火星のエアポートが近づくにつれて、窓の外の赤が濃くなっていった。
海の青の代わりに、乾いた大地の錆色。薄い大気に散る光は鈍く、それでも境界線だけははっきりしている。
機体は降下軌道に乗り、揺れもなく滑らかに速度を落とした。
リュウジは最後まで淡々と計器を読み、手順を崩さない。
自動操縦から手動へ。推力調整。姿勢制御。接地角。
着陸は見せ場じゃない。終わりの仕事だ。
終わりの仕事ほど、気を抜けない。
「接地」
軽い衝撃。
それだけで、火星に“帰ってきた”と分かる。
滑走、減速、停止。
システムは正常。警告なし。機体の心拍は落ち着いている。
搭乗ブリッジが繋がり、エアロックが開く。
客席の大物たちは、満足そうに――というより“当然の顔”で降りていく。
護衛と随行員が最後まで周囲を見て、機密ケースが運び出され、客室の空気がようやく軽くなる。
最後の乗客が降り、客室が空になった頃、操縦室に戻ってきたタツヤが、伸びをしながら言った。
「お疲れ様」
軽い声。
でもその軽さの下に、確かな安堵がある。
リュウジは一礼した。
「お疲れ様でした、タツヤ班長」
操縦席を離れる前に、リュウジは端末に着陸ログを残し、最後のチェックを終える。
そのまま、間髪入れずにタツヤへ尋ねた。
「次の操縦は何時からですか?」
タツヤが肩をすくめ、のらりと笑う。
「二時間後ってとこかな」
「了解しました」
リュウジは頷き、次の段取りを頭の中で組む。
休む時間に見えて、休めない時間。
次の機体の状態、航路、乗客構成、クルーの疲労――全部を繋げていかないといけない。
リュウジは続けて言った。
「整備士への引き継ぎは、任せていいですか?」
タツヤが目を丸くする。
「構わないけど……いいの? 初フライトなのに?」
“初フライト”という言葉は、普通なら余韻を楽しむために使う。
でもリュウジにとっては、余韻より次の仕事の方が先だった。
「ええ」
リュウジは即答する。
「次の宇宙船を見ておきたいんです。今のうちに」
タツヤは一瞬黙り、そして笑った。のらりくらりの笑いだ。
「真面目だね〜。……分かったよ」
「よろしくお願いします」
リュウジはそう言って、操縦室を後にした。
足取りは速い。
だが焦っている速さではない。次の準備に向かう速さだった。
⸻
火星エアポートの控え室――客室乗務員が集まる部屋は、温度が少し高い。
緊張が解けると、人は急に汗を感じる。
ヘアピンを外す音、制服の襟を整える音、誰かが水を飲む音。
現場が終わった後の“生活音”が戻ってくる場所だ。
エリンは壁際のホワイトボードの前に立ち、端末を開いた。
さっきまでの乾いた声は、少しだけ柔らかくなっている。
だが、仕事の芯は揺らがない。
「ブリーフィングを始めます」
全員が自然に姿勢を正す。
ここでは、誰もふざけない。
エリンが“チーフパーサーとしての覚悟”を持っているのを、全員が知っている。
「今回の航行、お疲れ様でした。まず大きなトラブルはありませんでした。
ただし、次のフライトまで時間がありません。情報はここで共有します。反省点、気づいた点、順番に」
エリンが目線を巡らせる。
誰が疲れているか、誰が言いづらそうにしているか、誰が遠慮しているか――
彼女はそれを全部見ているのに、見ていない顔で進行する。
最初に口を開いたのはペルシアだった。
椅子の背にもたれ、でも目は真面目。
「まぁ、いいんじゃない?」
軽い導入。空気を少しだけ緩める。
その上で、刺す。
「ただ、ククル。走りすぎ」
部屋の端に座っていた赤髪のツインテールの少女――ククルが、びくっと肩を震わせた。
「す、すみません……」
隣にいるカイエが、ククルをかばうように身を寄せる。
エリンが淡々と補足する。
「船内で走るのは危険です。次からは禁止。緊急でも、まず近くの乗務員を呼ぶ」
「はい……」
ククルが小さく頷く。
その横でカイエも頷いた。
エリンは一度だけ視線を柔らかくする。
責めるための場じゃない。次の事故を防ぐための場だ。
「ほかに」
ククルが、ためらいがちに手を上げた。
「あの……」
