サヴァイヴ〜ドルトムント財閥〜   作:一塔

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飲み比べ

ケレス管制でシャオメイを見つけた帰り、ペルシアはまっすぐ宇宙管理局へ戻らなかった。

 

シャトルの窓の外には、小惑星帯の細かな光が流れていた。

 

ケレス管制の通信灯。

 

中継局の青い点滅。

 

遠くを横切る輸送船の航路標識。

 

そのどれもが、今のペルシアにはただの景色に見えなかった。

 

通信。

 

管制。

 

整備。

 

航行。

 

救助。

 

それらが一つでも途切れれば、現場は崩れる。

 

十四班にいた頃、ペルシアは客室の空気を見ていた。乗客の不安、乗務員の迷い、チーフパーサーの声の強さ、パイロットから入る短い報告。その場にある音と沈黙を拾い、必要な時に必要な言葉を投げる。

 

けれど、宇宙管理局に移ってからは、その範囲が一気に広がった。

 

一つの客室ではない。

 

一つの班でもない。

 

宇宙を行き交う船、管制、整備、通信、そのすべてが絡み合う現場。

 

ペルシアは、そこに新しいオペレーションルームを作ろうとしている。

 

フレイ。

 

イーナ。

 

スリッピー。

 

ナウス。

 

フォックス。

 

クリスタル。

 

ファルコ。

 

そして、ジェームズ。

 

さらに今日、シャオメイという若い通信技師を見つけた。

 

物怖じせず、上官相手でも必要なら意見を言う女の子。

 

荒い。

 

未熟。

 

でも、目はいい。

 

あの子は伸びる。

 

ペルシアはそう思った。

 

だが、同時に思う。

 

目がいいだけでは足りない。

 

声を出せるだけでも足りない。

 

その声を拾い、形にして、現場に通す仕組みが要る。

 

そのためには、整備側の強い目が必要だった。

 

ジェームズ。

 

無愛想で、口が悪くて、人付き合いが下手で、協力する気があるのかないのか分からない整備士。

 

だが、機体の癖を読む力は本物だった。

 

スリッピーが目を輝かせるほどの技術。

 

ナウスが記録を止められないほどの情報量。

 

フレイが「技術助言者として必要」と判断するほどの人材。

 

そしてペルシア自身も、分かっていた。

 

ジェームズが必要だ。

 

形式上の協力では足りない。

 

報酬や契約だけで繋いでも、いざという時に踏み込んではくれない。

 

ペルシアは端末を開いた。

 

フレイからの報告が届いている。

 

――ジェームズさんは、技術助言者としての暫定協力に同意しました。

 

その一文を見て、ペルシアは小さく笑った。

 

「暫定、ね」

 

いかにもジェームズらしい。

 

逃げ道を残している。

 

関わると言い切らない。

 

責任を取るとも言わない。

 

だが、端末を閉じなかった。

 

スリッピーの質問に答えた。

 

それなら十分に前進だった。

 

けれど、ペルシアはそこで満足するつもりはなかった。

 

彼には、もう少しだけ踏み込んでもらう。

 

契約書ではなく。

 

会議室でもなく。

 

技術説明でもなく。

 

もっと人間らしい、面倒くさい場所で。

 

ペルシアは行き先を変更した。

 

宇宙管理局ではなく、火星圏補助整備エアポートへ。

 

ジェームズがいる整備ドックの近くへ。

 

 

整備ドックは、夜でも静かにならない。

 

大型船の姿勢制御ユニットがクレーンで吊られ、補助推進器の外装が開かれ、作業灯が白く床を照らしている。

 

油と金属の匂い。

 

冷えた空調。

 

遠くで響く工具の音。

 

ペルシアはその中を、宇宙管理局の制服のまま歩いた。

 

ドルトムントの制服ではない。

 

もう十四班の副パーサーではない。

 

それでも、歩き方は変わっていない。

 

少し軽く、少し強引で、必要なら誰の間にも入っていく歩き方。

 

整備管理室の前に着くと、扉は半分開いていた。

 

中から、スリッピーの声が聞こえる。

 

「だから、この補正値って、現場で手動調整したものなんだよね?」

 

「見れば分かるだろ」

 

ジェームズの低い声。

 

「見れば分かるって言うけど、普通は見ても分からないって。ここのログ、三段階で癖が出てるじゃん」

 

「なら三段階で見ろ」

 

「だから見てるんだって」

 

「なら黙って見ろ」

 

「でも質問しないと分からないところがあるよ」

 

「分からないなら考えろ」

 

「考えたから聞いてるんだよ」

 

ペルシアは扉の前で少し笑った。

 

噛み合っていないようで、噛み合っている。

 

ジェームズは追い払っていない。

 

スリッピーも引いていない。

 

ナウスは端末に向かって、二人の会話を黙々と記録していた。

 

イーナは資料の整理を終えたらしく、ジェームズが出した古い整備ログを分類している。

 

フレイはペルシアに気づき、静かに会釈した。

 

「ペルシア。お帰りなさい」

 

「ただいま。どう?」

 

「想定より進んでいます。ジェームズさんは、技術助言者としての暫定協力に同意してくださいました」

 

ジェームズが不機嫌そうに顔を上げる。

 

「同意した覚えはない」

 

フレイは落ち着いて返す。

 

「では、協力範囲の確認に応じてくださった、に訂正します」

 

「それでいい」

 

スリッピーが笑う。

 

「ほとんど同じじゃない?」

 

「違う」

 

ナウスが端末を見ながら淡々と言う。

 

「記録上は、協力範囲の確認に応じた、で残します」

 

イーナが静かに微笑む。

 

「でも、これだけ資料を出してくださっている時点で、かなり協力的だと思います」

 

「勝手に解釈するな」

 

ジェームズは面倒くさそうに言った。

 

だが、資料を取り上げようとはしなかった。

 

ペルシアは机に手を置き、ジェームズを見た。

 

「ジェームズ」

 

「あ?」

 

「飲みに行こ」

 

室内が一瞬、止まった。

 

スリッピーが目を丸くする。

 

「え、今?」

 

ナウスの指が止まる。

 

イーナも少し驚いた顔をした。

 

フレイだけは、何かを察したようにペルシアを見る。

 

ジェームズは、露骨に嫌そうな顔をした。

 

