サヴァイヴ〜ドルトムント財閥〜   作:一塔

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海水浴

 昼前、ホテルのロビーに集まった十四班は、どこか浮き足立っていた。制服でも訓練着でもない私服姿が、それだけで「休み」を現実にする。砂浜へ続く道の先からは潮の匂いが風に乗って運ばれ、遠くで波が砕ける音が柔らかく響いていた。

 

「節度をもって楽しみましょうね」

 

 エリンがいつもの調子で釘を刺すと、全員が反射で背筋を伸ばす。

 

「は、はーい」

 

 返事が揃った瞬間、エリンは満足そうに頷いた。……が、頷いたはずなのに、その目は油断なく全員を見ている。休みだろうが何だろうが、エリンはエリンだ。

 

 ホテルの外に出ると、陽光が眩しかった。コロニーの空は少し淡い青で、海の青は濃い。人工の太陽でも海は海らしく、波はちゃんと波で、潮風はちゃんと肌に塩を残していく。

 

 砂浜へ到着するなり、ユイが小さく跳ねた。

 

「うみー!!」

 

 その声に、タツヤが笑いながら手を広げる。

 

「よし、パパと――」

 

「エリンさん!!」

 

 ユイが全力でエリンの手を掴んだ。

 

「……ええ、行きましょうか」

 

 エリンが屈んでユイの帽子の紐を直しながら言うと、タツヤは片手を宙で止めたまま固まる。

 

「おい……俺の手……」

 

「切ないですね」

 

 カイエが柔らかく言って、肩をぽんと叩く。慰めているようで、きっちり刺してくる。

 

「切ないとか言うな! 追い打ちやめろ!」

 

 タツヤが叫ぶと、ククルとエマが笑った。

 

「班長、今日は班長じゃなくて“パパ”ですもんね」

 

「そうそう。立場、弱い」

 

「弱いって言うな!」

 

 騒がしいようで、あたたかい。ペルシアがいなくなってから少しぎこちなかった輪郭が、砂浜の風で削られていくみたいだった。

 

 一方、ミラはというと――砂浜の手前で立ち止まり、波打ち際を見つめていた。まだ緊張が抜けないのか、背筋が妙にまっすぐで、手に持っているビーチバッグすら抱え込むようにしている。

 

「ミラ、こっち来なよ」

 

 ククルが声をかけると、ミラははっとして小さく頷いた。

 

「は、はい……!」

 

「そんなに固くならなくていいよ。今日は訓練じゃない」

 

 エマが言いながら、すでに靴を脱いで砂の上を歩いている。さっきから目が輝いていて、スイーツ以外でもこうなるんだ、とミラは内心驚いた。

 

「エマ、テンション高い」

 

 カイエが呟く。サングラスをかけているせいで表情が読めないが、声が少し笑っている。

 

「だって海だよ!? 海!」

 

「ここ、海っていうか……コロニーの海だけど」

 

「海は海!!」

 

 エマは断言した。

 

 その時、少し遅れて砂浜に現れたリュウジが、海の方を一瞥してから淡々と荷物を下ろした。帽子を深く被っているが、日課のランニングで鍛えられた身体は、私服でも隠しきれない。周囲の乗務員やパイロットたちも別々に散っていく中、十四班の輪だけがひとつの小さな“基地”みたいにまとまっていた。

 

「リュウジ、日焼け止め塗る?」

 

 エリンが言う。

 

「ありがとうございます。……あとで塗ります」

 

 柔らかい敬語。相変わらず必要以上に近づかない距離感があるのに、必要な時はすっと関わる。その“すっと”が、最近のエリンには妙に気にかかる。

 

 ユイがリュウジを見上げて、ぴょんぴょん跳ねた。

 

「リゅウジ! あそぼ!」

 

「……走るか?」

 

「うん!」

 

「ユイ、砂は熱いから気をつけろ」

 

 リュウジがそう言って手を差し出すと、ユイは当然みたいにその手を握った。エリンはその光景に一瞬、言葉を失う。見慣れているはずなのに、胸のどこかが小さく鳴る。

 