エリンが頷く。
「言って」
ククルは言葉を探しながら言った。
「地球の外周を周ってる時が……一番、落ち着けました」
カイエが、その言葉を引き取るように続ける。
「宇宙船の振動すら、なかった。……怖くなくて」
部屋の空気が、ほんの一瞬だけ静かになった。
それは驚きというより、確認に近い。
大人たちも、あの区間の“無音”を感じていた。
ペルシアが口角を上げる。
「だよね。あれ、気持ち悪いくらい揺れなかった」
「気持ち悪いは余計よ」
エリンが即座にツッコミを入れる。
けれど、そのツッコミは少しだけ柔らかい。
それが、疲れをほどく。
その時、控えめな声が割り込んだ。
柔らかな銀髪をボブにまとめ、上品な微笑を浮かべた女性――エマだ。
長い黒髪の乗務員とは別の、落ち着きの種類を持つ人だった。
「次の宇宙船は……古くて、よく揺れるんですよね」
言葉は丁寧。
でも、“よく揺れる”は現場では重要な情報だ。
それは酔い、体調不良、クレーム、そして事故に直結する。
ペルシアがすぐに反応した。
耳がいい人の反応は速い。
「なら、酔い止め多めに用意した方がいいね」
エリンが頷く。
「ええ。薬剤の在庫、ここで確認します。
あと、揺れが強い機体はドリンクサービスの順番も変える。熱いものはタイミングを選ぶ。
カート運用は二区画までに限定、状況次第で手持ち配布に切り替え」
エリンの指示は具体的で、迷いがない。
“覚悟”はこういうところに出る。
誰かが不安を口にする前に、先に手順を置く。
エマが上品に頷いた。
「ありがとうございます。あの機体、急に縦揺れが来ることが多いので……」
「なら、固定ベルトの案内を早めに入れましょう」
エリンは即答する。
「客が酔ってからでは遅い。酔う前に“心の準備”をさせる」
ペルシアが笑う。
「エリン、怖い〜」
「怖くない。仕事よ」
エリンは言い切ってから、全員を見渡した。
「他に共有ある人」
数人が短く報告する。
客の癖、護衛の動き、機密ケース周りの注意点、子ども二人の動線、スタッフルームの使用ルール。
どれも小さな話だが、小さい話ほど事故を防ぐ。
最後にエリンが端末を閉じた。
「よし。共有はここまで」
そして、チーフパーサーとして締める声になる。
「次のフライトは二時間後。あと十分したら準備に移るわよ。各自、補給と確認。動線の再確認も。以上」
「はい」と声が揃う。
控え室の空気が、もう一度“仕事”へ戻った。
ペルシアがククルの頭を軽く小突く。
「次、走ったら私が足引っ掛けるからね」
「ええっ!?」
「冗談。……半分」
「半分!?」
ククルが慌てるのを見て、カイエが小さく笑った。
その笑いが、控え室の緊張をほんの少しだけ溶かす。
エリンはそれを横目で見ながら、心の中で短く確認した。
(よし。次のフライトも、崩さない)
二時間後。
そして十分快。
現場は休ませてくれない。
だからこそ、現場は“整えてから”次へ行く。
ーーーー
次のフライトの流れは、基本的に同じだった。
火星のエアポートで機体が替わり、乗務員が替わり、乗客が替わる。けれど“順番”だけは変わらない。
順番は安全の骨組みで、骨組みがあるからこそ人は余裕を持てる。
ただし――骨組みが同じでも、肉付きが違う。
エマが言った通り、次の宇宙船は古い。
古いというのは、単に年式の話じゃない。
癖がある。音が違う。微細な振動が違う。空調の巡りが違う。
そしてそれは、客室の負担の種類を変える。
操縦室。
リュウジは整備士が持ってきた分厚い最終報告書を、すでに開いていた。
ページをめくる手は速いが雑じゃない。
必要な項目にだけ、指が止まる。
姿勢制御系。推力制御系。振動減衰ユニット。重力補正のログ。
リュウジの視線は、数字の列から“癖”を拾い上げるみたいに動く。
整備士が口を開きかけた。
「機長、この機体は――」
「分かっています」
リュウジは遮らず、ただ静かに言う。
「揺れのログが、綺麗ではありませんね」
整備士が苦笑する。
「……古い機体なので。どうしても」
リュウジは報告書に視線を落としたまま、短く言った。
