サヴァイヴ〜ドルトムント財閥〜   作:一塔

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スイーツ

 午後のシミュレーションが終わった時、訓練室にはしばらく誰の声もなかった。

 

 ただ、空調の音と、誰かが深く息を吐く音だけが残っていた。

 

 エリンが作成した今回のシミュレーションは、通常の接客訓練ではなかった。

 

 旅行企画便を想定した穏やかな客室対応から始まり、途中で乗客の一人が体調不良を訴え、別の席では子どもが通路に出てしまい、さらに後方ブロックでは荷物棚の固定不良が発生するという複合想定だった。

 

 単体で見れば、どれも大きな事故ではない。

 

 けれど、それらが同時に起きると、乗務員の視線は散り、判断は遅れ、優先順位を間違えれば一気に客室全体の空気が乱れる。

 

 エリンは、そこを容赦なく突いてきた。

 

「ククル、走らない。足音が大きいわ」

 

「エマ、声をかける順番を間違えないで。今、先に見るべきなのは高齢のお客様よ」

 

「カイエ、判断はいいけど、声が少し硬い。乗客に緊張が伝わるわ」

 

「ミラ、そこで立ち止まらない。迷った時こそ一歩動いて、周りを見るの」

 

 エリンの声は、決して怒鳴ってはいない。

 

 けれど、鋭い。

 

 優しく、的確で、逃げ場がない。

 

 それが一番怖かった。

 

 訓練が終わり、エリンが「今日はここまでにしましょう」と柔らかく告げた瞬間、ククルはその場で膝から崩れそうになった。

 

「お、お疲れ様でした……」

 

 ミラも深く頭を下げる。

 

「ありがとうございました……!」

 

 カイエは息を整えながらも、きちんと姿勢を崩さなかった。

 

「ご指導ありがとうございました、エリンさん」

 

 エマは柔らかく笑おうとしたが、頬が少し引きつっていた。

 

「ありがとうございました。今日も……とても勉強になりました」

 

 エリンは全員を見渡し、にっこり微笑んだ。

 

「みんな、お疲れ様。今日の動きは、前よりずっと良くなっていたわ。特にミラ、最初の頃より周囲を見る余裕が出てきたわね」

 

「は、はい! ありがとうございます!」

 

 ミラの顔がぱっと明るくなる。

 

「でも、最後の想定で、体調不良のお客様に声をかけたあと、すぐに周囲を見られなかったでしょう。ああいう時は、目の前のお客様に集中しながらも、耳だけは周りに置いておくの。分かる?」

 

「はい……!」

 

「大丈夫。できるようになるわ」

 

 エリンが優しく言うと、ミラは少し泣きそうな顔で頷いた。

 

 ククルが横で小さく呟く。

 

「エリンさん、褒めてくれる時は天使みたいなんだけどなぁ……」

 

 エリンの視線がすっと動く。

 

「ククル?」

 

「い、いえ! 何でもありません!」

 

 ククルは背筋を伸ばした。

 

 エリンはにこりと笑う。

 

「そう。ならよかったわ。ククルは次回、足音と声の大きさを重点的に見るからね」

 

「ひぃ……」

 

 ククルの肩が落ちる。

 

 エマが小さく笑い、カイエが苦笑した。

 

 そうして訓練室を片付け、午後のシミュレーションは終了した。

 

 だが、終わったからといって、疲れが消えるわけではない。

 

 むしろ更衣室へ戻る頃には、全員の足取りは明らかに重くなっていた。

 

 

「疲れた〜……」

 

 更衣室に入るなり、ククルは椅子に座り込んだ。

 

 いつもの元気な声ではあるが、最後の方は完全に伸びていた。

 背もたれに身体を預け、両足を前に投げ出し、ぐったりと天井を見上げている。

 

「足がパンパンです……」

 

 ミラも隣の椅子に腰を下ろし、ふくらはぎを両手でさすった。

 

 普段は姿勢よく座ろうとするミラだが、今日はさすがに余裕がない。背筋こそ伸ばそうとしているものの、肩は落ち、顔には疲労がにじんでいた。

 

 カイエはロッカーを開けながら、二人を見て少しだけ微笑んだ。

 

「大変だけど、大事なシミュレーションだから。今日みたいな複合対応は、本番で急に起きることもあるしね」

 

「分かってるけど〜……」

 

 ククルは椅子の上でぐったりしながら言う。

 

「頭も足も同時に使うの、ほんと大変。体調不良のお客様の対応してたら、後ろで子どもが動くし、荷物棚は開くし、エリンさんは全部見てるし」

 

「最後のが一番怖いんじゃない?」

 

 エマが笑いながらロッカーを開けた。

 

 エマは疲れているはずなのに、どこか穏やかだった。

 ただ、髪を整える手つきはいつもより少しゆっくりだ。

 

「確かに、エリンさんのシミュレーションはタメになるもんね。自分では気づかない癖が、すぐ分かるし」

 

「そうなんです……」

 

 ミラが頷く。

 

「私、自分では周りを見ているつもりだったんですけど、体調不良のお客様に意識が行きすぎて、他の声が聞こえなくなっていました」

 

「最初はみんなそうだよ」

 

 カイエが柔らかく言う。

 

「目の前の対応に集中するのは悪いことじゃない。でも、乗務員は一人のお客様だけじゃなくて、ブロック全体を見ないといけないからね」

 

「はい……。カイエさんは、いつもすごいです」

 

「私もまだまだだよ。今日だって、エリンさんに声が硬いって言われたし」

 

 カイエは少し恥ずかしそうに笑った。

 

「でも、エリンさんの指摘は本当に的確だから。言われた時は悔しいけど、後で考えると、確かにって思うことばかりなんだよね」

 

「分かる!」

 

 ククルが起き上がった。

 

「エリンさんって、こっちが言い訳する前に全部分かってるんだよね。『今、焦ったでしょう』とか、『そこで少し迷ったわね』とか。何で分かるの!?ってなるもん」

 

 エマが頷く。

 

「それに、見てるところが細かいよね。足音、目線、手の位置、声の大きさ、言葉を出すタイミング。全部見てる」

 

「怖いです……」

 

 ミラが小さく呟く。

 

 その言い方があまりにも正直だったので、ククルとエマが笑った。

 

「大丈夫、大丈夫。ミラもそのうち慣れるから」

 

「慣れるんですか?」

 

「慣れるよ。たぶん」

 

「たぶんですか!?」

 

 ミラが目を丸くする。

 

 カイエが苦笑した。

 

「慣れるというより、エリンさんの指摘を受ける前に自分で気づけるようになる、かな」

 

