ハロウィンの余韻が、まだ十四班のフロアに少しだけ残っていた。
机の端に置かれていた小さなかぼちゃの飾りは、すでに片付けられている。
黒猫の紙飾りも、エマが丁寧に箱へしまった。
けれど、休憩スペースの隅には、まだほんの少しだけ甘い焼き菓子の香りが残っていた。
その翌朝。
エリンはいつもより少し早めに出社した。
今日の午前中は、前日の訓練記録の整理と、次回フライトに向けた乗務員配置の確認がある。
それに加えて、ミラの最近の動きについて、カイエと短く確認をしておきたい。
エリンは端末を片手に、十四班のフロアへ向かう廊下を歩いた。
いつもなら、この時間帯のフロアは比較的静かだ。
ククルが少し慌ただしく資料を出し、エマが穏やかにお茶を淹れ、カイエが眠そうに端末を立ち上げ、ミラが姿勢よく今日の予定を確認している。
そんな日常があるはずだった。
けれど、その日は違った。
十四班のフロアの入口に近づいた時点で、エリンは違和感に気づいた。
ざわざわしている。
声が多い。
しかも、その中心には、いつもの訓練前の緊張や、フライト前の確認とは違う、妙な浮つきがあった。
「え、可愛い……!」
「ちっちゃい……!」
「泣かない? 大丈夫?」
「触っていいの?」
「待って、揺らしたら駄目なんじゃない?」
「いや、揺らし方にもよるんじゃ……」
エリンは足を止めた。
そして、フロアへ入る。
そこには、人だかりができていた。
ククル、カイエ、ミラだけではない。
他の乗務員やパイロットまで、十四班の一角に集まっている。
その中心にいたのは、エマだった。
ただし、いつもの穏やかなエマではない。
両腕をぎこちなく前に出し、明らかに緊張した表情で、何かを抱いている。
布に包まれた、小さな存在。
赤ん坊だった。
エリンは一瞬だけ目を瞬かせた。
「……赤ちゃん?」
その声に、周囲が振り返る。
ククルが真っ先に反応した。
「あ、エリンさん!」
ミラも慌てて背筋を伸ばす。
「お、おはようございます、エリンさん!」
カイエは少し困ったように笑っている。
「おはようございます。ちょっと……朝から大変なことになっていて」
エマはエリンの姿を見るなり、救いを見つけたような顔になった。
「エリンさん……!」
その声は、普段の穏やかなエマからは想像できないほど切実だった。
エリンはすぐに近づいた。
「どうしたの?」
エマは赤ん坊を抱いたまま、完全に固まっている。
「あの、親戚から急に頼まれて……今日だけ、どうしても預かってほしいって言われて……保育施設も急に使えなくなったらしくて……それで、朝だけ連れてきたんですけど……」
「なるほど」
エリンは赤ん坊を見る。
まだ一歳にも満たないだろう。
ふっくらした頬。
小さな手。
柔らかそうな髪。
今は眠っているのか、目を閉じてすやすやと息をしている。
エリンの表情が、自然と柔らかくなった。
「可愛い子ね」
「はい……」
エマは頷いたが、その顔は明らかに不安でいっぱいだった。
「でも、私、赤ちゃんをちゃんと預かったことがなくて……。抱っこもこれで合っているのか分からなくて……」
エリンは静かにエマの腕の位置を見た。
「少し肩に力が入りすぎているわね」
「えっ」
「大丈夫。落とすことはないから、まずエマが落ち着いて」
「は、はい……」
エリンは赤ん坊に視線を落としたまま、やわらかい声で言った。
「赤ちゃんは、抱いている人の緊張をよく感じるの。エマが怖がっていると、この子も少し不安になるわ」
「そうなんですか……」
「ええ」
エリンは手を差し出した。
「少し抱かせてもらってもいい?」
「お願いします……!」
エマはほとんど縋るように言った。
エリンは両手を差し入れ、赤ん坊の首と背中を支えながら、ゆっくりと抱き上げた。
その動きに、周囲の空気が変わった。
慌てがない。
怖がりすぎない。
乱暴でもない。
まるで、壊れ物ではなく、ちゃんと生きている温かい存在として受け止めるように。
赤ん坊は少しだけ身じろぎした。
けれど、泣かなかった。
エリンは赤ん坊を胸元に寄せ、軽く背中をぽん、ぽん、と一定のリズムで叩いた。
「おはよう。びっくりしたわね」
声が優しい。
普段、乗客へ向ける落ち着いた声とも少し違う。
もっと柔らかく、丸く、包むような声だった。
ククルが思わず呟いた。
「……エリンさん、すごい」
ミラも目を丸くしている。
「赤ちゃんが……落ち着いてます」
