サヴァイヴ〜ドルトムント財閥〜   作:一塔

36 / 46
ミラの初フライト

 ミラが十四班に来てから、きっかり一ヶ月が過ぎていた。

 

 最初の頃は、声をかけられるたびに肩が跳ねて、返事も息を飲み込むように遅れた。トレイを持つ手が小刻みに震え、足の運びもぎこちなくて、視線が定まらない。――自分が何かを壊してしまう未来を先に想像してしまう、そんな臆病さがミラの動きの端々に滲んでいた。

 

 けれど一ヶ月というのは、習慣の力が形を持ち始めるには十分な時間だ。

 

 今のミラは、同じ訓練の号令を受けても肩が跳ねない。返事は少し早くなり、声の高さも安定している。背筋はまっすぐ。目線は落とさずに、必要な情報だけを拾っていく。周囲の気配を読む余裕が生まれた証拠だ。

 

 訓練室の端で、エリンは腕を組み、ミラの動きを見ていた。

 

 その隣にカイエが立っている。顔はいつもより柔らかい。訓練中のカイエは、“優しい”と“厳しい”を同じ速度で切り替える。だが今は、わずかに安心した顔をしていた。

 

「……だいぶ良くなったと思います」

 

 カイエが、エリンに小さく告げる。

 視線の先では、ミラがエマと向き合っている。エマは手元のトレイを指差し、ミラの角度をわずかに修正していた。

 

「そうね。カイエが頑張ってくれたおかげね」

 

 エリンが、あっさり言う。

 褒め言葉をわざと軽く投げるのは、エリンの癖だった。褒め言葉を重くすると、受け取る側が構えてしまう。だから、軽くする。軽くしておいて、あとでちゃんと効かせる。

 

「いえ……ミラが頑張ってくれた結果です」

 

 カイエは照れくさそうに、目を逸らした。

 その仕草が以前のカイエより丸くて、エリンは少しだけ口元を緩める。

 

 ミラはエマの指示に「はい」と返し、トレイを持ったまま二歩進み、止まり、身体の向きを変えた。足裏全体で床を捉える。揺れを想定して、重心を落とす。トレイは水平。手首を固めない。相手の動線を塞がない位置で止まる。

 

 ――一ヶ月前のミラなら、これを“手順”として覚えようとしていた。

 今は違う。“身体”が覚え始めている。

 

「そろそろ……実際のフライトで見てみたいわね」

 

 エリンがぽつりと呟く。

 

 言葉は静かだが、目が鋭い。訓練の延長にある“本番”を想像している眼だ。

 

「はい。十班の頃に経験しているとはいえ……ミラも今の自分の力を試したいと思っていると思います」

 

 カイエの声も真剣になる。

 カイエは分かっている。訓練室は安全だ。失敗しても取り返せる。けれど、本番は違う。乗客の前で、宇宙船の揺れの中で、時間が押していく現場で――“正しい動き”が“正しい形”で出せるかどうかが問われる。

 

「そうね」

 

 エリンは頷いた。

 

「だけど十四班のフライトはしばらくないし……他の班に応援に出すのは、ミラも緊張するだろうし」

 

 言いながら、エリンはミラを見る。

 ミラの背中はしっかりしている。けれど、背中がしっかりしているからこそ、今応援に出して“壊す”のは避けたい。今のミラは、まだ“守り”の中で伸ばしたい段階だ。

 

「そうですね。成長したとはいえ、まだまだ新人です。本番で力を出しきれないと、ミラが可哀想です」

 

 カイエの声が優しくなる。

 “可哀想”と言えるようになったのは、カイエが自分の厳しさを少し手放した証拠でもある。

 

 その時だった。

 

「……なら、ちょうどいいのがあるよ」

 

 背後から、軽い声が落ちてきた。

 

 エリンとカイエが同時に振り返る。

 

「タツヤ班長」

 

 カイエが言い、エリンも同じように呼ぶ。

 

 タツヤは、訓練室の入口に寄りかかっていた。腕を組んで、いつものように“全部分かってる”みたいな顔をしている。大きくため息をつくような面倒くさそうな顔ではなく、今日は少しだけ楽しそうな顔だ。

 

「ちょうどいいのとは何ですか?」

 

