サヴァイヴ〜ドルトムント財閥〜   作:一塔

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一日目

 管制塔の更衣区画――いわゆる“管制で私服に着替える場所”は、勤務の終わりと休日の始まりが同居する不思議な匂いがした。消毒液と、整備油の残り香と、柔軟剤の甘さ。制服の規律がほどけて、肩が落ちる音が聞こえるような空気。

 

 乗務員もパイロットも、次々に私服へと姿を変えていく。ジャケットを羽織る者、パーカーを被る者、帽子を被る者。けれど、顔に残るものは同じだった。

 ――無事に終わった。

 その余韻と、まだ完全には抜けない緊張。

 

 そして皆は、エアポートのフロアへ集結した。

 

 広い。コロニーロカD2のフロアは、地球のそれよりも無駄がない。案内板の文字が少なく、導線は直線的。天井は高く、人工の空のような照明が薄い青を落としている。

 床は磨かれすぎるほど磨かれていて、靴音がよく響く。だからこそ、乗務員たちは自然と足取りを揃えて歩いた。癖が抜けない。

 

 端末を片手に、エマが一歩前へ出る。

 

「はーい、それでは点呼をとりますよ」

 

 いつもなら、この役はエリンだった。

 ただ、今回はタツヤ班長が「負担を減らす名目」で、エマに任命した。名目、と言いつつ、実際には“場を整える役割を分散させる”という、班長なりの判断だ。

 エリンはそういうところを何も言わずに引き受けてしまう。だからこそ、誰かが止めないといけない。

 

 エマは端末の名簿をスクロールし、淡々と、しかし妙に楽しそうに読み上げていく。

 

「えーっと……ククル」

 

「はいっ」

 

 ククルは背筋を伸ばし、反射で返事をした。私服なのに、返事だけ制服のまま。

 周囲がくすりと笑う。

 

「カイエ」

 

「はい」

 

 カイエは柔らかく手を挙げる。以前よりも角が取れた返事だ。それでも、声の芯は揺れない。

 

「……ミラ」

 

「は、はいっ! ミラです! おります!」

 

 ミラは勢いよく前に出かけて、慌てて止まった。

 “点呼で飛び出さない”をまだ覚えきっていない。

 エマは優しい顔で頷く。

 

「はい、元気でよろしいです」

 

「ありがとうございます……」

 

 ミラは姿勢を正し、頬をほんのり赤くする。

 

 エマの点呼は続く。パイロット、他班の応援、乗務員。

 端末にチェックが入るたび、小さな電子音が鳴る。それが、今日の“無事”の確認みたいで、聞いているだけで肩の力が抜けた。

 

「それじゃあ次に……タツヤ班長」

 

「はーい」

 

 タツヤは気の抜けた返事をし、片手を上げる。

 いつもなら「はい」だけで済ませるのに、今日は妙に陽気だ。

 ユイの存在が、班長のスイッチを“父親側”に寄せているのが分かる。

 

「タツヤ班長もオッケー」

 

 エマが端末にチェックを入れる。

 そして視線を逸らした、その瞬間。

 

「ユイは?」

 

 声の主は、ユイ本人だった。

 

 エマは一拍置いてから、柔らかく微笑む。

 

「ユイちゃん?」

 

「はーい!」

 

 ユイが元気よく手を挙げる。小さな腕が、照明の青を切る。

 その動きがあまりに真っ直ぐで、場の空気が一段温まった。

 

「はーい、よく出来ました」

 

 エマが笑う。

 周りの乗務員も思わず頬が緩む。

 フライトの緊張で固くなっていたものが、ユイの一声でほどけていく。

 

 エマが点呼を続け、最後のチェックを入れた。

 そこで、端末を見つめたまま「あれ?」と声を漏らす。

 

「あれ? ……リュウジさんがいませんね」

 

 空気が一瞬だけ止まる。

 いない理由は、誰もが分かっている。けれど、こういう時に“いるべき場所にいない”という事実だけは、妙に胸をざわつかせる。

 

 パイロットの一人が肩をすくめて言った。

 

「リュウジなら整備士に引き継ぎしてるから、先に行ってくれって言ってたぜ」

 

 淡々とした報告。

 でも、エリンの眉がわずかに上がる。

 

 ――また、ひとりで最後までやってる。

 そういう癖がある。

 だからこそ、放っておけない。

 

「それじゃあ、私が呼んでくるわ」

 

 エリンが言った。迷いがない。

 

「お願いしてもいいですか?」

 

 エマが少し申し訳なさそうに言う。

 

「ええ」

 

 エリンは頷く。

 そして、その横から――ちょこん、とユイが前へ出た。

 

「ユイも行く」

 

 ユイの声は、決定事項みたいに言い切っていた。

 

「ユイはパパとホテルに行こうよ」

 

 タツヤが慌てて手を伸ばす。

 “父親の焦り”が、そのまま手の動きに出ている。

 

「リュウジ迎えに行く!」

 

 ユイはタツヤの手をすり抜けて、エリンに近寄った。

 まっすぐ、迷いなく。

 