カイエは感心したように言った。
「抱き方が自然ですね」
エマは両手を胸の前で握りしめた。
「エリンさん……神様みたいです……」
「大げさよ」
エリンは苦笑しながらも、赤ん坊の背中をやさしく撫で続けた。
その姿は、あまりにも自然だった。
チーフパーサーとしての落ち着きとはまた違う。
人を安心させる力。
小さな命を前にした時の、無条件の優しさ。
守らなければ、という強さではなく、包み込むような温かさ。
ククルは小声でカイエに言った。
「ねぇ、エリンさん……お母さんみたい」
カイエはすぐには否定しなかった。
「うん。分かる」
ミラは頬を赤らめながら、何度も頷いていた。
「すごく……安心します」
エリンはその声も聞こえていたのか、赤ん坊を抱いたまま静かに言った。
「みんな、あまり大勢で囲まないで。赤ちゃんが驚いてしまうわ」
「あ、はい!」
ククルが慌てて下がる。
周囲にいた他の乗務員達も、少しずつ距離を取った。
エリンはエマを見る。
「この子の名前は?」
「ミオちゃんです。親戚の子で……」
「ミオちゃんね」
エリンは赤ん坊に微笑みかけた。
「ミオちゃん、今日はよろしくね」
ミオは小さく口を動かした。
エリンはその様子を見て、さらに表情を柔らかくした。
「お腹は空いていないかしら?」
「あ、ミルクの時間は……」
エマは慌ててバッグを開く。
「メモが入ってます! たしか、次は十時半くらいで、でも泣いたら少し早めでもいいって……」
「分かったわ。おむつや着替えもある?」
「あります! 全部このバッグに入ってます!」
「よかった。まずは一度、休憩室を使いましょう。ここは人の出入りが多いから」
エリンは周囲を見回した。
「ククル、休憩室のソファ周りを片付けて。小物や飲み物を赤ちゃんの手が届かない場所へ」
「はい!」
「カイエ、床に落ちている小さなものがないか確認して。クリップやペンのキャップも危ないわ」
「分かりました」
「ミラ、清潔なタオルを何枚か用意してくれる?」
「はい!」
「エマは、バッグの中身を一緒に確認しましょう」
「はい!」
エリンが指示を出すと、さっきまで騒然としていたフロアが一気に動き始めた。
ククルは慌ただしく、しかし今回は足音を気にしながら休憩室へ走らないよう早歩きで向かう。
カイエはすぐに床や机の下を確認し、小さな金属クリップを拾い上げた。
ミラは清潔なタオルを取りに行き、エマはバッグを抱えてエリンの後に続く。
エリンはミオを抱いたまま、ゆっくり休憩室へ向かった。
その後ろ姿を見て、ククルは再び小声で言った。
「……本当にお母さんみたい」
◇
休憩室はすぐに簡易的な赤ん坊用スペースになった。
ソファの上には清潔なタオル。
テーブルの上にはおむつ、着替え、ウェットシート、ミルク用の粉、哺乳瓶。
床には危ないものがないように確認済み。
湯沸かし器と冷水も、カイエが安全な場所に移した。
エリンはミオを抱いたまま、エマにバッグの中身を確認させた。
「おむつは何枚ある?」
「えっと……五枚です」
「着替えは?」
「二組あります」
「ミルクの粉は?」
「これです。哺乳瓶も……あります。消毒済みって書いてあります」
「よかった。メモは?」
「これです」
エマは親戚から預かったメモを読み上げた。
「ミオ、八ヶ月。ミルクは一回二百ミリ。十時半、十四時、場合によっては調整。離乳食は今日はなしで大丈夫。おむつはこまめに確認。眠くなると耳を触る癖あり……」
「八ヶ月なのね」
エリンはミオの顔を覗き込む。
「ミオちゃん、今日は少し大変ね」
ミオはエリンの服を小さな手で掴んだ。
その仕草に、ミラが小さく声を漏らす。
「可愛い……」
ククルも両手を握る。
「ちっちゃい手……!」
エリンは微笑んだ。
「触る時は、まず手を洗ってからね」
「あ、はい!」
ククルとミラが慌てて手洗いへ向かう。
カイエは冷静に言う。
「赤ちゃんって、思ったより色々注意することがあるんですね」
「そうね。大人にとっては何でもないものでも、赤ちゃんには危険になることがあるわ」
エリンはミオを抱きながら、自然に説明した。
「小さなものを口に入れてしまうこともあるし、熱い飲み物も危ない。机の角、コード、紙の端、何でも気をつける必要があるの」
エマは青ざめた。
「わ、私、一人で大丈夫でしょうか……」
「大丈夫。今日は皆もいるし、私も手伝うわ」
「エリンさん……!」
