ケレス管制でシャオメイを見つけた帰り、ペルシアはまっすぐ宇宙管理局へ戻らなかった。
シャトルの窓の外には、小惑星帯の細かな光が流れていた。
ケレス管制の通信灯。
中継局の青い点滅。
遠くを横切る輸送船の航路標識。
そのどれもが、今のペルシアにはただの景色に見えなかった。
通信。
管制。
整備。
航行。
救助。
それらが一つでも途切れれば、現場は崩れる。
十四班にいた頃、ペルシアは客室の空気を見ていた。乗客の不安、乗務員の迷い、チーフパーサーの声の強さ、パイロットから入る短い報告。その場にある音と沈黙を拾い、必要な時に必要な言葉を投げる。
けれど、宇宙管理局に移ってからは、その範囲が一気に広がった。
一つの客室ではない。
一つの班でもない。
宇宙を行き交う船、管制、整備、通信、そのすべてが絡み合う現場。
ペルシアは、そこに新しいオペレーションルームを作ろうとしている。
フレイ。
イーナ。
スリッピー。
ナウス。
フォックス。
クリスタル。
ファルコ。
そして、ジェームズ。
さらに今日、シャオメイという若い通信技師を見つけた。
物怖じせず、上官相手でも必要なら意見を言う女の子。
荒い。
未熟。
でも、目はいい。
あの子は伸びる。
ペルシアはそう思った。
だが、同時に思う。
目がいいだけでは足りない。
声を出せるだけでも足りない。
その声を拾い、形にして、現場に通す仕組みが要る。
そのためには、整備側の強い目が必要だった。
ジェームズ。
無愛想で、口が悪くて、人付き合いが下手で、協力する気があるのかないのか分からない整備士。
だが、機体の癖を読む力は本物だった。
スリッピーが目を輝かせるほどの技術。
ナウスが記録を止められないほどの情報量。
フレイが「技術助言者として必要」と判断するほどの人材。
そしてペルシア自身も、分かっていた。
ジェームズが必要だ。
形式上の協力では足りない。
報酬や契約だけで繋いでも、いざという時に踏み込んではくれない。
ペルシアは端末を開いた。
フレイからの報告が届いている。
――ジェームズさんは、技術助言者としての暫定協力に同意しました。
その一文を見て、ペルシアは小さく笑った。
「暫定、ね」
いかにもジェームズらしい。
逃げ道を残している。
関わると言い切らない。
責任を取るとも言わない。
だが、端末を閉じなかった。
スリッピーの質問に答えた。
それなら十分に前進だった。
けれど、ペルシアはそこで満足するつもりはなかった。
彼には、もう少しだけ踏み込んでもらう。
契約書ではなく。
会議室でもなく。
技術説明でもなく。
もっと人間らしい、面倒くさい場所で。
ペルシアは行き先を変更した。
宇宙管理局ではなく、火星圏補助整備エアポートへ。
ジェームズがいる整備ドックの近くへ。
◇
整備ドックは、夜でも静かにならない。
大型船の姿勢制御ユニットがクレーンで吊られ、補助推進器の外装が開かれ、作業灯が白く床を照らしている。
油と金属の匂い。
冷えた空調。
遠くで響く工具の音。
ペルシアはその中を、宇宙管理局の制服のまま歩いた。
ドルトムントの制服ではない。
もう十四班の副パーサーではない。
それでも、歩き方は変わっていない。
少し軽く、少し強引で、必要なら誰の間にも入っていく歩き方。
整備管理室の前に着くと、扉は半分開いていた。
中から、スリッピーの声が聞こえる。
「だから、この補正値って、現場で手動調整したものなんだよね?」
「見れば分かるだろ」
ジェームズの低い声。
「見れば分かるって言うけど、普通は見ても分からないって。ここのログ、三段階で癖が出てるじゃん」
「なら三段階で見ろ」
「だから見てるんだって」
「なら黙って見ろ」
「でも質問しないと分からないところがあるよ」
「分からないなら考えろ」
「考えたから聞いてるんだよ」
ペルシアは扉の前で少し笑った。
噛み合っていないようで、噛み合っている。
ジェームズは追い払っていない。
スリッピーも引いていない。
ナウスは端末に向かって、二人の会話を黙々と記録していた。
イーナは資料の整理を終えたらしく、ジェームズが出した古い整備ログを分類している。
フレイはペルシアに気づき、静かに会釈した。
「ペルシア。お帰りなさい」
「ただいま。どう?」
「想定より進んでいます。ジェームズさんは、技術助言者としての暫定協力に同意してくださいました」
ジェームズが不機嫌そうに顔を上げる。
「同意した覚えはない」
フレイは落ち着いて返す。
「では、協力範囲の確認に応じてくださった、に訂正します」
「それでいい」
スリッピーが笑う。
「ほとんど同じじゃない?」
「違う」
ナウスが端末を見ながら淡々と言う。
「記録上は、協力範囲の確認に応じた、で残します」
イーナが静かに微笑む。
「でも、これだけ資料を出してくださっている時点で、かなり協力的だと思います」
「勝手に解釈するな」
ジェームズは面倒くさそうに言った。
だが、資料を取り上げようとはしなかった。
ペルシアは机に手を置き、ジェームズを見た。
「ジェームズ」
「あ?」
「飲みに行こ」
室内が一瞬、止まった。
スリッピーが目を丸くする。
「え、今?」
ナウスの指が止まる。
イーナも少し驚いた顔をした。
フレイだけは、何かを察したようにペルシアを見る。
ジェームズは、露骨に嫌そうな顔をした。
「は?」
「飲みに行こって言ったの」
