サヴァイヴ〜ドルトムント財閥〜   作:一塔

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 ペルシアがいなくなってから――時間の流れ方が、少し変わった。

 

 最初の数日は、事務所のどこかが空洞みたいで、笑い声が上がっても音が薄かった。誰かが冗談を言っても、返す側が半拍遅れる。

 “いつもの空気”が戻ってくるまでに、少しだけ時間が要る。

 

 けれど一週間が経つと、その空洞を埋めるみたいに、別のリズムが生まれ始めた。

 

 ミラが少しずつ“乗務員の歩き方”を覚え、返事の音量が落ち、視線が床から客席へ移る。

 ククルとエマが、緩むところと締めるところの境目を覚える。

 そしてカイエが、ペルシアのいない穴を、自分の背骨で支えようとする――そんなリズムだ。

 

 訓練スペースの床には、今日も白いラインが引かれている。

 ミラはそのラインの前で、両手を軽く脇に添え、カートの取っ手に指を置いた。

 

「ミラ、息。肩、下げて」

 

 カイエの声は短い。だが、先週よりほんの少し柔らかい。

 ミラが大きく息を吸い、ゆっくり吐いた。

 

「はい」

 

「声」

 

「……はい」

 

「よし。押して。速度は一定。止まるときは先に減速」

 

 ミラはカートを押し始めた。

 床に足を“置く”。ラインを意識しながらも、床ばかり見ない。視線は広く、必要なところだけ切る。

 揺れを想定した動きも、先週より滑らかになっていた。

 

 カイエはミラの横を半歩後ろで歩き、静かに指示を続ける。

 

「次、乗客役。ククル、お願い」

 

「了解!」

 

 ククルが座席に座り、わざと不安そうな顔を作る。

 

「すみません……揺れが、怖いです」

 

 ミラは足を止め、膝を落として目線を合わせた。

 先週は言葉が詰まって、顔が固まっていた。

 今日は違う。

 

「大丈夫です。揺れは機体の特性で起きることがあります。安全は確認しながら運航しています。もし気分が悪くなったり、怖くなったらすぐ呼んでください。私たちがそばにいます」

 

 言い終わって、ミラは相手の反応を一拍待った。

 ククルが頷く。

 

「……うん。今、安心した」

 

 その言い方が自然で、ミラの口角が少し緩む。

 だが、すぐに戻した。

 “仕事の表情”だ。

 

 遠くからその様子を見ていたエリンは、腕を組んだまま、静かに息を吐いた。

 (いい。ちゃんと覚えてる)

 

 ミラはまだ粗い。緊張も抜けきらない。

 でも、伸びる子の伸び方をしている。

 何より――“正しい注意を受け取れる”タイプだ。

 

 エリンの隣に、足音が近づいた。

 スーツの裾が、いつもより少し荒く揺れる。

 

「……ど、調子は?」

 

 タツヤだった。

 声の出し方が妙に遠慮がちで、エリンは横目で見て、ほんの少し笑った。

 

「頑張っていますよ」

 

「そっか」

 

 タツヤは訓練スペースを見ながら、顎を軽く撫でた。

 そこに居ない誰かを思い出す仕草にも見えた。

 

「まだまだ粗いところはありますが、そこはカイエがちゃんと教えています」

 

 エリンがそう言うと、タツヤは視線をカイエに向けた。

 カイエはミラの背中に声を飛ばしながら、カートの動きを修正している。

 背筋は真っ直ぐ、声は短く、目はよく動く。

 

「カイエ、頑張ってるね」

 

「ペルシアに任されたみたいですから。張り切っているんですよ」

 

 エリンの言葉に、タツヤは苦笑いを浮かべた。

 その笑いには、懐かしさと心配が混ざっている。

 

「あんまり頑張りすぎて倒れないように注意してよ」

 

「分かっています」

 

 エリンは即答した。

 実際、カイエの張り切り方は危うい時がある。

 “任された”という言葉を、責任の全部だと思って抱え込むタイプだ。

 ペルシアがいれば、冗談を挟んで肩を叩いて、息の抜き方を教えたのに。

 

 ――今はそれを、十四班の中で回さなければならない。

 

「それと」

 

 タツヤが声を落とした。

 エリンは少し首を傾ける。

 

「リュウジにも注意しといてよ」

 

「リュウジ?」

 

「ああ。最近、トレーニングを詰め込んでるみたいだから」

 