エマは泣きそうな顔になった。
「でも、親戚から頼まれたのは私なのに、もう最初から全然できてなくて……」
「最初からできる人なんていないわ」
エリンは静かに言った。
「赤ちゃんの世話は、慣れていないと誰だって不安になるものよ。大切なのは、分からないまま無理をしないこと。ちゃんと確認すること」
「はい……」
「それに、エマはちゃんと助けを求めたでしょう? それは大事なことよ」
エマはエリンを見つめた。
その表情が少しだけ和らぐ。
「ありがとうございます」
その時だった。
ミオが小さく眉を寄せた。
口元が歪む。
次の瞬間。
「ふぇ……ふぇぇ……」
泣き声が漏れた。
エマが一瞬で慌てた。
「あっ、泣いた! 泣きました! どうしましょう、エリンさん!」
「落ち着いて」
「お腹ですか? 眠いんですか? どこか痛いんでしょうか!? 私、何かしましたか!?」
「エマ、まず深呼吸」
「はい!」
エマは本当に深く息を吸った。
しかし、ミオの泣き声は少しずつ大きくなる。
「ふぇぇ……あぁぁ……!」
ククルも慌てる。
「えっ、えっ、何すればいいですか!?」
ミラもおろおろする。
「ミオちゃん、大丈夫ですか……?」
カイエも少しだけ困った表情になる。
「泣き声って、結構焦るね」
その中で、エリンだけが落ち着いていた。
ミオを胸に寄せ、背中を一定のリズムで叩く。
「大丈夫よ。びっくりしたのね」
声は低く、柔らかい。
「ミオちゃん、大丈夫。ここにいるわ」
泣いている赤ん坊に対して、言葉の意味はすべて伝わらないかもしれない。
けれど、声の調子は伝わる。
エリンの声は、まるで揺れた水面を静かに撫でるようだった。
ミオの泣き声が、少しだけ弱くなる。
エリンはミオの額に自分の頬を少し近づけた。
「熱はなさそうね。顔色も悪くないわ。おむつか、お腹か、眠いかしら」
エマは慌ててメモを見る。
「ミルクは十時半で、まだ少し早いですけど……」
「泣く理由は一つじゃないわ。まず、おむつを確認しましょう」
「おむつ……!」
エマの顔が強張った。
「私、替えたことないです」
「大丈夫。教えるわ」
エリンはククルとミラに指示を出す。
「ククル、タオルを一枚広げて。ミラ、おむつとウェットシートを用意して」
「はい!」
「カイエ、使用済みのおむつを入れる袋を準備して」
「分かりました」
「エマは横にいて見ていて。次から一緒にやってみましょう」
「はい……!」
エリンはミオをゆっくりタオルの上に寝かせた。
ミオは泣きながら手足を動かす。
エマがまた慌てる。
「あっ、動いてます! 大丈夫ですか!?」
「元気な証拠よ」
エリンはミオの足を優しく支えた。
「動いても無理に押さえつけないで。少し支えてあげるだけでいいわ」
おむつを開いた瞬間、エマが固まった。
「……あ」
ククルが顔をしかめる。
「あ、これは……」
ミラは慌てて視線を逸らす。
「お、おむつ……」
カイエは少し苦笑した。
「なるほど」
エマは完全に大騒ぎになった。
「ウンチです! エリンさん、ウンチしてます! どうしましょう! え、これ、どうやって……え、こんなに!? 赤ちゃんってこんな……!」
「エマ」
エリンの声が少しだけ強くなる。
エマはぴたりと止まった。
「はい」
「ミオちゃんが驚くから、声を落として」
「はい……!」
エリンは落ち着いてウェットシートを取り出す。
「赤ちゃんにとっては普通のことよ。汚いと思いすぎないで。もちろん清潔にする必要はあるけれど、慌てることではないわ」
エマは真剣に頷いた。
「はい……」
「まず、足を軽く持ち上げる。腰を強く引っ張らないで。拭く時は前から後ろへ。肌が柔らかいから、こすらず優しく」
エリンの手つきは丁寧だった。
無駄がない。
でも、機械的ではない。
ミオに声をかけながら、肌を傷つけないように拭いていく。
「気持ち悪かったわね。すぐきれいにするからね」
ミオはまだ少し泣いていたが、エリンの声を聞いているうちに、少しずつ落ち着いてきた。
ククルはその様子を見て、ほとんど感動していた。
「エリンさん、すごい……」
カイエも静かに頷く。
「完全に落ち着いてる」
ミラは目を潤ませている。
「ミオちゃん、安心してます……」
エマは横で必死に見ていた。
エリンは新しいおむつをあて、手早く整えた。
「きつすぎず、緩すぎず。指が一本入るくらいが目安ね」
「はい」
