サヴァイヴ〜ドルトムント財閥〜   作:一塔

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歓迎会

 次の日も、エリンの“優しい訓練”は続いた。

 

 優しい――それは、言葉の響きだけなら柔らかい。だが十四班の乗務員がその単語を口にするとき、そこには別の意味が混ざる。

 優しさとは、逃げ道を塞がれた上で、確実に成長させられることだ。

 

 訓練室の床はいつもより少し冷たく感じた。冷たいのは床だけじゃない。空気も、光も、そして背筋に貼りつく緊張も。

 

 ミラは端の列に立ち、両手を太ももの横に揃えたまま、目だけでエリンの動きを追っていた。

 背筋は伸びている。声も出ている。だが、目が泳ぐ。

 

 カイエの指導で“形”は整ってきた。

 しかしエリンの訓練は“形”を壊してから、もう一段上に作り直す。

 ミラはまだ、その壊され方に慣れていない。

 

「――じゃあ、ここからは“同時進行”ね」

 

 エリンが言う。声は穏やかで、笑みも柔らかい。

 それだけに、訓練室の温度が一段下がったように感じる。

 

「ククル、今の位置から“お客様が転びそうな場面”を作って。ミラはそれを拾って、エマはフォロー。カイエは全体を見て、必要なら介入」

 

「は、はいっ!」

 

 ククルが勢いよく返事をした。

 その勢いが、危ういとエリンは知っている。だからわざと“ククルに主役”を振る。

 

 ミラの前方で、ククルがわざと一歩足を滑らせる真似をした。転ぶ寸前の体勢。

 訓練用のマットの上。安全は確保されている。

 

 でもミラの呼吸は乱れた。

 現場と同じだ。頭が真っ白になる速度だけは、本番と変わらない。

 

「――お、お客様!」

 

 ミラが一歩踏み出しかけ、止まる。

 何を優先すべきか――“声かけ”か、“身体を支える”か、“周囲の安全確保”か。

 全部やろうとして、結局、動けない。

 

 その一瞬、エリンの視線がミラの足元に落ちた。

 ミラの踵がほんの少し浮き、重心が前に崩れている。

 

「ミラ」

 

 エリンの声は柔らかい。

 なのに、刃みたいに届く。

 

「足、床に預けて。まず、自分が転ばないこと」

 

「……っ、はい!」

 

 ミラは大きく息を吸って、両足の裏全体を床に押しつける。

 重心が戻る。目の焦点が合う。

 

 そこからミラはようやく動けた。

 

「お客様、大丈夫ですか? こちら、危ないので……」

 

 言葉はまだ硬い。

 でも“止まらない”だけで、十分な成長だった。

 

 エマが自然に横に入り、ククルを支える真似をして場を整える。

 カイエは全体を見ながら、必要最低限だけ指示を飛ばした。

 

「ミラ、通路の人の動線、先に止めて。エマ、後方の乗客役、声かけ。ククル、表情、痛そうにしすぎ。リアルだけど、お客様が不安になる」

 

「ご、ごめんなさい……!」

 

「謝らなくていい、修正して」

 

 カイエの声は以前ほど尖っていない。

 “真面目さ”が“鋭さ”に変わる寸前を、どこかで踏みとどまっている。

 

 その様子を見て、エリンは内心で頷いた。

 ペルシアがいなくなって、カイエは必死だ。

 でも必死なままだと折れる。

 だから“必死の形”を変えさせる必要がある。

 

 訓練はテンポを変えながら続いた。

 飲み物カートの操作。

 揺れのある通路での歩行。

 子どもの興奮と、高齢者の不安への同時対応。

 そして最後に、“無線が重なる状況”の整理。

 

 エリンは声を荒げない。

 ただ、淡々と“正解に近い手順”を積み上げる。

 

 優しい訓練――それは、逃げる暇を与えない静かな圧だった。

 

 やがて、訓練室の壁にかけられた時計が、決められた終了時刻を指した。

 

 エリンが手を叩く。

 

「はい、おしまい。」

 

 その瞬間、椅子が一斉に鳴った。

 誰もが“崩れる許可”をもらったみたいに、どさりと腰を下ろす。

 

 ククルは両手を太ももに置いたまま、肩を上下させた。

 エマは机に肘をつきかけて、慌てて姿勢を正す。

 カイエは無意識に周囲を見回し、全員が座ったのを確認してからようやく息を吐いた。

 

 ミラだけは、座る動作すらぎこちない。

 緊張が抜けると同時に、足が震える。

 

 エリンは皆の前に立ち、優しい笑みを浮かべた。

 

「みんな、大丈夫?」

 

 声の温度が、さっきまでと違う。

 訓練の時の“優しさ”ではなく、仲間への“優しさ”だ。

 

 ククルが、反射で手を挙げそうになってから、口だけで返事をした。

 

「だ、大丈夫です!」

 

 言い切った瞬間、エリンの眉がほんの僅かに上がる。

 ククルはそれを見逃さない。

 

「あら。大丈夫なら、続きをやりましょうか」

 

 エリンがあっさり言った。

 

「え……」

 

 ククルの脳が止まった。

 固まる。背筋が勝手に伸びる。

 椅子から立ち上がりそうになる。

 

 周りの乗務員たち――特にミラが、恐る恐るククルを見た。

 「これが噂の……」という顔だ。

 