「機体のせいにして終わるのは簡単です。終わらせません」
整備士が少しだけ背筋を伸ばす。
“詰められた”わけじゃない。
“同じ方向を向かされた”のだ。
リュウジはページを閉じ、インカムに指を当てた。
今回のフライトは、最初から客室の負担を想定しなければいけない。
酔い。転倒。ホットドリンク。クレーム。緊張。
その全てが、操縦の入力の細さに左右される。
だから、先に聞く。
操縦室と客室が、最初から同じ絵を描けるように。
無線は、乗務員全員に聞こえる回線ではない。
ここはパーサーライン――必要な人に通る、短い回線。
それでも、客室は忙しい。
今この時間帯は、まさに“波”が来ている。
リュウジは落ち着いた声で呼びかけた。
「エリンさん、聞こえますか?」
一拍。
返ってきたのは、予想外の声だった。
『はーい』
軽くて、柔らかくて、どこか楽しそう。
そして、あまりにもペルシアだ。
リュウジが眉を上げる。
「……ペルシア?」
『そう、ペルシア』
返事が早い。
耳がいい人の返事は、相手が口を閉じる前に飛んでくる。
『エリンはちょっと今、手が離せないのよ。要件聞くよ』
リュウジは一拍置いた。
エリンが手が離せない――容易に想像がつく。
古い機体の搭乗。酔い止めの配置。客の導線。カート運用の変更。
チーフパーサーは、離陸前がいちばん忙しい。
リュウジは淡々と言った。
「この宇宙船での共有事項――特徴があれば教えてほしい」
無線の向こうが、ほんの少しだけ静かになった。
その沈黙は、忙しいからじゃない。
“意外”だからだ。
『……へぇ〜』
ペルシアの声が、少しだけ上ずる。
からかうような音が混ざる。
リュウジは首を傾げた。
「どうした?」
『別に〜。どうしてそんな事を聞くのかと思って』
ペルシアは軽く言う。
軽く言いながら、声色の揺れを自分で楽しんでいるみたいに聞こえる。
リュウジは真面目に返した。
タツヤ班長に向ける敬語ではない。
ペルシアに向ける“タメ口の真面目さ”だ。
「船を預かる以上、些細な情報も把握したい。操縦一つで客室にかかる負担も変わるだろ」
無線の向こうで、ペルシアが一瞬息を止めたのが分かった。
彼女は“声”の人間だ。
だから相手の声が揺れない時に、逆に揺さぶられる。
『……まぁいいわ』
ペルシアの声が少しだけ落ち着く。
軽口の膜が薄くなる。
『この船、揺れが酷いみたい。だから酔う乗客が多いみたいよ』
リュウジは短く頷いた。
報告書のログとも一致する。
情報が繋がるのは強い。
「なるほど……」
『まぁ、こっちはいつもより多めに酔い止めは用意してるけど』
「分かった。何とかする。ありがとう」
リュウジは即答した。
“何とかする”という言葉に、曖昧さはない。
操縦でできることを全てやる、という意味だ。
無線が切れる。
切れる音が、操縦室の静けさを一瞬だけ戻した。
⸻
客室側。
無線を切った直後、ペルシアの肩に影が落ちた。
「リュウジは、なんだって?」
エリンが戻ってきたのだ。
髪の乱れ一つないが、目の奥は忙しい。
手が離せなかった理由が、そのまま顔に出ている。
ペルシアは無線機をエリンに渡しながら、わざと軽い声で言った。
「うーん……案外、捨てたもんじゃないかもよ」
エリンが眉を寄せる。
「はぁ?」
首を傾げる仕草が、いつもより鋭い。
疑っているというより、理解できない時のチーフパーサーの顔だ。
ペルシアは笑う。
でもその笑いは、からかい半分、感心半分。
「『この宇宙船の特徴、共有事項教えて』ってさ。
操縦で客室の負担が変わるからって。……言うと思う?」
エリンの目が一瞬だけ細くなる。
それは、心の中で何かが引っかかった合図。
「……普通は、言わない」
エリンは淡々と言った。
そして、すぐに付け足す。
「言えない。操縦室は操縦室で手一杯だから。
客室の揺れの感覚まで拾う余裕がない人が多い」
ペルシアは肩をすくめる。
「でしょ? だから、へぇ〜ってなった」
エリンは数秒だけ黙った。
あの“乾いた声”のままの自分が、少しだけ揺れる。
揺れたことに気づいて、すぐに戻す。
