サヴァイヴ〜ドルトムント財閥〜   作:一塔

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信頼

 「――まったく、あの三人は」

 

 控室の片隅で、エリンは額に手を当てた。

 ペルシアは背筋を伸ばしすぎて逆に不自然だし、カイエは「以後気をつけます」を三回言った。エマは上品な微笑を崩さないまま、なぜか言い訳だけが妙に流暢になっていた。

 

 教育し直す、というより“再整列”に近い。

 規律を思い出させ、線を引き直し、現場の空気を戻す。

 それがチーフパーサーの仕事だ。

 

 エリンは最後に三人を見渡し、静かに言った。

 

「いい? 今度から“フライト中”に勝手なことをしない。

 事故は大きいことからじゃなく、そういう小さな油断から始まるの」

 

 カイエも真面目に言った。

 

「すみませんでした。……でも、子どもが泣いてたから」

 

 言いかけて、カイエは口をつぐむ。

 言い訳に聞こえるのが分かったのだ。

 

 エリンはそこで叱らなかった。

 叱るべきは“行為”であって、“気持ち”ではない。

 

「泣いている子を落ち着かせるのはいい。方法を選んで。

 必ず近くの乗務員に声をかけて。勝手に動かない。分かった?」

 

「はい」

 

 エマも小さく頷いた。

 

「……はい。以後、慎みます」

 

 エリンはため息を飲み込み、ペルシアへ視線を向ける。

 ペルシアは両手を合わせて、拝むような仕草をした。

 

「チーフパーサー、私も……ちょっと、やりすぎました」

 

 エリンはにこりと笑った。

 にこりと笑ってから、低い声で言う。

 

「“ちょっと”じゃないわよ」

 

 ペルシアが「ひっ」と息を漏らし、カイエたちが同情の目で見た。

 エリンはそこでようやく、締めに入る。

 

「今の注意は、次のフライトを安全にするため。恨まないで」

 

 その言い方が、エリンの覚悟だった。

 厳しいのは、守るため。

 守るためなら嫌われてもいい、と腹の底で決めている声。

 

 全員が「はい」と揃えて答え、解散になった。

 

 

 控室を出て、通路を歩きながら、エリンはふと足を止めた。

 胸元が軽い。

 

(……水筒)

 

 宇宙船内に、置いてきた。

 いつも仕事の合間に一口飲む、あの水筒。

 それがないと困るほどのものではないのに、ないと落ち着かない。

 現場の人間にとっての“ルーティン”は、思った以上に大事だ。

 

 エリンは踵を返し、宇宙船へ戻った。

 すでに乗客は全員降り、客室は空。

 清掃や整備が入る前の、短い静寂の時間だ。

 

 通路に響く自分の靴音が、妙に大きく聞こえる。

 ギャレーを抜け、スタッフルームの棚を開ける。

 あった。水筒が、いつもの場所に。

 

 エリンがそれを手に取った、その時。

 

 ――カタン。

 

 どこかで、物音がした。

 

 エリンの背筋が一瞬で伸びる。

 耳が拾った音は、小さい。

 でも、空の船内で鳴る音は、十分に大きい。

 

(誰かいる)

 

 整備士はまだ入っていないはずだ。

 清掃も、今は来ていない。

 まさか子ども――ククルかカイエがこっそり戻ってきた?

 いや、さっきあれだけ注意した直後に?

 それなら、いよいよ教育が足りない。

 

 エリンは水筒を握ったまま、ゆっくりと足を進めた。

 音を立てない歩き方。

 視線は広く、しかし焦点は一点に。

 

 物音は、奥――機械室の方からだ。

 

(ここは……機械室)

 

 エリンは扉の前で呼吸を整え、手をかけた。

 勢いよく開けない。

 相手が誰であっても、相手の動きを刺激しないため。

 

 扉を、ゆっくり開ける。

 

 機械室の薄暗い空気の中に、見覚えのある影があった。

 背の高さ。立ち方。制服の肩の線。

 

「……リュウジ?」

 

 エリンが名を呼ぶと、影が振り向く。

 リュウジだった。

 手に端末を持っている。いや、持っていた。

 彼はエリンの声に反応すると、すっと端末をしまった。

 

「エリンさん? どうしたんですか?」

 

 リュウジの声は落ち着いている。

 落ち着きすぎていて、逆に怪しい。

 

 エリンは眉を寄せた。

 

「それはこっちのセリフよ」

 

 機械室の奥、壁に沿って配線が走り、重力制御ユニットの点検口が並んでいる。

 ここは“ただの見学”で入る場所ではない。

 しかも、整備士がいないタイミング。

 

 エリンは水筒を抱え直し、視線をリュウジから外さずに言った。

 

「……あなた。何してるの」

 

 リュウジは一拍置き、誤魔化さずに答えた。

 

「この機体のログを確認していました」

 

「操縦室じゃなくて、ここで?」

 

「操縦室の端末だけだと取れない細かいログもあります。

 ……それに、直接見ておきたかった」

 

 “直接見ておきたかった”

