サヴァイヴ〜ドルトムント財閥〜   作:一塔

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彼女

 翌朝――ドルトムント財閥の宇宙事業部フロアは、いつも通りの時間に動き始めた。

 朝の光はガラスの壁を斜めに滑り、床のラインを浮かび上がらせる。端末の起動音、コピー機の稼働音、コーヒーの香り。規則的で、きちんとしていて、少しだけ冷たい。

 

 リュウジはその“少し冷たい”空気の中でも、変わらない。

 受付に立つ女性に「おはようございます」と会釈をする。警備ゲートの担当者にも「お世話になります」と言う。資料庫へ向かう途中、重い箱を抱えてよろけた社員がいれば、さっと手を伸ばして支える。

 

「大丈夫ですか?」

 

 声が落ち着いていて、距離が近すぎない。

 助けるけれど、踏み込みすぎない。

 そういう“ちょうど良さ”が、仕事場ではむしろ目立ってしまう。

 

「えっ、ありがとうございます……!」

 

「いえ。通りかかっただけです」

 

 通りかかっただけ、という顔で言うのがまた厄介だった。

 元々ルックスがいい。背が高い。姿勢がいい。声が低くて、言葉が丁寧。

 しかも、その丁寧さが「見せるため」じゃなく「地」だと分かるから、放っておかれない。

 

 そして――その“放っておかれない”空気が、今朝の宇宙事業部フロアにははっきり形になっていた。

 

 

 エリンとペルシアが連れ立って出社してくると、まず目に入ったのは異様な光景だった。

 リュウジの席――正確にはリュウジに割り当てられたデスクはあるが、本人はまだ固定の業務席に座ることが少なく、事務処理や日誌記入はだいたいペルシアの席の端を借りることが多い。

 

 その“ペルシアの席”の周りに、女性陣の固まりが出来上がっている。

 まるで朝礼前のサークル。

 笑い声が小さく弾み、香水とコーヒーの匂いが混ざり、誰かが髪を耳にかける仕草が連鎖する。

 

「……うわ、なにこれ」

 

 ペルシアが思わず声を漏らした。

 

 その隣でエリンは、声には出さずに状況を一瞬で整理する。

 誰がいる。どこの部署。何の用。業務時間。リュウジの表情。逃げ道。

 チーフパーサーの視野は、地上勤務でも健在だった。

 

 少し離れたところでタツヤが机に肘をつき、ため息を一つこぼした。

 

「……リュウジ人気らしいよ」

 

 言い方はのらりとしている。

 だが、目が笑っていない。業務が滞るのは困る。

 

「おはようございます、タツヤ班長」

 

 エリンが挨拶すると、タツヤは片手をひらりと上げた。

 

「おはよ。……見ての通りだよ」

 

 エリンは女性陣の中心にいるリュウジを見て、「なるほど」と心の中で頷いた。

 リュウジは困った顔をしていない。

 かといって、調子に乗っている顔でもない。

 相手の話をちゃんと聞き、ちゃんと返し、しかし余計な火種を撒かない距離を保っている。

 それが、さらに人を呼ぶ。

 

 ペルシアがエリンの肩を肘でつつく。

 

「いいの、エリン?」

 

 声は軽い。

 でも“耳”が拾うものは軽くない。

 その問いは、ただの業務上の懸念ではなく、別の意味を含んでいる。

 

 エリンは少しだけ目を細め、落ち着いた声で返した。

 

「良くないわね。これじゃ仕事に影響が出るわ」

 

 ペルシアが即座に突っ込む。

 

「そういうことじゃなくてね」

 

 エリンは一拍置いてから、素直に聞き返した。

 

「……他に、何のこと?」

 

 ペルシアの口角が上がる。

 

「んー? なんでもない」

 

 わざとだ。

 “言わせたい”空気を作るやつ。

 エリンはそれに乗らない。乗らないが――ほんの少しだけ頬が熱くなるのを、自分で自覚してしまう。

 

「……まぁいいか」

 

 ペルシアが勝手に締める。

 

「よくないなら止めなよ」

 

 エリンが淡々と言うと、ペルシアは肩をすくめた。

 

「止めるのはチーフパーサーの仕事でしょ? って言ったら怒る?」

 

「怒らない。やる」

 