「は?」

 

「飲みに行こって言ったの」

 

「誘いなら断る」

 

「今回の誘いは誘いでも、採用とか協力とかじゃないわよ」

 

「同じだろ」

 

「違うわ。飲みに行くの」

 

「なぜ俺が」

 

「暫定協力祝い」

 

「同意していない」

 

「じゃあ、協力範囲の確認に応じた祝い」

 

「祝うことじゃない」

 

「細かいわね」

 

「お前が雑なんだ」

 

ペルシアは肩をすくめる。

 

「雑でいいのよ。会議室で詰める話はフレイに任せる。スリッピーはログを見て、ナウスは記録、イーナは資料整理。私は今、あなたと飲みに行く」

 

ジェームズは眉を寄せた。

 

「意味が分からない」

 

「意味がないからいいの」

 

「余計に分からん」

 

フレイが静かに口を挟む。

 

「ジェームズさん。ペルシアは、必要のないことをしているように見えて、必要なことをしている場合があります」

 

「それは褒めてるのか」

 

「半分ほどは」

 

ペルシアがフレイを見る。

 

「半分なの?」

 

「もう半分は、実際に勢いで動いていると思っています」

 

「否定できないのが腹立つわね」

 

スリッピーが楽しそうに言う。

 

「いいんじゃない? ジェームズも休憩した方がいいよ。ずっとログ見てるし」

 

「お前の質問が終わらないからだ」

 

「それはごめん。でも続きは明日でもできるよ」

 

ナウスが端末を確認する。

 

「本日の記録量は十分です。これ以上は解析効率が落ちる可能性があります」

 

イーナも頷く。

 

「ジェームズさんも、少し休まれた方がいいと思います」

 

ジェームズは四人を順に見た。

 

全員が、行ってこいという顔をしている。

 

いや、スリッピーだけは面白がっている。

 

ペルシアはにやりと笑う。

 

「ほら。満場一致」

 

「俺の意思は」

 

「あるわよ。だから聞いてる」

 

「断ると言った」

 

「でも立つ準備してる」

 

ジェームズは自分の手元を見た。

 

確かに、作業端末の電源を落としかけていた。

 

舌打ちする。

 

「……一杯だけだ」

 

「その台詞、信用しない方がいいやつね」

 

「お前が言うな」

 

ペルシアは満足そうに笑った。

 

「決まり。行くわよ」

 

「勝手に仕切るな」

 

「嫌なら座ってれば?」

 

ジェームズは一瞬だけ黙り、それから乱暴に上着を取った。

 

「一杯だけだ」

 

「はいはい」

 

ペルシアは振り返り、フレイたちに手を振る。

 

「じゃあ、行ってくる」

 

フレイが軽く頷く。

 

「お気をつけて」

 

スリッピーが笑顔で言う。

 

「飲みすぎないでね」

 

ナウスが真面目に言った。

 

「飲酒後の移動は、管理局の送迎を手配してください」

 

イーナが少し心配そうに続ける。

 

「ペルシア、無理はしないでね」

 

「分かってるって」

 

ジェームズが低く言う。

 

「分かってない奴の返事だな」

 

ペルシアは振り返って笑った。

 

「その評価、あとで撤回させるわ」

 

 

整備ドックの外れに、古い酒場があった。

 

大きな看板はない。

 

入口の横に、小さな航路灯を模したランプがぶら下がっているだけだ。

 

中に入ると、整備士や輸送船の乗員たちが、それぞれの席で静かに飲んでいた。

 

騒がしすぎず、静かすぎない。

 

金属の壁には古い船の写真が貼られ、カウンターの奥には年代物の酒瓶が並んでいる。

 

ペルシアは店内を見渡し、奥の席を選んだ。

 

ジェームズは黙って向かいに座る。

 

店員が来る前に、ペルシアがメニューを開いた。

 

「何飲む?」

 

「強いもの」

 

「雑ね」

 

「お前に言われたくない」

 

「じゃあ、同じのでいい?」

 

「好きにしろ」

 

ペルシアは店員を呼んだ。

 

「一番強いのを二つ」

 

店員が一瞬、二人を見た。

 

「本当に?」

 

ペルシアが笑う。

 

「本当に」

 

ジェームズは黙っている。

 

店員は肩をすくめ、奥へ下がった。

 

やがて、透明な小さなグラスが二つ置かれる。

 

香りだけで、かなり強い酒だと分かった。

 

ペルシアはグラスを持ち上げる。

 

「お疲れ」

 

ジェームズは無言でグラスを上げた。

 

乾杯の音が、小さく鳴る。

 

二人は同時に飲んだ。

 

ペルシアは顔色一つ変えない。

 

ジェームズも同じだった。

 

店員が少し驚いた顔をする。

 

ペルシアはグラスを置く。

 

「もう一つ」

 

ジェームズが眉を寄せる。

 

「一杯だけだと言った」

 

「まだ一杯目が終わっただけ」

 

「だから終わりだ」

 

「逃げるの?」

 

「安い挑発だ」

 

「効いた?」

 

「効かん」

 

「じゃあ、もう一杯」

 

ジェームズはしばらくペルシアを睨んでいた。

 

だが、店員に向かって短く言う。

 

「同じものを」

 

ペルシアは笑った。

 

「乗った」

 

「乗ってない」

 

「乗ったわよ」

 

「黙れ」

 

二杯目。

 

三杯目。

 

四杯目。

 

二人は、驚くほど平然と飲み続けた。

 

ペルシアは頬も赤くならない。

 

ジェームズも、表情は変わらない。

 

ただ、口数だけが少し増えた。

 

「お前、なぜわざわざケレスまで行った」

 

五杯目を飲み終えたあたりで、ジェームズが聞いた。

 

ペルシアはグラスを指で回した。

 

「面白い子がいるって聞いたから」

 

「それだけか」

 

「それだけで十分でしょ」

 

「通信技師だったな」

 

「シャオメイ。十七歳。若いけど、通信ログを見る目がいい。何より、上に向かってちゃんと意見を言える」

 

ジェームズは少しだけ目を細めた。

 

「扱いづらいな」

 

「そうね」

 

「潰れるぞ」

 

「だから拾いに行った」

 

「拾ったのか」

 

「試験協力ね。本人の意思もある」

 

「物は言いようだ」

 

