スペースホープの空気は、少しずつ落ち着きを取り戻していた。
ランとガーネットが十四班に加わり、最初のぎこちなさはまだ残っているものの、訓練の流れは整いつつあった。
ミラはランを支え、ランは声の大きさを三割落とす練習を続けている。
ガーネットは、カイエの冷静な視線を受けながらも、仕事で少しずつ信頼を積み直していた。
ククルとエマは相変わらず、場を明るくしたり、静かに補正したりしている。
そして、エリンはその全体を見ていた。
チーフパーサーとして。
十四班の中心として。
そして、ペルシアが抜けた穴を、ただ埋めるのではなく、新しい形に整える者として。
そんな中、リュウジがタツヤ班長に呼ばれた。
「リュウジ、少しいいか」
訓練後のスペースホープ内、タツヤ班長の執務スペースだった。
いつものように、タツヤ班長は軽い調子で呼んだ。
だが、その声の奥がいつもと少し違うことに、リュウジはすぐ気づいた。
「はい」
リュウジは端末を閉じ、タツヤ班長の前に立つ。
タツヤ班長は椅子にもたれ、しばらく黙っていた。
その沈黙は、タツヤ班長らしくないわけではない。
この人は、重要な話ほど、最初に軽く言わない。
のらりくらりとした空気のまま、急に芯を出す。
リュウジはそれをよく知っていた。
「座れよ」
「はい」
リュウジは向かいの椅子に座った。
タツヤ班長は机の上に一枚の資料を置く。
表紙には、宇宙連邦連盟の印があった。
リュウジの目が、ほんの少しだけ細くなる。
「宇宙連邦連盟からの依頼ですか」
「そう」
タツヤ班長は資料を指で軽く叩いた。
「北の未探索領域の調査依頼が来てる」
リュウジは黙った。
北の未探索領域。
その言葉だけで、空気が少し変わる。
通常航路ではない。
観光航路でもない。
補給線でもない。
既存の管制網も、救助網も、通信中継も不安定な領域。
名前だけは地図にある。
だが、実際にはほとんど誰も入っていない。
入れない、という方が正しいかもしれない。
「調査内容は?」
リュウジが聞く。
タツヤ班長は資料を開いた。
「航路候補の確認、重力乱流の観測、通信中継可能地点の調査、未登録漂流物の有無確認。あとは、連盟が持っている古い観測記録との照合だな」
「護衛は」
「宇宙連邦連盟側から最低限は出る。ただし、調査船の操縦責任者として、S級相当のパイロットを求めてる」
「それで、俺ですか」
「そういうこと」
タツヤ班長はいつもの軽い口調だった。
だが、目は笑っていない。
「期間はおよそ二か月。二月から四月」
リュウジは資料へ視線を落とした。
二か月。
ただ長いだけではない。
スペースホープから二か月離れる。
十四班から二か月離れる。
その間、訓練も、通常運航も、急な対応も、すべて他の者で回すことになる。
そして何より、未探索領域だ。
戻って来られる保証はある。
だが、絶対ではない。
リュウジはその現実を、言葉にする前から理解していた。
「依頼は、俺個人への指名ですか」
「ほぼ指名だな。宇宙連邦連盟側の文面は丁寧だけど、要するに“リュウジに来てほしい”って話だ」
「断ることは」
「できる」
タツヤ班長は即答した。
「これは命令じゃない。ドルトムント財閥からの業務命令でもない。宇宙連邦連盟からの調査協力依頼だ。受けるかどうかは、お前の意思が必要になる」
リュウジは黙った。
タツヤ班長は続ける。
「もちろん、連盟側としては受けてほしいだろうな。北の未探索領域をまともに飛べる人間は限られる。揺れを殺せる。異常を数字だけじゃなく体感で拾える。通信が遅れても機体を落ち着かせられる。そういう操縦ができる人間は多くない」
「買いかぶりすぎです」
「そうでもない」
タツヤ班長は静かに言った。
「俺はお前の操縦を見てる」
リュウジは少しだけ目を伏せる。
タツヤ班長は、こういう時だけ言葉を軽くしない。
「リュウジ」
「はい」
「これは、危ない仕事だ」
リュウジは顔を上げた。
「はい」
「ただ、誰かがやらなきゃいけない仕事でもある。未探索領域の調査が進めば、将来的には航路が広がる。救助網も整えられる。通信中継も置ける。今は危ない場所でも、いずれ誰かが通る場所になるかもしれない」
「はい」
「だが、その“誰かのため”で、お前が無理に行く必要はない」
リュウジはタツヤ班長を見た。
タツヤ班長は穏やかな顔をしていた。
だが、その目は厳しい。
「お前が断っても、俺は責めない。エリンも責めない。十四班の誰も責めさせない」
リュウジはすぐには答えなかった。
資料に視線を落とす。
北の未探索領域。
二月から四月。
およそ二か月。
依頼としては明確だ。
危険も、意味も、分かる。
リュウジにしかできない、と言われれば、反応するものはある。
だが、それだけで決めてはいけない。
今の自分は、ただのパイロットではない。
十四班の一員だ。
スペースホープの中に、自分の役割がある。
エリンがいる。
タツヤ班長がいる。
ククル、エマ、カイエ、ミラ、ラン、ガーネットがいる。
そして、ペルシアは今、宇宙管理局で別の場所から現場を守ろうとしている。
自分が二か月抜けるということは、ただ席が空くというだけではない。
その空白を誰かが埋める。
誰かに負担が行く。
リュウジは静かに言った。
「少し、考えさせてください」
タツヤ班長は頷いた。
「ああ」
「すぐには答えられません」
「それでいい」
「資料は持ち帰っても?」
「もちろん。ただし、扱いには気をつけろ。まだ一部の人間しか知らない」
「分かりました」
リュウジは資料を閉じる。
立ち上がり、軽く頭を下げた。
「ありがとうございます」
「リュウジ」
「はい」
タツヤ班長は、少しだけ声を低くした。
「一人で抱えるなよ」
リュウジは一瞬だけ止まった。
それから、短く答えた。
「……はい」
タツヤ班長は、その返事の中に含まれた迷いを聞いていた。
だが、それ以上は追わなかった。
リュウジは資料を持ち、執務スペースを出ていった。
扉が閉まる。
タツヤ班長は、しばらくその扉を見ていた。
「さて」
小さく呟く。
「難しい話だな」
◇
リュウジが出ていってから、しばらくして。
扉が再びノックされた。
「班長、少しよろしいですか」
エリンの声だった。
タツヤ班長は、少しだけ目を細めた。
やはり来たか、と思った。
「いいよ」
扉が開く。
エリンが入ってくる。
緑色の長い髪をきちんと整え、いつものように姿勢は崩れていない。
だが、その表情は普段より少し硬かった。
「お疲れ様です」
「お疲れ、エリン」
エリンは部屋の中を一度見た。
机の上に資料はない。
タツヤ班長はすでに片づけていた。
それでも、エリンには分かる。
空気が違う。
リュウジがここから出ていった後の空気。
