統括官用の執務席――と言っても、今はまだ「席が用意されただけ」の机だった。真新しい端末、真新しい椅子、真新しい名札。どれもが綺麗で、どれもがまだ誰の手にも馴染んでいない。
ペルシアは椅子に深く腰を落とし、端末の画面を睨むように眺めた。モニターに映るのは、宇宙管理局が保有する操縦士ライセンス取得者の一覧。名前、等級、所属、契約状況、直近の稼働履歴――機械的な項目が縦に並び、冷たい情報の列が続く。
指先でスクロールしていくたび、ペルシアの眉間がじわりと寄った。
(……想像以上に、現実は渋い)
統括官専属の探索チーム。四人から五人。局長は「君が守れると思う人間を」と軽く言ったが、守るための“手足”に必要なのは感情じゃない。必要なのは、切り札だ。特に――操縦士。
探索も救出も、捜索補助も、最終的には「現場に着けるか」が勝負になる。着けなければ始まらない。着いても動けなければ意味がない。だからこそ、少なくともA級ライセンスの操縦士が欲しい。A級――最前線で無理が効く。判断も早い。腕もある。
ペルシアは画面に向かって、小さく呟いた。
「少なくともA級ライセンスの操縦士は入れたいわね」
言ったそばから、頭の中で反論が返ってくる。
A級のほとんどは民間企業と業務契約を結んでいる。財閥の輸送会社、観光便、長距離定期便、資源輸送――金も待遇も、表向きの名誉も、民間のほうが圧倒的にいい。宇宙管理局は「守る」側だが、「稼ぐ」側ではない。安定はあっても、派手さはない。もちろん、給料も派手ではない。
――それで、A級がこっちに来るか?
ペルシアは口元を曲げた。
「……思ったよりも難儀な任務ね」
愚痴は、吐くためにある。吐いた瞬間に少しだけ冷静になれる。
ペルシアはスクロールの速度を上げた。A級、A級、A級――所属欄がほとんど民間で埋まっている。財閥名を見るたび、胃の奥が少しだけ重くなる。あの世界の匂いが戻ってくるからだ。
それでも、目は止まった。
名簿の中に、取り消し線が引かれている名前が複数ある。一本線。二本線。薄い灰色の取り消し。まるで「ここにいない」と主張するみたいに、無機質に消されている。
「……ん?」
ペルシアは指を止め、画面を拡大した。
取り消し線の付いた名前の横には、簡素な注記があるだけだった。
――不明
――稼働停止
――所在確認不可
――引退
その言葉だけが、やけに目立つ。
ペルシアは椅子から少し身を乗り出し、画面をもう一度じっと見た。取り消し線の数は、ひとつふたつではない。全体の中で小さな割合ではあるが、妙にまとまっている。偶然にしては、同じ扱いが続きすぎている。
(何よこれ。……行方不明? 引退? 所在確認不可? そんな都合よく“消える”もの?)