 エマが、顔を引きつらせながら呟く。

 

「……心臓に、悪いです」

 

 エリンは、くすりと笑った。

 

「ふふっ。冗談よ」

 

 その“冗談”が冗談に聞こえないのが、エリンの恐ろしさだ。

 

「ごめんね」

 

 エリンは本当に申し訳なさそうに言いながら、全員の表情を確かめる。

 その目は、“冗談”の皮を被った“観察”だった。

 

 ククルは胸を押さえ、エマは大げさにため息をついた。

 カイエは苦笑し、ミラは「え、えっと……」と混乱したままだ。

 

 訓練室に、ようやく人間の温度が戻り始めた。

 

 エリンは軽く咳払いをして、空気を整える。

 

「さて。それよりも――今日は終わりにしましょう」

 

 柔らかく言う。

 しかし、カイエが即座に疑いの目を向けた。

 

「……本当に終わりなんですか?」

 

 言い方が半分、本気。半分、警戒。

 それを聞いて、エマが吹き出しそうになり、ククルが必死に笑いを堪える。

 

 エリンは肩をすくめる。

 

「ええ。本当に終わり。今日は他にやることがあるでしょう」

 

「やること……ですか?」

 

 カイエが眉を寄せる。

 

 ミラが、ぽつりと呟いた。

 

「……引き継ぎ、でしょうか……?」

 

 ミラの声は小さい。

 まだ自分が“場の中心になる”ことに慣れていない。

 

 エリンはミラの方へ向き直り、目を細めて笑う。

 

「違うわ。ミラの歓迎会よ」

 

「え!?」

 

 ミラが椅子の上で跳ねるように驚いた。

 周囲の視線が一斉にミラに集まる。

 

「わ、私の、ですか?」

 

「ええ」

 

 エリンが頷くと、ミラは顔を赤くして視線を泳がせた。

 嬉しい、でも怖い。そんな混ざった表情。

 

 ククルがぱっと顔を上げる。

 

「歓迎会……!?」

 

 エマも嬉しそうに目を輝かせる。

 

「いいですね! 久しぶりに“ちゃんとした”集まり!」

 

 カイエは、ほんの少しだけ表情を柔らかくした。

 “仕事以外”という単語が、今の班には必要だ。

 

 そして――その次に来る言葉が、皆をさらに驚かせた。

 

「今回は、リュウジが幹事で張り切ってるから」

 

 エリンがさらっと言った。

 

「え!? リュウジさんが!?」

 

 ククルの声が裏返る。

 

 ミラも、信じられないという顔で口を開けたまま固まった。

 

「え、え……リュウジさんが……?」

 

 カイエが珍しく感心したように言う。

 

「そういうことも出来るんだ」

 

 エマが手を叩きそうになって、すんでのところで抑えた。

 

「楽しみです!」

 

 その言葉が、訓練室の空気を軽く押し上げた。

 高揚感が、じわっと広がる。

 “何か楽しみにしていいんだ”という許可。

 

 エリンは、その変化を見て、内心で息を吐いた。

 

 ギリギリで保っている。

 だからこそ、こういう小さな祭りが、支えになる。

 

 エリンは手を叩く。

 

「そういうことだから、早く他の業務を終わらせましょう」

 

「はい!」

 

 返事が揃う。

 さっきまでの疲労の声ではない。

 少しだけ弾む声だ。

 

 ミラだけがまだ戸惑っていたが、ククルがすぐに近づき、耳打ちする。

 

「大丈夫だよ。歓迎会って言っても、怖くないから」

 

「……ほ、本当ですか?」

 

「うん。たぶん……」

 

「たぶん?」

 

「たぶん、エリンが“優しく”してくれるから」

 

 ククルが言った瞬間、背後から声が落ちた。

 

「ククル?」

 

 エリンの声。

 柔らかい。柔らかいのに、背筋が冷える。

 

 ククルはぴしっと背筋を伸ばした。

 

「は、はいっ! 何でもありません!」

 

 エリンはにこにこしている。

 

「そう。じゃあ、今の“たぶん”は何かしら?」

 

「……っ」

 

 エマが笑いを噛み殺し、カイエが額に手を当てた。

 ミラは目を丸くして、ククルを見つめる。

 

 ククルは真っ赤になって叫んだ。

 

「ぜ、絶対、優しいです!!」

 

 その必死さに、訓練室のあちこちから小さな笑い声が漏れた。

 笑い声は、久しぶりに“仕事の外側”にある笑いだった。

 

 エリンは満足そうに頷く。

 

「よろしい」

 

 そして、少しだけ真面目な顔に戻る。

 

「ミラ。今日は歓迎会。だからって気を抜くんじゃなくて――“楽しむ”っていう仕事をしなさい」

 

「……た、楽しむ……?」

 

 ミラが不安そうに聞き返す。

 

 エリンは頷いた。

 

「そう。楽しむ。今の十四班には、それが必要なの」

 

 その言葉の裏に、全員が一瞬だけペルシアを思い出した。

 あの笑い声。

 あの雑さ。

 あの、息継ぎの作り方。

 

 沈黙が落ちかけた瞬間、エリンがぱん、ともう一度手を叩いた。

 

「さ。行くわよ。今日の業務、終わらせて――夜は歓迎会」

 