 ――違う。これは。

 “保護者同士の連携”だ。

 そう自分に言い聞かせて、エリンは軽く咳払いをした。

 

「ユイ、走る前に水分ね」

 

「はーい!」

 

 ユイは素直だ。誰に似たのか、とタツヤが心の中で泣いていそうなほど素直だ。

 

 海は穏やかだった。波は大きくなく、浅瀬は透明で、砂の下に小さな貝殻がちらちら見える。ユイは波が足に触れるたびに「つめたい!」と叫び、叫んだ後に笑った。

 

「みてみて! あわ!」

 

 ユイが波の泡を指差すと、エリンが膝をついて覗き込む。

 

「ほんとだ。泡がいっぱい」

 

「さわっていい?」

 

「いいよ。でも目に入らないようにね」

 

「うん!」

 

 ユイが泡を掬って、すぐに手からこぼれる。こぼれても楽しい。何度でも繰り返す。

 

 タツヤはその後ろで、手を腰に当てて眺めていた。

 

「……俺の娘、かわいいな」

 

「当たり前です」

 

 カイエが柔らかく返す。

 

「いや、今のは肯定じゃなくて、俺の感想を……」

 

「肯定しました」

 

「くそ……」

 

 タツヤの敗北が今日も更新される。

 

 ククルは砂浜で何かを拾っていた。

 

「見て、貝殻! 綺麗!」

 

「本当だ。ミラ、ほら」

 

 エマがミラに貝殻を見せると、ミラは目を輝かせた。

 

「す、すごい……! こんなに綺麗な色……!」

 

 ミラの声が弾む。それだけでククルが嬉しそうに笑った。

 

「ミラ、そういう顔の方がいいよ。訓練の時、顔が真面目すぎる」

 

「す、すみません……!」

 

「謝らなくていいって!」

 

 ククルが笑うと、ミラも小さく笑った。ぎこちなくても、笑った。

 

 エマは砂の上にしゃがみ、何かを描き始めた。波打ち際から少し離れた乾いた砂に、指で円を描き、線を引き――。

 

「なにしてるの?」

 

 ククルが覗くと、エマは得意げに言った。

 

「“砂のケーキ”」

 

「海でもスイーツなんだ」

 

「海のスイーツ!」

 

「……塩味?」

 

「塩味!」

 

 意味が分からないのに、笑ってしまう。ククルが腹を抱えた。

 

 カイエはというと、サングラスを外し、砂浜にタオルを敷いて座っていた。……と言いたいところだが、片手に携帯端末がある。ゲームの画面がちらっと見える。

 

「カイエ、浜辺で寝るんじゃなかったの?」

 

 エマが突っ込むと、カイエはさらっと言った。

 

「寝る前の準備運動」

 

「準備運動がゲーム……?」

 

「指の準備運動」

 

「意味わかんない!」

 

 ミラが笑いそうになり、慌てて口を押さえる。笑っていいのに、癖で抑えてしまう。それに気づいて、ミラは少し恥ずかしそうに笑った。

 

 しばらくして、ユイが波打ち際から戻ってきた。足が濡れている。砂もついている。ユイは満面の笑みでエリンの前に立った。

 

「エリンさん! みて! すな!」

 

「うん、すなだね……って、ユイ、足が冷えてる」

 

 エリンがすぐにユイを抱き上げようとすると、リュウジが先にタオルを差し出した。さっと。いつもの“すっと”。

 

「これ使ってください」

 

「ありがとう」

 

 エリンは受け取って、ユイの足を拭いた。丁寧に、指の間まで。ユイがくすぐったそうに笑う。

 

「くすぐったい!」

 

「ちゃんと拭かないと、あとで痒くなるよ」

 

「うん!」

 

 ユイの小さな足を拭き終えたエリンは、ふと顔を上げた。リュウジがエリンを見ている。視線が合う。ほんの一瞬。

 

 ――胸の奥がまた小さく鳴る。

 

 違う。これは。

 “仕事の延長の連携”だ。

 そう思うのに、なぜ視線が外しにくいのか分からない。

 