何かを決める前の空気。
それは、客室で乗客の不安を読む時と同じように、エリンの耳と目に引っかかっていた。
「リュウジが、少し考え込んでいるように見えました」
タツヤ班長は苦笑する。
「よく見てるねぇ」
「見えます」
「だろうね」
エリンは一歩近づいた。
「何かあったんですか?」
タツヤ班長はすぐには答えなかった。
椅子にもたれ、少しだけ考える。
この話は、まだ一部の人間しか知らない。
リュウジ本人も、まだ答えを出していない。
軽く広げるべきではない。
だが、エリンには言わなければならない。
エリンはチーフパーサーだ。
十四班の客室側をまとめる人間であり、リュウジの変化に最も早く気づく一人でもある。
何より、リュウジが二か月不在になる可能性があるなら、エリンには関係がある。
タツヤ班長は静かに言った。
「宇宙連邦連盟から、リュウジに依頼が来ていてね」
エリンの表情が変わった。
ほんのわずか。
だが、確かに。
「依頼、ですか」
「北の未探索領域の調査」
エリンは黙った。
北の未探索領域。
その言葉の意味は、エリンにも分かる。
安全が確認されていない領域。
通信が不安定な領域。
通常の乗客を乗せる航路ではない。
それでも、いつか航路になるかもしれない場所。
そのための調査。
危険な仕事。
必要な仕事。
リュウジに声がかかる理由も、分かってしまう。
エリンは少しだけ息を吸った。
「期間は?」
「およそ二か月。二月から四月」
エリンの指先が、わずかに動いた。
二か月。
長い。
ただ長いだけではない。
リュウジが二か月いない。
その事実が、思った以上に重く胸に落ちた。
エリンはすぐに表情を整えた。
「本人は、何と?」
タツヤ班長はエリンを見る。
「少し考えたいって」
「……そうですか」
エリンは静かに答えた。
それは当然の返事だった。
リュウジらしい。
即答しない。
危険だから逃げるわけでもない。
名誉だから飛びつくわけでもない。
意味と危険と周囲への影響を、全部一度自分の中に入れる。
そして、考える。
エリンはそんなリュウジを知っている。
だからこそ、胸の奥が少し痛んだ。
「班長は、どうお考えですか」
タツヤ班長は苦笑した。
「難しい質問だね」
「はい」
「行けば、意味はある。未探索領域の調査は、将来の航路や救助網に繋がる。リュウジの操縦なら、成功率は上がると思う」
「はい」
「でも、危ない。二か月だ。通常の任務とは違う。通信も、救助も、予測も、全部が不安定になる」
「はい」
「だから、俺から行けとは言わない。行くなとも言わない。本人が考えて決めることだと思ってる」
エリンは静かに頷いた。
それがタツヤ班長らしいと思った。
軽く見せる。
だが、線は引く。
リュウジの選択を奪わない。
同時に、背負わせすぎない。
「リュウジには、一人で抱えるなと言ったよ」
エリンは少しだけ目を伏せる。
「……ありがとうございます」
「礼を言われることじゃない」
「いえ。必要なことです」
タツヤ班長はエリンを見た。
「エリン」
「はい」
「まだ、広げる話じゃない」
「分かっています」
エリンは即答した。
「ペルシアにも、ククル達にも言いません」
その名前を出してから、エリンは少しだけ表情を変えた。
ペルシアなら、すぐに声の違いで気づくだろう。
リュウジの声。
エリンの声。
タツヤ班長の空気。
どこかから漏れれば、必ず拾う。
だが、まだ言えない。
まだリュウジ本人が決めていない。
エリンは、それを勝手に誰かへ渡すつもりはなかった。
タツヤ班長は頷いた。
「助かる」
「ただ」
「うん?」
エリンは少しだけ顔を上げた。
「リュウジが考えると言ったなら、たぶん一人でかなり考えます」
「だろうね」
「考えすぎます」
「それも分かる」
「だから、様子は見ます」
タツヤ班長は少し笑った。
「エリンが見てくれるなら安心だ」
「安心かは分かりません」
「そう?」
エリンは少しだけ困ったように笑った。
「私が見すぎると、リュウジは余計に隠そうとするかもしれません」
「ああ、ありそうだねぇ」
「なので、距離は考えます」
「さすが」
エリンは目を伏せる。
「でも……」
言葉が止まる。
タツヤ班長は急かさなかった。
エリンは、チーフパーサーとしての言葉と、一人の人間としての感情を分けようとしていた。
その分け方が上手い人間だ。
だが、完全に分けられるわけではない。
「二か月、ですか」
エリンは小さく言った。
タツヤ班長は静かに頷く。
「うん」
「二月から四月」
「うん」
「長いですね」
「長い」
タツヤ班長はそこをごまかさなかった。
エリンはしばらく黙っていた。
リュウジがいない十四班。
想像できないわけではない。
運航は回せる。
訓練も続けられる。
客室側はエリンがまとめる。
カイエもいる。
ククルもエマもいる。
ミラとランも伸びている。
ガーネットも少しずつ仕事で見せている。
十四班は、誰か一人がいなければ崩れる班ではない。
そう作ってきた。
そうでなければならない。
だが、それでも。
リュウジがいない。
その事実は、ただの欠員ではなかった。
エリンは静かに息を吐いた。
「危険度は、どの程度ですか」
タツヤ班長は少し目を細める。
「正確には分からない」
「分からない、ですか」
「未探索領域だからね。分からないことが一番の危険だ」
エリンは頷いた。
「そうですね」
「ただ、連盟側も無茶な単独突入をさせるつもりではない。調査船、護衛、観測機、最低限の支援体制は組む。でも、完全じゃない」
「完全ではない」
「うん」
エリンは、その言葉を胸の中で繰り返した。
完全ではない。
客室でも同じだ。
どれだけ準備しても完全ではない。
だから、想定する。
だから、訓練する。
だから、声を聞く。
リュウジもきっと同じことを考える。
自分が行く意味。
行かない意味。
行った場合の危険。
残る者への負担。
戻って来る可能性。
戻れない可能性。
エリンは、そこまで考えてしまう自分を止めた。
今、勝手に悪い方向へ進めてはいけない。
「班長」
「うん?」
「リュウジが決めるまで、私は待ちます」
タツヤ班長は静かにエリンを見る。
「うん」
「ただ、決める前に、ちゃんと話は聞きます」
「それがいい」
「止めるかどうかは、その時考えます」
タツヤ班長は少しだけ笑った。
「止める可能性もある?」
エリンは即答しなかった。
それから、静かに言った。
「あります」
タツヤ班長は、その返事を聞いて少しだけ目を細めた。
エリンらしい答えだ。
感情だけで止めるとは言わない。
けれど、危険なら止める。
リュウジが自分を軽く扱うなら止める。
誰かのために、必要以上に自分を削るなら止める。
それがエリンだ。