「誘いなら断る」
「今回の誘いは誘いでも、採用とか協力とかじゃないわよ」
「同じだろ」
「違うわ。飲みに行くの」
「なぜ俺が」
「暫定協力祝い」
「同意していない」
「じゃあ、協力範囲の確認に応じた祝い」
「祝うことじゃない」
「細かいわね」
「お前が雑なんだ」
ペルシアは肩をすくめる。
「雑でいいのよ。会議室で詰める話はフレイに任せる。スリッピーはログを見て、ナウスは記録、イーナは資料整理。私は今、あなたと飲みに行く」
ジェームズは眉を寄せた。
「意味が分からない」
「意味がないからいいの」
「余計に分からん」
フレイが静かに口を挟む。
「ジェームズさん。ペルシアは、必要のないことをしているように見えて、必要なことをしている場合があります」
「それは褒めてるのか」
「半分ほどは」
ペルシアがフレイを見る。
「半分なの?」
「もう半分は、実際に勢いで動いていると思っています」
「否定できないのが腹立つわね」
スリッピーが楽しそうに言う。
「いいんじゃない? ジェームズも休憩した方がいいよ。ずっとログ見てるし」
「お前の質問が終わらないからだ」
「それはごめん。でも続きは明日でもできるよ」
ナウスが端末を確認する。
「本日の記録量は十分です。これ以上は解析効率が落ちる可能性があります」
イーナも頷く。
「ジェームズさんも、少し休まれた方がいいと思います」
ジェームズは四人を順に見た。
全員が、行ってこいという顔をしている。
いや、スリッピーだけは面白がっている。
ペルシアはにやりと笑う。
「ほら。満場一致」
「俺の意思は」
「あるわよ。だから聞いてる」
「断ると言った」
「でも立つ準備してる」
ジェームズは自分の手元を見た。
確かに、作業端末の電源を落としかけていた。
舌打ちする。
「……一杯だけだ」
「その台詞、信用しない方がいいやつね」
「お前が言うな」
ペルシアは満足そうに笑った。
「決まり。行くわよ」
「勝手に仕切るな」
「嫌なら座ってれば?」
ジェームズは一瞬だけ黙り、それから乱暴に上着を取った。
「一杯だけだ」
「はいはい」
ペルシアは振り返り、フレイたちに手を振る。
「じゃあ、行ってくる」
フレイが軽く頷く。
「お気をつけて」
スリッピーが笑顔で言う。
「飲みすぎないでね」
ナウスが真面目に言った。
「飲酒後の移動は、管理局の送迎を手配してください」
イーナが少し心配そうに続ける。
「ペルシア、無理はしないでね」
「分かってるって」
ジェームズが低く言う。
「分かってない奴の返事だな」
ペルシアは振り返って笑った。
「その評価、あとで撤回させるわ」
◇
整備ドックの外れに、古い酒場があった。
大きな看板はない。
入口の横に、小さな航路灯を模したランプがぶら下がっているだけだ。
中に入ると、整備士や輸送船の乗員たちが、それぞれの席で静かに飲んでいた。
騒がしすぎず、静かすぎない。
金属の壁には古い船の写真が貼られ、カウンターの奥には年代物の酒瓶が並んでいる。
ペルシアは店内を見渡し、奥の席を選んだ。
ジェームズは黙って向かいに座る。
店員が来る前に、ペルシアがメニューを開いた。
「何飲む?」
「強いもの」
「雑ね」
「お前に言われたくない」
「じゃあ、同じのでいい?」
「好きにしろ」
ペルシアは店員を呼んだ。
「一番強いのを二つ」
店員が一瞬、二人を見た。
「本当に?」
ペルシアが笑う。
「本当に」
ジェームズは黙っている。
店員は肩をすくめ、奥へ下がった。
やがて、透明な小さなグラスが二つ置かれる。
香りだけで、かなり強い酒だと分かった。
ペルシアはグラスを持ち上げる。
「お疲れ」
ジェームズは無言でグラスを上げた。
乾杯の音が、小さく鳴る。
二人は同時に飲んだ。
ペルシアは顔色一つ変えない。
ジェームズも同じだった。
店員が少し驚いた顔をする。
ペルシアはグラスを置く。
「もう一つ」
ジェームズが眉を寄せる。
「一杯だけだと言った」
「まだ一杯目が終わっただけ」
「だから終わりだ」
「逃げるの?」
「安い挑発だ」
「効いた?」
「効かん」
「じゃあ、もう一杯」
ジェームズはしばらくペルシアを睨んでいた。
だが、店員に向かって短く言う。
「同じものを」
ペルシアは笑った。
「乗った」
「乗ってない」
「乗ったわよ」
「黙れ」
二杯目。
三杯目。
四杯目。
二人は、驚くほど平然と飲み続けた。
ペルシアは頬も赤くならない。
ジェームズも、表情は変わらない。
ただ、口数だけが少し増えた。
「お前、なぜわざわざケレスまで行った」
五杯目を飲み終えたあたりで、ジェームズが聞いた。
ペルシアはグラスを指で回した。
「面白い子がいるって聞いたから」
「それだけか」
「それだけで十分でしょ」
「通信技師だったな」
「シャオメイ。十七歳。若いけど、通信ログを見る目がいい。何より、上に向かってちゃんと意見を言える」
ジェームズは少しだけ目を細めた。
「扱いづらいな」
「そうね」
「潰れるぞ」
「だから拾いに行った」
「拾ったのか」
「試験協力ね。本人の意思もある」
「物は言いようだ」
ペルシアは笑った。
「ジェームズに言われたくないわ。あなたも半分拾われたようなものよ」
「拾われてない」
「じゃあ、引っかかった?」
「もっと悪い」
六杯目。
七杯目。
八杯目。
店員の目が、だんだん不安そうになっていく。
周囲の客も、少しずつ二人に気づき始めた。
