それから、ペルシアは本当にしつこかった。
最初の数日は、フォクス達も明らかに警戒していた。
ペルシアがナウスに連絡を入れるたび、返ってくる答えはだいたい同じだった。
『フォクスは不在です』
『ファルコは不在です』
『クリスタルは応答を拒否しています』
『スリッピーは作業中です』
それでもペルシアは、まるでそれが当然の手順であるかのように言った。
「じゃあ、待っていい?」
『推奨しません』
「許可してくれればいいのよ」
『訪問目的は?』
「顔を出すだけ」
『非効率です』
「信用って、非効率なものなのよ」
そう言って、ペルシアは今日も倉庫へ向かった。
もちろん、手ぶらではない。
ある日はドーナツ。
ある日はシュークリーム。
ある日は宇宙港近くの屋台で買った揚げ菓子。
またある日は、やたら高級そうなチョコレート。
ただし、毎回のようにペルシアはそれを机に置いて、こう言う。
「お土産よ。食べて」
そして、最初に自分で食べ始める。
ファルコは最初こそ呆れた。
「おい。土産って、自分で食うもんなのか?」
「味見よ」
「毎回味見してるよな」
「毎回味が違うんだから、毎回味見は必要でしょ」
「屁理屈だな」
「交渉術よ」
「絶対違うだろ」
スリッピーはかなり早い段階で慣れた。
「今日は何? クッキー? チーズ味? わ、すごい! これ、初めて見る!」
「限定品らしいわよ」
「食べていい?」
「いいわよ。お土産だもの」
「やった!」
「スリッピー」
フォクスが低く呼ぶと、スリッピーは一度手を止める。
「……一個だけ」
「好きにしろ」
「やった!」
ファルコは、なんだかんだ言いながら毎回食べた。
「毒味だ、毒味」
「それ、この前も言ってたわね」
「毒が入ってたら困るだろ」
「毎回、毒味のわりに一番減らしてるの誰かしらね」
「うるせぇな」
クリスタルは、最後まで簡単には手を出さなかった。
ペルシアが置いた菓子を一度見る。
ペルシアを見る。
ナウスを見る。
そして、黙って雑誌や端末に視線を戻す。
だが、ペルシアは見逃していなかった。
ペルシアが帰った後、箱の中の小さな焼き菓子が一つだけ減っている日がある。
チョコレートの包み紙が、ゴミ箱の奥にそっと捨てられている日がある。
クリスタルがコーヒーを淹れる時、わずかに甘い香りのする菓子を横に置いていることもある。
もちろん、ペルシアは指摘しない。
指摘したら、きっと二度と食べない。
信用というのは、そういうものだ。
小さな変化を、こちらが勝手に大きくしないこと。
相手が差し出したほんの小さな余白を、踏み荒らさないこと。
ペルシアはそれを、客室乗務員時代に嫌というほど学んでいた。
人は、最初から本音を言わない。
弱いところは見せない。
だから、声色を聞く。
息遣いを見る。
目線を拾う。
手の震えを見逃さない。
そして、何も聞かないで隣にいる。
それが、時に一番効く。
だからペルシアは、フォクス達に拒まれても、怒られても、嫌味を言われても、毎回同じようにやって来た。
「お疲れ〜。今日もお邪魔してるわ」
そのたびにフォクスは眉間に皺を寄せた。
「また来たのか」
「ええ」
「何度来ても答えは同じだ」
「知ってる」
「なら帰れ」
「お茶飲んだら帰る」
「ここは喫茶店じゃない」
「コーヒー美味しいのよね、ここ」
「……ナウス」
『ペルシアの入室は条件付きで許可しています』
「許可するな」
『フォクスによる禁止命令が明確ではありませんでした』
「今した」
『次回から反映します』
「次回ある前提やめてくれる?」
そう言いつつ、次回もペルシアは来た。
フォクスは追い返さなかった。
ファルコは呆れながらも、菓子だけは受け取った。
スリッピーは普通に喜ぶようになった。
クリスタルは警戒しながらも、銃を構える回数が減った。
それは、ほんの少しずつの変化だった。
けれど、ペルシアには十分だった。
――進んでいる。
相手はまだ信用していない。
宇宙管理局も信用していない。
ペルシア自身にも警戒している。
それでも、完全に扉を閉ざしてはいない。
なら、通う理由になる。
◇
そんなある日。
ペルシアはいつものように倉庫へ向かった。
手には、小さな紙袋を持っている。
今日の土産は、宇宙管理局近くの喫茶店で買った小さな焼き菓子だった。
バターの香りが強い、少し固めのクッキー。
フレイに「また甘いものですか」と言われたが、「交渉用よ」と言い張って買ってきたものだ。
実際には、半分くらい自分が食べるつもりだった。
ナウスに連絡を入れる。
「ナウス、いる?」
『ペルシア、認識しました』
「今日は誰かいる?」
『現在、スリッピーとクリスタルが滞在しています』
「フォクスとファルコは?」
『不在です』
「そっか。じゃあ、入っていい?」
『条件付きで許可します』
「条件はいつもの?」
『一、指定区画以外へ立ち入らないこと。二、機材に触れないこと。三、通信端末の発信機能を停止すること。四、飲食物の残渣を設備に付着させないこと』
「はいはい。あと五、私がお菓子を食べすぎないこと?」
『それは推奨事項です』
「推奨されちゃった」
ペルシアは笑いながら、倉庫の中に入った。
司令室に入ると、スリッピーは床に座り込んで機械を弄っていた。
膝の上には小型端末、横には工具箱、さらにその横には分解された部品がいくつも並んでいる。
目が輝いている。
完全に楽しい時の顔だ。
「うーん、ここをこうして……いや、でもこっちの回路を通すと反応が遅れるんだよなぁ。ナウス、さっきのログもう一回出して」
『表示します』
「ありがと! ……あ、ペルシア来た」
「お疲れ〜」
「お疲れ! 今日は何持ってきたの?」
「クッキー」
「やった!」
スリッピーは工具を置き、ぱっと笑った。
その素直さは、何度見ても少し眩しい。
一方、クリスタルはソファに座り、雑誌を読んでいた。
宇宙航路の特集らしい。表紙には新型民間小型艇の写真が載っている。
ペルシアが入ってきても、クリスタルは顔を上げただけだった。
「また来たの」
「ええ。また来たわ」
「本当にしつこいわね」
「褒め言葉として受け取る」
「褒めてない」
「知ってる」
ペルシアは机に紙袋を置いた。
「お土産。クッキーね」
そう言いながら、自分で袋を開けた。
クリスタルがじっと見る。
「……置いたそばから開けるのね」
「味見よ」
「聞き飽きたわ」
「でも美味しいわよ」
ペルシアはクッキーを一枚取り、口に入れた。
サクッという音。バターの香りが広がる。
「うん、当たり」
スリッピーが手を伸ばす。
「僕も食べていい?」
「いいわよ」
「やった」
スリッピーはクッキーを一枚取り、もぐもぐ食べる。
「おいしい! これ、食感いいね。硬すぎないし、崩れ方が均一。焼き加減がすごくいい」
「スリッピー、機械以外にも分析するのね」
「食べ物も構造があるからね!」
「なるほどね」
ペルシアはコーヒーを淹れに行った。
もう飲料機の操作にも慣れている。
ナウスも、最初ほど細かく注意してこなくなった。
それでも、こう言う。
『粉をこぼさないでください』
「こぼさないわよ」
『前々回、砂糖を少量こぼしました』
「あれは事故」
『記録上、事故として処理しています』
「記録しなくていいのに」
