エリンとタツヤ班長が弁当を抱えて戻ってきた時、十四班の事務所には、どこか妙な連帯感が生まれていた。
ペルシアは予備席に座り、片手で端末を操作しながら、もう片方の手で資料の束をめくっている。
その周りには、フォクス、ファルコ、クリスタル、スリッピー、フレイが自然に集まっていた。
「フォクスのところは、“現場全体を俯瞰した判断が可能”でいい?」
ペルシアが端末を見ながら言う。
「ああ。ただ、少し固いな」
「公式資料だから固くていいのよ」
「なら、それでいい」
フォクスが短く答える。
ファルコは横から画面を覗き込み、不満そうに眉を上げた。
「おい、俺の欄、“前に出すぎる傾向あり”って書いてあるぞ」
「事実でしょ」
ペルシアは平然と言う。
「もう少し言い方ってもんがあるだろ」
「じゃあ、“積極性が高く、攻勢時に支援対象との距離管理が課題となる場合がある”」
「……急にそれっぽくなったな」
「私は天才だから」
「さっきまで資料から逃げてた天才だけどな」
「うるさい」
スリッピーは自分の欄を見て、少し照れくさそうに笑っていた。
「僕のところ、“機体理解と故障時対応に強みあり”って書いてくれてる」
「そこは本当だもの。スリッピーは機械とシステムに関しては、本当に強いわ」
「ありがとう、ペルシア」
「でも操縦の基本はまだ鍛えないとね」
「うっ……うん、頑張る」
クリスタルは静かにペルシアの文面を確認していた。
「私の欄は、“支援・救助時の危険回避能力が高い”で問題ないわ。ただ、“慎重さが先行する場面あり”は、そのままでもいいけれど、今後の訓練方針につなげた方がいいと思う」
「例えば?」
「“安全確保を前提としつつ、状況に応じて踏み込み幅を広げる訓練が有効”」
「いいわね、それ採用」
ペルシアはすぐに打ち込む。
フレイはペルシアの横に立ち、端末を確認しながら淡々と言った。
「統括官、今の表現は適切です。局長提出用にも転用可能です」
「フレイに褒められた」
「褒めたのではなく、評価です」
「似たようなものよ」
「異なります」
そんなやり取りの最中に、エリンとタツヤ班長が戻ってきた。
「お待たせ。お弁当、買ってきたわよ」
エリンの声に、全員の視線が一斉に向いた。
ペルシアは端末から顔を上げるなり、ぱっと表情を輝かせた。
「天ぷら弁当!」
「ちゃんと買ってきたわ。海老天多めかは分からないけれど」
「エリン、好き」
「資料を進めること」
「はい」
ペルシアは素直に頷いた。
タツヤ班長が大きな袋をテーブルに置く。
「はいはい、みんなの分もあるからね〜。訓練組もお疲れ様」
ファルコが弁当の中を覗き込む。
「へぇ、いい匂いするじゃねぇか」
スリッピーも目を輝かせる。
「これ、天ぷら? 食べるの久しぶりかも」
クリスタルは弁当を受け取り、丁寧に頭を下げる。
「ありがとう」
フレイも同じように弁当を受け取った。
「ありがとうございます。食事後、資料作成を再開します」
「フレイ、食べる前から仕事の話しないで」
「必要な確認です」
「天ぷらが冷めるでしょ」
「食べながらでも確認できます」
「鬼?」
ペルシアがぼやくと、エリンがすぐに言った。
「フレイさんは正しいわ」
「エリンまで……」
ペルシアは天ぷら弁当を受け取り、蓋を開けた。
衣の香ばしい匂いがふわりと広がる。
海老天、野菜天、白身魚、かぼちゃ。
ご飯の上には天つゆがほどよく染みている。
ペルシアは一瞬で機嫌を直した。
「うわ、最高」
エマが横から覗き込む。
「美味しそうですね」
「エマも食べる?」
「私は自分の分がありますので」
「あとでドーナツもあるしね」
「はい」
エマは幸せそうに微笑んだ。
ククルは自分の弁当を広げながら、ペルシアを見て言う。
「ペルシアさん、資料もちゃんと進んでるみたいですね!」
「でしょ? やればできる子なのよ」
カイエが静かに言う。
「みんなに囲まれて逃げ場がなかったからでは?」
「カイエ、今日ずっと刺してくるわね」
「褒めてます」
「絶対違う」
ミラは弁当を手にしながら、少し安心したように言った。
「でも、ペルシアさんがちゃんとお昼を食べられてよかったです」
「ミラは本当に優しいわね。こっち来る?」
「えっ?」
「頭撫でたい」
「お昼食べながらですか!?」
ミラが慌てると、周囲に笑いが起きた。
ペルシアは弁当を食べながら、再び端末に向かう。
箸で天ぷらを一口食べ、画面を見て、文章を打つ。
天つゆの染みたご飯を食べ、また文章を打つ。
途中で海老天を噛みしめ、幸せそうに目を細め、また文章を打つ。
その姿を見たファルコが呆れたように言う。
「食いながら仕事してるのに、さっきより進んでねぇか?」
「天ぷらで集中力が上がったのよ」
ペルシアが真顔で答える。
「そんな燃料みたいに言うんだな」
「私にとっては燃料よ」
「効率悪そうな燃料だな」
「うるさい」
リュウジは自分の弁当を静かに食べながら、ペルシアの画面を横目で確認していた。
内容は思ったよりも整理されている。
フォクス達それぞれの強みと課題。
訓練を通じた変化。
今後の統括官直属チームとしての訓練方針。
ドルトムント側との連携可能性。
そして、リュウジの操縦指導に関する所見。
ペルシアはふざけるが、見ていないわけではない。
むしろ、人の本質を見る力は鋭い。
リュウジはそこをよく知っていた。
ペルシアが資料の途中で箸を止め、エリンへ顔を向けたのは、全員が弁当を食べ始めて少し経った頃だった。
エリンは午後の予定を確認しながら、フレイと短く話していた。
「それじゃあ、午後はいつも通りでいいですか?」
エリンがフレイへ確認する。
「はい。午後は最終確認として、操縦訓練の総括と、現場対応訓練の振り返りを予定していました」
エリンが頷く。
「分かりました。では、午後はリュウジと私で訓練室を使いながら――」
「ちょっと待って」
ペルシアの声が割って入った。
普段の軽い声ではなかった。
エリンが振り向く。
「どうしたの?」
ペルシアは箸を置き、端末の画面を閉じた。
その表情が、少しだけ変わっている。
さっきまで天ぷらに目を輝かせ、資料から逃げようとしていたペルシアではない。
宇宙管理局の統括官として、現場全体を見ている顔だった。
「エリン、乗務員のシミュレーションをフォクス達に見せた?」
エリンは少し意外そうに瞬きをした。
「乗務員のシミュレーション?」
「そう。あなた達がいつもやってるやつ。客室対応、避難誘導、急病人対応、乗客の不安を抑える訓練」
「見せてはいないけど……」
「見せてあげて」
ペルシアは即座に言った。
その言葉に、フォクス達も反応する。
ファルコが箸を止める。
「乗務員の訓練?」
スリッピーも顔を上げる。
「操縦じゃなくて?」
クリスタルは黙ってペルシアを見た。
フレイも記録端末を手に取る。
「統括官、その意図を確認してもよろしいですか?」
ペルシアは頷いた。
「もちろん」
エリンは静かにペルシアを見つめていた。
「ペルシア、理由を聞いてもいい?」
「ええ」
ペルシアは弁当から少し身を離し、周囲を見渡した。
「フォクス達は強いわ。操縦もできる。戦える。救助にも入れる。現場判断も早い。正直、私が欲しかった以上のチームよ」
フォクスは少しだけ目を伏せる。
ファルコは「へぇ」と小さく笑い、スリッピーは照れくさそうに頬をかいた。
