サヴァイヴ〜ドルトムント財閥〜   作:一塔

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家族

 夜のロカD2は、昼間の陽気をそのまま瓶に詰めて熟成させたみたいに、やわらかい熱を帯びていた。

 

 ホテルの近くにあるレストランは、ガラス張りの外壁に街灯の光を映して、ふわりと落ち着いた雰囲気を作っている。入口のドアを開けると、香草と焼き肉とスープの匂いが一気に鼻をくすぐった。軽いジャズが流れていて、床の上は忙しなく歩くスタッフの靴音が跳ねる。

 

 十四班は、予約していた大きめのテーブルに通された。

 

 エリン、タツヤ、ユイ、ミラ、カイエ、ククル、エマ、リュウジ。八人が一つの円を作ると、いつもの事務所とは違う“余裕”が、そこだけに生まれた。制服じゃなく、私服の色が混ざり合うのも妙に新鮮で、誰の顔も少しだけ柔らかい。

 

 メニューをめくる音。グラスが触れ合う音。ユイの椅子がちょこんと揺れる音。

 

 エリンは最初にユイへ視線を向ける。視線の温度だけで、場を落ち着かせるような、そんな自然な動きだった。

 

「ユイ、今日はどこ行ったの?」

 

 声が優しい。指摘ではなく確認。命令ではなく興味。ユイがそれを見逃すはずがない。

 

「今日は、すいぞくかん行った!」

 

 ユイが満面の笑みで言う。両手を少しだけ上げ、魚が泳ぐ真似をしてみせる。

 

「いっぱいお魚さん、見れた?」

 

「うん!」

 

 ユイは全力で頷いて、頬がぷにっと揺れた。

 

「そう」

 

 エリンも笑って、ユイの頭を撫でる。髪の毛を梳くみたいに、ゆっくりと。ユイはその手の温度に安心したように目を細めて、「えへへ」と小さく笑った。

 

 その光景を見て、ククルが思わず声を漏らした。

 

「うわぁ……」

 

 カイエが箸を持つ手を止める。

 

「どうしたの?」

 

 ククルは頬を掻きながら、恥ずかしそうに言う。

 

「いや、その……エリンさんの包容力って凄いなって思って……」

 

 ミラが、間髪入れずに頷いた。

 

「それ、分かります」

 

 エマも、涼しい顔で乗ってくる。

 

「私も分かる。なんだろう、見ててホッとする」

 

「そうそう!」

 

 ククルが勢いよく頷く。

 

 ミラが、真面目な顔で続けた。

 

「……お母さんみたいです」

 

 一瞬、場が固まった。

 言葉の破壊力をミラだけが気づいていない。

 

 エリンは箸を置きもせず、笑みを崩さないまま、穏やかに返す。

 

「誰がお母さんよ」

 

 声は優しい。優しいのに、ぴしりと線が引かれる。

 

 ククルとエマは肩を震わせ、カイエは口元を押さえて笑いをこらえていた。ミラだけが「あ……」と気づき、耳まで赤くなった。

 

 エリンはそんなミラを助けるように、話題をすっと変える。さすがだ、とカイエは心の中で頷く。

 

「それよりククル、何かいいもの買えたの?」

 

「あ、はい!」

 

 ククルの顔がぱっと明るくなる。

 

「買いすぎてバックに入らないー!って叫んでたもんね」

 

 カイエが、さらっと爆弾を落とした。

 

「ちょっと、言わないでよ!」

 

 ククルが頬を膨らませる。けれど怒っているというより、からかわれて照れている。

 

 エリンはククルを見て、ふふっと笑う。

 

「ククル、変なもの買わされないようにね」

 

「大丈夫です! 良い買い物でした!」

 

 その“良い買い物”が何なのかは聞かない方がいい気がした。エマが小さく「きっと変なものだ」と呟き、カイエが「エマ、聞こえるよ」と笑って突っ込む。

 

 料理が運ばれてくる。皿がテーブルに並ぶ度、湯気と香りが増えていく。肉、魚、サラダ、スープ、パン、そしてエマが最初から狙っているであろうデザートのワゴン。

 

 タツヤはビールを受け取り、喉を鳴らして飲み干した。

 