ペルシアは笑った。

 

「ジェームズに言われたくないわ。あなたも半分拾われたようなものよ」

 

「拾われてない」

 

「じゃあ、引っかかった?」

 

「もっと悪い」

 

六杯目。

 

七杯目。

 

八杯目。

 

店員の目が、だんだん不安そうになっていく。

 

周囲の客も、少しずつ二人に気づき始めた。

 

整備士の一人が小声で言う。

 

「あの二人、何杯目だ?」

 

別の乗員が答える。

 

「数えるのやめた」

 

ペルシアは気にしない。

 

ジェームズも気にしない。

 

九杯目を飲み終えた時、ペルシアが頬杖をついた。

 

「ねえ、ジェームズ」

 

「何だ」

 

「あなた、どうしてあそこまでログを見るの?」

 

「仕事だからだ」

 

「それだけ?」

 

「それだけで十分だ」

 

「嘘ね」

 

ジェームズの目が少し鋭くなる。

 

ペルシアは平然としていた。

 

「仕事だから、であそこまで見る人は少ないわよ。普通は規定範囲を見る。異常値を見る。報告に必要なところを見る。でもあなたは、報告にならない癖まで見る」

 

「見えるものを見ない方が気持ち悪いだけだ」

 

「ほら、それよ」

 

「何がだ」

 

「見えるものを見ない方が気持ち悪い。そういう人が必要なの」

 

ジェームズは黙った。

 

十杯目が置かれる。

 

ペルシアはそれを軽く持ち上げた。

 

「私は宇宙管理局に来る前には、ドルトムントの旅行会社にいたのよ。そこの十四班にいた頃、よく言われたの。十四班は特別枠だって、最も厳しい航路、最も高い要求。だから特別扱いされる。半分は名誉で、半分は隔離みたいなもの」

 

ジェームズはグラスを持ったまま黙っている。

 

ペルシアは続ける。

 

「でも、十四班が特別だったのは、能力が高いからだけじゃない。助けを呼ぶのが早かった。これは恥じゃない。むしろ強さだって、皆が分かってた」

 

「整備でも同じだ」

 

ジェームズが低く言った。

 

「異常を抱え込む奴は、船を壊す」

 

「でしょ」

 

「だが、報告すれば怒られる現場もある」

 

「あるわね」

 

「だから隠す。隠した結果、もっと壊れる」

 

「最悪ね」

 

「最悪だ」

 

十一杯目。

 

十二杯目。

 

二人の会話は、少しずつ静かになっていた。

 

最初の軽口は残っている。

 

だが、その奥にあるものが、少しずつ顔を出している。

 

ペルシアは、ジェームズの言葉を待つのがうまかった。

 

普段なら、場を動かすためにすぐ口を挟む。

 

けれど今は違った。

 

飲みながら、待っている。

 

ジェームズが自分から出す言葉を。

 

十三杯目を飲んだ後、ジェームズが言った。

 

「昔、似たことがあった」

 

ペルシアは黙ってグラスを置いた。

 

「整備ログの揺れが気に入らなかった。規定値内だったが、どう見ても癖が出ていた。報告したが、上は問題なしで通した」

 

「結果は?」

 

「二週間後、補助推進器が焼けた」

 

ペルシアの表情から笑みが消えた。

 

「死者は?」

 

「出ていない。だが、乗員が一人、腕を潰した」

 

「……そう」

 

「俺は報告した。だが、通らなかった。だから次から、通る形にするようにした」

 

「だからログを細かく見る?」

 

「違う」

 

ジェームズは十四杯目に手を伸ばした。

 

「見逃したくないだけだ」

 

その言葉に、ペルシアは少し目を伏せた。

 

見逃したくない。

 

その感覚は、分かる。

 

ペルシアにもあった。

 

客室で、誰かの声が少し震える。

 

乗客が笑っていても、指先が強く膝を掴んでいる。

 

乗務員が大丈夫と言いながら、視線だけで助けを求めている。

 

そういうものを、見逃したくなかった。

 

そして、見逃せなかった。

 

十四班にいた頃からずっと。

 

ドルトムントを辞めてからもずっと。

 

十五杯目。

 

十六杯目。

 

店員が近づいてきた。

 

「あの、本当に大丈夫ですか?」

 

ペルシアが笑顔で答える。

 

「大丈夫」

 

ジェームズが言う。

 

「根拠のない大丈夫だな」

 

「うるさいわね。まだ平気よ」

 

「まだ、という言い方は危ない」

 

「あなたも同じだけ飲んでるでしょ」

 

「俺は平気だ」

 

「根拠は?」

 

「顔色」

 

「私も変わってないわよ」

 

「口数が増えている」

 

「元から多い」

 

「それはそうだ」

 

「納得しないで」

 

店員は諦めたように次の酒を置いた。

 

十七杯目。

 

十八杯目。

 

十九杯目。

 

二十杯目に入る頃には、周囲の客の一部が完全に観戦体勢に入っていた。

 

「おい、二十いったぞ」

 

「どっちが先に潰れると思う?」

 

「あの女の方、全然崩れないな」

 

「男も顔色変わってないぞ」

 

「賭けるか?」

 

ペルシアは耳ざとくそれを拾い、振り返った。

 

「賭けるなら私にしときなさい」

 

ジェームズが呆れた声を出す。

 

「煽るな」

 

「勝つ気あるもの」

 

「飲み比べを始めた覚えはない」

 

「ここまで来たら始まってるわよ」

 

「勝手に始めるな」

 

「勝手に参加したのはあなた」

 

「お前が引っ張った」

 

「立ったのは自分でしょ」

 

「面倒くさい女だな」

 

「よく言われる」

 

ジェームズはグラスを空にした。

 

「だろうな」

 

二十一杯目。

 

二十二杯目。

 

ペルシアの頬が、ほんの少しだけ赤くなった。

 

ジェームズはそれに気づいた。

 

「限界か」

 

「まさか」

 

「目が少し遅い」

 

「観察しないで」

 

「整備士だからな」

 

「人間を機体みたいに見るのやめて」

 

「癖は出る」

 

「あなたも出てるわよ」

 

「何が」

 

「さっきから、私のグラスが空く前に店員呼んでる」

 

ジェームズの手が止まった。

 

ペルシアはにやりと笑う。

 