 エリンの胸の奥が、じくりと痛んだ。

 彼の“詰め込む癖”は、ずっと前から知っている。

 何かを埋めようとするときほど、彼は無言で積み上げる。

 

「……ペルシアの事で、まだ吹っ切れてないんですね」

 

 エリンがそう言うと、タツヤは視線を落とし、ふっと笑った。

 

「そうだろうね。俺もまだ引きずってるし」

 

 その言葉が、妙に重かった。

 班長としてではなく、仲間としての言葉。

 

「分かりました。私からも注意しておきます」

 

 エリンが言うと、タツヤは頷き――そこで、わざとらしく咳払いをした。

 

「……それはそうと」

 

 その“それはそうと”の言い方が、明らかに不自然で、エリンの眉が少し上がる。

 

「……何ですか?」

 

 タツヤは一度、訓練スペースを見てから、エリンに顔を向けた。

 妙に真面目な顔をしている。

 その真面目さが逆に怪しい。

 

「なんで言ってくれないのかなって」

 

「何がですか?」

 

 エリンが返すと、タツヤはため息を一つ溢した。

 そして、まるで当然の事実を確認するみたいに言った。

 

「リュウジと付き合ってるんでしょ」

 

 エリンの思考が一瞬止まった。

 鼓動が、早くなる。

 

「……は?」

 

 タツヤは続けた。

 

「噂で持ちきりだよ。他の班からも聞かれるし」

 

 エリンの顔が、目に見えて固まった。

 頬が熱くなる。

 ――なんで。

 ――どこから。

 

「付き合ってません!?」

 

 声が上ずった。

 自分でも分かる。

 “否定”なのに、落ち着きがない。

 タツヤが口角を上げる。

 

「その噂、誰が流したんですか!?」

 

「知らないけど」

 

 タツヤは肩をすくめ、さらっと言った。

 

「別に隠さなくてもいいでしょう。班長だよ、俺」

 

 そして、わざとらしく肩を落とす。

 

「……こういうの、寂しいじゃん?」

 

「付き合ってませんから!」

 

 エリンは慌てて言い切った。

 心臓がうるさい。

 タツヤは「へぇ」とでも言いたげに眉を上げる。

 

「そうなの。付き合っちゃえばいいのに」

 

「班長!」

 

 エリンの声が鋭くなる。

 タツヤは笑いを噛み殺しながら、手を振った。

 

「冗談冗談」

 

 でも、その顔は――冗談だけでは終わらせない顔だった。

 

「俺、仲人とかやってみたいし」

 

「班長!!」

 

 エリンが睨む。

 タツヤは両手を上げる。

 

「ごめんごめん。怒るなって」

 

 口では謝りながら、タツヤはエリンの反応を観察している。

 動揺の仕方。

 否定の強さ。

 視線の揺れ。

 

 エリンは気づいて、唇を噛んだ。

 ――しまった。

 ――見せた。

 

「……真面目に聞くけどさ」

 

 タツヤが声のトーンを少し落とす。

 冗談の皮が薄くなる。

 

「リュウジのこと、放っておくと、勝手に折れるぞ」

 

 エリンは息を飲んだ。

 それは、噂話ではなく、班長としての忠告だった。

 

「……分かっています」

 

「ならいい」

 

 タツヤはそれだけ言って、視線を訓練スペースへ戻した。

 

 ミラがカートを止め、トレイを“置く”のではなく“預ける”動作を練習している。

 カイエが「そう、それ」と頷いた。

 

「ミラ、いい感じ。次、声の温度」

 

「……はい」

 

「声」

 

「……はい」

 

 タツヤが小さく笑う。

 

「カイエ、ペルシアみたいになってきたな」

 

 エリンも笑みを浮かべる。

 その笑みは、少しだけ切なかった。

 

「似てきたというより……背負い込んでるんですよ」

 

「……だよな」

 

 タツヤの声が低くなる。

 エリンはタツヤに向き直り、真面目な目をした。

 

「だから、班長。冗談はほどほどにしてください。皆、ギリギリのところで踏ん張ってます」

 

「分かってる」

 

 タツヤは頷いた。

 そして、またふっと笑う。

 

「でもさ、噂が出るってことは、周りから見たら“そう見える”ってことだろ?」

 

「……」

 

 エリンは言葉を失った。

 否定したいのに、綺麗に否定できない。

 タツヤはその沈黙を見て、心の中で呟く。

 