ペルシアは続ける。
「でも、だからこそ足りないものがある」
「足りないもの?」
ファルコが聞く。
「民間人の怖がり方よ」
その一言に、事務所の空気が少し引き締まった。
ペルシアの声は真剣だった。
「宇宙ハンターや管理局の現場要員は、危険を危険として見られる。敵がいる、船が壊れてる、酸素が足りない、脱出経路が塞がってる。そういう現象を見て動ける。でも乗客は違う」
ペルシアはエリンを見る。
「小さな揺れで不安になる。聞き慣れない警報音で混乱する。乗務員の表情一つで、安心も不安も変わる。説明が一秒遅れただけで、勝手に最悪の想像をする人もいる」
ククル、エマ、カイエ、ミラは黙って聞いていた。
それは、彼女達が日々向き合っているものだった。
「フォクス達がこれから私の直属チームとして救助や事故対応に出るなら、船を助けるだけじゃ足りない。そこにいる人を、混乱させずに助ける必要がある。だから、エリン達のシミュレーションを見せてほしいの」
エリンは目を細める。
「乗務員が何を見ているのかを、知ってもらうため?」
「そう」
ペルシアは頷いた。
「操縦や戦闘はリュウジが見てくれた。でも、民間人を乗せた現場で何が起きるかは、エリンの方が分かってる。ククルやエマやカイエやミラの動きも、フォクス達に見てほしい」
フォクスが静かに口を開いた。
「俺達が救助する相手の動きを知るためか」
「正確には、救助される側の空気を知るため」
ペルシアはフォクスを見る。
「あなた達は強い。でも、強い人が急に現場に入ると、それだけで怖がる人もいる。だから、どう近づくか。どう声をかけるか。誰を先に安心させるか。そこを見ておいてほしい」
ファルコは腕を組み、少し苦い顔をした。
「俺、そういうの苦手そうだな」
「だから見ておくのよ」
ペルシアは容赦なく言う。
「ファルコが悪いって話じゃない。強くて速い人ほど、相手がついてこられないことがある。そこを知っておくだけで、全然違う」
ファルコは反論しなかった。
スリッピーは真剣な顔で頷く。
「確かに、僕たちの訓練って、助ける側の動きが中心だったかも。助けられる人の不安までは、あまり見てなかった」
「そういうこと」
ペルシアは次にクリスタルを見た。
「それと、クリスタル」
「何?」
「あなたには、乗務員に応急処置のやり方を教えてほしい」
クリスタルは一瞬、目を瞬いた。
「私が?」
「ええ。あなたが」
ペルシアは真剣な顔で頷いた。
「エリン達も基本はできる。訓練も受けてる。でも、クリスタルは実際の現場で医療対応をしてきた人でしょ。管理された訓練室じゃなくて、壊れた船、足場の悪い場所、敵がいる可能性がある場所、時間がない中で人を見る。その経験は大きい」
クリスタルは少しだけ黙った。
ペルシアは続ける。
「乗務員は医療専門職じゃない。でも、最初に乗客の異変に気づくのは乗務員なの。声の出し方、顔色、呼吸、姿勢、怪我を隠してる人、パニックで痛みを訴えられない人。そういう人をどう見つけて、医療班に繋ぐか。クリスタルの視点で教えてほしい」
エリンの表情が少し変わった。
興味と納得が混じった表情だった。
「それは……確かに、私達にとっても必要ね」
ペルシアは頷く。
「でしょ?」
クリスタルは腕を組んだまま、ペルシアを見る。
「私は医師ではないわ」
「分かってる」
「応急処置はできる。でも、専門的な医療教育をする立場ではない」
「だからこそいいのよ」
「どういう意味?」
「現場で“ここまでなら乗務員でもできる”、“ここから先は医療班に繋ぐべき”という線引きを教えられるでしょう?」
クリスタルは黙った。
ペルシアはさらに声を落とす。
「乗務員に必要なのは、全部治すことじゃない。見逃さないこと。悪化させないこと。安心させること。次の人に繋ぐこと。クリスタルなら、それを教えられる」
その言葉に、クリスタルの表情が少しだけ柔らかくなった。
「……貴方、そういうところは本当に見ているのね」
「私は天才だから」
「そこで台無しにしない」
「はい」
周囲に少しだけ笑いが戻る。
エリンは静かに頷いた。
「分かったわ。午後は予定を変更しましょう」
フレイがすぐに端末を操作する。
「午後訓練内容を変更。乗務員シミュレーション見学及び応急処置指導を追加。統括官判断によるものとして記録します」
ペルシアは少し得意げに言った。
「ほら、私もちゃんと仕事してるでしょ」
フレイは淡々と答える。
「今の提案は非常に有益です」
「褒めた?」
「評価です」
「相変わらずね」
エリンは次にリュウジへ視線を向けた。
「リュウジ、午後の操縦総括は後に回しても大丈夫?」
リュウジは頷いた。
「大丈夫です、エリンさん」
そこでペルシアが口を挟んだ。
「それと、リュウジは私に貸して」
エリンが少し驚く。
「リュウジを?」
「うん。フォクス達の操縦や対人戦闘について、詳しく聞きたいの。資料にまとめたいし、今後の訓練計画にも入れたいから」
ペルシアは端末を軽く叩いた。
「私が見てることと、リュウジが見てることは違う。リュウジの視点を入れないと、資料が薄くなる」
リュウジは静かにペルシアを見る。
「俺でいいのか」
「リュウジがいいのよ」
ペルシアは即答した。
「フォクス達の操縦を、同じ操縦士として見た人の言葉が必要なの。しかも、リュウジはS級で、かつ客室や乗客のことも見て操縦してる。これ以上の評価者はいないわ」
リュウジは少しだけ目を伏せた。
エリンはその様子を見て、柔らかく頷いた。
「分かった。リュウジ、ペルシアをお願い」
「分かりました、エリンさん」
エリンはペルシアへ向き直る。
「ただし、ペルシア」
「何?」
「リュウジを借りるなら、本当に資料を進めること。雑談だけで終わらせない」
「失礼ね。ちゃんとやるわよ」
「午前中の行動を思い出して」
「……ちゃんとやります」
タツヤ班長が笑う。
「じゃあ午後は、エリンが乗務員シミュレーションを担当。クリスタルさんが応急処置の話。リュウジはペルシアの資料作成支援ってことだね」
「そうですね」
エリンが頷く。
「ククル、エマ、カイエ、ミラ。午後のシミュレーション、準備できる?」
「はい!」
ククルが元気よく返事をする。
「大丈夫です」
エマも穏やかに頷く。
「分かりました」
カイエも姿勢を正す。
「が、頑張ります!」
ミラも少し緊張しながら返事をした。
クリスタルは静かに言う。
「私も準備するわ。乗務員向けなら、専門用語は少なくした方がいいわね」
「助かるわ」
エリンが微笑む。
「一緒に内容を整理しましょう」
「ええ」
フォクスはペルシアを見る。
「俺達はシミュレーションを見ればいいのか」
「見て、覚えて、気づいたことを持ち帰って」
「了解した」
ファルコが少し肩をすくめる。
「乗務員の訓練か。正直、想像つかねぇな」
ククルがにやりと笑う。
「エリンさんのシミュレーション、甘くないですよ」
「へぇ、楽しみだ」
「あとで足がパンパンになります」
「見るだけだろ?」
ククルは少しだけ遠い目をした。
「見るだけで済むといいですね」
その言葉に、ファルコは一瞬だけ不安そうな顔をした。
◇
午後の準備のため、エリン達は訓練室へ向かった。
フォクス、ファルコ、クリスタル、スリッピー、フレイもそれに続く。