 エリンが問いかける。口調は丁寧だが、表情は警戒している。タツヤの「ちょうどいい」は、だいたい面倒事とセットだからだ。

 

 タツヤはポケットから紙を一枚取り出し、ひらりと差し出した。

 チラシだ。色鮮やかで、文字がやけに楽しそうに踊っている。

 

「これだよ」

 

 エリンが受け取り、目を通す。

 

「サマーフライト……?」

 

 思わず声が漏れる。

 

 チラシには、コロニー・ロカD2のリゾート地を背景にした写真。光る海、空中回廊、透明なドームに包まれた街。二泊三日、貸切便、リゾート滞在――そんな単語が並んでいる。雰囲気は軽い。だが、“貸切便”という文字が一番重い。

 

「そう。コロニー・ロカD2のリゾート地に二泊三日の運行」

 

 タツヤが説明を続ける。

 

「毎年、ドルトムント財閥が企画してる貸切便なんだよ」

 

 カイエが「あ」と小さく声を出す。

 

「そういえば、そんなのありましたね」

 

 思い出したような顔だ。

 十四班に来る前、噂で聞いたことがあるのだろう。貸切便は“余裕のある班”が担当することが多い。トラブルが起きにくい……と言われているが、それは表面の話で、実際は逆だ。余裕があるから任される。任されるから、無茶が来る。VIPが混ざる。役員が混ざる。豪華な要求が飛ぶ。余裕がある班ほど“対応の幅”が試される。

 

「ですけど、このフライトは毎年、持ち回りで各班がやるんじゃないんですか?」

 

 カイエが首を傾げる。

 

「それに十四班は持ち回りから外れてましたよね」

 

 エリンが続ける。

 十四班は“特別枠”だ。最も厳しい航路、最も高い要求。だから、こういう“リゾート案件”から外される。半分は名誉で、半分は罰だ。

 

「本来はそうなんだけどな」

 

 タツヤは肩をすくめた。

 

「今回担当の八班が忙しくてできないみたいで」

 

「それでウチに回ってきたんですか?」

 

 カイエが身を乗り出す。

 

「それもあるけどね」

 

 タツヤは、少し笑った。

 その笑い方は、“本命は別”の時の笑い方だ。

 

「リュウジがさ。そろそろ操縦の感覚を確かめたいって言うから、ダメ元で言ってみたら――通っちゃったのよ」

 

 エリンの目が一瞬だけ丸くなる。

 

 リュウジ。

 この一ヶ月、操縦していない。トレーニングを詰め込んでいるのも、その空白を埋めるためだ。操縦の感覚は、身体の奥に沈んでいく。引き上げるには、実機が必要になる。シミュレーションだけでは届かないところがある。

 

 エリンは思わず微笑んだ。

 

「なるほど。リュウジもS級だけど……操縦は数をこなして損はないからね」

 

 タツヤが頷く。

 

「そうそう。S級だからこそ、感覚を鈍らせない方がいい」

 

 カイエが、少し嬉しそうに言う。

 

「いいんじゃないですか?」

 

「ええ、私もいいと思うわ」

 

 エリンも同意した。

 これは、“ちょうどいい”。本当に。

 

 ミラにとっても、現場経験が必要だ。

 貸切便は、定期便よりも空気が柔らかい。客の層は裕福だが、“楽しむために来ている”。怒りより期待が先に来る。もちろん油断はできない。けれど、新人が初めて“自分の力を試す”には、定期便より適している。

 

 そして何より――十四班の空気が、今はギリギリで保たれている。

 

 ペルシアがいなくなってから一ヶ月。

 笑い声はある。仕事も回る。

 だが、“穴”は埋まっていない。空気の柔らかさの一部が、まだ戻っていない。

 

 だからこそ、“リゾート案件”という小さな非日常は、班を救う。

 

 タツヤはチラシを指で軽く叩いた。

 

「なら決まりだね」

 

 声が、少しだけ明るい。

 

「今回のフライトは初日と最終日以外は自由だから、ちょっとした旅行としてリフレッシュできるならいいよね」

 

 “自由”という言葉に、エリンが微かに目を細めた。

 自由は、油断を呼ぶ。

 でも、油断を呼ぶからこそ、訓練したものが出る。

 気が緩んだ瞬間に、地が出る。だからこそ“班の地力”が見える。

 

