朝、陽がちょうど登る頃にエリンは目を覚ました。
カーテンの隙間から差し込む光はまだ柔らかく、部屋の輪郭を少しずつ起こしていく。ホテルの空調の低い唸りと、遠くで鳴く鳥のような電子音――このコロニー独特の「朝の音」が、耳の奥をくすぐった。
眠たい目を擦りながら身体を起こすと、隣にはぬいぐるみをぎゅっと抱きしめたまま眠るユイの姿があった。小さな肩が規則正しく上下していて、口元はほんの少し開いている。夢の中でも何か食べているのか、頬がふにゃりと動くのが可笑しくて、エリンは思わず笑ってしまった。
――そうだ。昨日。
タツヤが飲んだくれになって、眠くなったユイをリュウジが抱えて連れてきたんだった。
エリンはユイの頭をそっと撫で、布団を肩まで引き上げる。起こすにはまだ早い。朝の時間は、子どもにとっても宝物だ。寝ているだけで守られている時間。誰にも邪魔されたくない。
ユイの寝息を確かめるように耳を澄ませてから、エリンはそっとベッドを抜けた。足音を立てないようにスリッパをつま先で引き寄せ、そっと履く。洗面台で冷たい水を少しだけ手に取って顔を押さえると、眠気がじわっとほどけていく。
まだユイを起こすのは早いと思い、朝日が辺りを照らす中で、ふと窓の外を見た。
――リュウジの姿が見えた。
ホテルの敷地内の遊歩道。朝露が残る芝の端を、誰より早く踏みしめている。ランニングを終えた後なのだろうか――いや、あれは“終えた”というより、日課をきっちりやり切った後の、いつもの区切りなのだろう。リュウジは汗を掻いたまま膝に手をついて呼吸を整えていた。胸が大きく上下し、吐く息が薄い霧みたいに揺れる。
その姿を見ただけなのに、エリンは胸のあたりがきゅ、と鳴った気がした。
――何で?
自分で問いかけて、答えが出る前に身体が動いていた。
エリンはカーディガンを羽織り、髪を指で軽く整える。鏡を見る暇もない。ユイが起きた時に気づけるように、ドアチェーンを外さずにほんの少しだけ扉を開けて、廊下へ出た。足取りは静か。だけど心臓は妙に早い。
エレベーターを使うほどでもない距離。階段を降りて、ロビーを抜け、外へ出る。朝の空気が肌に触れる。少し冷たくて、少し甘い。リゾート地の朝は、仕事の日の朝とは別物だ。胸いっぱいに吸い込むと、頭の中が澄んでいく。
遊歩道の端で立ち止まると、リュウジはまだ呼吸を整えていた。汗で濡れた前髪が額に張り付いている。普段の整った印象が少し崩れていて、それが何だか――人間らしくて、近く感じた。
エリンは少し距離を保ったまま声をかけた。
「おはよ。早いね」
リュウジの肩がぴくりと動き、顔が上がる。驚いたような目がこちらを捉える。ほんの一拍遅れて、彼の表情がほどけた。
「おはようございます、エリンさん。……日課なんです」
朝の声は、少し低くて、少し掠れていた。運動の後の声だ。いつもの操縦室での淡々とした響きより、温度がある。
「走ってたの?」
「はい。走ってました」
「目、覚めるどころじゃないでしょ。汗すごい」
エリンが指摘すると、リュウジは自分の腕の内側を見て、軽く息を吐いた。
「まあ……ちょっとやりすぎたかもしれません」
「別に。走った後なんだから当たり前でしょ」
エリンは近くのベンチに置かれていた貸し出し用のタオルを一枚取って、リュウジに差し出した。ホテルのロゴが刺繍された、少し厚手の白いタオル。
「ほら、これ」
リュウジは一瞬、受け取るのを躊躇ったように見えた。エリンの手が近づいたからか、それとも――理由は分からない。だが次の瞬間、彼はきちんと両手で受け取った。
「ありがとうございます、助かります」
タオルで首筋を拭う仕草は、丁寧なのにどこかぎこちない。普段のリュウジは、動きが無駄なくて滑らかだ。なのに今日は、ほんの少しだけ、手の動きが迷っているように見えた。
「昨日、ありがとね」
エリンが言うと、リュウジの手が止まった。
「昨日……ですか?」
「ユイ。抱えて連れてきてくれたでしょ」
リュウジは「……ああ」と小さく頷く。タオルで前髪の水気を拭いながら、視線をわずかに逸らした。
「いえ。ユイ、眠そうでしたし。タツヤ班長が……」
「うん。飲んだくれ」