 この人は、紙で納得しない。

 目で見て、手で確かめる。

 だからこそ危うい時もあるが――だからこそ、守れる時もある。

 

 エリンは腕を組みかけて、やめた。

 威圧に見える。

 ここはまず、聞く。

 

「……その前に」

 

 エリンは一歩だけ近づき、声を落とした。

 

「私、聞きたいことがある」

 

 リュウジが頷く。

 

「はい」

 

 エリンは目を細める。

 チーフパーサーとしての目だ。優しさより、線引きが先に来る。

 

「離陸の時。あなた、操縦室にいなかったわよね」

 

 空気が少しだけ張る。

 リュウジは視線を逸らさない。

 

「……はい」

 

「離陸してからも、操縦室にいなかった」

 

「……はい」

 

 エリンは言葉を切り、もう一度確認するように言った。

 

「理由を聞かせて。二つとも」

 

 リュウジはすぐに答えなかった。

 言い訳に聞こえないように、言葉の形を選んでいる。

 そして、選んだ言葉は短かった。

 

「離陸の時は……整備士と一緒に、姿勢制御ユニット周りを交換していました」

 

 エリンの眉がほんの少し上がる。

 何故、機長自らがそんなことをしているのかと疑問が残った。

 

「それを、なぜ?」

 

 リュウジは淡々と答えた。

 

「違和感があったからです。

 点検報告書に書かれている“問題なし”と、自分が見た損傷の印象が一致しなかった。

 妥協すれば全員に危険が及ぶ。なので妥協したくなかったんです」

 

 妥協したくなかった――

 言葉は素朴だ。

 でも、その素朴さが怖いほど真っ直ぐだ。

 

 エリンはすぐに反論しなかった。

 反論するのは簡単だ。

 「離陸前に席を外すのは非常識よ!客室に不安を与えるわ」

 それは正しい。

 でも、この男はその“正しさ”の向こう側で、別の正しさを見ている。

 

「……離陸後は?」

 

 エリンが問うと、リュウジは少しだけ声の温度を変えた。

 低く、しかし柔らかく。

 

「離陸後は、客室を見に行きました」

 

 エリンは目を細める。

 

「なぜ」

 

「自分の遅れが、客室に負担をかけたと思ったからです。」

 

 エリンの胸の奥が、わずかに揺れた。

 揺れたことに気づいて、すぐに抑える。

 抑えながら、問いを続ける。

 

「負担をかけたと分かっていながら、席を外したのよね?」

 

 リュウジは頷いた。

 

「はい。矛盾しているのは分かっています」

 

 分かっている。

 それを自分で言える人間は、少ない。

 多くは言い訳をする。

 この男は言い訳をしない。

 だからこそ、エリンは“信用しそうになる”のが怖かった。

 

 エリンは声を落とし、核心に触れる。

 

「……あなたは、操縦だけに頭が回っていて、私たちのことを考えていないんじゃないかって。そう思った」

 

 言ってしまった。

 チーフパーサーとしては、言うべきことだ。

 でも、人としては少し痛い言葉だ。

 

 リュウジはそれを受け止め、短く答えた。

 

「そう思われても仕方ない行動でした」

 

 エリンは息を吸う。

 この人、謝るのが上手いわけじゃない。

 でも、責任から逃げない。

 

 エリンは水筒を胸に抱え直し、言った。

 

「……でも、乗務員を信じてくれたことは、感謝してる」

 

 リュウジがほんの少しだけ目を瞬かせる。

 感謝されることを、当然だと思っていない顔。

 

「ペルシアに聞いて、揺れを抑えた。

 それだけじゃない。あなたは私たちに『何か異常があったら何でも報告して』って言った。

 あれ、私たちの仕事を“仕事”として扱った言葉だった」

 

 エリンはそこで一拍置き、真っ直ぐに言う。

 

「乗務員を、道具じゃなくて“現場の仲間”として見てくれた」

 

 リュウジはすぐに返さなかった。

 返す言葉を探している。

 探した末に出てきたのは、驚くほど率直な言葉だった。

 

「……当たり前です」

 

 エリンが苦笑する。

 当たり前。

 その当たり前を言える人が、少ないから苦労するのに。

 

「当たり前ができない人が多いのよ」

 

「……知っています」

 

 リュウジは静かに言った。

 

 エリンはリュウジの表情を見て、踏み込みすぎないように距離を保つ。

 

 エリンは言葉を整えた。

 

「……リュウジ」

 

 名前を呼ぶ。

 “機長”ではなく、“人”として呼ぶ。

 

「私はあなたを、信頼できるパイロットだと思い始めている」

 

 リュウジの目がわずかに揺れる。

 揺れるが、視線は逸らさない。

 

「ただし、条件がある」

 

 エリンはすぐに続けた。

 甘い言葉で終わらせない。

 現場は条件で守る。

 

「離陸前に席を外すなら、必ず私に一言。

 離陸後に席を外すなら、タツヤ班長と連携して、客室側に理由が分かる形で“情報”を出して。

 あなたの判断が正しくても、客室が不安になったら危険は増える」

 