整備士の一人が小声で言う。
「あの二人、何杯目だ?」
別の乗員が答える。
「数えるのやめた」
ペルシアは気にしない。
ジェームズも気にしない。
九杯目を飲み終えた時、ペルシアが頬杖をついた。
「ねえ、ジェームズ」
「何だ」
「あなた、どうしてあそこまでログを見るの?」
「仕事だからだ」
「それだけ?」
「それだけで十分だ」
「嘘ね」
ジェームズの目が少し鋭くなる。
ペルシアは平然としていた。
「仕事だから、であそこまで見る人は少ないわよ。普通は規定範囲を見る。異常値を見る。報告に必要なところを見る。でもあなたは、報告にならない癖まで見る」
「見えるものを見ない方が気持ち悪いだけだ」
「ほら、それよ」
「何がだ」
「見えるものを見ない方が気持ち悪い。そういう人が必要なの」
ジェームズは黙った。
十杯目が置かれる。
ペルシアはそれを軽く持ち上げた。
「私は宇宙管理局に来る前には、ドルトムントの旅行会社にいたのよ。そこの十四班にいた頃、よく言われたの。十四班は特別枠だって、最も厳しい航路、最も高い要求。だから特別扱いされる。半分は名誉で、半分は隔離みたいなもの」
ジェームズはグラスを持ったまま黙っている。
ペルシアは続ける。
「でも、十四班が特別だったのは、能力が高いからだけじゃない。助けを呼ぶのが早かった。これは恥じゃない。むしろ強さだって、皆が分かってた」
「整備でも同じだ」
ジェームズが低く言った。
「異常を抱え込む奴は、船を壊す」
「でしょ」
「だが、報告すれば怒られる現場もある」
「あるわね」
「だから隠す。隠した結果、もっと壊れる」
「最悪ね」
「最悪だ」
十一杯目。
十二杯目。
二人の会話は、少しずつ静かになっていた。
最初の軽口は残っている。
だが、その奥にあるものが、少しずつ顔を出している。
ペルシアは、ジェームズの言葉を待つのがうまかった。
普段なら、場を動かすためにすぐ口を挟む。
けれど今は違った。
飲みながら、待っている。
ジェームズが自分から出す言葉を。
十三杯目を飲んだ後、ジェームズが言った。
「昔、似たことがあった」
ペルシアは黙ってグラスを置いた。
「整備ログの揺れが気に入らなかった。規定値内だったが、どう見ても癖が出ていた。報告したが、上は問題なしで通した」
「結果は?」
「二週間後、補助推進器が焼けた」
ペルシアの表情から笑みが消えた。
「死者は?」
「出ていない。だが、乗員が一人、腕を潰した」
「……そう」
「俺は報告した。だが、通らなかった。だから次から、通る形にするようにした」
「だからログを細かく見る?」
「違う」
ジェームズは十四杯目に手を伸ばした。
「見逃したくないだけだ」
その言葉に、ペルシアは少し目を伏せた。
見逃したくない。
その感覚は、分かる。
ペルシアにもあった。
客室で、誰かの声が少し震える。
乗客が笑っていても、指先が強く膝を掴んでいる。
乗務員が大丈夫と言いながら、視線だけで助けを求めている。
そういうものを、見逃したくなかった。
そして、見逃せなかった。
十四班にいた頃からずっと。
ドルトムントを辞めてからもずっと。
十五杯目。
十六杯目。
店員が近づいてきた。
「あの、本当に大丈夫ですか?」
ペルシアが笑顔で答える。
「大丈夫」
ジェームズが言う。
「根拠のない大丈夫だな」
「うるさいわね。まだ平気よ」
「まだ、という言い方は危ない」
「あなたも同じだけ飲んでるでしょ」
「俺は平気だ」
「根拠は?」
「顔色」
「私も変わってないわよ」
「口数が増えている」
「元から多い」
「それはそうだ」
「納得しないで」
店員は諦めたように次の酒を置いた。
十七杯目。
十八杯目。
十九杯目。
二十杯目に入る頃には、周囲の客の一部が完全に観戦体勢に入っていた。
「おい、二十いったぞ」
「どっちが先に潰れると思う?」
「あの女の方、全然崩れないな」
「男も顔色変わってないぞ」
「賭けるか?」
ペルシアは耳ざとくそれを拾い、振り返った。
「賭けるなら私にしときなさい」
ジェームズが呆れた声を出す。
「煽るな」
「勝つ気あるもの」
「飲み比べを始めた覚えはない」
「ここまで来たら始まってるわよ」
「勝手に始めるな」
「勝手に参加したのはあなた」
「お前が引っ張った」
「立ったのは自分でしょ」
「面倒くさい女だな」
「よく言われる」
ジェームズはグラスを空にした。
「だろうな」
二十一杯目。
二十二杯目。
ペルシアの頬が、ほんの少しだけ赤くなった。
ジェームズはそれに気づいた。
「限界か」
「まさか」
「目が少し遅い」
「観察しないで」
「整備士だからな」
「人間を機体みたいに見るのやめて」
「癖は出る」
「あなたも出てるわよ」
「何が」
「さっきから、私のグラスが空く前に店員呼んでる」
ジェームズの手が止まった。
ペルシアはにやりと笑う。
「気が利くじゃない」
「違う」
「違わないわよ」
「飲み比べを長引かせたいだけだ」
「それを気が利くって言うのよ」
「言わない」
二十三杯目。
二十四杯目。
会話の間が、少し長くなる。
だが、不思議と気まずくはなかった。
ペルシアはグラスの中の透明な酒を見つめた。
「私ね、ジェームズ」
「何だ」
「ドルトムントを辞めた時、自分でもよく分からなかったの」
ジェームズは黙っていた。
「逃げたとも言えるし、選んだとも言える。どっちでもあるわねって、前に人に話したことがある」