「ええ〜……」

 

 タツヤの情けない声が漏れる。

 それを聞いたカイエが、気まずそうに笑って言った。

 

「女の子の親離れは早いですから」

 

「パパ、切ない」

 

 タツヤが胸を押さえて言うと、周囲がまた笑う。

 笑いがあるから救われる。

 笑いがあるから、今日の終わりが“終わり”になる。

 

 エリンは、ユイを抱き上げた。

 軽い。あまりにも軽い。

 腕の中の温もりが、働く大人たちの心の緊張をほどいていく。

 

「それじゃあ一緒に行きましょうか」

 

「うん!」

 

 ユイが嬉しそうに頷く。

 タツヤは半歩遅れて、諦めたように肩を落とした。

 

 エリンは振り返って、エマに声をかけた。

 

「エマ、ホテルの場所だけ、また送っといてもらえる?」

 

「分かりました」

 

 エマが端末を軽く掲げて答える。

 

「まったく……」

 

 タツヤが小さく呟く。

 その声は、怒りではなく、どこか誇らしさが混じっていた。

 

 エリンはユイを抱いたまま、歩き出す。

 私服でも、歩き方が綺麗だ。

 無駄な音を立てない。

 それが“客室を整える人”の歩き方。

 

 フロアの端から、整備区画へ向かう通路へ入ると、空気が変わった。

 人の声が減り、機械音が増える。

 遠くで、工具が金属に当たる音。

 整備士の短い指示。

 油と金属の匂いが濃くなる。

 

 ユイが鼻をひくひくさせる。

 

「ここ、へんなにおい」

 

「そうね。飛ぶためのにおい」

 

 エリンが笑って言うと、ユイは不思議そうに首を傾げた。

 

「飛ぶにおい?」

 

「うん。飛ぶために、みんなが頑張った跡」

 

 ユイはよく分からないまま、「ふーん」と言って、エリンの首に腕を回した。

 その動きが、甘えであり、信頼でもある。

 

 整備区画に近づくと、見慣れた背中が見えた。

 

 リュウジだ。

 私服になっているのに、背中だけは“操縦席”のまま。

 整備士と向き合い、端末を見せながら、短い言葉で引き継いでいる。

 

「……ここの揺れ、昨日よりは抑えられましたが、次の便では念のため、姿勢制御の反応を確認してください」

 

 声は落ち着いている。

 説明は明確で、余計な感情がない。

 整備士が頷き、メモを取る。

 

「了解。助かる」

 

 整備士が言うと、リュウジは小さく頭を下げた。

 

 その瞬間――ユイが、リュウジを見つけた。

 

「リュウジー!」

 

 呼び方が、遠慮を知らない。

 でも、それがいい。

 

 リュウジの肩が一瞬だけ揺れる。

 そして、振り返った。

 

「あ……ユイ」

 

 声が、ほんの少しだけ柔らかくなる。

 その柔らかさを、エリンは見逃さない。

 

「リュウジ、終わった?」

 

 エリンが言う。

 リュウジはエリンの方へ向き直り、いつも通りの敬語で答える。

 

「エリンさん、すみません。もう少しで終わります」

 

「いいのよ。終わるまで待つわ」

 

 エリンはそう言って、リュウジの邪魔にならない位置に立った。

 ユイは腕の中でぴょんぴょん跳ねようとするが、エリンが軽く抱え直す。

 

「ユイ、静かにね。リュウジ、今お仕事中」

 

「……うん」

 

 ユイが頷く。

 頷いたのに、目だけはリュウジから離れない。

 

 リュウジは整備士に視線を戻し、引き継ぎを続ける。

 エリンはその横顔を見ながら、胸の奥で小さく息を吐いた。

 

 ――この人、また“最後まで自分でやる”を選んだ。

 ペルシアがいなくなってから、その癖が少し強くなった気がする。

 埋めようとしている。

 自分の手で。

 自分の責任で。

 

 でも、それは癖であって、強さであって、同時に危うさでもある。

 

 整備士が最後の確認を終え、端末を閉じた。

 

「よし、引き継ぎ完了。お前も休め」

 

 整備士の声は、命令というより“気遣い”だった。

 

「ありがとうございます」

 

 リュウジが頭を下げる。

 その瞬間、ユイが堪えきれず叫んだ。

 

「リュウジ、ホテルいこ!」

 

 整備士が吹き出す。

 

「おいおい、人気者だな」

 

 リュウジは少しだけ困った顔をして、しかし否定しない。

 その困り方が、どこか嬉しそうに見えるのが不思議だった。

 

「……行こう」

 

 リュウジがユイに言うと、ユイは両手を上げた。

 

「やったー!」

 

 エリンが微笑む。

 その笑みは、仕事の笑みではなく、少しだけ素が混じっている。

 

「じゃあ、戻りましょう。みんな待ってるわ」

 

「はい、エリンさん」

 

 リュウジはエリンに頷く。

 そしてユイに視線を落として、少しだけ目を細めた。

 

 