「ぷはぁー!」

 

 その音が、場の空気をさらに軽くする。

 

「おかわり貰ってくる」

 

 タツヤが椅子から立ち上がると、リュウジも同じタイミングで立ち上がった。

 

「じゃあ、俺は肉を貰ってきます」

 

 ユイの目がきらっと光る。

 

「ユイもいく!」

 

 ユイは椅子から降りるようにしてリュウジの側へ移動した。小さな手が、迷いなくリュウジの服の裾を掴む。

 

 エリンはそれを見て、反射で声を出す。

 

「リュウジ、ユイをちゃんと見ててよ」

 

 いつもの指示。いつもの確認。

 だけど、その“いつも”に、ほんの少しだけ違う温度が混ざっていることに、エリン本人だけが気づいてしまった。

 

 ――あれ。

 今、声、少し強かった?

 

 エリンは自分の喉の奥を意識する。やけに乾く。ウーロン茶を口に含んで、誤魔化すように飲み込む。

 

 リュウジは当然のように答えた。

 

「分かりました」

 

 そしてユイの頭を撫でる。

 撫で方が、不器用なのに優しい。

 強くもなく、弱くもなく、一定のリズム。

 

 ユイは嬉しそうに笑い、リュウジの横にぴたりと並んで歩き出した。リュウジはユイの速度に合わせて、歩幅を小さくする。そんな細かいところまで自然にできるのが、妙に腹立たしいほどだ。

 

 その姿を見たククル、エマ、カイエ、ミラの四人は、言葉を失った。

 

 ――見えた。

 いけないものが見えた。

 

 夫婦のやり取りみたいに見える。

 いや、夫婦っていうか、もっと自然に。

 当たり前みたいに、呼吸が合っている。

 

 エマが小声で、耐えきれずに吐き出した。

 

「ねぇ、本当に付き合ってないんだよね!?」

 

 ミラが慌てて、きちんとした声で答える。

 

「エリンさんは否定していました」

 

 カイエが箸で肉をつつきながら、視線だけで二人の背中を追う。

 

「噂はペルシアさんが流したって歓迎会で言ってたよね」

 

 ククルが真顔で頷く。

 

「でも噂がなくても、あの二人なら勝手に噂が流れそう」

 

 ……その瞬間。

 

 ゴホン。

 

 わざとらしい咳払いが、テーブルの中心から落ちた。

 

 四人は反射で背筋を伸ばした。怖い。怖いけど見たい。見たいけど怖い。そんな複雑な顔になる。

 

 エリンはウーロン茶を飲みながら、照れたように言う。

 

「聞こえてるわよ」

 

 声は柔らかい。

 柔らかいのに、逃げ場がない。

 

「す、すみません……!」

 

 ミラが勢いよく頭を下げる。丁寧すぎて逆に面白い。

 

「別に怒ってない」

 

 エリンは言いながら、グラスをテーブルに置く。

 その手元が少しだけ、落ち着かない。

 

 ククルが恐る恐る口を開く。

 

「でも……見えました。なんか……自然すぎて……」

 

「自然?」

 

「自然です!」

 

「自然って何」

 

 エリンの問いが、なぜかちょっとだけ鋭い。

 その鋭さが、自分の内側の“何か”を守る刃になっているのが分かる。

 

 エマが、あえて軽く言う。

 

「ほら、夫婦みたいっていうか……」

 

「夫婦じゃない」

 

 エリンは即答した。

 

 即答しすぎて、エリン自身が自分に驚く。

 否定が速い。速すぎる。

 その速さは、“否定したい何か”があるみたいに見えてしまう。

 

 カイエが、わざとらしく咳払いして場を整える。

 

「エリンさん、みんな悪気ないですから」

 

 エリンはカイエを見て、少しだけ目を細める。

 カイエは引き攣った顔でニコニコしている。

 

「……分かってる」

 

 エリンは言って、またウーロン茶を飲む。

 

 胸の奥が、ふわっと熱い。

 怒りではない。

 恥ずかしさとも違う。

 “何かを見られた”ような、ぞわっとした感覚。

 

 エリンは、テーブルの上の料理に視線を落とす。

 魚の皿、肉の皿、サラダ、スープ、パン。

 どれも美味しそうなのに、味が一瞬だけ遠くなる。

 

 ――意識してる?