ペルシアがコーヒーを持って戻ると、スリッピーはまた機械弄りに戻っていた。
クリスタルは雑誌へ視線を戻している。
部屋の中に、以前のような張り詰めた空気はない。
もちろん、完全に気を許したわけではない。
クリスタルの腰には銃がある。
スリッピーの近くには、緊急遮断用の端末が置かれている。
ナウスは常にペルシアを監視している。
けれど、ペルシアが椅子に座ってコーヒーを飲んでいても、誰もすぐに追い出そうとはしなかった。
それが、今の距離だった。
ペルシアはクッキーをもう一枚取りながら、スリッピーの手元を覗き込む。
「何を作ってるの?」
「センサー補助ユニット。ナウスの外部補助に使うやつなんだけど、反応速度をもう少し上げたくて」
『現在の反応速度は十分基準値内です』
「十分じゃなくて、もっと良くしたいんだよ」
『過剰性能は整備負荷を増大させます』
「でも楽しいじゃん」
『楽しさは設計基準に含まれていません』
「含めようよ」
「ナウスとスリッピーって、ほんと仲良いわね」
ペルシアが言うと、スリッピーは嬉しそうに笑った。
「そうかな?」
『関係性の定義が曖昧です』
「ほら、こういうところ」
ペルシアが笑うと、クリスタルが雑誌をめくりながら言った。
「ナウスは誰にでもそうよ」
「でも、私にはちょっと優しくなってきたわよね」
『否定します』
「即答」
「当然でしょ」
クリスタルが淡々と言う。
ペルシアはコーヒーを一口飲み、ふっと息を吐いた。
こういう時間は、嫌いじゃない。
敵意がなくなったわけではない。
信用されたわけでもない。
でも、同じ空間にいられる。
それだけで十分な日もある。
しばらく、スリッピーの工具の音だけが響いた。
カチ。
キュッ。
小さな電子音。
ナウスの短い応答。
クリスタルが雑誌をめくる音。
ペルシアがクッキーを食べる音。
そして、ふいにスリッピーが顔を上げた。
「そういえばさ」
「ん?」
ペルシアがコーヒーを飲みながら返す。
「ペルシアって、元々ドルトムントにいたって言ってたよね」
クリスタルの雑誌をめくる手が、ほんの少し止まった。
ペルシアはその小さな変化を聞き逃さなかったが、気づかないふりをした。
「ええ。元々、ドルトムント財閥の旅行会社で客室乗務員をやってたのよ」
「客室乗務員?」
スリッピーの目が丸くなる。
「うん。宇宙船の中で乗客対応。案内して、飲み物出して、体調悪い人見て、トラブルが起きたら整えて、荒れた空気をどうにかする仕事」
「へぇ……なんか、今と結構違うね」
「違うようで、似てるわよ」
「そうなの?」
「人を見る仕事って意味ではね」
ペルシアはクッキーを指先で弄びながら、少しだけ目を細めた。
「客室って、小さな宇宙なのよ。いろんな人がいて、いろんな不安があって、いろんな不満があって。ちょっとした揺れで空気が悪くなる。誰か一人が騒げば広がる。誰か一人が我慢しすぎても崩れる」
スリッピーは工具を置き、興味深そうに聞いている。
「それを整えるのが仕事?」
「そう。飲み物を出すだけじゃない。毛布を渡すだけでもない。声の出し方、歩く速さ、視線の向け方、笑うタイミング。全部で空気を作る」
「すごいなぁ」
「すごく見えないのが、いい仕事なのよ」
ペルシアは少し笑った。
「誰も気づかないうちに、不安を減らす。誰も気づかないうちに、怒りを消す。誰も気づかないうちに、事故の芽を摘む」
クリスタルが雑誌から目を離さずに言った。
「それで、どうして辞めたの」
声は冷たくない。
けれど、簡単に踏み込ませる声でもない。
ペルシアはその問いに、少しだけ沈黙した。
クッキーを置く。
コーヒーを飲む。
息を吐く。
「色々あったのよ」
「答えになってない」
「でしょうね」
ペルシアは苦笑した。
スリッピーが慌てて言う。
「あ、無理に言わなくていいよ。僕、ちょっと気になっただけで……」
「いいの。話すわ」
ペルシアは椅子にもたれ、天井を見上げた。
部屋の空気が少しだけ静かになる。
ペルシアは、この話をして良いのかと少し悩んだ。
弱さを見せてしまうかもしれない。
フォクス達には、自分の弱さを見せるつもりなんてなかったのに。
でも、信用を求めるなら、こちらも少しは差し出さないといけない。
「十四班っていう班にいたの。タツヤ班長がいて、エリンがいて、リュウジがいて、ククル、エマ、カイエ……みんな個性的でね」
スリッピーが楽しそうに聞く。
「仲良かったの?」
「うん。口ではいろいろ言ったけど、好きだったわ」
ペルシアは素直に言った。
「面倒だけど、好き。真面目すぎる子も、すぐ騒ぐ子も、ゲームばっかりしてる子も、何でも背負い込む子も、全部ね」
「それで、どうして辞めたの」
クリスタルがもう一度聞いた。
今度は少しだけ声が柔らかかった。
ペルシアは、視線を落とした。
「守りたかったから」
短い言葉。
だが、それが一番近かった。
「あるフライトで、他の班と揉めたの。十班っていうところ。そこのチーフパーサーが、エリンを潰そうとした」
「潰す?」
「解雇か、子会社へ異動。そんな話が出た」
スリッピーの表情が変わる。
「ひどいね」
「ひどいわよ」
ペルシアは笑った。笑ったが、目は笑っていなかった。
「でも、組織ってそういうところがある。上に繋がりがある人間が、現場の正しさを捻じ曲げる。実力じゃなくて、家や権力で人を動かす」
クリスタルの目が、ほんの少し鋭くなった。
ペルシアは気づいたが、止まらなかった。
「私は、そのチーフパーサーと取引した。エリンの代わりに、私が辞めるって」
「……自分で?」
「ええ」
「誰にも相談せずに?」
「うん」
クリスタルの眉が寄る。
「馬鹿ね」
「分かってる」
ペルシアは即答した。
「エリンにも怒られた。リュウジにも怒られた。タツヤ班長にも怒られた。何のために班長がいると思ってるんだって」
思い出すと、胸が少し痛む。
エリンの涙。
リュウジの拳。
タツヤの本気の怒り。
カイエの叫び。
ククルの泣きそうな顔。
「でも、あの時の私は、それしか思いつかなかった。エリンがいない会社で乗務員を続けるなんて嫌だった。あの子達が傷つくのも嫌だった。だったら、私が出る方がいいって思った」
「それで宇宙管理局に?」
「前から誘われてたのよ。局長に」
ペルシアは肩をすくめる。
「あのおっさん、私の耳を買ってた。音を拾う力、人の声色を拾う力。宇宙管理局でなら、それをもっと広く使えるって言った」
「それで来たんだ」
「ええ」
ペルシアは机の上に指を置いた。
「私は、ドルトムントを辞めた。逃げたとも言えるし、選んだとも言える。どっちでもあるわね」
スリッピーは何か言おうとして、口を閉じた。
簡単に慰めるのは違うと思ったのだろう。
クリスタルは、静かにペルシアを見ていた。
「後悔してるの?」
ペルシアは少し考えた。
「してない。……って言いたいけど、少しはしてる」
「正直ね」
「正直じゃないと、あなた達には通じないでしょ」
ペルシアは苦笑した。
「十四班にいたかった。エリンとくだらないことで言い合いたかった。リュウジをからかいたかった。ククルやエマやカイエの面倒を見たかった。タツヤ班長にビールを奢らせたかった」
「最後は何?」
「大事なことよ」