 エリンは先に笑って誤魔化した。

 

「リュウジ、助かる」

 

「……ユイが風邪引いたら大変ですから」

 

 淡々とした声。だけど、ほんの少しだけ柔らかい。敬語の温度が、少しだけ。エリンはその温度の変化を、なぜか覚えてしまう。

 

 その様子を遠くから見ていたククルは、エマの袖を引いた。

 

「……ねぇ」

 

「うん。言わなくても分かる」

 

 エマは小声で返し、ミラも隣で頷いた。

 

「……すごく自然ですよね……」

 

 三人の視線が集まる前に、カイエがふわっと割り込む。

 

「ほら。あれ、連携ってやつ。訓練の延長」

 

 言い方が妙に優しい。カイエは眠いだけじゃない。多分、余計な波風を立てないようにしている。ペルシアがいなくなってから、カイエも少しずつ変わった。守る側に寄っている。

 

 でもククルは、もぞもぞと口を動かす。

 

「連携……うん。連携……なんだけど……」

 

「なんだよ」

 

 エマが笑う。

 

「連携のくせに、見てると胸がキュンとするのは……なんで?」

 

「それは……」

 

 ククルが言葉に詰まると、ミラがぽつりと言った。

 

「見ていて……ほっとするから、じゃないですか……?」

 

 その一言に、エマが「ああ」と頷き、ククルも同じように頷いた。

 

 そう、ほっとする。

 

 ペルシアがいなくなって、どこか息を詰めていた十四班の空気が、いまだけ少し緩む。海の音と、ユイの笑い声と、リュウジの静かな動きと、エリンの柔らかい声で。

 

 だからこそ、みんなが今日は少しだけはしゃげる。

 

 タツヤが、勢いよく砂を蹴って走り出した。

 

「よし! 砂の城作るぞ!」

 

「えっ、班長、急に子ども!?」

 

 ククルが笑うと、タツヤは胸を張る。

 

「ユイのためだ!」

 

「ユイのためって言えばなんでも許されると思ってません?」

 

 カイエが柔らかく釘を刺す。

 

「思ってる!」

 

「……潔いですね」

 

 ミラが思わず笑ってしまい、慌てて口を押さえたが、もう遅い。タツヤが満足そうに頷く。

 

「ほら、笑ってる。いいじゃん。休みだぞ」

 

「は、はい……!」

 

 ミラの頬が赤くなる。

 

 ユイが「おしろ!」と叫び、砂浜へ駆け出そうとする。エリンが反射で声をかけた。

 

「ユイ、走ると転ぶよ!」

 

「……ユイ、走るな」

 

 リュウジも同時に言う。敬語じゃない。相手がユイだから。ユイは二人に言われて一瞬立ち止まり、悔しそうに口を尖らせる。

 

「ゆっくり……」

 

「そう。ゆっくりなら大丈夫」

 

 エリンが言うと、ユイはちょこちょこと小走りに切り替えた。小走りでも危ないのに、二人の目がついているからまだ安心できる。

 

 砂の城づくりが始まった。

 

 タツヤが砂を掘り、エマが「塔」を設計し、ククルが貝殻で装飾し、ミラがひたすら水を運ぶ。ミラは「はい!持ってきました!」と敬語で言いながらも、少しずつ声が弾んでいく。

 

 カイエは最初は端で見ていたが、いつの間にか黙って「強度」を上げる作業を始めていた。水の量、砂の固め方、角度――淡々と修正していく。職人の顔だ。

 

「カイエ、ゲームしてない」

 

 ククルが驚くと、カイエは淡々と返した。

 

「これ、意外と面白い」

 

「面白いんだ……」

 

「うん。ゲームみたい」

 

「結局ゲームなんだ」

 

 エマが笑う。

 

 エリンは少し離れた場所で、その光景を眺めていた。全員が笑っている。ミラも笑っている。ユイが中心にいて、タツヤがはしゃいで、ククルが楽しそうで、エマが生き生きして、カイエが淡々と支えている。

 

 ――これが、十四班だ。

 