 リュウジは即座に頷いた。

 

「承知しました、エリンさん」

 

 敬語の“さん付け”が、ここでも崩れない。

 それがリュウジらしい距離の取り方だ。

 

 エリンは少しだけ肩の力を抜いた。

 

「……よし」

 

 そして、ほんの少しだけ笑ってみせる。

 怖い微笑みではなく、人間の微笑み。

 

「あなたが客室を見に行ったのは、正直、驚いたわ。

 あれで私は……あなたが操縦にしか頭が回っていない人じゃないかもしれないって思えたわ」

 

 リュウジは小さく息を吐いた。

 

「遅くなってすみませんでした」

 

「謝るなら、次からで返して」

 

「はい。態度で返します」

 

 その返事に、エリンは心の中で小さく頷いた。

 この人は、言葉より行動の人だ。

 なら、行動を見ればいい。

 

 エリンは水筒を持ち直し、扉の方へ向かう。

 去り際に、もう一度だけ振り返った。

 

「……ところで、機械室に入るなら、本当は整備士を呼びなさい。危ないわ」

 

 リュウジが少し困ったように笑う。

 

「はい。次からそうします」

 

 エリンは一瞬だけ眉を寄せ、すぐに戻す。

 

「次から、よ。絶対」

 

「……はい」

 

 エリンは扉を閉める前に、最後に言った。

 

「ありがとう。私たちの声を拾ってくれて」

 

 リュウジは短く答えた。

 

「こちらこそ。教えてくれて、ありがとうございます」

 

 扉が閉まる。

 静けさが戻る。

 

 エリンは水筒を握りながら、通路を歩いた。

 胸の奥に、ほんの少しだけ温度が残っている。

 

(信頼できるパイロット……)

 

 そう思うのが怖くないわけじゃない。

 でも、現場は信頼なしには回らない。

 そして――今日の揺れない客室が、確かに答えの一つだった。

 

ーーーー

 

 リュウジはしばらく船内に残っていた。

 整備士への引き継ぎ、チェックリストの最終行、ログの整理。流れるように終えて、ようやく通路に出る。

 

 ターミナル側はまだ賑やかだった。一般の定期便らしく、家族連れが多い。子どもが走り、親が追い、笑い声と泣き声が混ざる。荷物の車輪の音。誰かが「大丈夫?」と声をかける音。

 その“普通”が、今日は崩れなかった。

 

(揺れを抑えたのは操縦だ。けど――)

 

 視線を巡らせると、エリンがスタッフに短い指示を出し、気づかれない速度で動線を整えていた。言葉は少ないのに、周りが滑らかに動く。

 その横でペルシアが子どもの目線にしゃがみ、何か一言だけ言って笑わせる。親が恐縮すると、ペルシアは軽く手を振って、最初からそれが予定だったみたいに通路へ戻る。

 

 リュウジは、その連携を“感心”ではなく“検証”に近い目で見ていた。

 客室は、機体の揺れだけで崩れるわけじゃない。

 不安で崩れる。遠慮で崩れる。疲れで崩れる。

 それを、あの二人は先に拾って、先に整える。

 

(凄いな……)

 

 エリンはチーフパーサーとしての覚悟で締める。

 ペルシアは声色の揺れで拾って背中を押す。

 操縦がどれだけ正しくても、客室が崩れたら安全は薄くなる。

 逆に、客室が整っていれば、操縦の安定は何倍も意味を持つ。

 

 リュウジは小さく息を吐き、端末を閉じた。

 今日は、守れた。

 宇宙船に乗る全員が、笑って降りられた。

 

 

 夜。

 ドルトムント財閥が用意したクルー用の居室――リュウジの部屋は、必要なものだけが整然と並ぶ静かな空間だった。窓の外には基地の灯りが点々と続いている。

 

 チャイムが鳴る。扉を開けると、まずタツヤが立っていた。片手に紙袋、もう片手に缶の束。

 

「お、やってる? 初フライト記念、開催でーす」

 

「お疲れ様です、タツヤ班長。ありがとうございます」

 

「いいって。こういうのは勢い」

 

 次に廊下から、勢いそのものみたいな声。

 

「りゅーうじー! 開けて開けて!」

 

 ペルシアが酒瓶の入った袋を抱えて現れる。やたら重そうなのに顔は平然。

 

「……ペルシア、それ」

 

「なに? お祝いでしょ。瓶は必要」

 

「必要なのは、ほどほどだ」

 

「機長、真面目すぎ。かわいい」

 

 さらに少し遅れてエリンが来た。両手に食材の袋。野菜、肉、調味料……“作る気”が隠せていない。

 

「お邪魔するね、リュウジ。……遅くなってごめん」

 

「いえ、エリンさん。来ていただいてありがとうございます。そんなに持って……」

 

「平気。今日は……その、よく頑張ったんだから、ちゃんと食べなさい」

 

 言い方が、いつもより少し柔らかい。

 叱る時の鋭さとは違う、ちゃんと労う温度が混ざっている。

 

 タツヤがソファに酒を置き、のらりと手を広げた。

 