 高揚感が、今度ははっきりと広がる。

 疲れているのに、足が軽い。

 心が少しだけ前に進む。

 

 ミラはまだ戸惑ったままだったが、カイエが立ち上がり、ミラの肩に軽く手を置いた。

 

「大丈夫。今日は、ちゃんと“息継ぎ”しよう」

 

 ミラはその言葉の意味をまだ分からない。

 でも、頷いた。

 

「……はい」

 

 訓練室から人が出ていく。

 廊下の灯りは同じなのに、空気は少し変わっている。

 

 ギリギリで保っている。

 でも、その“ギリギリ”に――今夜、ひとつ支えが増える。

 

 歓迎会。

 それはミラのためだけじゃない。

 残された十四班が、崩れないための小さな宴だ。

 

 そして、その幹事が――リュウジ。

 

 エリンは、誰にも見えないように小さく笑った。

 高揚感は、胸の奥で静かに燃えていた。

 

 

 

 暖簾をくぐると、店の熱が肌にまとわりついた。炭火の匂い、揚げ物の香り、笑い声が交じるざわめき。奥の座敷に通される途中、すでに何組もの卓が乾杯を始めていて、グラスの澄んだ音が何度も弾けていた。

 

 案内されたのは半個室の座敷だった。襖を開けた先には、すでに人がいる。十四班の顔ぶれだけではない。別の班の乗務員が数人、パイロットも混じっている。肩章の色も、ネクタイの柄もまちまちだ。仕事の現場では交わらない笑い声が、ここでは同じ輪の中で跳ねていた。

 

 ミラは一歩入ったところで固まった。

 人数。距離。視線。

 それらが一気に押し寄せて、背中がぎゅっと強張る。

 

「ミラ、こっち」

 

 エリンが柔らかく手招きする。ミラは慌てて小さく頭を下げ、畳の縁を踏まないように歩いた。

 

「お疲れ様です……!」

 

 返事がいくつも返る。「お疲れ」「ようこそ」「座れ座れ」――軽い声が重なるだけで、胸の奥の緊張が少しだけほどけた。

 

 卓の端に座ると、ククルがさりげなく座布団を引き寄せてくれる。

 

「ミラ、そこ座りやすいよ。背もたれある」

 

「あ、ありがとうございます……!」

 

 ミラは反射で姿勢を正し、膝の上で手を揃えた。

 エマがそれを見て、にやっと笑う。

 

「今日も背筋ピンだね。ミラ、楽にしていいよ」

 

「は、はい……すみません、癖で……」

 

「謝らない。真面目なのは悪いことじゃないし」

 

 カイエが短く言い、ミラの肩が少しだけ落ちる。

 救われた気がしたのに、次の瞬間、ククルが顔を覗き込んでくる。

 

「でも今日は歓迎会だよ。仕事モードは半分くらい置いてきて」

 

「半分……」

 

「うん。置けるところからでいい」

 

 ミラは小さく頷いた。

 

 テーブルの上には、すでに小鉢が並び始めている。枝豆、冷奴、塩昆布キャベツ。取り皿も箸も、足りない分を見越したように追加で置かれていて、場が自然に回る準備ができていた。

 

 リュウジは席に着くなり、周囲の様子を一度だけ見回して、店員が通りかかる瞬間に視線で合図を送る。呼び鈴もいらない。店員がすぐに気づいて近づいてきた。

 

「お飲み物からお伺いします」

 

「ミラ、何にする?」

 

 エリンが言う。

 ミラは一瞬、喉が鳴った。酒を頼むべきか。頼まないべきか。迷いが顔に出たのだろう、エマが先に言葉を置いてくれる。

 

「無理しなくていいよ。ジュースでも全然」

 

 ククルもすぐ頷く。

 

「そうそう。飲める人だけ飲む」

 

 ミラは息を吐いて、ようやく笑みを作った。

 

「……では、ジンジャーエールでお願いします」

 

「了解」

 

 リュウジが淡々と続ける。

 

「ジンジャーエール一つ。俺はウーロン。エリンさんは?」

 

「私もウーロンで」

 

「私も」

 

 カイエが言う。

 

「私もウーロン!」

 

 ククルが元気よく手を挙げる。

 

「私はオレンジ」

 

 エマが言うと、店員が「かしこまりました」と下がっていった。

 

 ミラは、胸の中の固い塊がもう一段ほど軽くなるのを感じた。

 誰も、無理をさせない。

 その当たり前が、いまの自分にはありがたかった。

 

 料理が運ばれてくる。焼き鳥の匂いが立ち上り、卓の向こうで誰かが「うまそう」と声を上げる。別の席ではパイロットが豪快に笑って、背中を叩き合っている。普段の勤務中には見ない表情ばかりだ。

 

 エリンがグラスを手に取った。

 

「じゃあ、乾杯しよう。ミラ、ようこそ」

 

 ミラは慌ててグラスを持つ。手が少し震えて、炭酸の泡が揺れた。

 

「……本日は、ありがとうございます……!」

 

「堅い堅い」

 

 エマが笑う。

 

「でも可愛い」

 

 ククルも笑う。

 

「ミラ、普通でいいよ。普通で」

 

 カイエが、少しだけ声を落として言う。

 

「嬉しいなら、嬉しいって言えばいい」

 

 ミラの喉が詰まった。

 嬉しい。

 それは、言っていいんだろうか。

 でも――ここでは、言っていい気がした。

 