 胸の奥がじんとする。ペルシアがいたら、きっとここでビール片手に「いいじゃーん!」と叫んで、勝手に砂の城に旗を立てて、タツヤと喧嘩して、最後は笑って終わっただろう。

 

 エリンは風に前髪を揺らされながら、そっと息を吐いた。

 

「……よかった」

 

 小さな声。誰にも聞こえないはずの声。

 

 けれど、隣で同じように海を見ていたリュウジが、少しだけ顔を向けた。

 

「エリンさん?」

 

「なんでもない」

 

 エリンはいつもの笑みを作る。作ったはずなのに、今日は少しだけ作りきれない。

 

 リュウジはそれ以上聞かない。聞かない代わりに、目線だけで周囲を確認する。ユイの位置、波の強さ、日差し、ミラの足元。

 

「……日差し、強くなってきましたね。ユイ、帽子――」

 

「分かってる」

 

 エリンは短く返して、ユイを呼んだ。

 

「ユイ、帽子かぶろう」

 

「はーい!」

 

 ユイが素直に駆け寄ってくる。

 

 リュウジが、少しだけ口元を緩めた。ユイはその表情を見て、嬉しそうに言う。

 

「リゅウジ、えがお!」

 

「……笑ってたか」

 

「うん!」

 

「……そうか」

 

 リュウジは否定しない。エリンはそのやりとりに、胸の奥がまた小さく鳴った。

 

 海は青い。砂は白い。笑い声が弾ける。

 

 どこかに残る寂しさも、どこかに刺さる痛みも――今日は波がさらっていく。完全には消えないけれど、少なくとも、息ができるくらいには薄くなる。

 

 タツヤが砂の城の一番上に貝殻を置き、叫んだ。

 

「完成!!」

 

「わああ!」

 

 ユイが拍手をする。ククルとエマも拍手をする。ミラは手を叩きながら「すごいです!」と敬語で喜ぶ。カイエは満足そうに頷くだけ。

 

 エリンも拍手をした。

 

 そして、拍手の音に紛れて、思ってしまう。

 

 ――これが、ずっと続けばいいのに。

 

 続けるために、自分は何をすべきなのか。

 誰を守るべきなのか。

 どこまで踏み込んでいいのか。

 

 分からないまま、エリンは笑った。

 

 ユイの笑い声が、潮風に乗ってどこまでも伸びていった。

 

ーーーー

 

 海でひとしきりはしゃいだあと、十四班は砂を払って海の家へ移動した。木の床は潮で少し湿っていて、板の隙間から吹き上げる風が足の裏をくすぐる。屋根の下に入っただけで、肌にまとわりついていた陽射しが和らぎ、代わりに香ばしい匂いが鼻を満たした。鉄板のソース、揚げ油、出汁、そして、どこか懐かしい甘いシロップの匂いまで混じっている。

 

 「いらっしゃーい!」と店の人の声が飛び、メニューの札が風に揺れた。色褪せた木札に「焼きそば」「カレー」「ラーメン」「うどん」「枝豆」「生ビール」「ソフトクリーム」――見慣れた文字が並んでいるのに、旅行先の空気のせいか、やけに特別に見える。

 

 長机の一角を陣取ると、みんな自然と座る位置が決まっていった。ユイは当然みたいにエリンの隣を確保し、反対側にタツヤがどっかり座る。エマは机の端で目を輝かせ、ククルは椅子の上でそわそわと落ち着かない。カイエは「涼しい……」と小さく息をつき、リュウジは周囲の動線をさっと確認してから、壁際の邪魔にならない位置に腰を下ろした。

 

 「よし、注文決めよっか!」とククルが弾んだ声で言った瞬間、待ってましたとばかりにメニュー札を指差す。

 

「私、焼きそば!」

 

 鉄板の音とセットみたいに、ククルのテンションが上がる。

 

「私は……カレーにしようかな」

 

 カイエが柔らかく言うと、ユイが間髪入れずに手を挙げた。

 

「ユイもカレー!」

 

「お、カレー派だな」

 