「……でも、それで信用するのは早い」
ペルシアが頷く。
「うん、分かってる。
でもさ、少なくとも“こっちを見ようとしてる”のは本当っぽい」
エリンは短く息を吐いた。
「見ようとするだけでは足りない。
この船は揺れる。揺れる船で、客室を守るのがどれだけ大変か――」
「だからこそ、ね」
ペルシアが言葉を重ねる。
「操縦でできること、やってくれるなら助かる。
私たちも、酔い止め多めに用意してるし。
連携できたら、今回は楽になるかも」
エリンはまだ表情を崩さない。
でも“否定だけ”ではなくなっていた。
「……次のフライトまで、あと」
エリンが時計を見る。
「五十分。急いで準備に入る」
「はいはい、チーフパーサー」
ペルシアが軽く敬礼する。
エリンはその敬礼を一瞥し、淡々と続けた。
「ペルシア。あなたは酔い止めの配置と、揺れが強く出た時の導線確認。
ククルとカイエはスタッフルームで待機。勝手に動かない。
エマはホットドリンク運用の見直し。揺れが出る区間では温度を落とす」
「了解」
全員の返事が揃う。
エリンは最後に言った。
「“揺れる船”は、準備で勝負が決まる。
今回は、崩さない」
ペルシアが小さく笑って、耳に触れた。
「ちゃんと聞いてるって」
エリンはそれに返さず、ただ一度だけ頷いた。
そして、次のフライトのために、また静かに動き始めた。
ーーーー
宇宙船が航行を始める。
火星のエアポートを離れ、定期便の規定航路に乗ると、客室はすぐに“生活の音”で満ちた。子どもの笑い声、親の小声の注意、荷物を棚に押し込む音、ベルトの金具がカチリと鳴る音。
政財界の大物だらけだった前便とは空気がまるで違う。緊張よりも日常。日常だからこそ、ひとたび酔いが出れば一気に崩れる。
今回は一般の定期便。家族連れが多い。
子どもも多い。
酔い止めがかなり必要になる――エリンもペルシアも、乗務員全員がそれを覚悟していた。
古い機体。揺れる機体。
いつもなら、離陸からしばらくで“最初の波”が来る。
縦に一度、胃が持ち上がるような揺れ。
その次に横揺れ。
そして、慣れない乗客が顔色を変えていく。
……なのに。
来ない。
揺れが、来ない。
むしろ、快適だ。
床が静かで、グラスの水面が揺れない。
歩いても足裏が取られない。
子どもが椅子で身をよじっても、親が慌てない。
客室の空気が“穏やかに回っている”。
エリンがギャレーから通路を見渡し、心の中で確認した。
(……揺れがない)
そんなはずはない。
この機体は“揺れる”。
整備ログにも出ている。エマも言った。
だから、揺れがないということは――誰かが揺れを消している。
ペルシアも同じことを思ったのだろう。
彼女はドリンクカートを押しながら、ぽつりと言った。
「うーん……“何とかする”とは言ったけどさ。何をしたのかしら」
声は軽い。
でも目は軽くない。
耳がいい人間は、揺れの“なさ”も拾う。
ペルシアはふっと踵を返し、近くにいたエマに寄った。
柔らかな銀髪をボブにまとめ、上品な微笑を浮かべたエマは、カップを揃えながら首を傾げる。
「どうしました?」
「ちょっと、操縦室に行ってきていい?」
エマの手が止まる。
「え? でも……今、サービスの途中で……」
困惑。真面目な困惑。
チーフパーサーが聞いたら、正論として頷く困惑。
ペルシアはにっこり笑った。笑っているのに、圧がある。
「あら。エマがフライト中にケーキ食べてたこと、エリンに言おうかしら」
エマの顔色が一瞬で変わる。
「わ、分かりました!」
声が裏返った。
ペルシアは満足そうに頷く。
「よろしい」
そして、カートの影からするりと抜けるように、操縦室へ向かった。
⸻
操縦室の前。
扉の金属が、客室より少しだけ冷たい。
ペルシアが軽くノックすると、すぐに扉が開いた。
開けたのはタツヤだった。片手で、慣れた動き。
「お。ペルシア?」
「入るよ」
「どうぞどうぞ」
そのまま足を踏み入れた瞬間、ペルシアは身体を固くした。
――重い。
空気が重い。
のしかかる、という表現がいちばん近い。
操縦室はいつも静かだ。