クリスタルは途中でエリンと応急処置指導の内容を相談し、フレイはその会話を記録している。
ククル、エマ、カイエ、ミラはシミュレーション準備のため、少し緊張した顔で移動していった。
そして事務所には、タツヤ班長、リュウジ、ペルシアの三人が残った。
昼食の弁当はほとんど片付いている。
ペルシアの天ぷら弁当だけ、端の方に少しご飯が残っていた。
ペルシアは端末を開き直し、リュウジ用に椅子を引いた。
「はい、ここ座って」
リュウジは小さくため息をついた。
そのため息は、呆れと諦めと、少しの優しさが混じっていた。
「何を手伝えばいい?」
ペルシアはその言葉に、にっと笑った。
「やっぱり優しいわね」
「資料を進めるんだろう」
「そうそう。まずはフォクス達の操縦評価。私が書いた内容に、リュウジの見解を入れたいの」
タツヤ班長が横でコーヒーを飲みながら言う。
「リュウジ、逃げられないねぇ」
「逃げるつもりはありません」
「さすが」
ペルシアは端末の画面をリュウジへ向けた。
「まずフォクス。私の評価は、“全体把握と救助現場における指揮能力が高い。守備的判断に優れ、要救助対象を中心に据えた動きができる。ただし、攻勢判断の初動に課題”って書いたんだけど」
リュウジは画面を見て頷いた。
「概ね合っている」
「足すなら?」
「フォクスは、自分が動くことで現場を整えるタイプだ。無理に前へ出るより、全体の位置関係を作るのが上手い。ただ、相手が強引に崩してきた時、少し受けに回る傾向がある」
「なるほど」
ペルシアは素早く打ち込む。
「“現場の位置関係を整える能力に優れる。一方、敵性対象が主導権を奪いに来た場合の初動対応を強化することで、より安定する”……こんな感じ?」
「いいと思う」
「次、ファルコ」
ペルシアは次の項目を開いた。
「“高速機動と戦闘制圧力が高い。反応速度に優れ、敵性対象への圧力を即座にかけられる。一方、支援対象との距離管理に課題”」
リュウジは少し考えた。
「ファルコは突出力が強い。あれは武器だ。無理に抑えるより、戻る基点を決めさせた方がいい」
「戻る基点?」
「ああ。前へ出る前に、どこへ戻るかを先に決める。そうすれば、強みを殺さずに守備対象も見られる」
ペルシアは目を輝かせた。
「それいいわね。リュウジ、やっぱり分かりやすい」
「普通に言っているだけだ」
「その普通が大事なのよ」
タツヤ班長がにこにこしながら言う。
「ペルシア、さっきよりずっと仕事してるね」
「リュウジが優秀だから」
「人に乗っかるの上手いねぇ」
「統括官は人を使うのが仕事です」
「都合のいい時だけ統括官になるねぇ」
ペルシアは笑いながら入力を続けた。
「次、クリスタル。これはエリンにも聞きたいところだけど、リュウジの視点もほしい」
「クリスタルは、危険を避ける判断が早い。救助や支援には向いている。だが、踏み込める場面でも少し抑える傾向がある」
「それは本人も分かってたわね」
「ああ。ただ、それは弱点ではなく性質だ。チーム内でファルコと組ませると補える」
「ファルコが前へ出て、クリスタルが支援と回収?」
「そうだ。フォクスが全体を見るなら、ファルコとクリスタルの組み合わせは強い」
ペルシアはすぐに打ち込む。
「いいわね。チーム運用案に入れる」
リュウジは続けた。
「スリッピーは、操縦技術そのものは伸ばす必要がある。ただ、機体理解は高い。故障時、異常時に強い。フォクス達の中でも、機体の状態を言葉にして共有できるのは大きい」
「スリッピーには、チームの技術参謀みたいな役割を持たせたいのよね」
「合っていると思う」
「ただ、前線で焦ると声が上ずるのよ」
「それは訓練で慣らせる」
「リュウジが言うと安心するわ」
リュウジは淡々と言った。
「慣れるまでは、フォクスかクリスタルが声をかければいい」
「なるほど。ファルコじゃなくて?」
「ファルコは煽る可能性がある」
ペルシアが吹き出した。
「分かる」
タツヤ班長も笑った。
「ファルコ君、そういうタイプだねぇ」
リュウジは真面目な顔で続ける。
「ただ、ファルコの軽口で緊張が抜ける場面もある。使い方次第だ」
「それも書くわ」
ペルシアは楽しそうに端末を打った。
資料作成が、先ほどまでとは明らかに違う速度で進んでいく。
ペルシアが見たもの。
リュウジが見たもの。
タツヤ班長が時折挟む現場管理者としての視点。
それらが合わさって、資料が単なる報告書ではなく、今後のチーム運用計画に近いものへ変わっていった。
ペルシアは途中でふと手を止め、リュウジを見た。
「ねぇ、リュウジ」
「何だ」
「私のチーム、どう思う?」
リュウジは少しだけ考えた。
「いいチームだ」
短い言葉。
だが、ペルシアには十分だった。
「そっか」
「ああ。ただ、まだ噛み合っていない部分はある」
「分かってる」
「でも、噛み合えば強い」
ペルシアは笑った。
「私もそう思う」
タツヤ班長は二人のやり取りを見ながら、静かにコーヒーを飲んでいた。
ペルシアはまた端末に向き直る。
「よし、午後のうちに局長提出用まで形にするわ」
「本当に?」
タツヤ班長が聞く。
「本当に」
ペルシアは胸を張った。
「今日は逃げない」
リュウジは少しだけ目を細める。
「信じていいのか」
「リュウジまで疑うの?」
「午前中の行動を見ているからな」
「……まあ、そうね」
ペルシアは苦笑した。
そして、今度は本当に真剣な顔で端末へ向かった。
天ぷら弁当は冷めかけていた。
でも、ペルシアはそれを食べながら、資料を作り続けた。
午後の訓練室では、エリンがフォクス達に乗務員の世界を見せる準備をしている。
そして事務所では、ペルシアがリュウジの言葉を借りながら、自分のチームの未来を書き起こしていた。
ふざけて、逃げて、捕まって、笑って。
それでも、やるべき時にはちゃんと向き合う。
それがペルシアだった。
ーーーー
資料作成を始めてから、およそ一時間が経った。
十四班の事務所には、昼休み特有の穏やかな空気が残っていたが、その一角だけは妙に集中した空気に包まれていた。
予備席に座るペルシア。
その隣に座るリュウジ。
向かい側でコーヒーを飲みながら時折口を挟むタツヤ班長。
ペルシアの端末には、午前中とは比べものにならないほど整った資料が表示されていた。
『統括官直属チーム外部連携訓練報告書 詳細版』
『操縦・現場判断に関する個人別評価』
『今後の訓練方針案』
『ドルトムント財閥旅行会社との連携可能性』
『局長提出用要点整理』
最初は「終わらない」「ハゲそう」「天ぷらが足りない」とぼやいていたペルシアだったが、リュウジが隣に座ってからは明らかに速度が変わった。
リュウジは余計な言葉を言わない。
ペルシアが聞く。
「フォクスのこの部分、どう?」
リュウジが答える。
「少し曖昧だ。現場指揮と操縦判断を分けた方がいい」
「なるほど」
ペルシアが直す。
「ファルコの課題、距離管理だけでいい?」
「戻る基点を事前に設定する訓練、と書いた方が実践に繋がる」
「いいわね」
ペルシアが打つ。
「クリスタルは?」
「支援型としては完成度が高い。課題は踏み込みの幅だが、無理に変える必要はない」
「“性質を活かした訓練が必要”って感じね」
「ああ」
ペルシアが打つ。
「スリッピーは?」
「機体理解を操縦に繋げる訓練。故障時対応は強み。基礎操縦は反復」