 タツヤは、エリンの表情を見て、笑った。

 

「……怖い顔しない。ちゃんと仕事だよ」

 

「怖い顔してません」

 

 エリンがさらりと返す。

 カイエが小さく笑った。

 

「それじゃあ、上にはそう伝えるから」

 

 タツヤが言う。

 

「エリンはみんなに伝えといて」

 

「分かりました」

 

 エリンが頷く。

 その瞬間、エリンの頭の中では、もう段取りが動いていた。

 

 ――ミラの役割をどうするか。

 ――最初はどのブロックに置くか。

 ――ククルとエマの配置。

 ――カイエの負担をどう分散するか。

 ――リュウジの操縦交代はどのタイミングにするか。

 ――何より、“リゾート”という空気の中で、十四班の芯を崩さない方法。

 

 エリンはチラシを握り、訓練室の中央へ歩き出した。

 

「みんな、手を止めて」

 

 声がよく通る。

 それだけで、訓練室の空気が整った。

 

 ミラがトレイを胸の前で止め、エマがスプーンを置き、ククルが戻ってくる。カイエもゲーム画面を消して、ミラの隣に立った。

 

 エリンはチラシを掲げる。

 

「次のフライトが決まったわ」

 

 一瞬、静寂。

 次に、ミラの目が輝く。

 

「え……っ、本当ですか……!?」

 

 その声は、もう“オドオド”じゃない。

 緊張はある。でも、前に進む緊張だ。

 

 エリンは微笑んだ。

 

「ええ。本番で、あなたの一ヶ月を見せて」

 

 ミラは息を吸って、背筋を正し、はっきり言った。

 

「……はい。頑張ります」

 

 その返事を聞いて、カイエがほんの少しだけ肩の力を抜いた。

 エリンはそれを見逃さない。

 見逃さないが、何も言わない。

 

 そしてタツヤは、訓練室の入口で腕を組みながら、心の中で小さく呟いた。

 

 ――いい顔だ。

 ――ペルシアがいなくなった穴は埋まらない。

 ――でも、班は前に進む。

 

 そのための“サマーフライト”だ。

 

 エリンがチラシを折り畳む音が、訓練室の静けさに小さく響く。

 それは、次の章が始まる合図のようだった。

 

ーーーー

 

 フライト当日。

 ブリーフィングルームの扉が開いた瞬間、空気が引き締まっているのが分かった。いつも通りの十四班――いや、いつも以上だ。サマーフライトという“楽しい名目”がついているからこそ、油断をしないための張りつめた糸が一本多い。

 

 乗務員たちはそれぞれ端末を開き、動線と備品、乗客情報、緊急時の優先順位を黙々と確認していた。誰も大声を出さない。誰もふざけない。必要なやり取りだけが短く交わされ、無駄な音が生まれない。

 

 ミラだけが、ほんの少しだけ肩に力が入っていた。

 手元の端末を見ているのに、指先がやけに慎重だ。呼吸のタイミングも浅い。顔は真面目で、目がまっすぐで、でもその奥に“初フライト”という文字が透けて見える。

 

 エリンはミラの緊張を、言葉にせずに拾った。

 拾って、同時に“押しつぶさないように”扱う。

 

 エリンが手を叩く。

 パン、と乾いた音が一つだけ鳴った。全員の視線が自然に揃う。これだけで、十四班の“整う”が完成する。

 

「おはよう。今日の運航、確認するわよ」

 

 エリンの声はいつも通り落ち着いている。淡々としているのに、柔らかい。矛盾しているようで、現場ではこれが一番強い。

 

 カイエは背筋を伸ばし、頷いた。エマとククルも同時に目線を上げる。ミラは一瞬だけ唾を飲み込み、姿勢を正した。

 

「今回の便は旅行企画。乗客の空気は、普段よりも柔らかい。だからこそ、こちらが油断すると一瞬で崩れる」

 

 エリンは端末を軽く振り、要点を切る。

 

「機体は新しめ。揺れは少ない予定。でも、少ない予定ってだけ。絶対じゃない」

 