エリンが即答すると、リュウジの口元がほんの少しだけ上がった。笑ってはいけない場面なのに、耐えきれなかったみたいな、控えめな笑い。
「……だいぶ飲んでましたから」
「“だいぶ”じゃない。あれは“完全に”」
エリンが腕を組むと、リュウジは「そうですね」と小さく言いながら、肩を落とすように息を吐いた。
「でも、ユイはよく眠ってた。ぬいぐるみ抱えて、ずっと」
エリンがそう言うと、リュウジの目が少し柔らかくなる。
「……安心したんです」
「うん。あの子、安心すると一気に落ちるから」
言いながら、エリンはさっき見たユイの寝顔を思い出す。あの無防備さは、信頼の塊だ。守られることを疑っていない。
ふとリュウジが、言いにくそうに口を開いた。
「エリンさん、ユイ、起きませんでした?」
「まだ寝てる。今起こすには早い」
「……よかったです」
リュウジの声に、微かな安堵が滲んだ。エリンは、その安堵の理由を探してしまう。ユイが起きて泣かないか心配なのか。それとも――自分の部屋に運んだことを、ユイがどう思うか気にしているのか。
エリンは目を細める。
「ねえ、もしかして緊張してた?」
「何をですか?」
「ユイを抱えて運んでくるの。慣れてないでしょ」
リュウジは少し困ったように瞬きをした。
「慣れては……ないですね。でも危ないことはしたくなかったので」
「リュウジらしい」
エリンが言うと、リュウジの眉がわずかに上がった。褒められたのか、からかわれたのか判断に迷った顔。
「……そうですか?」
「そう。必要なことはちゃんとやる。黙って」
エリンが当たり前みたいに言うと、リュウジはタオルを握る手に少し力を込めた。まるで“見抜かれた”みたいに。
しばらく、朝の静けさが二人の間に落ちる。遠くで噴水の水音がかすかに響き、ホテルのスタッフが敷地を整備する音が小さく混ざる。空気は清々しく、太陽は少しずつ強くなる。
エリンは、改めてリュウジを見た。
汗で濡れたシャツが背中に貼りつき、腕にはうっすら筋が浮いている。走った後の呼吸の乱れがまだ残っているのに、姿勢は崩れていない。こういうところが“リュウジだ”と思う。どんな時も、どこかで線を引いている。自分が崩れることで周りに影響が出るのを、嫌っている。
「……最近、走りすぎじゃない?」
エリンがぽつりと言うと、リュウジが視線を上げた。
「走りすぎ……ですか」
「うん。夜もトレーニング詰めてるって、タツヤ班長が言ってた」
リュウジの表情がほんの少し固くなる。言い訳を探す顔ではない。むしろ、事実を認める前に“言葉を整える”顔だ。
「……すみません」
「何で謝るの」
エリンは即座に返す。怒っているわけじゃない。だけど、放っておけない。
「謝るなら、無理してることを謝らないで。私にじゃなくて、自分に」
リュウジは何か言おうとしたが、言葉が出ない。口を開きかけて、閉じる。その仕草が珍しくて、エリンは少しだけ目を丸くした。
朝の光が、リュウジの横顔を照らす。いつもより影が柔らかい。だから余計に、彼の“迷い”が見えた。
「……眠れないんです」
リュウジがやっと言った。
短い言葉だった。吐き出すみたいに、でも丁寧に。
エリンの胸の奥が、またきゅ、と鳴る。
「眠れないの?」
「……はい」
「……ペルシアのこと?」
エリンが名前を出すと、リュウジはわずかに頷いた。頷き方が小さくて、でも否定できない重さがあった。
「……俺が、止められたはずだったと思ってます」
「止めたでしょ。何回も」
「……足りなかったです」
その言い方が、悔しさと自己嫌悪の塊みたいで、エリンは思わず一歩近づいた。
「足りるとか足りないとか、そういう話じゃない」
エリンの声は、意識して柔らかくしたつもりだった。けれど、少しだけ強くなってしまったかもしれない。
「ペルシアが決めた。あの子、自分で背負うって決めた。……それを私たちは止められない」
リュウジはタオルを持った手を下ろし、指先でそれを握り直す。
「……分かってます」
「分かってるなら、眠りなさい」
エリンが言うと、リュウジの目がわずかに揺れた。
「命令?」
「命令。今の私は、命令する側」
「……強いですね」