スリッピーが小さく笑う。
ペルシアも笑ったが、すぐに表情を戻した。
「でも、今の私は宇宙管理局の統括官。ここで、もっと広く守れる。あの子達も含めてね」
クリスタルは目を細める。
「守れると思ってるの?」
「思ってる。思わないとやってられない」
「思うだけで守れるなら苦労しないわ」
「そうね。だから、あなた達が必要」
ペルシアは、そこでまっすぐ二人を見た。
スリッピーの目が揺れる。
クリスタルの表情が硬くなる。
「私が話した代わりに、一つ聞いていい?」
クリスタルは即座に警戒した。
「内容による」
「スターフォクスと宇宙警察。何かあったの?」
部屋の空気が、すっと冷えた。
スリッピーの手が、工具の上で止まる。
クリスタルの指が、雑誌の端を強く押さえる。
ナウスの微かな処理音が、いつもより静かに聞こえた。
ペルシアは続けた。
「こないだ、宇宙警察の長が管理局に来た。私が追い払った相手は宇宙警察だったみたい。スターフォクスを監視してた。あなた達と宇宙警察、そして管理局……何かあるんでしょ」
スリッピーは俯いた。
答えない。
答えたくない。
それが明らかだった。
クリスタルは低く言った。
「話さないわ」
ペルシアは頷いた。
「そう」
「聞いても無駄よ」
「分かった」
「本当に分かったの?」
「今は話さないってことは分かった」
クリスタルの目が鋭くなる。
「また聞くつもり?」
「ええ」
「しつこい」
「知ってる」
スリッピーが小さく言った。
「……ごめん、ペルシア」
ペルシアは驚いて、スリッピーを見る。
「謝らなくていいわよ」
「でも、ペルシアは自分のこと話してくれたのに」
「交換条件みたいにしたのは私よ。あなたが悪いわけじゃない」
スリッピーは唇を噛んだ。
「話せないんだ」
「うん」
「話したら、たぶん……色々、壊れる」
クリスタルがすぐに言った。
「スリッピー」
「あ……ごめん」
スリッピーは慌てて口を閉じた。
だが、ペルシアの耳は拾っていた。
話したら壊れる。
つまり、ただの恨みではない。
秘密を守っている。
誰かを守っている。
あるいは、何かがまだ終わっていない。
ペルシアは、その先を聞かなかった。
聞けば壊れる。
今は、まだ。
「分かった」
ペルシアは静かに言った。
「今日はここまでにする」
クリスタルが意外そうに見る。
「帰るの?」
「ええ。話さないって決めてる人に、今これ以上聞いても無理でしょ」
「……珍しく物分かりがいいのね」
「いつもいいわよ」
「どこが」
「細かい」
ペルシアは立ち上がり、紙袋を机に残した。
「クッキー、置いていくわ。ちゃんと食べて」
「また自分で半分食べたじゃない」
「半分は残ってる」
「お土産としてどうなの」
「気持ちよ、気持ち」
スリッピーが少し笑った。
「僕、あとで食べる」
「うん。食べて」
ペルシアは端末を手に取り、出口へ向かった。
扉の前で立ち止まる。
「スリッピー」
「何?」
「聞いてくれてありがと」
スリッピーは目を丸くした。
「僕、聞いただけだよ」
「聞くだけって、結構大事なのよ」
ペルシアは次に、クリスタルを見た。
「クリスタルも」
「私は何もしてないわ」
「雑誌を読みながらでも、聞いてたでしょ」
「……勝手に喋ってただけよ」
「うん。それでも、ありがと」
クリスタルは目を逸らした。
「変な人」
「よく言われる」
ペルシアは笑った。
「じゃあ、また来るわ」
「来なくていい」
「連絡はする」
「断るかもしれない」
「その時は引く。でも、また聞く」
「本当にしつこい」
「私、しつこいの」
いつものやり取り。
けれど、少しだけ違っていた。
ペルシアは倉庫を出た。
外の通路は、いつも通り冷たかった。
だが、胸の奥には、確かな手応えが残っていた。
彼らはまだ話さない。
宇宙警察とのことも、管理局とのことも、過去に何があったのかも。
それでも、スリッピーは「話したら壊れる」と言った。
クリスタルは止めた。
ナウスは沈黙した。
何かがある。
そして、それは今も彼らの中で生きている。
ペルシアは端末を開き、候補リストに追記した。
『接触継続。スリッピー、会話に応じる。クリスタル、警戒継続も銃なし。土産受領。ドルトムント退職経緯を共有。宇宙警察との関係については回答拒否。「話したら壊れる」とスリッピー発言。深入り注意。諦めない』
入力して、端末を閉じる。
「……少しずつね」
ペルシアは夜の通路を歩き出した。
信用は、一気には生まれない。
無理に聞けば壊れる。
近づきすぎれば逃げられる。
離れすぎれば、忘れられる。
だから、ちょうどいい距離で通うしかない。
ドーナツを持って。
クッキーを持って。
ときには自分で食べながら。
拒まれても、線を越えずに。
疑われても、怒られても。
何度でも。
ペルシアは、小さく笑った。
「次は……甘くないものにしようかしら」
そしてすぐに首を振る。
「いや、甘いものの方がスリッピーは喜ぶわね」
そんなことを考えながら、彼女は管理局への帰路についた。
守るための道は、今日も遠い。
でも、確かに一歩は進んでいた。
ーーーー
ペルシアが次にスターフォクスの倉庫に現れたのは、それからしばらく日にちが経ってからだった。
数日、ペルシアから連絡はなかった。
最初の一日は、フォクスも特に気にしなかった。
あれだけしつこく顔を出していたとはいえ、相手は宇宙管理局の統括官だ。仕事がないわけではない。むしろ、あれだけ頻繁に来ていたことの方がおかしかった。
二日目、スリッピーがぽつりと言った。
「ペルシア、今日は来ないね」
ファルコは工具を磨きながら鼻を鳴らした。
「ようやく飽きたんじゃねぇの?」
「そうかなぁ」
「普通はあれだけ断られりゃ来ねぇよ」
「でもペルシアだよ?」
スリッピーが真面目に言うと、ファルコは少し黙った。
「……まあ、あいつなら来そうだけどな」
クリスタルは雑誌を閉じもせずに言った。
「来ないなら来ないで静かでいいわ」
その声は冷静だった。
ただ、ページをめくる指が、いつもより少しだけ遅かった。
ナウスが淡々と告げる。
『ペルシアからの通信は本日ありません』
「聞いてないわ」
『補足情報です』
「いらない」
『了解しました』
フォクスは何も言わなかった。
ただ、壁のモニターに映る外周カメラの映像を一度だけ見た。
何も映っていない。
古びた通路と、薄暗い照明だけ。
三日目も来なかった。
四日目も来なかった。
スリッピーは少し気にしていた。
ファルコは「今度こそ諦めたか」と言いながら、いつもより外の物音に反応していた。
クリスタルは表面上変わらなかったが、机の上に置かれた空の菓子箱を片付ける時、ほんの少しだけ手を止めた。
フォクスは、やはり何も言わなかった。
けれど、ナウスだけは記録していた。
『ペルシアの訪問頻度、直近で低下。理由不明』
誰に聞かせるわけでもない記録だった。
そして、五日目の夕方。
『外部通信。ペルシアより入電』
ナウスの声が司令室に響いた。
スリッピーがぱっと顔を上げる。
「来た!」
ファルコが口元を歪める。
「ほらな。やっぱ来た」
「飽きたって言ってたじゃない」
クリスタルが静かに突っ込む。
「うるせぇな。予想は変わるもんだ」
フォクスは腕を組んだまま、短く言った。