 ミラの指先がわずかに動いた。

 “予定”という言葉が、ミラにとっては怖い。だがエリンはその怖さを知っているからこそ、最初に釘を刺す。怖さを“正しい怖さ”に変えるために。

 

「ミラは今日が十四班に来て初めてのフライト」

 

 エリンはミラを見て、目線だけで圧をかけない程度に捉えた。

 

「大丈夫。ちゃんと出来るように組んであるから。カイエ、ミラの横につく。私は全体を見ながら、必要な時だけ入る」

 

「はい」

 

 カイエが優しく返す。声が柔らかい。あえて柔らかい。ミラの背中の力が抜けやすいように、今は“戦場の声”を封じる。

 

「ミラ、返事は短くていいよ。迷ったら止まって、呼んで。止まるのは悪じゃない。黙って突っ込む方が悪い」

 

「……はい。分かりました」

 

 ミラは頷いた。

 その頷きが、以前より深い。理解しようとする頷きだ。

 

 エリンは一度だけ、空気を緩めるように息を吐いた。

 

「それと――」

 

 エリンの口元に、ほんの少しだけ笑みが乗る。

 引き締まったブリーフィングルームに、余裕を一滴落とすみたいに。

 

「このフライトが終わったら、好きなだけ楽しんでいいからね」

 

 その言葉に、ククルの眉が一瞬だけ上がった。

 エマは「……本当ですか?」と言いかけて飲み込んだ。

 カイエは笑いそうになって、口元を押さえる。

 

 ミラだけが、驚いたように目を丸くして、それから少しだけ肩が落ちた。緊張が“全部”消えたわけじゃない。でも、張りつめすぎていた糸が一本だけ緩む。そういう余裕は、初フライトには必要だ。

 

「ただし」

 

 エリンの声が、ふっと鋭くなる。

 笑みは消えないのに、芯だけが硬くなる。

 

「安全と秩序を守った上で。そこを間違えたら、楽しむ権利はない」

 

「はい!」

 

 みんなの声が揃った。

 ――これが十四班だと、ミラは胸の奥で理解する。揃えるべき時に揃う。ふざけるべき時にふざける。緩める余裕と締める覚悟を、同じ場所に置いている。

 

 ブリーフィングが終わる。

 全員が立ち上がり、各自の持ち物を確認し、端末を閉じる。動きが速いのに雑じゃない。速いのに音が少ない。

 

 ミラは深く息を吸って、吐く。

 “ここからが本番”だ。

 

 

 搭乗ゲート前は、旅行客特有の明るいざわめきに包まれていた。

 荷物は大きい。声は弾んでいる。子どもの笑い声が混ざり、写真を撮るフラッシュが瞬く。定期便のような殺気はない。けれど、だからといって楽ではない。

 

 旅行客は“楽しい気分”のまま、要求を口にする。

 「この席の景色がいいって聞いたの」

 「隣同士がいいんだけど」

 「荷物、これも預けられる?」

 その言葉は柔らかい。でも、要求の量は多い。

 

 ミラはその空気の中で、最初の一歩を踏み出した。

 

 カイエが隣につく。

 エリンは少し後ろに下がり、全体を見渡す位置に立つ。ミラの手元、カイエの視線、乗客の動線――全部が視界に入る場所。

 

「いらっしゃいませ。足元にお気をつけください」

 

 ミラの声が少し高い。

 けれど言葉ははっきりしている。笑顔は硬いが、目線は逃げていない。

 

 子どもが走りかける。

 ミラが反射で止めようとするが、カイエが先に一歩出た。

 

「走ると危ないよ。こっち、ゆっくり行こうね」

 

 柔らかい声、低い姿勢、子どもの目線。

 ミラはそれを横目で見て、すぐに覚えるように同じ角度で姿勢を真似した。

 

 “真似”から入れるのも才能だ。

 エリンは心の中で小さく頷いた。

 

「ミラ、荷物のタグ、今のうちに確認して。大きいのは先に奥へ誘導」

 

 カイエが小声で言う。

 ミラは「はい」と返し、目を動かす。

 荷物の大きさ、持つ人の年齢、動線の詰まり。全部が情報だ。

 

 ミラがギャレーの位置を確認しようとして視線を動かした瞬間、背後から声が飛んできた。

 