「……嬉しいです。ここで、頑張りたいです」

 

 ミラが言うと、エリンが頷いた。

 

「うん、それで十分」

 

「乾杯」

 

「乾杯!」

 

 グラスが触れ合う。澄んだ音が鳴って、周囲の笑い声の中に溶けていった。

 

 ミラがジンジャーエールを口に含むと、炭酸が喉をくすぐる。

 その刺激が、心まで洗ってくれるようだった。

 

 最初は遠慮がちだった箸が、少しずつ動き出す。焼き鳥、から揚げ、だし巻き。どれも温かい。味が濃い。咀嚼するたび、体の奥がほっとする。

 

「ミラ、味どう?」

 

 ククルが尋ねる。

 

「すごく……美味しいです……!」

 

「よし。なら食べよ。遠慮しなくていい」

 

 カイエが言う。

 厳しい声に聞こえるのに、意地悪さがない。むしろ、背中を押す感じがある。

 

 エマが皿を回しながら、冗談めかして言った。

 

「ミラ、から揚げは逃げないよ。むしろ私が逃がさない」

 

「え……?」

 

「今のうちに確保」

 

「確保……!」

 

 ミラが真面目に頷いてしまい、ククルが吹き出す。

 

「ミラ、真面目すぎ!」

 

「す、すみません……!」

 

「また謝った」

 

 エマが指を立てて、軽く注意する。

 

「今日は謝らないってルール追加ね」

 

「……はい。気をつけます」

 

 ミラがそう言うと、また笑いが起きた。

 笑われた、ではなく、笑ってもらえた、という感覚だった。

 

 その時、襖ががらりと開く。

 

「遅れたー」

 

 タツヤが顔を出した。私服に近いラフな格好で、目の下に少しだけ疲れが残っている。けれど声はいつも通り軽い。

 

「生一つね」

 

 店員に言い、空気を一瞬で持っていく。

 別の卓からも「班長きた」「お疲れ!」と声が飛び、タツヤは手を上げて返した。

 

「ユイは?」

 

 エリンが聞く。

 

「お泊まり保育。今日はいない。だから俺は遠慮なく飲める」

 

 タツヤが笑って、ミラに視線を向ける。

 

「ミラ、ようこそ。緊張してる?」

 

「は、はい……! すみません……」

 

「謝るなって」

 

 タツヤが即座に言い、ミラが目を丸くする。

 そのやり取りを見て、エリンが微笑んだ。

 

「ミラ、ここはそういうチーム。間違えたら直す。無理はさせない。でも伸ばす」

 

「……はい!」

 

 ミラが頷くと、ククルが嬉しそうに拍手を一つ。

 

「いい返事!」

 

 カイエが淡々と付け足す。

 

「返事だけじゃなくて、実力もつけてこ」

 

「はい……!」

 

「今のはいい。謝ってない」

 

「……!」

 

 ミラがハッとして、エマが笑いながら頷いた。

 

「そうそう、その調子」

 

 そこへタツヤの生が届き、タツヤが一口飲む。

 その瞬間、場の温度がさらに上がる。乾杯の輪が他の卓にも広がっていき、笑い声が何度も波のように押し寄せてくる。

 

 ミラは、その波に飲まれながらも、不思議と怖くなかった。

 怖さの代わりに、胸の奥に小さな高揚が灯っている。

 

 ここにいる。

 ここに迎えられている。

 それだけで、明日の訓練が少しだけ楽しみになるなんて――自分でも信じられない。

 

 エリンが箸を置き、場を見回す。

 

「今日はミラが主役。食べて、笑って、覚えて。ここにいる人たちの顔、ちゃんと覚えて帰りなさい」

 

「はい……!」

 

 ミラは答えながら、ふと卓の端を見た。

 リュウジは静かにグラスを持ち、騒ぎに飲まれすぎない距離を保っている。けれど、その視線は確かに場を守っていた。誰かが困ればすぐ気づくような、あの目だ。

 

 その視線と一瞬だけ目が合い、ミラは慌てて頭を下げた。

 

「……あ、ありがとうございます……!」

 

「食え」

 

 短い一言。

 それだけでミラは、胸の奥が熱くなって、今度こそ「すみません」と言わずに頷いた。

 

「はい!」

 

 笑い声がまた弾ける。

 居酒屋の夜は、少しずつ、十四班の新しい日常の始まりだった。

 

 しばらくして、卓の上の皿がいい具合に空になってきた頃、タツヤが肘をついて、ミラに身を乗り出した。

 

「ところでさ。ミラ、何か聞きたいことある?」

 

 ミラは一瞬、呼吸が止まった。

 聞きたいこと。

 山ほどある。訓練のこと、先輩の癖、失敗した時の立て直し――でも。

 

 でも、胸の奥にずっと引っかかっていた“別の疑問”が、ここで急に膨らんだ。

 しかも、店の賑わいと炭酸と笑い声が、勇気を増幅させる。

 

 ミラは、ごくりと喉を鳴らしてから、意を決して口を開いた。

 

「え、えっと……! あの……!」

 

 全員の視線が集まる。

 ククルは箸を止め、エマはニヤつき、カイエは「ん?」という顔で首を傾げる。

 エリンとリュウジはウーロン茶を飲みながらミラの言葉を待っている。

 

 ――今だ。逃げたら一生聞けない気がする。

 

「エリンさんとリュウジさんは……っ」

 

 ミラは息を吸い込んだ。

 

「本当に、付き合っているんですか!?」

 

 その瞬間――

 

 ぶふっ!!