そして、ペルシアの耳が拾った。
背後の通路――誰かの足音。一定のリズム。焦りはない。けれど無駄もない。硬い床に靴底が当たる音が、やけに整っている。
ペルシアは画面から目を離さないまま、声だけで呼んだ。
「フレイ」
即座に返事が返る。
「はい、何でしょうか」
フレイは統括官室の外側で、書類整理をしていた年上の局員だ。研修の中盤から何度か顔を合わせていたが、妙に礼儀正しい。というか、礼儀正しすぎる。ペルシアが嫌う種類の正しさではない。むしろ、きちんとした人間の正しさだ。
ペルシアは椅子を回し、フレイに視線を向けた。
「敬語はいいのに。フレイの方が年上でしょ?」
フレイは一瞬だけ困った顔をした。困った顔をしたあと、完璧に整えた顔に戻す。たぶん癖だ。役所の癖。組織の癖。――いや、管理局の癖か。
「ここでは役職が上ですから」
「まぁいいけど」
ペルシアは手をひらひらさせ、話を切り替える。フレイの“正しさ”を崩すのは、今じゃない。
ペルシアは端末をフレイに向け、画面を示した。
「それより教えてほしいんだけど。この名簿で、名前に取り消し線があるのは何で?」
フレイは画面を覗き込み、目を細める。軽く頷いたあと、淡々と言った。
「それは、行方不明や引退した操縦士だと聞いてます」
「そうなんだ」
ペルシアは息を吐き、指先で取り消し線の名前をなぞった。なぞったところで、画面の線は消えない。現実も消えない。
「つまりこの人たちは、もう居ないも同然ってことね」
「当てにしない方がいいかと思います」
フレイの声には、余計な感情がない。事実を言っているだけだ。そういう声が、一番重い。
ペルシアは短く頷いた。
「了解。ありがとう」
「また何かありましたら」
フレイは一礼して、元の作業に戻ろうとした。だがペルシアは、ほんの少しだけ声を低くして、呼び止めた。
「フレイ」
「はい」
「……行方不明って、どのくらい前の話?」
フレイは一瞬だけ迷った。迷ったのは、答えが分からないからではない。どこまで話していいか測っている。そういう迷いだ。
「詳細は、部署ごとに管理されているはずです。ただ……」
「ただ?」
「“行方不明”とされている方の中には、正式な事故記録が残っていない方もいる、と」
ペルシアは目を細めた。
「事故記録がないのに行方不明?」
「……はい」
フレイは言葉を選ぶように、丁寧に息を置いた。
「過去の案件で、記録が断片的なものもあります。探索の途中で連絡が途絶えた、など。管理局としては、事故として扱いたいが、証拠が揃わない――そういったケースも」
ペルシアは口の端を上げた。笑ったのではない。噛み締めたのだ。
(記録がない。証拠がない。だから曖昧に“消した”)
管理局は正義の塊じゃない。守るための組織だが、完璧ではない。守るために、切り捨てることもある。ペルシアはそれを知っている。知っているから、ここに来た。知っているから――変える側に回った。
「ありがとう。十分」
ペルシアがそう言うと、フレイはもう一度だけ一礼し、今度こそ去っていった。
統括官室に残ったのは、端末の白い光と、ペルシアの指先の熱だけ。
ペルシアはもう一度名簿に目を落とした。取り消し線の名前が、やけに黒く見える。画面は光っているのに、そこだけ影みたいに沈んでいる。
(A級を探す。財閥に属していない現役。――そんな都合のいい人間がいるなら、そいつはそもそも“都合のいい理由”を持ってる)
都合のいい理由。つまり、何かから逃げているか、何かを追っているか。
ペルシアは端末を閉じた。閉じた瞬間、深い疲れがどっと肩に乗った。研修の疲れとは違う。責任の重さが、ゆっくりと骨に染みてくる感じ。
それでもペルシアは立ち上がり、机の上のファイルを抱えた。候補者リストの白紙が、挑発的に見える。
「……やるしかないでしょ」
誰に言うでもなく呟いて、ペルシアはまた歩き出した。
⸻
ペルシアが宇宙管理局から帰路に着いたのは、日付が変わってからだった。
外の空気は冷たく、夜のコロニーは静かだった。昼間の喧騒が嘘みたいに、通路の照明が一定の明るさで並び、足音がやけに響く。時々、警備ドローンの低い駆動音が遠くで鳴る。宇宙の夜は、いつだって「眠っていないふり」をする。
ペルシアは肩を回し、軽く首を傾けた。
「残業なんて、私とは思えないわね」
