次の日の朝――事務所の扉が開く音は、いつもより少しだけ乾いて聞こえた。
ペルシアの席は、まだそこにある。
椅子も、机も、端末も。
でも“気配”だけが決定的に欠けていて、そこだけ空洞みたいに見える。
タツヤはコーヒーを片手に、ぼんやりとその席を見てから、わざとらしく咳払いをした。
「よし。今日は……今日からだ。切り替えるぞー」
軽い調子にしたつもりが、声の端に僅かな引っかかりが残った。
それでも言わなきゃ始まらない。
十四班は、止まったら一気に崩れることを誰より分かっている。
エリンは机の上の書類を整えながら、タツヤを横目で見た。
「タツヤ班長、声が裏返ってます」
「今日は朝から湿度が高いんだよ」
言い訳が雑すぎて、ククルが小さく笑ってしまう。
エマも口元を押さえて、目を細めた。
リュウジは笑わない。
いつものように静かに端末を叩き、ただ、ふとした瞬間にペルシアの席へ目がいき、すぐ戻す。
何度も。
その癖が、喪失感を隠せていない。
そこへ――。
廊下の向こうから、コツ、コツ、と少し慌てた足音。
扉が開き、段ボール箱を抱えた女性が姿を現した。
「……し、失礼します!」
肩が上がっていて、声が裏返りそうで、目が泳いでいる。
けれど背筋だけは必死に伸ばしている――昨日、十班でお茶を運んできた新人。
「ミラです! 本日付で十四班に配属になりました! よろしくお願いします!」
声が高い。
緊張が全身から溢れている。
一瞬、事務所の空気が“止まって”、次の瞬間、ぱっと緩んだ。
「よろしく〜」
「お、来た来た」
「ミラちゃん、だよね?」
返事が重なり、ミラは反射で段ボールを抱え直す。
抱え直した拍子に箱の端が少し揺れて、ミラの顔がさらに赤くなった。
エリンが立ち上がり、すっと歩み寄る。
その動きには、無駄がなくて、柔らかい。
「ミラ、来てくれてありがとう。こちらこそよろしくね」
「は、はいっ!」
ミラの返事が元気すぎて、今度はタツヤが笑う。
「元気だなぁ。十四班、朝から明るくなるね」
ミラは「えへへ」と笑おうとして、やっぱり緊張で引き攣りかけ、慌てて口を閉じた。
その不器用さが、逆に可愛い。
エリンはミラの段ボールに目を落とす。
「それ、重かったでしょ。机の横に置いていいよ。配置はあとで決めるから」
「は、はいっ……!」
ミラが箱を下ろそうとして、手が滑りかけた。
その瞬間、カイエがすっと前へ出て、箱の底を支えた。
「大丈夫。角を当てないように、ゆっくり」
「す、すみません……! ありがとうございます!」
「謝らなくていいよ。最初はみんなそう」
カイエの声は柔らかい。
昨日の“怒り”の余韻が嘘みたいに、丁寧で、温度がある。
でもその柔らかさが、努力で作っているものだと、近くにいるエリンには分かる。
エリンはミラを見て、少し考えるように瞬きをしてから言った。
「ミラの教育係……カイエにお願いしようかしら」
その言葉に、ミラが目を見開く。
「えっ、わ、私……カイエさんに……!?」
「うん。カイエなら基礎を綺麗に教えられるし、現場の判断も速い。あと、あなたと歳も近いでしょ」
ミラは嬉しそうにしながらも、怖がっている。
“期待”が眩しすぎて眩暈がしそうな顔だ。
「わ、分かりました」
カイエは短く頷いた。
それからミラに視線を合わせて、口角をほんの少し上げる。
「よろしくね。そんなに緊張しなくていいよ。十四班は……怖い人、いないから」
その言い方で、エマが「いるけどね」と小声で呟き、ククルが笑いを噛み殺した。
タツヤは聞こえないふりをして、わざと大きく頷く。
「よし、決まり。カイエ、色々説明してあげて」
「分かりました、班長」
カイエはミラに軽く手招きする。
「じゃあ、第一会議室行こう。座って話した方が落ち着く」
「は、はい! よろしくお願いします!」
ミラは段ボールを抱え直そうとして――カイエがすぐ止めた。
「それは後で。まずは体と頭を落ち着かせる。大事」
「……は、はい」
ミラが頷く。