「エリン!」

 

 その声は明るい。

 そして、幼い声が混じる。

 

 振り向くと、タツヤが立っていた。

 隣に小さな女の子――ユイがいる。ユイは跳ねるように手を振った。

 

「エリンさん!」

 

 ユイの声は、ブリーフィングルームの空気とは別世界の音だった。

 明るくて、軽くて、無邪気で、たったそれだけで周囲の空気が一段柔らかくなる。

 

「ユイ」

 

 エリンは自然に屈んで、ユイと目線を合わせた。

 

「いい子にしてるのよ」

 

「うん!」

 

 ユイは胸を張って返事をする。

 その様子にミラが一瞬だけ目を丸くした。

 “班長が子どもを連れてる”。それだけで、今日は確かにいつもと違うのだと実感する。

 

「悪いね」

 

 タツヤが小さく苦笑いする。

 

「今回は班長として参加なのに、俺は何もしなくて」

 

「いいんですよ」

 

 エリンは立ち上がり、タツヤに視線を向ける。口調は丁寧だが、表情は普段通りだ。

 

「リュウジが言い出したことですから」

 

 タツヤは肩をすくめた。

 本来、タツヤは不参加のつもりだった。だが、リュウジが言ったのだ。

 

――「ユイも連れて来ればいいじゃないですか。せっかくのサマーフライトですし」

 

 リュウジは、そう言いながらも涼しい顔で操縦の準備をしていた。タツヤは“乗務員の仕事としての参加”を選び、ユイは“客席にいる”形になった。

 

 つまり今日のタツヤは、班長でありながら、父親の顔も持つ。

 その分、現場の穴は別の誰かが埋めなければならない。

 

 エリンは当然のように言った。

 

「タツヤ班長の分は、リュウジに働いて貰います」

 

 タツヤが笑う。

 

「頼もしいね。……まあ、何かあったら言ってね」

 

「分かりました」

 

 エリンが頷く。

 そのやり取りを横で聞いていたミラは、胸の奥が少しだけ熱くなるのを感じた。

 

 “信頼”が会話の中に当たり前にある。

 それは、厳しさよりも怖い。

 信頼は裏切れないからだ。

 

 

 搭乗が終わり、宇宙船の扉が閉まる。

 機内アナウンスが流れ、照明が落ち着く。

 そして、宇宙船が静かに震え始めた。

 

 ミラの背中が微かに強張る。

 初フライトの合図のように、足元がかすかに揺れる。

 

 カイエがミラの隣で、目線だけで伝える。

 

――大丈夫。ここからは“いつも”をやるだけ。

 

 ミラは小さく頷いた。

 

 エリンは通路の中央に立ち、客席全体を見渡す。

 旅行客は窓の外を覗き込み、歓声を抑えきれずに笑っている。

 緊張より期待が勝っている。

 

 宇宙船はゆっくりと浮き上がり、重力の感覚が薄れていく。

 窓の外で、コロニーの灯りが遠ざかる。

 そして、宇宙へ。

 

 ミラはその瞬間、胸の奥に小さな震えを感じた。怖さではなく――“始まった”という実感だ。

 

「ミラ、最初の巡回いこう」

 

 カイエが柔らかい声で言う。

 ミラは「はい」と答え、歩き出す。

 

 歩幅は短く、足裏は床を捉え、トレイは水平。

 乗客の視線がこちらを向く。

 ミラはその視線を恐れず、笑顔を作った。

 

「お飲み物のご希望はございますか?」

 

 声は少しだけ高い。

 でも、途切れない。

 震えない。

 

 乗客が「じゃあ、ジュースを」と言う。

 ミラは頷き、注文を端末に入力する。

 

 カイエは横で見守るだけ。

 口を出さない。

 口を出さないことが、ミラにとっての支えになると知っているからだ。

 

 エリンは少し後方で、客席の空気を整えるように歩く。

 あまり前に出ない。

 必要な時だけ現れる。

 その存在だけで、船内の秩序が保たれる。

 

 それでも、ミラが小さく詰まりそうになる瞬間がある。

 荷物の位置が通路にはみ出していた。

 旅行客が大きなバッグを足元に置き、通路が細くなる。

 ミラがどう声をかけるか迷う。

 