「リュウジは、止められるのが嫌いじゃないと思うよ」
タツヤ班長が言う。
エリンは少し驚いたように顔を上げた。
「そうでしょうか」
「嫌いだったら、エリンの言葉をあんなに聞かない」
エリンは少しだけ頬を緩めた。
「聞いているようで、時々聞いていません」
「それも含めて、聞いてるんだよ」
「班長はリュウジに甘いですね」
「そうかな」
「はい」
「エリンも、わりと甘いと思うけど」
エリンは少し目を見開いた。
「私がですか?」
「うん」
「私は、リュウジにはかなり厳しいと思います」
「厳しいけど、甘い」
エリンは言葉に詰まった。
タツヤ班長は楽しそうに笑う。
「まあ、その話は今じゃなくていいか」
「班長」
「ごめんごめん」
エリンは軽く息を吐いた。
だが、その表情は少しだけ柔らかくなっていた。
◇
その頃、リュウジはスペースホープの展望通路にいた。
人工重力の効いた細い通路。
窓の外には、地球圏の光が小さく揺れている。
遠くには整備中の船影。
さらに奥には、航路表示の灯り。
リュウジは資料を開かず、ただ外を見ていた。
北の未探索領域。
二月から四月。
二か月。
頭の中では、すでに航路の想定が始まっている。
重力乱流。
通信遅延。
補給限界。
乗員構成。
調査船の反応速度。
支援船との距離。
緊急帰還可能なポイント。
それらを考えるのは、リュウジにとって自然なことだった。
危険を測る。
必要な準備を考える。
行けるか、行けないか。
判断する。
だが、今回はそれだけではない。
行く意味はある。
リュウジはそれを否定できない。
未探索領域の調査が進めば、未来の航路が増える。
今は危険な場所が、いつか誰かを運ぶ道になるかもしれない。
救助網も整えられる。
通信中継も置ける。
ペルシアが宇宙管理局で作ろうとしているオペレーションルームにも、いずれその情報は必要になるだろう。
危険な場所を、危険なまま放置しない。
それは意味がある。
だが。
リュウジは窓に映る自分の顔を見た。
「二か月か」
小さく呟く。
長い。
十四班を離れる。
タツヤ班長を離れる。
エリンを離れる。
それを考えた時、胸の奥に小さな抵抗が生まれる。
それが何なのか、リュウジはすぐには言葉にできなかった。
任務への不安ではない。
危険への恐怖でもない。
帰れない可能性への恐怖とも、少し違う。
ただ、エリンに何と言えばいいのか分からなかった。
まだ決まっていない。
だから言えない。
だが、決まってから言うのは違う。
タツヤ班長に「一人で抱えるな」と言われた。
その言葉が、ずっと残っている。
リュウジは資料を閉じたまま、通路に立っていた。
その背後から、足音が近づく。
軽いが、乱れのない足音。
リュウジは振り返らなくても分かった。
「エリンさん」
エリンは少し離れたところで立ち止まった。
「分かるんだ」
「はい」
「私の足音?」
「はい」
エリンは少しだけ笑った。
「それ、客室側からすると少し怖いよ」
「すみません」
「謝らなくていいけど」
エリンはリュウジの横に並んだ。
しばらく、二人とも窓の外を見ていた。
エリンはすぐに本題へ入らなかった。
リュウジも何も言わなかった。
沈黙が続く。
だが、重苦しくはない。
二人の間には、こういう沈黙がある。
焦らない。
急かさない。
必要な時に、必要な言葉を待つ。
やがて、エリンが静かに言った。
「班長から聞いた」
リュウジは少しだけ目を伏せた。
「そうですか」
「北の未探索領域の調査依頼」
「はい」
「二月から四月。およそ二か月」
「はい」
エリンはリュウジを見る。
「考えたいって言ったんだね」
「はい」
「リュウジらしい」
リュウジは少しだけ困ったようにする。
「そうですか」
「うん。すぐには決めないと思った」
「決める材料が多すぎます」
「そうだね」
エリンは窓の外へ視線を戻す。
「危険?」
リュウジは少しだけ黙った。
そして、正直に答えた。
「危険です」
エリンは頷いた。
「どのくらい?」
「分かりません」
「分からないのが危険なんだね」
「はい」
「班長も同じことを言ってた」
リュウジは少しだけ目を細める。
「そうですか」
「うん」
エリンはリュウジの横顔を見た。
「行きたい?」
リュウジはすぐには答えなかった。
その沈黙に、エリンは少し胸が痛んだ。
行きたくないなら、すぐ否定する。
だが、リュウジは黙った。
つまり、行く意味を感じている。
それが分かる。
リュウジは静かに言った。
「行く意味はあると思います」
「うん」
「俺が行く必要があるかは、まだ分かりません」
「そう」
「でも、俺が行けば、調査の安全性は上がると思います」
その言い方に、エリンは少しだけ笑った。
「自信があるんだ」
リュウジはエリンを見る。
「そう聞こえましたか」
「少し」
「すみません」
「謝らなくていいよ。リュウジが自分の技術を必要以上に低く言わないのは、私は良いことだと思う」
リュウジは黙った。
エリンは続ける。
「でも、それだけで決めないで」
「はい」
「誰かが必要としているから。自分ならできるから。そういう理由だけで行くなら、私は止めるかもしれない」
リュウジは静かにエリンを見た。
「止めますか」
「止める可能性はある」
エリンの声は柔らかい。
だが、曖昧ではない。
「リュウジが行く意味をちゃんと考えて、自分で選ぶなら、私は聞く。でも、自分を道具みたいに考えるなら止める」
リュウジは目を伏せた。
その言葉は、痛いところを突いていた。
自分ならできる。
自分が行けば成功率が上がる。
それは事実かもしれない。
だが、その考えの中に、自分の身を軽く扱う部分があることを、リュウジは完全には否定できなかった。
エリンはそれを見抜いている。
「エリンさん」
「何?」
「俺は、道具ではありません」
エリンは静かに頷いた。
「うん。分かってる」
「でも、そう考えてしまう時があります」
「それも分かってる」
リュウジは少しだけ驚いた顔をした。
エリンは、窓の外を見たまま言う。
「リュウジは、自分ができることを見つけると、それをやるのが当然だと思うところがある。危険でも、必要なら行く。自分がやれば誰かが助かるなら、やる。それは強さだけど、怖いところでもある」
リュウジは何も言えなかった。
エリンは続ける。
「私は、リュウジのそういうところを尊敬してる。でも、嫌いでもある」
リュウジの表情が少し動く。
「嫌い、ですか」
「うん。リュウジが自分を後回しにするところは嫌い」
エリンはようやくリュウジを見る。
「だから、ちゃんと考えて。行くなら、帰ってくる前提で考えて。誰かのために行くんじゃなくて、リュウジ自身が行くと決めて」
リュウジは、静かにその言葉を受け止めた。