静かだが重いわけじゃない。
だが今は、静けさの中に“圧”がある。張り詰めた圧。
まるで、見えない糸で空間が引き締められているような。
ペルシアは思わず、声を小さくした。
「ちょっと……どういうこと!?」
タツヤが顎で前を指す。
「リュウジだよ」
操縦席に座ったリュウジは、前を見ていた。
窓の外を見ているのか、計器の先を見ているのか――どちらでもない。
“航路そのもの”を見ているような眼だった。
タツヤが、のらりとした口調で、しかし本音で言う。
「操縦席に座ったリュウジから醸し出す雰囲気が凄いのよ」
ペルシアは唇を噛み、呟く。
「凄いって……そんなレベルじゃない」
“怪物”という言葉が頭をよぎる。
けれど、それは古参のブライアンに使う類の言葉だ。
リュウジは“英雄”。
英雄は、こんな重さを出さない。普通は。
その時、リュウジが前を向いたまま、淡々と尋ねた。
「ペルシア、客室はどんなだ?」
ペルシアは一瞬だけ目を丸くした。
圧の中にいるのに、ちゃんと客室を見ている。
いや、見ているというより――気にしている。
(……なんだ。周り、ちゃんと見えてるじゃない)
ペルシアは息を吐き、答えた。
「まったく揺れを感じないわ。むしろ快適よ」
「それは良かった」
リュウジの声は淡々としている。喜びも自慢もない。
ただ、結果を確認しているだけ。
ペルシアは耐え切れずに聞いた。
「ねぇ。一体、何をしたの?」
リュウジは前を向いたまま言った。
「揺れる原因は、重力制御ユニットとエンジンの経年劣化のせいだ」
タツヤが横で軽く頷く。整備ログと一致している。
リュウジは続ける。
「だから、その揺れに合わせて機体を手動で操縦している」
ペルシアが首を傾げる。理解はできる。だが納得は追いつかない。
「揺れに合わせて?……そんな簡単なことなの?」
ペルシアはタツヤに視線を向けた。
“班長、これ、普通にできるの?”と目で聞く。
タツヤは苦笑した。
「全然。たぶんできるのはリュウジぐらいだよ」
ペルシアが、思わず声を落とす。
「……嘘でしょ」
リュウジは淡々と、しかし少しだけ言葉に力を込めた。
「揺れはゼロにはできない。だけど、揺れを“揺れとして感じさせない”ようにすることはできる。
古い機体は癖がある。その癖を先に掴んで、客室が身構える前に潰す」
ペルシアは、背中にぞくっとしたものを感じた。
それは怖さじゃない。
「この人、ほんとにやってる」という実感だ。
ペルシアは、まだ聞く。
「でも、どうしてそんな事を?」
リュウジは当然のように言った。
「揺れが酷くて酔う乗客が多いんだろ。乗客を守るのは、乗務員だけじゃない」
ペルシアは小さく笑いそうになって、笑えなかった。
これを“建前”で言う男を、彼女は山ほど見てきた。
でもこの声は建前じゃない。
揺れていない客室が証拠だ。
「……そうだけど、まさか信じるなんて」
思わず本音が漏れた。
リュウジが、初めてペルシアの方に顔を向けた。
目が鋭い。怒っているわけではない。
当たり前のことを当たり前だと確認する目だ。
「はぁ? 当たり前だろ。乗客に一番近い乗務員の声を無視して、どうするんだ」
ペルシアは返せなかった。
無言のまま、リュウジを見つめる。
見つめるほどに、言葉が軽くなるのを自分で感じた。
だから、いつものペルシアに戻る。
「あはは」
そして言う。
「やっぱりリュウジ、捨てたもんじゃないね」
リュウジが眉を寄せる。
「……どういう意味だ?」
ペルシアは、その眉の寄せ方を“普通の男”みたいだと思って、可笑しくなる。
英雄の眉じゃない。
現場の眉だ。
「そうだ!」
ペルシアは急に声を明るくした。嵐みたいに空気を変える。
「今日の夜、空けといてよ! リュウジの初フライト記念、ちゃんとお祝いしなくちゃ」
タツヤがすぐ乗る。
「お、いいね〜」
リュウジは一瞬だけ言葉に詰まった。
「……今日ですか」
「今日よ。今よ。勢いが大事」
ペルシアは即答する。
「それじゃあリュウジ、よろしくね!」
返事を待たない。
ペルシアはそれだけ言って、操縦室を後にした。