 タツヤが笑うと、ユイは得意げに頷く。

 

「からいの、だいじょうぶ!」

 

「辛くないやつにしなさい」

 

 エリンが即座に釘を刺すと、ユイは「はーい」と素直に返事をした。素直すぎて、タツヤがまた胸を押さえるような顔になる。

 

「俺はビールと枝豆ね」

 

 タツヤが当然のように言うと、エリンは眉ひとつ動かさずに視線を向けた。

 

「タツヤ班長、まだ昼間ですよ」

 

「まぁまぁ、気にしないの」

 

「気にしてください」

 

「気にしないの」

 

 押し問答が始まりかけたところで、エマが机を軽く叩いた。

 

「私はソフトクリームをください」

 

 その宣言が一番真面目だったせいで、全員の視線が一瞬エマに集まる。エマは何も気づかず、もう食べる気満々でスプーンを探していた。

 

「……昼食、ソフトクリームだけ?」

 

 ククルがつい突っ込む。

 

「まずはソフトクリーム。次に……ソフトクリーム」

 

「次もソフトクリームなの!?」

 

「うん」

 

 迷いのない頷きに、ククルが笑ってしまった。

 

「俺はラーメンで」

 

 リュウジが淡々と告げると、ユイがピタッと動きを止めた。ラーメンという単語に、耳が反応したみたいだった。

 

「私はうどんをください」

 

 エリンはさらっと言って、ユイの髪に絡んだ砂を指でつまんで払った。その仕草がやけに自然で、机の向こうのククルとエマが一瞬だけ目を見開く。カイエはあえて見ないふりをして、メニューの端を指で叩いた。

 

「……トッピングとかあるのかな。カレー、卵追加できそう」

 

「ダメよ、班長じゃないんだから暴走しない」

 

「暴走ってなんだよ」

 

 タツヤが抗議しつつも、注文の紙を取って「焼きそば一、カレー二、ラーメン一、うどん一、枝豆一、ビール一、ソフト一……」と書き始める。字が少し揺れているのは、昨日の酒がまだ体のどこかに残っているからかもしれない。

 

 店の人に注文を渡すと、鉄板がさらに賑やかになった。ジュウッという音に混じって、どこかで笑い声が上がる。窓の向こうの海はきらきらと反射していて、波の音が遠くから届く。海の家の中は、潮風と匂いと音が全部混ざって、ふわっと心がほどける場所だった。

 

 最初に届いたのは、エマのソフトクリームだった。

 

「わぁ……!」

 

 エマが両手で受け取った瞬間、その場の空気が一段明るくなる。エマは一口食べて、目を閉じた。

 

「……生き返る」

 

「早いよ!」

 

 ククルが笑う。

 

「海のソフトは別格なんだよ」

 

「別格って何……」

 

 カイエが苦笑いすると、次々と器が運ばれてきた。焼きそばはソースの湯気が立ち、カレーは色の濃いルゥがとろりと光り、ラーメンのスープは湯気がまっすぐに上がり、うどんは出汁の匂いがふわっと広がった。枝豆は小鉢に山盛りで、ビールは泡がきれいに立っている。

 

「いただきます!」

 

 誰が言い出したのか分からないが、自然と全員が口にして箸を取った。

 

 ククルは焼きそばを一口食べるなり、目を輝かせた。

 

「うわ、これ、うまっ!」

 

「よかったね」

 

 エリンが笑うと、ククルは勢いよく頷く。

 

「海の家の焼きそばって、どうしてこんなにおいしいんですかね!」

 

「雰囲気込みだろ」

 

 タツヤがビールを一口飲んで、ぷはっと息を吐く。

 

「班長、昼から飲む顔してる」

 

 カイエが柔らかく言うと、タツヤは枝豆を指でつまんで胸を張った。

 

「休みだぞ? いいだろ」

 

「・・・班長」

 

 エリンが短く言うと、タツヤは咳払いで誤魔化した。

 

「……気をつけます」

 

 言い方だけは従順だった。

 