 エリンは即答し、歩き出した。

 迷いがない。

 客室で騒ぐ乗客の輪に入る時と同じ足取りで、しかし笑顔は違う。

 “仕事の顔”だ。

 

 

 固まりの中心。

 リュウジは女性社員の一人が差し出した書類に目を通していた。

 

「すみません、これ……宙路の改定申請なんですけど、機長目線だとここ、どう見えますか?」

 

 質問が真面目だ。

 ただの雑談ではなく、きっかけが仕事であることが、さらに厄介だった。

 リュウジは丁寧にページをめくり、指で一箇所を示した。

 

「この速度制限、客室側の体感を優先した設定に見えます。

 ただ、ここは旋回時の縦揺れが出やすいので……制限の根拠をログに紐づけた方がいいと思います」

 

「なるほど……! ありがとうございます」

 

 別の女性が身を乗り出す。

 

「リュウジさんって、ずっと操縦の人かと思った。書類の読み方まで分かるんですね」

 

「必要なので」

 

「かっこいい……」

 

 小声のはずが、輪の中では筒抜けだ。

 

 そこで、輪の外から一段低い声が落ちた。

 

「おはよう。みんな」

 

 エリンだ。

 声は柔らかいが、空気を切る。

 

 女性陣が一斉に振り向く。

 宇宙事業部の制服姿、チーフパーサーの立ち姿。

 “整っている人”の登場は、それだけで場を静める。

 

「エリンさん、おはようございます」

 

 リュウジがすぐに挨拶をする。敬語。さん付け。いつも通り。

 その“いつも通り”が、エリンの心を少しだけ落ち着かせた。

 

「おはよう、リュウジ」

 

 エリンの返事は、前より少し柔らかい。

 自分でも分かるくらい、角が取れている。

 

 ペルシアが背後から囁く。

 

「ほら、やっぱり丸い」

 

 エリンは無視して、女性陣に向き直った。

 

「みんな、相談があるのは分かるけど、業務開始の時間よね。

 ここが詰まると他の部署の動線も詰まる。……一回、散ってくれる?」

 

 言い方が丁寧で、命令ではない。

 でも断れない。

 エリンは“断れない丁寧さ”を使い慣れている。

 

「す、すみません……」

 

「ごめんなさい、すぐ戻ります」

 

「リュウジさん、また後で……」

 

 名残惜しそうな声を残して、固まりがほどけていく。

 最後に一人だけ振り返り、リュウジに小さく手を振って去った。

 

 静かになった机周りで、ようやくペルシアが前に出てきた。

 

「おーぷん、やっと空いた」

 

「あなたの席なんだけどね」

 

 エリンがさらっと言うと、ペルシアは笑う。

 

「だから困ってるって話」

 

 タツヤも近づいてきて、肩をすくめる。

 

「助かったよ、エリン。朝から渋滞はさすがにね」

 

「班長も止めてくださいよ」

 

「止めたよ? 心の中で」

 

「止めてないです」

 

 エリンが呆れたように言うと、タツヤはのらりと笑った。

 

「でもさ、リュウジが悪いわけじゃないんだよね。

 ちゃんと丁寧だし、雑にあしらわないし」

 

 リュウジが小さく頭を下げる。

 

「すみません。俺、何か……」

 

「謝らなくていい」

 

 エリンがすぐに言った。

 声がきつくない。

 どちらかというと、“困らせたくない”側の柔らかさ。

 

「あなたは普通にしてるだけ。問題は、周りの距離感」

 

 リュウジが少し困った顔をした。

 

「距離感……」

 

「うん。あなたが悪いんじゃない」

 

 エリンはそう言ってから、ふと付け足す。

 

「……でも、放っておけないのも分かる。あなた、誰にでも優しいから」

 

 言った後、エリン自身が一瞬だけ黙る。

 “優しい”と口に出すのは、少し照れる。

 ペルシアがすかさず食いつく。

 

「ねぇねぇ、今の聞いた? “優しい”って」

 

「聞こえるように言ってるでしょ」

 

「やっぱ信頼してるんじゃん。最初は責任感ないって言ってたのに」

 

「……ペルシア」

 

 エリンが名前を呼ぶ。

 叱るトーンではないが、釘を刺すトーン。

 