真面目に返されて、エリンは一瞬言葉に詰まる。詰まってから、笑った。
「そこ、真面目に受け取らないでよ」
リュウジも、ほんの少しだけ口元を緩める。
「……すみません」
「ほら、また謝る」
エリンは呆れたふりをしつつ、でも内心ではその“謝る癖”が少し愛おしくなっている自分に気づいてしまって、心の中で慌てた。
――何で愛おしいとか思うの。違うでしょ。
それを打ち消すように、エリンは話題を変える。
「それで? 走って落ち着くの?」
「……落ち着くっていうより、何も考えなくて済むんです」
「考えないために走るって、相当ね」
「……はい」
リュウジは否定しない。変に格好つけない。その正直さが、エリンの胸をまた軽く叩いた。
「じゃあ、今日一日、何も考えない時間作りなさい。旅行なんだから」
「……善処します」
「善処って何よ。寝て、食べて、笑うだけ」
エリンが言うと、リュウジは少しだけ困った顔をした。
「……笑うか」
「じゃあ私が笑わせる」
エリンは勢いで言ってから、心臓が跳ねた。自分の言葉の“距離の近さ”に、遅れて気づく。
リュウジも一瞬固まった。耳の先がほんの少し赤くなった気がした。朝の光のせいかもしれない。汗の熱かもしれない。でも――そうじゃない気もする。
「……お願いします」
リュウジが小さく言う。
その言葉だけで、エリンの胸の奥がふわっと熱くなった。
――何これ。
――何で、今、ちょっと嬉しいの。
エリンは咳払いをごまかすように、視線を外した。
「じゃあ、まずシャワー浴びてきなさい。汗だらけで朝食に出たら、みんな引く」
「……はい」
リュウジは素直に頷く。頷いたあと、ふと表情が真面目に戻った。
「エリンさん」
「ん?」
「昨日……ユイを受け取ってくれて、助かりました」
「そんなの当たり前」
「当たり前じゃないです」
リュウジの声が少しだけ強くなる。強いと言っても、怒りじゃない。揺らぎを抑えるための強さだ。
「……俺、ああいう時、分からなくなることがあるので」
エリンは驚いた。
リュウジが「分からない」と言うのは珍しい。いつも何でも“分かろうとする”人だから。
「でも、エリンさんがいると……落ち着きます」
その一言は、朝の空気に溶けるには熱すぎた。
エリンは思わず目を瞬いた。
「……それ、反則」
小さく漏れた言葉に、自分でびっくりする。リュウジも少し目を見開いた。
「反則……ですか?」
「そう。そんなこと言われたら、こっちが変に意識するでしょ」
言ってしまってから、エリンは一瞬固まった。
――意識?
――何を?
――何を意識するの?
リュウジは数秒、言葉を探しているようだった。けれど、結局いつもの丁寧さで答えた。
「……本当です」
もう一度、胸がきゅ、と鳴る。
エリンは、タオルを握りしめたまま立っているリュウジの姿を見た。汗が乾きかけたシャツ、少し乱れた髪。なのに目だけは真っ直ぐで、嘘がない。
「……じゃあ、落ち着かせてあげる。今日は」
エリンはそう言ってしまって、心の中で“何言ってるの私”と叫んだ。だけど口は止まらない。
「ペルシアがいなくなって、みんなギリギリで回してる。私も、タツヤ班長も、たぶんリュウジも。……だから、落ち着く時間くらい、強制的に作る」
リュウジはゆっくり頷いた。
「……はい」
その頷き方が、何だか“任せる”みたいで、エリンはまた少し照れた。照れをごまかすように、わざとらしく腕を組む。
「それに、ユイを預かった責任もあるし」
「責任……ですか」
「そう。ユイが起きたら、朝ごはん食べさせなきゃ」
エリンが言うと、リュウジの表情がふっと柔らかくなる。
「……ユイ、エリンさんの部屋で寝てるんですね」
「うん。ぬいぐるみ抱えて、幸せそう」
「……よかった」
その「よかった」が、胸に染みる。守るべきものがそこにある、という安心。リュウジの“守りたい”は、言葉より先に表情に出る。
エリンはふと、昨夜の廊下を思い出す。ユイを抱えたリュウジ。扉を開けた自分。ユイを受け取り、背中を叩いて眠らせた。短い笑み。――あれを見たククルたちの目。女子会の空気。噂。ペルシアの茶化し。
その一つ一つが、胸の奥でくすぶっている。