「最後に服を整えて、手を洗う。使用済みのおむつは袋へ」
「はい!」
エマはカイエが用意した袋を受け取り、慎重におむつを入れた。
ミオは泣き疲れたのか、少しだけ目を閉じかけていた。
エリンは抱き上げ、再び胸に寄せる。
「すっきりしたわね」
ミオは小さく息を吐いた。
その姿に、全員がほっとする。
エマは胸を押さえた。
「私、たぶん一人だったら泣いてました」
「泣いてもいいけれど、赤ちゃんの前では一度深呼吸ね」
「はい」
エリンは微笑む。
「次は一緒にやってみましょう」
「はい……!」
◇
その後、しばらくは平和だった。
ミオはエリンの腕の中で落ち着き、やがてソファに座ったエマの膝へ移された。
エマは先ほどより少しだけ上手に抱けるようになっていた。
背中を支え、首元を見て、強く抱きしめすぎないように気をつける。
「こう……ですか?」
「ええ。上手よ」
エリンに褒められ、エマは少しだけ笑った。
「ミオちゃん、重くないのに、すごく緊張しますね」
「小さいけれど、ちゃんと一人の人だからね」
エリンはそう言って、ミオの手をそっと撫でた。
その言葉に、ククルが感心したように言う。
「ちゃんと一人の人……」
「そう。赤ちゃんだから何も分からない、ではないわ。言葉にはできないけれど、感じているものはたくさんあるの」
ミラは真剣に頷いた。
「だから、声のかけ方が大事なんですね」
「ええ」
エリンはミラへ微笑む。
「乗客対応とも似ているわ。不安な人ほど、こちらの声や表情に敏感になる。赤ちゃんは、それがもっと素直に出るの」
カイエが考え込む。
「訓練にも通じますね」
「そうね。相手が何を言えないか、何を感じているかを想像することは、とても大事」
ククルはミオを見ながら、少しだけ背筋を伸ばした。
「私、声が大きいから気をつけます」
「今、気づけたなら十分よ」
「はい」
ミオはエマの腕の中で、ぼんやりと目を開けた。
黒目がちの目が、周囲をゆっくり見る。
ククルが小さく手を振った。
「ミオちゃん、こんにちは」
ミオはククルの動く手を目で追った。
「見た! 今、私を見ました!」
「ククル、声」
「はい……!」
ククルは小声で喜んだ。
エマも少し笑った。
「ミオちゃん、ククルの猫耳が気になるのかも」
「猫耳はハロウィンの残りです!」
ククルはまだ机に置いてあった黒猫耳を取り出し、頭につけた。
「にゃー」
ミオがじっと見る。
そして、ふにゃっと笑った。
その瞬間、休憩室が静かに沸いた。
「笑った!」
ククルが小声で叫ぶ。
「笑いました!」
ミラも両手を握る。
「可愛い……!」
カイエも口元を緩める。
「これは確かに可愛いね」
エマは感動したようにミオを見つめた。
「笑ってくれました……」
エリンも優しく微笑んだ。
「よかったわね、エマ」
「はい……!」
その平和は、長くは続かなかった。
十時過ぎ。
ミオが再びぐずり始めた。
「ふぇ……」
エマがびくっとする。
「泣きそうです」
エリンは時計を見る。
「ミルクの時間が近いわね」
「ミルク……!」
エマは覚悟を決めたように立ち上がった。
「今度こそ私がやります」
「ええ。やってみましょう。私が横で見るわ」
「はい!」
エマはバッグから哺乳瓶とミルクの粉を取り出した。
だが、緊張している。
手元が少し震えている。
エリンはその様子を見て、まず声をかけた。
「エマ、急がなくていいわ。泣いていても、慌てて間違える方が危ないから」
「はい……」
「まず手を洗う」
「はい!」
エマは手を洗った。
「次に、お湯の温度を確認して」
「はい」
「粉の量はメモ通りに」
「はい……えっと、付属のスプーンで……何杯でしたっけ」
「メモを見て」
「はい」
エマはメモを見た。
しかし、ミオの泣き声が少し大きくなる。
「ふぇぇ……!」
エマの手が焦る。
「あっ、待ってね、ミオちゃん、すぐだからね!」
粉ミルクの缶を開ける。
スプーンを入れる。
その瞬間。
エマの手が滑った。
缶が傾く。
「あっ」
次の瞬間、ミルクの粉がテーブルにばさっと広がった。
白い粉が、タオルの上にも、エマの手元にも、少し床にもこぼれる。
エマが固まった。
ククルが目を丸くする。
ミラが息を呑む。
カイエが「あ……」と小さく声を漏らす。
ミオはさらに泣いた。
「あぁぁ……!」
エマの目に涙が浮かんだ。
「やっちゃいました……! どうしよう、ミルクの粉が……! ミオちゃん泣いてるのに、私、何してるんでしょう……!」