「はい、酒担当来ましたー」

 

 ペルシアも袋を掲げる。

 

「酒瓶担当も来ましたー!」

 

 エリンは袋を置いてから、ペルシアの方へすっと視線を向けた。

 その瞬間、空気が一段だけ締まる。

 

「……ペルシア。あなたは飲まない」

 

「えー」

 

「えーじゃない。未成年でしょ!」

 

 ペルシアは口を尖らせるが、エリンは譲らない。

 リュウジはそのやり取りを見て、心の中で“客室の線引き”の上手さを再確認した。

 

 エリンは持ってきた袋から炭酸水とジュースを出し、ペルシアの前に置く。

 

「はい。これ」

 

「……渋々承諾します」

 

 ペルシアは不満そうに言いながらも、いったんは従った。

 いったんは。

 

 

 キッチンが“現場”になると、エリンは迷いがない。

 手際よく下ごしらえをし、揚げ油を温め、サラダを整え、スープの鍋を火にかける。唐揚げの香りが広がるだけで、部屋の空気が一気に“家”になる。

 

「唐揚げとサラダ、あとスープ。簡単なものだけど」

 

「……簡単の範囲を超えてます」

 

 リュウジがつい言うと、エリンが小さく笑った。

 

「ふふ。褒めても何も出ないよ」

 

「もう出てます」

 

 リュウジが真面目に返すと、ペルシアが吹き出す。

 

「出てる出てる! 唐揚げ出てる!」

 

「ペルシア、静かに待ってて」

 

「はーい」

 

 返事だけはいい。

 ただし目がきょろきょろしている。

 

 料理が並ぶ。

 唐揚げは外がカリッ、中が驚くほど柔らかい。

 サラダはただの添え物じゃない。口の中を整える計算がある。

 スープは優しいのに芯がある。

 

 タツヤが缶を開け、軽く掲げた。

 

「じゃ、乾杯――機長の初フライトに」

 

 リュウジもグラスを持ち上げる。

 ペルシアは炭酸ジュースを持ち上げた……はずだった。

 

 その直後。

 

 ペルシアが、テーブルの下でこっそりタツヤの酒瓶を引き寄せる。

 視線はエリンに向けたまま、指先だけで器用にキャップを回す。

 そして、自分のコップの陰で“ちょっとだけ”注ぐ。

 

 エリンは料理の取り分けで忙しい。

 リュウジはタツヤ班長のグラスに目を向けている。

 ――今だ、とペルシアは素早く口をつけた。

 

「……っ」

 

 ほんの一口。

 でも顔が“満足”って言ってる。

 

 次の瞬間、エリンが横目でそれを捉えた。

 チーフパーサーの視野から逃げ切れると思うな、というやつだ。

 

「……ペルシア?」

 

 名前の呼び方が柔らかいのに、背筋が凍る温度。

 

 ペルシアは、何もしていない顔でコップを置いた。

 

「な、なに?」

 

「今、何飲んだの?」

 

「炭酸……?」

 

「炭酸はそんな匂いしない」

 

 エリンがすっと手を伸ばし、ペルシアのコップを取り上げる。

 くん、と匂いを確認してから、ため息をひとつ。

 

「……もう」

 

 叱る声の前に、困ったような温度が混ざる。

 いつもより柔らかい。

 でも、だからこそ怖い。

 

「ダメ」

 

「ちょっとだけだもん!」

 

「“ちょっとだけ”が積み重なるの。現場も、生活も」

 

 ペルシアがむくれる。

 

「うぅ……」

 

 エリンはコップを流しに持っていき、代わりに新しい炭酸を注いで戻してきた。

 

「はい。これで我慢。今日はお祝いなんだから、ちゃんと食べて、ちゃんと寝る」

 

 言い方が柔らかい。

 命令というより、面倒を見ている。

 

 ペルシアは口を尖らせたまま、しぶしぶ受け取る。

 

「……渋々、承諾します」

 

「よろしい」

 

 エリンが頷くと、タツヤが笑った。

 

「チーフパーサー、強いねぇ」

 

「強くない。必要なことを言ってるだけ」

 

 エリンはそう言って、リュウジの皿に唐揚げをそっと追加した。

 

「リュウジも、遠慮しないで食べて。今日は本当に……お疲れさま」

 

「……ありがとうございます、エリンさん」

 

 その“お疲れさま”が、いつもより少しだけ柔らかかったから。

 リュウジは、胸の奥がふっと軽くなるのを感じた。

 

 

 タツヤが「ひと言、主役」と煽ると、ペルシアもすぐ乗る。

 

「そうそう! 機長、今日どうだった?」

 

 リュウジは少し考え、静かに言った。

 

「乗客を見て、客室の凄さが分かりました」

 

 エリンとペルシアが同時に視線を向ける。

 

「家族連れの“当たり前”を守るのは、操縦だけでは無理です。

 エリンさんが線を引いて、崩れない土台を作っている。

 ペルシアは……声の揺れから感情を拾って、迷っている人を前に進ませている」

 

 ペルシアが得意げに耳に触る。

 