 ペルシアは両手を上げた。

 

「はいはい、承諾します。余計なこと言いません」

 

 と言いながら、顔はにやにやしている。

 

 リュウジが、申し訳なさそうに言った。

 

「エリンさん。昨日の件、もしまだ不安が残っているなら――」

 

「残ってない、とは言わない」

 

 エリンは正直に言った。

 でも、その正直さが柔らかい。

 

「ただ、あなたが“乗る全員を守る”って考え方をしてるのは分かった。

 それは……ありがたいわ」

 

 リュウジの表情が、少しだけ緩む。

 

「ありがとうございます」

 

 その瞬間、ペルシアが「ほらぁ」と言いたげにタツヤを見る。

 タツヤはのらりと笑い、エリンに言った。

 

「で、どうする? このままだと今日もまた人だかりできるよ」

 

 エリンは一拍置いてから、実務の顔に切り替えた。

 

「対策する。リュウジ、午前中は会議室の端末使って。日誌もそっちで書いて。

 ペルシアの席はペルシアの仕事のために空ける」

 

「はい、承知しました」

 

 リュウジが即答する。

 “言われたことを守る”のが早い。

 それも、また信頼に繋がる。

 

 ペルシアが頬杖をついて言った。

 

「えー、じゃあ私の席、平和になるじゃん」

 

「何が不満なの」

 

「いや、平和が一番だけど。

 ……ちょっとだけ、面白かった」

 

「面白がらない」

 

 エリンが即座に言うと、ペルシアは笑った。

 

「はーい。」

 

 タツヤが「よしよし」と適当に頷き、リュウジの肩を軽く叩く。

 

「機長、罪な男だねぇ」

 

「罪、ですか?」

 

「罪だよ。優しさの罪」

 

 タツヤの言葉は軽い。

 けれど、その軽さの奥に、ちゃんと“守るための配置換え”がある。

 エリンも同じだ。

 誰かを責めるのではなく、現場が回る形に整える。

 

 リュウジは会議室へ向かう前に、受付側へ一度視線を向けた。

 さっき手伝った社員が、こちらに気づいて会釈する。

 リュウジも軽く返した。

 

 その背中を見ながら、エリンは小さく息を吐く。

 

(誰にでも優しいのは、強み。でも――)

 

 仕事場では、強みがそのまま渋滞になることもある。

 渋滞は事故の種だ。

 だから、整える。

 守るために。

 

 ペルシアがエリンの耳元で、わざとらしく囁いた。

 

「ねえ、エリン。ほんとに大丈夫?

 リゅウジが誰にでも優しいってことはさ――」

 

「分かってる」

 

 エリンが小さく笑う。

 柔らかいのに、芯がある。

 

「だからこそ、私は“仕事の線”で守る。

 あなたも、余計な火種を撒かない」

 

「はーい。」

 

 ペルシアが笑い、タツヤがまたため息をついた。

 

「……今日も平和に行こう」

 

 その“平和”が、現場の一番の目標だ。

 そしてその平和は、リュウジの優しさだけで生まれるものではない。

 エリンの線引きと、ペルシアの耳と、タツヤののらりくらりとした調整で――ようやく形になる。

 

 朝のフロアは、また規則的に動き出した。

 次の航路のために。

 次の“当たり前”を守るために。

 

ーーーー

 

リュウジが女子社員に囲まれる日々は、一日二日どころでは終わらなかった。

 気づけば一週間以上――毎朝、毎昼、そして時々夕方。宇宙事業部フロアのどこかに小さな“固まり”ができ、その中心にリュウジがいる。

 

 最初は「ちょっとした興味」だったのだろう。

 S級パイロット。英雄。しかも礼儀正しくて、誰にでも優しい。

 受付に挨拶をし、通路ですれ違えば必ず会釈をする。資料庫で重い荷物を抱えた社員がいれば手を貸すし、端末の操作に困っている新人がいれば「ここ、こうすると早いですよ」と落ち着いた声で助ける。

 

 それは“特別扱い”ではなく、“当たり前の優しさ”だった。

 だからこそ、余計に目立つ。

 そして厄介なのは、囲まれている時のリュウジが、きちんと対応してしまうことだ。

 雑にあしらわない。笑って流さない。

 かといって線を踏み越えさせるわけでもない。

 丁寧に受け、丁寧に返し、丁寧に距離を保つ。

 その“丁寧さ”が、また人を呼ぶ。

 