言いながら、自分で少し笑いそうになる。ドルトムントにいた頃は、残業なんてほとんどしなかった。仕事が終わっていなくても定時には帰る。帰って酒を飲む。眠る。翌日また戦う。そういう“割り切り”で生きていた。
でも今は、違う。
責任感がある役職だし、仕方ないか――そう独り言を言いながら、ペルシアは帰路を歩いていく。
そのとき、ふと足が止まった。
理由は、視界じゃない。耳だ。
背後――自分の足音とは違う足音が、ひとつ。距離はある。けれど、一定の距離を保っている。追いかけるでもなく、離れるでもなく、ただ“合わせている”。
ペルシアの口元がわずかに歪んだ。
(……分かりやすい)
彼女は振り返らずに、声だけで投げた。
「それで、私に何か用なの?」
間髪入れずに、影から声が返ってくる。
「おや。私に気づいていましたか」
ペルシアはゆっくり振り返った。
照明の端、薄暗い角――そこから、男が姿を現す。黒いネクタイ、スーツ。端正だが、どこか“作られた”雰囲気。笑っているのに目が笑っていない。笑顔の形を知っているだけの顔。
男は軽く会釈した。
「やはりその耳は、噂どおりのようですね」
ペルシアは片眉を上げる。
「へぇ〜。私のことをよく知ってるのね」
男は笑みを崩さない。
「それで? こんな夜道で私に何のよう? ストーカー?」
あえて軽口にする。相手が“様子を見る”タイプなら、軽口に乗るか、無視するかで性格が分かる。
男は軽く首を振った。
「これは失礼。お初にお目にかかります。私はフリージャーナリストのカラスと申します。以後、お見知り置きを」
名乗りの仕方が綺麗すぎる。丁寧すぎる。丁寧は武器だ。丁寧な人間は、その丁寧さで人を刺せる。
ペルシアは腕を組み、足を動かさずに言った。
「それで、カラスは何のようなの?」
「ただの営業ですよ。若くして宇宙管理局の新設ポスト――統括官に任命された貴方に」
「営業? ジャーナリストが私に?」
「ええ。私はジャーナリストです。調べてほしい情報などがあれば、必ずご用意することが可能です」
ペルシアはわざとらしく小さく笑った。
「へぇ〜。何でも?」
「ええ、ご要望に応じて何でも」
“何でも”と言った瞬間、カラスの声の芯が少しだけ硬くなった。覚悟の硬さではない。自信の硬さ。裏に何かある硬さ。
ペルシアは一歩も動かず、距離を詰めないまま言った。
「便利ね」
「ありがとうございます」
「だけど、貴方に頼むことはないわよ」
断る。まず断る。相手が本当に営業なら、ここで引く。引かないなら、営業じゃない。
カラスは引かなかった。
「いいのですか? A級ライセンスの操縦士を探しているのでは?」
その言葉が、夜の空気を切った。
ペルシアの眉が、ほんの僅かに動く。表情は変えない。変えないが、耳は拾う。カラスの声には確信が混ざっている。探りではない。断定だ。
「……本当に、何でも情報を得られるのね」
ペルシアの声は、さっきまでの軽さを捨てた。
カラスは微笑む。
「理解が早くて助かります」
(助かる? お前が?)
その言い回しだけで、カラスが“依頼者のため”に動く人間ではないと分かる。こいつは自分の利益のために動く。だからこそ、危険だ。だからこそ、使いようによっては便利だ。
ペルシアは考える。
今の自分は統括官ひとり。新設役職。敵も味方も定まっていない。正しさだけでは、手に入らない情報もある。民間との契約状況、裏の人脈、現役操縦士の事情、移籍の可能性――そういうものは、机の上の名簿には出ない。
ただし。
(こいつに頼れば、こいつに“借り”ができる)
借りは、刃物だ。握れば自分が切れる。握らなければ守れない。
ペルシアは数秒、沈黙した。その沈黙が、夜の通路の静けさを余計に際立たせる。遠くで警備ドローンの音が鳴り、また消える。
ペルシアはようやく口を開いた。
「本当に、A級ライセンスの操縦士を探せるの?」
「勿論」
「お金は?」
カラスは、待ってましたと言わんばかりに少しだけ笑みを深くした。
「本来でしたら内容に応じた報酬をいただきますが、今回は初回ですので無料でいいです」
ペルシアは鼻で笑う。
「商売上手ね」
「お褒めに預かり光栄です」
ここまで来たら、使わない理由が薄くなる。ただし条件はつける。こちらが上だと分からせる。統括官の権限を見せる必要はない。見せるのは、覚悟だ。
ペルシアは顔を上げ、カラスの目を真正面から見た。
「なら、A級ライセンスの操縦士で――財閥に属していない現役の操縦士を探して」