その“はい”がさっきより少し小さくて、ほんの少しだけ自然だった。
二人が第一会議室へ向かって歩き出す。
背中を見送りながら、事務所の空気が少しだけ軽くなる。
新しい風が入ってきた、というより――閉じかけた窓を、また開け直した感じ。
エリンはその空気の変化を確かめるように息を吸い、タツヤを見た。
「タツヤ班長、私たちも行きましょう。リュウジも」
「……はい。分かりました」
リュウジは端末を閉じ、立ち上がった。
“はい”の声がいつもより硬い。
でも、立ち上がる速度は迷っていない。
前へ進むと決めた足だ。
⸻
ー第一会議室ー
カイエがドアを開けると、会議室は少しひんやりしていた。
ミラは椅子を引く音すら大きく感じてしまって、ぎこちなく腰を下ろした。
「えっと……何から説明しますか」
ミラが緊張で息を早くする。
カイエはそれを見て、先にコップの水を差し出した。
「まず水飲んで。」
「……はい、ありがとうございます」
ミラが一口飲む。
少し肩が下がった。
カイエは深く息を吸い、机の上にメモ端末を置いた。
「じゃあ、十四班の“基本”からね」
「き、基本……」
「うん。十四班って、派手な技があるわけじゃない」
カイエは言葉を選びながら、淡々と続ける。
「私たちは“空気を整える”のが仕事。お客さんの不安を増やさない。小さな火種を大きくしない。トラブルを起こさない、じゃなくて、起こる前に潰す」
ミラの目が真剣になる。
カイエの声に引っ張られて、少しずつ呼吸が落ち着いていく。
「そのために必要なのは、スキルより“癖”」
「癖……?」
「そう。目線の置き方、歩き方、返事の速さ、声の高さ。あと、手の位置。揺れる船内だと、手の位置が悪いだけで事故になる」
カイエはミラの手元を見る。
ミラの指先は、膝の上でぎゅっと握られていた。
「……それと、緊張してると声が上ずる。上ずると、お客さんの不安を煽る」
「……わ、私、今……」
「上ずってる」
カイエははっきり言う。
でも責める口調じゃない。
「でもね、直せる。だから大丈夫」
ミラの目が潤む。
嬉しいのか怖いのか分からない。
「直し方は簡単。息を吐いてから喋る。返事をする前に、半拍だけ間を作る」
カイエは実演するように、わざと小さく息を吐き、落ち着いた声で言った。
「……はい、承知しました」
ミラがそれを真似する。
「……はい、しょうちしました」
「今の、いい。もう一回」
「……はい、承知しました」
「うん。声が下がった」
ミラが少しだけ笑った。
緊張の鎧が、ほんの一枚剥がれた感じ。
カイエは頷き、次の話題へ移る。
「あとね、十四班は“助けを呼ぶ”のが早い。これは恥じゃない。むしろ強さ」
「助けを呼ぶ……」
「そう。自分だけで抱えると、必ず遅れる。遅れると、乗客は不安になる。不安になると、空気が崩れる」
ミラは何度も頷いた。
カイエは一度だけ視線を落とし、ペルシアの席を思い浮かべる。
言わない。ここでは言わない。
“心機一転”のために、この会議室はある。
「ミラ、質問ある?」
「……あ、あります! 私、昨日……すごく怒られて……」
「十班で?」
ミラが頷く。
「“他言無用”って言われて……でも、私、怖くて……」
カイエは首を振った。
「昨日のことを責めない。ここでは“学ぶために話す”なら大丈夫」
ミラがほっと息を吐く。
「……十四班って、厳しいですか」
その問いは、ミラの覚悟の確認だった。
カイエは少し考えてから言った。
「厳しいよ。だけど、“人”に厳しいんじゃなくて、“仕事”に厳しい」
そして、少しだけ笑う。
「それに、十四班は……守るよ」
ミラは目を丸くする。
「守る……?」
「うん。新人を放っておかない。事故が起きないように、ちゃんと一緒に立つ」
ミラの目が潤む。
その瞬間、カイエは机の上のメモを指で軽く叩いた。
「泣くのはあと。まず覚える」
「……はい!」
ミラの声が、さっきより落ち着いていた。
⸻
ー第二会議室ー
エリン、タツヤ、リュウジの三人が入ると、第二会議室は静かだった。