エマの声が震える。
普段、穏やかで落ち着いているエマが、完全に自分を責めていた。
エリンはすぐにエマの肩へ手を置いた。
「エマ」
「はい……」
「大丈夫」
「でも……」
「粉はこぼれただけ。まだ残っているわ。足りるか確認しましょう。こぼれた分は片付ければいい。ミオちゃんは泣いているけれど、すぐに危険な状態ではないわ」
エリンの声は落ち着いていた。
それだけで、エマの震えが少し収まる。
「一つずつやれば大丈夫」
「……はい」
エリンはククルを見る。
「ククル、床の粉を踏まないように周りを確認して。滑ると危ないわ」
「はい!」
「カイエ、清潔なタオルとゴミ袋を」
「分かりました」
「ミラ、ミオちゃんのそばにいて声をかけてあげて。抱っこは私がするから、顔を見ていて」
「はい!」
エリンはミオを抱き上げた。
「お腹空いたわね。もう少しだけ待ってね」
ミオは泣いている。
でも、エリンが抱くと、泣き方が少しだけ変わった。
激しく叫ぶような泣き方から、訴えるような泣き方へ。
ミラがそっと顔を覗き込む。
「ミオちゃん、もう少しですよ。エマさんがミルク作ってくれてますよ」
声は震えているが、優しい。
エリンはミラに微笑んだ。
「上手よ、ミラ。その調子」
「はい」
エマは深呼吸した。
今度は、エリンの指示通り、ゆっくり粉を量る。
スプーン一杯。
二杯。
三杯。
お湯を入れる。
哺乳瓶を振る。
「強く振りすぎないで。粉が溶けるように、でも泡立てすぎないようにね」
「はい」
「次に冷ます。熱すぎると飲めないわ」
「手首に垂らすんでしたよね?」
「そう」
エマは少しずつ落ち着きを取り戻していた。
手首にミルクを垂らし、温度を確認する。
「……大丈夫そうです」
「私にも見せて」
エリンも確認する。
「ちょうどいいわ」
エマの顔に安堵が広がる。
「よかった……」
「じゃあ、飲ませてみましょう」
「はい」
エリンはミオを抱いたまま、エマに哺乳瓶を持たせた。
「角度はこう。空気を飲み込みすぎないように」
「はい」
「焦って押し込まないで。ミオちゃんの口元にそっと」
エマは慎重に哺乳瓶を近づける。
ミオは泣きながらも、哺乳瓶の乳首を口に含んだ。
そして、少しずつ飲み始めた。
ちゅ、ちゅ、と小さな音がする。
エマの顔が、一気にほどけた。
「飲んでる……」
ククルが小声で喜ぶ。
「飲んでます!」
ミラもほっと息を吐く。
「よかった……」
カイエも微笑む。
「エマ、できたね」
エマは涙目のまま笑った。
「はい……できました」
エリンはミオを支えながら言った。
「よくできたわ、エマ」
その言葉に、エマはとうとう少しだけ涙をこぼした。
「エリンさん……私、赤ちゃんのお世話って、もっとふわふわして可愛いだけなのかと思ってました」
「可愛いだけではないわね」
「はい……すごく緊張します。怖いです。でも……飲んでくれると、すごく嬉しいです」
「そうね」
エリンはミオの頬を見つめる。
「小さなことで不安になって、小さなことで安心する。だから、こちらも一つずつ丁寧に向き合うしかないの」
エマは頷いた。
ミオは一生懸命ミルクを飲んでいる。
その姿を見ているだけで、休憩室全体が柔らかくなった。
◇
昼前になると、噂を聞いたタツヤ班長が休憩室へ顔を出した。
「何か朝から赤ちゃんがいるって聞いたんだけど……本当だ」
タツヤ班長はミオを見るなり、表情を緩めた。
「小さいねぇ」
「タツヤ班長、声を少し小さめでお願いします」
ミラが真面目に言う。
「おっと、そうだね。ごめんごめん」
ククルが得意げに言った。
「ミオちゃん、さっきミルク飲んだんですよ!」
「へぇ、よかったねぇ」
タツヤ班長はエリンを見て、すぐに察したように笑った。
「エリンが全部仕切ったんだね」
「全部ではありません。皆も手伝ってくれました」
「でも、中心はエリンでしょ?」
エリンは少しだけ苦笑した。
「慣れていない人ばかりでしたから」
「エリン、すごいねぇ。ユイが小さい頃を思い出すよ」
タツヤ班長の声が少し柔らかくなる。
「赤ちゃんって、泣くし、汚すし、寝ないし、大変だけど……見てると全部許せちゃうんだよねぇ」
エマがしみじみ頷いた。
「今日、少しだけ分かりました」
そこへ、リュウジもやって来た。
フロアのざわつきに気づき、様子を見に来たらしい。
「何かあったのか?」