カラスは即答した。
「承知しました」
即答できるのは、既に何か掴んでいるからかもしれない。あるいは、即答することで安心させる手口かもしれない。どちらでもいい。重要なのは結果だ。
「何日かかる?」
「明後日には」
ペルシアは小さく息を吐いた。驚きそうになったが、驚かない。驚いたら負けだ。
「……優秀ね」
「ありがとうございます」
「分かってると思うけど、この件は他言無用よ」
ペルシアがそう言った瞬間、夜の空気がさらに冷えた気がした。冗談ではない。これは“命”に繋がる依頼だ。もし漏れれば、どこからでも嗅ぎつけられる。財閥は金と人脈で嗅ぎつける。管理局内の政治も嗅ぎつける。そうなれば、探索チームは生まれる前に潰される。
カラスは、丁寧に頭を下げた。
「依頼者の守秘義務は守ります」
「……信用してるわけじゃないけどね」
「当然です。信用は、結果の後に生まれるものですから」
言い方が上手い。上手すぎる。腹が立つ。
ペルシアは踵を返した。
「それじゃあよろしく」
背中を向けた瞬間、カラスが何か言うかと思った。引き止める声。追加の条件。あるいは、探り。
でも、カラスは言わなかった。
代わりに、ペルシアの耳が拾ったのは、カラスの小さな独り言だった。
「聡明な方だ」
その声は、夜の闇にすぐ溶けた。
ペルシアは歩きながら、口元を歪めた。
(褒めるな。気持ち悪い)
けれど、胸の奥で何かが静かに動いたのも事実だった。
――明後日。
たった二日後。
もし本当に、財閥に属していないA級操縦士が見つかるなら、探索チームの核ができる。核ができれば、手足が生える。手足が生えれば、守れる範囲が広がる。
ペルシアは夜道を進みながら、ふと遠い記憶を思い出した。
荒れた客室。揺れる宇宙船。連携の取れない乗務員。苛立ちと怒り。守りたかったのに、守りきれなかった瞬間。――あのとき感じた、自分の無力さ。
今は違う。
ここは管理局だ。権限がある。責任がある。面倒が山ほどある。
それでも、ペルシアは歩く速度を少しだけ上げた。
(残業なんて私らしくないけど……)
口にしそうになって、ペルシアは飲み込んだ。
(私らしくない、じゃない。――今の私らしさが、これなんだ)
夜の通路の照明が、一定のリズムで足元を照らす。ペルシアの影が伸び、縮み、伸びる。影の形は揺れる。でも歩みは止まらない。
背後の闇には、もうカラスの気配はない。
――消えるのが上手い男だ。
ペルシアはそれを覚えておくことにした。便利なものほど、よく切れる。切れる刃ほど、扱いを間違えれば自分を傷つける。
自分を傷つけてもいい。
でも――守りたいものを傷つけるわけにはいかない。
ペルシアは夜の空気を肺いっぱいに吸い込み、静かに吐いた。
「明後日、ね」
短い言葉が、決意の代わりに夜へ落ちていった。
ーーーー
二日後。
ペルシアは統括官専属の探索チームを探す日々に追われていた。
――追われていた、なんて生易しい言い方では足りない。机に向かえば向かうほど、現実が机の上に積み上がってくる。候補者の所属、契約状況、過去の稼働履歴、医療適性、メンタルチェック、局内の派遣規定、組織間の縄張り、そして何より「前例がない」という最大の壁。
新設役職。新設チーム。新設の権限。
“新しい”は聞こえがいい。でも組織にとって「新しい」は「面倒くさい」と同義だ。誰もが無意識に逃げる。誰もが無意識に他部署に押し付ける。
ペルシアは端末の画面を睨みながら、ペンでメモを殴り書きしていた。
候補者の名前を丸で囲んでは消し、矢印を引いては×を書き、最後には「無理」と大きく書いて二重線で潰す。
「……無理無理無理。世の中、上手くできてないわね」
呟いても、現実は変わらない。
――いや、変えないといけないのが自分の仕事だ。
それが分かっているから、余計に腹が立つ。
ペルシアは息を吐き、椅子の背もたれに寄りかかって伸びを一つした。肩甲骨が鳴る。久しぶりに、身体が「疲れてる」と主張してきた気がした。
「……少し休憩しようかな」
その瞬間。
ピロン、と端末が短い着信音を鳴らした。
仕事の通知音。ペルシアが最も嫌いな種類の音。
「はいはい、また面倒が増える、と……」
惰性で画面を確認したペルシアは、次の瞬間、大きく目を見開いた。
送信者:カラス
件名:ご要望の件
本文はたった一行。
『ご要望の件、揃いました。』
……揃った?