 通路を戻り始める。

 エリンがユイを抱いたまま歩く横を、リュウジが並ぶ。

 その距離感も、変わらない。

 近すぎず、遠すぎず。

 必要な時にはすぐ手が届く距離。

 

「……エリンさん、ありがとうございます。迎えに来ていただいて」

 

「迎えに来たというより、連行かな」

 

 エリンがさらっと言う。

 

 リュウジが一瞬だけ口元を緩める。

 

「……確かに、連行されました」

 

「そう。今日は仕事終わり。ちゃんと休む」

 

「はい」

 

 返事が素直だ。

 それだけで、エリンは少し安心した。

 

 ーーーー

 

 ホテルの自動ドアが開いた瞬間、空気が変わった。

 

 コロニーロカD2特有の、ほんのり塩気を含んだ空調。人工的に再現された“海風”の匂いが、管制塔の金属臭をいとも簡単に上書きしていく。天井の高いロビーには、薄い水色の照明が落ち、床のタイルには波紋みたいな模様が浮かんでいた。

 

「うわぁ……ひろい……」

 

 ミラが思わず声を漏らし、慌てて口元を押さえる。私服のままでも、礼儀が先に立ってしまう癖は抜けない。

 

「広いね。迷子にならないようにね」

 

 ククルが笑い、エマが端末を片手に淡々と頷く。

 

「迷子になったら、端末の位置共有で回収します」

 

「回収って言い方、怖いよ」

 

 カイエが柔らかく突っ込み、周囲がふっと笑った。

 

 タツヤはすでに気持ちがほどけているのか、ロビーの中央にある大きな水槽を見上げながら「いやー、いいねぇ」と機嫌よく言い、ユイはその横で目を輝かせていた。水槽の中には、地球由来の魚がゆっくり泳いでいる。尾ひれの動きがやけに優雅で、見ているだけで肩の力が抜けた。

 

「パパ、あれ、かわいい!」

 

「かわいいな! ……うん、かわいいな!」

 

 タツヤが何故か二回言って、ユイがくすくす笑う。

 

 エリンはロビー全体に一度だけ視線を走らせてから、手を軽く叩いた。

 

「はい、まず荷物を置きに行きましょう。部屋に入ったら鍵と貴重品だけはちゃんと管理して。ここ、リゾートだからって油断しない」

 

「了解です、エリンさん」

 

 リュウジがきちんと返事をし、カイエたちも頷く。ミラは背筋を伸ばしたまま、深々と頭を下げた。

 

「はい、承知いたしました。エリンさん」

 

 その丁寧さに、エリンが思わず口元を緩める。

 

「そんなに固くならなくていいのよ、ミラ。今日は“仕事の顔”を少しだけ緩める練習も含まれてるから」

 

「は、はい……っ」

 

 ミラは「緩める」が難題すぎるような顔で頷いた。

 

 各自がルームキーを受け取って散る。廊下は絨毯がふかふかで、足音が吸い込まれていく。ホテル特有の甘い香りが漂い、壁にはリゾートの風景画が整然と並んでいた。

 

 部屋の扉を開けて荷物を置く――それだけの行為が、すでに“休み”のスイッチを押してくれる。パイロットも乗務員も、制服ではない姿で鏡に映る自分を見て、どこか照れくさそうに笑ったり、肩を回したりしていた。

 

 そして、時間を合わせるように一行はホテルのレストラン会場へ移動した。

 

 会場は吹き抜けで、窓の向こうに人工の海が広がっていた。薄い霧みたいな水蒸気が空調で揺れ、遠くの光がきらきらと反射している。天井からは貝殻を模した照明がぶら下がり、テーブルには白いクロス。あちこちでグラスが触れる音と、食器の軽い音が鳴って、耳に優しい賑やかさが満ちていた。

 

「バイキングだ!」

 

 誰かが言った瞬間、場の温度が一段上がる。

 

 長いカウンターには料理がずらりと並んでいる。焼きたてのパン、香草の香るロースト、色鮮やかなサラダ、スープ、麺、果物、そして――スイーツ。スイーツの一角だけ、やけに光って見えた。

 

 エマはその光の方向に目だけ向けて、無言で頷いた。

 

「……見えた。勝利の棚」

 

「まだ戦い始まってないよ」

 

 カイエが柔らかく言うと、エマは真顔のまま「戦いは常に始まってる」と返し、ククルが噴き出した。

 

 ミラは皿を持ったまま、あまりの品数に固まっている。選ぶという行為が、訓練では教えてもらえない種類の難しさだった。

 

「ミラ、最初は少なめに取るといいよ。おかわりできるし」

 

 ククルがそう言い、ミラは救われたように頷く。

 

「ありがとうございます……ククルさん」

 

「うんうん。で、エマ、甘いのは最後ね」

 

 ククルが軽く釘を刺すと、エマは一瞬だけ視線を逸らした。

 

「最後……たぶん」

 

「たぶん!?」

 

 カイエが思わず笑い、ミラがつられて小さく笑う。笑ったことに気づいて、ミラが慌てて口元を押さえた。

 