 

 同時だった。

 

 エリンとリュウジが、ほぼ同時にウーロン茶を吹き出した。

 

「げほっ……!」「ごほっ……!」

 

 咽せる音が二重奏になって、卓の上に置かれた取り皿が小さく震える。

 ククルが目を丸くし、エマが腹を抱えて笑い始め、カイエが慌ててティッシュを差し出した。

 

「ちょ、ちょっと……! 大丈夫ですか、エリンさん!」

 

「ミラ、今の爆弾だよ!」

 

「す、すみません……! あ、今日謝らないって……!」

 

 ミラが混乱して言葉を詰まらせる。

 エリンは涙目で口元を押さえ、リュウジは咳き込みながらティッシュでテーブルを拭いた。

 

「……っ、な、何でそんな噂が出てるのかしら……!」

 

 エリンが咳の合間に言う。声は怒っているようで、でも頬がほんのり赤い。

 そして、その“ほんのり”が、なぜか、絶妙に満更でもなさそうに見えてしまうのがタチが悪い。

 

「……噂ですか……」

 

 リュウジがまだ咳き込みながら、低く呟く。

 

「え、だって……! 皆さん、そう言ってて……!」

 

 ミラが慌てて両手をぶんぶん振る。

 

 エマが楽しそうに身を乗り出した。

 

「ほらほら、エリンさん、否定しないと」

 

「……否定は、するわよ」

 

 エリンが言う。

 言うのに、妙に間がある。

 その間が、ククルの目をさらにキラキラさせる。

 

「えっ、じゃあ……違うんですか!?」

 

「違う……!」

 

 エリンが言い切ろうとした、その直後。

 

 ミラが、思い出したようにバッグを探り、端末を取り出した。

 その顔が、急に真剣になる。

 

「あっ、でも……」

 

 ミラが言う。

 

「ペルシアさんから、メールが来てましたよ」

 

 その一言で、空気が一段、変わる。

 “ペルシア”という名前は、店の喧騒の中でも、妙に輪郭がはっきりしていた。

 笑いの温度を、ほんの少しだけ――別の方向に揺らす名前。

 

「……ペルシアから?」

 

 エリンの目が細くなる。

 リュウジも咳を止め、ティッシュを握ったままミラを見る。

 

「……何て?」

 

 ククルが身を乗り出した。

 エマは、もう笑っている。笑いの“種類”が変わっている。

 

 ミラは端末を見つめ、読み上げる前に一度だけ息を整えた。

 

「えっと……」

 

 そして、悪気ゼロの声音で言った。

 

「“リュウジさんとエリンさんが付き合ってるって、みんなに言っといて!”って……」

 

 一拍。

 

 それから――

 

「……」

 

 エリンの顔が固まる。

 リュウジの目が細くなる。

 ククルが「うわぁ……」と小さく呟く。

 エマが声を殺して肩を震わせ、カイエが静かに天井を見上げた。

 

 原因が分かった瞬間だった。

 

「……あの子……!」

 

 エリンが、湯気みたいな怒りを吐き出す。

 

「……ペルシア……」

 

 リュウジが、静かに噛みしめるように言う。

 

 ――そして、遅れて。

 

 タツヤが、腹を抱えて笑い始めた。

 

「ははははは! やっぱり犯人あいつか!」

 

「班長!」

 

 ククルが「班長やめてくださいよ!」と止めに入るが、タツヤの笑いは止まらない。

 

 ミラは、やっと状況を理解して、顔を真っ赤にした。

 

「す、すみません……! 私、余計なことを……!」

 

「ミラ、今日謝らないルール」

 

 エマが腹を抱えたまま言う。

 

「……っ、あ……はい……!」

 

「でも、いい質問だったよ」

 

 カイエが優しく言い、ミラの肩が少し落ち着く。

 

 エリンはティッシュで口元を拭いながら、目を細めた。

 

「……ペルシア、ほんとに……」

 

 その声は怒っているのに、どこか寂しさが混じる。

 たぶん皆、同じことを思った。

 こういう“余計なこと”を笑いに変えてくれるのも、あの子だった。

 

 リュウジは咳払いを一つして、表情を戻す努力をした。

 

「……どうしますか、あいつ」

 

 エリンは一瞬だけ黙って、次の瞬間、ふっと笑った。

 笑ってしまったことに気づいて、少しだけ悔しそうに眉を寄せる。

 

「……どうもしない。……今は歓迎会よ」

 

 そして、ミラに向き直る。

 

「ミラ、質問の答え。――付き合ってない」

 

「は、はい……!」

 

「でも、噂を広めたのはペルシア。これは確定」

 

「確定だね」

 

 エマが嬉しそうに言う。

 

「確定です」

 

 ククルも頷く。

 

「……はい」

 

 カイエは短く頷いて、ミラのグラスに視線を落とした。

 

「ミラ、ジンジャーエール、もう少し飲む? 追加しようか」

 

「あっ、はい……! ありがとうございます!」

 

 タツヤが、笑いながら生を飲み干して言った。

 

「よし。じゃあ、歓迎会、二回戦いくか」

 