扉が閉まる音が妙に大きく聞こえる。
タツヤが椅子に座り、肘をつく。
そして、深いため息。
「……さて。現実問題だ」
エリンが頷く。
「空いた副パーサーを、誰にするかですね」
リュウジは黙っている。
この話題の中心が“客室”であること、そして十四班の体制の話であることを理解しているから、必要な時だけ口を開く構えだ。
タツヤは頭を掻いた。
「十四班はまだ若いメンバーが中心だ。すぐには決められない」
「ええ」
エリンは即答した。
即答できるほど、同じ悩みを昨日から何度も繰り返している。
「副パーサーって、“技術”より“背負う力”が必要です。責任を受け止める器。誰か一人に急に背負わせたら、壊れます」
「……だよな」
タツヤが頷く。
声が少しだけ低い。
「ペルシアは背負いすぎて……結果、外に出た」
言い方は淡々としているが、喉の奥が詰まっている。
タツヤはそれ以上言わず、話を戻す。
「今の候補は……現実的にはカイエ、ククル、エマ。あとはミラはまだ無理。で、エリンは……」
タツヤが言いかけて止める。
エリンの仕事量が限界に近いのを、班長として理解しているからだ。
エリンはその“止めた”を拾って言った。
「私は暫定で全体を見ます。ただ、正式なポストはすぐ決めない。しばらく“役割分担”で回したいです」
「役割分担?」
タツヤが眉を上げる。
エリンは端末を開き、簡単な構成案を出す。
「例えば、定期便ごとに“当番副パーサー”を立てる。主にブリーフィングと備品管理と新人フォローを担当。責任は分散するけど、経験は積める」
「なるほど」
タツヤが頷きかけた、その時。
「……一点、よろしいですか」
リュウジが口を開いた。
エリンが視線を向ける。
「なに」
「当番制にすると、判断基準が日によって変わる可能性があります。乗務員にとっては混乱の原因になります」
言い方は丁寧だが、指摘は鋭い。
タツヤが「確かに」と頷く前に、エリンが答えた。
「そこは私が“基準”を固定する。役割は回しても、ルールは一本にする」
リュウジが少しだけ安心したように頷く。
「……それなら問題ありません」
タツヤは腕を組んだ。
「でもさ、エリン。お前が固定し続けるなら、結局お前が背負うことになる」
「背負います」
エリンは迷いなく言う。
その即答が、逆に危うい。
タツヤは天井を見る。
「……お前、ほんと頑固」
「班長もです」
「俺は頑固で飯が食えるんだよ」
「それ自慢にならない」
二人の軽口が、少しだけ会議室の空気を柔らかくする。
“心機一転”には、こういう呼吸が必要だった。
タツヤは机を軽く叩いた。
「よし。じゃあ暫定案はそれでいく。副パーサーは“決めない”。“育てる”」
エリンが頷く。
「はい。育てながら、見極めます」
リュウジが短く言った。
「俺にできることがあれば言ってください」
タツヤがリュウジを見る。
「操縦の調整とか、スケジュールの融通とかか?」
「はい。長距離や負担が偏る便があれば、可能な範囲で調整します。乗務員の疲労が溜まれば、客室も崩れますから」
当たり前を言っているだけなのに、そこにはリュウジなりの“守り方”がある。
エリンはそれを聞いて、少しだけ目を細めた。
「……ありがとう」
リュウジは小さく頷く。
その仕草が、昨日より少しだけ柔らかい。
タツヤは椅子から立ち上がった。
「じゃ、戻るか。ミラも来た。今日から十四班、また新しい形だ」
エリンも立つ。
扉に手をかける直前、エリンが言った。
「班長」
「ん?」
「“さよなら”は嫌いでも、“前に進む”のは嫌いじゃないですよね、私たち」
タツヤは一瞬黙ってから、鼻で笑った。
「当たり前だろ」
リュウジは小さく呟く。
「……はい。進みましょう」
扉が開く。
事務所の空気が流れ込む。
段ボールの角が机に当たる音。
ミラの「はい!」という返事。
カイエの落ち着いた指示。
ククルの笑い声。
エマの「そこ危ないよ」という柔らかい声。
ペルシアの声はもうない。