「繋げ」
『通信接続』
モニターにペルシアの顔が映る。
少し疲れていた。
目元にうっすら影があり、髪もいつもよりわずかに乱れている。けれど、表情だけは相変わらずだった。
『お疲れ〜。今日、顔出していい?』
フォクスは目を細めた。
「何の用だ」
『会いに行くのに理由いる?』
「いる」
『じゃあ、理由はあるわ。文句もある。あと、お土産もある』
ファルコが笑う。
「お土産が本体だろ」
『失礼ね。今回はちゃんとあなた達用よ』
「前もそう言って自分で食ってたじゃねぇか」
『味見よ』
「便利な言葉だな」
フォクスは短く息を吐いた。
「ナウス、許可は?」
『条件付き入室を提案します』
「条件はいつものだな」
『はい』
フォクスは少しだけ間を置いた。
そして言った。
「入れ」
『やった。すぐ行くわ』
通信が切れる。
スリッピーは少し嬉しそうに工具を片付け始めた。
「何持ってくるかな」
「お前、完全に餌付けされてるぞ」
ファルコが呆れたように言うと、スリッピーは真顔で返した。
「餌付けじゃないよ。交流だよ」
「物は言いようだな」
クリスタルは静かに立ち上がった。
「私はまだ信用してないわ」
「誰も信用しろとは言ってない」
フォクスが言う。
「だが、来るなら見る」
クリスタルは小さく頷いた。
それからしばらくして、倉庫の扉が開いた。
「お邪魔しまーす」
いつもの声。
ペルシアは片手に紙袋を提げて入ってきた。今日は甘い香りではない。紙袋の中からは、香ばしい匂いと、少しだけスパイスの効いた匂いが漂っていた。
スリッピーが目を輝かせる。
「今日は何?」
「揚げパンと、しょっぱいチーズパイ。甘いものばっかりだと、クリスタルに怒られそうだから」
「別に怒ってないわ」
クリスタルが言う。
「そう? 前、チョコ持ってきた時、顔が“また甘いもの?”って言ってたわよ」
「顔で勝手に読まないで」
「私、そういうの得意なの」
ペルシアは紙袋を机に置く。
そして当然のように一つ取り出し、自分で食べた。
ファルコが即座に突っ込む。
「だから何で自分で食うんだよ」
「味見」
「もう恒例だな」
「安心して。ちゃんと人数分あるから」
「お前の分も含めてか?」
「もちろん」
スリッピーは笑いながらチーズパイを一つ手に取った。
「いただきます!」
クリスタルはまだ手を出さない。
フォクスも机のそばに立ったまま、ペルシアを見ていた。
「しばらく来なかったな」
フォクスが静かに言う。
ファルコがにやりと笑った。
「てっきり諦めたのかと思ったぜ」
クリスタルも雑誌を閉じ、ペルシアを見る。
「そうね。少しは静かだったわ」
ペルシアは揚げパンをかじりながら、目を丸くした。
「諦める訳ないでしょ」
即答だった。
あまりに当然のように言ったせいで、スリッピーが笑いそうになる。
ペルシアは紙ナプキンで指先を拭き、椅子にどかっと座った。
「ちょっと忙しかったのよ」
「管理局の仕事か」
フォクスが問う。
「そう。統括官として、緊急時の捜索、救出、事故対応のシミュレーションをやってたの」
「へぇ」
ファルコが興味深そうに眉を上げる。
「管理局の訓練ってやつか」
「訓練って言うには、あまりにも……」
ペルシアはそこで言葉を切り、深く息を吸った。
そして、机を軽く叩いた。
「全然ダメ!」
司令室に声が響く。
スリッピーがびくっと肩を跳ねさせた。
「え、そんなに?」
「そんなに!」
ペルシアは怒りを隠さず、両手を広げた。
「宇宙管理局の職員って、名前だけは立派なのよ。救出班、捜索班、事故対応班、後方支援班、記録班。肩書きだけはもう完璧。でも、いざシミュレーションをやると、動きは遅いし、要領は悪いし、連携は詰まるし、判断は上に確認しようとするし!」
言葉が止まらない。
「緊急時って言ってるのに、まず“確認します”って何よ! 確認してる間に人が死ぬでしょうが! 現場の状況が変わってるのに、最初に立てた手順にしがみつくし! 救出班は救出班だけで動こうとするし、後方支援は物資リスト見ながら固まってるし、通信班は報告を綺麗にまとめようとして遅れるし!」
ファルコが口笛を吹いた。
「相当荒れてんな」
「荒れるわよ!」
ペルシアはコーヒーを淹れに行こうとして、途中で振り返る。
「ナウス、コーヒーもらっていい?」
『許可します』
「ありがとう」
『ペルシアの感情高ぶりを確認。カフェイン摂取は推奨値内に留めてください』
「今それ言う?」
『健康管理は重要です』
「あなた、本当にフレイと気が合うわ」
ペルシアはコーヒーを淹れ、戻ってくるとまた椅子に座った。
「それで、腹が立って何回もやり直しさせてたら、時間が空いちゃったのよ」
クリスタルは目を細める。
「何回も?」
「ええ」
「どのくらい?」
「初日は五回」
スリッピーが目を丸くする。
「五回!?」
「二日目は八回」
ファルコが笑い出した。
「鬼かよ!」
「鬼じゃないわ。統括官よ」
「似たようなもんじゃねぇか」
クリスタルが呆れたように言う。
「職員たち、嫌がったでしょうね」
「嫌がってたわよ。顔に出てたもの」
「それでもやらせたの?」
「当然」
ペルシアは真顔だった。
「本番で失敗したら、嫌だったじゃ済まない。シミュレーションで恥をかく方がずっとマシ」
その言葉に、フォクスの目がわずかに変わった。
ペルシアは続ける。
「最初の想定は、未探索航路付近での民間船通信途絶。救難信号は途切れ途切れ。周辺に小規模デブリ帯。しかも乗員に負傷者の可能性あり」
スリッピーがすぐ反応した。
「その場合、まず通信復旧と位置特定だね。救出艇をすぐ出すにしても、デブリ帯の動きが読めないと危ない」
「そう!」
ペルシアが指を鳴らす。
「スリッピー、今のを管理局の連中に言ってやってほしいわ。あの人達、救出艇を出す準備だけ先に始めたのよ。位置も確定してないのに」
「うわぁ……それは危ないね」
「でしょ?」
ファルコが腕を組む。
「焦ったんだろ。救出って言葉に飛びついたんだ」
「そう。気持ちは分かる。でも焦って二次遭難起こしたら意味ない」
ペルシアはコーヒーを一口飲む。
「二回目の想定は、旅客船内で火災警報。しかも誤報か本物か不明。船長からの報告は混乱気味。乗客のパニックも発生」
クリスタルが口を開いた。
「乗客の制御と情報整理を並行する必要があるわね。火災の規模が不明なら、過剰に動きすぎても混乱を広げる」
「その通り!」
ペルシアがクリスタルを指差す。
「なのに管理局のシミュレーション班は、まず火災対応マニュアルの該当ページを確認し始めたの!」
ファルコが吹き出す。
「マニュアル開いてる間に燃えるな」
「そうなのよ!」
ペルシアは勢いよく頷いた。
「マニュアルは大事。でも、目の前で状況が変わってる時に、文字を追うだけじゃ遅い。現場から上がる声、通信の乱れ、背景音、乗客の悲鳴の数、警報音の種類――拾えるものはいくらでもあるのに」
そこで、ペルシアは少しだけ声を落とした。
「なのに、拾わない。聞こえてるのに、聞いてない」
その言葉に、部屋の空気が少しだけ静かになる。
フォクスはペルシアを見つめた。
「それで、やり直しさせたのか」
「ええ」
「何度も」
「何度も」
「嫌われるぞ」
「もう嫌われてるかもね」