「班長、まだ早い」

 

 ククルが即座に突っ込む。

 

「早い?」

 

「早いです!」

 

「でも今日は歓迎会だろ?」

 

「歓迎会でも早いです!」

 

 また笑いが起きる。

 グラスが鳴る。

 皿が回る。

 ミラの緊張は、さっきよりずっと軽い。

 

 そして――原因がペルシアだと分かってしまった以上、もうこの噂は、止めるより先に、笑いとして膨らむ未来しか見えなかった

 

 

ーーーー

 

 

 歓迎会の空気が、ひとつ段を上げたのは、タツヤの五杯目が届いてからだった。

 

「生、もう一つ!」

 

 声がやけに通る。店員が「はいよ!」と返し、ジョッキが置かれる音が卓に響いた瞬間、タツヤの肩から“仕事”が完全に落ちたのが分かった。

 

 タツヤは喉を鳴らして飲む。飲むほど顔色が良くなるタイプだ。頬が赤くなるのではなく、妙に表情が明るくなっていく。

 

「いやぁ、こういうの大事だよな。ミラ、歓迎会だぞ。歓迎会!」

 

「は、はい……! ありがとうございます……!」

 

 ミラは背筋を伸ばしたまま答えてしまい、エマがケラケラ笑う。

 

「ミラ、可愛い。ずっと敬語なの最高」

 

「えっ……あ、はい……! すみません……!」

 

「ほら、謝らないルール」

 

「……っ、はい……!」

 

 ミラが頬を赤くしている間に、卓の一角が“いつもの十四班”になっていく。

 

 ククルはいつの間にか席を立っていて、別の席へ顔を出しては「お疲れさまですー!」と明るい声を撒き散らしている。今夜のククルは、歓迎会の名にふさわしい回遊魚だった。

 

 エマは早くもスイーツを確保していた。居酒屋のくせに、なぜかデザートのメニューが豊富な店だ。プリン、白玉、アイス。エマは真顔でプリンをすくい、口に運ぶ。

 

「……うん、これ、正解」

 

「早すぎない?」

 

 カイエが言う。柔らかい声だが、視線はスイーツに吸われている。

 

「早くない。デザートは“先に確保”が正解」

 

 エマは揺るがない。

 

 そして、カイエは――いつの間にか携帯ゲームに没頭していた。

 さっきまでミラの指導の話をしていたのに、今は指先だけが別世界の速度で動いている。画面を覗けば、カラフルな何かが連鎖して爆発していた。

 

「カイエさん、それ何?」

 

 ミラが恐る恐る尋ねる。

 

「ん? これ? ……落ち着くやつ」

 

 カイエがふわっと笑って、また画面に戻る。

 

 エリンはその様子を眺め、グラスを口に運びながら、ぽつりと言った。

 

「……個性的なメンバーでしょ」

 

 言い方は軽いのに、どこか誇らしげだった。

 “私の班”という響きが、そこに滲む。

 

 タツヤが、ジョッキを持ったままうんうんと頷く。

 

「いや、ほんとそれ。よくまとめてるよな、エリン。すげぇよ」

 

「まとめてない。勝手にまとまってるだけです」

 

「いや、まとめてるって。まとまってるように見せてるのがすごいんだよ」

 

 タツヤは笑いながら、隣にいるリュウジへ視線を向けた。

 

「……でさ、リュウジ。お前には勿体無いくらいだよな」

 

 卓の空気が、ふっと跳ねた。

 

 ミラの目が丸くなる。

 エマはスプーンを止め、口元に含み笑いを溜める。

 カイエはゲームの手を止めない。止めないが、耳は完全にこちらに向いている。

 空気だけが、わずかに熱を帯びる。

 

「班長、飲みすぎです」

 

 エリンが淡々と告げる。

 でも、声色はきつくない。むしろ、いつもより少しだけ柔らかい。

 

 それが逆に危ない、とミラは直感で感じた。

 エリンの“柔らかい”は、余裕がある時のやつだ。

 余裕がある時のエリンは、追い詰め方が上手い。

 

 タツヤは全く気にしていない。

 ここからはタツヤの独壇場だった。

 

「だってさぁ、周りももう言ってんだろ? 付き合っちゃえばいいのにって」

 

「班長」

 

 エリンが一段低い声で呼ぶ。

 だがタツヤは止まらない。止まれない。

 

「だってお前ら、噂になってんだよ? ミラが聞いてきたくらいだぞ? なぁ?」

 

 タツヤが周囲に振ると、別の席から「ヒューヒュー!」が飛んできた。さらに「そうだそうだ!」が混ざり、笑いが波みたいに広がる。

 

「班長、やめてください」

 

 リュウジが言う。敬語は崩さない。エリンに向ける敬意も、タツヤに向ける距離も、きっちり線の上を歩くみたいに丁寧だ。

 

「俺はいいが、エリンさんに失礼です」

 

 その言葉が、妙に真面目で、妙に“らしくて”、逆に場を盛り上げた。

 

「うわ、真面目!」

 

「やば、正論で刺してくる!」

 

「でもそれがいい!」

 

 ヒューヒューがまた増える。

 

 エリンは、口元にグラスを当てたまま目だけ細めた。

 怒っているのか、笑っているのか分からない。

 けれど、その目がほんの少しだけ柔らかいことに、ミラは気づいた。

 