でも、ペルシアが残した“癖”は、まだここにある。
十四班は、今日も“空気を整える”ために動き出した。
ーーーー
宇宙管理局のロビーは、静かだった。
静か――というより、音が“選別”されている。
人の足音は吸い込まれるように短く、端末の操作音は耳に刺さらない低いクリックで、空調の風は一定の温度と湿度を保ったまま淡々と循環している。
不思議と、落ち着く音だった。
雑音がないのに、無音じゃない。
むしろ「ここは動いている」と、身体の奥が理解できる種類の音。
ペルシアは受付カウンターの前で、背筋を伸ばしていた。
いつもの彼女なら、こういう場で平然と冗談を言って空気を崩し、相手の緊張をほどく。
だけど今日は違う。
スーツの袖はぴたりと手首に沿い、ジャケットの肩は程よく張り、白いシャツの襟元に一切の乱れがない。
髪はきっちりとまとめられていて、耳元が露わだ。
そして――耳元にかかる髪がないせいで、本人の“武器”がより露骨にそこにある気がした。
(……変な感じ)
ペルシアは心の中で呟く。
鏡に映った自分を見た時も、同じことを思った。
「似合ってる」と言われても素直に喜べない。
あの事務所で、制服のまま椅子にふんぞり返って、紙袋を抱えたまま「戦略的休憩!」って笑っていた自分のほうが、よっぽど“私”だった気がする。
なのに今は、そこから一歩も戻れない。
受付の女性が端末を確認しながら、柔らかい声で言った。
「ペルシア様、こちらのタブレットに署名をお願いいたします。電子同意書の確認項目が三点ございます」
「はい」
ペルシアは反射で頷いた。
“はい”の音が、やけに自分の口から他人行儀に聞こえる。
画面には規定文が並び、指でスクロールするたびに、淡々とした文字が続く。
規則。手続き。責任範囲。守秘義務。緊急時の行動規範。
――嫌いな言葉が整然と並んでいるはずなのに、ここでは不思議と嫌悪が湧かなかった。
(……これ、守るための規則だ)
ドルトムントで見てきた“上から押し付けるだけの規則”とは違う。
これは現場の動きが前提で、その上で“命を取りこぼさない”ための枠組みとして置かれている。
ペルシアは息を吐いた。
胸の奥に絡まっていた何かが、少しだけほどける。
「二点目の確認です。緊急招集時の連絡先登録と、個人識別コードの発行になります。端末に表示されるコードを、こちらのカードに転記してください」
「分かりました」
ペルシアはカードを受け取り、端末のコードを写す。
数字とアルファベットの羅列――普通ならただの記号。
だけど、これが“ここでの自分”を形作るものだと思うと、指が少しだけ震えた。
(……私、ほんとに来たんだ)
そう思った瞬間、喉の奥がきゅっと狭くなる。
泣くな。ここで泣いたら、きっと自分が崩れる。
手続きは続く。
配属部署の仮登録。セキュリティ講習の受講案内。アクセス権限の段階。
最後に、受付の女性が小さく微笑んだ。
「以上で入局手続きは完了です。ようこそ、宇宙管理局へ」
その言葉は、形式的なはずなのに――胸に入ってきた。
“来てしまった”ではなく、“来た”という実感が、ようやく血の温度で湧く。
「……ありがとうございます」
ペルシアは頭を下げた。
深く、丁寧に。
頭を上げた時、ロビーの向こう側から足音が近づいてきた。
規則的で、迷いのない歩き方。
足音の間隔で分かる――急いでいないのに、時間を無駄にしない人。
ペルシアが目線を上げると、そこにマーカスがいた。
白髪混じりの短髪。
スーツの着こなしは余計な主張がなく、それでいて存在感だけがある。
背筋がまっすぐで、目が鋭い。
――ただし、その鋭さは人を刺すためじゃなく、状況を見抜くためのものだ。
「手続きは終わったかね」
マーカスの声は低く、穏やかだった。
ペルシアは反射で背筋が伸びる。
昨日までの自分なら「またあんたか」って言ってた。
けど今日は――。
「……終わりました。見学だけって言ったのに、来ちゃいましたね、私」