「厳しいけど正しいわね」
「本人も分かっている」
ペルシアが打つ。
そんなやり取りが続いた結果、資料は驚くほど早く形になっていった。
最後の一文を打ち込んだペルシアは、両手を大きく上げた。
「終わったー!」
その声は事務所中に響いた。
タツヤ班長が顔を上げる。
「お、終わった?」
「終わったわ! 私、やり切った!」
ペルシアは椅子の背もたれに身を預け、達成感に満ちた顔で天井を見上げた。
リュウジは隣で静かに端末を見ていた。
「誤字を確認しろ」
「余韻に浸らせて」
「提出前に確認した方がいい」
「現実に戻すの早いわね」
ペルシアは不満げに言いながらも、端末をスクロールした。
そして、画面に並ぶ文章を見て満足そうに頷いた。
「いやぁ、やっぱりリュウジが手伝ってくれると早いわ」
リュウジは淡々と言った。
「半分は俺が作っただろ」
「まぁまぁ」
「まぁまぁじゃない」
「細かいこと気にしないの」
「資料だから細かいところが大事なんだろう」
「リュウジまでフレイみたいなこと言い出した」
「フレイの言っていることは正しい」
「今日、正論ばっかり聞いてる気がするわ」
ペルシアは机に頬杖をつき、リュウジを横目で見た。
「でも助かった。本当に」
その声は、少しだけ真面目だった。
リュウジは画面から目を離さずに答える。
「お前のチームの資料だ。雑に出すわけにはいかないだろ」
「そういうところよ」
「何がだ?」
「優しいところ」
リュウジは眉をわずかに動かした。
「別に優しさじゃない。必要だから手伝っただけだ」
「はいはい。そういうことにしておいてあげる」
ペルシアは楽しそうに笑った。
タツヤ班長が二人のやり取りを見ながら、ゆるく笑う。
「リュウジも、ペルシア相手だと普通に言い返すようになったねぇ」
「ペルシアには、これくらい言わないと聞かないので」
「リュウジ、ひどい」
「事実だ」
「また事実で刺す」
ペルシアは口では文句を言ったが、表情は明るかった。
資料が終わった安堵もある。
リュウジが手伝ってくれたことへの嬉しさもある。
そして、自分のチームについて誰かと真剣に話せたことへの満足感もあった。
ペルシアは端末を保存し、フレイ宛ての送信画面を開いた。
「じゃあ、とりあえずフレイに送るわ」
「局長にも送るのか?」
「フレイに確認してもらってからね。あの子、細かいから」
「正確なんだろう」
「そうとも言う」
ペルシアは送信ボタンを押した。
数秒後、端末に送信完了の表示が出る。
ペルシアはまた大きく伸びをした。
「よし。これで私は自由」
リュウジがすぐに言った。
「まだフレイの確認がある」
「自由の仮免よ」
「何だそれは」
「完全な自由じゃないけど、少しだけ羽を伸ばしていい状態」
「勝手な制度を作るな」
タツヤ班長が笑った。
「でも、ここまでやったなら少し休憩してもいいんじゃないかなぁ」
「ほら、タツヤ班長もこう言ってる」
「ただし、フレイとエリンが許せばね」
ペルシアの顔が少し曇った。
「そこなのよねぇ……」
その時、ペルシアの端末が短く鳴った。
フレイからだった。
ペルシアは身構えながら開く。
『資料を受領しました。確認します。
なお、修正事項がある場合は速やかに対応してください。
無断で離席しないようお願いします。』
ペルシアは画面を見て、深くため息を吐いた。
「フレイ、最後の一文いらないでしょ……」
リュウジは静かに言う。
「必要だと思われているんだろう」
「リュウジ、今日は本当に刺すわね」
「思ったことを言っている」
「それが刺さるのよ」
タツヤ班長はコーヒーを飲みながら、のんびりと言った。
「まあまあ。エリン達の様子でも見に行く?」
ペルシアは顔を上げた。
「行きたい」
リュウジも立ち上がりかける。
「資料が終わったなら、訓練室へ行くか」
「うん。気になるし」
ペルシアは端末を持ったまま立ち上がった。
「フレイには資料確認してるって言っておけばいいわ」
「無断離席するなと書いてあっただろ」
「訓練確認は業務よ」
「それは間違っていないが」
「でしょ?」
ペルシアはにやりと笑った。
タツヤ班長は苦笑いしながら立ち上がる。
「じゃあ、俺も行こうかな。エリンのシミュレーション、スターフォクスの皆がどう見るのか気になるしね」
リュウジは頷いた。
「行きましょう」
ペルシアは端末を小脇に抱えた。
「よし、午後の部を見に行きましょうか」
◇
一方、その頃。
訓練室では、エリン達の準備が整っていた。
午前中とは違う緊張が、訓練室全体に広がっている。
中央の操縦シミュレーターではなく、今度使われるのは客室再現エリアだった。
座席が並ぶ模擬客室。
荷物棚。
通路。
緊急用の酸素マスク装置。
簡易医療キット。
乗務員用通信端末。
そして、訓練用の乗客役として配置されたダミーと、何人かの協力スタッフ。
フォクス、ファルコ、スリッピー、クリスタル、フレイは、少し離れた観察席にいた。
フレイは端末を構え、既に記録を始めている。
フォクスは腕を組み、客室全体を静かに見渡していた。
ファルコは最初こそ「乗務員の訓練ねぇ」と少し軽い態度だったが、配置された機材の多さと、エリンの表情を見て、次第に口数が減っていた。
スリッピーは設備に興味津々だった。
「これ、乗客の不安度とかもシミュレーションに入るんだよね? さっきの操縦ログと連動させたら、かなり実践的なデータ取れそう……」
フレイが淡々と言う。
「スリッピーさん、訓練中は勝手に端末設定を変更しないでください」
「しないよ! 今はしない!」
「今は、という言い方が不安です」
クリスタルは模擬客室を見つめながら、静かに言った。
「思ったより、本格的ね」
エリンはその言葉に頷く。
「乗務員の訓練は、見た目より複雑なの。何かが起きた時、最初に乗客の前に立つのは私達だから」
ククル、エマ、カイエ、ミラは、既に乗務員役として配置についていた。
ククルは前方ブロック。
エマは中央ブロック。
カイエは後方ブロック。
ミラはエリンの補助として全体移動を担当する。
ミラは緊張した様子で手元の端末を確認していた。
「ミラ、大丈夫?」
エリンが声をかける。
「は、はい。大丈夫です」
「焦らなくていいわ。今日はフォクスさん達に見せるための訓練だけど、あなた達にとってもいつも通りの訓練よ」
「はい」
ククルが小声でミラに言う。
「大丈夫だよ、ミラ。エリンさんの訓練はいつも怖いけど、今日はいつも通り怖いだけだから」
「それ、大丈夫なんですか?」
ミラが小声で返す。
エマが穏やかに微笑む。
「大丈夫。終わればちゃんと身になるよ」
「はい……!」
カイエはミラへ柔らかく言った。
「周りを見ること。止まらないこと。迷ったら声を出すこと。それだけ意識して」
「分かりました、カイエさん」
エリンは全員の様子を確認し、フレイ達の方へ向き直った。
「これから行うのは、旅行便の客室内で複数の事案が同時に発生する想定です」
フォクスが静かに聞く。
「複数?」
「ええ。最初は通常運航中の接客。途中で小さな揺れが発生し、乗客の一人が体調不良を訴えます。同時に、別の乗客が不安から立ち上がろうとし、後方では荷物棚のロック不良が起きます」
ファルコが眉を上げた。
「それ、全部同時に?」
「時間差はあるわ。でも、現場では同時に起きているように感じる」