「それが一番難しそうです……」

 

 ミラは肩を落とした。

 

 更衣室の中に、少しだけ和やかな空気が流れる。

 

 ククルは足をぶらぶらさせながら、ふと天井を見上げた。

 

「でもさ」

 

「うん?」

 

 エマが髪をまとめながら返事をする。

 

「エリンさんって、自分のシミュレーションっていつやってるんだろ?」

 

 その一言に、全員の手が止まった。

 

 ミラが首を傾げる。

 

「自分のシミュレーション、ですか?」

 

「うん。私たちにはあれだけ訓練してくれるでしょ? でもエリンさん自身の訓練って、見たことなくない?」

 

 エマが少し考える。

 

「確かに……。エリンさんが誰かに見てもらっているところは、あまり見ないかも」

 

「見ないどころか、私、一度も見たことないです」

 

 ミラが言う。

 

 カイエはロッカーの扉に手を置いたまま、しばらく黙った。

 

「エリンさんは、たぶん自分でやってると思う」

 

「自分で?」

 

 ククルが聞き返す。

 

「うん。資料を作る時点で、想定を何度も頭の中で回しているはずだよ。お客様の反応、乗務員の動き、優先順位、悪化した場合の分岐。そういうのを全部考えているから、訓練中の指摘が早いんだと思う」

 

「なるほど……」

 

 エマが頷く。

 

「でも、それって大変だよね。私たちは訓練を受けて疲れてるけど、エリンさんはその前に訓練を作って、当日は全部見て、終わったら反省点をまとめるんだよね」

 

「……改めて考えると、すごいですね」

 

 ミラが小さく言う。

 

 ククルはさっきまでの疲れた顔から、少し真剣な表情になった。

 

「エリンさん、ちゃんと休んでるのかな」

 

「そこなんだよね」

 

 エマが着替えながら言った。

 

「エリンさん、みんなには休んでって言うけど、自分は仕事を残さないようにしてる気がする」

 

「報告書も早いしね」

 

 カイエが頷く。

 

「今日のシミュレーションの反省点も、たぶんもう頭の中で整理していると思う」

 

「私たちが足パンパンって言ってる間に?」

 

「たぶん」

 

 全員がしばらく黙った。

 

 何となく、想像できてしまったからだ。

 

 エリンが静かな顔で端末に向かい、今日の訓練記録を打ち込み、一人ひとりの課題を整理している姿。

 ククルの足音。

 エマの声かけ順。

 カイエの指示の硬さ。

 ミラの視野の狭さ。

 全部を丁寧に残して、次につなげようとしている姿。

 

 ククルは少しだけ申し訳なさそうに言った。

 

「……今度、何か差し入れしようかな」

 

「それなら甘いものがいいんじゃない?」

 

 エマが言う。

 

「いや、エリンさんって甘いもの食べる?」

 

「食べるけど、ペルシアさんみたいに大騒ぎしながらは食べないね」

 

 カイエの言葉に、みんなが笑った。

 

 ペルシアの名前が出ると、空気が少しだけ明るくなる。

 

 ミラがそっと言った。

 

「ペルシアさん、元気そうでしたね」

 

「電話、嵐みたいだったけどね」

 

 ククルが笑う。

 

「リュウジさんに操縦を見てもらいたい子達って、どんな人達なんだろ」

 

「ペルシアさんの直属チームなら、きっとすごい人達なんでしょうね」

 

 エマが言う。

 

 カイエは柔らかく頷いた。

 

「それに、ペルシアさんが選んだ人達なら、ただ強いだけじゃないと思う。きっと現場で信頼できる人達なんだと思うよ」

 

「会うの緊張しますね……」

 

 ミラが言う。

 

「大丈夫だよ、ミラ」

 

 ククルが笑う。

 

「ペルシアさんの知り合いなら、たぶん最初から普通じゃないから!」

 

「それは大丈夫なんですか!?」

 

 ミラが目を丸くし、また笑いが起きた。

 

 着替えながら、エマがぽんと手を打つ。

 

「そうだ。疲れたし、仕事が終わったらみんなでスイーツでも食べに行かない?」

 

「賛成!」

 

 ククルが即答した。

 

「私、今日は絶対甘いもの食べたい!」

 

「私も行きたいです!」

 

 ミラも少し元気を取り戻したように手を上げる。

 

 エマはカイエを見る。

 

「カイエは?」

 

 カイエは少しだけ申し訳なさそうに首を横に振った。

 

「私はパスで」

 

「えー、カイエも行こうよ」

 

 ククルが残念そうに言う。

 

「ごめん。今日は新作ゲームの配信日だから」

 

 あまりにも真面目な顔で言うので、ククルは一瞬固まった。

 

「……そっち優先なんだ」

 

「うん。今日だけは譲れない」

 

 カイエの声は柔らかいが、決意は固かった。

 

 エマが笑う。

 

「カイエらしいね」

 

「徹夜はしないでくださいね?」

 

 ミラが心配そうに言う。

 

「大丈夫。たぶん」

 

「たぶんなんですね……」

 

「休みの前じゃないから、ほどほどにするよ」

 

 カイエはそう言って微笑んだが、その笑みに少しだけ信用できないものを感じたのか、ミラは不安そうな顔をした。

 

 ククルは立ち上がり、軽く伸びをする。

 

「じゃあ、今日はエマとミラと私でスイーツだね!」

 

「あと、誰か誘えたら誘ってもいいかも」

 

 エマが言う。

 

「エリンさんは?」

 

 ミラが聞く。

 

「誘いたいけど、たぶん仕事するよね」

 

 ククルが少し肩を落とす。

 

「リュウジさんは?」

 

 エマがふと口にした。

 

 ククルとミラが同時にエマを見る。

 

「リュウジさんをスイーツに?」

 

「うん。甘いものを食べるイメージはあまりないけど、誘ってみてもいいかなって」

 

「確かに、意外と来てくれるかも」

 

 ククルが頷く。

 

「リュウジさん、無口だけど付き合い悪いわけじゃないし」

 

「私は少し緊張します……」

 

 ミラが小さく言う。

 

「大丈夫。リュウジさん、怖そうに見えるけど優しいよ」

 

 エマが穏やかに笑った。

 

 カイエも頷く。

 

「そうだね。ミラが話すことに詰まっても、リュウジさんは無理に急かしたりしないと思うよ」

 

「そうなんですね」

 

 ミラは少し安心したように頷いた。

 

 全員が着替え終わると、更衣室を出た。

 

 

 更衣室からフロアへ戻る途中、廊下の向こうから一人の男性が歩いてくるのが見えた。

 

 リュウジだった。

 

