それと――」
ペルシアは続けた。
息を吸って、吐いて、それでも声が湿る。
「エリンとリュウジは、一人で背負い込む癖があるから、ちゃんと見ててあげて」
「分かってる」
「ククル、カイエ、エマは真面目だから、ちゃんと息抜きさせてあげて」
「ああ」
淡々と返すタツヤの声が、少しだけ掠れていた。
ペルシアはそれがたまらなくて、視線を落とす。
「……それと、それと……」
言葉が詰まる。
ここが、一番言いたいのに、一番言えない。
喉が震える。
目の奥が熱い。
ペルシアは、とうとう涙を堪えきれなくなった。
ぽろ、と落ちる前に、言った。
「タツヤ班長……ありがとうございました」
声が泣いていた。
泣かないつもりだったのに、泣いていた。
タツヤは一瞬だけ目を閉じて、また頭を撫でた。
さっきより優しく、乱暴に。
「……行ってこい」
「守るなら、守り抜け」
ペルシアは頷く。
涙が落ちる。
それでも、笑った。
「うん」
そしてペルシアは、振り返らずに歩き出した。
振り返ったら、最後になってしまうから。
扉の前で一度だけ立ち止まり、背中のまま言う。
「……またね」
さよならじゃない。
またね。
そう言って、ペルシアは事務室を出た
ーーーー
ペルシアが出ていった扉が閉まったあとも、事務所の空気はしばらく戻らなかった。
いつもなら誰かの軽口や、椅子を引く音、端末の通知音が混じって“いつもの仕事場”が勝手に動き出すのに――今日は、誰も動き出せない。
タツヤは、ペルシアの席を一度だけ見た。
そこには何もない。
いつもなら、あの子が座って、笑って、毒づいて、あくびしていたのに。
机は綺麗すぎるほど整っていて、逆に胸が痛くなる。
タツヤは咳払いをひとつして、事務所の中央に立った。
「……みんな、ちょっといいか」
その声で、全員が視線を上げる。
リュウジは手元の資料から目を離し、エリンはペンを置き、ククルとエマは立ち上がりかけたまま止まる。
カイエは、まだ理解する前の顔で、タツヤを見た。
「ペルシアの件だ」
タツヤの声が、少し掠れている。
それが余計に嫌な予感を呼んだ。
「……今日で、辞める」
言葉が落ちた瞬間、事務所全体が“ざわ”ではなく、“どよめき”に揺れた。
「え……?」
「辞めるって……」
「今、何て……?」
ククルが目を見開き、エマが口元に手を当てた。
十四班の誰もが一度は想像して、でも見ないふりをしてきた結末が、いま現実になった。
タツヤは短く続けた。
「本人は『さよならは嫌い』ってさ。だから……これでさよならだ、って言って帰った」
冗談みたいな言い方なのに、笑える空気じゃない。
むしろ、その言い方がペルシアらしすぎて、胸の奥が苦しくなる。
そして――。
「……ちょっと、待ってください!」
声を上げたのはカイエだった。
驚きと怒りと、追いつかない悲しさが混じった顔で、タツヤに詰め寄る。
「どうしてペルシアさんが!? そんなの、聞いてません!」
「本人の希望だ」
タツヤは静かに言った。
静かすぎて、カイエの苛立ちが余計に浮き立つ。
「宇宙管理局で、皆を守りたいそうだ」
「……本当ですか!」
カイエの声が震える。
「もしかして、まだ十班の件が――!」
「カイエ」
エマがカイエの腕に触れて止めた。
ククルも慌てて頷く。
「カイエ、落ち着いて……」
けれどカイエは止まらない。
止まれない。
胸の中に溜め込んでいたものが、いま一気に溢れそうだった。
「だって……! ペルシアさんが辞めるなんて!」
タツヤは一度だけ目を閉じ、ゆっくり首を振った。
「十班の件は関係ないよ。ペルシアが決めた道だ」
「本当に……本当に本当ですか!?」
カイエが食い下がる。
その視線が、タツヤだけでなく、エリンへと向く。
エリンは、何も言えなかった。
言えば余計に傷つけると分かっている。
でも黙れば黙るほど、“隠してた”が事実になる。
カイエの唇がきゅっと噛み締められる。
そして、鋭い声が飛んだ。
「……私が気づいてないと思ってましたか!」
事務所の空気が張りつめた。
エリンの肩が小さく揺れる。
返事を探すように口が開きかけて――閉じる。
それが答えになってしまった。