 結果、ペルシアの席――リュウジが日誌を書いたり簡単な事務をするために借りることの多い場所は、ほぼ毎日、朝の渋滞ポイントになっていた。

 

 ペルシアは最初こそ面白がっていたが、さすがに一週間も続くと、机に辿り着く前に肩を落とすようになった。

 

「……またいる」

 

 エリンはその光景を見るたびに、仕事のスケジュールと人の流れを頭の中で組み直す。

 何度散らしても、翌日には戻ってくる。まるで潮の満ち引きだ。

 

 

 朝のミーティングを終えたあと、エリンは迷わずタツヤのデスクへ向かった。

 歩き方が早い。ただし走らない。怒りで突っ走るのではなく、“解決”に向かっている歩き方だ。

 

 タツヤは椅子に深く座り、端末を眺めながら欠伸を噛み殺していた。

 いつも通りのらりくらり。だが、エリンの足音で察したのか視線だけはちゃんと上がる。

 

「タツヤ班長」

 

「うん?」

 

「何とかしてください」

 

 直球だった。余計な前置きも遠回しもない。

 タツヤは一瞬だけ瞬きをして、それからゆっくり口角を上げる。

 

「……ねぇ、それさ」

 

 のらりとした声。

 それでも、困っているのはちゃんと伝わる。

 

「羨ましい……じゃなくて困るよね」

 

 言い直したのが、いかにもタツヤらしい。

 エリンが目を細める。

 

「今、羨ましいって言いかけましたよね」

 

「気のせい気のせい。風の音」

 

「風の音は室内で鳴りません」

 

「鳴るよ。心の中で」

 

 適当な逃げ方。

 エリンはため息を吐き、実務の言葉で畳みかけた。

 

「班長。あれ、仕事に影響が出てます。

 端末が使えない、席が塞がる、通路が詰まる。資料の受け渡しも滞る。

 何より――リュウジが断れない性格なのが悪循環です」

 

 タツヤは一度だけ頷き、珍しく真面目な顔になった。

 

「うん。現場が渋滞すると事故る」

 

「そうです」

 

 そこへ、背後から弾む声が割り込んだ。

 

「本当よねぇ」

 

 ペルシアだった。

 嬉しそうに、わざとらしく頬杖をついている。

 

「仕事が出来なくて困っちゃう」

 

 言い方が、困っている人の言い方じゃない。

 エリンが即座に振り向く。

 

「ペルシア」

 

「なに?」

 

「嬉しそうに言うな」

 

「だって面白いんだもん」

 

「面白くない」

 

「えー。エリンも心のどこかで面白いって思ってるでしょ?」

 

「思ってない」

 

「うそ」

 

 ペルシアの“耳”は声色だけじゃなく、否定の速さやため息の温度まで拾ってくる。

 エリンは言い返しかけて、飲み込んだ。今はそれどころではない。

 

 代わりに深く――

 

「はぁ……」

 

 ため息が漏れた。

 ペルシアは「ほら」と言いたげに目を細める。

 

 タツヤが苦笑して、両手を軽く上げた。

 

「はいはい。二人とも落ち着いて。

 “困る”のは同じなんだから、対策考えよ」

 

 タツヤが端末を軽く叩き、考える素振りを見せたその時。

 

 ペルシアが突然、椅子の背に腕を回して身を乗り出した。

 

 「いい案がある」

 

「……どんな?」

 

 タツヤが聞くと、ペルシアはにっこり笑った。

 

「まぁ見てて」

 

 その“まぁ見てて”が、嫌な予感しかしない。

 エリンとタツヤが同時に目を細める。

 そして――リュウジも、輪の中心で何かを察したように視線をこちらへ向けた。

 

 ペルシアはその視線に気づいて、さらに笑う。

 笑ってから、踵を返し、固まりへ向かって一直線に歩いていった。

 

 女性陣の間を、迷いなく割る。

 遠慮がない。

 ただし、乱暴に押しのけるわけでもない。

 当たり前のように、“ここは通る”という顔で進む。

 