帰ってくる前提。
その言葉が、思ったより重かった。
行くか行かないか。
それだけではない。
行くなら、どう帰るか。
帰ってきた後、何を渡すか。
その全てを含めて判断する必要がある。
リュウジは小さく頷いた。
「分かりました」
エリンは少し目を細める。
「本当に?」
「はい」
「リュウジの“分かりました”は、時々危ないから」
「危ないですか」
「うん。分かったと言いながら、一人で全部考えて、結論だけ持ってくる時がある」
リュウジは黙った。
思い当たることがないわけではない。
エリンは少しだけ笑う。
「だから、今回は結論だけじゃなくて、途中も話して」
「途中、ですか」
「そう。迷っているところも、怖いところも、行きたい理由も、行きたくない理由も」
リュウジは少しだけ困った顔をした。
「怖いところも、ですか」
「あるなら」
「……あります」
エリンの表情が柔らかくなった。
「それを聞けただけで、少し安心した」
「安心するんですか」
「うん。怖いと思えるなら、無茶は減るから」
リュウジは、窓の外へ視線を戻した。
「二か月、離れることになります」
「うん」
「十四班にも負担がかかります」
「かかるね」
「エリンさんにも」
「それは、私が考えること」
「でも」
「リュウジ」
エリンの声が少し強くなる。
リュウジは口を閉じた。
エリンは静かに言った。
「負担がかかるから行くな、とは言わない。でも、負担がかかるから行けない、と一人で決めるのも違う」
リュウジはエリンを見る。
「それは、どういう意味ですか」
「残る側にも、選ばせて」
その言葉に、リュウジは動きを止めた。
エリンは続ける。
「リュウジが行くなら、残る私たちはどうするか考える。支える準備をする。戻ってきた時に受け取れるようにする。それは、リュウジだけが決めることじゃない」
リュウジは、何も言えなかった。
一人で抱えるな。
タツヤ班長の言葉が、また浮かぶ。
そして今、エリンが同じことを別の形で言っている。
残る側にも、選ばせて。
リュウジは静かに頭を下げた。
「……すみません」
エリンは少しだけ微笑む。
「謝るところじゃないよ」
「でも、考えていませんでした」
「今、考えればいい」
リュウジは頷いた。
しばらく、二人は並んで外を見ていた。
地球圏の灯りが、遠くで揺れている。
北の未探索領域は、その光の向こうにある。
まだ見えない場所。
誰も正確には知らない場所。
リュウジは、その見えない場所を思った。
そして、隣に立つエリンを思った。
「エリンさん」
「何?」
「少し時間をください」
「うん」
「考えます。行く理由も、行かない理由も。帰ってくる方法も」
エリンは頷いた。
「聞くよ」
「はい」
「いつでも」
リュウジは、少しだけ表情を緩めた。
「ありがとうございます」
エリンも少しだけ笑う。
「それと」
「はい」
「ペルシアには、まだ言わない」
リュウジは目を伏せた。
「はい」
「まだ一部の人間しか知らない話だから。リュウジが決める前に広げる話じゃない」
「分かっています」
「でも、ペルシアは気づくかもしれない」
「……気づきそうですね」
「うん。声で」
リュウジは少しだけ困ったように笑った。
「隠せる気がしません」
「私も」
二人は、少しだけ笑った。
けれど、その笑いは短かった。
すぐにまた、静かな空気が戻る。
エリンはリュウジの横顔を見た。
「リュウジ」
「はい」
「行くにしても、行かないにしても、私はリュウジの選択を聞く」
「はい」
「でも、納得できなかったら、ちゃんと文句は言う」
リュウジは少しだけ目を丸くした。
そして、静かに頷いた。
「エリンさんらしいです」
「そう?」
「はい」
「じゃあ、覚悟しておいて」
「分かりました」
「その返事、また硬い」
「すみません」
エリンは小さく笑った。
その笑顔を見て、リュウジの胸の奥にあった重さが、ほんの少しだけ形を変えた。
消えたわけではない。
危険は消えない。
二か月という時間も消えない。
未探索領域の不確かさも消えない。
だが、一人で持つ重さではなくなった。
それだけで、考え方が少し変わる。
リュウジは資料を握る手に、少しだけ力を入れた。
「まず、航路と支援体制を確認します」
「うん」
「危険がどこにあるか整理します」
「うん」
「その上で、また話します」
エリンは頷いた。
「待ってる」
リュウジは、窓の外を見た。
北の未探索領域。
そこへ行くかどうかは、まだ決めていない。
だが、決めるために必要なものが、少し分かった。
自分だけの判断ではない。
残る者の声も聞く。
待つ者の気持ちも考える。
帰ってくることを前提にする。
リュウジは静かに息を吐いた。
隣で、エリンも同じように外を見ている。
二人の間に言葉はない。
けれど、その沈黙は、先ほどより少しだけ穏やかだった。
◇
その後、エリンはタツヤ班長のところへ戻った。
タツヤ班長は、窓際で湯飲みを持っていた。
「話せた?」
エリンは少し驚いたようにする。
「分かっていたんですか」
「まあね」
「班長、本当に見ていますね」
「一応、班長だから」
エリンは少し笑った。
「リュウジは、まだ決めていません」
「うん」
「でも、ちゃんと考えると思います」
「そうだろうね」
「一人で抱えようとしたら、止めます」
タツヤ班長は頷いた。
「頼むよ」
「はい」
エリンは少しだけ表情を引き締める。
「班長」
「うん?」
「リュウジが行く場合、十四班の体制を早めに考えたいです」
「さすが、もうそこまで考えるか」
「考えます」
エリンの声は静かだった。
「リュウジが行くなら、残る側も準備が必要です。航行側の補助、客室側の連携、ミラとランの訓練、ガーネットの役割、カイエの負担、ククルとエマの配置。全部、少しずつ調整が必要になります」
タツヤ班長は少し満足そうに笑った。
「エリンらしいね」
「チーフパーサーですから」
「それだけ?」
エリンは少しだけ言葉を止めた。
そして、静かに言った。
「……それだけでは、ありません」
タツヤ班長は何も言わなかった。
エリンは目を伏せる。
「でも、今はチーフパーサーとして考えます」
「うん。それでいい」
タツヤ班長は湯飲みを机に置いた。
「リュウジがどう決めても、十四班は動けるようにしておく」
「はい」
「ただし、まだ正式に広げない」
「分かっています」
「ペルシアにも?」
エリンは少しだけ苦笑した。
「はい。まだ言いません」
「ペルシアは気づきそうだけどねぇ」
「それが問題です」
二人は少しだけ笑った。
だが、すぐに空気は静かになる。
二月から四月。
二か月。
北の未探索領域。
その言葉は、まだスペースホープの中で小さく隠されている。
リュウジは考える。