 その瞬間、カイエが一歩だけ前に出て、柔らかく言った。

 

「お足元、通りやすいように少しだけ荷物を寄せてもいいですか?」

 

 “お願い”の形。

 命令じゃない。

 でも、確実に動かす言葉。

 

 乗客が「もちろん」と笑う。

 ミラはそれを見て、頷いた。

 

 “言い方”。

 “空気”。

 “相手の気分を守りながら、こちらの安全も守る”。

 十四班の技術が、目の前で形になっていく。

 

 ミラの胸が、また少し熱くなる。

 

 そしてエリンは、その様子を見ながら心の中で静かに呟いた。

 

(大丈夫。初フライトは、ちゃんと始まってる)

 

 宇宙船は滑らかに航路を進む。

 旅行客の笑い声が、船内のあちこちで弾んでいる。

 大きなトラブルが起きにくい空気――それは確かにある。

 

 けれど、エリンは知っている。

 トラブルが起きにくい日ほど、油断が最大の敵になる。

 

 だからこそ、念には念を入れる。

 ミラの初フライトを、ただの“通過”にしないために。

 

 エリンは、客席全体に目を配りながら、静かに息を吸った。

 サマーフライトは、まだ始まったばかりだ。

 

ーーーー

 

 機内が宇宙へ溶けていく感覚――その“いつもの始まり”の中で、ミラは目の前の現実だけを丁寧に拾っていた。

 初フライトだというのに、目が泳がない。足が止まらない。手元が慌てない。

 

 可もなく不可なく。

 派手さはない。だが、崩れない。

 

 その様子を、エリンとカイエは少し離れた位置から見守っていた。

 

 カイエはミラの左後ろ、半歩外側。

 声をかければ届く距離で、しかしミラの視界を邪魔しない角度。いざとなればすぐに割り込めるのに、“割り込まない”ことを選べる位置。

 エリンはもっと遠い。通路の中央で客席全体を一望できる場所。ミラだけではなく、乗客の表情、客室乗務員の動線、他の乗務員たちの手の空き具合、ギャレーの稼働状況――全部をまとめて“空気”として捉える場所だ。

 

 その距離感が、十四班の見守り方だった。

 

 ミラはカートを押している。

 速度は一定。揺れに合わせて腕を固めず、肘を少し緩めて“受け流す”ように押す。

 ドリンクのオーダーを受けたら、端末を一度胸の位置まで引き寄せ、操作は最短。入力後すぐ顔を上げる。

 乗客の顔を見て、笑って、返す。

 その一連に、無駄がない。

 

 カイエは何も言わない。

 言う必要がないからだ。

 

 ミラが「お飲み物はいかがでしょうか」と声をかける。旅行客は笑顔で、あれこれと注文する。

 ジュース、炭酸水、コーヒー、軽食の追加。

 ミラは「かしこまりました」と返し、ひとつずつ拾っていく。

 拾い漏れはない。

 それだけで、“新人”としては十分すぎる。

 

 ただ――“すごい”かと言えば、まだそこではない。

 

 エリンはそこを見ていた。

 ミラは、順番通りに正しいことをする。

 けれど、順番の外にある“火種”を先に消す動きがまだ少ない。

 

 例えば、窓際の子どもが少しずつ体をずらし、通路に足を投げ出しそうになっている。

 例えば、荷物棚に詰め込まれたバッグが微妙に歪んでいて、揺れたら落ちそうな角度になっている。

 例えば、後方の二人組が声量を上げ始め、周囲が少しだけ眉を寄せている。

 

 そういうものに、ミラは気付けないわけではない。

 気付くけれど、“気付いたときには少し進んでしまっている”。

 可もなく不可なく――というのは、そういうことだ。

 

 だから、カイエが代わりに拾う。

 拾い方も、押し付けない。

 

 カイエは通路に足を投げ出しかけた子どもに、しゃがんで目線を合わせた。声は柔らかい。

 

「ねえ、足を引っ込めてくれる? みんなが通るところだから、ぶつかったら痛いよ」

 

 子どもは素直に引っ込める。

 その瞬間、母親が「すみません」と言いかけるが、カイエが先に笑って返す。

 

「大丈夫。楽しいとつい動いちゃうよね」

 