 ――満更でもなさそうなんだよね。

 ――動揺しすぎだって。

 

 タツヤは、あえて口には出さなかった。

 今の十四班に必要なのは、茶化しすぎない“余白”だ。

 ペルシアが作っていた余白を、タツヤが少しでも代わりに作らなければならない。

 

「……よし。じゃ、俺は役員室行ってくる」

 

 タツヤが踵を返す。

 エリンは呼び止めるように言った。

 

「班長。リュウジの件、私が見ます。だから班長は、カイエの息抜きの方を……お願いします」

 

「了解」

 

 タツヤは手を上げて、軽く振った。

 そして廊下へ出ていく。

 

 エリンは訓練スペースを見つめた。

 ミラが必死に覚え、カイエが必死に教え、ククルとエマが支え合い、タツヤが場を繋ぎ、リュウジが黙って自分を追い込む。

 

 ペルシアがいなくても、十四班は進む。

 進まなきゃいけない。

 

 でも――

 

 エリンは心の中で、そっと呟いた。

 

 (ペルシア。あなた、本当に厄介なものを置いていったわね)

 

 厄介で、温かい、“仲間を守る癖”を。

 それは、誰かが受け継がなければならない癖だった。

 

 エリンは一歩、訓練スペースへ踏み出す。

 ミラの背中に声をかける準備をしながら、同時に、リュウジの顔を思い浮かべた。

 

 ――今夜、話そう。

 

 噂なんてどうでもいい。

 大事なのは、折れる前に手を伸ばすことだ。

 

ーーーー

 

 夜は、昼の喧騒を薄めるかわりに、心の音を濃くする。

 

 事務所の灯りが落ち、訓練スペースも静まり返ったころ――エリンは廊下の窓辺に立っていた。コロニーの夜景は、規則正しい点滅と滑らかな航路灯で満ちている。遠いドックが息をして、搬送レールが光を引きずり、船体の影がゆっくり移動していく。

 

 その整った景色に対して、胸の中は整っていない。

 自分の呼吸の方が乱れている気さえした。

 

 背後から靴音が近づく。

 歩幅と重心の癖で誰か分かる。

 

「……エリンさん」

 

 呼び捨ての声。

 振り返るとリュウジが立っていた。トレーニング後のシャワーを浴びたばかりなのだろう、髪が少し湿っている。首筋がまだ冷え切っていない。タオルを肩に掛けたまま、視線だけは妙に落ち着いていた。

 

 エリンは口元だけで笑った。

 笑ってしまうのは癖だ。場を柔らかくしたい時ほど。

 

「遅かったね」

 

「……申し訳ありません。少し、やりすぎました」

 

 言葉は丁寧なのに、反省の色は薄い。

 詰め込む癖は、本人の自覚の外で回り続ける。

 

「班長から聞いたわ。最近、トレーニング詰め込んでるって」

 

 リュウジは一瞬だけ目を逸らした。

 それは答えの代わりの沈黙の癖。

 

「……詰め込んでいるつもりはありません」

 

「つもりがなくても、そうなってる」

 

 エリンが言うと、リュウジは小さく頷いた。

 頷き方まで、どこか疲れていた。

 

 廊下の空気は冷たく、二人の間の距離だけが妙に熱い。

 ペルシアがいたら、この空気は笑いで破られていた。

 「お二人さん、廊下で何してんの?」とわざと茶化して、全員の肩を落とす余白を作ってくれた。

 

 でも、もういない。

 

 だから、破れない。

 破れないから、張り詰めた糸だけが細く鳴る。

 

 エリンは窓から視線を外し、少しだけ顎で示した。

 休憩室の扉。

 

「……入る?」

 

「はい。もし、よろしければ」

 

 二人は静かに扉を開けた。

 

 照明は落とされ、ソファとテーブルだけが薄明かりに浮いている。誰かが置き忘れた紙コップ、机の端の傷、壁に貼られた訓練スケジュール。日常の残骸が、今夜は妙に生々しい。

 

 エリンはソファの端に腰を下ろし、リュウジは少し離れた椅子に座った。

 距離感は二人とも心得ている。

 近づきすぎれば互いに壊れる。

 離れすぎれば何も守れない。

 

 沈黙が来る。

 それは気まずさではなく、今は必要な“間”だった。

 

 エリンが先に息を吐いた。

 

「……大丈夫?」

 

 問いは、トレーニングのことにも、ペルシアのことにも、全部に掛かっている。

 