 タツヤはユイの手を引きながら「まずは肉だ! ユイ、肉!」と勢いよく進み、ユイは「スイーツ!」と反対方向を指差す。父娘の主張が真っ向から割れて、周りが笑いに包まれた。

 

 リュウジは――というと、妙に手際がいい。皿を二枚使い、温かいものと冷たいものを分ける。汁気が他の料理に移らないように配置まで計算している。訓練の癖なのか、性格なのか。

 

 エリンがそれを横目で見て、口元だけで笑った。

 

「相変わらず、こういうところは几帳面ね」

 

「……職業病です、エリンさん」

 

 リュウジが小さく答えると、エリンは「褒めてるのよ」と言い、リュウジはわずかに頷いた。

 

 全員が料理を盛り終え、海が見える長テーブルに着席する。席は自然とまとまった。エリンの近くにカイエとミラ、向かい側にククルとエマ、少し離れたところにタツヤとユイ。リュウジはエリンの斜め前あたりに座り、全体が見える位置を選んでいる。無意識の配置だ。

 

 グラスに飲み物が注がれ、皿にカトラリーが触れる音が落ち着いたころ――ククルが小さく咳払いをした。

 

「それじゃあ、食べながら聞いてください」

 

 その言い方が、どこか“ブリーフィング”の時の真面目な声色で、皆の背筋が反射で伸びかける。

 けれど、ここはレストランで、皿の上には山盛りの料理。

 

「今回は二泊三日のフライトですので、昼食を摂った後は自由時間になります」

 

「やったー!」

 

 あちこちから声が上がる。乗務員もパイロットも、年齢に関係なく声が弾む。

 “自由時間”という言葉は、こんなにも人を幼くする。

 

 ククルは端末を見ながら、真面目に続ける。

 

「明日は休みになります。明後日は午後十二時にホテルロビー集合。それからエアポートに移動して、十四時のフライトに搭乗します」

 

「それじゃあ、うんと楽しめるね」

 

 エマが口の端にクリームを少し付けたまま言い、カイエがそっとナプキンを差し出した。

 

「エマ、口、ちょっと……」

 

「……ありがとう」

 

 エマは淡々と拭き、何事もなかった顔でスイーツの方向を視界の端に入れ続けている。

 

「羽目外しちゃおうか」

 

 タツヤが言った瞬間、ユイが「はめはずす!」と真似をして言う。

 意味は分かっていないのに、音が楽しいらしい。

 

「ユイ、危ないことじゃないのよ。言葉は真似しなくていい」

 

 エリンが即座に言い、ユイは「はーい」と素直に返す。

 返事が良すぎて、逆に周りが笑う。

 

 わいわいと盛り上がる中――エリンが、にっこりと笑った。

 

 その笑みは柔らかい。普段の“客室を整える笑み”と同じだ。

 だからこそ、場の温度が一瞬で整う。全員の意識が、自然とエリンへ寄っていく。

 

「節度を持って楽しみましょうね」

 

 その一言だけで、騒ぎが一段落ちるのが面白い。

 タツヤですら、ビシッと背筋を伸ばしそうになる。

 

「は、はーい……」

 

 全員が頷いた。

 声が揃う。

 揃いすぎて、また笑いが起こる。

 

 ミラはその空気の変化に目を丸くし、思わずエリンを見つめた。

 “言葉の強さ”ではない。

 “雰囲気”で場を制する人が、目の前にいる。

 

 エリンはミラの視線に気づいて、目だけで「大丈夫よ」と伝えるように頷いた。

 

 そこでカイエが、少しだけ柔らかい声でミラに言う。

 

「ミラ、自由時間って言っても、疲れてたらちゃんと寝るんだよ。無理して遊ぶ必要はないからね」

 

「はい……ありがとうございます、カイエさん。体調管理、気をつけます」

 

 ミラが真面目に答えると、ククルが「真面目すぎる!」と笑い、エマが「真面目は正義です」と真顔で言って、また笑いが起こった。

 

 タツヤはグラスを掲げる。

 

「よし! じゃあ、とりあえず――無事到着に乾杯だ!」

 

「乾杯!」

 

 声が上がる。グラスが軽く触れ合い、氷が鳴る。

 ジュースでも、ウーロン茶でも、気分は乾杯だ。

 

 リュウジはウーロン茶のグラスを持ち上げて、エリンの方へ小さく角度をつけた。

 

「……お疲れ様でした、エリンさん。段取り、助かりました」

 

「何言ってるの。飛ばしてくれたのはリュウジでしょう」

 

「いえ、今回は……皆がいたからです」

 

 リュウジの言葉が、少しだけ柔らかい。

 それを聞いて、エリンはほんの一瞬だけ目を細めた。

 

「……そうね」

 

 それだけで、もう充分だった。

 誰も“ペルシア”の名前を出さないのに、その穴を皆が意識している。

 そして、その穴を埋めるのではなく――穴があるままでも歩けるように、皆が少しずつ形を変えている。

 

 ククルが海の方を見て、嬉しそうに言った。

 

「明日、海行きたいです」

 