「……」
「十四班が好きだった。エリンが好きだった。タツヤ班長も、リュウジも、ククルも、エマも、カイエも、ミラも、皆好きだった」
ペルシアの声は軽くなかった。
「でも、あそこにいたら、守れないものがあった。私がいるせいで、火が大きくなるかもしれないと思った。だから辞めた」
「それで宇宙管理局か」
「そう」
「場所を変えただけで、やることは変わってないな」
ペルシアは少し笑った。
「そうかもね」
「守りたいんだろ」
その言葉に、ペルシアはグラスを持つ手を止めた。
ジェームズは見ていないふりをしている。
だが、確かにペルシアを見ていた。
ペルシアは小さく息を吐いた。
「守りたいわよ」
二十五杯目。
二十六杯目。
酒が進むほどに、ペルシアの言葉は少しずつ素直になっていた。
普段なら冗談で隠すところを、今日は隠しきれていない。
ジェームズはそれを指摘しなかった。
ただ、聞いていた。
「宇宙管理局で作ろうとしてるオペレーションルームはね、ただの指令室じゃないの」
ペルシアは指先で机を軽く叩いた。
「現場が助けを呼べる場所にしたい。船が異常を感じた時、管制が迷った時、整備が嫌な癖を見つけた時、通信が途切れそうな時、誰かが怖いと思った時。そこで、恥じゃないって言える場所」
十四班は、助けを呼ぶのが早かった。
これは恥じゃない。
むしろ強さ。
その言葉が、ペルシアの中に残っている。
ペルシアがドルトムントを辞めても、十四班で学んだものは消えなかった。
むしろ、宇宙管理局に移ってから、その意味は大きくなった。
「一つの班じゃなくて、もっと広い場所でそれをやりたいの」
「理想論だな」
ジェームズが言った。
ペルシアは頷く。
「ええ、理想論よ」
「現場は理想じゃ動かない」
「知ってる」
「人は隠す。上は保身する。書類は遅い。通信は詰まる。整備は後回しにされる。予算は足りない。責任は押し付け合う」
「よく分かってるじゃない」
「だから理想論だと言っている」
「だから必要なのよ」
ペルシアの声が少し強くなった。
「理想がないと、現実をどっちに動かせばいいか分からないじゃない」
ジェームズは黙った。
二十七杯目。
二十八杯目。
ペルシアの目が、少しだけ眠そうになってきた。
それでも口元には笑みがある。
ジェームズはまだ崩れていない。
ただし、グラスを置く手の動きは、ほんのわずかに遅くなっていた。
「お前、酒が強いな」
ジェームズが言った。
ペルシアは得意げに笑う。
「でしょ」
「だが、限界は近い」
「まだいけるわよ」
「口調が雑になっている」
「元からよ」
「目が半分閉じている」
「閉じてない」
「閉じてる」
「閉じてないってば」
二十九杯目。
店員が恐る恐るグラスを置いた。
「本当に、次で最後にした方が……」
ペルシアは片手を上げた。
「次で三十。きりがいいわね」
ジェームズが呆れる。
「きりで飲むな」
「飲み比べには区切りが必要なの」
「始めた覚えはない」
「まだ言う?」
「事実だ」
三十杯目。
透明な酒が、二つのグラスに注がれる。
周囲の客が、誰からともなく静かになった。
完全に見守っている。
ペルシアはグラスを持った。
ジェームズも持つ。
「ジェームズ」
「何だ」
「勝ったら、正式協力ね」
「今さら条件を出すな」
「じゃあ、負けたら?」
「お前が黙って寝る」
「ひどい」
「妥当だ」
ペルシアは笑った。
「じゃあ、どっちにしても私は得するわね」
「どこがだ」
「あなたがここまで付き合ってくれた」
ジェームズは一瞬だけ黙った。
ペルシアはグラスを軽く掲げる。
「乾杯」
ジェームズも渋々グラスを上げる。
「……乾杯」
二人は同時に飲み干した。
ペルシアはグラスを置いた。
勝ち誇ったように笑おうとした。
しかし、その笑みは途中で止まった。
「……あれ」
そのまま、こつん、と額が机に落ちた。
「おい」
ジェームズがすぐに声をかける。
返事はない。
ペルシアは机に伏したまま動かない。
周囲の客がどよめいた。
「倒れた?」
「寝た?」
「三十杯で?」
「三十杯まで立ってたのがおかしいだろ」
ジェームズは眉を寄せ、ペルシアの呼吸を確認した。
一定。
顔色も危険なほどではない。
ただ、完全に寝ている。
「……馬鹿が」
そう言いながらも、声には強い苛立ちはなかった。
店員が近づく。
「お連れの方、大丈夫ですか?」
「寝ただけだ」
「送迎を呼びますか?」
「呼ぶ」
ジェームズは端末を取り出した。
宇宙管理局の連絡先を開く。
フレイに連絡するのが一番早いだろう。
しかし、その前に、机に伏したペルシアが小さく何かを呟いた。
「……守りたいのよ」
ジェームズの指が止まる。
ペルシアは目を閉じたまま、夢の中で誰かに話しているようだった。
「何があっても……守りたいのよ……」
ジェームズは黙っていた。
「エリンも……十四班も……リュウジも……今、飛んでる船も……これから飛ぶ子たちも……」
声は小さい。
普段のペルシアの声ではない。
軽口もない。
強がりもない。
ただ、むき出しの本音だった。
「助けてって……言えない現場を……減らしたいの……」
ジェームズは端末を持ったまま、動けなかった。
ペルシアはさらに小さく呟く。
「怖いのよ……私も……」
その言葉に、ジェームズの目がわずかに動いた。
ペルシアは、怖くない人間に見える。
強引で、明るくて、軽口ばかりで、誰の前でも怯まない。