 リュウジは一度、瞬きをした。

 いつもより長い瞬き。

 

「……大丈夫です、と言いたいところですが」

 

 言い淀んだ言葉の端に、かすかな震えがある。

 それが、逆にエリンを落ち着かせた。

 この人は無敵じゃない。そう思える瞬間は、怖いけど、救いでもある。

 

「正直、まだ……整理できていません」

 

 リュウジが続ける。敬語のまま、言葉だけは剥き出しだった。

 

「そうね」

 

 エリンは頷く。否定しない。

 否定した瞬間、リュウジはまた“詰め込み”に逃げる。

 

「私もよ」

 

 短く言って、エリンは笑う。

 笑いは薄いけれど、嘘ではない。

 

 リュウジは膝の上に置いた手を見つめた。拳にはしていない。だが力が抜けてもいない。

 “踏みとどまってる手”だ。

 

「……エリンさん、あの時、止めてくれてありがとうございました」

 

「何のこと?」

 

 分かっているのに、わざと聞く。

 言葉にして、輪郭を与えないといけない時がある。

 

「ペルシアが辞めると言った夜です。……自分が、変なことをしそうになりました」

 

 リュウジは視線を上げない。

 上げたら、何かが決壊する気がしたのだろう。

 

「あなたは、優しいから」

 

 エリンは静かに言う。

 リュウジの肩が一瞬だけ硬くなる。

 

「優しい人は、怒るときが一番危ないのよ。守るために、全部壊してしまうから」

 

 そう言うと、リュウジはかすかに息を呑んだ。

 図星だ。

 

「……はい」

 

 返事だけで十分だった。

 認めたくない自分を、認めた音。

 

 エリンはテーブルの上に置かれたスケジュール表に指を伸ばし、紙の端をなぞる。

 指先が少し冷たい。自分の体温が落ちている。

 

「ねえ、リュウジ。ミラの指導、見てた?」

 

「はい。見ていました」

 

「カイエ、頑張ってる」

 

「……頑張りすぎていると思います」

 

 リュウジの声が少しだけ重くなる。

 彼も同じ結論に辿り着いていた。

 

「そうよね」

 

 エリンは笑いながらも、目は笑っていない。

 

「“ギリギリで保っている”って、こういうことなのよね」

 

 口に出した瞬間、空気がさらに薄くなる。

 言葉にしてしまった。

 真実を。

 

 リュウジは沈黙した。

 沈黙は肯定だ。

 

 ペルシアの不在は、穴ではない。

 “支えが一本抜けた梁”だ。

 今はまだ倒れていない。

 でも、揺れが来れば分かる。

 どこが危ないか。

 

「……皆、頑張っています」

 

 リュウジが言う。

 敬語のまま、言い聞かせるみたいに。

 

「頑張ってる。だから危ないのよ」

 

 エリンは即答した。

 頑張りで繋いでいる状態は、崩れる時が一番速い。

 

「ペルシアがいた時、あの子は“頑張らない”を混ぜてた。怠けじゃなくて、息継ぎをね」

 

 エリンの声は柔らかいのに、胸の奥は鋭い。

 

 リュウジは、少しだけ首を傾けた。

 

「息継ぎ……ですか」

 

「そう。笑って、からかって、怒って、飲んで。あの子の雑さが、うちには必要だったのよ」

 

 言ってから、エリンは一瞬だけ目を伏せた。

 “必要だった”という過去形が、痛い。

 

 リュウジは唇を噛みそうになって、止めた。

 その仕草が、今夜の緊張を象徴していた。

 “飲み込むこと”で、ぎりぎり保っている。

 

「……エリンさん」

 

「なに?」

 

「自分は、何をすればいいでしょうか」

 

 まっすぐな問いだった。

 誰かに正解を渡してほしい問い。

 それは弱さだけど、今は救いにもなる。

 

 エリンはすぐには答えなかった。

 すぐに答えると、リュウジはそれを“命令”として従ってしまう。

 自分で選べなくなる。

 

 だから、エリンは一度、笑った。

 

「あなたは操縦をする。安全にね」

 

 当たり前のことを言う。

 

「はい」

 

「それと、あなたは……場を作れる人よ」

 

 リュウジが少し驚いた顔をする。

 自分が“場を作る”側だと思っていない。

 

「ペルシアは声で場を作った。あなたは、背中で場を作る」

 

 背中で。

 それは褒め言葉でもあり、責任でもある。

 