「気が利くじゃない」

 

「違う」

 

「違わないわよ」

 

「飲み比べを長引かせたいだけだ」

 

「それを気が利くって言うのよ」

 

「言わない」

 

二十三杯目。

 

二十四杯目。

 

会話の間が、少し長くなる。

 

だが、不思議と気まずくはなかった。

 

ペルシアはグラスの中の透明な酒を見つめた。

 

「私ね、ジェームズ」

 

「何だ」

 

「ドルトムントを辞めた時、自分でもよく分からなかったの」

 

ジェームズは黙っていた。

 

「逃げたとも言えるし、選んだとも言える。どっちでもあるわねって、前に人に話したことがある」

 

「……」

 

「十四班が好きだった。エリンが好きだった。タツヤ班長も、リュウジも、ククルも、エマも、カイエも、ミラも、皆好きだった」

 

ペルシアの声は軽くなかった。

 

「でも、あそこにいたら、守れないものがあった。私がいるせいで、火が大きくなるかもしれないと思った。だから辞めた」

 

「それで宇宙管理局か」

 

「そう」

 

「場所を変えただけで、やることは変わってないな」

 

ペルシアは少し笑った。

 

「そうかもね」

 

「守りたいんだろ」

 

その言葉に、ペルシアはグラスを持つ手を止めた。

 

ジェームズは見ていないふりをしている。

 

だが、確かにペルシアを見ていた。

 

ペルシアは小さく息を吐いた。

 

「守りたいわよ」

 

二十五杯目。

 

二十六杯目。

 

酒が進むほどに、ペルシアの言葉は少しずつ素直になっていた。

 

普段なら冗談で隠すところを、今日は隠しきれていない。

 

ジェームズはそれを指摘しなかった。

 

ただ、聞いていた。

 

「宇宙管理局で作ろうとしてるオペレーションルームはね、ただの指令室じゃないの」

 

ペルシアは指先で机を軽く叩いた。

 

「現場が助けを呼べる場所にしたい。船が異常を感じた時、管制が迷った時、整備が嫌な癖を見つけた時、通信が途切れそうな時、誰かが怖いと思った時。そこで、恥じゃないって言える場所」

 

十四班は、助けを呼ぶのが早かった。

 

これは恥じゃない。

 

むしろ強さ。

 

その言葉が、ペルシアの中に残っている。

 

ペルシアがドルトムントを辞めても、十四班で学んだものは消えなかった。

 

むしろ、宇宙管理局に移ってから、その意味は大きくなった。

 

「一つの班じゃなくて、もっと広い場所でそれをやりたいの」

 

「理想論だな」

 

ジェームズが言った。

 

ペルシアは頷く。

 

「ええ、理想論よ」

 

「現場は理想じゃ動かない」

 

「知ってる」

 

「人は隠す。上は保身する。書類は遅い。通信は詰まる。整備は後回しにされる。予算は足りない。責任は押し付け合う」

 

「よく分かってるじゃない」

 

「だから理想論だと言っている」

 

「だから必要なのよ」

 

ペルシアの声が少し強くなった。

 

「理想がないと、現実をどっちに動かせばいいか分からないじゃない」

 

ジェームズは黙った。

 

二十七杯目。

 

二十八杯目。

 

ペルシアの目が、少しだけ眠そうになってきた。

 

それでも口元には笑みがある。

 

ジェームズはまだ崩れていない。

 

ただし、グラスを置く手の動きは、ほんのわずかに遅くなっていた。

 

「お前、酒が強いな」

 

ジェームズが言った。

 

ペルシアは得意げに笑う。

 

「でしょ」

 

「だが、限界は近い」

 

「まだいけるわよ」

 

「口調が雑になっている」

 

「元からよ」

 

「目が半分閉じている」

 

「閉じてない」

 

「閉じてる」

 

「閉じてないってば」

 

二十九杯目。

 

店員が恐る恐るグラスを置いた。

 

「本当に、次で最後にした方が……」

 

ペルシアは片手を上げた。

 

「次で三十。きりがいいわね」

 

ジェームズが呆れる。

 

「きりで飲むな」

 

「飲み比べには区切りが必要なの」

 

「始めた覚えはない」

 

「まだ言う?」

 

「事実だ」

 

三十杯目。

 

透明な酒が、二つのグラスに注がれる。

 

周囲の客が、誰からともなく静かになった。

 

完全に見守っている。

 

ペルシアはグラスを持った。

 

ジェームズも持つ。

 

「ジェームズ」

 

「何だ」

 

「勝ったら、正式協力ね」

 

「今さら条件を出すな」

 

「じゃあ、負けたら?」

 

「お前が黙って寝る」

 

「ひどい」

 

「妥当だ」

 

ペルシアは笑った。

 

「じゃあ、どっちにしても私は得するわね」

 

「どこがだ」

 

「あなたがここまで付き合ってくれた」

 

ジェームズは一瞬だけ黙った。

 

ペルシアはグラスを軽く掲げる。

 

「乾杯」

 

ジェームズも渋々グラスを上げる。

 

「……乾杯」

 

二人は同時に飲み干した。

 

ペルシアはグラスを置いた。

 

勝ち誇ったように笑おうとした。

 

しかし、その笑みは途中で止まった。

 

「……あれ」

 

そのまま、こつん、と額が机に落ちた。

 

「おい」

 

ジェームズがすぐに声をかける。

 

返事はない。

 

ペルシアは机に伏したまま動かない。

 

周囲の客がどよめいた。

 

「倒れた?」

 

「寝た?」

 

「三十杯で?」

 

「三十杯まで立ってたのがおかしいだろ」

 

ジェームズは眉を寄せ、ペルシアの呼吸を確認した。

 

一定。

 

顔色も危険なほどではない。

 

ただ、完全に寝ている。

 

「……馬鹿が」

 

そう言いながらも、声には強い苛立ちはなかった。

 

店員が近づく。

 

「お連れの方、大丈夫ですか?」

 

「寝ただけだ」

 

「送迎を呼びますか?」

 

「呼ぶ」

 

ジェームズは端末を取り出した。

 

宇宙管理局の連絡先を開く。

 

フレイに連絡するのが一番早いだろう。

 

しかし、その前に、机に伏したペルシアが小さく何かを呟いた。

 

「……守りたいのよ」

 