「人工海だけどね」

 

 エマが即座に言う。

 

「人工でも海は海!」

 

 ククルがむくれると、タツヤが「よし、明日は俺が砂の城作ってやる!」と乗り、ユイが「おしろ!」と目を輝かせる。

 

「班長、城作りはいいけど、壊されたら泣かないでくださいね」

 

 カイエが柔らかく言うと、タツヤは胸を張った。

 

「泣かない! ……たぶん!」

 

「たぶん!?」

 

 さっきのエマと同じだ。

 皆が笑う。

 

 エリンはその笑いの中で、ゆっくりと箸を置いた。

 そして、もう一度だけ、全員を見回す。

 

「いい? 本当に自由時間でいいけど――集合時間だけは絶対。遅れたら置いていく」

 

 言い方は冗談めいているのに、目は冗談ではない。

 全員が反射で頷く。

 

「はい!」

 

 ミラの返事が一番大きい。

 それに気づいて、ミラはまた慌てて口元を押さえた。

 

「す、すみません……」

 

「謝らなくていい。むしろ助かる」

 

 リュウジが淡々と言うと、ミラは嬉しそうに頷いた。

 

 食事は続く。

 エマは宣言通り――いや、宣言“たぶん”通り、最後にスイーツへ向かった。山盛りではない。けれど、目が真剣だ。

 ククルは料理よりも、明日の予定の話で盛り上がり、カイエはミラの皿が偏っていないかさりげなく見ている。

 タツヤはユイの食べる速度に合わせて、ユイの皿を小さく整え、ユイは「これ、あまい!」「これ、からい!」と忙しく感想を言い続けた。

 

 その賑やかさを、エリンは黙って受け止めていた。

 整える必要のない空気。

 誰かが誰かを押さえつけて作る空気じゃない。

 皆が自然に笑って、自然に集まって、自然に前を向く空気。

 

 ――節度を持って楽しめるなら、きっと大丈夫。

 エリンは心の中でそう言い聞かせる。

 

 そして、口元だけで笑った。

 

「……さ、食べ終わった人から自由。部屋で休んでもいいし、散歩でもいい。ユイはパパと一緒ね」

 

「えー!」

 

 ユイが抗議し、タツヤが「やったー!」と逆に喜ぶ。

 温度差がひどい。

 

「ユイ、あとでプールでも行くか!」

 

「行きたいなら、明日ね。今日は移動で疲れてるでしょ」

 

「……はーい」

 

 ユイは渋々頷くが、目はもう明日の海とプールに飛んでいる。

 

 ククルが端末を閉じて、最後に軽くお辞儀をした。

 

「以上です。楽しみましょう!」

 

「おー!」

 

 声が上がる。

 笑いが弾む。

 昼食の席なのに、まるで“始まりの号令”みたいだった。

 

 こうして一行は――

 遅めの昼食と、自由時間という名の小さな解放を手に入れた。

 節度、という鎖は細い。けれど、必要な鎖。

 その鎖を握るエリンの笑みは柔らかいのに、誰も逆らおうとは思わない。

 

 だって皆が知っている。

 ――この人がいるから、自由時間も自由になれるのだと。

 

ーーーー

 

昼食を終えたあと、皆んなは潮が引くみたいに、自然と散っていった。

 

 誰かはホテルの売店へ。誰かは散歩へ。誰かは部屋へ。誰かはプールの下見へ。――リゾートという言葉が持つ魔法は、肩に乗っていた“仕事の重み”を少しだけ軽くしてくれる。

 

 けれど、エリンだけはその魔法に完全には身を預けなかった。

 

 ホテルの自室に戻ると、カーテンを半分だけ閉め、端末を机の上に置く。椅子に腰掛ける動きに、迷いがない。今日のフライトの報告書。いつも通り、淡々と入力していく。

 

 いくら休みだろうと、その日のフライトの報告はその日にやっておきたかった。

 

 そうしないと、細部が薄れてしまう。乗客の表情の揺れ、乗務員の動きの癖、機体の揺れ方に対する反応の違い――そういう“空気の記録”は、翌日になった途端に別の色で上書きされる。エリンはそれが嫌だった。

 

 一定のリズムで打鍵音が続く。しばらくすると、画面の項目が埋まり、要点がまとまってきた。

 

「……よし」

 

 小さく呟き、目を閉じて息を吐く。

 

 そこでふと、ロビーにドリンクサービスがあることを思い出した。疲れていないつもりでも、指先には微かな熱が残っている。頭の切り替えに、あたたかいコーヒーが欲しかった。

 

 エリンは端末をスリープにして、部屋の鍵を持ち、廊下に出た。

 

 絨毯の上を歩くと足音が消える。ホテルの廊下は静かだ。遠くで子どもがはしゃぐ声が一瞬だけ聞こえて、また吸い込まれる。照明が柔らかく、壁の絵が水面のように見えた。

 

 一階のロビーに降りると、コーヒーの香りが先に迎えてくる。ドリンクサービスのコーナーは、木目のカウンターに光沢のある機械が並び、紙コップと蓋が整然と置かれていた。

 