扉が閉まった瞬間、操縦室の圧が少しだけ戻る。
戻るが、さっきよりも少しだけ軽い。
ペルシアが空気を持っていったのか、置いていったのか――たぶん両方だ。
リュウジは思わず苦笑した。
「……嵐のような奴だな」
タツヤが、のらりと笑う。
「だから客室が崩れない」
リュウジは前を向き直し、手元の入力を微細に調整し続ける。
揺れに合わせる。
揺れを先に潰す。
客室の“快適”を維持するために。
窓の外は、火星から遠ざかる赤と、宇宙の黒。
その黒の中で、今日の定期便は静かに進んでいた。
乗客は守られている。
守っているのは、客室だけじゃない。
操縦室の“重さ”もまた、守りの形だった。
ーーーー
木星のエアポートに到着すると、宇宙船の外壁を叩くような微かな振動が最後に一度だけ伝わってきた。
それは揺れというより、“帰ってきた”という合図みたいなものだった。
搭乗ブリッジが繋がり、家族連れの乗客たちがぞろぞろと降りていく。
子どもたちは元気だ。目を輝かせて、窓の外を最後まで見ている。
親たちの顔には、疲れより先に安堵が浮かんでいた。
そして、全員が降り終えた頃――管制施設内の控室で、いつものように乗務員によるブリーフィングが始まった。
この“いつもの”が、現場の命綱だ。
派手な成功は記録に残るが、地味な共有が次の事故を防ぐ。
エリンがホワイトボードの前に立つ。
背筋は真っ直ぐ。表情は穏やか。声は落ち着いている。
それだけで場が締まる。
「今回の航路だけど――まぁ、分かっているわよね」
言葉は軽いのに、逃げ道がない。
“分かっている”前提で始めるのは、プロの会話だ。
全員が自然に頷く。
その瞬間、端の席でククルが手を挙げた。待ちきれないという顔。
「全然揺れなかったです!」
嬉しそうで、声が弾んでいる。
子どもの感想は、時に一番正確だ。
揺れを“知識”ではなく“体”で受け取っているから。
隣のカイエもすぐ続く。
「ね! あの宇宙船が快適だった」
ククルとカイエが目を合わせて頷き合う。
ふたりにとって“揺れない”は、安心そのものだ。
エマが上品に手を添え、少し驚いたように言った。
「正直、驚きました。あの機体は揺れるはずでしたから……」
エリンが小さく頷く。
その通りだ。揺れるはずだった。
揺れないなら、何かが起きている。
そこでペルシアが、待ってましたとばかりにニヤニヤし始めた。
耳の良さが、顔にも出る。
「なんでだと思う?」
問い方がもう、答えを持っている人の問い方だ。
エマが食いつく。いつも落ち着いているのに、目がきらりとした。
「なんでですか!」
ペルシアは口角を上げ、わざと間を置いてから言った。
「うちの機長がね。宇宙船の揺れに合わせて機体を手動で操縦してたのよ」
控室が一瞬静かになる。
静かになってから、じわっとざわめく。
“そんなことができるのか”というざわめき。
ペルシアは満足そうに続けた。
「揺れを“揺れとして感じさせない”ようにすることはできるんだってよ」
ククルの目がさらに輝く。
「そんなことができるなんて……流石はS級パイロットですね!」
胸を張って言うあたり、ククルは本気で誇らしいのだろう。
自分が乗った船の機長がすごい、と言えるのは、子どもらしい幸福だ。
カイエは嬉しそうな顔をしながらも、そこに疑問を混ぜた。
「でも……どうしてですか?」
その質問が、場を一段だけ“現場”に戻した。
技術の話よりも、人の話。
“できる”よりも、“なぜやる”。
ペルシアは笑いながら言った。
「『乗客を守るのは、乗務員だけじゃない』だってさ」
言いながら、どこか楽しそうだ。
自分が聞きたかった言葉を、ちゃんと聞けた嬉しさが混ざっている。
エマがほっとしたように微笑む。
「いい人で良かったです」
その一言は軽いけれど、現場では重い。
“いい人”でないパイロットを、彼女は見てきたのだ。
カイエが小さく呟いた。
「……無視するパイロットも多いのに」
控室の空気が、ほんの少しだけ硬くなる。
笑い話にしたくない現実が、ひょいと顔を出す。
ペルシアはその硬さを、わざと大きめの声で叩き割った。
「それがね!