口から出た言葉は、少しだけ照れ隠しの棘が混じった。
マーカスは口元だけで笑う。
「君は来ると思っていたよ。いや、“来たくなる”と思っていた。あの場を見たら、なおさらね」
ペルシアは目を細めた。
「……あの場って、オペレーションルーム?」
「そうだ。君は落ち着くと言った。正確には、音が落ち着くと」
「……ええ。変な音がなくて。必要な音だけがしてる」
「君の耳は、必要な音を拾う。必要な音以外を排除できる。つまり――混乱の中でも、正しい情報に辿り着ける」
マーカスは淡々と続ける。
それは褒め言葉の形をしているのに、甘さがない。
“期待”の重さがある。
ペルシアは肩をすくめた。
「買い被りすぎ。私、ただの乗務員だよ」
「ただの乗務員が、宇宙船の空気を変えるかね」
マーカスの言葉は、ぴたりと止まらない。
「ただの乗務員が、姿勢制御ユニットのトラブルで悲鳴が飛び交う中、声の震えを抑え、乗客の呼吸を整え、クルーに指示を飛ばし続けるかね」
「……」
「ただの乗務員が、他班の乗務員に“同乗拒否届を出せ”と叫ぶかね」
ペルシアの眉が上がる。
「……それ、今言う? 私の黒歴史なんだけど」
「黒歴史ではない。君の“限界”が露出した瞬間だ。限界まで我慢したからこそ出た言葉だろう」
マーカスは歩みを止めた。
受付カウンターから少し離れた壁際。人の流れを邪魔しない位置。
完全に、ペルシアの逃げ道を塞がない立ち位置。
――それが、この男の“やり方”だとペルシアは思った。
「歓迎するよ、ペルシア」
マーカスが言う。
たったそれだけ。
“おめでとう”でも、“頑張れ”でもない。
なのに、胸の奥が熱くなる。
「……歓迎、ね」
ペルシアは視線を逸らし、鼻で笑った。
「私、歓迎されるタイプじゃないよ。規則とか組織とか、嫌いだし」
「知っている」
マーカスは即答した。
「君は、規則が嫌いなんじゃない。規則が人の命を粗末に扱う時に嫌悪するんだ」
ペルシアの心臓が一度、強く打つ。
「……それ、勝手に決めつけないで」
「決めつけてはいない。観察した結果だ」
マーカスは言葉を選ばず、ただ事実を並べるように言う。
「君は“守る”という言葉を、軽く使わない。守るために自分が汚れることも、損をすることも厭わない。だが同時に、君はそれを“正しいこと”だと誇らない。だから余計に危うい」
ペルシアは唇を噛み、すぐに噛むのをやめた。
癖だ。ここで癖を出すと、相手に読まれる。
……もう読まれてるけど。
「危ういって言われてもさ。私、もう辞めたんだよ」
「だからこそ、ここに来た」
マーカスは視線を外さない。
「君が背負ってきたものを、ここでは“仕組み”で支える。個人の根性で回す現場は、英雄が死ぬ」
ペルシアは小さく息を飲んだ。
その言葉は、何度も見てきた現場の死に方を、正確に言い当てていた。
「……仕組み、ね」
「そして君には、新しい役割を用意する。“統括官”だ」
ペルシアは苦笑した。
「またそれ? 昨日も聞いた。私にそんな肩書き、似合わない」
「似合うかどうかではない。必要かどうかだ」
マーカスは少しだけ声を落とした。
ロビーに響かない程度に。けれど、確実にペルシアの耳に届く音域で。
「ここは、宇宙啓開、未探索領域の捜索補助、事故の救出、後方支援、航路管理、各コロニーの防災調整――全てが同時に動く場所だ。情報は常に溢れる。虚偽も混ざる。恐怖も混ざる」
ペルシアは想像する。
画面の光。オペレーターの声。状況報告の洪水。
その中で、間違った判断をすれば、命が落ちる。
「統括官には、“耳”が要る」
マーカスは言う。
「声色で嘘を見抜ける耳。呼吸の速さで恐慌を察知できる耳。沈黙の中の躊躇を拾える耳。そういう耳だ」
ペルシアは思わず笑ってしまった。
「……何それ、私、化け物みたいじゃん」
「君が化け物なら、私は化け物が必要だと言っている」
マーカスは真顔で言い切った。
ペルシアは笑いが止まった。
その言葉が冗談ではないから。
「……私さ」
ペルシアは少しだけ声を落とす。