「ちゃんと見てたじゃん」

 

「見てました」

 

 リュウジが即答すると、エリンが少し照れたように目を細める。

 そして、いつもの厳しさより少し柔らかい声で言った。

 

「……そう言ってくれるの、嬉しい。ありがとう」

 

 それからすぐ、現場の人の言葉に戻す。

 

「でも、次も同じとは限らないからね。お互い、油断しない」

 

「承知しました」

 

 ペルシアが炭酸ジュースを飲み干し、まだ未練がましく酒瓶をちらっと見る。

 エリンが先回りして、穏やかに微笑んだ。

 

「ダメ」

 

「……うぅ」

 

 全員が笑う。

 笑い声が、リュウジの部屋を“居場所”に変えていく。

 

 リュウジはグラスを置き、窓の外の灯りを一瞬だけ見た。

 今日守ったのは、乗客だけじゃない。

 客室だけでもない。

 宇宙船に乗る全員を守るために、声を拾い合って、手を動かした。

 

 その確認の夜は、唐揚げの香りと、炭酸の泡と、少しだけ(未遂に終わった)酒の匂いの中で、静かに続いていった。

 

ーーーー

 

 唐揚げの山が少しずつ低くなっていく。サラダの皿も、スープの鍋も、思ったより早いペースで減っていた。

 リュウジの部屋は、最初の「よそ行きの静けさ」をもうとっくに脱いで、今はちゃんと“人が集まる場所”の匂いがしている。

 

 リュウジがさっき言った「乗客を見て分かったこと」の余韻がまだ残っていた。

 エリンはその言葉を一度受け止めて、柔らかい声で「嬉しい」と言った。

 言ったあと、すぐにいつもの現場の口調に戻したけれど――。

 

 その“ほんの少しの柔らかさ”を、ペルシアが見逃すわけがない。

 

 ペルシアは頬杖をつき、エリンの顔をじっと見た。

 そして、ニヤニヤしながら言う。

 

「ねえ、エリン」

 

「なに」

 

「今のリュウジへの口調、ちょっと優しくない?」

 

 エリンが一瞬、箸を止めた。

 止めたのはほんの一瞬。止めたこと自体をなかったことにするみたいに、すぐ唐揚げをひとつ取り、何でもない顔で口に運ぶ。

 

「気のせい」

 

 答えは短い。

 でも、声の温度がほんの少しだけ上がった。

 

 ペルシアは嬉しそうに身を乗り出す。

 

「気のせいじゃないって。ほら、“ありがとう”の言い方。丸かった」

 

「丸くない」

 

「丸いよ。角が取れてた。角」

 

 ペルシアは自分の耳に指を当てて、得意げに笑う。

 

「耳、いいから」

 

 エリンは思わず息を吐いた。

 

「……そういう問題じゃないの」

 

「そういう問題だよ」

 

 ペルシアは畳みかける。嵐みたいに。

 でも、その嵐は“面白がるため”だけじゃない。どこかで、確認している。

 

「だってさ。最初は責任感ないって言ってたのよ、エリン」

 

 その言葉に、リュウジが少しだけ目を上げた。

 驚いた顔ではない。否定する顔でもない。

 ただ、受け止める顔。

 

 エリンは、ペルシアを睨みかけて――やめた。

 睨んだら負けだ、という顔で。

 

「……言ってた」

 

 認めた。

 その認め方が、いつもより少し柔らかい。

 

 ペルシアが指を立てる。

 

「でしょ? 『操縦のことしか頭が回ってないんじゃないか』って」

 

「……そこまで言ってない」

 

「言ってたよ」

 

「言ってない」

 

「言ってた!」

 

 子どもの喧嘩みたいなやり取りに、タツヤが缶を揺らして笑った。

 

「どっちでもいいじゃん。今、うまく回ったんでしょ」

 

 のらりとした声。

 けれど、その一言が場の芯をちゃんと押さえていた。

 

 エリンは小さく頷いてから、リュウジを見た。

 叱る時の鋭い目じゃない。確認の目。現場の目。

 

「……リュウジ。ごめんね。あの時は、そう思った」

 

 言い方が柔らかい。

 それだけで、部屋の空気が少しだけ落ち着く。

 

 リュウジはすぐに頭を下げた。

 

「いえ、エリンさん。そう思われても仕方ない行動でした」

 

 敬語は崩れない。

 崩れないからこそ、真面目さがそのまま伝わる。

 

 ペルシアが「ほらー」と言いたげな顔で、エリンの方を見る。

 

「ほら。ね? 今の謝り方も柔らかい」

 

「……ペルシア」

 

 エリンが低い声で呼ぶ。

 

「なに?」

 

「うるさい」

 

「ひどい!」

 

 ペルシアはわざとらしく胸を押さえた。

 

 タツヤがのらりと助け舟を出す。

 

「ペルシアはさ、嬉しいんだよね。エリンが人を信じる瞬間って、レアだから」

 

「タツヤ班長まで何言ってるんですか」

 

 エリンが即座に言い返すが、声がいつもほど冷たくない。

 それがもう、答えみたいなものだった。

 