 エリンは迷いなくカップを取って、豆の種類を選ぶ。機械が低い音を立て、濃い香りが立ち上がる。その香りだけで、頭が半分ほど休む。

 

 カップを持ってエレベーターへ向かう途中、エリンは視線の端に小さな空間を見つけた。

 

 “読書コーナー”。

 

 低い本棚と、落ち着いた色のソファ。柔らかい間接照明。外のざわめきが届かない、静かな島みたいな場所だった。

 

 ふと気になって、足が向く。

 

 中に入ると、最初に目に入ったのは――ミラだった。

 

 ソファの端にきちんと腰掛け、背筋を伸ばしたまま、分厚い本に視線を落としている。まるで訓練中の姿勢のまま、ページだけが静かにめくられていく。集中しているのが、空気でわかる。

 

 エリンは一歩だけ足を止めた。

 

 こういう時間を過ごすんだ。ミラは。

 

 何故か、胸の奥が少し柔らかくなる。ミラの真面目さは、時々“自分を追い詰める刃”になる。でも同時に、それはミラの強さでもある。

 

 エリンは声量を落として呼びかけた。

 

「ミラ?」

 

「え、エリンさん!?」

 

 ミラはびくっと肩を跳ねさせて、勢いよく顔を上げた。驚きすぎて本を落としそうになり、慌てて抱き直す。その仕草があまりにも可愛らしくて、エリンは思わず微笑んだ。

 

「そんなにびっくりしなくていいのよ。私、幽霊じゃない」

 

「す、すみません……! その……集中してしまって……」

 

「うん。読書?」

 

「は、はい」

 

 ミラは本の表紙を隠すように少し抱え込み、それでも隠しきれないという顔で、きゅっと唇を結んだ。

 

 エリンは隣のソファに、音を立てずに腰を下ろす。コーヒーのカップを両手で包むと、じんわりと熱が指先に染みた。

 

「皆んなは?」

 

「ククルさんはお土産を買いに行くとおっしゃっていました。エマさんは……ケーキ屋に行くと……。カイエさんは……お部屋でゲームをする、と……」

 

「そうなんだ」

 

 想像がつきすぎて、エリンは小さく笑う。

 

「ミラは出掛けないの?」

 

「は、はい。私は……」

 

 ミラの声が小さくなる。その“私は”の続きが、口の中で迷子になっているのが見えた。

 

「……いいのよ。休み方って、人それぞれだから」

 

「いえ……その……」

 

 ミラは俯き、手元の本を指でなぞった。ページの角が少しだけよれている。何度も読み返している証拠だ。

 

 エリンは優しく促した。

 

「じゃあ、ミラは何の本読んでるの?」

 

「えっと、その……」

 

 ミラが耳まで赤くなる。

 

「ん?」

 

「……これです」

 

 ミラは観念したように本を差し出した。

 

 エリンは表紙を見て、タイトルを読む。

 

「……『会話の仕方』?」

 

 その瞬間、ミラは恥ずかしそうに俯いた。肩が小さくすぼむ。

 

「……今日のフライトでも……私はまだ、皆さんの足を引っ張っていましたから……。少しでも早く一人前になりたくて……」

 

 その言葉は、ミラの真面目さがそのまま形になったみたいだった。

 

 エリンは、本を返してから、ミラの横顔をまっすぐ見る。

 

「……偉いわね」

 

「い、いえ……」

 

「でもね、ミラ。まず一つだけ言う」

 

 エリンはコーヒーを一口飲んで、温度で喉を整えた。

 

「“足を引っ張ってた”って言い方、やめなさい」

 

 ミラが顔を上げる。驚いたように目が瞬いた。

 

「でも……私は……」

 

「ミラが今日、何か取り返しのつかないミスをした?」

 

「いえ……していません」

 

「乗客を不快にした?」

 

「……それも……ないと思います」

 

「なら“足を引っ張ってた”じゃない。新人として“可もなく不可なく”できてた。それはすごいことよ」

 

 ミラは言葉を失ったように口を開け、すぐに閉じる。

 

 エリンは続けた。

 

「ただし。ミラが“もっと上に行きたい”って思ったなら、今のままじゃ物足りないって感じるのも分かる。だから――」

 

 エリンは本のタイトルを軽く指で叩いた。

 

「会話の仕方、気になるんでしょ?」

 

「……はい」

 

「じゃあ聞く。ミラはどこが出来なかったって思ったの?」

 

 ミラはすぐに答えられなかった。

 頭の中で、今日のフライトの場面が映像みたいに流れているのが、表情でわかる。

 

 やがて、ミラは小さく息を吸って、言葉を選んで告げた。

 

「……お客様に……話しかけるタイミングが、遅いと思いました……。あと……話しかけても……言葉が、硬いというか……距離が……」

 

「うん」

 

「それから……質問をされた時に……返事は出来るのですが……会話が……続かないというか……」

 

 ミラの声がさらに小さくなる。

 

「……皆さんみたいに……場の空気を柔らかくできなくて……」

 