 ユイはカレーの皿を前に、スプーンを握って真剣な顔になっていた。食べる、というより戦う顔だ。エリンがさりげなく見守りながら水を近くに置く。リュウジはその動きを見て、何も言わずにユイの紙ナプキンをユイの手の届くところへ滑らせた。

 

 ユイはカレーを一口食べて、「ん!」と頷き、もう一口食べて「おいしい!」と笑った。笑いながら、視線が横にずれる。

 

 ――リュウジのラーメン。

 

 湯気が立つ麺の山を見た瞬間、ユイの目が釘付けになった。スプーンが止まり、口が少し開く。あまりに分かりやすくて、ククルが吹き出しそうになるのを必死に堪える。

 

 それに気づいたリュウジが、ラーメンの器を軽く押さえたままユイを見た。

 

「……ユイ、少し食べるか?」

 

「いいの?」

 

 ユイの声が一段高くなる。

 

「ああ。熱いから、気をつけろ」

 

 リュウジは取皿を取り、箸で麺を少しずつ移した。スープも少しだけ注ぐ。手つきが丁寧で、こぼさないように、湯気がユイに当たらないように、角度まで気を遣っている。そんな動きは操縦桿を握る指と同じで、無駄がないのに、やけに優しい。

 

 エリンはその様子を横目で見て、知らず指先がうどんの箸を握り直した。胸の奥が、また小さく鳴った気がする。昨夜から何度もある、この妙な感覚。恋愛感情だと決めつけるには軽すぎるのに、ただの連携だと言い切るには、どこか熱が混じる。

 

 ユイが取皿の麺に顔を近づける。

 

「ふー、ふー……」

 

「ユイ、顔近い」

 

 エリンが即座に止めると、ユイは慌てて背筋を伸ばした。

 

「はーい!」

 

 エリンは内心ほっとしながらも、リュウジの視線が一瞬こちらに向いたのを感じた。リュウジは柔らかい敬語で、ほんの小さく言う。

 

「エリンさん、ありがとうございます。」

 

「……何が?」

 

 エリンがつい聞き返すと、リュウジは少しだけ言葉を探すように目を泳がせた。

 

「ユイは、放っておくと全力で行くので」

 

 その言い方が可笑しくて、エリンは笑いそうになった。笑ってしまうと、胸の奥の熱も一緒に漏れそうで、エリンはわざと咳払いをしてうどんをすすった。

 

「……分かってる」

 

 小さな返事。自分でも不思議なくらい柔らかい声になった。

 

 ユイはふーふーしながら麺を一口食べた。目が丸くなる。

 

「おいしい!!」

 

「だろ」

 

 リュウジが小さく頷くと、ユイは勢いよくもう一口食べようとして、またエリンに止められる。

 

「ユイ、ゆっくり」

 

「はーい……」

 

 しょんぼりした顔をしてから、ユイはすぐににこっと笑った。笑えば許されると思っている。誰に似たのか、とタツヤがまた胸を押さえた。

 

「うちの娘、あざとい……」

 

「班長の娘だもんね」

 

 エマがソフトクリームを食べながら言う。口元に少し白いのがついていて、それをククルが指差す。

 

「エマ、ついてる」

 

「え?」

 

 エマが慌てて拭こうとして、逆に広げる。ククルが「ちょっと待って」と笑いながら紙ナプキンを差し出した。

 

 その光景がどこか家族みたいで、ペルシアがいたら、きっとここで「はいはい、私が拭いてあげる!」と割り込んで、わざと大げさに拭いて、全員を笑わせたはずだ。

 

 エリンはうどんの器をそっと持ち上げ、出汁の匂いを吸い込んだ。温かい。海の匂いと混ざって、身体の奥まで染みていく。

 

「……こういうの、いいわね」

 

 ぽつりと漏らすと、ククルが勢いよく頷いた。

 

「いいです! 最高です!」

 

「ククル、焼きそばもう半分ない」

 

「えっ、ほんとだ。……やば」

 

 ククルが焦って口をもぐもぐさせる。エマが笑って、ソフトクリームをもう一口。

 

「ククル、食べるの早い」

 

「だっておいしいんだもん!」

 