 エリンがグラスを置いて、わざとらしく肩をすくめる。

 

「私はいいですけど、リュウジに失礼です」

 

 言い方がさらりとしているのに、選ぶ言葉が絶妙に同じ形で返っている。

 完全なカウンターだ。

 

 それを聞いてタツヤが腹を抱えて笑う。

 

「ほら! お互いにいいならいいじゃん!」

 

 卓が沸く。

 

「いいじゃーん!」

 

「付き合えー!」

 

「結婚しろー!」

 

 どこかで誰かが言った。

 さすがにそれにはエリンが一瞬だけ咳払いをしたが、すぐに顔を戻した。

 

 リュウジは耳まで赤くならない。

 ならないが、喉仏が一度大きく上下した。

 それだけで、周りは“おっ”と察して、さらに煽りの熱を上げる。

 

「リュウジ、照れてる!」

 

「照れてない」

 

「照れてる!」

 

「照れてない」

 

 エマがプリンを食べながら楽しそうに言う。

 

「照れてないって言う人ほど照れてる」

 

「エマ、黙ってデザート食べてろ」

 

 リュウジが淡々と言うと、エマが目を丸くして、それから爆笑した。

 

「うわ、言い方が優しいのに刺さる!」

 

 カイエはゲームをしながら、ぽつり。

 

「……でも、リュウジさんがそういうの言うの、ちょっと意外で面白いかも」

 

「カイエ、聞いてないふりして聞いてるでしょ」

 

 エリンが言う。

 カイエは画面から目を離さず、柔らかく笑った。

 

「……ばれましたか」

 

 ミラは、心臓が忙しい。

 笑いたい。

 でも、笑っていいのか分からない。

 けれど、ここにいる全員が笑っている。だから、笑っていいのだ。

 

 ミラが小さく笑うと、タツヤが勢いに乗った。

 

「なぁ、エリン。正直どうなんだ?」

 

「何が?」

 

 エリンの返しが早い。

 

「リュウジのこと。嫌いじゃないんだろ?」

 

「班長」

 

 エリンの声がやけに優しい。

 それが逆に怖い。

 

 リュウジは、さっとエリンを見る。

 目線だけ。

 “これは止めた方がいい”という合図。

 

 エリンも、その目線を受け取って、ほんの少しだけ頷いた。

 ほんの少しだけ。

 でも確かに。

 

 それが見えた瞬間、ミラの中で“噂”が“確信”になりかけた。

 

 ――やばい、これ、本当に……?

 

 タツヤは気づかない。気づけない。酔っているからだ。

 

「なぁなぁ、リュウジもさ、エリンのことどう思ってんの?」

 

 周りがまたヒューヒューと言う。

 空気がどんどん熱くなる。

 ただの冗談のはずなのに、冗談だけじゃ済まない温度が混じり始める。

 

 リュウジは、言葉を探すように一拍置いてから、真っ直ぐ言った。

 

「……エリンさんは、班を守ってます。いつも」

 

 その言い方が、告白のそれじゃないのに、やけに真剣で、やけに胸に刺さる。

 ミラは思わず息を呑んだ。

 周りの“ヒューヒュー”が一瞬だけ小さくなる。

 

 エリンの指先が、グラスの縁をなぞった。

 ほんの僅かな仕草なのに、普段なら見逃すはずなのに、今夜の空気はそれを見逃してくれない。

 

「……ありがとう」

 

 エリンが言う。

 短い。

 いつものエリンより、少しだけ素が出ている。

 

 タツヤは、そこを逃さない。

 

「ほらー! もう付き合えよ!」

 

 ヒューヒューがまた戻る。

 今度はさらに大きい。

 勢いが止まらない。

 

 リュウジは、呆れたように息を吐いて、エリンにアイコンタクトを送った。

 “終わらせますか”という合図だ。

 

 エリンは頷いた。

 

 そして。

 

 エリンはウーロン茶を飲み干した。

 飲み干して――

 

 ガタン!

 

 音を立ててテーブルに置いた。

 

 その音は大きくない。

 大きくないのに、空気が一斉に固まった。

 

 さっきまでの熱が、すっと引いていく。

 ざわめきが波なら、その波が“引いた”感じだ。

 店の別の席の笑い声は聞こえるのに、この卓だけが小さな真空になったみたいに静かになる。

 

 エリンが、にこっと笑った。

 

 優しい笑み。

 いつもの笑み。

 でも、目が笑っていない。

 

「ふふっ。そんなに酔っ払ってるなら、何飲んでも同じですよね」

 

 言葉は柔らかい。

 声も柔らかい。

 なのに背筋が凍る。

 

 ミラは反射で姿勢を正してしまった。

 エマはスプーンを口に運ぶ手を止めた。

 カイエはゲーム画面を暗くした。

 タツヤだけが、まだ笑い顔のまま固まった。

 

 エリンはゆっくりと続ける。

 

「酔っ払いの皆さん」

 

 にこにこ。

 優しい。

 優しいのに、刃がある。

 

「これ以上あんまり騒ぐと――泡立てたウーロン茶以外、頼ませないですよ」

 

 “優しく”言う。

 それが一番怖い。

 

 周りの席から「うわ……」と小声が漏れ、誰かが「やべぇ、エリンだ」と笑いを引っ込める気配がした。

 