 私が?

 

 エリンは自分に問いかける。

 けれど答えはすぐには出ない。

 

 リュウジのことは、ずっと“仲間”として見てきた。

 操縦士として尊敬している。

 十四班の支柱の一つとして信頼している。

 危ないところに飛び込む癖があるから、止めたくなる。

 無茶をするから、叱りたくなる。

 無理をしてるのが見えるから、守りたくなる。

 

 ――守りたくなる?

 

 その言葉が、胸の奥で小さく跳ねた。

 恋愛感情?

 違う。

 でも、完全に違うと言い切れるほど、エリンは自分の心を軽く扱えなかった。

 

 ここ最近、ペルシアがいなくなってから、エリンの感覚はいつもより敏感になっている。班を守る責任の重さ。みんなの不安。前より増えた“見えない穴”。その穴を埋めようとして、エリンはいつも以上に力を入れてしまっている。

 

 その中で、リュウジは変わらずに、黙って支え続けている。

 

 言葉ではなく動きで。

 態度で。

 背中で。

 

 だから――たぶん。

 それを見て、安心するのだ。

 安心するから、近くにいるのが当たり前になって。

 当たり前になってしまったから、ふとした瞬間に“特別”に見えてしまう。

 

 エリンは、自分の考えが危険な方向に流れそうなのを感じて、ウーロン茶をもう一口飲んだ。

 

 エマが、恐る恐る話題を戻すように言う。

 

「……あの……エリンさんは、今日の自由時間は……どこにも行かれなかったのですか?」

 

「報告書を書いてたわよ」

 

 エリンは即答して、少しだけ笑う。

 

「仕事熱心……」

 

 ククルがぽつりと言い、エマが「優しい仮面の鬼は仕事も鬼」と言いそうになって、カイエに肘で止められる。

 

 その時、戻ってきたタツヤが、ビールのグラスを片手に、テーブルに近づいてきた。

 タツヤの後ろに、肉を皿に山盛り乗せたリュウジと、誇らしげに小さな皿を持ったユイが続く。

 

「お待たせしました」

 

 リュウジが席に戻る。ユイも椅子に座り、嬉しそうに自分の皿を見せびらかす。

 

「見て! おにく!」

 

「うん、すごい」

 

 エリンが笑って言う。

 その笑みは自然だった。

 自然すぎて――エリン自身が少しだけ困る。

 

 ククルたち四人は、さっきの会話の続きを言いたいような、言いたくないような顔をしている。

 けれどエリンが視線を向けるだけで、全員が一斉に“普通”の顔になる。

 

 エリンはその反応を見て、ふっと笑った。

 

「……なに。私、そんなに怖い?」

 

「い、いえ!」

 

 ミラが即答する。

 

 カイエが助け舟を出す。

 

「怖いっていうか、頼れるっていうか。安心するっていうか」

 

「ほら、包容力」

 

 ククルがぽつりと言い、エマが「またお母さんに戻る」と笑う。ミラが「すみません」と言いかけて、エリンが目で止める。

 

「謝らなくていい」

 

 エリンはそう言って、料理に手を伸ばす。

 箸で魚をほぐし、口に運ぶ。

 ちゃんと味がする。

 

 リュウジが肉を切り分けながら、ユイに「熱いから気をつけろ」と言う。ユイが「うん!」と返す。そのやり取りが、また妙に自然で、エリンの胸の奥が小さく揺れた。

 

 さっきまでの“ざわざわ”は、まだ残っている。

 でも、そのざわざわは嫌じゃない。

 ただ――自分の中で扱い方が分からない。

 

 恋愛なのか。

 仲間なのか。

 家族のようなものなのか。

 責任感なのか。

 それとも、ただの疲れが作る錯覚なのか。

 

 エリンは答えを出さないまま、目の前の光景を受け止める。

 

 ユイの笑い声。

 タツヤのビールの音。

 ククルの明るい相槌。

 エマの楽しそうな目。

 カイエの柔らかい突っ込み。

 ミラの丁寧すぎる敬語。

 そして――リュウジの、静かな存在感。

 