恋愛なのかどうか、分からない。
でも、少なくとも。
今、目の前のこの人に「落ち着く」と言われたことが、嬉しい。
それは否定できない。
エリンは一歩近づき、リュウジの前髪に触れそうになって――寸前で手を止めた。汗で濡れて額に張り付いているのが気になるだけ。整えてあげたいだけ。そう言い訳しようとして、言い訳が苦しいことに気づく。
リュウジはエリンの動きに気づいたのか、ぴたりと動きを止めた。目が少し泳ぐ。普段の彼には珍しい。
「……どうしました、エリンさん」
「……前髪、邪魔そう」
エリンは結局、指先でそっと前髪を払ってしまった。
触れたのはほんの一瞬。
それなのに、リュウジの体がわずかに固まった。エリンの指先にも、熱が伝わった気がした。
沈黙。
朝の空気が、やけに澄んでいる。
だから小さな心臓の音まで聞こえそうだった。
「……すみません」
リュウジがまた謝る。
「だから、謝らない」
エリンは顔を逸らしながら言う。自分の耳が熱いのが分かった。冷静なふりをしないと、顔が崩れる。
「ほら、早くシャワー。朝食の前に」
「はい。すぐ行きます」
リュウジは素直に頷き、歩き出そうとして――足元を見て止まった。
靴紐がほどけている。
エリンが「もう」と呟いて、反射でしゃがみ込み、紐を結び直す。完全に癖だ。乗務中なら絶対にやらないことを、今は自然にやってしまう。
「エリンさん……!」
リュウジの声が上ずった。
「動かないで。転ぶ」
エリンは紐をきゅっと結ぶ。
その間、リュウジは固まったまま、呼吸だけが少し乱れていた。
結び終えて立ち上がると、二人の距離が近すぎた。朝の光の中で、互いの表情がはっきり見えてしまう。
リュウジの目が、いつもより少しだけ揺れている。
エリンの胸が、またきゅんと鳴った。
「……はい、これでよし」
エリンが平静を装って言うと、リュウジは喉を鳴らすように息を飲んだ。
「……ありがとうございます」
「だから、当たり前」
エリンは笑って、わざと軽く言う。
軽く言わないと、自分の心が重くなりそうだったから。
その時――背後から、小さな足音がした。
ぱたぱた、ぱたぱた。
「エリンさん……?」
眠たげな声。
振り返ると、ユイがパジャマ姿で立っていた。髪はふわふわで、目をこすりながらこちらを見ている。
「ユイ!」
エリンが駆け寄ろうとすると、ユイは先に小走りで近づいてきて、エリンの足にぎゅっと抱きついた。
「おきたら、いなかった……」
不満そうな声が可愛すぎて、エリンは膝をつき、ユイの頬を撫でる。
「ごめんごめん。外見たらリュウジがいたから」
ユイがぱっと顔を上げ、リュウジを見る。リュウジは柔らかく言った。
「おはよう、ユイ」
「おはよ!」
ユイは元気に返し、次の瞬間にはリュウジの方へふらふら近づいて、両手を伸ばした。
「だっこ」
リュウジの目が驚きで丸くなる。エリンも一瞬固まった。
「……え、リュウジ、人気だね」
エリンが口を尖らせると、ユイが首を傾げた。
「エリンさんも、だっこ!」
「欲張りだね」
エリンは笑いながらユイを抱き上げる。ユイはエリンの首に腕を回し、すぐに安心した顔をする。その顔を見て、リュウジの表情もまた柔らかくなった。
「エリンさん、朝食……どうします?」
「どうするって、食べるに決まってる」
「はい。……一緒に行ってもいいですか?」
その言い方が、丁寧なのに、どこか“誘い”みたいで、エリンの胸がまた跳ねた。
「もちろん。ユイも一緒だし」
エリンが言うと、ユイが「いっしょ!」と嬉しそうに笑う。
リュウジはタオルを肩にかけ直し、少しだけ困ったように笑った。
「……シャワー浴びてから、すぐ行きます」
「うん。待ってる」
エリンが言った“待ってる”が、思った以上に柔らかい声になってしまって、自分で驚く。リュウジの目が一瞬だけ止まる。だが彼は何も言わず、丁寧に頷いた。
「ありがとうございます。……エリンさん」
最後の呼び方だけ、ほんの少しだけ低くて、近かった。
リュウジが去っていく背中を見送りながら、エリンはユイを抱きしめ直した。ユイの温かさは、今の自分の心臓の速さを隠してくれる。
ユイが耳元で囁く。