ククルが振り返る。
「リュウジさん!」
リュウジは休憩室に入り、エリンの腕の中にいるミオを見て、少し目を瞬いた。
「赤ん坊?」
「エマが今日だけ親戚の子を預かっているの」
エリンが説明する。
「そうですか」
リュウジは近づき、ミオを見た。
ミオはミルクを飲み終え、エリンの腕の中で少し眠そうにしている。
リュウジは静かに言った。
「小さいな」
「ええ」
ミオがリュウジの方を見た。
じっと見つめる。
リュウジもどうしたらいいか分からない様子で見つめ返す。
ククルが小声で言う。
「リュウジさん、固まってる」
カイエが言う。
「赤ちゃん相手だと、さすがに勝手が違うんだね」
ミラは少し微笑む。
「でも、優しい顔です」
リュウジはミオに指を差し出した。
ミオが、小さな手でリュウジの指を握った。
リュウジの表情が、わずかに変わる。
「……握った」
その声が少しだけ柔らかくて、ククル達は思わず顔を見合わせた。
エリンは微笑んだ。
「赤ちゃんは握る力が意外と強いの」
「そうですね」
リュウジはミオに指を握られたまま、静かに見ていた。
その姿を見て、タツヤ班長がにこにこと言う。
「リュウジ、意外と似合うねぇ」
「何がですか」
「赤ちゃんに指握られてるところ」
「……そうですか」
ククルが小声でエマに言う。
「エリンさんが抱っこして、リュウジさんが指握られてるの、すごく……」
エマが頷く。
「家族みたいですね」
その言葉に、ミラが真っ赤になる。
カイエはすぐにククルとエマを制した。
「聞こえるよ」
エリンは聞こえていた。
聞こえていたが、ミオを抱いている手前、あまり強く反応できない。
少しだけ頬を赤くし、咳払いする。
「ククル、エマ」
「すみません!」
「ごめんなさい」
リュウジは一瞬だけエリンを見た。
そして、少しだけ視線を逸らした。
ミオはそんな空気など知らないまま、リュウジの指を握り続けていた。
◇
午後になると、ミオは少しぐずりながらも眠そうな様子になった。
メモにあった通り、耳を触っている。
エリンはそれに気づいた。
「眠いのね」
「本当ですか?」
エマが聞く。
「メモに耳を触る癖があると書いてあったでしょう?」
「あ、本当だ……」
ミオは小さな手で自分の耳を触りながら、ふにゃふにゃと声を出している。
エマは少し慣れてきたのか、今度は自分から言った。
「抱っこしてもいいですか?」
「もちろん」
エリンはミオをエマへ渡す。
「首と背中を支えて。そう、上手」
エマは緊張しながらも、朝よりずっと自然にミオを抱いた。
そして、エリンがしていたように、背中をぽん、ぽん、とやさしく叩く。
「ミオちゃん、眠いね。大丈夫だよ」
声はまだ少しぎこちない。
でも、優しい。
ミオはエマの腕の中で目を閉じかけた。
エマの顔が柔らかくなる。
「寝そうです……」
「そのまま、急に動かないで。少し暗くしましょう」
エリンはククルへ視線を向ける。
「ククル、照明を少し落として」
「はい」
「ミラ、ブランケットを」
「はい」
「カイエ、外の声が入らないように扉を少し閉めて」
「分かりました」
エリンが指示を出すと、皆が自然に動いた。
休憩室が少し暗くなる。
声も小さくなる。
エマの腕の中で、ミオの呼吸が少しずつ落ち着いていく。
エマは息を殺すようにして見守った。
やがて、ミオの目が完全に閉じた。
寝息が聞こえる。
エマは小さく息を吐いた。
「寝ました……」
エリンは微笑んだ。
「よかったわね」
「はい……」
エマはミオを抱いたまま、少しだけ涙ぐんだ。
「なんだか、すごいですね」
「何が?」
「泣いたり、汚したり、ミルクを飲んだり、寝たり……全部が大変なのに、寝顔を見ると、全部よかったって思ってしまいます」
エリンは静かに頷いた。
「そうね」
「エリンさんは、どうしてそんなに落ち着いていられるんですか?」
エマが聞いた。
ククル、カイエ、ミラも自然とエリンを見る。
エリンは少しだけ考えた。
「落ち着いているように見えるだけよ」
「そうなんですか?」
「ええ。赤ちゃんは小さいから、こちらが慌てるとすぐ伝わってしまう。だから、まず自分が落ち着くようにしているの」
エリンは眠るミオを見た。
「それに、赤ちゃんは何もできないように見えて、ちゃんと全部伝えているわ。泣くのも、動くのも、目で追うのも、手を伸ばすのも、全部この子なりの言葉なの」
ミラが小さく呟く。