だが、そうではなかった。
怖い。
それでも動いている。
怖いから、先に動く。
怖いから、人を集める。
怖いから、見逃したくない。
「だから……私には……ジェームズが必要……」
ジェームズは息を止めた。
ペルシアは机に伏したまま、まだ夢の中にいる。
「あなたみたいに……嫌な癖を……見逃さない人が……必要なの……」
「……」
「整備が黙ったら……船は落ちる……通信が黙ったら……声が届かない……管制が迷ったら……現場が止まる……」
ジェームズの手が、端末から離れた。
「私は……全部は見えない……だから……助けてほしいのよ……」
その言葉は、酔った寝言だった。
本人は、きっと覚えていない。
起きたら、いつものように笑ってごまかすだろう。
「何か言った?」と白々しくとぼけるかもしれない。
だが、ジェームズは聞いてしまった。
ペルシアが本当に求めているものを。
契約ではない。
肩書きでもない。
便利な技術者でもない。
彼女は、助けを呼んでいた。
十四班が大事にしていたという、助けを呼ぶ強さ。
それを今、宇宙管理局で、自分自身がやっている。
ジェームズは深く息を吐いた。
「……面倒くさい女だ」
ペルシアは眠ったままだ。
「俺を必要だと寝言で言うな。起きて言え」
返事はない。
ジェームズは端末を開き、フレイへ通信を入れた。
すぐにフレイが出る。
『ジェームズさん?』
「ペルシアが潰れた」
画面の向こうで、フレイの表情が一瞬だけ固まった。
『……飲酒ですか』
「三十杯飲んだ」
『三十』
フレイの声が珍しく揺れた。
その奥からスリッピーの声が聞こえる。
『三十!? どっちが!?』
「両方だ」
『ジェームズも飲んだの!?』
「俺は潰れてない」
ナウスの声が入る。
『現在地を送ってください。送迎を手配します』
イーナの心配そうな声も聞こえた。
『ペルシアは大丈夫なの?』
「寝ている。呼吸は正常。顔色も悪くない」
フレイはすぐに落ち着きを取り戻した。
『ありがとうございます。すぐに迎えを向かわせます。ジェームズさんもそのまま待機してください』
「分かった」
フレイは少し間を置いてから言った。
『ペルシアがご迷惑をおかけしました』
ジェームズは机に伏したペルシアを見た。
「迷惑ではない」
フレイが少し驚いた顔をした。
「……いや、迷惑ではある」
『どちらですか』
「面倒ではあるが、迷惑とは少し違う」
フレイは静かに目を細めた。
『そうですか』
「何だ」
『いえ。ありがとうございます』
「礼を言われることじゃない」
『それでも、言っておきます』
通信が切れた。
ジェームズは端末を置いた。
周囲の客たちは、もう騒がず、少し距離を置いていた。
店員が水を持ってくる。
「お水です」
「助かる」
ジェームズは短く礼を言い、ペルシアのそばに水を置いた。
ペルシアは寝たまま、少し眉を寄せる。
「……エリン……怒らないで……」
ジェームズは思わず眉を上げた。
「誰に怒られてる夢だ」
ペルシアはむにゃむにゃと続ける。
「……タツヤ班長……それは……反則……」
「今度は誰だ」
「……リュウジ……ちゃんと寝て……」
ジェームズは呆れた。
寝言の中でも、誰かを気にしている。
本当に面倒くさい。
本当に、厄介だ。
そして、本当に現場向きの人間だ。
ジェームズは背もたれに身体を預けた。
酒は回っている。
だが、頭は冴えていた。
ペルシアの言葉が、妙に残っている。
――何があっても守りたいのよ。
――その為に私にはジェームズが必要。
そんなことを言われて、無視できるほど、ジェームズは冷たくなかった。
いや、冷たくありたかった。
関わらなければ楽だ。
面倒な組織に巻き込まれず、整備ログだけ見て、必要なことだけ言って、聞かれなければ黙っている。
その方が楽だ。
だが、それで過去に何が起きたか、ジェームズは知っている。
規定値内。
問題なし。
報告済み。
判断待ち。
そういう言葉の隙間で、現場は壊れる。
誰かの腕が潰れる。
船が傷む。
声が届かなくなる。
ペルシアは、それを減らしたいと言った。
酔って寝ながら。
本音で。
ジェームズは目を閉じた。
「……馬鹿が」
もう一度そう呟いた。
だが、今度の声は、さっきより少しだけ柔らかかった。
◇
送迎が来るまでの間、ジェームズはペルシアをそのまま寝かせておいた。
起こす気にはならなかった。
起こせば、きっと無理に笑う。
「ちょっと寝ただけ」と言う。
「三十杯なら実質勝ち」とでも言うかもしれない。
そういう強がりを、今は見たくなかった。
やがて、店の入口が開いた。
フレイ、イーナ、ナウス、スリッピーが入ってくる。
四人とも、急いできたのが分かった。
スリッピーはペルシアを見るなり、目を丸くした。
「本当に寝てる」
ナウスは端末で状態確認用の簡易スキャンを行う。
「呼吸、脈拍ともに安定。急性症状は見られません。ただし、明日の頭痛は避けられないと思われます」
イーナがほっと息を吐く。
「よかった……」
フレイはジェームズを見る。
「ジェームズさん、ありがとうございました」
「俺は何もしていない」
「そばにいてくださいました」
「置いて帰るほど薄情じゃない」
スリッピーがにこっと笑う。
「ジェームズ、優しいね」
「違う」
「違わないと思うけど」
「黙れ」
いつものやり取り。
だが、フレイは少しだけジェームズの雰囲気が変わっていることに気づいた。