 首にはタオルをかけ、髪の先は少し湿っている。

 午後のトレーニングを終えたばかりなのだろう。黒いトレーニングウェアの袖を軽くまくり、片手には水のボトルを持っている。

 

 歩き方はいつも通り静かだった。

 だが、近づくと体温の高さと、運動後のわずかな息遣いが分かる。

 

 ククルが小さく言った。

 

「あ、リュウジさんだ」

 

 ミラは反射的に背筋を伸ばした。

 

「お、お疲れ様です!」

 

 リュウジは足を止め、軽く頷いた。

 

「お疲れ」

 

 カイエも柔らかく声をかける。

 

「トレーニング終わりですか?」

 

「ああ。軽く動いてきただけだ」

 

「軽く……」

 

 ククルがリュウジの様子を見て呟く。

 

「リュウジさんの軽くって、絶対私たちの全力よりきついですよね」

 

「そんなことはない」

 

「ありますよ」

 

 エマがくすりと笑う。

 

 リュウジは少しだけ困ったような顔をした。

 

 そこでエマが、ふと思い出したように言う。

 

「リュウジさん」

 

「何だ?」

 

「今日、仕事が終わったら、私たちでスイーツを食べに行こうと思っているんです。リュウジさんもよければ一緒にどうですか?」

 

 ククルとミラが少し緊張したようにリュウジを見る。

 

 リュウジは一瞬だけ考えた。

 

「俺が行ってもいいのか?」

 

「もちろんです」

 

 エマが微笑む。

 

「今日はエリンさんのシミュレーションでみんな疲れたので、甘いものでも食べて回復しようかと」

 

「なるほど」

 

 リュウジは頷いた。

 

「構わない」

 

 ククルの顔が明るくなる。

 

「本当ですか?」

 

「ああ」

 

「やった! リュウジさんがスイーツ食べるところ、ちょっと見てみたかったんです!」

 

「そんなに珍しいか?」

 

「珍しいです!」

 

 ククルが即答する。

 

 リュウジは少しだけ眉を下げた。

 

「……そうか」

 

 ミラが慌てて言う。

 

「あ、でも、無理に甘いものじゃなくても、お茶だけでも大丈夫です!」

 

「いや、食べられないわけじゃない」

 

「そうなんですか?」

 

「ああ」

 

 リュウジは少し考えてから言った。

 

「甘すぎないものなら」

 

 エマが嬉しそうに頷く。

 

「では、チーズケーキとか良さそうですね」

 

「それなら大丈夫だと思う」

 

 カイエが横で少し笑った。

 

「私は今日は行けませんが、楽しんできてください」

 

「カイエ、本当に来ないの?」

 

 ククルがもう一度聞く。

 

「うん。ゲームがあるから」

 

「ぶれないね……」

 

「ぶれないよ」

 

 カイエは穏やかな顔で言った。

 

 リュウジはそのやり取りを見て、少しだけ口元を緩めた。

 

「カイエらしいな」

 

「リュウジさんまで……」

 

 カイエは照れたように笑った。

 

 その時、ミラが少し遠慮がちに言う。

 

「あの、エリンさんも誘いますか?」

 

 全員が一瞬だけ顔を見合わせた。

 

 ククルが言う。

 

「誘いたい!」

 

 エマも頷く。

 

「そうですね。お忙しいかもしれませんが、声だけでもかけてみましょう」

 

 リュウジは少しだけ視線を落とした。

 

「エリンさんは、たぶん報告書を作ると思う」

 

「やっぱりそうですよね」

 

 エマが苦笑する。

 

「でも、リュウジさんがそう思うってことは、本当にそうなんでしょうね」

 

「……どういう意味だ?」

 

「いえ、何でもありません」

 

 エマが微笑む。

 

 ククルとミラは小さく目を合わせた。

 

 以前なら、ここで二人の関係をからかう流れになったかもしれない。

 だが、今日はエリンのシミュレーションで散々しごかれた直後だ。

 迂闊にからかう勇気は、誰にもなかった。

 

「じゃあ、フロアに戻ったらエリンさんにも聞いてみますね」

 

 エマが言った。

 

 

 フロアに戻ると、エリンは予想通り端末に向かっていた。

 

 今日のシミュレーション資料を開き、各員の動き、判断、改善点を入力している。

 画面には既にかなりの量の記録が並んでいた。

 

 エマはその姿を見て、少しだけ苦笑した。

 

「やっぱり……」

 

 ククルが小声で言う。

 

「もう書いてる……」

 

 ミラも驚いたように見つめる。

 

「本当に早いですね……」

 

 カイエは静かに頷いた。

 

「たぶん、訓練中から整理していたんだと思う」

 

 リュウジはその少し後ろで立ち止まり、エリンの横顔を見た。

 

 集中している。

 けれど、無理をしているようにも見える。

 疲れていないはずがないのに、姿勢は崩さず、指は止まらない。

 

 エマが近づき、柔らかく声をかけた。

 

「エリンさん」

 

 エリンが顔を上げる。

 

「どうしたの?」

 

「今日、仕事が終わったら、ククルとミラとリュウジさんと一緒にスイーツを食べに行こうと思っているんです。エリンさんも、よかったら一緒にどうですか?」

 

 エリンは少しだけ驚いた顔をした。

 

「スイーツ?」

 

「はい。今日のシミュレーションでみんな疲れたので、甘いものでも食べて回復しようかと」

 

 ククルが横から顔を出す。

 

「エリンさんも行きましょうよ! たまには息抜きしましょう!」

 

 ミラも緊張しながら言う。

 

「ご、ご一緒できたら嬉しいです」

 

 カイエも少し控えめに微笑む。

 

「私は今日は行けませんが、エリンさんも少し休まれた方がいいと思います」

 

 リュウジは何も言わなかった。

 

 ただ、エリンを見る。

 

 エリンはその視線に気づき、少しだけ目を合わせた。

 

 ほんの一瞬だけ、迷うような表情を見せた。

 

 行きたい気持ちがないわけではない。

 それは、見ていれば分かった。

 

 けれど、エリンはすぐに柔らかく微笑んだ。

 

「ごめんね。私は今日はやめておくわ」

 

「ええー……」

 

 ククルが残念そうに声を漏らす。

 

「報告書ですか?」

 

 エマが聞く。

 

「ええ。今日のシミュレーションは、次に繋げたいところが多かったから。忘れないうちにまとめておきたいの」

 

「やっぱり……」

 

 ククルが肩を落とす。

 

 エリンは申し訳なさそうに笑った。

 

「誘ってくれてありがとう。みんなで楽しんできて」

 