「エリンさん、あさごはん、なにたべる?」
「んー……いっぱい」
「いっぱい!」
ユイが笑う。
エリンも笑い返しながら、ふと自分の胸に手を当てた。
――さっきから、うるさい。
心臓が。
ペルシアがいなくなって、みんなギリギリで回している。
だからこそ、こういう朝の“ほっとする瞬間”が、胸に沁みる。
そして、リュウジの「落ち着く」という言葉が、まだ残っている。
それが恋愛なのかどうか。
分からない。
だけど、分からないままでも――
今は、少しだけ、この胸のきゅんとする感じを、朝日のせいにしてもいい気がした。
ーーーー
朝食会場は、朝の光をたっぷり取り込むガラス張りの空間だった。コロニーロカD2の空は地球のそれより少し淡く、柔らかな青が天井の向こうに広がっている。バイキング台には焼きたてのパン、色とりどりのフルーツ、湯気の立つスープ、香ばしいベーコン、そして子ども向けの小さなパンケーキまで並んでいた。
騒がしすぎない賑わい。休暇の余裕をまとった声。食器が触れ合う音。コーヒーの香り。
その中で――ククル、エマ、ミラの三人の視線は、ある一点に釘付けだった。
ユイ、エリン、リュウジで囲んでいるテーブル。
ユイは椅子の上で小さな体を揺らしながら、美味しそうにパンケーキを頬張っていた。口元にクリームがつき、さらに苺ソースがちょん、と唇の端に残る。ユイが気にした様子もなく次を食べようとした瞬間、エリンが布巾でそっと拭った。
「ほら、ここ。……うん、上手に食べれてる」
「えへへ! おいしー!」
ユイが嬉しそうに笑う。エリンはくすっと笑って、ユイの頭を軽く撫でた。
その横で、ユイが飲み物を取ろうとしてコップに指を掛けた瞬間、リュウジが静かにコップをずらした。ユイの手が滑って零さぬように、ほんの数センチ、自然に。ユイは気づかない。気づかないくらい自然だった。
「ユイ、こっちの方が飲みやすい」
「うん!」
ユイは素直にコップを抱えるように持って、ちびちびと飲む。
エリンはその様子を見ながら、こっそり息を吐いた。朝からユイが元気で何より。けれど、元気すぎると事故も増える。だからこういう「小さな先回り」が何より大事で――それを、言葉にしなくても分かって動ける相手が、隣にいる。
その事実が、妙に心の奥をくすぐる。
――それを、見てしまった三人は。
自分たちのテーブルで、フォークを持つ手が止まり、視線だけが固定されたままだった。
「ねぇ……」
エマが、声をひそめる。けれど興奮が隠しきれていない。
「あの二人、何かあったのかな」
「分かる……なんか妙に近いよね」
ククルも同じトーンで頷いた。目はユイのテーブルに吸い寄せられたまま。
「何かあったんですよね」
ミラが小さく言う。ミラは敬語のまま、しかも声が少し上ずっている。気になって仕方ない、という気持ちが丸見えだった。
「ちょっと雰囲気……」
「うん……やっぱり……“家族”っぽい」
「……家族、ですね……?」
ミラが繰り返すと、エマが頷いた。
「うん。分かる? あの、さりげない感じ」
「分かります……!」
ミラは頬を赤くしながらも、勢いよく頷いた。
ククルは両手を頬に当てて、嬉しそうに息を吐く。
「でも、付き合ってないって……歓迎会の時、本人たち言ってたよね?」
「言ってた。言ってたけど……」
エマが言葉を濁した瞬間、ククルが同時に言い切る。
「言ってたけど、あれ、付き合ってない人の距離感じゃないよね!」
「だよね!」
「ですよね……!」
三人の声が見事に揃い、三人は顔を見合わせてから、揃ってもう一度ユイのテーブルを見た。
ユイがパンケーキを一口食べて、満足そうに「んー!」と声を出す。エリンが「おいしい?」と聞くと、ユイが全力で頷いた。その勢いでユイのフォークが少し跳ね、テーブルクロスにソースが飛びそうになる。――その瞬間、エリンが布巾を先回りで差し込んで、汚れを最小限で止めた。
「セーフ」
「エリンさんすごい!」
ユイが尊敬の眼差しを向ける。ユイはエリンのことを「エリンさん」と呼ぶ。子どもらしいのに、妙に律儀だ。
「すごいのはユイ。ちゃんと“ありがとう”言えるんだから」
「ありがと!」