ペルシアは端末を持つ手を止め、数秒固まった。
揃った? 二日で? 冗談でしょ。
そして、揃ったことより先に、もっと気持ち悪い疑問が脳内を占領する。
(……待って。なんで私のアドレス知ってるのよ)
背筋の内側が、ひやりとした。
耳はいいが、背中に目はない。けれど“見えないところから覗かれている感覚”だけは、誰でも分かる。
ペルシアは即座に返信を叩いた。
『そんな事より、どうして私のアドレス知ってるのよ!?』
数秒後。返ってきた返信は、これまた短い。
『職業柄です。』
「……こ、怖っと」
声に出して言ってしまってから、周囲を見回す。
幸い、統括官室の周りは夜勤帯の静けさで、フレイも別部署の連絡で席を外していた。誰にも聞かれていない。聞かれていないのに、恥ずかしい。
ペルシアは口元を歪めた。
(この男、本当に嫌な感じ。便利だけど)
便利――そう思ってしまった時点で負けだ。
でも、今は負けてでも勝たないといけない。
カラスから次の文が来る。
『それで、お時間をいただきたいです。』
ペルシアは迷わなかった。
この手の男は“場”が大事だ。局内で会えば、局内の目がある。目がある場所で取り引きはしたくない。喫茶店なら、まだ“偶然の会話”に紛れる。
『管理局の近くの喫茶店でどう?』
『承知しました。』
短いやり取り。
短いのに、どこか胸がざわつく。
ペルシアは端末を閉じ、椅子から立ち上がった。
(お茶しに行くみたいなノリで、“裏”を買いに行く。……私、宇宙管理局に来てから、性格悪くなってない?)
――元からよ。
自分で自分にツッコミを入れながら、ペルシアは上着を掴んで統括官室を出た。
⸻
喫茶店
宇宙管理局の近くにある喫茶店は、管理局職員がよく使う場所だった。
机も椅子も落ち着いた色で統一され、照明は少し暗め。店内のBGMは控えめで、会話がふっと溶けるように設計されている。――こういう店は、秘密を隠すのにちょうどいい。
ペルシアは奥の席に座り、ブラックコーヒーを頼んだ。甘いものを入れる気分ではない。甘さは今日、必要ない。
時間ぴったり。
カラスが現れた。
扉が開く音すら静かで、男はまるで“最初からそこにいた”みたいに店内に溶け込んだ。
黒いネクタイ。黒いスーツ。黒い革靴。何も主張しない装いが、逆に“主張”になっている。
カラスはペルシアの前まで来ると、挨拶も会釈もほとんどせず――無言で向かいの席に座った。
「……相変わらず愛想ないわね」
ペルシアがそう言うと、カラスは表情をほとんど動かさずに封筒を取り出した。
厚みのある封筒。紙の質が良い。安いコピーの手触りじゃない。
そして、封筒をスッと差し出す。
まるで「商品です」と言うみたいに。
ペルシアは封筒を受け取った。
重みが掌に乗った瞬間、喉が少し乾く。
中身を確認する。
書類。写真。時系列のメモ。航行履歴の断片。外部契約の流れ。匿名の証言。
――そして、A級ライセンス保持者の一覧が、民間・財閥・独立に分類されている。
ペルシアは思わず息を吐いた。
「……たった二日で、よくここまで調べ上げたわね」
カラスは淡々と答えた。
「造作もないことです」
「嫌味に聞こえるわよ、それ」
「事実ですので」
ペルシアは舌打ちしたくなるのを堪え、紙をめくる。
ページの端に、いくつも赤い印が付いている。重要箇所のマーキングだ。
そのマーキングの仕方が、妙に“親切”だった。
(こいつ……私がどこを欲しがるか分かってやってる)