 ミラが少し心配そうに言う。

 

「あの、エリンさんも、あまり無理しないでくださいね」

 

 エリンは一瞬だけ目を丸くした後、優しく微笑んだ。

 

「ありがとう、ミラ。大丈夫よ」

 

 カイエが静かに言う。

 

「エリンさんの大丈夫は、少し信用できない時があります」

 

「カイエまでそんなこと言うの?」

 

 エリンが苦笑する。

 

「はい。今日のシミュレーションを見ていると、余計にそう思います」

 

 その言葉に、エリンは少しだけ困ったような顔をした。

 

 リュウジがそこで口を開いた。

 

「エリンさん」

 

「何?」

 

「後で、何か買ってきます」

 

 エリンは驚いたようにリュウジを見た。

 

「え?」

 

「甘すぎないものがいいですか?」

 

 その言い方は自然だった。

 押しつけではない。

 断らせる隙も少ない。

 ただ、当然のように気遣っている。

 

 エリンは一瞬、言葉を失った。

 

 ククル、エマ、ミラは目を丸くする。

 カイエは少しだけ口元を緩めた。

 

 エリンは照れたように視線を逸らした。

 

「……そんな、悪いわ」

 

「ついでです」

 

「でも」

 

「食べられそうなものを選びます」

 

 リュウジの声は穏やかだった。

 

 エリンは少しだけ頬を染め、やがて小さく頷いた。

 

「……じゃあ、甘すぎないものをお願い」

 

「分かりました」

 

 エマがにこにこしながら言う。

 

「チーズケーキがよさそうですね」

 

「それ、リュウジさんも食べるって言ってましたよね」

 

 ククルが楽しそうに言う。

 

「二つ買えばいい」

 

 リュウジが淡々と言う。

 

 その淡々とした返しに、エマが笑った。

 

 ミラは小声で呟く。

 

「やっぱり、自然ですね……」

 

 カイエが横で小さく頷く。

 

「そうだね」

 

 エリンはその二人の声が聞こえたのか、少しだけ目を細めた。

 

「ミラ、カイエ?」

 

「な、何でもありません!」

 

 ミラは慌てて背筋を伸ばした。

 

 カイエは柔らかく笑ってごまかした。

 

 エリンはため息をつきながらも、どこか嬉しそうだった。

 

「本当に、みんなすぐそうやって……」

 

「何も言ってませんよ」

 

 エマが微笑む。

 

「そういう顔をしてるのよ」

 

「顔は隠せませんね」

 

 ククルが笑い、エリンに視線を向けられてすぐに口を閉じた。

 

 タツヤ班長は少し離れた席から、そのやり取りを見ていた。

 

「いいねぇ、若いねぇ」

 

「班長」

 

 エリンが鋭く呼ぶ。

 

「何でもないよ。みんな、スイーツ楽しんできな」

 

 タツヤはゆるく手を振った。

 

「エリンは報告書ほどほどにね。根を詰めすぎると、ペルシアみたいに宇宙警察に捕まるよ」

 

「どういう理屈ですか」

 

 エリンが呆れる。

 

 ククルが笑った。

 

「でもペルシアさんなら、報告書から宇宙警察に繋がる何かを起こしそうです」

 

「否定できないわね」

 

 エマが言う。

 

 リュウジも小さく息を吐いた。

 

「否定できないな」

 

 事務所にまた笑いが広がる。

 

 エリンはその笑いを聞きながら、少しだけ肩の力を抜いた。

 

 行くことはできない。

 まだやることがある。

 今日のシミュレーションの反省点は、熱が残っているうちに書きたい。

 

 けれど、みんなが自分を気遣ってくれたことは、素直に嬉しかった。

 

 エリンは端末へ視線を戻しながら、静かに言った。

 

「楽しんできてね」

 

「はい!」

 

 ククルとミラが元気よく返事をする。

 

「エリンさんの分、ちゃんと選んできますね」

 

 エマが言う。

 

「ありがとう」

 

 リュウジはエリンを見て、静かに頷いた。

 

「行ってきます」

 

「行ってらっしゃい、リュウジ」

 

 自然なやり取りだった。

 

 ただ、その自然さが、周囲には少し特別に見えた。

 

 ククルは言いたいことをぐっと飲み込み、エマは楽しそうに微笑み、ミラは頬を赤くし、カイエは「言わない方がいい」と判断して黙っていた。

 

 リュウジはその空気に気づいているのかいないのか、いつも通りだった。

 

 エリンだけが少しだけ頬を染め、何事もなかったように端末へ向き直る。

 

 そして、ククル、エマ、ミラ、リュウジは、仕事終わりのスイーツを楽しみにしながら、それぞれ残りの業務へ戻っていった。

 

 カイエは自席へ戻る前に、エリンへそっと声をかけた。

 

「エリンさん」

 

「何?」

 

「本当に、無理はしないでくださいね」

 

 エリンは少し驚いた後、柔らかく笑った。

 

「ありがとう、カイエ。今日はほどほどにするわ」

 

「その言葉、信じています」

 

「厳しいわね」

 

「エリンさんの指導のおかげです」

 

 カイエはそう言って微笑み、自席へ戻った。

 

 エリンはしばらくその背中を見つめていた。

 

 みんな、少しずつ変わっている。

 

 ククルは勢いだけではなく、周囲を見ようとしている。

 エマは穏やかさの中に、判断の早さが出てきた。

 カイエは柔らかく人を導けるようになっている。

 ミラは怯えず、一歩前へ出ようとしている。

 リュウジは相変わらず静かだけれど、必要な時に自然と支えてくれる。

 

 そして、遠く離れたペルシアも、新しい場所で新しいチームを作ろうとしている。

 

 エリンは端末に向き直り、今日の記録を入力し始めた。

 

 疲れはある。

 足も少し重い。

 でも、胸の奥は不思議と温かかった。

 

 画面に、今日の総評を書き込む。

 

『全体として、複合事案への対応力は向上。各員に課題は残るが、相互支援の意識が強くなっている。次回は、判断速度と声かけの質を重点的に確認する』

 

 そこで一度手を止める。

 

 そして、小さく付け加えた。

 

『無理をさせすぎないよう、訓練後の休息も考慮すること』

 

 エリンはその一文を見て、少しだけ苦笑した。

 

「……私もね」

 

 誰にも聞こえない声で呟く。

 

 そして、また静かに作業を続けた。

 

 

 

ーーーー

 

 

 

 仕事終わりのフロアは、少しだけいつもより柔らかい空気に包まれていた。

 