ジェームズの指が止まる。

 

ペルシアは目を閉じたまま、夢の中で誰かに話しているようだった。

 

「何があっても……守りたいのよ……」

 

ジェームズは黙っていた。

 

「エリンも……十四班も……リュウジも……今、飛んでる船も……これから飛ぶ子たちも……」

 

声は小さい。

 

普段のペルシアの声ではない。

 

軽口もない。

 

強がりもない。

 

ただ、むき出しの本音だった。

 

「助けてって……言えない現場を……減らしたいの……」

 

ジェームズは端末を持ったまま、動けなかった。

 

ペルシアはさらに小さく呟く。

 

「怖いのよ……私も……」

 

その言葉に、ジェームズの目がわずかに動いた。

 

ペルシアは、怖くない人間に見える。

 

強引で、明るくて、軽口ばかりで、誰の前でも怯まない。

 

だが、そうではなかった。

 

怖い。

 

それでも動いている。

 

怖いから、先に動く。

 

怖いから、人を集める。

 

怖いから、見逃したくない。

 

「だから……私には……ジェームズが必要……」

 

ジェームズは息を止めた。

 

ペルシアは机に伏したまま、まだ夢の中にいる。

 

「あなたみたいに……嫌な癖を……見逃さない人が……必要なの……」

 

「……」

 

「整備が黙ったら……船は落ちる……通信が黙ったら……声が届かない……管制が迷ったら……現場が止まる……」

 

ジェームズの手が、端末から離れた。

 

「私は……全部は見えない……だから……助けてほしいのよ……」

 

その言葉は、酔った寝言だった。

 

本人は、きっと覚えていない。

 

起きたら、いつものように笑ってごまかすだろう。

 

「何か言った?」と白々しくとぼけるかもしれない。

 

だが、ジェームズは聞いてしまった。

 

ペルシアが本当に求めているものを。

 

契約ではない。

 

肩書きでもない。

 

便利な技術者でもない。

 

彼女は、助けを呼んでいた。

 

十四班が大事にしていたという、助けを呼ぶ強さ。

 

それを今、宇宙管理局で、自分自身がやっている。

 

ジェームズは深く息を吐いた。

 

「……面倒くさい女だ」

 

ペルシアは眠ったままだ。

 

「俺を必要だと寝言で言うな。起きて言え」

 

返事はない。

 

ジェームズは端末を開き、フレイへ通信を入れた。

 

すぐにフレイが出る。

 

『ジェームズさん?』

 

「ペルシアが潰れた」

 

画面の向こうで、フレイの表情が一瞬だけ固まった。

 

『……飲酒ですか』

 

「三十杯飲んだ」

 

『三十』

 

フレイの声が珍しく揺れた。

 

その奥からスリッピーの声が聞こえる。

 

『三十!? どっちが!?』

 

「両方だ」

 

『ジェームズも飲んだの!?』

 

「俺は潰れてない」

 

ナウスの声が入る。

 

『現在地を送ってください。送迎を手配します』

 

イーナの心配そうな声も聞こえた。

 

『ペルシアは大丈夫なの?』

 

「寝ている。呼吸は正常。顔色も悪くない」

 

フレイはすぐに落ち着きを取り戻した。

 

『ありがとうございます。すぐに迎えを向かわせます。ジェームズさんもそのまま待機してください』

 

「分かった」

 

フレイは少し間を置いてから言った。

 

『ペルシアがご迷惑をおかけしました』

 

ジェームズは机に伏したペルシアを見た。

 

「迷惑ではない」

 

フレイが少し驚いた顔をした。

 

「……いや、迷惑ではある」

 

『どちらですか』

 

「面倒ではあるが、迷惑とは少し違う」

 

フレイは静かに目を細めた。

 

『そうですか』

 

「何だ」

 

『いえ。ありがとうございます』

 

「礼を言われることじゃない」

 

『それでも、言っておきます』

 

通信が切れた。

 

ジェームズは端末を置いた。

 

周囲の客たちは、もう騒がず、少し距離を置いていた。

 

店員が水を持ってくる。

 

「お水です」

 

「助かる」

 

ジェームズは短く礼を言い、ペルシアのそばに水を置いた。

 

ペルシアは寝たまま、少し眉を寄せる。

 

「……エリン……怒らないで……」

 

ジェームズは思わず眉を上げた。

 

「誰に怒られてる夢だ」

 

ペルシアはむにゃむにゃと続ける。

 

「……タツヤ班長……それは……反則……」

 

「今度は誰だ」

 

「……リュウジ……ちゃんと寝て……」

 

ジェームズは呆れた。

 

寝言の中でも、誰かを気にしている。

 

本当に面倒くさい。

 

本当に、厄介だ。

 

そして、本当に現場向きの人間だ。

 

ジェームズは背もたれに身体を預けた。

 

酒は回っている。

 

だが、頭は冴えていた。

 

ペルシアの言葉が、妙に残っている。

 

――何があっても守りたいのよ。

 

――その為に私にはジェームズが必要。

 

そんなことを言われて、無視できるほど、ジェームズは冷たくなかった。

 

いや、冷たくありたかった。

 

関わらなければ楽だ。

 

面倒な組織に巻き込まれず、整備ログだけ見て、必要なことだけ言って、聞かれなければ黙っている。

 

その方が楽だ。

 

だが、それで過去に何が起きたか、ジェームズは知っている。

 

規定値内。

 

問題なし。

 

報告済み。

 

判断待ち。

 

そういう言葉の隙間で、現場は壊れる。

 

誰かの腕が潰れる。

 

船が傷む。

 

声が届かなくなる。

 

ペルシアは、それを減らしたいと言った。

 

酔って寝ながら。

 

本音で。

 

ジェームズは目を閉じた。

 

「……馬鹿が」

 

もう一度そう呟いた。

 

だが、今度の声は、さっきより少しだけ柔らかかった。

 

 

送迎が来るまでの間、ジェームズはペルシアをそのまま寝かせておいた。

 

起こす気にはならなかった。

 

起こせば、きっと無理に笑う。

 

「ちょっと寝ただけ」と言う。

 

「三十杯なら実質勝ち」とでも言うかもしれない。

 

そういう強がりを、今は見たくなかった。

 

やがて、店の入口が開いた。

 