「守りたいものがある。いや、守りたい“人”がいる。十四班とか、タツヤ班長とか、リュウジとか、エリンとか……」
言った瞬間、胸が痛む。
口にしたら、そこにいない現実が鋭く刺さる。
ペルシアは急いで笑って誤魔化した。
「……だから、守れるなら何でもいいって思ってる。だけど――」
マーカスは黙って待つ。
急かさない。追い詰めない。
だからこそ、ペルシアは続きを言ってしまう。
「私、自分のことも守れないのに、統括官とか言われても困る」
それは弱音だった。
昨日までなら、絶対に口にしなかった弱音。
マーカスは一度だけ瞬きをした。
「自分のことを守れない人間が、他人を守ろうとする。だから君は強い」
「……それ、褒めてないよね?」
「褒めている。だが同時に――危ういと言っている」
マーカスは一歩だけ近づいた。
近づきすぎない距離で止まる。
「だから、ここに来た君を歓迎する。君は一人で背負わなくていい場所に来た」
ペルシアの喉がきゅっと鳴る。
泣きそうになる。
でもここで泣くのは――嫌だ。似合わない。
ペルシアは視線を逸らして、鼻をすすり、雑に言った。
「……歓迎されるって、慣れない。むず痒い」
「慣れなくていい。必要なのは慣れではない。君がここでやることだ」
マーカスは腕時計を見た。
「オリエンテーションはこのあとだ。だがその前に、もう一つだけ伝える」
ペルシアは顔を上げた。
「なに」
「君が守りたいものを守る、そのためにここに来たのなら――君は正しい。ただし、正しさだけで突っ走るな。ここでは“正しさ”は時に暴力になる」
その言葉に、ペルシアの背中が冷える。
ペルシアは知っている。
正しさで殴る人間を。
自分だって、昨日まで、正しさで誰かを殴ってきた。
「……分かった」
ペルシアは短く答えた。
「じゃあ、歓迎の言葉としては堅すぎだよ、局長」
「君が堅くした」
マーカスが言い、珍しく口元を緩めた。
「では改めて――ようこそ、ペルシア。宇宙管理局へ」
ペルシアは胸の奥に溜まったものを、ゆっくり吐いた。
「……うん。来たよ、私」
その言葉は、誰に向けたのか分からない。
十四班かもしれないし、昨日までの自分かもしれない。
あるいは、守りたいものの全部かもしれない。
マーカスは踵を返した。
「案内しよう。君の席へ」
「席?」
「君の戦場だ」
ペルシアは一歩踏み出す。
スーツの靴音が、ロビーの床に短く響いた。
吸い込まれるように静かで、それでも確かに“始まり”の音だった。
ーーーー
マーカスに連れられて、ペルシアが通されたのは――ロビーの奥、セキュリティゲートを二枚抜けた先だった。
カードキーをかざすたび、金属のロックが解ける低い音がする。
音は小さいのに、どこか“重い”。
この場所が冗談の通じない領域だと、耳が先に理解する。
「ここが、当面の君の席だ」
マーカスが指し示したのは、窓のないフロアの端。
壁沿いに並ぶデスク群の一角で、他より少しだけ視界が広い位置に一つの端末が置かれている。
薄いディスプレイが二枚。
端末の横に、通信用の小型モジュールと、ヘッドセット。
机の上は無機質で、しかし整理が行き届いていて、余白がある。
「座ってみたまえ」
言われるまま、ペルシアは椅子を引いて腰を下ろした。
背もたれは固すぎず柔らかすぎず、体を預けると肩の力がすっと抜ける。
……この椅子、長時間用だ。最初から“長い戦い”を想定している。
ペルシアは指先で机の縁をなぞった。
冷たい素材なのに、触っていると不思議に落ち着く。
「居心地がいい顔をしている」
マーカスが言う。
ペルシアは鼻で笑った。
「顔なんて見なくても分かるんでしょ、局長」
「それは耳の仕事だ。顔は目の仕事だ」
「はいはい。……で、私は何をすればいいの?」
マーカスは机の端に置かれたフォルダを指で軽く叩いた。
「とりあえず一か月、研修だ」
「研修?」
「君は即戦力だが、いきなり現場に放り込むほど私は無謀ではない。――いや、無謀は好きだが、これは違う」