 午後のエリンによるシミュレーションの疲れはまだ足に残っている。

 ククルは歩きながらも、時々ふくらはぎをさすり、ミラは背筋を伸ばそうとしながらも、足取りが少しだけぎこちない。エマだけは、疲れているはずなのに、どこか足取りが軽かった。

 

 理由は明白だった。

 

「スイーツ……」

 

 エマが小さく呟く。

 

 その声が、心の底から楽しみにしている人の声だったので、ククルは思わず笑った。

 

「エマ、もう顔が幸せそうだよ」

 

「だって、今日の訓練は本当に頑張ったもの。頑張った後の甘いものは、必要な栄養だよ」

 

「それ、ペルシアさんが言いそうですね」

 

 ミラが遠慮がちに言うと、エマはにっこり笑った。

 

「確かに。ペルシアさんなら、甘いものとお酒は心の燃料って言いそう」

 

「言いそう!」

 

 ククルが声を弾ませる。

 

「それでエリンさんに怒られるんだよね。『燃料にしては摂りすぎよ』って」

 

「そしてペルシアさんが『私は燃費が悪いのよ』って返すんですね」

 

 ミラが少し楽しそうに言う。

 

 ククルとエマが同時に笑った。

 

 リュウジはその少し後ろを歩いていた。

 仕事終わりの上着に着替えているが、姿勢はいつも通り静かで、歩幅も一定だ。首にかけていたタオルはもうない。トレーニング後の熱も少し落ち着いたのか、表情はいつもの穏やかな無表情に戻っている。

 

 だが、女性三人が楽しそうに話しているのを、どこか柔らかい目で見ていた。

 

 ククルが振り返る。

 

「リュウジさん、スイーツのお店ってよく行くんですか?」

 

「いや、あまり行かないな」

 

「ですよね!」

 

「なぜ嬉しそうなんだ?」

 

「だって、リュウジさんがケーキ屋さんにいるところって、ちょっと想像できなくて」

 

 ククルが正直に言うと、ミラが慌てた。

 

「ク、ククルさん!」

 

「え? でもそうじゃない?」

 

「それは……少し分かりますけど……」

 

 ミラがちらりとリュウジを見る。

 

「リュウジさん、すみません」

 

「謝ることじゃない」

 

 リュウジは淡々と言った。

 

「確かに、自分でもあまり似合う場所ではないと思う」

 

「そ、そんなことはありません!」

 

 ミラが必死に首を横に振る。

 

「リュウジさんは、どこにいても落ち着いていて、その……」

 

 言いかけて、ミラは言葉を探すように視線を泳がせた。

 

 エマが横から助け舟を出す。

 

「大人っぽい雰囲気だから、スイーツのお店にいても逆に目立ちそうですね」

 

「そうそう!」

 

 ククルが頷く。

 

「甘いケーキの中に、一人だけブラックコーヒーみたいな感じ!」

 

「それは褒めているのか?」

 

 リュウジが少し眉を下げる。

 

「褒めてます!」

 

 ククルが即答する。

 

 エマはくすくす笑い、ミラは安心したように胸を撫で下ろした。

 

 目的の店は、宇宙事業部フロアから少し離れた商業区画にあった。

 

 ガラス張りの外観に、柔らかな照明。

 入口には季節限定メニューの看板が立っている。ケーキだけではなく、アイスクリーム、プリン、焼き菓子、タルト、パフェまであるらしい。夕方ということもあり、店内は仕事帰りの人や学生風の客でほどよく賑わっていた。

 

 ククルは入口の看板を見るなり、目を輝かせた。

 

「うわぁ、種類多い!」

 

 ミラも思わず身を乗り出す。

 

「プリンもあります……!」

 

 エマは看板を見つめたまま、静かに息を吸った。

 

「これは……迷うね」

 

 その声は真剣だった。

 

 リュウジは一歩引いた位置で、店内を見渡す。

 

「混んでいるな」

 

「でも席は空いてそうですよ」

 

 エマが奥を指差す。

 

「先に席を取ってから選びましょうか」

 

 四人は店内へ入り、奥の四人掛けのテーブルを確保した。

 

 ショーケースには、色とりどりのケーキが並んでいる。

 ショートケーキ、チョコレートケーキ、チーズケーキ、ミルフィーユ、モンブラン、ベリータルト、抹茶ロール。

 別の棚には、フィナンシェ、マドレーヌ、クッキー、スコーンなどの焼き菓子。

 さらに奥にはアイスクリームのコーナーがあり、バニラ、チョコ、ストロベリー、ピスタチオ、キャラメル、季節限定の柑橘シャーベットまで揃っていた。

 

 ククルはショーケースの前で腕を組んだ。

 

「これは……戦いだね」

 

「何と戦うんですか?」

 

 ミラが聞く。

 

「胃袋と予算と欲望」

 

「欲望……」

 

 ミラは少し困ったように笑った。

 

 エマは真剣な目でショーケースを見ている。

 

「ショートケーキもいいし、チョコレートもいいし、タルトも綺麗だし、アイスも捨てがたい……」

 

 ククルが横から覗き込む。

 

「エマ、目が本気だよ」

 

「スイーツに対してはいつでも本気だよ」

 

「そういうところ、好き」

 

「ありがとう」

 

 二人が笑い合う。

 

 ミラは少し悩んだ末、プリンの前で足を止めた。

 

 小さなガラス容器に入った、なめらかそうなプリン。上には薄いカラメルの層があり、横には小さな生クリームと果物が添えられている。

 

「私は……これにします」

 

「プリン?」

 

 ククルが聞く。

 

「はい。こういうシンプルなのが好きで……」

 

「ミラっぽいね」

 

「そうでしょうか?」

 

「うん。優しくて、ちゃんとしてる感じ」

 

「プリンにちゃんとしてるってありますか?」

 

 ミラが少し笑う。

 

 ククルは堂々と言った。

 

「あるよ! プリンはちゃんとしてる!」

 

 リュウジはショーケースを見渡した後、ケーキには向かわず、焼き菓子の棚の前で足を止めた。

 

 フィナンシェとナッツ入りのビスコッティ。

 それから、小さなスコーン。

 

 少し考えて、フィナンシェとビスコッティを一つずつ取り、飲み物はコーヒーにした。

 

 ククルがそれを見て、目を丸くする。

 

「あ、リュウジさん、ケーキじゃないんですね」

 

「ああ。甘すぎない方がいい」

 

「本当にブラックコーヒーみたいな選び方ですね」

 

「そうか?」

 

「はい。渋いです」

 

 リュウジは少しだけ困った顔をした。

 

「渋いのか」

 

 その一方で、ククルはショートケーキを複数選んでいた。

 