エリンは落ち着いた声で続ける。
「目的は、全てを一人で解決することではありません。優先順位をつけ、情報を共有し、乗客の不安を広げないこと。そして、必要な時に応急処置や医療班への連携を判断することです」
クリスタルは頷いた。
「見るべき点が多いわね」
「ええ。だから、乗務員は常に目と耳を分けて使います」
スリッピーが不思議そうに聞く。
「目と耳を分ける?」
エリンは少し微笑んだ。
「目の前のお客様を見ながら、耳では別の場所の声を聞く。手元で処置をしながら、通路の足音や荷物棚の音を聞く。全体を見ながら、一人を安心させる。そういう意味よ」
フォクスの目が少し変わった。
「現場指揮に近いな」
「そうね。小さな客室の中で、常に現場指揮をしているようなものかもしれないわ」
ファルコは少し感心したように言う。
「客室乗務員って、思ったより戦場見てぇだな」
ククルが少し胸を張る。
「そうですよ! 私達だって大変なんです!」
エリンが即座に言う。
「ククル、胸を張るのはいいけれど、足音に注意」
「は、はい!」
ファルコが少し笑った。
「そこはやっぱり注意されるのか」
訓練が始まった。
最初は静かだった。
ククルが前方ブロックで飲み物を配る。
エマが中央ブロックで乗客役に声をかける。
カイエが後方ブロックで荷物棚の確認をする。
ミラは通路を移動しながら、全体を見ている。
動きはそれぞれ違う。
ククルは明るく、声がよく通る。
エマは穏やかで、乗客役の表情を柔らかくする。
カイエは丁寧で、確認が細かい。
ミラはまだ緊張しているが、周囲を見ようとしているのが分かる。
フォクスは黙って見ていた。
ファルコも、最初は少し退屈そうにしていたが、数分で表情が変わった。
「……あいつら、ずっと周り見てるな」
スリッピーも頷く。
「うん。しかも、動きながら別のところを確認してる」
クリスタルは静かに言った。
「乗客役の表情にも反応しているわ」
フレイは記録する。
「乗務員の通常時対応。声かけ、視線、動線、確認動作。いずれも複合的」
その時、訓練室に軽い揺れを示す警告音が鳴った。
『小規模揺れ発生』
客室再現エリアがわずかに揺れる。
ククルはすぐに飲み物のトレーを安定させ、笑顔のまま声を出した。
「少し揺れますので、お席でお待ちください。大丈夫ですよ」
声は明るい。
だが、いつもより少し抑えている。
エリンの指導が入っているのだろう。
エマは中央ブロックで、高齢者役の乗客に寄り添う。
「ご気分はいかがですか? お水をお持ちしましょうか」
カイエは後方で荷物棚のロックを確認しながら、端末に状況を入力する。
「後方ブロック、荷物棚確認中。異常なし」
ミラは前方から中央へ移動しかけ、途中で不安そうに立ち上がろうとした乗客役に気づいた。
「あ、お客様。危ないので、今はお座りください。すぐに伺います」
一度立ち止まりかけたが、すぐにククルへ目を向ける。
「ククルさん、前方お願いします!」
「了解!」
ククルがすぐに反応する。
フォクスが小さく言った。
「役割の切り替えが早い」
エリンは観察しながら、まだ何も言わない。
次の事案が発生する。
中央ブロックの乗客役が胸を押さえる。
「すみません……少し気分が……」
エマがすぐに屈む。
「ご気分が悪いですね。呼吸は苦しくないですか?」
その声の柔らかさに、ファルコが少し目を細めた。
「落ち着かせ方が上手いな」
クリスタルが頷く。
「声が低すぎず、高すぎない。相手の呼吸を乱さない声ね」
エマは乗客役の顔色を確認し、ミラへ声をかける。
「ミラ、医療キットをお願い。カイエ、後方の確認を続けて」
「はい!」
ミラが医療キットを取りに動く。
しかし、その瞬間、後方で荷物棚のロック不良を示す音が鳴った。
カイエがすぐに反応する。
「後方、荷物棚ロック不良。対応します」
カイエは落ち着いた声で周囲に声をかけ、荷物棚へ向かう。
だが、ミラは一瞬だけ迷った。
医療キット。
荷物棚。
不安そうな乗客。
声が重なる。
その迷いを、エリンは見逃さない。
「ミラ、止まらない」
短い指摘。
ミラははっとして動く。
「はい!」
医療キットを取り、エマへ渡す。
エマは乗客役の脈と呼吸を確認する動作を行いながら、穏やかに話しかける。
「大丈夫です。今、確認しています。ゆっくり息をしてください」
クリスタルはその様子をじっと見ていた。
そして小さく頷く。
「悪くないわ。声かけがいい」
エリンは訓練を一時停止した。
「ここまで」
電子音が鳴り、シミュレーションが止まる。
ククル達は一斉に息を吐いた。
「はぁ……」
ミラは少し肩で息をしている。
カイエは落ち着いているが、額にわずかに汗が浮かんでいた。
エマは乗客役から離れ、静かに立ち上がる。
エリンは四人を見た。
「全体としては良くなっているわ。ククル、揺れの時の声量は前より抑えられていたわね」
「本当ですか!」
「ええ。ただ、最初の一歩が少し大きい」
「足音ですね……」
「そう」
ククルは肩を落としたが、どこか嬉しそうでもあった。
「エマ、体調不良者への声かけは良かったわ。呼吸を乱さない声だった」
「ありがとうございます」
「ただ、ミラへの指示を出す前に、周囲確認が少し遅れたわ。カイエの後方確認と重なる場面だったから、もう半秒早く共有できるといい」
「はい」
「カイエ、荷物棚への対応は落ち着いていたわ。ただ、周囲の乗客への一言が少し遅い。動作は正確だけれど、周りは何をしているか分からないと不安になる」
「分かりました」
「ミラ」
「はい!」
ミラは背筋を伸ばす。
「迷った時に止まりかけたわね」
「はい……」
「でも、今回は自分で動き直せた。そこは良かったわ」
ミラの顔が少し明るくなる。
「ありがとうございます」
「ただ、迷う前に声を出すこと。『医療キット取ります』『後方お願いします』でもいい。声に出せば、周りが補えるわ」
「はい!」
フォクス達は、黙ってその講評を聞いていた。
ファルコが小さく言う。
「細けぇ……けど、全部意味があるんだな」
フォクスが頷く。
「ああ。現場指揮と同じだ。だが距離が近い分、声や表情の影響が大きい」
スリッピーは少し感動したように言う。
「すごいね。僕、乗務員の人達がここまで細かく見てるって知らなかった」
クリスタルはエリンへ視線を向けた。
「次、私が少し話してもいいかしら」
「お願いできる?」
「ええ」
クリスタルは前に出た。
ククル、エマ、カイエ、ミラが自然と姿勢を正す。
クリスタルは医療キットを手に取り、落ち着いた声で言った。
「今の対応は全体として良かったわ。特に、声をかけ続けたことは大事。体調不良者は、自分が見捨てられていないと分かるだけで、呼吸が少し落ち着くことがある」
エマが真剣に頷く。
「はい」
「ただ、応急処置で大切なのは、“何かをすること”より、“悪化させないこと”よ」
クリスタルはキットを開き、簡易的なチェック手順を示す。
「まず、呼吸。次に意識。顔色。汗。手足の冷え。痛みを訴えている場所。乗務員が診断する必要はない。でも、医療班に繋ぐ時に、この情報があるかないかで対応が変わる」
ミラは真剣にメモを取っていた。
ククルもいつになく静かに聞いている。
カイエは質問した。
「痛みを訴えない場合でも、表情や姿勢で見るべきですか?」