ペルシアは肩をすくめた。
「でもいいの。好かれるために統括官やってるわけじゃない」
ファルコが少しだけ口元を上げた。
「言うじゃねぇか」
「本音よ」
スリッピーがチーズパイを食べながら言う。
「でも、ペルシアが怒るの分かる気がする。緊急時って、最初の数分が大事だもんね」
「そう。最初の数分で、助かる命が決まることがある」
ペルシアは机に肘をついた。
「それなのに、“上に確認します”“担当部署に照会します”“手順書を確認します”。もう、何回机を叩こうかと思ったか」
「叩いたの?」
クリスタルが聞く。
「叩いた」
「叩いたのね」
「三回くらい」
『正確には、シミュレーション室の机を六回叩いた記録があります』
ナウスが突然言った。
ペルシアは目を見開く。
「何で知ってるの!?」
『管理局内公開訓練ログの一部に音声情報が含まれていました』
「怖っ! というかナウス、見てたの?」
『ペルシア関連情報として監視しています』
「さらっと怖いこと言わないで」
スリッピーが楽しそうに笑う。
「ナウス、ペルシアに興味あるんだね」
『興味ではなく観測です』
「それ、ナウス語で興味って意味だよ」
『否定します』
クリスタルは小さくため息をついた。
「それで、管理局の職員は少しは良くなったの?」
「最初よりは」
ペルシアは少しだけ口元を緩めた。
「最後のシミュレーションでは、通信班が先に不明点を整理して、救出班に必要な情報だけ渡せるようになった。後方支援も、最初から全部用意しようとせず、優先度順に分けた。現場指揮も、確認の前に仮判断を出すようになった」
「なら成果はあったんじゃない」
クリスタルが言う。
「まだまだよ」
ペルシアは即座に返す。
「遅い。全体的に遅い。動き出すまでに考えすぎる。あと、自分の担当範囲から出るのを怖がりすぎる」
「組織の人間らしいな」
フォクスが静かに言った。
その言葉には、皮肉があった。
ペルシアはそれを聞き取った。
「そうね。だから腹が立つ」
「お前も組織の人間だ」
「そうよ」
ペルシアはフォクスをまっすぐ見た。
「だから、中から変えようとしてる」
フォクスは何も言わない。
ペルシアは続ける。
「でも、正直に言うと、管理局の中だけじゃ限界がある。規則の中で育った人間は、規則から外れる判断を怖がる。緊急時には、その一瞬の怖がりが命取りになる」
ファルコが目を細める。
「だから俺たちが欲しいってか」
「ええ」
ペルシアは迷わず答えた。
「あなた達なら、状況を見て動ける。上に確認する前に、現場で必要な判断ができる。疑える。逃げ道を作れる。危ない匂いに気づける」
「買い被りすぎだ」
フォクスが低く言う。
「そうかもね。でも、管理局の訓練を見て、余計に思ったわ」
ペルシアは少し疲れたように笑った。
「あなた達が必要だって」
沈黙。
今度の沈黙は、いつもの拒絶だけではなかった。
スリッピーは少し困った顔をした。
クリスタルは雑誌を閉じたまま、何も言わない。
ファルコは腕を組み、口元の笑みを消している。
フォクスは静かにペルシアを見ていた。
やがて、フォクスが言う。
「答えは変わらない」
「知ってる」
「俺たちは管理局に入らない」
「聞いた」
「信用もしない」
「それも聞いた」
「なら、なぜ言う」
「私の答えも変わらないから」
ペルシアは静かに言った。
「私はあなた達を諦めない」
ファルコが小さく笑う。
「マジでしつけぇな」
「褒め言葉として受け取る」
「褒めてねぇ」
「知ってる」
スリッピーが恐る恐る聞く。
「ペルシア、管理局のシミュレーションって、またやるの?」
「やるわよ。むしろ本格的にやる」
「見てみたいなぁ」
その瞬間、クリスタルがスリッピーを見る。
「スリッピー」
「いや、参加するって意味じゃなくて! 技術的に気になるだけで!」
ペルシアはにやりと笑った。
「見学なら歓迎するわよ」
フォクスが即座に言う。
「行かない」
「まだ何も言ってないじゃない」
「言う前に断る」
「早いわね」
「お前はすぐに勧誘へ繋げる」
「よく分かってきたじゃない」
「分かりたくなかった」
ファルコが笑った。
「でもよ、フォクス。見るだけなら面白そうじゃねぇか? 管理局の連中がペルシアに怒鳴られてるとこ」
「怒鳴ってないわよ」
ペルシアが言う。
『机を六回叩いています』
「ナウス、黙って」
『了解しました』
クリスタルが少しだけ口元を緩めた。
それはほんの一瞬だったが、ペルシアは見逃さなかった。
「次は怒鳴らないようにするわ」
「無理じゃないか?」
ファルコが言う。
「努力する」
「努力って言ってる時点で無理だろ」
スリッピーが笑う。
空気が、少しだけ軽くなった。
ペルシアはその空気を壊さないよう、コーヒーを飲んだ。
そして、机の上に残った揚げパンを一つ取る。
「それ、何個目だ」
フォクスが静かに言う。
「味見」
「もう味は分かっただろ」
「時間が経つと味が変わるかもしれない」
「屁理屈だな」
「交渉術よ」
「絶対違う」
ファルコが笑う。
スリッピーはチーズパイを食べ、クリスタルは結局、揚げパンを一つ手に取った。
ペルシアは何も言わない。
言えば、きっとクリスタルは置いてしまうから。
ナウスだけが静かに記録した。
『クリスタル、ペルシア持参の食品を摂取』
「ナウス」
クリスタルが低く言う。
『訂正します。記録は内部処理に留めます』
「最初からそうして」
ペルシアは笑いを堪えた。
フォクスはそれを見て、わずかに息を吐く。
「……ペルシア」
「何?」
「お前の管理局でのシミュレーション。次はいつだ」
ペルシアの手が止まる。
スリッピーも顔を上げた。
ファルコも笑みを消した。
クリスタルも、揚げパンを持ったままフォクスを見る。
ペルシアは、すぐに飛びつきたい衝動を抑えた。
ここで勢いよく食いつけば、フォクスは引く。
だから、いつもより少しだけ落ち着いた声で言った。
「三日後。未探索航路での多重事故対応シナリオ」
「多重事故?」
「救難信号二件。片方は民間貨物船、片方は小型旅客艇。周辺に通信障害あり。加えて、どちらを優先するか判断が必要になる」
ファルコが口元を上げる。
「嫌な想定だな」
「だからやるのよ」
フォクスはしばらく黙った。
そして、静かに言った。
「資料だけ送れ」
ペルシアは瞬きをした。
「え?」
「見るとは言ってない。参加するとも言ってない。資料だけだ」
ペルシアは口元が緩みそうになるのを必死に抑えた。
「分かった。資料だけ送る」
「勘違いするな」
「しないわよ」
「俺たちは管理局には入らない」
「分かってる」
「信用もしない」
「分かってる」
「資料を見るだけだ」
「ええ」
ペルシアは、今度こそ少しだけ笑った。
「ありがとう」
フォクスは視線を逸らした。
「礼を言うことじゃない」
「私にとっては、礼を言うことなの」
司令室に、静かな時間が流れる。
断られ続けている。
信用されていない。
まだ距離は遠い。
けれど、資料だけとはいえ、フォクスが自分から求めた。
小さな一歩。
でも、確かな一歩。
ペルシアは心の中で、候補リストに書き加える言葉を考えていた。
『フォクス、管理局シミュレーション資料の確認を希望。接触継続。前進あり。諦めない』