「言葉……」
「その言葉を、こちらが受け取ろうとすることが大事なのだと思う」
エリンの声は、静かだった。
母親の経験があるわけではない。
けれど、その言葉には、誰かを守り、受け止め、安心させる人の温かさがあった。
ククルは胸の奥がじんとするのを感じた。
「エリンさんって……やっぱりすごいです」
「すごくはないわ」
「すごいです。だって、ミオちゃんだけじゃなくて、私達も落ち着かせてくれました」
エリンは少しだけ驚いたようにククルを見た。
カイエが続ける。
「朝、皆が慌てていた時も、エリンさんが来たら空気が変わりました」
ミラも頷く。
「私も、エリンさんがいると安心します」
エマはミオを抱いたまま、静かに言った。
「今日、何度も思いました。エリンさんがいてくれてよかったって」
エリンは少し照れたように視線を落とした。
「みんな、大げさよ」
その時、入口近くで聞いていたリュウジが静かに言った。
「大げさではないと思います」
エリンが振り返る。
「リュウジ」
リュウジは休憩室の入口に立っていた。
いつからいたのか分からない。
おそらく、様子を見に来て、会話を聞いていたのだろう。
「エリンさんがいると、皆が落ち着きます」
リュウジはまっすぐ言った。
「今日もそうでした」
エリンは言葉に詰まった。
リュウジは続ける。
「ミオも、エマも、ククルも、ミラも、カイエも。エリンさんが一つずつ受け止めていたから、皆が動けたんだと思います」
その言葉に、休憩室が少し静かになった。
エリンの頬がほんのり赤くなる。
「……ありがとう」
「事実です」
ククルが小声でミラに言う。
「リュウジさん、こういう時さらっと言うよね」
ミラは真っ赤になって頷く。
「はい……」
エマは眠るミオを抱きながら、ふふっと笑った。
◇
夕方。
エマの親戚がミオを迎えに来た。
エマは少し寂しそうにミオを抱いていた。
「ミオちゃん、今日はありがとうね」
ミオはよく分かっていない様子で、エマの髪を小さな手で掴んだ。
「あっ、髪……!」
朝なら慌てていたエマだったが、今は少し笑った。
「掴みたいんだね」
エリンがそっと手を添える。
「指を一本ずつ外してあげるの。無理に引っ張らないで」
「はい」
エマは教わった通り、ミオの小さな指を優しく外した。
親戚へミオを渡す前に、エマは深く頭を下げた。
「今日一日、預からせていただきました。最初は慌ててしまいましたが、皆に助けてもらって……ミオちゃんも、とても頑張ってくれました」
親戚は恐縮したように何度も礼を言った。
「本当にありがとう。急にごめんなさい」
「いえ。こちらこそ、いい経験になりました」
エマは心からそう言った。
ミオが帰っていくと、休憩室は急に静かになった。
さっきまでそこにあった小さな泣き声、寝息、ミルクの匂い、柔らかい存在感が消えたようで、少しだけ寂しい。
ククルがぽつりと言った。
「……帰っちゃいましたね」
ミラも頷く。
「寂しいです」
カイエは片付けながら言う。
「一日だけでも、けっこう存在感があったね」
エマは空になったソファを見て、少し笑った。
「大変だったけど……可愛かったです」
エリンは使ったタオルや道具を整理しながら言った。
「みんな、お疲れ様。今日は予定外のことだったけれど、よく動いてくれたわ」
「エリンさんのおかげです」
エマが言う。
ククルも頷く。
「本当にそうです。私、何回も慌てましたけど、エリンさんがいたから落ち着けました」
「私もです」
ミラが言う。
「カイエも、床の確認や片付けをありがとう」
エリンが言うと、カイエは少しだけ照れた。
「私はできることをしただけです」
「それが大事なのよ」
リュウジも片付けを手伝いながら、静かに言った。
「エリンさん、今日はずっと動いていましたね」
「そうかしら」
「はい。疲れていませんか?」
エリンは少しだけ笑った。
「少しだけ。でも、不思議と嫌な疲れではないわ」
リュウジはミオが寝ていたソファを見た。
「赤ん坊の世話は大変なんですね」
「ええ。とても」
「でも、エリンさんは慣れているように見えました」
「慣れているわけではないわ。ただ、目の前で泣いている子がいたら、何とかしてあげたいと思うでしょう?」
リュウジはエリンを見た。
その表情は、とても自然だった。
母親のような、という言葉を誰かが言っていた。
確かにそう見えた。
けれど、それだけではない。