「……っ、くそ!」
カイエは机を軽く叩き、踵を返した。
「カイエ!」
ククルが追いかけようとする。
けれど――リュウジが、低い声で止めた。
「行かせてやれ」
ククルが立ち止まる。
エマも息を呑む。
リュウジは、拳を握りしめたまま、視線だけを扉の方へ向けていた。
「……あいつは、今、一人だ」
その一言が、背中を押した。
カイエは、事務所を飛び出した。
⸻
廊下の空気が冷たい。
足音が響く。
自分の呼吸がうるさい。
エレベーターは遅い。
カイエは階段を選んだ。
制服の裾が揺れ、息が切れる。
――間に合え。
間に合え。
心臓が喉まで上がってくる。
こんなに走ったのはいつ以来だろう。
それでも、止まったら、追いつけなくなる気がした。
ロビーへ出る扉を押し開けた瞬間――見えた。
ガラス扉の向こう、外へ出ようとする後ろ姿。
ハイヒールの音。
いつもの歩き方。
いつもの、ペルシア。
「……ペルシアさん!!」
声が裏返った。
恥ずかしいほど必死な声。
ペルシアが足を止める。
振り返った顔は、いつもの“からかう顔”ではなかった。
「……カイエ?」
驚いたように目を丸くして、それから少しだけ眉を下げる。
「なに、走ってきたの? 息、死んでるじゃない」
軽口。
でも、その声は優しい。
カイエは息を整える暇もなく、真っ直ぐ詰め寄った。
「……どうして、何も言わずに辞めるんですか」
ペルシアの笑みが、ふっと消える。
視線が一瞬だけ揺れて、それでも逸らさない。
「言ったら止めるでしょ」
「止めます!」
即答だった。
「止めるに決まってます! だって……だって、ペルシアさんがいない十四班なんて……!」
言葉が詰まる。
涙が出そうで、出ない。
それが余計に苦しい。
ペルシアは小さく息を吐いた。
その吐息の音すら、カイエには痛い。
「……十四班は、私がいなくても回るよ」
「回りません!」
カイエは強く言った。
強く言ってしまったせいで、声が震えた。
「回るとか、回らないとかじゃない。私たちは……ペルシアさんがいるから、“十四班”なんです」
ペルシアの目がわずかに潤む。
でもペルシアは笑おうとする。
「なにそれ、口説いてんの?」
「ふざけないでください!」
カイエの涙が、ついに零れた。
ぽろ、と頬を伝う。
「……私、悔しいんです」
言葉が震える。
胸がぎゅっと潰れる。
「あなたが十班で、私たちの代わりに戦って、ボロボロになって。それでも最後まで、現場を守って……」
カイエは拳を握った。
「なのに、辞めるのはペルシアさんで残るのは、私たちで……そんなの、納得できない」
ペルシアのまつ毛が震える。
目の奥が赤い。
それでも、ペルシアは一歩だけ近づいて、カイエの肩に手を置いた。
「……カイエ」
呼ばれただけで、カイエの喉が詰まる。
「あなた、真面目すぎ」
「……うるさいです」
「うるさいのは私の役目だったんだけどね」
ペルシアの声が、少し掠れた。
“泣いてないふり”が崩れかけている。
「ねぇ、聞いて」
ペルシアは、カイエの目を真っ直ぐ見た。
「私が辞めるのは、逃げじゃない」
「……じゃあ、何ですか」
ペルシアは、ゆっくり言った。
「守るため」
カイエの眉が寄る。
「守るって……十四班を?」
「うん。十四班を。それと――この会社にいる限り、守りきれないものを」
ペルシアは、自分の胸のあたりを指で軽く叩いた。
「私の耳ってさ、便利なんだよ。嫌な噂も、危ない兆しも、嘘も、焦りも、全部、拾う」
カイエは息を呑む。
ペルシアは淡々と続けた。
「でもこの会社じゃ、その耳は“道具”として扱われる。守るための耳じゃなくて、上の人間が自分の立場を守るための耳」
ペルシアの唇が、ほんの少し歪む。
「そんな場所で、私が守りたいものを守れると思う?」
カイエは答えられない。
答えたくない。
ペルシアは、視線を落とし、少しだけ笑った。
「だから宇宙管理局に行く、そこなら、私の耳は“守るため”に使える」
「……それで、皆を守るって言うんですか」
「言う」
ペルシアは頷いた。
その頷きが、強い。
「リュウジも、エリンも、タツヤ班長も、ククルもエマも……カイエも。私が守りたいのは、そういう“人”だから」