 空気を丸くする。

 謝罪を“負担”にしない。

 それが、十四班の当たり前だ。

 

 ミラはその横で、注文された飲み物をカートから取り出し、テーブルに置く。

 置く、ではなく“預ける”ように――とはまだ完全ではないが、動きが丁寧で、ガチャガチャしない。

 杯の角度が揃っている。

 手元が雑にならない。

 

 エリンはその様子を見て、ほんの少しだけ目を細めた。

 ミラは“派手にミスをしない”。

 それが初フライトでは何より重要だ。

 

 客室全体は旅行客の浮ついた楽しさで満ちているが、それでも小さな波は起こる。

 搭乗前に笑っていた客が、席に座った途端に無言になる。

 周囲の会話が耳に刺さるタイプだ。

 ミラが気付かず通り過ぎそうになった時、エリンは遠くからその客を見て、目線だけで“そこ”を示した。

 

 ミラの視線がエリンの目を捉える。

 次の瞬間、ミラは自然に歩調を落とし、その客の横で立ち止まった。

 

「……お加減いかがですか。揺れは大丈夫でしょうか」

 

 声は少し慎重。

 それでも、余計な緊張は乗せない。

 客は「大丈夫」と短く返すが、ミラはそこで引かない。

 

「もし気分が悪くなりそうでしたら、遠慮なくお声がけください。お水もお持ちできます」

 

 客が一瞬だけ表情を緩める。

 「ありがとう」と小さく返した。

 

 その“ありがとう”が出るまでが、十四班の仕事だ。

 ミラは今、それを“指示なしで”やりきった。

 エリンは心の中で、静かに丸をつける。

 

 可もなく不可なく。

 でも、その中に“ちゃんと拾える芽”がある。

 

 カイエはミラに近づき、小声で言う。

 

「今の、良かったよ。声のトーンも落ち着いてた」

 

 褒めるのも短く。

 褒めすぎない。

 浮かれさせない。

 それでも、ミラの背中が少し軽くなる。

 

「ありがとうございます……」

 

 ミラは小さく頷いた。

 その頷きが、以前より柔らかい。

 “怖いから頑張る”ではなく、“出来るから頑張る”に変わり始めている。

 

 エリンは全体を見ながら、端末で連絡を確認する。

 操縦室からの通知。航路は順調、到着予定時刻に変更なし。

 サマーフライトは滑らかに進んでいる。

 

 ふと、エリンは思う。

 ペルシアがいない現場は、まだどこか薄い膜のように張りつめている。

 皆、崩れないように整えている。

 だからこそ、“新人が崩れない”ことが大きな意味を持つ。

 

 ミラが崩れない。

 それだけで、十四班が少し楽になる。

 

 宇宙船は一定のリズムで航行し、コロニーロカD2が視界に入る。

 窓の外に、人工の光が散り、緑の色が見え始め、まるで“地上の夜景”のような景色が広がっていく。

 旅行客の声が一段上がる。歓声、写真のシャッター音、笑い。

 

 機内の空気が“到着の高揚”に傾く。

 こういう時が危ない。

 席を立つ人が増える。荷物棚を開けようとする人が出る。

 早く降りたい、早く遊びたい――その気持ちが、危険を呼ぶ。

 

 エリンが短く無線を入れる。

 

「全員、到着前の立ち歩き注意。荷物棚の開閉は止めて。声掛け、早めに」

 

 カイエが頷く。

 すぐに声をかけ始めた。

 

 ミラは一瞬だけ迷い、カイエを見る。

 カイエは目で“行って”と示す。

 ミラはすぐに通路へ出た。

 

「まもなく到着いたします。安全のため、シートベルトをお締めください。立ち歩きはお控えください」

 

 声は落ち着いている。

 言葉は正しい。

 旅行客も素直に従う。

 ミラの声は“強くない”のに、“通る”。

 それは、緊張ではなく確信が混じり始めたからだ。

 

 宇宙船が減速に入り、軽い揺れが一度だけ来る。

 乗客の小さな「おお」という声。

 ミラはその反応を見て、無意識に口角を上げる。

 恐怖を煽らない笑顔。

 安心を置く笑顔。

 

 そして――無事に、コロニーロカD2へ到着した。

 