 エリンはウーロン茶を持ち上げ、ゆっくり飲む。

 

 そのグラス越しに、リュウジがふとこちらを見る。

 目が合う。

 ほんの一秒。

 リュウジはすぐに視線を逸らして、ユイの皿を直す。

 

 それだけのことなのに。

 

 エリンの胸が、少しだけ――高鳴った。

 

 驚くほど小さな高鳴り。

 でも確かにある。

 その感覚が、エリンを困らせる。

 

 エリンは、誤魔化すように笑って言った。

 

「……ほら、食べるわよ。せっかくの夕飯なんだから」

 

「はい!」

 

 ミラが元気よく返事をし、ククルが「いただきます!」と言い、エマがデザートの場所を確認し、カイエが「ユイ、ジュース飲む?」と聞き、タツヤが「乾杯し直すか!」と騒ぎ、ユイが「かんぱーい!」と叫ぶ。

 

 グラスが触れ合う音が、夜のレストランに軽く響いた。

 

 エリンはその音を聞きながら、心の中で小さく息を吐く。

 

 ――今は、これでいい。

 答えは、まだ出さなくていい。

 

 ただ、分からないまま芽生えた気持ちが、静かに根を伸ばしていくのだけは、もう止められないのだと――エリンは、薄々気づき始めていた。

 

ーーーー

 

 ホテルに戻り、それぞれの部屋に別れていった。

 だがそれで終わりになる筈はない。

 

 夕飯の席を離れた瞬間から、エマの目は“次の戦場”を見据えていた。声には出さないが、あの目は言っていた――「夜はまだ終わってない」と。

 

 結果、当然のように決まった。

 

 エマの部屋集合。女子会。

 

 廊下の照明は暖色で、カーペットは足音を吸い込む。遠くの部屋からはシャワーの音や、誰かの笑い声が漏れていた。ドアの隙間から香るアロマ。ここは仕事の場じゃない。そう分かっているのに、十四班の体はまだ“勤務”の延長にあるみたいで、勝手に背筋が伸びる。

 

 その背筋を、ククルが力づくで緩めにかかった。

 

「ミラ、準備できた?」

 

 ミラの部屋の前で、ククルが控えめにノックする。ガチャ、と開いて出てきたミラは、髪を丁寧に乾かし終えたばかりらしく、頬がほんのり赤かった。手には小さなポーチ。表情は緊張を残しつつも、どこかワクワクしている。

 

「はい! 大丈夫です」

 

 返事が元気すぎて、ククルは思わず笑う。

 

「よし、行こ行こ」

 

 二人は並んで廊下を歩き始めた。ミラは歩幅をククルに合わせようとして少しだけ小走りになる。そういうところがまだ新人らしくて、見ていて胸がくすぐったい。

 

 歩きながらミラが首を傾げる。

 

「あれ? カイエさんは?」

 

 ククルは肩をすくめた。

 

「カイエはゲームするからパスだって。なんか今日、ゲームのアップデートがあるんだって」

 

「そうなんですね……」

 

 ミラは少し残念そうに言うけれど、すぐに表情を整えた。カイエがいない“女子会”――つまり、ここから先は遠慮が要らない。そんな空気になるのは目に見えている。

 

 エマの部屋は角部屋で、廊下の一番奥だ。途中、曲がり角をひとつ越える――その瞬間だった。

 

 視界の先に、見覚えのある背中が現れた。

 

「あれ? リュウジさんだ」

 

 ククルが思わず声を落とす。ミラも目を凝らして、すぐ気づいた。

 

「ユイちゃんもいますね」

 

 確かにリュウジは、眠そうなユイを抱えていた。ユイは片手に小さな人形を握りしめている。腕はだらんと垂れ、頬がリュウジの肩にくっついていた。ユイの髪から、甘いシャンプーの匂いがする気がした。

 

 リュウジは廊下の真ん中で立ち止まり、ある部屋の扉を二、三回ノックする。

 

 ――コン、コン、コン。

 

 すぐに扉が開いた。

 

 明かりが漏れ、柔らかい匂いが廊下に流れてくる。

 そして見えた。

 

「……!?」

 