フレイ、イーナ、ナウス、スリッピーが入ってくる。

 

四人とも、急いできたのが分かった。

 

スリッピーはペルシアを見るなり、目を丸くした。

 

「本当に寝てる」

 

ナウスは端末で状態確認用の簡易スキャンを行う。

 

「呼吸、脈拍ともに安定。急性症状は見られません。ただし、明日の頭痛は避けられないと思われます」

 

イーナがほっと息を吐く。

 

「よかった……」

 

フレイはジェームズを見る。

 

「ジェームズさん、ありがとうございました」

 

「俺は何もしていない」

 

「そばにいてくださいました」

 

「置いて帰るほど薄情じゃない」

 

スリッピーがにこっと笑う。

 

「ジェームズ、優しいね」

 

「違う」

 

「違わないと思うけど」

 

「黙れ」

 

いつものやり取り。

 

だが、フレイは少しだけジェームズの雰囲気が変わっていることに気づいた。

 

酒のせいだけではない。

 

何かを聞いた顔だった。

 

フレイは問い詰めなかった。

 

今は、それでいいと思った。

 

イーナがペルシアの肩にそっと触れる。

 

「ペルシア、帰るよ」

 

ペルシアは寝たまま小さく唸る。

 

「……まだ……勝ってない……」

 

スリッピーが吹き出した。

 

「飲み比べしてたの?」

 

ジェームズが不機嫌そうに言う。

 

「勝手に始められた」

 

ナウスが記録しようとして、フレイに視線で止められた。

 

「記録しなくていいです」

 

「承知しました」

 

イーナが困ったように笑う。

 

「ペルシアらしいというか……」

 

フレイはペルシアを支えようとした。

 

だが、ジェームズが先に立ち上がった。

 

「俺が運ぶ」

 

四人が一斉にジェームズを見る。

 

ジェームズは眉を寄せた。

 

「何だ」

 

スリッピーが笑顔になる。

 

「いや、優しいなって」

 

「落とされたら困るだけだ」

 

イーナが微笑む。

 

「ありがとうございます」

 

「礼はいらない」

 

ジェームズはペルシアを慎重に抱え上げた。

 

乱暴な動きではなかった。

 

整備士らしく、重心を確かめ、首が揺れないように支え、机にぶつけないようにゆっくり立ち上がる。

 

スリッピーが小声で言う。

 

「扱いが精密機器みたい」

 

ジェームズが睨む。

 

「人間の方が面倒だ」

 

「それはそうだね」

 

ペルシアは抱えられたまま、また小さく寝言を言った。

 

「……ジェームズ……逃げないでよ……」

 

ジェームズの足が一瞬止まる。

 

フレイがそれを見た。

 

ジェームズはすぐに歩き出す。

 

「逃げない」

 

その返事は、小さかった。

 

だが、確かに言った。

 

眠っているペルシアには聞こえていないかもしれない。

 

それでも、フレイには聞こえた。

 

スリッピーにも。

 

イーナにも。

 

ナウスにも。

 

四人は何も言わなかった。

 

そのまま送迎車へ向かう。

 

夜の整備ドックの空気は冷えていた。

 

遠くで船のエンジン音が低く響いている。

 

ジェームズはペルシアを後部座席に寝かせ、上着をかけた。

 

フレイが隣に座り、イーナが反対側から支える。

 

ナウスは運転席側の端末で移動ルートを確認する。

 

スリッピーはジェームズの横に立った。

 

「ジェームズ」

 

「何だ」

 

「明日、ログの続き見てもいい?」

 

「……勝手にしろ」

 

「それ、いいってことだよね」

 

「質問は減らせ」

 

「努力する」

 

「無理だろ」

 

「うん、多分」

 

ジェームズはため息をついた。

 

だが、拒絶はしなかった。

 

フレイが窓越しに言う。

 

「ジェームズさん」

 

「何だ」

 

「正式な協力条件について、明日改めてお話しできますか」

 

ジェームズは少し黙った。

 

ペルシアは座席で眠っている。

 

何も知らない顔で。

 

ジェームズはその寝顔を一度だけ見た。

 

そして、フレイに向き直る。

 

「話だけは聞く」

 

フレイは静かに頷いた。

 

「ありがとうございます」

 

「勘違いするな。決めたわけじゃない」

 

「承知しています」

 

「ただ」

 

ジェームズは少し言葉を切った。

 

「整備側の権限と発言経路は、曖昧にするな」

 

フレイの目がわずかに鋭くなる。

 

「具体的には?」

 

「異常値未満の癖を報告した時、誰が受けるのか。どの段階で航行側に止められるのか。管制が急がせた時、整備が拒否できる条件は何か。そこを決めろ」

 

ナウスがすぐに端末を開いた。

 

「記録します」

 

ジェームズは続ける。

 

「通信側も同じだ。通信遅延を軽視するな。管制の都合で流すな。シャオメイだったか、あの通信技師を入れるなら、通信側の停止権限も決めておけ」

 

フレイが静かに聞いている。

 

スリッピーは、少し驚いたようにジェームズを見ていた。

 

ジェームズはさらに言った。

 

「ペルシアは、人を集めるのはうまい。だが、集めただけでは現場は動かない。権限が曖昧なら、声を出せる奴ほど先に潰れる」

 

フレイは深く頷いた。

 

「その指摘は重要です。明日の協議に入れます」

 

「入れるだけじゃなく、決めろ」

 

「はい」

 

「なら、話は聞く」

 

それだけ言うと、ジェームズは一歩下がった。

 

フレイは静かに言った。

 

「ペルシアが聞いたら、喜ぶと思います」

 

ジェームズは不機嫌そうに目を逸らした。

 

「寝ている奴に言うな」

 

スリッピーが笑う。

 

「でも、明日言うよね?」

 

「言うな」

 

イーナが穏やかに言う。

 

「たぶん、顔を見れば分かると思います」

 

「何が」

 

「ジェームズさんが、少し協力する気になってくれたことです」

 

「なっていない」

 

ナウスが淡々と告げる。

 

「発言内容は、協力前提の改善提案に分類されます」

 

「分類するな」

 

スリッピーがまた笑った。

 

「やっぱり協力的だ」

 

「黙れ」

 

送迎車の扉が閉まる。

 

フレイが最後に頭を下げた。

 