 普通のショートケーキ。

 苺が多めのショートケーキ。

 季節限定の桃のショートケーキ。

 

 トレーの上に三つ並べて、満足そうに頷く。

 

「うん、今日はこれ!」

 

 ミラが驚く。

 

「ククルさん、三つも食べるんですか?」

 

「大丈夫! 訓練で動いたから!」

 

「そういう理屈なんですね……」

 

「ミラもプリンだけで足りる?」

 

「はい、私はこれで十分です」

 

「遠慮してない?」

 

「してません!」

 

 ミラが慌てて言う。

 

 ククルは笑いながら頷いた。

 

「じゃあ、足りなかったら分けてあげるね」

 

「ありがとうございます」

 

 そして、エマ。

 

 エマはしばらく悩んだ末、店員に次々と注文していった。

 

「ショートケーキを一つ、チョコレートケーキを一つ、ベリータルトを一つ、チーズケーキを一つ、モンブランもお願いします。あと、アイスのキャラメルとピスタチオを小さめで。それから焼き菓子のフィナンシェも二つ……」

 

 ククルが固まった。

 

 ミラも固まった。

 

 リュウジですら、少しだけ目を見開いた。

 

 店員が確認する。

 

「お持ち帰りでしょうか?」

 

 エマはにこりと微笑んだ。

 

「店内で」

 

 沈黙。

 

 ククルが震える声で言った。

 

「エマ……それ、全部食べるの?」

 

「うん」

 

「え、ええ……」

 

 さすがのククルも少し引いた。

 

 ミラは両手を胸の前で握りしめたまま、ぽかんとしている。

 

「エマさん……すごいです……」

 

 リュウジはエマのトレーに積まれていくケーキを見て、静かに言った。

 

「……倒れないのか?」

 

 エマは穏やかに笑った。

 

「大丈夫です。甘いものは別腹です」

 

「別腹にも限界があるだろう」

 

「今日は広めの別腹です」

 

 ククルが思わず吹き出した。

 

「広めの別腹って何!?」

 

 エマは両手に山ほどのケーキを乗せたトレーを持ち、幸せそうに戻ってきた。

 

 その姿は、まるで宝物を抱えているようだった。

 ただし、量が多い。

 

 席に戻ると、テーブルの上は一気に華やかになった。

 

 ククルのショートケーキ三種。

 ミラのプリン。

 リュウジの焼き菓子とコーヒー。

 そして、エマの山ほどのケーキとアイスと焼き菓子。

 

 さすがに、四人掛けのテーブルが少し狭く感じるほどだった。

 

 ククルはエマの前を見て、改めて言った。

 

「……エマ、ほんとにすごいね」

 

「そう?」

 

「うん。尊敬と心配が半分ずつ」

 

「心配しなくて大丈夫。ちゃんと味わって食べるから」

 

「量の問題なんだけどなぁ」

 

 ミラが小さく笑った。

 

 エマはまずベリータルトをフォークで一口切り取り、目を閉じて味わった。

 

「……おいしい」

 

 その一言に、すべての感情が込められていた。

 

 ククルもショートケーキにフォークを入れる。

 

「いただきます!」

 

 大きめに一口食べると、ぱっと顔を輝かせた。

 

「おいしい! 疲れが消える!」

 

「本当に幸せそうですね」

 

 ミラが笑う。

 

 自分もプリンを一口食べる。

 なめらかなプリンが口の中でほどけ、カラメルのほろ苦さが広がる。

 

「……おいしいです」

 

 ミラの顔がほっと緩んだ。

 

 リュウジはコーヒーを一口飲み、ビスコッティをかじった。

 

 硬い焼き菓子が、静かに音を立てる。

 

 ククルがじっと見ている。

 

「リュウジさん、それおいしいですか?」

 

「ああ。甘すぎなくていい」

 

「ちょっともらってもいいですか?」

 

「構わない」

 

 リュウジはビスコッティを一つ割って、ククルの皿へ置いた。

 

「ありがとうございます!」

 

 ククルはそれを口に入れ、少し驚いた顔をした。

 

「硬い。でもおいしい。コーヒーに合いそう」

 

「そうだな」

 

「リュウジさんっぽい味です」

 

「俺っぽい味とは何だ?」

 

「落ち着いてて、甘すぎなくて、でもちゃんとおいしい感じです」

 

 リュウジは少しだけ黙った。

 

「……そうか」

 

 エマがくすりと笑う。

 

「褒め言葉ですよ」

 

「分かっている」

 

「本当に?」

 

「たぶん」

 

 その返しに、ククルが笑った。

 

 しばらく、四人はそれぞれのスイーツを楽しんだ。

 

 仕事の疲れ。

 シミュレーションの緊張。

 エリンの鋭い指摘。

 そういったものが、甘いものと温かい飲み物で少しずつ溶けていくようだった。

 

 エマはチョコレートケーキを食べながら、ふと口を開いた。

 

「今日のシミュレーション、やっぱり難しかったですね」

 

 ククルが頷く。

 

「難しかった。私、荷物棚の音に気づくの遅れたもん」

 

「でも、途中でちゃんと気づいて対応できていましたよ」

 

 ミラが言う。

 

「エリンさんにも、そこは前より良くなったって言われてました」

 

「そうかな?」

 

「はい」

 

 ミラが真面目に頷くと、ククルは少し照れた。

 

「ミラにそう言われると嬉しいな」

 

「私も、ククルさんみたいにすぐ動けるようになりたいです」

 

「いやいや、私なんて動きすぎて怒られるんだよ。『ククル、走らない』って」

 

 ククルはエリンの口調を真似るように言う。

 

 エマが笑った。

 

「似てる」

 

「似てますか?」

 

 ミラも少し笑う。

 

「はい、少しだけ」

 

 ククルは得意げに胸を張る。

 

「でしょ?」

 

 リュウジは静かにコーヒーを飲んでいたが、ふと口を開いた。

 

「ククルは反応が早い」

 

 ククルが目を丸くする。

 

「え?」

 

「ただ、早さがそのまま足音や声に出ることがある。そこが落ち着けば、もっと良くなると思う」

 

 ククルは一瞬固まった後、ぱっと顔を輝かせた。

 

「リュウジさんに褒められた!」

 

「褒めたつもりだ」

 

「ありがとうございます!」

 

 ククルは嬉しそうにショートケーキをもう一口食べた。

 

 エマがリュウジを見る。

 

「リュウジさん、よく見ていますね」

 

「シミュレーションの様子は少し見えたからな」

 

「見ていたんですか?」

 

「通りがかった時に少しだけ」

 

 ミラが緊張した顔になる。

 

「わ、私の動きも見ていましたか?」

 