ペルシアは書類から顔を上げた。
「財閥の関係者以外で、こんなにまだいるんだ……」
ページをめくりながら続ける。
「でも、多くは行方不明や引退してるのよね?」
カラスの声が、少しだけ低くなる。
「中にはそういう人もいるのでしょうが」
そして、さらりと言った。
「その名簿に載っている人たちは、今も現役です」
ペルシアの指が止まった。
「……どういう事?」
カラスは肩をすくめもしない。
ただ、言葉だけを置く。
「詳しいことは今回の件の調査範囲外ですが」
わざと“範囲外”を強調した。
つまり――知っている。言わないだけ。
「恐らく宇宙管理局でも、隠したいことはあるのでしょう」
ペルシアの背筋が、また冷える。
(隠したいこと……ね。やっぱり、あるのよね)
フレイが言っていた“事故記録が残っていない行方不明”。
断片的な記録。連絡途絶。証拠が揃わない。
全部が、今ここで繋がり始める。
カラスは、最後の一撃を淡々と放った。
「つまり――名簿に載っている人は、全員、宇宙ハンターなんです」
「……宇宙ハンター!?」
ペルシアは思わず声を上げた。
喫茶店の空気が一瞬だけ揺れる。隣の席の客が少しだけ視線を向ける。
ペルシアはすぐに咳払いをして声を落とした。
「……待って。宇宙ハンターって、あの“未探索領域に潜って金になるものを持ち帰る”連中?」
「ええ」
カラスは頷いた。
「A級ライセンスの取得後に、宇宙ハンターに転職したのでしょう」
ペルシアの頭の中で、ピースがガチリと噛み合う。
宇宙管理局は宇宙ハンターとの関わりを禁止している。
倫理、治安、秩序――大義名分は多い。
だが本音は、もっと単純だ。
(管理局の“正しさ”の外側にいる人間は、都合が悪い)
だから名簿に取り消し線が入っていた。
“いないことにした”。
“いない扱いにした”。
“現役なのに行方不明扱い”。
――そういうこと。
ペルシアは封筒の中の資料を軽く揃え、視線だけでカラスを刺した。
「なるほどね。宇宙管理局は宇宙ハンターとの関わりは禁止してる。だから名簿に取り消し線……ってわけか」
「そうでしょうね」
カラスは一度だけ頷く。
「ライセンスの授与は、宇宙管理局と宇宙連邦連盟が審査して授与します。隠しておきたいのは確かでしょう」
「……分かった」
ペルシアは頬杖をつき、資料に目を落とした。
宇宙ハンター。未探索の惑星。財宝。違法な契約。
金さえ積めば何でもする。
それは管理局の“守る”とは真逆の生き方だ。
(でも――腕はある。腕があるからこそ、あいつらは生き残ってる)
ペルシアは資料の中から、いくつかの名前を指先で弾いた。
「……ねぇ」
そして顔を上げる。
「この数人の中で、宇宙管理局に就いてくれそうな人は?」
カラスは、予想どおりの返答をした。
「それ以上は調査の範囲外です」
ペルシアは口を尖らせる。
「固いこと言わないでよ」
そして、少しだけ皮肉を混ぜた。
「私がA級の操縦士を探してた事は知ってたくせに」
カラスは初めて“商売人の顔”を見せた。
目がほんの少しだけ細くなる。
「これ以上は料金が発生します」
「はぁ……」
ペルシアは椅子に背を預け、天井を見上げた。
高い。喫茶店の天井がやけに高く感じる。
ここで金を払ってもいい。統括官の権限を使って予算を回してもいい。
でも――こいつに金を払った瞬間、関係が固定化する。
(それは嫌。私は“使う”側でいたい)