 リュウジは視線を落とし、真剣に考えるように黙った。

 考え込む音が聞こえる気がする。

 

 そして、ぽつりと、言った。

 

「……歓迎会を、やるのはどうでしょう」

 

 エリンは瞬きをした。

 不意打ちに近い。

 

「ミラの?」

 

「はい」

 

 リュウジは敬語のまま、しかし語尾は強い。

 

「今、皆、ギリギリで保っています。……だから、意図的に“息継ぎ”を作った方がいいと思います」

 

 エリンは小さく息を吸った。

 高揚感が、静かに胸を押し上げる。

 

 リュウジが自分で考え、提案している。

 それは“変な気”ではなく、正しい方向の火だ。

 

「歓迎会をやれば、ミラも……居場所を掴めます」

 

 リュウジは続けた。

 

「それに、カイエもククルもエマも、真面目すぎます。タツヤ班長も……多分、引きずっています。自分も、です」

 

 最後の“自分も”が、痛いほど正直で、エリンの喉をきゅっと締めた。

 

「……ペルシアがいなくなった穴は、埋まらない。でも――」

 

 リュウジが言葉を探す。

 探す間が、今夜の緊迫だ。

 

「でも、穴の周りに、支えを増やすことはできます」

 

 エリンは、ふっと笑った。

 今度の笑いは少しだけ濃い。

 

「……いいじゃない」

 

「やりますか?」

 

「やる」

 

 エリンは即答した。

 即答していい時だ。

 

「ミラの歓迎会。あなたが言い出したんだから、あなたが主役みたいに仕切るのよ」

 

「……俺が、ですか」

 

 リュウジの目が、ほんの少し揺れる。

 逃げたくなる揺れではなく、覚悟に向かう揺れ。

 

「そう。大丈夫。私もサポートする」

 

 エリンは立ち上がり、リュウジの肩に掛かったタオルを指先でちょんと直した。

 触れたのは一瞬。

 それだけで十分だった。

 

「それで、場所はどうする? 居酒屋? それとも家?」

 

 エリンが言うと、リュウジは苦笑いした。

 

「……ペルシアが聞いたら、必ず“家にしよう”と言いますね」

 

「言うわね」

 

 二人は同時に、ペルシアの声を思い出してしまって、短く笑った。

 笑った瞬間だけ、糸が緩む。

 

 でも緩めたからこそ、また締め直せる。

 

 リュウジは椅子から立ち上がり、エリンに深く頭を下げた。

 

「エリンさん。……ありがとうございます」

 

「何が?」

 

「……止めてくれたことも、今、背中を押してくれたことも」

 

 エリンは首を横に振る。

 

「押してるのは私じゃない。あなたよ。あなたが、自分で息継ぎを作るって言った」

 

 リュウジは少しだけ目を伏せ、そして頷いた。

 

「……では、明日。タツヤ班長に話します」

 

「うん。私も言う。カイエとククルとエマにもね」

 

 エリンは扉に向かって歩き出し、振り返る。

 薄明かりの中で、リュウジの背筋が少しだけ伸びているのが見えた。

 

「リュウジ」

 

「はい」

 

「ギリギリで保ってるのは、悪いことじゃない」

 

 エリンの声は、静かで、強い。

 

「ギリギリってことは、まだ折れてないってこと。まだ、選べるってこと」

 

 リュウジはまっすぐに頷いた。

 

「……はい。折れないようにします」

 

「違う」

 

 エリンは微笑んだ。

 

「折れないように、じゃなくて。折れそうなら、ちゃんと支えてって言いなさい」

 

 リュウジは一瞬言葉を失い、そして、少しだけ笑った。

 

「……努力します」

 

「努力じゃなくて、やりなさい」

 

「……はい」

 

 その返事が、今夜一番、軽かった。

 

 休憩室を出る。

 廊下の夜気はまだ冷たい。

 でも、さっきより息がしやすい。

 

 歓迎会――それは単なる飲み会じゃない。

 今の十四班にとっての、呼吸だ。

 ひとつの宴が、崩れかけた梁に、支えを一本足す。

 

 エリンは窓の外を見た。

 航路灯が規則正しく瞬く。

 

 ペルシアがいなくても、宇宙は進む。

 でも、進むだけじゃだめだ。

 守りながら、進まなければ。

 

 そして、その守り方を――今夜、リュウジが一つ選んだ。

 

 エリンは小さく笑って、歩幅を少しだけ速めた。

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