「はい、どういたしまして」
エリンが笑う。
その横でリュウジが、ほんの少しだけ口元を緩めていた。笑い声は出さない。けれど、確かに“柔らかい”。それが三人には眩しくて、怖いくらいに尊い。
「……あれ、見た? 今のリュウジさん」
エマが震える声で言う。
「見た……見た……今、笑った……!」
ククルが肩を小刻みに震わせた。
「笑いましたね……!」
ミラはほぼ確信の声だった。
三人が盛り上がりかけた、その時。
椅子を引く音が、ぼす、と鈍く鳴った。
大きな欠伸が聞こえる。口を隠す気もない、堂々とした欠伸。
「ふぁぁ……」
カイエだった。髪が少し跳ねていて、目が半分しか開いていない。寝起きというより、寝てない顔。
ククルがぱっと表情を変えて手を振る。
「おはよ、カイエ」
「……おはよ」
カイエは素っ気なく返しながらも、テーブルに置かれたコーヒーポットを見て目を細めた。救いを見つけた目だ。
「眠そうだね」
ククルが言うと、カイエはふわっと苦笑いした。
「徹夜でゲームやってたからね」
言いながらカイエはコーヒーを口に運ぶ。目だけは真剣で、命綱でも掴むみたいに一口ずつ飲んだ。
「大丈夫ですか!?」
ミラが思わず身を乗り出す。ミラはカイエにも当然のようにさん付けをしたいところだが、ここでは癖が出そうになって喉で止めている。けれど敬語は崩れない。
「大丈夫、大丈夫。こういうの、いつも休みの前はやっちゃうんだ」
カイエの言葉遣いは柔らかかった。強くない。どこか眠気で丸くなっているのもある。
「今日は皆で海に行くんだよ? 無理しちゃ駄目だよ」
エマが真面目に言う。だが真面目なのに、目が優しい。責めているわけじゃない。
「大丈夫。浜辺で寝てるから」
カイエがさらっと言い切る。
「それ、楽しむ気ある?」
ククルが突っ込むと、カイエはコーヒーを一口飲んでから、ようやく周りの空気に気づいたように眉を上げた。
「……で、何かあったの?」
ククルが小さな声で言う。
「あのテーブル見てよ」
視線でユイのテーブルを示す。
カイエは言われた通りにそちらを見る。数秒、ぼんやり見て――そして、何でもないようにコーヒーを飲んだ。
「ん? あれね」
あまりに落ち着いた反応に、エマが口を開けた。
「落ち着いてるね」
「いつものことじゃない?」
カイエの返答は淡々としていた。徹夜のせいで感情が薄いのか、それとも本当にいつものことなのか。
「いつものことなんですか?」
ミラが目を丸くする。ミラの声が少し大きくなって、周囲のテーブルの人がちらりとこちらを見た。
ククルが慌ててミラの袖を引く。
「ミラ、声……」
「あっ……すみません……」
ミラは慌てて口元を押さえた。
カイエは小さく笑って、肩をすくめる。
「うん。訓練とか、フライトの時、いつもあんな感じじゃない? エリンさん、ユイがいなくても、周りの空気ちゃんと見てるし。リュウジさんも、手を出しすぎないけど必要なとこは先にやるし」
「でも……」
ククルが食い下がる。目はキラキラしている。疑問というより願望だ。
「でも、あの二人だけの空間って……やっぱり……」
ククルは言葉の最後を濁した。言い切ったら終わってしまう気がしたのだろう。けれどその「やっぱり」が、エマとミラの胸を同時に叩いた。
「分かる……!」
「分かります……!」
ミラは小声で同調し、エマは頬を押さえた。
カイエは、少し考えるみたいにスプーンでコーヒーをくるりと回した。柔らかい言葉で返す。
「二人だけの空間っていうより……あの二人、私たちよりも数段上の実力者でしょ? 訓練でもフライトでも、二人だけの次元ってのがあるんじゃない?」
「次元……!」
ククルが反応する。変なところで言葉に惹かれるタイプだ。
「そう。ほら、同じこと考えてるのに、言葉にしなくても動ける感じ。あれ、たぶん“相性”って言うんだと思う」
カイエが言うと、エマがすぐに噛みついた。
「訓練やフライト以外だったら?」
真っ直ぐな問い。エマの目が真剣だ。
カイエは少しだけ目を細めた。眠気で柔らかいのに、その一瞬だけ鋭い。考えてから、穏やかに言った。
「……でも、ペルシアさんとはいつもあんな感じだったし」