酒のせいだけではない。
何かを聞いた顔だった。
フレイは問い詰めなかった。
今は、それでいいと思った。
イーナがペルシアの肩にそっと触れる。
「ペルシア、帰るよ」
ペルシアは寝たまま小さく唸る。
「……まだ……勝ってない……」
スリッピーが吹き出した。
「飲み比べしてたの?」
ジェームズが不機嫌そうに言う。
「勝手に始められた」
ナウスが記録しようとして、フレイに視線で止められた。
「記録しなくていいです」
「承知しました」
イーナが困ったように笑う。
「ペルシアらしいというか……」
フレイはペルシアを支えようとした。
だが、ジェームズが先に立ち上がった。
「俺が運ぶ」
四人が一斉にジェームズを見る。
ジェームズは眉を寄せた。
「何だ」
スリッピーが笑顔になる。
「いや、優しいなって」
「落とされたら困るだけだ」
イーナが微笑む。
「ありがとうございます」
「礼はいらない」
ジェームズはペルシアを慎重に抱え上げた。
乱暴な動きではなかった。
整備士らしく、重心を確かめ、首が揺れないように支え、机にぶつけないようにゆっくり立ち上がる。
スリッピーが小声で言う。
「扱いが精密機器みたい」
ジェームズが睨む。
「人間の方が面倒だ」
「それはそうだね」
ペルシアは抱えられたまま、また小さく寝言を言った。
「……ジェームズ……逃げないでよ……」
ジェームズの足が一瞬止まる。
フレイがそれを見た。
ジェームズはすぐに歩き出す。
「逃げない」
その返事は、小さかった。
だが、確かに言った。
眠っているペルシアには聞こえていないかもしれない。
それでも、フレイには聞こえた。
スリッピーにも。
イーナにも。
ナウスにも。
四人は何も言わなかった。
そのまま送迎車へ向かう。
夜の整備ドックの空気は冷えていた。
遠くで船のエンジン音が低く響いている。
ジェームズはペルシアを後部座席に寝かせ、上着をかけた。
フレイが隣に座り、イーナが反対側から支える。
ナウスは運転席側の端末で移動ルートを確認する。
スリッピーはジェームズの横に立った。
「ジェームズ」
「何だ」
「明日、ログの続き見てもいい?」
「……勝手にしろ」
「それ、いいってことだよね」
「質問は減らせ」
「努力する」
「無理だろ」
「うん、多分」
ジェームズはため息をついた。
だが、拒絶はしなかった。
フレイが窓越しに言う。
「ジェームズさん」
「何だ」
「正式な協力条件について、明日改めてお話しできますか」
ジェームズは少し黙った。
ペルシアは座席で眠っている。
何も知らない顔で。
ジェームズはその寝顔を一度だけ見た。
そして、フレイに向き直る。
「話だけは聞く」
フレイは静かに頷いた。
「ありがとうございます」
「勘違いするな。決めたわけじゃない」
「承知しています」
「ただ」
ジェームズは少し言葉を切った。
「整備側の権限と発言経路は、曖昧にするな」
フレイの目がわずかに鋭くなる。
「具体的には?」
「異常値未満の癖を報告した時、誰が受けるのか。どの段階で航行側に止められるのか。管制が急がせた時、整備が拒否できる条件は何か。そこを決めろ」
ナウスがすぐに端末を開いた。
「記録します」
ジェームズは続ける。
「通信側も同じだ。通信遅延を軽視するな。管制の都合で流すな。シャオメイだったか、あの通信技師を入れるなら、通信側の停止権限も決めておけ」
フレイが静かに聞いている。
スリッピーは、少し驚いたようにジェームズを見ていた。
ジェームズはさらに言った。
「ペルシアは、人を集めるのはうまい。だが、集めただけでは現場は動かない。権限が曖昧なら、声を出せる奴ほど先に潰れる」
フレイは深く頷いた。
「その指摘は重要です。明日の協議に入れます」
「入れるだけじゃなく、決めろ」
「はい」
「なら、話は聞く」
それだけ言うと、ジェームズは一歩下がった。
フレイは静かに言った。
「ペルシアが聞いたら、喜ぶと思います」
ジェームズは不機嫌そうに目を逸らした。
「寝ている奴に言うな」
スリッピーが笑う。
「でも、明日言うよね?」
「言うな」
イーナが穏やかに言う。
「たぶん、顔を見れば分かると思います」
「何が」
「ジェームズさんが、少し協力する気になってくれたことです」
「なっていない」
ナウスが淡々と告げる。
「発言内容は、協力前提の改善提案に分類されます」
「分類するな」
スリッピーがまた笑った。
「やっぱり協力的だ」
「黙れ」
送迎車の扉が閉まる。
フレイが最後に頭を下げた。
車がゆっくりと動き出す。
ジェームズはその場に立ち、遠ざかる尾灯を見送った。
夜のドックに、冷たい風が吹く。
酔いはまだ残っている。
だが、頭は妙に冴えていた。
ペルシアの寝言が、耳に残っている。
何があっても守りたい。
そのために、私にはジェームズが必要。
ジェームズは舌打ちした。
「……起きて言え、馬鹿」
だが、口元はほんのわずかに緩んでいた。
◇
翌朝。
ペルシアは、宇宙管理局の仮眠室で目を覚ました。
頭が痛い。
目も重い。
喉も乾いている。
起き上がろうとして、すぐに後悔した。
「……最悪」
枕元には、水と回復用の栄養剤が置かれていた。
さらに、端末にはフレイからのメッセージ。
――起床後、まず水を飲んでください。午前の会議は一時間後に変更しました。
その下に、スリッピーから。
――三十杯はすごいけど、真似しない方がいいと思う!