「ええ。特にパニック状態の人や、周囲に気を遣う人は、痛みを隠すことがあるわ。座り方、手の位置、呼吸の浅さ。そういうものを見るの」
エマが静かに言った。
「安心させながら、観察するんですね」
「そう。安心させることと観察することは、同時にできるわ」
エリンはその言葉を聞きながら、少しだけ微笑んだ。
ペルシアが言った通りだった。
クリスタルの視点は、乗務員にとって必要だった。
訓練室の空気は、午前の操縦訓練とはまったく違う熱を持ち始めていた。
外から見るだけでは分からない、乗務員達の現場。
それをフォクス達は今、初めて真正面から見ていた。
そして訓練室の入口が、静かに開いた。
ペルシア、リュウジ、タツヤ班長が入ってくる。
ペルシアは中の様子を見て、満足そうに目を細めた。
「うん。いい感じじゃない」
リュウジも訓練室の空気を見て、静かに頷いた。
「始まっているな」
タツヤ班長は小さく笑う。
「午後も濃くなりそうだねぇ」
訓練はまだ終わらない。
むしろ、ここからが本番だった。
ーーーー
訓練は終盤に入っていた。
最後の想定は、複数の不安要素が同時に発生するものだった。
ククルが前方で子ども役の対応。
エマが中央で体調不良者の観察。
カイエが後方で荷物棚と不安を訴える乗客の対応。
ミラがその間を行き来し、必要なものを届ける。
エリンは全体を見ながら、指摘を入れるタイミングを探っていた。
その時だった。
ふと、エリンは気づいた。
訓練室を見回す。
ククル、エマ、カイエ、ミラ。
フォクス、ファルコ、スリッピー、クリスタル。
フレイ。
訓練補助の乗務員達。
他の班から見学に来ていた数人。
ほとんど全員がこの訓練室に集まっている。
そして、いない人物がいる。
ペルシア。
リュウジ。
タツヤ班長。
エリンの眉が、ほんの少しだけ動いた。
最初は気にしていなかった。
ペルシアは資料作成。
リュウジはその補助。
タツヤ班長は事務所で様子を見る。
そういう流れだった。
ペルシアが提案した午後の訓練変更には、確かに意味があった。
フォクス達に乗務員の動きを見せる。
クリスタルに応急処置を教えてもらう。
民間人への声かけ、乗客の不安、客室全体の流れを理解してもらう。
それは本当に必要なことだった。
ペルシアの言葉に嘘はなかった。
けれど。
エリンは、静かに息を吸った。
嘘はない。
でも、本質を見誤っていたかもしれない。
この状況。
訓練室に、ほぼ全員が集まっている。
フレイもいる。
クリスタルもいる。
エリンもいる。
つまり、ペルシアを止める人間が、事務所から消えている。
資料作成を終えたと言って、少しだけ気を抜いたあの子なら。
リュウジが隣にいるなら。
タツヤ班長がゆるく見守っているだけなら。
抜け出すには、持ってこいの状況だ。
エリンの目が、すっと鋭くなった。
「……まさか」
小さな呟きだったが、近くにいたクリスタルが気づいた。
「どうしたの?」
エリンは答えなかった。
訓練はちょうど最後の場面に差しかかっていた。
ここで止めるわけにはいかない。
だが、エリンの中では確信に近いものが生まれつつあった。
ペルシア。
あなた、まさか。
◇
訓練が終わったのは、それから二十分ほど後だった。
エリンは講評を短くまとめた。
「全体として、今日の動きは良かったわ。特にミラ、声を出して共有する意識が出てきたのは大きな成長よ」
「ありがとうございます!」
「ククルも、声量は前より調整できていたわ。ただ、動き出しの足音はまだ課題ね」
「はい……!」
「エマは、体調不良者への寄り添い方は安定しているわ。次は周囲確認をもう少し早く」
「はい」
「カイエは、後方対応がとても落ち着いていた。説明の一言を足せば、さらに安心感が出るわ」
「分かりました」
クリスタルも短く補足した。
「応急処置については、今日の内容をまず覚えておけば十分よ。診断しようとしないこと。悪化させないこと。医療班へ繋ぐための情報を集めること。この三つを忘れないで」
四人は真剣に頷いた。
フォクス達も、訓練の重みを受け止めたように静かだった。
だが、エリンの意識は半分だけ別のところへ向いていた。
終わるなり、エリンはフレイへ視線を向けた。
「フレイさん」
「はい」
「事務所へ戻りましょう」
その声の響きに、フレイはすぐに何かを察した。
「統括官ですね」
「ええ」
クリスタルもため息を吐いた。
「また?」
「まだ確認はしていないわ」
エリンはにっこり笑った。
「でも、確認した方が良さそうね」
ククルが小さく震えた。
「エリンさんのその笑顔、怖いです……」
ファルコが横で小声で言う。
「ペルシア、何かやらかしたのか?」
スリッピーが不安そうに言う。
「資料終わったって言ってたよね?」
フレイは端末を確認した。
「詳細版は受領しました。ただし、修正確認中です。まだ最終提出は完了していません」
クリスタルは目を細めた。
「それなのに、姿がない可能性があるのね」
「急ぎましょう」
エリンは静かに言った。
◇
事務所へ戻ると、タツヤ班長が一人でいた。
タツヤ班長は椅子に座っていたが、扉が開いた瞬間、肩をびくっと震わせた。
その反応だけで、エリンはすべてを悟った。
「班長」
「……はい」
いつものゆるい返事ではなかった。
タツヤ班長は苦笑いを浮かべているが、額に少し汗がにじんでいる。
エリンは穏やかな声で聞いた。
「ペルシアは?」
タツヤ班長は目を逸らした。
「資料が終わったって言ってたよ」
すかさずフレイが端末を確認しながら言う。
「まだ資料の一部に過ぎません。局長提出用の修正版、内部共有用の添付資料、訓練計画の詳細日程が未完了です」
タツヤ班長はさらに苦笑する。
「そうなんだよねぇ……」
エリンは一歩近づく。
「班長、ペルシアは?」
「……飲みに行った」
空気が固まった。
ククルが小さく叫んだ。
「ええっ!?」
ミラが目を丸くする。
「飲みに……?」
クリスタルの表情が凍る。
フレイの目が細くなる。
フォクスは黙って天井を見た。
ファルコは思わず笑いかけたが、周囲の空気に気づいて口を閉じた。
エリンは、静かに聞いた。
「誰と?」
タツヤ班長はさらに視線を泳がせた。
「リュウジと」
今度はエリンが固まった。
「リュウジと?」
「うん」
「ペルシアとリュウジが?」
「うん」
「仕事中に?」
「まあ、資料が一段落したって言ってたからねぇ……」
フレイが即座に言う。
「一段落であって、完了ではありません」
クリスタルも低く言った。
「リュウジも止めなかったの?」
タツヤ班長は両手を軽く上げる。
「いやぁ、ペルシアが“今日くらい付き合いなさいよ。フォクス達の話も聞きたいし、資料の打ち上げも兼ねて”って言ってね」
エリンのこめかみが、わずかに動いた。
「打ち上げ……?」
「そう言ってたね」
「仕事が終わっていないのに?」
「そうなんだよねぇ」
フレイは端末を握りしめた。
「統括官……」
その声は静かだった。
静かすぎて怖い。
クリスタルは深く息を吐いた。
「やられたわね」
エリンは目を閉じた。
やられた。
本当に、やられた。
ペルシアの提案は正しかった。
午後の訓練変更にも意味があった。
だからこそ、エリンはその流れに乗った。
だが、その裏でペルシアは、自分を止める包囲網を訓練室に集め、リュウジを連れて抜け出したのだ。
ペルシアらしい。