ペルシアは視線を戻し、カラスを見た。
「なら、私の知り合いを紹介してあげる」
カラスの眉がわずかに動く。
「知り合い?」
「ええ」
ペルシアはニヤリと笑った。
「絶対、後悔はさせないわよ」
カラスは沈黙した。
その沈黙は“計算”だ。
リスクと利益を天秤にかけている。
「……お名前を聞いても?」
「それは私の質問に答えてから」
ペルシアは即答した。
主導権を渡さない。
交換条件を先に飲ませる。
カラスは数秒だけ黙り、諦めたように頷いた。
「……いいでしょう」
ペルシアは小さく指を鳴らした。
「交渉成立」
「それで?」
ペルシアが促すと、カラスは資料を指先で軽く叩き、名簿のある一箇所を示した。
「名簿の中にフォックスという宇宙ハンターがいます」
「フォックス……」
ペルシアはその名前を口に乗せ、資料の文字を追った。
「彼は宇宙ハンターとして“スターフォックス”として活動しています」
ペルシアは口元を上げた。
「……厨二くさい」
カラスは無視して続けた。
「彼は他の宇宙ハンターと違い、穏健派で、人情を大切にしている珍しい人物です」
「へぇ〜」
ペルシアは資料の写真を眺めた。
顔はぼやけている。加工されたものだ。
だが雰囲気は分かる。目つきが鋭すぎない。口元の線が硬すぎない。
――“人を切り捨てる顔”ではない。
「ならフォックスに話をしてみようかしら」
ペルシアがそう言うと、カラスが静かに言った。
「次は私の番です」
「あー、はいはい」
ペルシアは肘をついたまま、少しだけ身を乗り出した。
「私が紹介するのは――S級ライセンスのリュウジ。それでどう?」
カラスの目が、ほんの少しだけ光った。
興味の色。
それを隠すつもりもない、正直な反応。
「ほぅ……S級ですか。面白いですね」
「そうでしょう」
ペルシアは胸を張るように笑った。
“私のカード”は、強い。
それが分かっているから、こういう男相手でも強気でいられる。
カラスは頷いた。
「いいでしょう」
そして、淡々と告げた。
「それではフォックスの居場所は後ほどメールします」
「よろしくね」
ペルシアがそう言うと、カラスは立ち上がった。
会釈は浅い。
でも、去り方は丁寧だ。
まるで最初から最後まで、店内の空気を乱さないように。
カラスが出ていく背中を見ながら、ペルシアはコーヒーに口をつけた。
冷めている。
なのに、喉の奥が熱い。
(宇宙ハンター……か)
守る側の組織に、守らない側の人間を引き込む。
危険だ。
矛盾だ。
でも、今の自分には“綺麗な道”だけでは足りない。
封筒の中の名前が、重くなる。
フォックス――スターフォックス。
穏健派。人情派。
そんな宇宙ハンターが本当にいるなら。
ペルシアはカラスの背中が完全に消えたのを確認し、端末を取り出した。
メールの下書きを開く。
『……フォックスの居場所、待ってる。あと、私のアドレスを調べるのは二度とやめて』
送信しかけて、ペルシアは指を止めた。
(やめるわけないか)
代わりに、短く打ち直す。
『居場所、頼む。守秘義務、忘れないで』
送信。
ペルシアは深く息を吐き、椅子にもたれた。
「……よし」
声が、少しだけ震えていた。
怖いからじゃない。
高揚だ。
探索チームの核が、ようやく見えた。
――次はフォックス。
ペルシアは封筒を抱え直し、目を細めた。
(守るために、汚れる覚悟はできてる)
その言葉だけは、誰にも聞かせないように。