その名前が出た瞬間、テーブルの空気が少しだけ静かになった。誰も口にしないようにしていた名前。出したくないというより、出すと胸が痛むから。
カイエは続ける。
「エリンさんが心を許した人には、そうなんじゃない? 距離が近いっていうより、“任せられる”っていう感じ。ペルシアさんにもそうだったでしょ」
「……そういうものなんですね」
ミラが小さく呟いた。
ククルは頬杖をついて、遠い目をする。
「でも、ペルシアさんがいなくなってから、余計にそう見えるのかな……」
「……うん」
エマが頷く。言葉の端が少しだけ寂しい。
カイエは、コーヒーカップを両手で包む。温かいものを握るみたいに。
「多分ね。私たち、みんな、どこか穴が空いてる。だから埋めたくて、見ちゃうんだと思う」
言い方は穏やかだった。だけど内容は鋭い。ククルもエマもミラも、言い返せなかった。
その時。
背後から軽い足音がして、すっと視界が影に覆われた。
「あら、随分と楽しそうね」
聞き慣れた声。柔らかくて、穏やかで、それなのに背筋が伸びる声。
三人が恐る恐る振り返る。
そこにはエリンが立っていた。
「エリンさん!?」
ミラが勢いよく立ち上がりかけて、膝を机にぶつけて「いたっ」と小さく声を漏らす。すぐに口を押さえるが遅い。
ククルとエマも背筋を伸ばして固まった。カイエだけが、少しだけ眉を上げて「おはよ」と軽く言う。徹夜の人間は怖いものが減る。
エリンは三人の反応を見て、微笑んだ。優しい微笑み。けれど、その優しさが怖いときもある。
「何の話してたの?」
「い、いえ……その……」
ククルがしどろもどろになる。
エマが助け舟を出そうとしたが、口が開く前にミラが敬語で突っ込んでしまう。
「す、すみません! 私たち、あの……」
「うんうん、分かってる」
エリンはさらっと言い、話を切り替えた。救われたようで、救われていない。エリンのペースだ。
「カイエ、タツヤ班長見なかった?」
カイエが瞬時に顔を上げる。返答の言葉遣いは柔らかく、けれど内容は容赦がない。
「タツヤ班長なら、さっき、口元押さえながらトイレに駆け込んでましたよ」
「あー吐いてますね、それ」
エマが真顔で付け足す。余計だ。
エリンは額を押さえた。
「……節度をもって楽しもうって、昨日言ったばかりなのに」
呆れた声。だけどどこか慣れている声でもある。
「タツヤ班長らしいですね」
ククルが小さく言うと、エリンも肩を落として頷いた。
「そうね」
それからエリンは一瞬、三人の顔を見た。いや、四人か。カイエも含めて、全員の表情を。
「……で?」
笑みは優しいままだ。だが、目が優しくない。
「あなたたち、さっきから何を見てたの」
ククル、エマ、ミラの三人が同時に固まった。カイエはコーヒーを飲んだ。
「え、えっと……」
ククルが必死に言葉を探す。
エリンはため息をついて、わざとらしく優しく言った。
「いいわ。別に怒ってない。……ただ、気になるなら直接聞けばいいのに?」
「む、無理です!」
ククルが即答した。
「聞けませんよ……!」
ミラも同時に言う。ミラは敬語のまま必死だ。
「聞いちゃえばいいのに」
エリンは楽しそうに言って、すぐに「冗談」と付け足すように首を傾げる。
「……冗談」
その「冗談」が冗談に聞こえないから怖い。
エマが勇気を出して、小声で言った。
「……なんか、二人、近いなって思って」
エリンの目が、ほんの少しだけ泳いだ。だがすぐにいつもの落ち着きに戻る。戻ったふりをする。
「近くないわよ」
即答。少しだけ早口。
ククルとミラが同時に「今の早い」と思った顔をしたが、口には出さない。出せない。
カイエが静かに言う。
「まあ、エリンさんが心許してる人には、そう見えるんじゃない?」
カイエの言葉遣いは柔らかい。なのに、刺すところは刺す。エリンの頬がほんの少し赤くなった気がした。気のせいかもしれない。朝の光のせいかもしれない。でも、違う気もする。
「……カイエ」
エリンが名前を呼ぶだけで、カイエは「あ、ごめんなさい」と軽く笑った。反省しているふりだけ上手い。
そこへ、ユイの声が遠くから聞こえる。
「エリンさんー!」