エリンは、赤ん坊だけではなく、周りにいる全員を見ていた。
泣くミオ。
慌てるエマ。
走り出しそうなククル。
不安げなミラ。
冷静に見えて戸惑うカイエ。
そして、後から来た自分のことまで。
全部を見て、全部を受け止めていた。
「エリンさんらしいですね」
リュウジが言った。
「そう?」
「はい」
「どういう意味?」
「目の前の人を放っておけないところです」
エリンは少しだけ目を伏せた。
「それは……リュウジも同じでしょう?」
「俺は、エリンさんほど上手くできません」
「私だって上手くできているか分からないわ」
「今日のエマを見れば分かります」
リュウジは静かに言った。
「エマは、朝よりずっと落ち着いていました。ククルもミラもカイエも。エリンさんがいたからです」
エリンは少し照れたように微笑んだ。
「ありがとう」
その様子を、少し離れたところでククル、エマ、カイエ、ミラが見ていた。
ククルが小声で言う。
「……リュウジさん、今日はいつもより素直だね」
エマが頷く。
「うん。エリンさんの母性愛にやられたのかも」
カイエが小さく咳払いする。
「聞こえるよ」
ミラは頬を赤くして呟いた。
「でも、今日のエリンさん、本当に素敵でした……」
エマは微笑む。
「お母さんみたいだったね」
ククルが頷く。
「うん。すごく安心した」
カイエも静かに言った。
「十四班のお母さんみたいだった」
その言葉がエリンに聞こえた。
エリンは振り返る。
「誰がお母さんよ」
声は優しい。
でも、少しだけ圧がある。
ククル達は一斉に背筋を伸ばした。
「い、いえ!」
「褒め言葉です!」
「本当に!」
「とても素敵という意味です!」
エリンはしばらく四人を見た後、ふっと笑った。
「なら、褒め言葉として受け取っておくわ」
四人はほっとした。
リュウジも少しだけ口元を緩めた。
その日の十四班は、予定外の赤ん坊騒動に振り回された。
エマは泣き声に慌て、うんちに大騒ぎし、ミルクの粉をひっくり返した。
ククルは何度も声量を注意され、ミラは何度もおろおろした。
カイエは冷静に見えて、赤ん坊の泣き声には少し戸惑った。
リュウジはミオに指を握られて固まった。
そしてエリンは、その全てを受け止めた。
赤ん坊も。
慌てる皆も。
失敗も。
不安も。
小さな笑顔も。
まるで、大きな腕で包むように。
休憩室の片付けが終わった頃、エマはエリンの前に立ち、深く頭を下げた。
「エリンさん、今日は本当にありがとうございました」
「エマが頑張ったからよ」
「いえ。私だけだったら、何もできませんでした」
「でも、最後にはミルクもあげられたし、寝かしつけもできたわ」
エマは少しだけ泣きそうに笑った。
「はい。少しだけ、自信になりました」
「それならよかった」
エマは小さく言った。
「私、いつかまたミオちゃんを預かることがあったら、今日より落ち着いてできる気がします」
「きっとできるわ」
エリンは優しく頷いた。
ククルが元気よく言う。
「その時は私も手伝います!」
「声量に気をつけてね」
「はい!」
ミラも言う。
「私も、今度はもっとちゃんと声かけできるように頑張ります」
カイエが笑う。
「私は床の安全確認担当かな」
リュウジが静かに言った。
「俺は……指を握られる担当か」
その一言に、全員が笑った。
エリンも思わず笑った。
温かい笑いだった。
ミオが帰った後の休憩室には、少しだけミルクの匂いが残っていた。
それは慌ただしかった一日の名残であり、同時に、十四班がまた一つ柔らかくなった証のようでもあった。
エリンは最後にタオルをたたみ、そっと棚へ戻した。
その手つきは、やはり優しかった。
ククルはそれを見ながら、心の中で思った。
やっぱりエリンさんは、お母さんみたいだ。
でも、口に出すと怒られるから、今日は言わないでおこう。
そう思った矢先、エリンがこちらを見た。
「ククル、今何か考えていたでしょう」
「な、何でもありません!」
「本当に?」
「本当です!」
エリンは少しだけ目を細め、それから笑った。
「ならいいわ」
十四班のフロアには、いつもの空気が戻っていく。
けれど、その中に少しだけ、新しい温かさが加わっていた。
赤ん坊が一日だけ連れてきた、小さな嵐。
その嵐を、エリンは静かに抱きしめて、皆の心まで整えてしまった。
そして誰もが、改めて思った。
エリンがいる十四班は、やっぱり安心できる場所なのだと。