『乗客に一番近い乗務員の声を無視して、どうするんだ』って、逆に言われたわよ!」
ククルが「かっこいい……」とでも言いたげに口を開ける。
エマは目を丸くする。
カイエは一瞬だけ笑い、すぐに目を伏せた。どこかで思い当たるのだろう。
――そこで。
「ゴホン」
エリンが咳払いをひとつ。
音は小さい。
でも、控室の全員が背筋を伸ばすには十分だった。
ペルシアの背中が、目に見えない何かに刺されたみたいに固まる。
エリンは、にっこり微笑んだ。
その微笑みが逆に怖い。
穏やかな顔ほど、怒りを隠せるのを全員が知っている。
「ペルシア。よく知ってるのね」
声は柔らかい。
しかし意味はこうだ。
――「操縦室に行ったのね?」
――「仕事中に何をしていたの?」
――「私に黙って情報を取ったの?」
ペルシアは瞬時に判断した。
これは、逃げるしかない。
「え、エリン!」
声が少し裏返る。
「エマがフライト中にケーキ食べてたわよ!!」
エマが椅子から跳ねそうな勢いで立ち上がる。
「ペルシアさん!それは言わない約束ですよ!?」
控室に笑いが起こりかけて――起こりきらない。
エリンの微笑みがまだそこにあるからだ。
ペルシアはさらに追撃して、場の矛先を散らす。
「ちなみにカイエはこっそり、子どもとトランプしてたわよ」
カイエが慌てて手を振る。
「巻き込まないでください!?」
「巻き込むわよ。仲間だもの」
「理屈がひどい!」
ペルシアはなおも視線を泳がせ、最後の逃げ道を探す。
そして、ククルに目を向けた。
「ククルは……ククルは……」
ククルが姿勢を正す。
「はいっ!」
ペルシアが目を細める。
「……ちゃんとしてたかな」
ククルの顔が、一瞬だけ曇る。
「えっ……!」
その瞬間、エリンの微笑みが“引き攣り”に変わった。
笑顔の形のまま、眉の奥だけが怒っている。
「貴方達三人には――一から教育が必要のようね」
声は静か。
静かだから、怖い。
「ひぃいい……!」
ククル、カイエ、エマの三人が、ほぼ同時に悲鳴を漏らした。
控室が完全に笑いに包まれる。
笑いながらも、全員が分かっている。
エリンが“本気でやる”ときの教育は、笑えない。
ペルシアは両手を合わせて、拝むように言った。
「チーフパーサー、私は情報共有しただけでございまして……」
エリンは微笑みのまま、淡々と締める。
「情報共有は評価する。……ただし、規律は別」
そして、ホワイトボードを軽く叩いた。
「今回のポイント。
機体の揺れに対して、操縦室が対応してくれた。これはありがたい。
でも“ありがたい”で終わらせない。次も同じとは限らない。
酔い止めの配置、導線、ホットドリンク運用、子どもの管理。全部、手順として残す」
場が再び引き締まる。
笑いの後に、仕事の芯が戻ってくる。
それがチーフパーサーの技術だ。
「以上。次回の準備は各自。……そして三人」
エリンが、ペルシア、カイエ、エマを指さす。
「後で時間を取るわよ」
「はい……!」
三人が揃って返事をし、肩を落とす。
ペルシアはその横で、こっそり耳に触れてみせた。
――ちゃんと聞いてるって。
控室の空気が、また少しだけ軽くなる。
でも、次の教育が待っていることだけは、誰の耳にもはっきりと入っていた。