好きなんだ。無謀。
ペルシアは思わず口角が上がりかけて、すぐに抑えた。
「一か月は“新人”として、同期と同じ研修を受ける。全員同じ土台を踏む。その上で権限を渡す」
「権限……って、統括官の?」
「焦るな。まずは現場の言語を覚えろ。ここでの言語は、命に直結する」
マーカスは淡々と言って、そして少しだけ言葉を和らげた。
「それと――君には一つ、利点がある」
「なに」
「君は“現場”を知っている。空気を整える側の人間だ。それは強い。だが、運用室は空気を整えるだけでは回らない。数字と判断と合意形成――それを学べ」
ペルシアは目を細めた。
「……分かった。学べばいいんでしょ」
「そうだ。案内はここまでだ。研修会場はこの廊下の先。講師には私から話してある」
「局長」
「なんだ」
「余計なこと言ったでしょ。『ペルシアが来るぞ』とか」
マーカスは一拍置いて、悪びれない。
「言った」
「……はぁ」
ペルシアが呟くと、マーカスは肩を揺らして笑った。
笑い声は小さいのに、確かに“人間”の温度を持っていた。
「行ってこい。歓迎は現場でする」
マーカスはそう言い、踵を返す。
ペルシアは背中に向かって舌を出しかけて――やめた。
ここは十四班の事務所じゃない。やったら即、目をつけられる。
……いや、もう目をつけられてるけど。
ペルシアは椅子から立ち上がり、フォルダを抱え、廊下へ向かった。
歩きながら、ふっと思う。
(私、ほんとにここにいる)
その感覚が、今度は怖くない。
むしろ、背中を押す。
廊下の突き当たりに、研修会場と書かれたプレート。
扉の横にカードリーダーがあり、支給されたカードをかざす。
ピッ。
扉が開き、空気が変わった。
中は広い。
天井が高く、壁一面に大型モニターが並ぶ。
画面には、航路図、トラフィックの流れ、事故報告のログ、救援要請の優先順位、各コロニーの稼働状況――複数の情報が同時に映っていた。
そして、数十名。
若い者もいれば、年齢のいった者もいる。
制服ではないが、全員が似たような機能性の高い服装。
机の配置は整然としており、それぞれの前に端末がある。
全員が大型モニターを目で追いながら、端末に打ち込んでいた。
カタカタ、カタカタ――という軽い音ではない。
指が迷わない音。
必要なキーだけ叩く、短い音。
ペルシアは入口付近で立ち止まり、全体に目をやった。
誰も雑談していない。
余計な動きがない。
なのに張り詰めすぎてもいない。
(……これ、好きだ)
心が落ち着く。
十四班のブリーフィングの“整った空気”に似ている。
だけど、もっと広い。もっと深い。
ペルシアは耳を澄ます。
機械音。画面が切り替わる電子音。短い指示の声。
誰かの呼吸のリズム。
椅子が僅かに軋む音。
全部が均衡している。
その時だった。
「――研修、終了。各自、姿勢を戻して」
前方の講師席から声が飛んだ。
同時に、全員が背筋を伸ばした。
まるで、一つの生き物みたいに。
ペルシアは息を止めて、その光景を見た。
揃いすぎていて、少し怖い。
でも、その怖さは“規律の暴力”じゃない。
“備えるための統一”だ。
次の瞬間、誰かがこちらに気づいた。
茶髪のマッシュルームヘア。
年齢はペルシアと同じくらいか、少し若い。
制服ではないが、襟元がきちんとしていて、どこか清潔感がある。
その男が、机の間を縫って歩いてくる。
歩き方が軽い。だが、軽薄じゃない。
ペルシアは目を細めた。
(誰)
男は、ペルシアの手前で止まり、にこっと笑った。
「君がペルシアさんだね」
その声は柔らかい。
けれど、語尾に余計な飾りがない。
聞き取りやすい高さで、耳に刺さらない。
「ええ」
ペルシアは即答してから、一拍置いた。
「……何で私の名前知ってるの?」
男は困ったように肩をすくめる。
「朝から局長が言ってたからね。“今日、面白い新人が来る”って」
「面白いって何よ。あのおっさん……余計なことを」
ペルシアが小さく呟くと、男は笑いを噛み殺すように口元を手で隠した。