 エリンは頷いた。

 

「いい自己分析ね。じゃあ、それを分解する」

 

 エリンはカップを膝の上に置き、指を一本立てた。

 

「まず“タイミングが遅い”。これは何で遅くなる?」

 

「……間違えたくないから……です」

 

「そう。新人はそれでいい。だけどね、“間違えない”を優先すると、乗客は何を感じる?」

 

「……放置されている……ように感じます」

 

「正解」

 

 エリンは指を二本立てた。

 

「次。“言葉が硬い”。これは“丁寧”と“硬い”の違いが分からないと起きる」

 

「……違うんですか?」

 

「違う。丁寧は相手を安心させる。硬いは相手を緊張させる」

 

 ミラが目を丸くする。

 

「たとえば――」

 

 エリンは少しだけ声色を変え、ミラが普段使うような言い方を真似る。

 

「『お客様、何かございましたらお申し付けくださいませ』」

 

 ミラは慌てた。

 

「わ、私……そんな……」

 

「言ってる。悪い意味じゃない。だけど、これだけだと“定型文”に聞こえるの。定型文って、便利だけど、心が届きにくい」

 

 エリンは、今度は同じ内容を、少し柔らかく言い換えた。

 

「『揺れが強いので、不安になったらすぐ声かけてね。水とか、席の調整とか、できることあるから』」

 

 ミラの目が揺れる。

 それは“言葉が変わった”だけじゃない。

 “相手を見る視点”が変わっている。

 

「……あ……」

 

「ポイントは、“今起きていること”を言葉にすること。揺れてるなら揺れてる。暑いなら暑い。眠そうなら眠そう。相手が感じてることを、先に拾って言う。そうすると、相手は“見てもらえてる”って感じる」

 

 ミラは小さく頷いた。

 

「……拾う……」

 

 エリンは指を三本立てた。

 

「最後。“会話が続かない”。これは、会話を“作ろう”としてるから」

 

「作ろう……?」

 

「会話ってね、“引き出す”ものじゃなくて、“つなぐ”ものなの」

 

 エリンはミラの手元の本を軽く見て、微笑んだ。

 

「ミラ、この本を読んでる理由、今言ったよね。“早く一人前になりたい”って。つまりミラは、“相手を理解したい”って気持ちがある。それはすごい武器」

 

「……でも……」

 

「でも、会話の場面になると、頭が“正解”を探し始める。そうすると“つなぐ”より“選ぶ”になる。だから詰まる」

 

 ミラはゆっくり息を吐いた。図星だ。

 

「じゃあ、どうすれば……」

 

「練習しよ」

 

 エリンはあっさり言った。

 

「……今、ここで……ですか?」

 

「ここは読書コーナー。声を張らなければ大丈夫。ほら、私を乗客だと思って。ミラが乗務員。状況は“揺れが断続的にある”。私、少し不安そう」

 

「は、はい……!」

 

 ミラは背筋を正し、まるで訓練開始の合図を待つみたいに構えた。

 

 エリンはわざと肩を少しすぼめ、窓の外を見ているような仕草をする。

 

「……」

 

 ミラは一歩、近づいて――止まった。

 距離感を測っている。

 

 エリンは心の中で頷く。距離の取り方は、もうできている。

 

 ミラは小さく声を出した。

 

「お客様……あ、えっと……」

 

 詰まった。

 

 ミラの喉が鳴る。

 “正解”を探している顔だ。

 

 エリンは遮らない。

 その代わり、目だけで「大丈夫」と伝える。

 

 ミラは一度息を吸い直し、言い直した。

 

「……揺れが続いておりますので……もしご不安でしたら……すぐに……」

 

 エリンはそこで、ふっと首を傾げる。

 

「……うん。丁寧。でも硬い」

 

「……っ」

 

 ミラが悔しそうに唇を噛む。

 

「大丈夫。今のは“型”が出た。次、“今”を言葉にする。ミラ、目の前の私は何をしてる?」

 

「……窓の外を……見ています」

 

「うん。じゃあ」

 

 ミラはエリンの目を見て、少しだけ声を柔らかくした。

 

「……お客様、外が気になりますか? 揺れが続いているので……不安になったら、すぐ声をかけてください。お水をお持ちしますし……席の調整もできます」

 

 エリンはにっこり笑った。

 

「今の、いい」

 

「……本当ですか?」

 

「うん。今のは“ミラの言葉”になってた。あと一歩」

 

 エリンは指先で軽く机を叩いた。

 

「会話をつなぐ。ミラ、次は“質問”を一つだけ足す」

 

「質問……」

 

「相手が答えやすい質問。深掘りじゃなくていい」

 

 ミラは考え、そっと言った。

 

「……酔いやすいですか? よろしければ……酔い止めもあります」

 

 エリンの目が優しくなる。

 

「それ。すごくいい」

 

「……!」

 

 ミラの顔がぱっと明るくなる。

 その瞬間、ミラの表情が“硬さ”から少しだけ解けた。

 

 エリンは続ける。

 