エリンは待つ。
タツヤ班長は見守る。
まだ何も決まっていない。
けれど、確かに何かが動き始めていた。
ーーーー
それから数日。
スペースホープの中で、表面上は何も変わっていないように見えた。
訓練は予定どおり進んでいる。
ランは声の大きさを三割落とす練習を続けている。
ミラはランの横で、必要以上に支えすぎない距離を覚えようとしている。
ガーネットは、まだ十四班に完全に馴染んだわけではない。
けれど、副パーサーとしての動きは安定してきた。
カイエはそれを冷静に見ている。
許したわけではない。
ただ、仕事は見ている。
ククルは相変わらず明るく、訓練後の空気を少し軽くする。
エマはその横で、無理に前へ出ず、必要な時だけ静かに言葉を足す。
そして、エリンは全体を見ている。
いつものように。
チーフパーサーとして。
十四班の中心として。
ただし、いつもと少しだけ違っていた。
それに最初に気づいたのは、ククルだった。
「……エリンさん、最近ちょっと考え込んでるよね」
訓練後、控室の片隅。
ククルが小さくそう言った。
隣で端末を整理していたエマが顔を上げる。
「エリンさん?」
「うん」
ククルは声を落とした。
「いつも通りに見えるんだけど、なんか少し違うんだよね。訓練中はちゃんとしてるし、指示も変わらないんだけど、ふとした時に遠く見てるというか」
エマは少し考えた。
「たしかに、資料を見る時間が少し長いかも」
「でしょ?」
「でも、エリンさんはもともと全体を見ているから、判断しにくい」
「そこなんだよね」
ククルは腕を組んだ。
「疲れてるだけなら、休んでくださいって言えるんだけど」
「そう簡単に休む人じゃないよね」
「うん」
エマは端末を閉じた。
「私が気になっているのは、リュウジさんの方」
ククルが目を丸くする。
「リュウジさん?」
「ここ数日、表情が堅い」
「リュウジさんって、いつも堅くない?」
「違う」
エマは即答した。
ククルが少し驚く。
エマは静かに続ける。
「普段のリュウジさんは、表情が動かないだけ。今は、表情が止まっている」
「違いが細かい」
「でも違う」
「エマ、よく見てるね」
「食事の時も、少し間が空く。返事はしているけど、考えが別のところにある」
「え、食事の時まで見てたの?」
「リュウジさんが大根を食べる速度が遅かった」
ククルは一瞬黙った。
「そこ?」
「大事」
「エマらしいね」
エマは淡々としている。
だが、ふざけているわけではなかった。
ククルにもそれは分かった。
リュウジの表情が堅い。
エリンがどこか悩んでいる。
その二つが同じ時期に起きている。
偶然かもしれない。
だが、十四班でそういう違和感を放っておくと、後で大きくなる。
ペルシアがいた頃なら、声色だけで拾っていたかもしれない。
今は、ペルシアはいない。
だから、気づいた者が動くしかない。
ククルは少し考え込んだ。
「カイエに相談しよ」
エマは頷く。
「それがいいと思う」
◇
カイエは、訓練記録を確認していた。
ミラとランの動き。
ガーネットの補助。
ククルの乗客対応。
エマの記録整理。
一つ一つを見ながら、次の訓練でどこを修正するかを考えている。
そこへ、ククルとエマが来た。
「カイエ、ちょっといい?」
カイエは端末から顔を上げる。
「いいけど、どうしたの」
ククルは周囲を確認してから、声を落とした。
「エリンさんとリュウジさんのこと」
カイエの目が少し動いた。
「何か聞いたの?」
「聞いてない」
「じゃあ、見たの?」
「うん。エリンさんが少し悩んでる気がする」
エマが続ける。
「リュウジさんは表情が堅い。ここ数日ずっと」
カイエは黙った。
その沈黙で、ククルは察した。
カイエも気づいている。
「カイエも気づいてた?」
「少し」
「やっぱり」
カイエは端末を閉じた。
「ただ、理由までは分からない。聞くべきかも迷っていた」
エマが静かに言う。
「リュウジさんは聞かれても、たぶん必要なことしか言わない」
「でしょうね」
カイエは小さく息を吐いた。
「エリンさんも、まだ言うべきでないことなら言わないと思う」
ククルは頷く。
「だよね」
「でも、このまま放っておくのも違う」
カイエの声は静かだった。
「ただ、直接踏み込むのは危ない。リュウジさんもエリンさんも、理由があって黙っている可能性がある」
ククルは少し困った顔をした。
「じゃあ、どうする?」
エマが考える。
「理由を聞かずに、空気を変える」
ククルがエマを見る。
「空気を変える?」
「うん。何か食べるとか」
「エマ、すぐ食べ物に行くね」
「有効」
カイエも少しだけ考えた。
「理由を聞かずに集まる場を作る、ということ?」
「そう」
ククルの目が明るくなる。
「それ、いいかも」
カイエは腕を組んだ。
「ただ、普通に食事会をすると、歓迎会の続きみたいになるね」
「それはそれでいいけど……」
エマがふと顔を上げる。
「もうすぐクリスマス」
ククルもはっとする。
「あ」
カイエも少しだけ目を上げた。
「クリスマスパーティーか」
ククルの顔がぱっと明るくなる。
「それだ!」
「声が大きい」
「ごめん」
エマは静かに頷く。
「クリスマスなら自然に集まれる。理由を聞かなくてもいい」
カイエも少し考えた後、頷いた。
「悪くないと思う。エリンさんも、リュウジさんも、パーティーなら断りにくい」
ククルが笑う。
「それ、ちょっと作戦っぽいね」
「作戦だね」
カイエは真顔で答えた。
エマが続ける。
「料理を用意する。飾りつけをする。プレゼント交換もできる」
ククルが目を輝かせる。
「いい! すごくいい!」
カイエは少しだけ表情を緩めた。
「ただ、エリンさんに全部準備させないようにしないと」
「そうだね。エリンさん、絶対に全体を仕切ろうとする」
エマが頷く。
「今回は、エリンさんを休ませる側」
ククルが拳を握った。
「よし。じゃあ、エリンさんには“来てください”って言う!」
カイエがすぐに言う。
「それだけだと、エリンさんは準備を始める」
「たしかに」
「だから、班長から言ってもらった方がいいかもしれない」
ククルが納得する。
「タツヤ班長に協力してもらう?」
「うん。班長から“今回は若手主体でやるから、エリンは座ってて”と言ってもらえば、少しは効くと思う」
エマが静かに言う。
「リュウジさんには、料理で釣る」
ククルがエマを見る。
「唐揚げ?」
「唐揚げ」
カイエも頷く。
「リュウジさんは唐揚げが好きだからね」
「よし、唐揚げ決定」
ククルはすぐに端末を開いた。
「あと、ケーキ。エマ、ケーキは?」
「必要」
「即答」
「クリスマスパーティーにケーキがないのは不完全」
カイエが淡々と続ける。
「エマの中ではかなり重要だね」