笑い方が上品だ。
それが逆に腹立つ。
「それで君は?」
ペルシアが促すと、男は少しだけ姿勢を正した。
「僕の名前はローズ。よろしく」
そう言って、手を差し出す。
握手。ここはそういう文化らしい。
ペルシアは一瞬だけ迷った。
十四班なら、こんな形式いらない。
けど――ここはここだ。
ペルシアはその手を握り返した。
「ペルシア。よろしくね」
ローズの手は、意外と硬かった。
指先に薄いタコがある。端末仕事だけじゃない。
訓練で、何かを触ってきた手だ。
ペルシアはそれを感じ取って、目を細めた。
「ローズって、変わった名前」
「そう?」
「薔薇?」
「……それ、よく言われる」
ローズは苦笑した。
その苦笑いに、少しだけ親しみが混じっている。
「それより」
ローズは声を少し落とした。周囲に聞こえない程度に。
「局長が君のこと、相当気に入ってるみたいだよ」
「やめて。そういうの。胃が痛くなる」
「胃が痛くなるのに、ここに来たんだ」
ローズの言い方は軽い。
でも、ペルシアの中に何かが引っかかった。
(そうだよ)
ペルシアは口を開きかけて、閉じた。
笑いに変えるには、まだ喉が熱い。
ローズはペルシアの反応を見て、空気を変えるように言った。
「案内するよ。新人の席はこっち。研修用の端末も支給されてる。最初はログインと、操作の確認から」
「……親切だね」
「同期だからね。助け合いは基本」
ローズはさらっと言う。
それが当たり前の顔で。
ペルシアはその“当たり前”に、少しだけ救われた。
「同期って、どれくらいいるの?」
「今期は三十六人。多いほうだよ。最近、事故が増えてるから人員を厚くしてるって噂」
「事故が増えてる……」
ペルシアは眉を寄せた。
十四班で見てきたものが頭をよぎる。
揺れる船。焦り。連携の欠如。
そして、守れなかったもの。
ローズは、ペルシアの表情が変わったのを見て、話題を少し柔らかくした。
「まあ、研修は厳しいけどね。新人は一か月、地獄を見る」
「地獄?」
「うん。モニターと端末の往復で目が死ぬ。あと、講師が容赦ない」
「……エリンみたい?」
口にしてから、ペルシアは自分で少し笑った。
エリンの名前が自然に出た。
それが痛い。懐かしい。
ローズは首を傾げた。
「エリン?」
「……こっちの話。気にしないで」
「了解」
ローズは深追いしなかった。
それがまた、ありがたい。
案内された席は、会場の中ほど。
大型モニターが見やすい位置で、周囲に同期らしき顔が並んでいる。
誰もこちらを露骨に見ない。
だけど、視線が“耳”に触れるように感じる。――好奇心と警戒の混じった視線。
ペルシアは椅子に座り、端末の電源を入れた。
画面が起動し、ログイン画面が表示される。
ローズが横から説明する。
「ここに個人コード。あと二段階認証。カードと生体。最初は面倒だけど慣れる」
「面倒なの嫌い」
「知ってる。局長が言ってた」
「もう! あのおっさん!」
ペルシアが小声でキレると、ローズが吹き出しかけて、咳払いで誤魔化した。
その瞬間――講師の声が飛ぶ。
「新人、席についたな。次の課題に入る。――状況想定“コロニー間航路での通信障害、同時発生”」
大型モニターが切り替わり、複数の航路が赤く点滅する。
ざわ、と会場の空気が揺れた。
でも、誰も声を上げない。
指が動く。視線が走る。呼吸が揃う。
ペルシアの耳が、音の波を拾う。
軽い緊張。集中。
焦りではない。備えの緊張。
ローズが小声で言った。
「ペルシア、最初は僕の操作を見て。真似して。質問は後でまとめて」
「……分かった」
ペルシアは大型モニターを見上げた。
赤い点滅が、まるで“助けを求める声”みたいに見える。
(守るんだ)
自分に言い聞かせる。
ここに来た理由を、もう一度噛みしめる。
ペルシアは端末に指を置いた。
画面の文字が、現場の声に変わる。
そして――ペルシアの耳が、研修会場の空気の中で、確かに新しい居場所を掴み始めていた。