 タツヤが、やっと言葉を見つけたみたいに笑った。

 

「……え、泡立てたウーロン茶って何」

 

「班長、知らない方がいい」

 

 エマが真顔で言う。

 

 ククルがちょうど戻ってきて、状況を察して、ぴたりと動きを止めた。

 

「……あ、あれ? なんか静か……?」

 

「今、エリンさんの“優しい警告”が出た」

 

 カイエが小声で教える。

 

「えっ……それ、やばいやつ?」

 

「うん、やばいやつ」

 

 ククルがごくりと唾を飲み込む。

 

 エリンは静かに視線を動かして、タツヤを見た。

 

「班長」

 

 その呼び方だけで、タツヤは背筋を伸ばす。

 

「……はい」

 

「飲みすぎ」

 

「……はい」

 

「あと、さっきの話、場が盛り上がるのは分かるけど、ミラが困ってる」

 

 エリンが言うと、ミラは慌てて首を振った。

 

「い、いえ! 困ってはいません! その……!」

 

 言いかけて、ミラは詰まった。

 困っていないわけがない。

 でも、楽しかったのも本当だ。

 

 エリンはミラを見て、ふっと目を細めた。

 柔らかい目だ。

 さっきまでの凍るような視線じゃない。

 

「大丈夫。ミラ、困ったら困ったって言っていいの」

 

「……はい」

 

 ミラは、胸の奥がじんとした。

 

 エリンは、もう一度リュウジを見る。

 その目は、さっきより少しだけ――ほんの少しだけ、いたずらっぽい。

 

 リュウジは気づいたのか、気づかないふりをしたのか。

 わずかに視線を逸らして、咳払いを一つした。

 

「……エリンさん。ウーロン茶、追加しますか」

 

 敬語で、丁寧に。

 いつも通りに戻す、その手付きが上手い。

 

 エリンは口元を押さえ、笑いを飲み込むみたいに小さく息を吐いた。

 

「……お願い」

 

 短い返事。

 でも、さっきより柔らかい。

 

 タツヤはそれを見て、にやにやしながら生を一口飲もうとした。

 そしてエリンの視線が動いたのを見て、すっとジョッキを置いた。

 

「……ウーロン茶にしとく」

 

「そうして」

 

 エリンが言う。

 言い方は優しいのに、逆らえない。

 

 周りが、くすくすと笑いを取り戻す。

 さっきの熱狂は、火が消えたわけじゃない。

 火力を調整されて、ちょうどいい温度になっただけだ。

 

 ミラは、その“調整”を見てしまった気がした。

 

 エリンがまとめている、というより――

 この班の空気は、エリンがいるだけで整っていく。

 

 そして。

 

 その空気の中心にいるエリンが、今夜だけはほんの少しだけ、揺れているように見えた。

 冗談の矢が飛んでも、涼しい顔でかわす。

 かわすのに、完全には遠ざけない。

 

 リュウジが「失礼です」と言った時、エリンは怒らなかった。

 むしろ、嬉しそうに見えた。

 嬉しそうに見えたのが、ミラの勘違いであってほしいような、勘違いじゃない気もするような。

 

 タツヤがウーロン茶を頼む姿を見て、ククルが小声でミラに耳打ちした。

 

「ね、ミラ。今の見た?」

 

「は、はい……」

 

「エリンさん、ああいう時の笑顔、ちょっと怖いでしょ」

 

「……はい……でも……」

 

「でも?」

 

 ミラは答えに迷って、そして正直に言った。

 

「……ちょっと、羨ましいです」

 

 ククルが目を丸くして、それからふっと笑った。

 

「うん。分かる。なんか、羨ましいよね」

 

 エマはプリンを食べながら、完全に楽しそうだ。

 

「この班、ほんと飽きない」

 

 カイエが柔らかく頷く。

 

「……うん。飽きない。疲れるけど」

 

「疲れるけど、楽しい」

 

 ククルが言い、ミラが小さく頷いた。

 

 エリンは、卓の端でウーロン茶をゆっくり飲みながら、少しだけ頬を緩めていた。

 その横顔は、さっきまでの“鬼”じゃない。

 でも、優しいだけでもない。

 

 リュウジがそれを横目で見て、何か言いかけて、やめた。

 

 言葉にしなくてもいい。

 今夜は歓迎会だ。

 余計なものは、ウーロン茶の底に沈めておけばいい。

 

 ……そう思っているはずなのに。

 

 エリンの笑みが、さっきより少しだけ“満更でもない”形になっているのを、リュウジは見逃せなかった。

 見逃せなかったからこそ、見逃したふりをした。

 

 そして、その不器用さを、エリンは気づいているようで――気づいていないふりをした。

 

 それがまた、周りの煽りを静かに燃やす。

 火種は消えない。

 ただ、エリンが火力を管理している。

 

 タツヤがウーロン茶を一口飲んで、情けない顔で言った。

 

「……泡立てたウーロン茶、やっぱ気になるんだけど」

 

「班長」

 

 エリンがにこっと笑う。

 

「はい」

 

「気にしなくていい」

 

「……はい」

 

 卓がまた笑いに包まれた。

 笑いは、さっきより少しだけ落ち着いて、でも熱は残っている。

 高揚感だけが、ふわふわと宙に浮いたまま――居酒屋の明かりに照らされて揺れていた。

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