 リュウジは唐揚げをひとつ口に運び、静かに言った。

 

「……俺は、信じてもらえる方が嬉しいです」

 

 素直すぎて、部屋が一瞬だけ静かになる。

 次の瞬間、ペルシアが両手で机を叩いた。

 

「ほらぁ! そういうとこ! 捨てたもんじゃない!」

 

「ペルシア、落ち着いて」

 

「落ち着けない! 今日は祝う日!」

 

 ペルシアが声を上げた、その時だった。

 

 ――いつの間にか。

 ペルシアの手には、酒の入ったグラスがあった。

 

 さっき、エリンが取り上げたはずの。

 さっき、炭酸を注いだはずの。

 なのに、グラスの中身は明らかに色が違う。匂いも違う。

 本人がもう、飲んでいる。

 

 ちびちび、ではない。

 当たり前みたいに、ごくり、と。

 

 エリンが、それを見て固まった。

 固まってから、ゆっくりとため息を溢す。

 

「……いつの間に」

 

 声に怒気があるはずなのに、先に呆れが来てしまっている。

 

 ペルシアはグラスを持ったまま、きょとんとする。

 

「え? いつの間にって、今だけど」

 

「今じゃなくて、どこから」

 

「……えへ」

 

 “えへ”で済ませようとする顔。

 それが一番危険だと、エリンは知っている。

 

「ペルシア」

 

「はーい」

 

「没収」

 

「えっ、また!?」

 

「またじゃない。ずっとダメ」

 

 エリンが手を伸ばすと、ペルシアはグラスを背中側に隠した。

 隠すのが早い。耳だけじゃなく反射神経もいい。

 

「ちょっとくらいいいじゃん!」

 

「よくない」

 

「今日だけ!」

 

「今日こそダメ」

 

 エリンの言い方が、いつもより少し柔らかいのに、内容が一ミリも揺れない。

 そのギャップが逆に怖い。

 

 タツヤが笑いながら、缶をもう一本開けた。

 

「はは。ペルシア、学ばないねぇ」

 

「タツヤ班長も笑ってないで止めてください」

 

「止めるの、エリンの役目でしょ」

 

「そういう問題じゃ……」

 

 エリンが言いかけたところで、タツヤが肩をすくめる。

 のらり。

 けれど、よく見るとタツヤの飲むペースが上がっている。

 

 一本目が終わり、二本目。

 口数も少しずつ増え、笑いも少しずつ大きくなる。

 そしてそれに合わせて、ペルシアもグラスを“死守”したまま、ちびちび……いや、ちびちびではない。

 

「ほらエリン、飲みなよー」

 

 ペルシアが調子よく言う。

 

「飲まない」

 

「じゃあ私が飲む」

 

「それもダメ」

 

「じゃあタツヤが飲む」

 

「タツヤ班長もほどほどに!」

 

 エリンが言った瞬間、タツヤが妙に素直な顔で頷いた。

 

「うん、ほどほどほどほど。……ほどほどって難しいよね」

 

 そして、のらりと缶を傾ける。

 ペース、上がっている。

 

 リュウジはその様子を見ながら、静かにグラスを置いた。

 場を壊さず、でも目を配る。

 操縦室で揺れを抑える時と同じ集中が、ほんの少しだけ表情に出ている。

 

「……エリンさん」

 

「なに?」

 

 エリンが振り向く。声が柔らかい。

 リュウジに向ける声は、もう前ほど硬くない。

 

「俺、止めた方がいいですか」

 

 その言い方が、真面目で、少し可笑しかった。

 “何か異常があったら報告して”の男が、今は“飲酒の異常”を報告している。

 

 ペルシアが吹き出す。

 

「機長、真面目!」

 

 エリンも小さく笑ってしまった。

 笑ってから、すぐにちゃんと現場の顔に戻る。

 

「……止めるというより、守って」

 

「守る?」

 

「酔って転んだら意味がない。今日は楽しく終わらせたい」

 

 その言い方が、柔らかい。

 命令じゃなくて、お願いに近い。

 エリンがそう言うのは珍しい。

 

 リュウジはきちんと頷いた。

 

「分かりました」

 

 そして、ペルシアの方を見る。

 

「ペルシア」

 

「なに?」

 

「……それ、どこから持ってきた」

 

 ペルシアは一瞬だけ口をつぐむ。

 “ばれた”という顔。

 次の瞬間、逆に堂々と言った。

 

「タツヤ班長の袋の奥。缶の下に小さいの隠してあった」

 

「タツヤ班長?」

 

 リュウジが敬語で呼ぶと、タツヤが片手を上げた。

 

「あー……予備。ほら、祝いだし」

 

「祝いでも規律は規律です」

 

 リュウジが珍しく少し強めに言うと、タツヤが目を丸くして笑った。

 

「お。機長、真面目モード」

 

「真面目じゃないと困ります」

 

「いいねぇ。現場っぽい」

 

 タツヤは笑いながらも、缶をテーブルに置いた。

 置いたが――置いただけで、完全には止まっていない。

 目がもう、次の一本を探している。

 