「ああ」

 

「ど、どうでしたか……?」

 

 ミラの声が少し震える。

 

 リュウジは少し考えた。

 

「最初より、周りを見ようとしていた」

 

 ミラの表情が明るくなる。

 

「本当ですか?」

 

「ああ。ただ、目の前の相手に意識が向くと、足が止まることがある」

 

「はい……」

 

「でも、それは悪いことだけじゃない。相手をちゃんと見ようとしているからだ。あとは、止まらずに周りも見る練習をすればいい」

 

 ミラはじっとリュウジを見た。

 

 そして、少しだけ目を潤ませた。

 

「ありがとうございます、リュウジさん」

 

「礼を言われるほどのことじゃない」

 

「いえ、嬉しいです」

 

 エマが優しく微笑んだ。

 

「よかったね、ミラ」

 

「はい」

 

 ミラはプリンを一口食べ、少しだけ元気を取り戻したようだった。

 

 ククルがにやりと笑う。

 

「リュウジさん、やっぱり教えるの上手いですね。ペルシアさんが操縦を見てもらいたい子達がいるって言ってたの、分かる気がします」

 

 その言葉に、全員の意識がペルシアの話へ移った。

 

 エマがフォークを置く。

 

「ペルシアさんの直属チーム……どんな方達なんでしょうね」

 

「操縦を見てもらいたいってことは、パイロットがいるんですよね?」

 

 ミラが言う。

 

 リュウジは静かに頷く。

 

「おそらくな」

 

「リュウジさんは心当たりありますか?」

 

「ない。だが、ペルシアがわざわざ俺に見せたいというなら、普通の操縦士ではないと思う」

 

「普通じゃない……」

 

 ミラは少し不安そうに呟いた。

 

 ククルは逆に目を輝かせる。

 

「すごい人達なのかな。宇宙管理局の直属チームって、なんか響きだけでかっこいい!」

 

 エマは山ほどのケーキのうち、三つ目に手をつけながら言う。

 

「でも、ペルシアさんが選んだなら、個性も強そうですよね」

 

「絶対強いですよ」

 

 ククルが断言する。

 

「だってペルシアさんですよ? 普通の人連れてくるわけないです」

 

「それは分かる」

 

 リュウジが静かに言ったので、三人が思わず笑った。

 

 ミラが少し心配そうに言う。

 

「私、ちゃんと挨拶できるでしょうか……」

 

「ミラなら大丈夫」

 

 エマが言う。

 

「緊張しても、ちゃんと丁寧に挨拶できるもの」

 

「そうですか?」

 

「うん。ミラは一生懸命なのが伝わるから」

 

 ククルも頷く。

 

「そうそう。ミラは真面目で可愛いから大丈夫!」

 

「か、可愛いは関係ないです!」

 

 ミラが顔を赤くする。

 

 リュウジは少しだけ口元を緩めた。

 

「無理に取り繕う必要はない。普段通りでいい」

 

「はい……!」

 

 ミラは背筋を伸ばして頷いた。

 

 エマはその様子を見ながら、チーズケーキを一口食べた。

 

「それにしても、ペルシアさん、宇宙警察に捕まったって軽く言っていましたけど、本当に何があったんでしょうね」

 

「気になる!」

 

 ククルが身を乗り出す。

 

「絶対ただ事じゃないですよ。宇宙警察に捕まるって、相当ですよね?」

 

「普通は相当だな」

 

 リュウジが答える。

 

「でもペルシアさんなら、誰かを助けようとして揉めたとか、そんな気がします」

 

 ミラが言う。

 

 エマは少し考える。

 

「ペルシアさん、自分のためだけに暴れるタイプではない気がします」

 

「そうですね」

 

 ミラが頷く。

 

「十班の時も、エリンさんのために……」

 

 そこまで言いかけて、ミラは口を閉じた。

 

 あの頃のことは、まだ簡単に話せるものではない。

 ペルシアがドルトムントを離れるきっかけになった出来事。

 みんなにとって、少し痛みの残る記憶だった。

 

 ククルも少しだけ表情を落とした。

 

「ペルシアさん、無茶するもんね」

 

「そうですね」

 

 エマが静かに言う。

 

「でも、無茶をしてでも守りたいものがある人なんだと思います」

 

 リュウジはコーヒーを見つめたまま、低く言った。

 

「あいつは、自分を後回しにするところがある」

 

 その声には、少しだけ苦さがあった。

 

 ククルはそれに気づき、少しだけ黙った。

 

 エマが穏やかに話題を柔らかくする。

 

「だからこそ、今のチームにはペルシアさんを止めてくれる人がいるといいですね」

 

「さっき電話で言ってたクリスタルさん? でしたっけ」

 

 ククルが言う。

 

「エリンさんみたいに厳しいって言ってましたね」

 

 ミラが思い出す。

 

「じゃあ、少し安心です」

 

 リュウジは静かに頷いた。

 

「そうだな」

 

 テーブルの上では、エマのケーキが少しずつ減っていく。

 

 最初は全員引いていたが、エマが本当に幸せそうに、しかも綺麗に食べ進めていくので、だんだん不思議と感心に変わってきた。

 

 ククルがショートケーキ二つ目を食べながら言う。

 

「エマって、どうしてそんなに食べられるの?」

 

「好きだからかな」

 

「好きだけでこの量いける?」

 

「うん」

 

「すごい……」

 

 ミラも驚きながら見ている。

 

「でも、エマさんって食べ方が綺麗ですね。たくさんあるのに、全然慌てていないです」

 

「味わいたいから」

 

 エマは穏やかに答える。

 

「急いで食べるのはもったいないでしょう?」

 

「確かに……」

 

 ミラは自分のプリンを見つめ、少しゆっくり味わうように食べた。

 

 ククルはエマを見て笑う。

 

「エマ、スイーツの先生みたい」

 

「じゃあ、今日のシミュレーションの復習は、スイーツを味わいながら落ち着いて動くことにしようか」

 

「それ、エリンさんに言ったら怒られそう!」

 

「でも、落ち着く練習にはなるかもしれないよ」

 

 エマが真面目に言うので、ククルは少し考えた。

 

「……確かに。私、何でも勢いでいっちゃうから、スイーツみたいにゆっくり味わう練習した方がいいのかも」

 

「ククルさんがスイーツをゆっくり……」

 

 ミラが想像しようとして、少し笑う。

 

「何で笑うの、ミラ!」

 

「す、すみません。でも、少し可愛くて」

 

「可愛いなら許す!」

 

 ククルが胸を張る。

 

 リュウジはそのやり取りを見ながら、フィナンシェを半分残した。

 