「最重要に近い」
「そこまで」
ククルは小さく笑った。
その時、控室の扉が開いた。
ミラとランが入ってくる。
「お疲れ様です」
ミラが丁寧に言う。
ランも続いた。
「お疲れ様です。あの、今、何か相談中ですか?」
ククルが振り返る。
「あ、ミラ、ラン。ちょうどよかった」
ランは少し緊張した顔になる。
「え、何かありましたか?」
「悪い話じゃないよ」
エマが静かに言う。
「クリスマスパーティーをしようと思って」
ミラが少し目を丸くする。
「クリスマスパーティー、ですか?」
ランの顔が一気に明るくなる。
「いいですね! そろそろクリスマスですし、やりましょう!」
声が少し大きい。
ミラがすぐに袖を引く。
「ラン、声」
「あ、ごめん」
ククルが笑う。
「ランらしくていいよ」
ランは少し照れたように笑った。
「でも、本当にいいと思います。最近、十四班も少し張り詰めている気がしますし……」
言ってから、ランは自分の言葉に気づき、少し慌てた。
「すみません、まだ来たばかりなのに」
カイエは首を横に振る。
「ううん。気づいたことは言っていい」
ランは少し安心したように頷いた。
ミラも静かに言う。
「私も、クリスマスパーティーはいいと思います。理由を聞くより、みんなで一度集まった方がいいかもしれません」
ククルはカイエを見る。
「ね、やっぱりいいよね」
カイエは頷いた。
「やろう」
エマが端末を開く。
「料理、飾り、参加者、場所を決める必要がある」
ククルがすぐに言う。
「場所はスペースホープ内の休憩ラウンジ?」
カイエは考える。
「人数を考えると、訓練後に使える多目的スペースの方がいいかもしれない。班長に確認しよう」
ミラが少し手を挙げる。
「飾りつけなら、私とランでできます」
ランも頷く。
「はい! やります!」
「ラン、声」
「あ、また……」
ククルが笑う。
「大丈夫。パーティー向きの声だよ」
ランは少し嬉しそうにする。
カイエは端末に項目を作った。
「参加者は十四班全員。タツヤ班長。リュウジさん。エリンさん。ガーネットさんも当然参加」
その名前が出た時、ククルは少しだけカイエを見た。
カイエは表情を変えない。
しかし、以前なら少し間が空いたかもしれない。
今は、普通に名前を入れた。
それは小さな変化だった。
エマも気づいていたが、何も言わなかった。
ランが少し不安そうに聞く。
「ガーネットさん、来てくれますかね」
カイエは静かに答える。
「来てもらう。十四班の一員だから」
その言葉に、ミラが少しだけ微笑んだ。
ククルも嬉しそうに頷く。
「じゃあ、ガーネットさんには何か役割をお願いしよっか」
エマが考える。
「子ども向けの飾りを選ぶのが上手そう」
「ユイちゃん?」
ククルが言う。
カイエは少し考えた。
「ユイちゃんを呼ぶかは、タツヤ班長に確認だね。クリスマスだし、来られるなら喜ぶと思う」
エマが即座に言う。
「子どもが来るなら、ケーキは多め」
ククルが笑う。
「エマ、またケーキ」
「大事」
「うん、分かった。大事だね」
◇
その日の夕方。
ククル、エマ、カイエはタツヤ班長のところへ向かった。
ミラとランは、その間に飾りつけ案を考えると言って控室に残った。
ガーネットにはまだ伝えていない。
まずは班長の許可が必要だった。
タツヤ班長の執務スペースに入ると、タツヤ班長は端末を見ながら湯飲みを持っていた。
「お、三人そろってどうしたの」
カイエが一歩前に出る。
「班長、少し相談があります」
「改まってるねぇ」
ククルがすぐに言う。
「クリスマスパーティーをしたいんです」
タツヤ班長は少し目を丸くした。
「クリスマスパーティー?」
「はい!」
カイエが補足する。
「十四班全員で、一度集まる場を作りたいと考えています。最近、少し空気が固いので」
タツヤ班長は、三人の顔を見た。
ククルは明るい顔をしている。
エマは静かだが、目は真剣。
カイエはいつも通り冷静に見えるが、声の奥に少し気遣いがある。
タツヤ班長は、その理由を察した。
リュウジ。
エリン。
未探索領域の件。
まだ広げていない。
だが、気づく者は気づく。
リュウジの表情。
エリンの空気。
十四班は、そういう変化に鈍い班ではない。
タツヤ班長は少しだけ笑った。
「いいんじゃない」
ククルの顔が明るくなる。
「本当ですか?」
「うん。むしろ、やろうか。そろそろそういうのが必要だと思ってたし」
エマが静かに頷く。
「ありがとうございます」
カイエが続ける。
「場所は多目的スペースを考えています。訓練後の時間帯で使用許可をいただければ」
「大丈夫。押さえておくよ」
「ありがとうございます」
タツヤ班長は椅子にもたれた。
「で、エリンにはもう言った?」
カイエは首を横に振る。
「まだです」
「正解」
タツヤ班長は笑った。
「先に言ったら、エリンが全部仕切り始めるからね」
ククルが勢いよく頷く。
「そうなんです! 今回はエリンさんに休んでほしいんです」
エマが続ける。
「準備は私たちでします。エリンさんには来てもらうだけにしたいです」
タツヤ班長は満足そうに目を細めた。
「いいねぇ」
カイエは少しだけ声を落とした。
「それと、リュウジさんにも自然に来てもらいたいです」
タツヤ班長はカイエを見る。
「自然に?」
「はい。理由を聞くのではなく、少しでも空気を変えたいので」
ククルも小さく頷く。
「最近、リュウジさん、少し堅いので」
エマが静かに言う。
「食事の時も、反応が遅いです」
タツヤ班長は少しだけ笑った。
「エマはそこを見るんだね」
「見えます」
「うん。大事だね」
タツヤ班長は湯飲みを置いた。
「分かった。リュウジには俺からも言っておくよ。堅苦しくならないように」
ククルが嬉しそうに言う。
「ありがとうございます!」
「料理は?」
エマが即答する。
「唐揚げとケーキです」
タツヤ班長は一瞬止まった。
「早いね」
「重要なので」
ククルが笑う。
「リュウジさん、唐揚げ好きですし」
タツヤ班長は頷く。
「それは来るね」
カイエが淡々と続ける。
「エマはケーキが必要だと主張しています」
「クリスマスですから」
エマは真顔だった。
タツヤ班長は笑った。
「いいよ。ケーキも用意しよう。ユイも来られるか確認するよ」
ククルが顔を輝かせる。
「ユイちゃんも!」
「来られたらね」
カイエは少しだけ柔らかい表情になる。
「ガーネットさんが喜びそうですね」
「子ども好きだったもんね」
タツヤ班長は少し目を細めた。
「それもいい機会かもね」
◇
その後、クリスマスパーティーの準備は、思ったより早く進んだ。
ミラとランは飾りつけを担当した。
ランは張り切りすぎて、最初に作った飾りの数が明らかに多かった。