今日は、それで十分だった。
ペルシアは残りの揚げパンを一口食べ、満足そうに言った。
「やっぱり来てよかった」
ファルコが呆れたように笑う。
「食い物目当てじゃねぇだろうな」
「半分ね」
「半分かよ」
「残り半分は、あなた達」
ペルシアがそう言うと、スリッピーは少し照れたように笑い、クリスタルは目を逸らし、ファルコは肩をすくめた。
フォクスだけは、何も言わなかった。
だが、机の上の資料端末を見つめるその目は、ほんの少しだけ、前よりもこちら側を向いていた。
ーーーー
ペルシアから資料が送られてきたのは、フォクスが「資料だけ送れ」と言った翌日の夜だった。
送られてきたファイルは、思っていたよりもずっと分厚かった。
表紙には、宇宙管理局の正式な様式でこう書かれていた。
――統括官主導・緊急時多重事故対応シミュレーション
――想定:未探索航路付近における同時救難事案
――作成者:統括官 ペルシア
フォクスは端末に表示されたそれを無言で見つめていた。
ファルコは横から覗き込み、すぐに口笛を吹く。
「うへぇ、硬そうな資料だな」
「行政資料だからな」
フォクスが短く答える。
スリッピーは別の端末で資料を開き、目を輝かせた。
「でも、シナリオ自体は面白いよ。救難信号が二件。貨物船と小型旅客艇。通信障害あり。周辺に小型デブリ帯。しかも救出可能時間が違う……これ、優先順位の判断がかなり難しいね」
クリスタルは腕を組んで、後ろから画面を見ていた。
「嫌な想定ね」
「嫌だから意味がある」
フォクスが言う。
クリスタルはちらりとフォクスを見た。
「見るの?」
「資料だけだ」
「それ、もう見るって言ってるのと同じじゃない」
「確認するだけだ」
ファルコがにやりと笑う。
「言い方が管理局っぽくなってきたな、フォクス」
「黙れ」
ナウスの機械音声が静かに挟まる。
『資料内に複数の判断分岐があります。訓練設計としては実用性が高いと判断します』
「ナウスまで褒めるのかよ」
ファルコが肩をすくめる。
『褒めてはいません。評価です』
「それ、だいたい褒めてるって言うんだよ」
スリッピーが笑いながら、資料を読み進める。
「でもさ、これ、管理局の人たちがちゃんと動けたらすごいと思うよ。救出班と通信班と後方支援班が同時に判断しないといけないし、どっちを優先するかで揉めるよね」
「揉めるだろうな」
フォクスは静かに言った。
「むしろ揉めなければ、訓練にならない」
クリスタルは資料から目を離さずに呟く。
「ペルシア、これを一人で作ったのかしら」
『資料作成履歴上、主編集者はペルシアです。補助者としてフレイの名前が一部記録されています』
「フレイって、前にペルシアが言ってた真面目な人か」
スリッピーが言う。
「ナウスと気が合いそうって言われてた人だよね」
『興味があります』
「本気で会いたがってるじゃん」
ファルコが呆れたように笑う。
フォクスは資料を最後まで読み終えると、端末を閉じた。
そして、しばらく黙った。
ペルシアは本気だ。
それは分かっていた。何度も倉庫に顔を出し、断られても、警戒されても、ドーナツやクッキーを持ってきて、時には自分で食べながら居座る。ふざけているようで、彼女の目的は一度もぶれていない。
守るためのチームを作る。
そのために、スターフォクスが必要だと言い続けている。
フォクスはその言葉を信用していない。
宇宙管理局も信用していない。
ペルシア個人についても、まだ判断を保留している。
だが、資料には嘘がなかった。
少なくとも、訓練想定は現場を見ている者の作りだった。机上の綺麗な想定ではない。嫌な揺らぎがある。現場で起きる迷いがある。失敗させるための罠ではなく、失敗から引きずり上げるための厳しさがある。
ファルコが横目でフォクスを見る。
「で、どう思う?」
「悪くない」
「素直じゃねぇな。相当いいって顔してるぞ」
「黙れ」
クリスタルは少しだけ目を細めた。
「でも、これを管理局の職員がこなせるの?」
フォクスは答えなかった。
スリッピーが困ったように笑う。
「……大変そうだね」
ナウスが静かに言った。
『ペルシアの性格上、想定通りに進まなかった場合、長時間の再訓練を行う可能性が高いです』
ファルコが吹き出した。
「あり得るな」
クリスタルは小さくため息をつく。
「また机を叩くんじゃないの」
『前回の記録では六回です』
「増えそうね」
その時は、誰もそれ以上深く考えなかった。
まさか翌日、本当にその予測を超える形でペルシアが現れるとは、誰も思っていなかった。
◇
シミュレーションの翌日。
司令室に、ナウスの声が響いた。
『外部着信。ペルシアより入電』
スリッピーが機材から顔を上げた。
「ペルシア?」
ファルコは椅子に座ったまま足を組み、面白そうに笑った。
「結果報告ってやつか?」
クリスタルは雑誌を閉じた。
「……嫌な予感がするわ」
フォクスが短く言う。
「繋げ」
『接続します』
モニターにペルシアの顔が映った。
瞬間、全員が言葉を失った。
ペルシアの目元には、はっきりと分かるクマができていた。髪もいつものように整っておらず、顔色も悪い。口元はいつものように強気に引き結ばれているが、疲労が隠しきれていない。
それでも目だけは、妙にギラギラしていた。
『……お疲れ』
声も少し低い。
スリッピーが心配そうに身を乗り出した。
「ペルシア、大丈夫?」
『大丈夫じゃないわよ!』
いきなり怒鳴った。
スリッピーがびくっと肩を跳ねさせる。
ファルコが「あー」と天井を見た。
「やっぱ荒れてるな」
ペルシアは画面の向こうで、机を叩いたようだった。音が少し遅れて響く。
『全然なってない! もう本当に全然ダメ! 何よあれ! シミュレーションを何だと思ってるのよ!』
フォクスは黙って聞いている。
クリスタルは眉をひそめた。
「落ち着きなさい。まず何があったの」
『落ち着いてるわよ!』
「落ち着いている人の声じゃないわ」
『声が大きいだけ!』
「それを落ち着いていないと言うのよ」
ペルシアは画面の向こうで深く息を吸った。
しかし、すぐにまた怒りが戻る。
『シミュレーションそのもの以前の問題だったのよ』
「以前?」
スリッピーが首を傾げる。
『始まる前の声が、もうやる気なかったの!』
ファルコがぽかんとする。
「声?」
『そう、声! 職員たちの声! 返事! 説明を聞く時の呼吸! 端末を操作する手の音! 全部が“また訓練か”って言ってた!』
クリスタルが少しだけ目を細める。
「……貴方、そこまで聞き分けるの?」
『聞こえるのよ!』
ペルシアは苛立ちを隠さず言う。
『やる気がない人間の返事って分かるでしょ。声が前に出てない。息が浅い。語尾が沈む。目の前のことを“自分の仕事”として受け取ってない音がする』
フォクスの目がわずかに変わった。
ペルシアは続ける。
『だから、始める前に止めた』
「止めた?」
ファルコが笑いを堪えながら言う。
『止めたわよ。始まる前から負けてる訓練なんてやる意味ないもの』
「それで?」
『小一時間、説教した』
沈黙。
ファルコがとうとう笑い出した。
「ははははっ! 始まる前に小一時間説教かよ!」
『笑いごとじゃないわよ!』
「いや、笑うだろそれは!」