 エマが気づく。

 

「リュウジさん、それはエリンさん用ですか?」

 

「いや、エリンさんには別に買う。これは後で食べる」

 

「そうでしたか」

 

 エマは微笑んだ。

 

「エリンさんには何を買います?」

 

「甘すぎないものがいいと言っていた。チーズケーキか、焼き菓子にする」

 

「チーズケーキ、ここのはおいしいですよ」

 

「なら、それにする」

 

 ククルがにやにやしながら言う。

 

「リュウジさん、エリンさんの好み分かってますね」

 

 リュウジは少しだけ眉を動かした。

 

「さっき本人が甘すぎないものと言っていた」

 

「それだけですか?」

 

「それだけだ」

 

「本当に?」

 

「ククル」

 

 リュウジの声は静かだったが、少しだけ圧があった。

 

 ククルはすぐに姿勢を正した。

 

「すみません!」

 

 エマは楽しそうに笑い、ミラは頬を赤くして視線を落とした。

 

「でも、エリンさん喜ぶと思います」

 

 ミラが小さく言う。

 

 リュウジは少しだけ目を伏せた。

 

「そうだといいな」

 

 その声が思ったより柔らかくて、三人は一瞬だけ黙った。

 

 ククルは言いたいことが山ほどあったが、ぐっと飲み込んだ。

 エマはにこにこしながらケーキを食べ続けた。

 ミラは心の中で「やっぱり自然です」と思ったが、口には出さなかった。

 

 しばらくして、四人はそれぞれ飲み物を追加した。

 

 ククルは紅茶。

 ミラはカフェオレ。

 エマはアイスクリームを追加しようとして、さすがにククルに止められた。

 

「エマ、まだ食べるの!?」

 

「小さいサイズなら」

 

「小さいサイズって言って、さっきも二種類頼んでたよ!」

 

「確かに」

 

 エマは少し考え、残っているケーキを見る。

 

「じゃあ、今日はここまでにしようかな」

 

「今日だけじゃなくて、普通はここまででも多いよ」

 

 ククルが突っ込む。

 

 リュウジはコーヒーを飲みながら言った。

 

「エマは体調を崩さないのか?」

 

「大丈夫です。甘いものでは崩しません」

 

「そういう問題なのか?」

 

「たぶん」

 

 エマの穏やかな返事に、リュウジは少しだけ困ったように黙った。

 

 ミラが笑いながら言う。

 

「今日、来てよかったです」

 

「疲れ、少し取れた?」

 

 エマが聞く。

 

「はい。まだ足はパンパンですけど、気持ちは軽くなりました」

 

「よかった!」

 

 ククルが嬉しそうに言う。

 

「また行こうね!」

 

「はい」

 

「今度はカイエも連れてこようよ。ゲームの配信日じゃない日に」

 

「そうですね」

 

 ミラが頷く。

 

「カイエさんにも、ゆっくり休んでほしいです」

 

「カイエはゲームが休息なんだと思うよ」

 

 エマが笑う。

 

 リュウジが静かに言う。

 

「人によって休み方は違うからな」

 

「リュウジさんの休み方は何ですか?」

 

 ククルが聞く。

 

「操縦訓練か、ランニングだな」

 

「それ、休みなんですか!?」

 

 ククルが驚く。

 

「身体を動かすと落ち着く」

 

「リュウジさんらしい……」

 

 ミラが感心する。

 

 エマが言う。

 

「エリンさんも、仕事を整理することで落ち着くタイプかもしれませんね」

 

「それは休みなのかな……」

 

 ククルが少し心配そうに言う。

 

 リュウジは黙っていたが、やがて静かに言った。

 

「だから、今日は少しでも食べてもらえればいい」

 

 その言葉に、三人はまた静かになった。

 

 リュウジは気づいていないのか、残ったコーヒーを飲み干した。

 

 ククルはエマに小声で言う。

 

「……これ、本人は普通に言ってるんだよね?」

 

「うん」

 

「だから余計に……」

 

「ね」

 

 ミラは両手でカップを持ったまま、小さく頷いた。

 

「素敵ですね」

 

 リュウジが顔を上げる。

 

「何が?」

 

 三人は同時に言った。

 

「何でもありません」

 

 リュウジは少しだけ不思議そうにしたが、それ以上は聞かなかった。

 

 やがて、店を出る時間になった。

 

 エマは驚くほど綺麗に大量のケーキを食べ終え、ククルはショートケーキ三つを満足そうに平らげ、ミラはプリンを大事に味わいきった。リュウジは焼き菓子とコーヒーを終え、エリンへのお土産としてチーズケーキと小さな焼き菓子を包んでもらった。

 

 店を出る頃には、外の照明が少し柔らかくなっていた。

 

 ククルは大きく伸びをする。

 

「はぁ〜、幸せ!」

 

「本当においしかったですね」

 

 ミラも微笑む。

 

「また来ましょうね」

 

 エマが言う。

 

「もちろん!」

 

 ククルが元気よく答えた。

 

 リュウジは手に持った小さな箱を見る。

 

「俺は先にフロアへ戻る」

 

「エリンさんに届けるんですね」

 

 エマが微笑む。

 

「ああ」

 

 ククルはにやにやしそうになったが、何とか抑えた。

 

「リュウジさん、エリンさんによろしく伝えてください!」

 

「分かった」

 

 ミラも丁寧に頭を下げる。

 

「今日はありがとうございました、リュウジさん」

 

「こちらこそ」

 

 リュウジは短く頷き、静かに歩き出した。

 

 その背中を見送りながら、ククルがぽつりと言う。

 

「……やっぱり、リュウジさんって優しいよね」

 

「うん」

 

 エマが頷く。

 

「静かだけど、ちゃんと見てくれている」

 

「エリンさんが頼るのも分かる気がします」

 

 ミラが言った。

 

 三人は顔を見合わせた。

 

 そして、同時に小さく笑った。

 

 今日の疲れはまだ残っている。

 明日もまた仕事がある。

 エリンのシミュレーションの反省も、きっと次に活かさなければならない。

 

 けれど、甘い時間は確かに心を軽くしてくれた。

 

 ククルは拳を握った。

 

「よし、明日も頑張ろ!」

 

「はい!」

 

 ミラが頷く。

 

「でも今日は、帰ったらゆっくり休みましょう」

 

 エマが言う。

 

「エマはもう何も食べないでね」

 

 ククルが言うと、エマは少しだけ考えた。

 

「……夜に少しだけ焼き菓子なら」

 

「食べるんだ!?」

 

 三人の笑い声が、夜の商業区画に明るく響いた。

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