カイエの涙が止まらない。
「……だったら、ここにいても守れます」
「守れない」
ペルシアは即答した。
冷たいのではなく、決意が硬い。
「ここにいたら、いつか私が壊れる。壊れたら、誰も守れない」
カイエの肩が震える。
「……私が、もっと強かったら」
「違う」
ペルシアが首を振る。
「カイエは強いよ。強いから、こうして追いかけて来た。強いから、悔しいって言えた」
ペルシアの声が、急に優しくなる。
「それに……、お願いがある」
「……お願い?」
ペルシアは、カイエの手を取った。
指先が少し冷たい。
それが“今まで我慢してた”証拠みたいで、カイエの胸が痛む。
「私がいない間、エリンを守って」
カイエが目を見開く。
「エリンさんを……?」
「うん」
ペルシアは笑いかける。
でも、その笑みは泣きそうだった。
「エリンってさ、完璧に見えるでしょ。でも、完璧なふりをしてるだけ。本当は、誰よりも背負い込む」
カイエの喉が詰まる。
思い当たる。
何度も。
「リュウジもね。あいつも同じ。強いふりが上手すぎて、壊れるまで誰も気づけない」
ペルシアは息を吸う。
目尻に涙が溜まる。
「だから……カイエ、頼む。あなた、真面目で、優しくて、気づける人だから」
カイエは唇を噛み締めた。
泣きながら、頷く。
「……そんなの、当たり前です」
「当たり前って言えるの、ほんと強い」
ペルシアの涙が一粒、落ちた。
それを見た瞬間、カイエの胸が壊れそうになる。
「……ペルシアさん」
「なに」
「……私、ペルシアさんみたいにはなれません」
ペルシアが首を傾げる。
「なれなくていいよ」
優しい声。
「カイエはカイエでいい。あなたの真面目さ、私、結構好きだし」
カイエは泣き笑いになる。
「……ずるいです」
「私、ずるいの得意だから」
ペルシアは、笑って、涙を拭う。
でも拭いきれない。
カイエは、震える声で言った。
「……行くなら、絶対に戻ってきてください」
ペルシアは一瞬黙って――それから、ゆっくり頷いた。
「約束はしない」
「……え」
カイエの顔が崩れる。
その瞬間、ペルシアが慌てて続けた。
「違う違う、そういう意味じゃなくて」
ペルシアは苦笑いして、泣きながら言う。
「“戻ってくる”って言ったら、さよならになっちゃうでしょ!私はさよならが嫌いなの」
カイエは目を見開き、また涙が溢れる。
ペルシアは、カイエの額に自分の額を軽く当てる。
子どもみたいな距離。
でもそれが、今は一番温かい。
「だから言うのはこれ」
ペルシアは小さく、でもはっきり言った。
「――あとは任せた」
カイエの肩が震える。
その言葉の重さに、泣きながら頷く。
「……任されました」
「うん」
ペルシアは一歩離れて、いつもの顔に戻ろうとする。
でも戻りきらない。
「カイエ、笑って」
「……無理です」
「じゃあ泣いてていい。でも、ちゃんと息して」
その言い方が、ペルシアらしくて。
カイエは苦しくて、愛しくて、泣きながら笑った。
「……はい」
ペルシアも泣きながら笑う。
「よし」
そしてペルシアは、踵を返した。
行ってしまう。
カイエは、最後に叫んだ。
「ペルシアさん!!」
ペルシアが振り返る。
「――私、ペルシアさんのこと、尊敬してます!」
言った瞬間、カイエの顔が真っ赤になる。
でも引っ込めない。
ペルシアは目を丸くして、次の瞬間、ふっと笑った。
涙が頬を伝ったまま。
「……知ってる」
そして、いつもの調子で付け足す。
「だからちゃんと守りなさいよ、十四班。私の好きな場所、壊したら許さないから」
カイエは泣きながら、力いっぱい頷いた。
「……はい!」
ペルシアは手を振った。
軽く。
さよならじゃない合図。
カイエはその場に立ち尽くし、扉が閉まるのを見送った。
胸の奥が痛い。
でも、同時に――背中に、火が灯る。
“あとは任せた”
その言葉が、重いからこそ。
カイエは涙を拭き、息を吸って、立ち上がった。
守る。
ペルシアが守りたかったものを、ここで守る。
彼女がいなくなった穴は、埋まらない。
でも――崩さない。
カイエは、事務所へ戻るために歩き出した。