「今の質問は“相手の状態”を確認してる。会話を続けようとしてない。必要なことを聞いてる。だから自然なの」

 

「……なるほど……」

 

「もう一回。今度は私が返す」

 

 エリンは不安そうに眉を寄せた。

 

「……ええ、少し酔いやすくて。揺れると気持ち悪くなるの」

 

 ミラはすぐに反応した。

 

「承知いたしました。お水をお持ちします。あと、よろしければ……深呼吸を一緒にしましょうか。ゆっくり吸って、ゆっくり吐くと、少し落ち着きます」

 

 エリンは、思わず目を細めた。

 

「……ミラ」

 

「は、はい!」

 

「今の、すごくよかった」

 

「……え……」

 

「深呼吸を提案できるの、簡単そうで難しいのよ。相手を子ども扱いしない、押し付けない、でも支える。ちゃんと出来てた」

 

 ミラの喉が鳴った。

 嬉しさと、信じられなさが混ざった顔。

 

「……ありがとうございます……」

 

「ただし」

 

 エリンは、軽く笑ったまま言う。

 

「一つだけ。提案するときは“選択肢”にする。『一緒にしましょうか』はいいけど、相手が断れる逃げ道をもっと明確にするの」

 

「逃げ道……」

 

「『よかったら』とか、『必要なら』とか。相手のプライドを守る言葉」

 

 ミラは真剣に頷いた。

 

「はい……」

 

 エリンはカップを持ち上げ、また一口飲む。

 

「ミラ。会話って、上手くなろうとすると逆に上手くいかない。相手を“楽しませよう”としなくていい。相手を“安心させる”ことだけ考えて。安心は、観察と一言で作れる」

 

「観察……一言……」

 

「そう。で、観察っていうのはね、目だけじゃない。耳も使うの。呼吸の速さ、声の高さ、言葉の選び方。ミラはまだ耳の使い方が浅い。でもこれは、経験で伸びる」

 

 ミラは少し戸惑ったように聞く。

 

「……エリンさんみたいに……できますか……?」

 

 エリンは、すぐに答えなかった。

 ミラの不安を、ちゃんと受け止めるために。

 

 そして、優しく言う。

 

「できる。ミラはね、根が優しい。優しい人は、相手を見るのが得意になる。焦らなくていい。焦ると、自分しか見えなくなるから」

 

「……はい……」

 

 ミラの目が、少し潤む。

 それを隠すように、ミラは本をぎゅっと抱えた。

 

 エリンは言葉を続けた。

 

「この本、悪くない。でもね。ミラが本当に上手くなりたいなら、私が“宿題”を出す」

 

「宿題……ですか?」

 

「うん。今日の自由時間、あと少しあるでしょ。ロビーでも売店でも、ホテルのスタッフに一回だけ声をかけてみて」

 

「え……っ」

 

 ミラが固まる。

 

「大丈夫。内容は何でもいい。“ありがとうございます”でもいいし、“ここっておすすめありますか”でもいい。重要なのは、“相手に話しかける”という行動を、仕事じゃない場面でやること」

 

「……怖いです……」

 

「うん。怖いよね」

 

 エリンはあっさり肯定した。

 

「でも怖いってことは、伸びしろがある。怖くなくなったら、成長が止まる。だから、怖いままやる」

 

「……はい……」

 

 ミラは小さく、でも確かに頷いた。

 

 エリンは立ち上がり、ミラの頭を撫でたい衝動をぐっと堪えた。甘やかしすぎると、ミラはまた“正解”を探してしまう。必要なのは、自分で一歩を踏む感覚だ。

 

 その代わり、エリンは柔らかく笑って言った。

 

「ミラ。今日のフライト、私から見たら合格よ。派手なことはしてないけど、崩れなかった。それが一番大事」

 

「……合格……」

 

「うん。だから今日は、少しだけ自分を褒めて。で、明日また一つだけ上手くなる」

 

 ミラは胸の前で本を抱えたまま、深く頭を下げた。

 

「……ありがとうございます、エリンさん。私……頑張ります」

 

「うん。頑張りすぎない程度にね」

 

 エリンはコーヒーのカップを持ち直し、読書コーナーを出ようとする。

 

 その背中に、ミラが小さく声を投げた。

 

「あの……エリンさん」

 

「ん?」

 

「……こういうの……嬉しいです」

 

 ミラの声は震えていた。

 恥ずかしさと、安心と、涙の手前の熱。

 

 エリンは振り返って、微笑んだ。

 

「ならよかった。ミラが上手くなったら、私も楽できるから」

 

「え……?」

 

「冗談」

 

 エリンは片目を閉じて言い、ミラがやっと笑った。

 小さく、でも確かな笑い。

 

 読書コーナーの空気が、ほんの少しだけ温まる。

 

 エリンはその温度を背中に感じながら、自室へ戻る道を歩き出した。

 コーヒーの香りが、また静かに広がる。

 

 ――報告書の続きを書こう。

 今日のフライトは、ただの“移動”じゃない。

 ミラが一歩、前に出た日でもあるのだから。

 

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