 輪の中心に到達したところで、ペルシアがすっと顎を上げた。

 そして――フロアに響くくらい、はっきり声を出した。

 

「ねぇ。私の彼氏に何のようなの!」

 

 一瞬、空気が凍った。

 

「はあ!?」

 

 タツヤの声が漏れる。

 同時に、エリンの口からも思わず声が落ちる。

 

「……はあ!?」

 

 そして輪の中心――リュウジも、固まったまま声を漏らした。

 

「……はあ!?」

 

 三方向から「はあ!?」が重なり、フロアが静まり返る。

 女性陣は、文字通り固まった。

 笑顔のまま停止した人。口を開けたまま瞬きしない人。手に持っていた書類を落としかける人。

 

 ペルシアは容赦がない。

 背筋を伸ばし、目を細め、声のトーンをさらに鋭くする。

 

「次から私の彼氏に用があるなら、まず彼女である私に話を通しなさい!!」

 

 ぴしゃり。

 まるで扉を閉める音みたいに、一蹴だった。

 

 女性陣が一斉に目を泳がせる。

 

「え……えっと……」

 

「す、すみません……!」

 

「そんなつもりじゃ……!」

 

 言い訳が浮かぶ前に、ペルシアが追い打ちをかけるように笑った。

 笑っているのに、目が笑っていない。

 

「大丈夫。理解できるよね?」

 

 その一言が、最終宣告だった。

 女性陣は驚きと困惑のまま、そそくさと固まりを解いていく。

 誰もが“空気を壊したくない”から、余計なことは言わない。

 ただ、去る。

 

 最後の一人が消えたところで、フロアの音が少しずつ戻る。

 端末の操作音、足音、コピー機の稼働音。

 まるで止まっていた時間が再起動したみたいに。

 

 ペルシアは満足げに腰に手を当て、踵を返した。

 そのままタツヤとエリンの方へ戻ってくる。

 

 エリンは、呆然としたままペルシアを見つめていた。

 タツヤも、同じ顔。

 そしてリュウジは、少し遅れてこちらへ歩いてきながら、まだ状況が飲み込めない顔をしている。

 

 タツヤが先に言葉を絞り出した。

 

「……ペルシア」

 

「なに?」

 

「今の、何」

 

 ペルシアはケロッと答える。

 

「対策」

 

「対策の方向性が強すぎる」

 

 エリンがようやく声を出す。

 声は低い。笑っていない。

 

「ペルシア……あなた、何言ってるの」

 

「何って言った通り。彼氏」

 

「違うでしょ」

 

 エリンが即座に言い切ると、リュウジが半歩遅れて口を開いた。

 

「……ペルシア。彼氏じゃ――」

 

「細かいことはいいの」

 

 ペルシアが遮る。

 遮り方が妙に堂々としていて、逆にリュウジが言葉を失う。

 

「細かくないだろ!」

 

 タツヤが珍しく声を上げた。

 

 ペルシアは肩をすくめる。

 

「いいじゃん。ほら、渋滞解消した」

 

 確かに、固まりは消えた。

 消えたが――代わりに別の爆弾が置かれた気がする。

 

 エリンはこめかみを押さえ、深いため息を吐いた。

 

「……はぁ……」

 

 タツヤも同じタイミングで息を吐く。

 

「……はぁ……」

 

 ペルシアは二人のため息を見て、にやりと笑った。

 

「効いてる効いてる」

 

「効きすぎて怖い」

 

 エリンがぼそりと言う。

 そして、横目でリュウジを見る。

 

 リュウジはまだ固まっていた。

 けれど、次の瞬間――困ったように、少しだけ笑った。

 

「……すみません。俺のせいで」

 

「あなたのせいじゃない」

 

 エリンが即座に言った。

 声はきっぱりしているのに、前より少し柔らかい。

 

「ただ……ペルシアのせいでもある」

 

「えっ、ひどい!」

 

 ペルシアがわざとらしく胸を押さえる。

 タツヤが苦笑し、頭をかく。

 

「とりあえず……火種が増えた気がするけど、渋滞は解消。

 うん、結果だけ見れば成功……なのか……?」

 

 エリンはまだ納得していない顔のまま、短く言った。

 

「成功って言っていいのかしら」

 

 ペルシアが胸を張る。

 