「ラン、多い」
ミラが端末上のリストを見て言う。
「そうかな?」
「多い。多目的スペースが飾りで埋まる」
「でも、クリスマスだから」
「クリスマスでも限度がある」
「三割減らす?」
「うん。いつもの三割」
「また三割……」
ランは少し落ち込んだが、すぐに笑った。
「でも、ミラと一緒にやるの楽しい」
ミラも少し笑う。
「私も」
その様子を見ていたククルが言う。
「二人とも仲いいね」
ランはすぐに姿勢を正す。
「あ、ありがとうございます」
ミラが小さく笑う。
「ラン、もう少し普通でいいよ」
「分かってるんだけど、まだ緊張する」
ククルが手を振る。
「いいよいいよ。だんだんで」
エマは料理のリストを作っていた。
唐揚げ。
サラダ。
温かいスープ。
小さなサンドイッチ。
ケーキ。
追加のケーキ。
予備のケーキ。
それを見たカイエが眉を上げる。
「エマ、ケーキ多くない?」
「一つは全員用。一つは子ども用。一つは予備」
「予備って何」
「何かあった時のため」
「ケーキに何かある前提なんだ」
「あるかもしれない」
ククルが笑う。
「エマ、完全にケーキ中心で考えてるね」
「クリスマスだから」
「万能の理由だね」
カイエは少しだけ呆れたように息を吐く。
「まあ、ユイちゃんが来るなら多めでもいいかもしれない」
エマは頷く。
「そう。ユイちゃんが来るなら必要」
「エマが食べたいだけじゃないの?」
「それもある」
「正直」
その時、ガーネットが入ってきた。
「何をしているの?」
ククルが振り返る。
「あ、ガーネットさん」
ガーネットは少しだけ眉を上げる。
「その呼び方、まだ慣れないわね」
カイエが静かに言う。
「ガーネットさん、クリスマスパーティーをします」
「クリスマスパーティー?」
「はい。十四班全員で」
ガーネットは一瞬だけ言葉を失った。
「私も?」
カイエは当然のように答える。
「十四班全員ですから」
ガーネットはカイエを見た。
その言葉が、思った以上に胸に入った。
まだ完全に許されたわけではない。
それは分かっている。
カイエの中にある線も、まだ消えていない。
それでも、十四班全員と言う時、カイエは自分を外さなかった。
ガーネットは静かに頷く。
「ありがとう」
カイエは少しだけ目を伏せた。
「準備も手伝ってください」
「もちろん」
ククルが嬉しそうに言う。
「ガーネットさん、ユイちゃんが来るかもしれないんです」
ガーネットの表情がすぐに柔らかくなった。
「ユイが?」
「はい。まだ分からないですけど」
「それなら、子ども用の飾りも必要ね」
エマがすぐに端末へ追加する。
「子ども用飾り」
カイエがガーネットを見る。
「お願いできますか」
ガーネットは少しだけ笑った。
「任せて」
その笑顔を見て、ククルは少し嬉しくなった。
おでんの時と同じだ。
ガーネットは子どもの話になると、表情が柔らかくなる。
それは、十四班の中で少しずつ知られ始めていた。
◇
一方、エリンはまだ何も知らなかった。
訓練後、彼女は資料を整理していた。
リュウジのことを考えないようにしながら、考えていた。
北の未探索領域。
二月から四月。
二か月。
リュウジはまだ決めていない。
そのことを、エリンは知っている。
だから、待つ。
待つと決めた。
だが、待つことは簡単ではない。
リュウジが少し黙るたびに、考えているのだろうと思う。
リュウジが資料を見ていない時でも、頭の中では航路を組んでいるのだろうと思う。
エリンは、それを止められない。
止めたくもない。
ただ、無理はしてほしくない。
自分を道具のように考えてほしくない。
その思いが、何度も胸の中で揺れていた。
「エリン」
タツヤ班長の声がした。
エリンは顔を上げる。
「はい、班長」
「今度、十四班でクリスマスパーティーをやることになった」
エリンは少し目を瞬かせた。
「クリスマスパーティー、ですか?」
「うん」
「急ですね」
「まあ、そろそろ時期だしね」
エリンはすぐに端末を開こうとした。
「では、場所と準備を――」
タツヤ班長が手を上げる。
「今回は、エリンは準備しない」
エリンの動きが止まる。
「え?」
「若手主体でやるってさ。ククル、エマ、カイエ、ミラ、ラン、ガーネット。みんなで準備する」
「でも、全体確認は必要では」
「俺が見る」
「班長が?」
「うん」
エリンは少し不安そうな顔をした。
タツヤ班長は笑う。
「何その顔」
「いえ……」
「エリン、俺だって一応班長だよ」
「分かっています」
「今の間は何?」
「何でもありません」
タツヤ班長は楽しそうに笑った。
「とにかく、今回は来るだけ。リュウジも呼ぶ」
エリンの表情が少しだけ変わった。
タツヤ班長はそれを見逃さない。
だが、指摘はしなかった。
「エリンも来るよね」
「はい。もちろんです」
「よし」
エリンは少しだけ考えた。
十四班のみんなが企画したクリスマスパーティー。
リュウジも来る。
理由は聞かない。
ただ集まる。
もしかすると、みんな気づいているのかもしれない。
リュウジの表情。
自分の迷い。
それを直接聞かずに、空気を変えようとしてくれているのかもしれない。
エリンは、少しだけ胸が温かくなった。
「班長」
「うん?」
「ありがとうございます」
「俺は許可しただけだよ」
「それでもです」
タツヤ班長は少しだけ目を細めた。
「エリンも、たまには座って食べるだけでいいんだよ」
「努力します」
「そこは“はい”でいいんじゃない?」
「……はい」
タツヤ班長は満足そうに頷いた。
◇
リュウジにも、タツヤ班長から話が伝えられた。
「リュウジ、クリスマスパーティーやるから来なさい」
場所は整備区画近くの通路だった。
リュウジは端末から顔を上げる。
「クリスマスパーティーですか」
「うん。十四班全員で」
「急ですね」
「そういう時もある」
リュウジは少し考える。
「訓練後ですか」
「そう」
「分かりました。参加します」
タツヤ班長は少し笑った。
「唐揚げもあるらしいよ」
リュウジの表情が、ほんの少しだけ動いた。
「唐揚げですか」
「うん」
「誰が」
「エマがリストに入れてた」
リュウジは小さく頷いた。
「そうですか」
タツヤ班長はそのわずかな反応を見て、内心で笑った。
やはり効いた。
リュウジは平静を装っているが、唐揚げには反応する。
「リュウジ」
「はい」
「その日くらい、少し考えるのを休め」
リュウジは一瞬だけ止まった。
タツヤ班長は軽く言った。
「全部忘れろとは言わない。でも、ずっと考えてると、判断が固くなる」
「……はい」
「エリンも来る」
リュウジの目が少し動いた。
「はい」
「十四班のみんなもいる。少し食べて、少し話せ。それも判断材料になる」