 ククルが、声にならない息を吐いた。

 ミラが小声で、確信を口にする。

 

「エリンさん……」

 

 エリンは部屋着姿で扉の向こうに立っていた。髪はほどよく下ろされ、いつもの“仕事の鎧”が少し緩んでいる。だけど目は変わらない。人を見る目。場を見る目。守る目。

 

 リュウジが何か短く告げた。聞き取れない。だがそれが“お願い”であることは、見なくても分かった。

 

 エリンは優しく笑みを浮かべてユイを抱き抱えた。

 ユイはエリンの腕の中に収まり、ふにゃりと頬を寄せる。

 

 エリンが、ユイの背中を軽くポンポンと叩く。

 

 ――ぽん、ぽん。

 

 それだけで、ユイの瞼が閉じていった。

 まるでスイッチが切り替わるみたいに、安心の眠りへ落ちる。

 

 その姿が可愛らしくて、エリンとリュウジは互いに笑みを浮かべていた。

 

 笑みは短い。だけど確かに“共有”されていた。

 それが、ククルの胸を不思議にざわつかせる。

 

 エリンは小さく頷いて、扉を静かに閉める。

 リュウジは会釈だけを残し、自室へ戻っていく。

 

 廊下には、何事もなかったかのような静けさが戻った。

 

 ククルが、やっと息を吐く。

 

「……私たちも行こっか」

 

「……はい」

 

 ミラの返事は、少しだけ遅れた。

 遅れたのは、胸の中に生まれた“疑問”が、簡単に処理できないからだ。

 

 ――今の、何?

 ――普通?

 ――普通……なの?

 

 女子会は、“普通じゃない”を言葉にする場所だ。

 

 エマの部屋に着くと、扉が開いた瞬間から甘い匂いが押し寄せた。テーブルの上にはケーキ、アイス、焼き菓子、カップに入ったフルーツ。冷蔵庫の開閉音すら楽しそうに聞こえる。

 

「女子会ならスイーツをと思って」

 

 エマが満足げに言う。

 その満足げな顔が、今日一番“エマらしい”。

 

「すご……」

 

 ククルが素直に感嘆する。ミラは目を丸くして、きちんと褒めようとして言葉を探している。

 

「ありがとうございます……えっと……すごく……豪華です」

 

「でしょ」

 

 エマは得意げに胸を張る。

 

 ククルとミラは靴を脱ぎ、ソファへ座った。エマはスプーンや皿を配り、手際がいい。こういうところ、ほんとに“生活力”が高い。

 

 ――そして。

 

 全員の脳裏に、さっきの廊下がまだ残っている。

 

 エマがアイスの蓋を開けながら、何でもないように言った。

 

「で?」

 

 その一言が、号令だった。

 

「さっきのリュウジさんとエリンさん、見た?」

 

 ククルが、スプーンを握ったまま固まる。

 ミラは姿勢を正してしまう。癖で。

 

「エマも見てたの!?」

 

「たまたま、二人が遅いな〜と思って扉を開けたらね」

 

 エマはケーキを切り分けながら、淡々と続ける。

 

「リュウジさん、ユイちゃん抱えて、エリンさんの部屋。あれは……何?」

 

 ククルは自分の頬を押さえた。熱い。

 

「……え、普通じゃない?」

 

 言いながら、ククル自身が“普通じゃない”と思ってる。

 だから声が上ずる。

 

 ミラは慎重に言葉を選ぶ。

 

「私……分からないです。でも……とても……自然でした」

 

「それ」

 

 エマが即座に指を鳴らす。

 

「自然すぎるのが怖いのよ。自然すぎると、こっちが勝手に意味をつけたくなる」

 

 ククルはアイスを口に入れて、冷たさで頭を落ち着かせようとする。だが甘さが逆に“考える脳”を刺激した。

 

「でも、ユイちゃんのことだからさ。タツヤ班長が酔っ払って寝ちゃったとか……?」

 

 ククルが推測を出すと、エマが首を振る。

 

「タツヤ班長、酔ってたけど寝てない。さっきも普通に追加ビール取りに行ってた」

 

「じゃあ……ユイが先に眠くなって、タツヤ班長が連れて帰るはずだったのに……?」

 