車がゆっくりと動き出す。

 

ジェームズはその場に立ち、遠ざかる尾灯を見送った。

 

夜のドックに、冷たい風が吹く。

 

酔いはまだ残っている。

 

だが、頭は妙に冴えていた。

 

ペルシアの寝言が、耳に残っている。

 

何があっても守りたい。

 

そのために、私にはジェームズが必要。

 

ジェームズは舌打ちした。

 

「……起きて言え、馬鹿」

 

だが、口元はほんのわずかに緩んでいた。

 

 

翌朝。

 

ペルシアは、宇宙管理局の仮眠室で目を覚ました。

 

頭が痛い。

 

目も重い。

 

喉も乾いている。

 

起き上がろうとして、すぐに後悔した。

 

「……最悪」

 

枕元には、水と回復用の栄養剤が置かれていた。

 

さらに、端末にはフレイからのメッセージ。

 

――起床後、まず水を飲んでください。午前の会議は一時間後に変更しました。

 

その下に、スリッピーから。

 

――三十杯はすごいけど、真似しない方がいいと思う!

 

ナウスから。

 

――飲酒量の記録はフレイさんの判断で非公開扱いとなりました。

 

イーナから。

 

――無理しないでね。朝食は軽いものにしておいたよ。

 

ペルシアは額を押さえた。

 

「……何やってんの、私」

 

記憶はある。

 

途中までは。

 

ジェームズを飲みに誘った。

 

一杯だけと言われた。

 

飲み比べになった。

 

二十杯を超えたあたりまでは覚えている。

 

三十杯目。

 

飲んだ。

 

そこから先が曖昧だった。

 

ペルシアは嫌な予感がした。

 

自分は何か言ったのではないか。

 

余計なことを。

 

かなり余計なことを。

 

その時、仮眠室の扉がノックされた。

 

「起きてる?」

 

イーナの声だった。

 

「起きてる……けど、できれば寝ていたい」

 

扉が開き、イーナが顔を出す。

 

「顔色は悪くないね」

 

「頭は悪いわ」

 

「それは昨日の行動の話?」

 

「イーナ、今は優しくして」

 

イーナは苦笑しながら水を渡した。

 

「はい。まず飲んで」

 

ペルシアは素直に水を飲む。

 

冷たい水が喉を通り、少しだけ意識がはっきりした。

 

「ジェームズは?」

 

「帰ったよ。でも、今日の協議には来るって」

 

ペルシアは目を瞬かせた。

 

「来るの?」

 

「うん。正式な協力条件について、話だけは聞くって」

 

「……へえ」

 

ペルシアは少しだけ笑った。

 

「落ちた?」

 

イーナは首を傾げる。

 

「まだ、落ちたとは言わない方がいいと思う。でも、昨日よりは前向き」

 

「何かあった?」

 

「それは、本人に聞いた方がいいかも」

 

ペルシアは嫌な予感を強めた。

 

「私、何か言った?」

 

イーナは微笑んだ。

 

「寝言は、本人の許可なく広めない方がいいと思う」

 

「言ったのね」

 

「少しだけ」

 

「内容は?」

 

イーナは答えず、栄養剤を差し出した。

 

「飲んで」

 

「ごまかした」

 

「飲んで」

 

ペルシアは渋々飲んだ。

 

その後、ふらふらしながら会議室へ向かう。

 

フレイ、ナウス、スリッピーはすでに席にいた。

 

そして、ジェームズもいた。

 

不機嫌そうに腕を組み、いつものように端の席に座っている。

 

ペルシアを見るなり、ジェームズは言った。

 

「起きたか」

 

「起きたわよ」

 

「酒に負けたな」

 

「負けてない」

 

「机に伏した」

 

「戦略的休憩よ」

 

「三十杯目で寝た」

 

「……覚えてないから無効」

 

「都合がいいな」

 

スリッピーが笑いをこらえている。

 

ナウスは記録しようとして、フレイにまた視線で止められた。

 

ペルシアは椅子に座り、ジェームズを見る。

 

「で、来てくれたのね」

 

「話だけは聞く」

 

「十分」

 

「勘違いするな」

 

「してないわよ」

 

「している顔だ」

 

「じゃあ、少ししてる」

 

ジェームズはため息をついた。

 

フレイが会議を始める。

 

「では、ジェームズさんの技術助言者としての協力条件について確認します。昨日、ジェームズさんから重要な指摘がありました。整備側の発言経路と停止権限を曖昧にしないこと。通信側についても同様です」

 

ペルシアは少し目を見開いた。

 

「ジェームズが?」

 

ジェームズは視線を逸らす。

 

「必要なことを言っただけだ」

 

「へえ」

 

「何だ」

 

「別に」

 

ペルシアは少し笑った。

 

嬉しかった。

 

ただ協力すると言われるより、ずっと嬉しかった。

 

ジェームズは、もう中に入って考え始めている。

 

どうすれば現場が壊れないか。

 

どうすれば声が潰されないか。

 

ペルシアが作りたい場所に、彼はもう手を伸ばしている。

 

フレイが資料を表示する。

 

「整備側からの異常傾向報告は、規定値内であってもオペレーションルームで一次受理します。緊急性が高い場合、技術助言者判断で航行・管制へ注意喚起を上げられるようにします」

 

ナウスが補足する。

 

「記録分類には、異常値、異常傾向、注意癖、観察継続の四段階を設定します」

 

スリッピーが身を乗り出す。

 

「これ、すごくいいと思う。異常じゃないけど嫌な感じ、っていうのを残せる」

 

イーナも頷く。

 

「通信側については、シャオメイの試験配置と合わせて、通信遅延時の発言経路を作ります」

 

ペルシアは資料を見ながら、静かに息を吐いた。

 

形になっている。

 

まだ荒い。

 

未完成。

 

けれど、確かに形になり始めている。

 

「ジェームズ」

 

ペルシアが呼ぶ。

 

「何だ」

 

「ありがとう」

 

ジェームズは眉を寄せた。

 

「礼を言われることはしていない」

 

「してるわよ」

 

「仕事の話だ」

 

「だから、ありがとう」

 

ジェームズは黙った。

 

そして、少し不機嫌そうに言った。

 

「礼を言うなら、次から飲む量を考えろ」

 

「それは約束できない」

 

「しろ」

 