ナウスから。
――飲酒量の記録はフレイさんの判断で非公開扱いとなりました。
イーナから。
――無理しないでね。朝食は軽いものにしておいたよ。
ペルシアは額を押さえた。
「……何やってんの、私」
記憶はある。
途中までは。
ジェームズを飲みに誘った。
一杯だけと言われた。
飲み比べになった。
二十杯を超えたあたりまでは覚えている。
三十杯目。
飲んだ。
そこから先が曖昧だった。
ペルシアは嫌な予感がした。
自分は何か言ったのではないか。
余計なことを。
かなり余計なことを。
その時、仮眠室の扉がノックされた。
「起きてる?」
イーナの声だった。
「起きてる……けど、できれば寝ていたい」
扉が開き、イーナが顔を出す。
「顔色は悪くないね」
「頭は悪いわ」
「それは昨日の行動の話?」
「イーナ、今は優しくして」
イーナは苦笑しながら水を渡した。
「はい。まず飲んで」
ペルシアは素直に水を飲む。
冷たい水が喉を通り、少しだけ意識がはっきりした。
「ジェームズは?」
「帰ったよ。でも、今日の協議には来るって」
ペルシアは目を瞬かせた。
「来るの?」
「うん。正式な協力条件について、話だけは聞くって」
「……へえ」
ペルシアは少しだけ笑った。
「落ちた?」
イーナは首を傾げる。
「まだ、落ちたとは言わない方がいいと思う。でも、昨日よりは前向き」
「何かあった?」
「それは、本人に聞いた方がいいかも」
ペルシアは嫌な予感を強めた。
「私、何か言った?」
イーナは微笑んだ。
「寝言は、本人の許可なく広めない方がいいと思う」
「言ったのね」
「少しだけ」
「内容は?」
イーナは答えず、栄養剤を差し出した。
「飲んで」
「ごまかした」
「飲んで」
ペルシアは渋々飲んだ。
その後、ふらふらしながら会議室へ向かう。
フレイ、ナウス、スリッピーはすでに席にいた。
そして、ジェームズもいた。
不機嫌そうに腕を組み、いつものように端の席に座っている。
ペルシアを見るなり、ジェームズは言った。
「起きたか」
「起きたわよ」
「酒に負けたな」
「負けてない」
「机に伏した」
「戦略的休憩よ」
「三十杯目で寝た」
「……覚えてないから無効」
「都合がいいな」
スリッピーが笑いをこらえている。
ナウスは記録しようとして、フレイにまた視線で止められた。
ペルシアは椅子に座り、ジェームズを見る。
「で、来てくれたのね」
「話だけは聞く」
「十分」
「勘違いするな」
「してないわよ」
「している顔だ」
「じゃあ、少ししてる」
ジェームズはため息をついた。
フレイが会議を始める。
「では、ジェームズさんの技術助言者としての協力条件について確認します。昨日、ジェームズさんから重要な指摘がありました。整備側の発言経路と停止権限を曖昧にしないこと。通信側についても同様です」
ペルシアは少し目を見開いた。
「ジェームズが?」
ジェームズは視線を逸らす。
「必要なことを言っただけだ」
「へえ」
「何だ」
「別に」
ペルシアは少し笑った。
嬉しかった。
ただ協力すると言われるより、ずっと嬉しかった。
ジェームズは、もう中に入って考え始めている。
どうすれば現場が壊れないか。
どうすれば声が潰されないか。
ペルシアが作りたい場所に、彼はもう手を伸ばしている。
フレイが資料を表示する。
「整備側からの異常傾向報告は、規定値内であってもオペレーションルームで一次受理します。緊急性が高い場合、技術助言者判断で航行・管制へ注意喚起を上げられるようにします」
ナウスが補足する。
「記録分類には、異常値、異常傾向、注意癖、観察継続の四段階を設定します」
スリッピーが身を乗り出す。
「これ、すごくいいと思う。異常じゃないけど嫌な感じ、っていうのを残せる」
イーナも頷く。
「通信側については、シャオメイの試験配置と合わせて、通信遅延時の発言経路を作ります」
ペルシアは資料を見ながら、静かに息を吐いた。
形になっている。
まだ荒い。
未完成。
けれど、確かに形になり始めている。
「ジェームズ」
ペルシアが呼ぶ。
「何だ」
「ありがとう」
ジェームズは眉を寄せた。
「礼を言われることはしていない」
「してるわよ」
「仕事の話だ」
「だから、ありがとう」
ジェームズは黙った。
そして、少し不機嫌そうに言った。
「礼を言うなら、次から飲む量を考えろ」
「それは約束できない」
「しろ」
「善処する」
「しない奴の返事だ」
ペルシアは笑った。
「でも、楽しかったでしょ?」
「最悪だった」
「また行く?」
「行かない」
「絶対?」
「絶対だ」
スリッピーが小声で言う。
「でも、ジェームズって絶対って言う時ほど怪しいよね」
「黙れ」
イーナが笑う。
ナウスもわずかに口元を緩めた。
フレイは静かに資料を整える。
ペルシアはジェームズを見た。