 ミラが控えめに言う。

 エマがスプーンで空中を指す。

 

「多分、タツヤ班長が“任せた”んでしょ。リュウジさんに。で、リュウジさんが“エリンさんのところが一番落ち着く”って判断した」

 

「……それがもう、すごくない?」

 

 ククルが呟く。

 

「誰が一番落ち着くか、分かってるのが」

 

「分かる。ユイちゃんも、あの瞬間で眠ってた」

 

 エマはケーキを口に運びながら、目を細める。

 

 ミラは、今日一日で一番真剣な顔をした。

 

「エリンさん……抱っこの仕方が……慣れてました」

 

 ククルがこくこく頷く。

 

「背中ポンポンがね、すごい。あれ、魔法。睡眠魔法」

 

「“睡眠魔法”は言いすぎ」

 

 エマがツッコミを入れる。だが、その顔は笑っている。

 

 そして、ここからが本題だ。

 

 エマが、ケーキの皿を置く。

 

「でさ。二人、付き合ってるの?」

 

 ククルの肩が跳ねた。ミラは慌てて両手を膝に置く。

 

「え、えええ……」

 

「えええ、じゃなくて。どう思う?」

 

 エマは容赦がない。女子会のエマは、いつも以上に真っ直ぐだ。

 

 ククルは頬を膨らませるように息を吐き、正直に言った。

 

「……分かんない」

 

 ミラも同じように頷く。

 

「私も……分からないです」

 

「でしょ?」

 

 エマはスイーツをすくいながら、何かの答え合わせをするように言う。

 

「エリンさんってさ、“恋愛”って感じがしないのよ」

 

 ククルが微妙な顔で同意する。

 

「うん……なんか、恋愛っていうより、もっと……責任?みたいな」

 

「責任、分かる」

 

 エマは頷く。

 

「班を守る責任。ユイちゃんを守る責任。空気を整える責任。全部、エリンさんの“当たり前”の中に入ってる」

 

 ミラは胸の前で指を絡めた。

 

「でも……さっき……笑ってました」

 

 ぽつり。

 その一言が、二人の視線をミラに集める。

 

「エリンさんとリュウジさん、同じタイミングで……笑ってました。……あれは……」

 

 ミラの言葉が途切れる。

 言っていいのか分からない“何か”が喉に引っかかる。

 

 ククルが、その続きを代わりに言った。

 

「……“家族”みたいだった」

 

 エマが、スプーンを止める。

 

「家族」

 

 口の中で転がすみたいに言う。

 

「恋人っていうより、家族。すごくしっくりくる」

 

 ククルは、さっきの場面を思い出す。

 

 ユイを抱えたリュウジ。

 扉を開けたエリン。

 何も言わずにユイを受け取り、背中を叩いて眠らせる。

 その間、リュウジが余計なことをしない。

 エリンも余計なことを言わない。

 

 “やるべきこと”を、呼吸みたいにやっているだけ。

 なのに、あの笑みがある。

 

「……あの笑い方ってさ」

 

 ククルは自分の手を見つめて言う。

 

「職場の笑い方じゃないよね」

 

 ミラが、こくん、と頷いた。

 

「はい……。仕事の時のエリンさんの笑みって、もっと……整ってます。綺麗です。でもさっきは……」

 

「さっきは?」

 

 エマが促す。

 

 ミラは恥ずかしそうに言った。

 

「……少し、崩れてました」

 

 ククルが「分かる!」と声を上げそうになり、慌てて口を押さえた。

 エマがにやりとする。

 

「崩れてたね」

 

 ククルは頷きながら言う。

 

「うん。ほんとに、普通の人みたいだった」

 

「普通の人みたい、って」

 

 エマは笑いながらも、どこか嬉しそうだ。

 

「それ、良いことだと思う。最近のエリンさん、頑張りすぎだし」

 

 その言葉に、部屋の空気が少しだけ静かになる。

 

 ペルシアがいなくなった穴は、みんなが思っているより深い。

 誰も口には出さないけれど、エリンの背中がそれを語っている。

 

 ミラは、ゆっくり言った。

 

「……私、十四班に来て……皆さんがすごく頑張ってるの、分かります」

 