 ドアが開き、乗客が降りていく。

 旅行客の足取りは軽い。

 「楽しみだね」「早く行こう」

 そんな声が飛び交う。

 

 ミラは最後尾の確認をし、忘れ物がないか目を走らせる。

 座席の下、ポケット、テーブル。

 落とし物はゼロ。

 最後の最後まで、そつなく終わらせる。

 

 “可もなく不可なく”――それが初フライトでどれだけ価値があるか。

 ミラはまだ知らない。

 でも、エリンとカイエは知っている。

 

 

 到着後。

 ブリーフィングルームは、いつも通りに引き締まっていた。

 旅行企画だからといって、終わり方まで“旅行”にはしない。

 ここで整える。ここで反省する。ここで次へ繋げる。

 十四班はそれを徹底する。

 

 エリンが手を叩く。

 全員の視線が揃う。

 

「お疲れ様。まず、全体として大きなトラブルはなし。到着も予定通り。良かったわ」

 

 柔らかい声。

 けれど、そこで終わらないのがエリンだ。

 

「ただし。良かったからといって、全部が完璧だったわけじゃない」

 

 空気が一段締まる。

 笑い声は消え、端末を閉じる音も止まる。

 皆、エリンの言葉を待つ。

 

「到着前の立ち歩きが、二回あった。注意して止めたから問題にならなかったけど、あれは“止めた”で終わりじゃない。止める前に、雰囲気で止める」

 

 指摘が短い。

 具体的で、刺さる。

 

「荷物棚を開けようとした人が一人。声掛けで収まった。でも、目線が遅かった」

 

 カイエが小さく頷く。ククルとエマも同時に反省の顔をする。

 

 エリンは淡々と続ける。

 

「飲み物の提供はスムーズ。備品も足りた。でも、カートの固定が甘い瞬間が一回あった。揺れが少ない便でも、癖にしないと事故になる」

 

 言葉が正しい。

 反論できない。

 そして、だからこそ信頼できる。

 

 エリンはそこで、ミラを見た。

 “新人を特別扱いしない”目線だ。

 それは冷たいのではなく、仲間として扱う視線。

 

「ミラ」

 

「はい」

 

 ミラは背筋を伸ばす。

 緊張はある。

 でも、もう震えはない。

 

「初フライト、よく持ちこたえた。声も手元も落ち着いてた。大きなミスはなし」

 

 その一言に、ミラの肩がほんの少し下がる。

 褒め言葉なのに、浮かれさせない温度。

 エリンの“いつも通り”の褒め方だ。

 

「ただ、気付くのが少し遅い場面があった。荷物棚と、子どもの足元と、静かな人の表情」

 

 ミラの顔が引き締まる。

 指摘が具体的だから、反省が具体的に出来る。

 

「“見てる”だけじゃなくて、“先に消す”。十四班はそれで空気を作る。次から意識して」

 

「……はい。気をつけます」

 

 ミラは深く頭を下げた。

 エリンはそこで、ふっと表情を柔らかくした。

 

「でも、初回でそこまで出来たなら十分。次はもっと楽になるわ。慣れれば、目が余るようになる」

 

 ミラの目が少し潤む。

 怖かった。緊張した。

 それでも崩れなかった。

 その努力が、今、言葉で救われる。

 

 エリンは最後に、全員を見渡す。

 空気を締めるのはもう終わりだ、と分かる“終わり方”をする。

 

「今日の反省はここまで。ここからは――」

 

 エリンがほんの少しだけ笑う。

 ブリーフィングルームの硬い空気に、また余裕を一滴落とした。

 

「反省した上で、ゆっくりリフレッシュしましょう」

 

 その瞬間、全員の呼吸が軽くなる。

 カイエが小さく息を吐き、ククルが肩を回し、エマが「……やっと」と小声で呟きそうになって飲み込む。

 ミラはようやく、ほんの少しだけ笑った。

 

 エリンは、最後に一言だけ付け足す。

 

「お疲れ様」

 

 それだけで、今日という一日が“ちゃんと終わった”と、全員が理解した。

 そして――ここから先は、好きなだけ楽しんでいい。

 

 十四班は、反省を終えた顔で、ゆっくりと立ち上がった。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。