「善処する」

 

「しない奴の返事だ」

 

ペルシアは笑った。

 

「でも、楽しかったでしょ?」

 

「最悪だった」

 

「また行く?」

 

「行かない」

 

「絶対?」

 

「絶対だ」

 

スリッピーが小声で言う。

 

「でも、ジェームズって絶対って言う時ほど怪しいよね」

 

「黙れ」

 

イーナが笑う。

 

ナウスもわずかに口元を緩めた。

 

フレイは静かに資料を整える。

 

ペルシアはジェームズを見た。

 

「じゃあ、会議が終わったら、昨日の続きを少しだけ聞かせて」

 

「何の続きだ」

 

「あなたが見逃したくないものの話」

 

ジェームズの表情が少しだけ変わった。

 

「酒の席の話だ」

 

「でも、必要な話だった」

 

「……」

 

「ジェームズ。私は、全部は見えない。だから、見える人が必要なの」

 

ジェームズは黙っていた。

 

ペルシアは今度は、寝言ではなく、起きたまま言った。

 

「私には、あなたが必要よ」

 

会議室が静かになる。

 

スリッピーも、イーナも、ナウスも、フレイも黙っていた。

 

ジェームズは長い沈黙の後、低く言った。

 

「……そういうことは、最初から起きて言え」

 

ペルシアは目を丸くした。

 

「私、昨日言った?」

 

ジェームズは答えない。

 

ペルシアは顔をしかめる。

 

「言ったのね」

 

「寝言でな」

 

「最悪」

 

「同感だ」

 

「何て言った?」

 

「忘れた」

 

「絶対覚えてる顔じゃない」

 

「忘れた」

 

ペルシアはしばらくジェームズを睨んだが、やがて諦めたように笑った。

 

「まあ、いいわ」

 

「いいのか」

 

「今、起きて言ったから」

 

ジェームズは少しだけ目を伏せた。

 

それから、資料に視線を戻す。

 

「正式協力ではない」

 

「はいはい」

 

「技術助言者として、条件が整えば参加する」

 

ペルシアの顔が明るくなる。

 

「それ、ほぼ正式協力じゃない?」

 

「違う」

 

「違わないでしょ」

 

「条件が整えば、だ」

 

フレイが静かに言う。

 

「では、条件を整えましょう」

 

ナウスが端末を操作する。

 

「協力条件整理、開始します」

 

スリッピーが嬉しそうに笑う。

 

「やった。ジェームズのログ解説、続き聞ける」

 

イーナが微笑む。

 

「シャオメイにも早めに紹介したいですね」

 

ペルシアは頷いた。

 

「ええ。整備の嫌な癖を見る人と、通信の嫌な遅延を見る子。絶対ぶつかるけど、絶対必要」

 

ジェームズが言う。

 

「ぶつかる前提で話すな」

 

「ぶつかるでしょ」

 

「否定はしない」

 

「ほら」

 

フレイが資料を一枚進める。

 

「その衝突を運用として受け止める仕組みを作るのが、私たちの仕事です」

 

ペルシアはその言葉に満足そうに頷いた。

 

そう。

 

それがやりたい。

 

個性的な人材を集めるだけでは駄目だ。

 

ぶつかる。

 

揉める。

 

言い方を間違える。

 

判断が早すぎる者もいれば、慎重すぎる者もいる。

 

けれど、それを潰さず、現場の力に変える。

 

十四班がそうだったように。

 

ペルシアが好きだった十四班。

 

辞めてもなお、背中に残っている場所。

 

その場所で学んだものを、今度は宇宙管理局で形にする。

 

ペルシアは、机の下で軽く拳を握った。

 

怖さはある。

 

失敗するかもしれない。

 

人を集めた責任もある。

 

それでも、やる。

 

何があっても守りたいものがあるから。

 

ジェームズは、そんなペルシアの横顔を見た。

 

昨日の寝言と、今の言葉が重なる。

 

――私には、あなたが必要よ。

 

ジェームズは小さく息を吐いた。

 

「条件は厳しくする」

 

ペルシアが笑う。

 

「望むところよ」

 

「俺は妥協しない」

 

「知ってる」

 

「現場を飾りにするなら降りる」

 

「させない」

 

「整備の声を握り潰すなら、上でも噛みつく」

 

「噛みつき方は少し考えて」

 

「お前に言われたくない」

 

フレイが淡々と言う。

 

「お二人とも、言い方は今後の課題ですね」

 

スリッピーが笑う。

 

「二人とも似てるよね」

 

「似てない」

 

「似てないわよ」

 

ジェームズとペルシアの声が重なった。

 

イーナが思わず笑い、ナウスも記録しないように端末から手を離した。

 

会議室に、少しだけ柔らかい空気が流れた。

 

ペルシアは、その空気を感じながら思った。

 

少しずつだ。

 

まだ何も完成していない。

 

ジェームズは正式に落ちたわけではない。

 

シャオメイも試験協力の段階。

 

フレイの負担も大きい。

 

イーナもナウスもスリッピーも、まだ手探りだ。

 

けれど、歯車は動き始めた。

 

酒場で三十杯飲んで机に伏したことは、たぶん後で散々いじられる。

 

それでもいい。

 

その寝言が、ジェームズの耳に届いたのなら。

 

起きてから、もう一度言えたのなら。

 

きっと、無駄ではなかった。

 

ペルシアは資料を見つめ、静かに笑った。

 

「さあ、始めましょうか」

 

フレイが頷く。

 

「はい。宇宙管理局、新オペレーションルーム整備・通信連携案の協議を開始します」

 

ジェームズは腕を組み直した。

 

スリッピーは端末を開いた。

 

ナウスは記録を始めた。

 

イーナは資料を配った。

 

そしてペルシアは、会議室の中心で顔を上げる。

 

ドルトムントを辞めた。

 

逃げたとも言える。

 

選んだとも言える。

 

けれど今は、その選択の先にいる。

 

守るために。

 

助けを呼べる場所を作るために。

 

そして、その場所にはジェームズが必要だった。

 

ペルシアはもう一度、彼を見る。

 

ジェームズは目を逸らしながら言った。

 

「見るな。話を進めろ」

 

ペルシアは笑った。

 

「はいはい」

 

その声は軽かった。

 

だが、その奥には、確かな覚悟があった。

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