あまりにも、ペルシアらしい。
エリンはゆっくり目を開けた。
「班長」
「はい」
「場所は?」
「……いつもの天ぷら屋」
エリンは静かに頷いた。
「分かりました」
その声があまりにも穏やかだったので、ククルが震えた。
「エリンさん……怒ってます?」
エリンはにっこり微笑んだ。
「怒ってないわ」
ククルは小声でミラに言う。
「絶対怒ってる……」
「はい……」
フレイは端末を閉じた。
「仕事終了後、回収に向かいましょう」
クリスタルが頷く。
「ええ。今すぐ行くと、業務時間内の問題が増えるわ。仕事が終わってから、きっちり話をするべきね」
エリンは静かに言った。
「そうね」
その一言に、説教の予告がすべて詰まっていた。
◇
仕事が終わった後。
エリン、フレイ、クリスタルを先頭に、ククル、エマ、カイエ、ミラ、フォクス、ファルコ、スリッピー、そしてタツヤ班長までが天ぷら屋へ向かった。
タツヤ班長は途中でぼそっと言った。
「俺も行くんだね」
エリンは穏やかに答えた。
「班長も見逃した側ですから」
「そうだよねぇ」
タツヤ班長は肩を落とした。
店の近くに着くと、すぐに分かった。
中から、聞き慣れた声が響いている。
「あははははっ! それでファルコがね、“俺の方が速い”って顔してるのよ! でもリュウジは淡々と“戻る基点を決めろ”って言うわけ! あの時のファルコの顔!」
「笑いすぎだ、ペルシア」
リュウジの落ち着いた声も聞こえる。
「だって面白かったんだもの! あ、すみませーん、ビールもう一つ!」
「飲みすぎるな」
「大丈夫、大丈夫。天ぷらにはビールでしょ」
店の外で、全員が立ち止まった。
ファルコが小さく言う。
「完全に楽しんでるな」
スリッピーが心配そうに言う。
「ペルシア、怒られるよね……」
クリスタルが静かに答える。
「怒られるわね」
フレイは表情を変えずに言った。
「説教だけでは足りません。資料修正も追加します」
ククルが震える。
「怖い……」
エリンは扉に手をかけた。
「入りましょう」
がらりと扉が開く。
店内の奥の座敷。
そこにペルシアとリュウジがいた。
テーブルには、天ぷら盛り合わせ。
海老天、かぼちゃ、白身魚、ししとう、舞茸。
ペルシアの前にはビール。
リュウジの前にはウーロン茶。
ペルシアは上機嫌で箸を持っていた。
リュウジは、入り口に立つ一団に気づいた瞬間、わずかに目を閉じた。
「……来たか」
ペルシアは振り返った。
「あ」
エリン、フレイ、クリスタル。
三人が並んで立っている。
それだけで、店内の温度が三度ほど下がった気がした。
ペルシアは笑顔を作った。
「あら、皆んな。奇遇ね」
フレイが一歩前へ出た。
「奇遇ではありません」
クリスタルも続く。
「当然、探しに来たのよ」
エリンはにっこり微笑んだ。
「楽しそうね、ペルシア。リュウジ」
リュウジは静かに頭を下げた。
「……すみません、エリンさん」
ペルシアはすぐに言った。
「ちょっと待って。リュウジは悪くないわ。私が誘ったの」
エリンはペルシアを見た。
「もちろん、あなたにも話があるわ」
「あるわよね」
「ええ。たっぷり」
ペルシアは少しだけビールを遠ざけた。
クリスタルがその動きを見逃さない。
「そのビール、何杯目?」
「一杯目」
リュウジが静かに言った。
「二杯目です」
「リュウジ!」
「嘘は良くないだろう」
フレイが端末を取り出した。
「統括官、業務時間内に無断離席し、資料未完了のまま外出。加えて飲酒。報告事項として記録します」
「待って、フレイ。業務時間はほぼ終わってたわ」
「“ほぼ”ではありません。少なくとも外出時点では終業前でした」
「細かい!」
「職務上、重要です」
クリスタルはペルシアの向かいに座った。
「ペルシア」
「はい」
「何度言えば分かるの。貴方は統括官なのよ」
「分かってるわよ」
「分かっている人間は、資料を途中で放り出して飲みに行かないわ」
「資料は一段落してたし」
「一段落と完了は違う」
「それ、今日何回も聞いた」
「何回も聞いているのに行動が変わらないから、何回も言われるのよ」
ペルシアはぐっと黙った。
フレイも隣に座り、淡々と資料一覧を端末に表示した。
「残件を確認します。局長提出用ワンペーパー修正版、未完。内部共有用添付資料、未完。訓練日程詳細案、未完。加えて、先ほど送信された詳細版には修正点が十二項目あります」
「十二?」
ペルシアが目を丸くする。
「はい。うち三項目は表現の修正、四項目は評価根拠の追記、二項目は誤字、三項目は統括官の主観表現過多です」
「主観表現過多って何よ」
「“ファルコは性格も操縦も前のめり”などです」
ファルコが吹き出した。
「おい、それ書いたのかよ!」
「分かりやすいでしょ」
「資料に書くなよ!」
フレイは続ける。
「“スリッピーは機械を見る時だけ目が別人”も修正対象です」
スリッピーが少し照れる。
「僕、そんな感じなんだ……」
「“クリスタルはペルシアの健康管理担当としても有望”も不要です」
クリスタルはじろりとペルシアを見た。
「それは残していいわ」
「残すの!?」
ペルシアが驚く。
フレイは淡々と言った。
「表現を整えれば、別紙の統括官生活管理体制に転用できます」
「そんな体制を作らないで」
「必要です」
クリスタルも頷く。
「必要ね」
ペルシアは頭を抱えた。
「ハゲそう……」
クリスタルが静かに言う。
「資料を作れば回避できるわ」
「ハゲの原因が資料になってる」
「逃げるからよ」
その横で、エリンはリュウジの前に立っていた。
リュウジは座ったまま、少しだけ背筋を伸ばしている。
エリンは静かに言った。
「リュウジ」
「はい、エリンさん」
「あなたまで、どうして止めなかったの?」
リュウジは視線を落とした。
「ペルシアが、少しだけ付き合えと言ったので」
「少しだけ?」
「……はい」
「天ぷらを頼んで、ビールを飲ませて、店に落ち着いているのが少しだけ?」
「ビールは俺が勧めたわけではありません」
「でも止めなかったでしょう」
「止めました」
「結果は?」
リュウジは黙った。
エリンはさらに続ける。
「リュウジ、あなたなら分かっていたでしょう。ペルシアが資料を全部終えていないことも、フレイさんが確認していることも、クリスタルさんが心配していることも」
「……分かっていました」
「それなら、どうして一緒に来たの?」
リュウジはしばらく黙った。
その沈黙は、言い訳を探している沈黙ではなかった。
どう言葉にすればいいか考えている沈黙だった。
「ペルシアが、少し疲れているように見えました」
エリンの表情が少しだけ動いた。
リュウジは続ける。
「資料を作っている時、ふざけてはいましたが、フォクス達のことをかなり真剣に考えていました。チームのことも、今後の訓練のことも。だから、一区切りついたところで、少し気を抜かせてもいいと思いました」
ペルシアが少し驚いたようにリュウジを見る。
エリンは静かに聞いていた。
「それが天ぷら屋だったの?」
「ペルシアが天ぷらを食べたいと言っていたので」
「そしてお酒も?」
「そこは止めました」
「止めきれなかったのね」
「はい」
リュウジは素直に認めた。
エリンは小さく息を吐いた。
「リュウジ、あなたが優しいのは分かっているわ」
「……」