スリッピーが困ったように笑う。
「で、でも、やる気がなかったなら、そのまま始めても駄目だったかもね」
『そうなのよ、スリッピーは分かってる!』
ペルシアは画面越しにスリッピーを指差した。
『緊急時に“やらされてる”人間は動けない。自分の判断じゃなくて、誰かの命令を待つ。命令を待つ人間が増えると、現場は止まるのよ』
クリスタルは静かに言う。
「それで、シミュレーションは?」
ペルシアの顔が、さらに険しくなった。
『全然ダメ』
「また?」
『また! 最初の救難信号の段階で、通信班が情報整理に時間かけすぎ。救出班は出動準備に入ったけど、貨物船と旅客艇の優先順位を決められない。後方支援は必要物資を全部用意しようとして動きが重い。現場指揮は“統括官の判断を仰ぎます”って言うし!』
「統括官って、貴方でしょ」
『そうよ! でも訓練なのよ! 私の判断を待つだけなら、私一人でいいじゃない!』
ペルシアは心底腹を立てていた。
『私が欲しいのは、私が全部指示しなくても動けるチームなの。私が右って言ったから右へ行く人間じゃない。状況を見て、右が危ないと思ったら“左の方がいい”って言える人間が必要なの!』
フォクスは、その言葉を黙って聞いていた。
ファルコも笑うのをやめた。
スリッピーは真剣な顔になり、クリスタルは画面の中のペルシアをじっと見ている。
『なのに、何にも出来てないから、夜中までやってやったわ』
ペルシアが言い切る。
スリッピーが目を丸くする。
「夜中まで?」
『ええ』
「それで、その顔なの?」
クリスタルが静かに言う。
『まぁね』
「寝てないの?」
『まぁね』
ペルシアはあっさり認めた。
クリスタルの眉が寄る。
「倒れるわよ」
『大丈夫』
「大丈夫な顔じゃない」
『顔で判断しないで』
「貴方は人の声で判断するくせに」
ペルシアが一瞬だけ黙る。
ファルコが小さく笑った。
「一本取られたな」
『……今のはちょっと上手かったわね』
ペルシアは悔しそうに言った。
クリスタルはため息をつく。
「本当に寝なさい。統括官が倒れたら、誰がその訓練を続けるの」
『倒れないわよ。私、意外と丈夫なの』
「意外じゃなくて、無茶してるだけでしょ」
『うるさいわねぇ』
ペルシアは画面の向こうで何かを持ち上げた。
パンパンに膨れた袋だった。
次の瞬間、画面が少し揺れ、通信が切れた。
「……切れた?」
スリッピーが言う。
ナウスがすぐに告げる。
『外部接近。ペルシア、倉庫へ向かっています』
ファルコが笑った。
「来るのかよ!」
クリスタルは額を押さえた。
「寝なさいって言ったばかりなのに」
フォクスは短く言った。
「ナウス、入室条件」
『通常条件に加え、健康状態監視を推奨します』
「入れろ」
『了解』
◇
数分後。
倉庫の扉が開いた。
「お邪魔するわよ!」
ペルシアは、いつもより明らかに勢いよく入ってきた。
片手には、画面越しに見えたパンパンの袋。
もう片方には、別の紙袋。
顔には疲労。目元にはクマ。だが、足取りだけは妙に力強い。
スリッピーが立ち上がる。
「ペルシア、本当に大丈夫?」
「大丈夫よ」
「大丈夫じゃなさそう」
「大丈夫って言ったら大丈夫」
クリスタルが近づき、ペルシアの顔を覗き込む。
「目の下、ひどいわ」
「余計なお世話」
「寝てないのにここへ来る方が悪い」
「飲まなきゃやってられないのよ」
「飲む?」
クリスタルの目が鋭くなる。
ペルシアはパンパンの袋を机の上に置いた。
中から取り出したのは、ビールの缶だった。
一本、二本、三本。
さらに酒瓶。つまみ。缶詰。ナッツ。チーズ。乾き物。
ファルコが口を開ける。
「おいおい、酒盛りかよ」
「お土産よ」
ペルシアは堂々と言った。
「お土産って言いながら、また自分で飲むんでしょ」
クリスタルが冷たく言う。
「もちろん」
「当然のように言わないで」
ペルシアは缶ビールを一本開けた。
プシュッという音が司令室に響く。
そして、勢いよく飲み始めた。
ごく、ごく、ごく。
喉を鳴らして、半分近くまで一気に飲む。
「ぷはぁー!」
ペルシアは缶を机に置いた。
「生き返る」
クリスタルは呆然としていた。
「……本当に飲んだ」
「飲まなきゃやってられないって言ったでしょ」
「寝てないんでしょ?」
「寝てない」
「なのに飲むの?」
「だから飲むの」
「意味が分からないわ」
ファルコが笑いながら、机の上の缶を手に取る。
「俺ももらっていいか?」
「いいわよ。お土産だもの」
「ファルコ」
フォクスが低く呼ぶ。
「一缶だけだって」
「お前も明日、動く予定がある」
「分かってるって」
ファルコは缶を開けるが、ペルシアほどの勢いでは飲まない。
スリッピーは酒ではなく、つまみのナッツに手を伸ばした。
「僕はこっちでいいや」
「賢いわね、スリッピー」
クリスタルが言う。
「ペルシアも見習って」
「私は大人だからいいの」
「大人なら寝なさい」
「大人は寝る時間も削るのよ」
「それは駄目な大人よ」
ペルシアは二口目を飲みながら、むっとする。
「クリスタル、今日はやけに刺すわね」
「刺してるんじゃなくて、心配してるの」
言ってから、クリスタル自身が少しだけ固まった。
ペルシアも、一瞬だけ目を丸くした。
ファルコがにやりと笑う。
「お、心配だってよ」
「黙って、ファルコ」
クリスタルが即座に睨む。
ペルシアは缶を持ったまま、少しだけ笑った。
「……心配してくれるの?」
「倒れられたら迷惑なだけよ」
「はいはい、そういうことにしとく」
「そういうことよ」
ペルシアはそれ以上からかわなかった。
からかえば、クリスタルはまた距離を取る。
そのくらいは分かる。
フォクスは静かにペルシアを見ていた。
「シミュレーションの資料は見た」
その一言で、ペルシアの目が少しだけ鋭くなる。
「そう。どうだった?」
「想定は悪くない」
「想定は、ね」
「管理局の職員がこなせていないなら、まだ練度が足りない」
「足りないなんてもんじゃないわよ」
ペルシアはビールをもう一口飲んだ。
「そもそも声が死んでるの。始まる前から。やる気も覚悟もない。訓練を“仕事の一部”として処理してるだけ。違うのよ。あれは命の予行演習なの」
スリッピーがナッツを食べる手を止めた。
「命の予行演習……」
「そう」
ペルシアは真剣な声で言った。
「シミュレーションだから失敗できる。失敗できる場所で本気になれない人間が、本番で本気になれるわけない」
ファルコが缶を片手に言う。
「それは正論だな」
「でしょ」
「でもよ、管理局の連中って、そういう訓練慣れしてねぇんじゃないか?」
「慣れてないからやるの」
「嫌われるぞ」
「もう言われた」
「何を?」
「統括官は厳しすぎるって」
ペルシアは鼻で笑った。
「厳しすぎる? 笑わせないでほしいわ。宇宙はもっと厳しい。事故現場はもっと容赦ない。時間は待ってくれないし、通信は都合よく繋がらないし、助けを待ってる人は綺麗に順番を守ってくれない」
フォクスの目が、わずかに揺れた。
その言葉は、スターフォクスの現場感覚に近かった。
彼らは知っている。
宇宙は待たない。
現場は綺麗に並ばない。
助ける命に順番を付けなければならない瞬間がある。
ペルシアは続けた。