 ペルシアはグラスを抱えたまま、すり抜けるようにソファの影に隠れた。

 

「えへへ」

 

「えへへじゃない!」

 

 エリンが立ち上がり、ペルシアを捕まえに行く。

 その動きが、客室で子どもを追う時と同じだ。

 素早い。静か。確実。

 

 ペルシアが逃げる。

 

「やだー! 今日はお祝いだもん!」

 

「お祝いだからこそ、守るの!」

 

「守られてる! 今まさに!」

 

「守られてない!」

 

 エリンはペルシアの手首を掴み、するりとグラスを取り上げた。

 取り上げ方が上手い。

 こぼれない。騒がない。周囲を汚さない。

 プロの没収だ。

 

 ペルシアが肩を落とす。

 

「……あーあ」

 

 口癖みたいに言って、でも目がまだ諦めていない。

 

 エリンは、困ったように笑って――さっきより柔らかい声で言った。

 

「いい子。明日また元気に飛ぶためにね」

 

 その一言で、ペルシアの目が一瞬だけ丸くなる。

 叱られているのに、あたたかい。

 エリンが“守る”の言葉を、こういう温度で使うのは珍しい。

 

 ペルシアはそれを誤魔化すみたいに、すぐ話題を戻した。

 

「ほら、だから言ったじゃん。エリン、リュウジのこと信頼してるんだって」

 

「……信頼は、積み重ねよ」

 

 エリンが答える。

 でも否定しない。

 

 リュウジは静かに頷き、ふっと息を吐いた。

 

「積み重ねます」

 

 タツヤがそれを聞いて、のらりと笑う。

 

「いいねぇ。じゃあ俺も積み重ねよ。酒を」

 

「積み重ねなくていいです!」

 

 エリンが即座に突っ込むと、全員が笑った。

 

 笑いの中で、リュウジは思う。

 船の揺れを抑えるのと同じだ。

 “崩れそうな瞬間”を、先に拾って、先に整える。

 それができる人がいるから、笑いは笑いのまま続く。

 

 ペルシアは炭酸のグラスを手に取り、今度はちゃんとそれを飲む。

 タツヤも「ほどほど」を口にしながら、少しペースを落とした。

 エリンは料理を追加で盛りながら、リュウジに柔らかい声を向けた。

 

「……リュウジ。今日は、ほんとにお疲れさま」

 

 呼び方が、一瞬だけ崩れかけた。

 それを誤魔化すようにエリンは皿を差し出す。

 

 リュウジは少し驚いてから、すぐに頭を下げる。

 

「ありがとうございます、エリンさん。……俺も、助けられました」

 

 ペルシアがにやにやする。

 

「ほーらぁ」

 

「ペルシア、うるさい」

 

「はいはい」

 

 また笑いが起こる。

 酒の匂いより強いのは、唐揚げの香りと、仲間になり始めた空気だった。

 

ーーーー

 

 初フライトのお祝い会は、最初こそ「ほどほどに」という言葉が飛び交っていた。

 ――飛び交っていただけで、守られはしなかった。

 

 唐揚げは二回揚がれ、サラダは二回盛り直され、スープはいつの間にか鍋の底が見えていた。タツヤの持ってきた酒は空き缶が増え、ペルシアの酒瓶は「没収」と「奪還」を何度も繰り返した。

 

「これ、完全にループしてるわよね……」

 

 エリンが呆れたように言うと、ペルシアは赤い顔で胸を張った。

 

「ループじゃない! 進化してるの!」

 

「何が」

 

「飲む技術が」

 

「要らない技術を磨かない」

 

 そう言いながらも、エリンの声は今夜ずっと柔らかかった。

 怒っているのに、どこか楽しそうで。

 だから余計に、ペルシアは調子に乗る。

 

 タツヤはタツヤで、最初の一本を開けた頃は「ほどほどほどほど」と呪文みたいに唱えていたのに、二本目の半分を過ぎたあたりから、言葉がふわふわしてきた。

 

「ほらさぁ、機長。お前さぁ……真面目すぎるとさぁ……肩こるよ」

 

「班長、それ、もう肩じゃなくて口がこってます」

 

「うまいこと言うなぁ……」

 

 タツヤは笑って、缶を傾ける。

 ペルシアはその横で、いつの間にか“ノンアル宣言”を完全に忘れ、酒瓶を抱えていた。

 

「ねー、リゅウジー。乾杯しよ。初フライト、もう一回!」

 

「何回目ですか」

 

「回数は大事! 祝いは積み重ね!」

 

 その「積み重ね」がそのまま“空き缶の山”になっているのだから、説得力があるようなないような。

 

 リュウジは結局、最後まで大きく酔うことはなかった。

 飲む量を管理しているのが分かる。

 それでも顔の緊張はほどけて、肩の線がほんの少しだけ柔らかくなっていた。

 それが、エリンには妙に嬉しかった。

 

 夜はゆっくり進み、気づけば時計の針が日付を跨ぐ頃――。

 