ユイが手を振っている。エリンは反射でそちらを見て、表情が一瞬で柔らかくなった。――その変化の鮮やかさに、ククルが心の中で「すごい」と呟いた。
そしてユイの隣に、リュウジが立っていた。飲み物のトレーを持っている。ユイが自分で持つと言って聞かなかったのだろう。だからリュウジが結局持っている。そういう光景。
リュウジがこちらに視線を向け、エリンに軽く会釈した。
「エリンさん、ユイがデザートも食べたいそうで……」
「朝から?」
エリンは呆れた声を出したが、口元が笑っている。
「だっておいしいの!」
ユイが胸を張る。
「ユイ、デザートは――」
エリンが言いかけた瞬間、リュウジが少しだけ声を挟んだ。柔らかい敬語。
「……今日は自由時間もありますし、少しだけならいいんじゃないですか?」
その言い方が、エリンの中の「厳しい自分」をふっと緩める。ユイの目がキラキラする。
「少しだけね」
エリンが言うと、ユイが「やったー!」と小さく跳ねた。
リュウジがほっとしたように息を吐く。その息遣いまで、ククルたちは見逃さなかった。
――やっぱり近い。
言葉にしなくても動ける距離。
しかもそれが訓練でもフライトでもない、ただの朝食の場面で。
ククルが、思わず呟く。
「……やっぱり、何かありますよね」
「ククル」
エリンが名前を呼ぶ。優しい声。怖い。
「はい」
ククルが姿勢を正す。
エリンはふっと笑って、わざと話を逸らした。
「それより。タツヤ班長、ほんとに吐いてるの?」
「吐いてますね」
エマが即答する。真顔。
「絶対に吐いてます」
ミラも敬語で断言する。なぜそこで断言するのか。
エリンがもう一度額を押さえた。
「……あとで水と胃薬、用意しとく」
言葉が“保護者”そのものだ。ククルが小さく感嘆の息を漏らす。
「エリンさんの包容力……」
「聞こえてるわよ」
エリンが即座に返す。少し照れたようにウーロン茶を手に取って一口飲む。その仕草が、どこか昨日の夜に似ていて――ククルはまた「近い」と思ってしまう。
カイエが小さく笑って言う。
「ほら、こういうの。私たちが勝手に“そう見える”ってだけなんだよ。エリンさんって、心を許した相手に対して、ちゃんと“面倒を見る”から」
柔らかい言葉。けれど、核心に触れる言葉。
エリンは何も言い返せない代わりに、ふっと息を吐いて、軽く笑った。
「……カイエ、徹夜明けで口が回るじゃない」
「コーヒーのおかげです」
カイエがさらっと返す。徹夜明けのテンションが妙に落ち着いていて逆に怖い。
ユイが「エリンさん、はやく! デザート!」と腕を引っ張る。エリンは「はいはい」と言いながら、三人の顔を見た。
「あなたたちも、食べなさい。見てばっかりだと冷めるよ」
「は、はい……!」
ミラが慌てて返事する。
ククルとエマも頷き、フォークを持ち直した。だが視線はどうしても、ユイのテーブルへ戻ってしまう。そこにあるのは、ただの朝食の時間なのに――妙に心が温かくなる時間。
エリンがユイの手を引いてデザート台へ向かう。リュウジがその横でユイの歩幅に合わせてゆっくり歩く。ユイが途中でふらっとよそ見をしても、リュウジがそっと身体を寄せてぶつからないようにする。エリンはそれを見て、何も言わずに笑っている。
ククルが小さく、ぽつりと言った。
「……ペルシアさんが見たら、絶対にニヤニヤする」
「するね」
エマが頷く。少しだけ寂しそうに、でも嬉しそうに。
「“いいじゃんいいじゃん”って言いそう」
ミラが敬語のまま、少しだけ笑った。
「はい……すごく、言いそうです……」
カイエはコーヒーを飲み干してから、テーブルにそっと置いた。言葉遣いは柔らかいまま、締めるように言う。
「……だからさ。私たちも、節度をもって楽しもう。ペルシアさんがいない分、余計に崩れやすいから」
その言葉に、ククルとエマが小さく頷く。ミラも、まっすぐに頷いた。
視線の先で、エリンがユイの髪を整えている。ユイが「エリンさん!」と笑う。リュウジが「ユイ、落とすなよ」と柔らかく言う。
ただの朝食。
ただの光景。
なのに、なぜだろう。
十四班の「ぎりぎり」を、ほんの少しだけ支えてくれるような――そんな朝だった。