リュウジはタツヤ班長を見た。
「判断材料、ですか」
「そう。自分が残すかもしれない場所が、どんな場所か見るのも大事だろ」
その言葉に、リュウジは黙った。
残すかもしれない場所。
十四班。
スペースホープ。
エリン。
タツヤ班長。
みんな。
そこを見ずに、未探索領域だけ見ても意味がない。
リュウジは静かに頷いた。
「分かりました」
「よし」
タツヤ班長は軽く手を振った。
「じゃあ、当日な」
「はい」
タツヤ班長が去った後、リュウジはしばらくその場に立っていた。
クリスマスパーティー。
唐揚げ。
十四班全員。
エリンも来る。
それだけの言葉なのに、胸の奥の重さが少しだけ揺れた。
◇
準備は、静かに進んだ。
静かに、というには、ランの声が時々大きかったが。
「この飾り、こっちでいいですか!」
「ラン、声」
「あ、ごめん」
「でも、その位置はいいと思う」
「本当?」
「うん」
ミラとランは飾りを貼る位置を調整している。
ククルはテーブルの配置を考え、エマは料理の数を確認し、カイエは全体の進行表を作っている。
ガーネットは、ユイが来た場合の小さなプレゼントを用意していた。
「ガーネットさん、それ何?」
ククルが覗き込む。
「小さな星の飾り。ユイが来たら、持って帰れるように」
「かわいい!」
ガーネットは少しだけ照れた。
「子どもは、こういうものを覚えているから」
エマが静かに頷く。
「分かる。食べ物も覚えている」
カイエが言う。
「エマは食べ物基準だね」
「大事」
ククルが笑う。
「ケーキ、ちゃんと三つ頼んだ?」
「頼んだ」
「本当に三つ?」
「三つ」
カイエは端末を見る。
「予備のケーキ、正式に入ってる」
ククルは吹き出した。
「本当に予備あるんだ」
エマは真顔で言う。
「安心」
その空気は、いつもの十四班に近かった。
けれど、そこには少しだけ目的があった。
リュウジが笑うかどうか。
エリンが少しでも肩の力を抜けるかどうか。
それを、誰もはっきり言わない。
言わないまま、準備している。
それが十四班らしかった。
◇
クリスマスパーティーの当日。
多目的スペースには、控えめな飾りが施されていた。
派手すぎない。
だが、温かい。
壁には小さな星飾り。
窓際には白いライト。
中央には大きめのテーブル。
唐揚げ、サラダ、スープ、サンドイッチ。
そして、エマの主張どおり、ケーキが三つ。
ククルがそれを見て笑う。
「やっぱり三つある」
エマは満足そうに頷く。
「安心」
カイエは進行表を確認している。
「時間は訓練後三十分。班長がエリンさんとリュウジさんを連れてきます」
ミラは飾りを最後に直している。
ランは緊張でそわそわしている。
「大丈夫かな」
ミラが言う。
「ラン、これは訓練じゃないよ」
「でも、エリンさんとリュウジさんが来ると思うと緊張します」
「分かるけど」
ガーネットはユイ用の星飾りを小さな袋に入れていた。
「ユイは来られるの?」
ククルが聞く。
カイエが端末を確認する。
「班長から、少しだけ連れて来られるかもしれないと連絡があった」
ガーネットの表情がわずかに明るくなる。
エマがそれを見て、小さく言う。
「ガーネット、嬉しそう」
ガーネットは少しだけ視線を逸らした。
「子どもが来るなら、準備は必要だから」
ククルが笑う。
「素直じゃないですね」
ガーネットは少しだけ困った顔をした。
その時、扉の外から足音が聞こえた。
全員が少しだけ姿勢を正す。
扉が開く。
最初に入ってきたのは、タツヤ班長だった。
「おお、いい感じだね」
その後ろに、エリン。
そして、リュウジ。
エリンは部屋を見た瞬間、少しだけ目を見開いた。
「すごい……」
ククルが嬉しそうに言う。
「エリンさん、今日は座ってください!」
エリンが苦笑する。
「本当に準備してくれたんだね」
カイエが静かに言う。
「はい。今日はエリンさんは準備なしです」
「でも、何か手伝うことが」
エマが即座に言う。
「ありません」
エリンは少し驚く。
「エマまで」
「今日は座る日です」
ククルも続ける。
「そうです! エリンさんは食べる係です!」
エリンは少し困ったように笑った。
「食べる係って」
タツヤ班長が楽しそうに言う。
「いいじゃない。たまには」
リュウジはテーブルの上を見た。
唐揚げがある。
それを見て、ほんの少しだけ表情が緩んだ。
本当に、ほんの少し。
だが、エマは見逃さなかった。
「リュウジさん、唐揚げあります」
リュウジはエマを見る。
「見えてる」
「多めにあります」
「…‥…ありがとう」
エマは静かに頷いた。
ククルが小声でカイエに言う。
「少し表情、緩んだよね」
カイエも小さく頷く。
「うん」
エリンも、それを見ていた。
リュウジの表情が、少しだけ緩んだこと。
そのことに、思った以上に安心している自分がいる。
エリンはそっと息を吐いた。
「リュウジ、よかったね」
リュウジは少しだけ困った顔をする。
「はい」
「唐揚げ、好きだもんね」
「……はい」
そのやり取りを見て、ランが小声でミラに言う。
「やっぱり、少し夫婦みたいですね」
ミラが慌ててランの袖を引く。
「ラン、声」
「あ」
エリンが聞こえていたのか、少しだけ頬を赤くする。
「ラン」
「す、すみません!」
リュウジは目を伏せた。
タツヤ班長は楽しそうに笑っている。
ククルは口元を押さえ、エマは静かにケーキの位置を直し、カイエは何も言わずお茶を用意した。
その空気は、少しだけ軽かった。
完全に悩みが消えたわけではない。
未探索領域の話は、まだそこにある。
リュウジの中にも。
エリンの中にも。
タツヤ班長の中にも。
けれど、今この部屋には、唐揚げがあり、ケーキがあり、星飾りがあり、仲間たちがいた。
理由を聞かずに集まってくれた仲間たちがいた。
リュウジはテーブルの前に立ち、少しだけ周囲を見た。
ククル。
エマ。
カイエ。
ミラ。
ラン。
ガーネット。
エリン。
タツヤ班長。
全員が、何かを察しているのかもしれない。
だが、誰も聞かない。
ただ、そこにいる。
それが、思った以上に重く、温かかった。
タツヤ班長が手を叩いた。
「じゃあ、始めようか」
ククルが元気よく言う。
「はい!」
ランもつられて大きな声を出す。
「メリークリスマス!」
ミラがすぐに袖を引く。
「ラン、声」
「あ、ごめん。でも、メリークリスマスです!」
その声に、皆が笑った。
リュウジも、ほんの少しだけ笑った。
エリンはそれを見て、胸の奥が少しだけほどけるのを感じた。
まだ答えは出ていない。
でも、今はこれでいい。
少なくとも今この瞬間、リュウジは一人で考えているだけではなかった。
エリンも、一人で悩んでいるだけではなかった。
十四班が、そこにいた。