「貨物船と旅客艇、どちらを優先するか。管理局の職員は迷った。迷うのはいい。でも、迷ったまま固まるのは駄目。迷っても判断する。判断したら責任を持つ。間違えたら、次に直す。その繰り返ししかないのよ」
クリスタルは静かに聞いていた。
「それを夜中まで?」
「ええ」
「何回やり直したの?」
「……十回くらい?」
スリッピーが目を見開く。
「十回!?」
ナウスが補足する。
『訓練ログ上、全体通し訓練は九回。部分再訓練を含めると二十一回です』
ファルコが腹を抱えて笑った。
「鬼だ! やっぱ鬼だ!」
「統括官よ!」
ペルシアが言い返す。
クリスタルは深くため息を吐いた。
「それで寝ずに、ここへ来て、酒を飲んでいるのね」
「そう」
「最悪ね」
「否定できない」
ペルシアはビールを飲み干し、二本目に手を伸ばそうとした。
その瞬間、クリスタルの手が伸びて、缶を押さえた。
「少し待ちなさい」
「えー」
「えーじゃない」
「まだ一本よ」
「寝てない人間の一本は重いの」
「大丈夫だって」
「大丈夫じゃない」
クリスタルの声が少し強くなった。
「本当に倒れるわよ」
ペルシアは缶に伸ばした手を止めた。
クリスタルの目は、怒っているというより、本気で心配していた。
それが分かったから、ペルシアは無理に手を伸ばせなかった。
「……じゃあ、少しだけ間を置く」
「少しじゃなくて、今日はもう飲まない方がいいわ」
「それは無理」
「なぜ」
「飲まなきゃやってられないから」
「だから、それが駄目だと言ってるの」
ファルコが小声で言う。
「完全に面倒見られてんな」
「黙って」
クリスタルが睨む。
スリッピーは少し笑って、ペルシアに水のボトルを差し出した。
「とりあえず水飲んだら?」
「スリッピーまで……」
「水も大事だよ」
ナウスが続く。
『推奨します。ペルシアの疲労状態を考慮すると、アルコール摂取前後の水分補給が必要です』
「ナウスまで」
『健康管理は重要です』
ペルシアは観念して、水を受け取った。
「……分かったわよ」
水を飲む。
少しだけ頭が冷える。
でも、胸の奥の苛立ちは消えない。
フォクスが静かに口を開いた。
「ペルシア」
「何?」
「そのシミュレーション、次もやるのか」
「やるわよ。やらなきゃ意味ないもの」
「なら、資料を送れ」
ペルシアの動きが止まった。
「……また?」
「まただ」
「見るだけ?」
「見るだけだ」
「参加は?」
「しない」
「見学は?」
「しない」
「助言は?」
「必要なら、資料に書く」
ペルシアは、思わず笑いそうになった。
疲れた顔のまま、口元だけが少し上がる。
「十分よ」
「勘違いするな」
「しない」
「俺たちは管理局に入らない」
「分かってる」
「信用もしない」
「分かってる」
「資料を見るだけだ」
「ええ」
ペルシアは、今度は素直に言った。
「ありがとう」
フォクスは目を逸らした。
「礼を言うな」
「言いたいのよ」
ファルコが缶を持ち上げる。
「なあ、フォクス。これ、もう半分巻き込まれてねぇか?」
「黙れ」
スリッピーが笑う。
「でも、資料見るだけでも役に立つかも。僕、通信障害の想定なら改善案出せるかもしれないし」
「スリッピー」
クリスタルが呼ぶ。
「参加するって意味じゃないよ! 本当に資料見るだけ!」
ペルシアは水を飲みながら、少しだけ満足そうに笑った。
「資料、送るわ」
「今日はもう帰って寝なさい」
クリスタルが言う。
「えー」
「えーじゃない」
「もう少しだけ飲んでから」
「駄目」
「少しだけ」
「駄目」
「クリスタル、厳しい」
「貴方が無茶をするからよ」
ペルシアは少しだけ黙った。
そして、ふっと笑った。
「……なんか、エリンみたい」
「誰?」
「ドルトムントにいた頃の同僚。優しい顔で怒るのが上手いの」
「私は優しくないわ」
「そうね。もっと分かりやすく怖い」
「帰りなさい」
「はいはい」
ペルシアは立ち上がろうとして、少しふらついた。
クリスタルが即座に腕を掴む。
「ほら」
「……ちょっと立ちくらみ」
「寝てないからよ」
フォクスが短く言う。
「ナウス、休憩室を開けろ」
『了解』
ペルシアが目を丸くする。
「え、何?」
「少し寝てから帰れ」
フォクスが言った。
ペルシアは驚いた。
フォクスがそんなことを言うと思っていなかったからだ。
「……いいの?」
「ここで倒れられる方が迷惑だ」
「またそれ」
「事実だ」
ファルコがにやにやする。
「泊めてもらえるんだってよ、統括官」
「言い方」
クリスタルが睨む。
スリッピーは嬉しそうに言う。
「毛布あるよ。僕、持ってくる!」
「いや、そんな大げさにしなくても……」
「大げさじゃない」
クリスタルがペルシアの腕を掴んだまま言う。
「一時間だけでも横になりなさい」
ペルシアは反論しようとした。
でも、身体が正直だった。
目の奥が重い。
足元が少し浮く。
酒が回ったというより、疲労が一気に押し寄せてきた。
「……じゃあ、少しだけ」
「少しじゃなくて寝られるだけ寝なさい」
「それは困る。仕事あるし」
「寝てから仕事しなさい」
ペルシアは小さく笑った。
「……本当にエリンみたい」
クリスタルは答えなかった。
ただ、ペルシアを支える手は離さなかった。
フォクスは机の上の資料端末を見て、静かに言った。
「資料は送れ」
「分かった」
「起きてからでいい」
ペルシアは驚いてフォクスを見る。
フォクスは表情を変えない。
「寝不足の資料は信用できない」
「ひどい理由ね」
「事実だ」
ペルシアは少しだけ笑い、素直に頷いた。
「……分かったわ」
スリッピーが毛布を抱えて戻ってくる。
「休憩室、準備できたよ!」
ファルコがビールを片手に笑う。
「おい統括官。次から酒持ってくるなら、寝てから飲めよ」
「それ、順番逆じゃない?」
「いや、正しいだろ」
ペルシアはもう言い返す元気もなく、クリスタルに支えられて休憩室へ向かった。
その背中を見送りながら、フォクスは静かに息を吐いた。
宇宙管理局は信用しない。
それは変わらない。
だが、あの統括官は――
少なくとも、現場を本気で変えようとしている。
ファルコが横から言った。
「フォクス」
「何だ」
「資料、見るんだろ」
「ああ」
「助言もするんだろ」
「必要ならな」
「それ、もう半分協力してるぜ」
フォクスは黙った。
少ししてから、低く答えた。
「……資料を見るだけだ」
ファルコは笑った。
「はいはい。そういうことにしといてやるよ」
ナウスが静かに告げる。
『ペルシア、休憩室にて横臥。心拍やや高め。疲労状態。睡眠移行の可能性あり』
スリッピーがほっとしたように息を吐く。
「寝られるといいね」
クリスタルは休憩室の扉の前で少しだけ立ち止まり、中を見た。
ペルシアは毛布をかけられ、すぐに目を閉じていた。口では強がっていたが、本当は限界だったのだろう。
クリスタルは小さく呟いた。
「……馬鹿ね」
その声は、とても小さかった。
けれど、ナウスはきっと記録しただろう。
ただし、誰にも報告しなかった。
司令室には、ペルシアが持ってきたビールとつまみが残っている。
そして、次のシミュレーション資料を待つ端末が、静かに光っていた。
拒絶はまだ消えていない。
信用もまだ遠い。
それでも、何かが少しずつ動き始めていた。