 タツヤはソファに沈み込むように座ったまま、口を開けて眠り込んでいた。片手には空になった缶。もう片手は、クッションを抱えたまま。

 ペルシアは程よく酔ったのか、酒瓶をぎゅっと抱えたまま床に伏せていた。まるで宝物を守るみたいに。頬は赤く、髪は少し乱れている。

 

「……もう」

 

 エリンは小さく息を吐きつつ、空いた皿を片付けにキッチンへ向かった。

 洗い物を終え、静かに水を止める。

 手を拭いてリビングに戻ると――

 

 リュウジも、ソファに頭を預けて眠っていた。

 

 深く眠っている、というより、ようやく力が抜けた寝顔。

 昼間の鋭さも、操縦室の圧も、今は影を潜めている。

 ただ、若い男が静かに呼吸しているだけだ。

 

 エリンは、その光景を見て思わず笑ってしまった。

 

「……ふふっ」

 

 小さな笑みがこぼれる。

 この瞬間が一番好きかもしれない――と、ふいに思った。

 誰も怒っていない。誰も急かしていない。誰も守ろうとして構えていない。

 ただ、守った一日の終わりに、無防備に眠っている。

 

 エリンはそっとプライベート端末を取り出した。

 自撮りモードにして、画面の端に自分の笑顔を入れ、背後に眠っている三人――タツヤ、ペルシア、リュウジが収まるよう角度を調整する。

 

 ぱしゃ。

 

 シャッター音を消音にしているのに、心の中で音が鳴った。

 小さな記録。

 小さな宝物。

 

「……よし」

 

 エリンは端末をしまい、毛布を探して三人にそっと掛けた。

 ペルシアには、酒瓶が転がらないように枕を寄せてやる。

 タツヤには缶を取り上げてテーブルに置く。

 リュウジには……一瞬だけ迷ってから、肩に掛かった毛布の端を整えた。

 

 そしてエリンも、眠気に抗えず、静かに部屋の隅に身を落ち着けた。

 

 

 翌朝。

 結局、リュウジの家で一晩明かしたエリンは、かすかな物音で目を覚ました。

 

 目を開けると、カーテンの隙間から朝の光が差し込んでいる。

 頭が少し重い。飲んでいないのに、空気と疲れで重い。

 リビングの方から、かすかな気配。誰かが動いている。

 

 ちょうどそのとき――ドアの開く音。

 

 エリンは体を起こし、ぼんやりしたままリビングの方へ目を向けた。

 

「おはよう」

 

 声は低く、落ち着いている。

 リュウジだった。

 ランニングウェア姿で、ジッパーを上げながら一礼する。

 

「おはようございます」

 

 その丁寧さが、寝起きでも崩れないのが、なんだか可笑しい。

 

「どこ行くの?」

 

 エリンはまだ眠い声で聞いた。

 

「日課のランニングに」

 

「たまには休んでもいいんじゃない?」

 

 エリンがそう言うと、リュウジはかぶりを振った。

 迷いがない。

 でも、声は硬くない。

 

「休むわけにはいかないんですよ」

 

「どうして?」

 

 エリンが首を傾げる。

 チーフパーサーの目じゃない。今はただの“朝の目”だ。

 

 リュウジは少しだけ間を置き、淡々と――それでも目は楽しげに言った。

 

「俺を追いかけてくる奴がいるんです」

 

「ふふ。……でも、あなたに追いつけるのかしら」

 

 エリンが軽く笑うと、リュウジは珍しく少し照れたように口角を上げた。

 

「追いつきますよ、あの二人なら」

 

 ――あの二人。

 嬉しそうなリュウジ。

 それがなんだか妙におかしくて、エリンはもう一度笑った。

 

 リュウジはジッパーを上げ切り、靴紐を結びながら続ける。

 

「内心、いつ抜かれるかヒヤヒヤしてるんですから」

 

 その言い方が、真面目なのに楽しそうで。

 エリンは一瞬、言葉を忘れた。

 

 リュウジが誰かに追いつかれることを“怖い”と言うのではなく、“楽しみ”として言う。

 その感覚が、リュウジという人間の強さの一つなのかもしれない。

 

 エリンは眠気の残る声で、少しだけ柔らかく言った。

 

「……じゃあ、行ってらっしゃい。怪我しないでね」

 

「はい。行ってきます、エリンさん」

 

 リュウジは一礼してドアを開けた。

 朝の空気が一瞬、部屋の中に流れ込む。

 そして、軽い足音が遠ざかっていった。

 

 エリンはソファに座り直し、視線を落とす。

 テーブルの上には、昨夜の名残のコップと、片付けられた皿。

 そして――ふと、端末を思い出す。

 

(写真……)

 

 エリンはそっとプライベート端末を取り出し、昨夜撮った一枚を開いた。

 笑顔の自分と、眠っている三人。

 

 その写真を見て、また小さく笑った。

 

「……ふふ」

 

 守った一日の終わり。

 そして、次の一日がまた始まる。

 追いかける人がいて、追いかけられる人がいる。

 それはきっと、悪くない。

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