「でも、優しいからこそ、止めなければいけない時もあるの。ペルシアは自分で止まれない時がある。あなたもそれを知っているでしょう?」
「はい」
「だったら、一緒に流されないで」
「すみません」
リュウジは深く頭を下げた。
エリンはその姿を見て、少しだけ声を柔らかくした。
「あなたがペルシアを心配したのは分かる。でも、今のペルシアは統括官で、責任も重いの。気を抜かせることと、逃がすことは違うわ」
「はい」
「それに……」
エリンは少しだけ目を細めた。
「私に何も言わずに出ていったことも、怒っているわ」
リュウジが顔を上げる。
「エリンさんに?」
「ええ」
エリンは少しだけ頬を膨らませるような、珍しい表情を見せた。
「一言くらい言ってくれてもよかったでしょう」
リュウジは一瞬、言葉に詰まった。
その反応を見て、ククルが小声でエマに言う。
「エリンさん、リュウジさんにはちょっと怒り方が違う……」
エマが小さく頷く。
「うん」
カイエは二人を小声で制した。
「聞こえるよ」
ミラは頬を赤くして、そっと視線を落とした。
リュウジは真面目に答えた。
「すみません。次からは必ず言います」
「次がある前提なの?」
「……次はないようにします」
「よろしい」
エリンはようやく少しだけ表情を緩めた。
一方、ペルシアへの説教はまだ続いていた。
フレイは資料の未完了箇所を一つずつ読み上げていた。
「まず、局長提出用ワンペーパーについて。統括官、表題だけで提出はできません」
「それは分かってるわよ」
「分かっていて放置したのですね」
「言い方」
「事実です」
「フレイ、最近どんどん強くなってない?」
「統括官への対応に必要な強度を身につけました」
ファルコが笑いをこらえきれずに言った。
「対応に必要な強度って、完全にペルシア対策じゃねぇか」
フレイは真顔で頷く。
「はい」
「認めた!」
ペルシアは机に突っ伏した。
クリスタルはその横で、さらに追撃する。
「資料だけじゃないわ。問題は、貴方が何も言わずに抜けたことよ」
「ちゃんとタツヤ班長には言ったわ」
「止めない人に言っても意味がないでしょう」
タツヤ班長が小さく手を上げる。
「俺も怒られる流れかな?」
クリスタルは静かに見た。
「当然です」
「やっぱり?」
エリンもタツヤ班長を見る。
「班長も、次からは止めてください」
「はい。ごめんねぇ」
「タツヤ班長、謝るの早い」
ペルシアが言う。
タツヤ班長は苦笑した。
「ここで粘っても勝てないからねぇ」
「確かに」
「ペルシアも謝った方がいいよ」
ペルシアは黙った。
フレイ、クリスタル、エリン。
三人の視線がペルシアに集まる。
ペルシアは少しだけ唇を尖らせ、それから観念したように息を吐いた。
「……ごめんなさい」
フレイは静かに聞く。
「何についてですか?」
「資料が終わってないのに抜け出したこと」
「他には?」
「フレイの確認前に出たこと」
「他には?」
「クリスタルに心配かけたこと」
「他には?」
「エリンに読まれてたのに、勝った気になってたこと」
エリンが少し眉を上げる。
「そこなの?」
「違う?」
「違うわね」
ペルシアは苦笑した。
「……皆んなに心配かけたこと」
少しだけ、声が真面目になった。
「それと、リュウジを巻き込んだこと」
リュウジが静かに言う。
「俺は自分で来た」
「でも誘ったのは私だから」
ペルシアは珍しく素直に言った。
クリスタルは少しだけ表情を和らげた。
「分かっているならいいわ」
フレイは端末を閉じる。
「では、説教は一旦ここまでにします」
ペルシアが顔を上げる。
「一旦?」
「資料修正後に再開します」
「再開するの!?」
「必要に応じて」
ペルシアはまた頭を抱えた。
「ハゲる……」
ククルが小声で言う。
「今日だけで何回ハゲそうって言ってるんでしょうね」
エマが微笑む。
「でも、髪はまだ大丈夫そう」
カイエが柔らかく言う。
「資料が終われば、たぶん大丈夫」
ミラが真剣に頷く。
「はい。ペルシアさんならできます」
ペルシアは四人を見て、少しだけ笑った。
「皆んな、優しいのか厳しいのか分からないわね」
エリンが言った。
「優しいから厳しいのよ」
その言葉に、ペルシアは目を細めた。
「……そういうこと言うの、ずるいわよ、エリン」
「本当のことだもの」
ペルシアはしばらく黙り、それから小さく笑った。
「分かった。戻ったら資料直すわ」
フレイがすぐに言う。
「今から戻ります」
「え、天ぷらは?」
「食べ終わった分で十分です」
「まだ舞茸残ってる」
クリスタルが皿を見た。
「それを食べたら戻る」
「やった」
「ビールは追加禁止」
「はい」
「煙草も禁止」
「ここ禁煙よ」
「帰り道も禁止」
「はいはい」
エリンはリュウジを見る。
「リュウジも、帰ったら少し手伝ってあげて」
「はい、エリンさん」
「ただし、今度は抜け出させないこと」
「分かりました」
ペルシアが横から言う。
「リュウジ、今度こそ逃げるなら二人で――」
「ペルシア」
エリン、フレイ、クリスタルの三人の声が重なった。
ペルシアはすぐに口を閉じた。
「冗談です」
ファルコが笑った。
「すげぇな。完全に包囲されてる」
フォクスが静かに言う。
「だが、必要だろう」
スリッピーも頷いた。
「ペルシア、放っておくと本当にどこか行っちゃうしね」
ペルシアは舞茸の天ぷらを食べながら、不満そうに言った。
「私の扱い、ひどくない?」
タツヤ班長が笑う。
「愛されてるってことだよ」
ペルシアは一瞬だけ黙った。
そして、少し照れたように目を逸らした。
「……そういうことにしておくわ」
その後、ペルシアは残った天ぷらを食べ終えた。
ビールの追加は許されなかった。
代わりに、エリンが温かいお茶を注文した。
「はい、ペルシア」
「お茶?」
「飲みなさい」
「はい」
フレイは支払いを確認しながら、資料修正の手順をすでに組み立てていた。
クリスタルはペルシアが本当にビールを追加しないか見張っていた。
エリンはリュウジに、次に無断で付き合わないよう静かに念押ししていた。
ククル達はその様子を見ながら、どこか安心したように笑っていた。
説教は長かった。
痛かった。
逃げ場はなかった。
けれど、それはペルシアが一人ではない証拠でもあった。
誰かが止める。
誰かが怒る。
誰かが心配する。
誰かが戻してくれる。
ペルシアは湯呑みを両手で持ちながら、ぽつりと呟いた。
「……本当に、ハゲそうなくらい愛されてるわね、私」
クリスタルが即座に言う。
「それなら、資料で恩返ししなさい」
フレイも続ける。
「戻り次第、修正作業です」
エリンもにっこり微笑んだ。
「逃げたら、今度は本当に許さないわ」
ペルシアは湯呑みを置き、両手を上げた。
「はいはい。分かりました。統括官ペルシア、これより資料修正に戻ります」
ファルコが笑う。
「やっと観念したか」
「今日はね」
ペルシアが小さく返す。
エリンの視線が飛ぶ。
「今日は?」
「明日も」
「よろしい」
店内に笑いが広がった。
こうして、ペルシアとリュウジの天ぷら屋逃走事件は、フレイとクリスタルによる厳重注意、エリンによるリュウジへの静かな説教、そして全員の見守る中での資料修正確約によって、一応の決着を見た。
ただし、ペルシアの資料はまだ終わっていない。
そして、ペルシアを囲む包囲網は、さらに強固になっていた。