「ユイも早いよ。カレー、もう半分だ」

 

 カイエが柔らかく言うと、ユイは胸を張った。

 

「ユイ、たべるの、じょうず!」

 

「うん、上手。でもゆっくりね」

 

 エリンが言うと、ユイはまた素直に頷く。

 

「はーい!」

 

 その「はーい」があまりに可愛くて、ククルとエマが目を細める。カイエも口元が緩むのを隠せず、咳払いで誤魔化した。

 

 タツヤはビールを飲みながら枝豆をつまみ、満足そうに頷いた。

 

「いやー、最高だな。俺、これのために生きてる」

 

「班長、それ言うと怒られるやつだよ」

 

 カイエがやんわり言う。

 

「誰に?」

 

 タツヤがわざとらしく首を傾げると、エリンがにっこり笑った。笑っているのに、目が笑っていない。

 

「……班長」

 

「はい」

 

 タツヤが即答した。

 

 その瞬間、全員が吹き出した。エリンの笑みの“圧”に、みんな慣れてきている。慣れているから笑える。慣れているから安心できる。――そして、慣れているはずなのに、リュウジだけはエリンのその笑みに一瞬だけ見惚れたように目を止めて、すぐに視線を落とした。

 

 エリンはそれに気づいて、気づいたことを認めたくなくて、うどんをすすった。熱い。熱いのに、頬が熱いのはうどんのせいじゃない。

 

 ユイはラーメンの取皿を食べ終えて、満足そうに息を吐いた。

 

「おいしかった!」

 

「よかった」

 

 リュウジが言うと、ユイはにこっと笑って、今度はエリンのうどんに視線を向ける。

 

「エリンさんのも、ちょっと!」

 

「……ダメ」

 

「えー!」

 

「出汁は優しいけど、麺が熱い。ユイは火傷する」

 

 エリンが即答すると、ユイは「むー」と頬を膨らませた。タツヤがすかさず割り込む。

 

「じゃあパパが食わせてやる!」

 

「いや!」

 

「即答!?」

 

 タツヤが崩れ落ちそうになり、エマが笑い、ククルが肩を叩く。

 

「班長、がんばって」

 

「がんばる方向、違うだろ……」

 

 カイエがくすっと笑うと、タツヤは「ちくしょう」と言いながら枝豆をつまんだ。

 

 海の家の窓の外では、波が白く砕けている。向こうの砂浜では別の班の乗務員たちが手を振っていて、子どもが走り回り、笑い声が風に乗って届く。

 

 十四班の机の上には、カレーの皿、焼きそばの紙皿、ラーメンの丼、うどんの器、枝豆の小鉢、空になりかけたソフトクリーム。どれも雑多なのに、妙に整って見えた。

 

 ペルシアがいなくなって、まだどこかギリギリで保っている。ふとした瞬間に穴が空く。胸が詰まる。だけど――こうして笑える時間があるだけで、ほんの少しだけ呼吸ができる。

 

 エリンは箸を置いて、水を一口飲んだ。ユイが同じタイミングで水を飲もうとして、少しこぼす。リュウジがすぐにコップを軽くずらし、エリンが布巾でユイの口元を拭う。

 

 その連携は、訓練みたいに自然だった。

 

 自然すぎて、ククルがぼそっと言う。

 

「……なんか、落ち着く」

 

「分かる」

 

 エマが頷く。

 

「……いいよね」

 

 カイエが柔らかく言うと、エリンは聞こえないふりをして、ユイの頭を撫でた。ユイは満足そうに目を細める。

 

 リュウジはエリンに視線を向けて、少しだけ迷ってから、柔らかい敬語で言った。

 

「……うどん、冷めないうちに食べてください」

 

「……分かってる」

 

 エリンはそう返して、うどんをすすった。

 

 熱い出汁が喉を通るたびに、胸の奥の熱も、少しだけ形を変えていく気がした。温かい。楽しい。――そして、どこかくすぐったい。

 

 海の家の中で、十四班の笑い声が、波音に混じってゆっくりと広がっていった。

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