 ククルが、少しだけ笑って頷く。

 

「うん。頑張ってる。ギリギリで、ね」

 

 エマが、アイスをすくいながら言う。

 

「だからこそ、エリンさんが“崩れた笑い”できる相手がいるなら、私はそれでいいと思う」

 

 ククルが目を丸くする。

 

「え、エマ、急に大人……」

 

「スイーツ食べると賢くなるの」

 

 エマは真顔で言って、ククルが吹き出した。ミラもくすっと笑う。

 

 でも笑った後、ククルは少しだけ真剣になった。

 

「……でもさ、恋愛って決めつけるのは違うよね」

 

「違う」

 

 エマは即答する。

 

「恋愛かどうかなんて、本人が分かってないかもしれないし」

 

 ミラが小さく手を上げた。

 

「……あの……でも……」

 

「なに?」

 

「エリンさん……リュウジさんのこと……気にしてると思います」

 

 ククルは頷く。

 

「うん、それは気にしてる」

 

 エマが口元だけで笑う。

 

「“気にしてる”の種類が問題なのよね」

 

 ククルがスプーンを持ったまま天井を見た。

 

「守りたいのか、頼りたいのか、怒りたいのか、好きなのか」

 

「全部かもね」

 

 エマがさらっと言う。

 

 ミラが小声で呟いた。

 

「全部だったら……すごく、強いですね」

 

 ククルが「それ、エリンさんっぽい」と言い、三人はまた笑った。

 

 ――その笑いの中で。

 

 ミラが、ふと真顔になる。

 

「でも……噂になるの、分かります。あの二人……空気が、合ってます」

 

 ククルは、さっきの廊下を思い出して頷いた。

 

「合ってる。言葉少なくても合ってる」

 

 エマはケーキの最後の一口を食べて、結論みたいに言った。

 

「だから私たちは、見守る」

 

「見守る?」

 

 ククルが聞き返す。

 

「うん。余計なこと言わない。騒ぎすぎない。……でも、女子会では盛り上がる」

 

 エマがそう言うと、ククルが「それ最高」と笑い、ミラが「はい……」と照れた。

 

 そしてククルが、思い出したように言う。

 

「ねぇ、もしさ。もし今後、エリンさんが“自分で気づく”瞬間が来たら……」

 

「来たら?」

 

 エマが促す。

 

 ククルは真剣な顔で言った。

 

「その時、私たち、ちゃんと味方でいようね」

 

 ミラが、すっと背筋を伸ばす。

 

「はい。もちろんです」

 

 エマはいつもの調子で肩をすくめる。

 

「当たり前。味方じゃないと誰がスイーツ食べさせてくれるのよ」

 

「そこ!?」

 

 ククルが突っ込み、ミラが笑い、エマも笑う。

 

 笑い声が、部屋の中にやわらかく広がった。

 

 ――その頃、廊下の向こうの静かな部屋では、ユイの寝息が続いているはずだ。

 背中を叩く手が止まっても、安心は残る。

 そして、きっとエリンは気づいていないふりをしながら、自分の胸の小さな揺れを、ウーロン茶みたいに飲み込んでいる。

 

 恋愛なのかどうか。

 それはまだ誰にも分からない。

 けれど、ククルたちは確かに見た。

 

 あの短い笑みが、“仕事”だけのものではないことを。

 

 エマがスプーンを置いて、最後に言った。

 

「ね、ミラ。これは新人研修の一環だからね」

 

「え……?」

 

「十四班で生き残るには、“空気を読む能力”も必要。今日の学び、提出物ね」

 

「提出物……?」

 

 ミラが目を丸くする。

 

 ククルが慌てて言う。

 

「エマ、それは冗談だよ! たぶん!」

 

「たぶんって何ですか!?」

 

 ミラが本気で焦り、三人はまた笑い転げた。

 

 女子会は、夜の終わりじゃない。

 “明日を軽くする”ための、秘密の整備だ。

 

 ――そしてその整備の中心に、いつの間にかリュウジとエリンの“空気”が入り込んでいることを、三人はスイーツより甘い秘密として、しっかり抱え込んだまま夜更けへ溶けていった。

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