「じゃあ、会議が終わったら、昨日の続きを少しだけ聞かせて」
「何の続きだ」
「あなたが見逃したくないものの話」
ジェームズの表情が少しだけ変わった。
「酒の席の話だ」
「でも、必要な話だった」
「……」
「ジェームズ。私は、全部は見えない。だから、見える人が必要なの」
ジェームズは黙っていた。
ペルシアは今度は、寝言ではなく、起きたまま言った。
「私には、あなたが必要よ」
会議室が静かになる。
スリッピーも、イーナも、ナウスも、フレイも黙っていた。
ジェームズは長い沈黙の後、低く言った。
「……そういうことは、最初から起きて言え」
ペルシアは目を丸くした。
「私、昨日言った?」
ジェームズは答えない。
ペルシアは顔をしかめる。
「言ったのね」
「寝言でな」
「最悪」
「同感だ」
「何て言った?」
「忘れた」
「絶対覚えてる顔じゃない」
「忘れた」
ペルシアはしばらくジェームズを睨んだが、やがて諦めたように笑った。
「まあ、いいわ」
「いいのか」
「今、起きて言ったから」
ジェームズは少しだけ目を伏せた。
それから、資料に視線を戻す。
「正式協力ではない」
「はいはい」
「技術助言者として、条件が整えば参加する」
ペルシアの顔が明るくなる。
「それ、ほぼ正式協力じゃない?」
「違う」
「違わないでしょ」
「条件が整えば、だ」
フレイが静かに言う。
「では、条件を整えましょう」
ナウスが端末を操作する。
「協力条件整理、開始します」
スリッピーが嬉しそうに笑う。
「やった。ジェームズのログ解説、続き聞ける」
イーナが微笑む。
「シャオメイにも早めに紹介したいですね」
ペルシアは頷いた。
「ええ。整備の嫌な癖を見る人と、通信の嫌な遅延を見る子。絶対ぶつかるけど、絶対必要」
ジェームズが言う。
「ぶつかる前提で話すな」
「ぶつかるでしょ」
「否定はしない」
「ほら」
フレイが資料を一枚進める。
「その衝突を運用として受け止める仕組みを作るのが、私たちの仕事です」
ペルシアはその言葉に満足そうに頷いた。
そう。
それがやりたい。
個性的な人材を集めるだけでは駄目だ。
ぶつかる。
揉める。
言い方を間違える。
判断が早すぎる者もいれば、慎重すぎる者もいる。
けれど、それを潰さず、現場の力に変える。
十四班がそうだったように。
ペルシアが好きだった十四班。
辞めてもなお、背中に残っている場所。
その場所で学んだものを、今度は宇宙管理局で形にする。
ペルシアは、机の下で軽く拳を握った。
怖さはある。
失敗するかもしれない。
人を集めた責任もある。
それでも、やる。
何があっても守りたいものがあるから。
ジェームズは、そんなペルシアの横顔を見た。
昨日の寝言と、今の言葉が重なる。
――私には、あなたが必要よ。
ジェームズは小さく息を吐いた。
「条件は厳しくする」
ペルシアが笑う。
「望むところよ」
「俺は妥協しない」
「知ってる」
「現場を飾りにするなら降りる」
「させない」
「整備の声を握り潰すなら、上でも噛みつく」
「噛みつき方は少し考えて」
「お前に言われたくない」
フレイが淡々と言う。
「お二人とも、言い方は今後の課題ですね」
スリッピーが笑う。
「二人とも似てるよね」
「似てない」
「似てないわよ」
ジェームズとペルシアの声が重なった。
イーナが思わず笑い、ナウスも記録しないように端末から手を離した。
会議室に、少しだけ柔らかい空気が流れた。
ペルシアは、その空気を感じながら思った。
少しずつだ。
まだ何も完成していない。
ジェームズは正式に落ちたわけではない。
シャオメイも試験協力の段階。
フレイの負担も大きい。
イーナもナウスもスリッピーも、まだ手探りだ。
けれど、歯車は動き始めた。
酒場で三十杯飲んで机に伏したことは、たぶん後で散々いじられる。
それでもいい。
その寝言が、ジェームズの耳に届いたのなら。
起きてから、もう一度言えたのなら。
きっと、無駄ではなかった。
ペルシアは資料を見つめ、静かに笑った。
「さあ、始めましょうか」
フレイが頷く。
「はい。宇宙管理局、新オペレーションルーム整備・通信連携案の協議を開始します」
ジェームズは腕を組み直した。
スリッピーは端末を開いた。
ナウスは記録を始めた。
イーナは資料を配った。
そしてペルシアは、会議室の中心で顔を上げる。
ドルトムントを辞めた。
逃げたとも言える。
選んだとも言える。
けれど今は、その選択の先にいる。
守るために。
助けを呼べる場所を作るために。
そして、その場所にはジェームズが必要だった。
ペルシアはもう一度、彼を見る。
ジェームズは目を逸らしながら言った。
「見るな。話を進めろ」
ペルシアは笑った。
「はいはい」
その声は軽かった。
だが、その奥には、確かな覚悟があった。