「いいの! 現場は結果!」

 

 リュウジが小さく咳払いをして、敬語のまま言った。

 

「……ペルシア、あとで説明しろ。ちゃんと」

 

「えー、説明いる?」

 

「ああ」

 

 リュウジが珍しく強い。

 ペルシアは一瞬だけ目を丸くして――すぐ笑った。

 

「はいはい。」

 

 エリンはまたため息を吐きそうになり、ぐっと堪えた。

 堪えたところで、タツヤがのらりと言う。

 

「……じゃ、仕事戻ろっか。

 彼氏問題は……あとで会議」

 

「会議は必要です」

 

 エリンが即答し、ペルシアが肩をすくめる。

 

「真面目だなぁ、二人とも」

 

 その真面目さで、今日のフロアが回っているのだ。

 ただし――ペルシアという嵐を抱えたまま。

 

ーーーー

 

 ペルシアの「ねぇ、私の彼氏に何のようなの!」――あの一撃は、宇宙事業部フロアの“渋滞”を解消しただけでは終わらなかった。

 終わらせてくれるほど、この会社の噂話はおとなしくない。

 

 その日の昼前には、もう“別部署”に届いていた。

 

「聞いた? 宇宙事業部のS級パイロット、ペルシアと……」

 

「え、あの副パーサーの?」

 

「そうそう。彼氏って言ったらしいよ」

 

 誰かが尾ひれをつける。

 誰かが脚色する。

 誰かが「見た」と言い、誰かが「聞いた」と言い、誰かが「確定」と言う。

 確定の根拠は、だいたいない。

 

 午後には、内容が少し変質していた。

 

「付き合ってるんだって」

 

「え、もう公認?」

 

「タツヤ班長も知ってるらしいよ」

 

「え、やば……」

 

 “らしい”が、いつの間にか“そうらしい”に変わり、

 “そうらしい”が、“そうなんだって”に変わり、

 “そうなんだって”が、“そうなんだ”に変わる。

 

 この会社は巨大だ。部署もフロアも多い。

 なのに噂は、真空中の音みたいに速く伝播する。

 ドルトムント財閥の「宇宙」だけが特殊なのではない。

 人の興味が集まる場所には、自然と流路ができるのだ。

 

 しかも今回は、材料が揃いすぎていた。

 S級パイロット――英雄――リュウジ。

 副パーサー――派手で大胆で耳がいい――ペルシア。

 そして「彼氏」という決定的な単語。

 

 噂は“物語”になった。

 物語になった噂は、もう止められない。

 

 

 当然、本人たちの耳にも入る。

 

 翌朝、エリンがフロアに入った瞬間、空気がほんの少しだけ違った。

 いつもの仕事の匂いに、微妙な“探る視線”が混ざっている。

 目が合うと、皆、慌てたように端末へ視線を落とす。

 落とすのが、逆に分かりやすい。

 

 ペルシアはその空気を一瞬で嗅ぎ取って、にやりと笑った。

 

「……広がったね」

 

 エリンは歩きながら、小さく言う。

 

「広がりすぎ」

 

「でも、渋滞は消えたでしょ?」

 

「消えたけど、代わりに何を生んだか分かってる?」

 

「噂」

 

「噂が“仕事”を侵食する」

 

 エリンの声は真面目だ。

 しかし、その真面目さの奥に、昨日ほどの怒気がない。

 対策としては……確かに機能してしまったから。

 

 タツヤは自分のデスクに座り、朝のログを見ながら、いつもののらり声で言った。

 

「いやー……速かったね。拡散」

 

「班長、他人事みたいに言わないでください」

 

「他人事じゃないよ。俺も巻き込まれてる。

 『班長、二人の仲、知ってたんですか?』って聞かれた」

 

「なんて答えたんですか」

 

「『うん、風の音でね』って」

 

 エリンが眉間に皺を寄せる。

 

「……タツヤ班長」

 

「冗談冗談。『仕事の話をしろ』って言った」

 

 そこだけは、珍しく真面目だった。

 

 

 そして、噂が広がってからというもの。

 リュウジに不用意に近づいてくる女性は、ほとんどいなくなった。

 

 “ほとんど”というのが現実的だ。

 完全にゼロにはならない。

 けれど、あれだけ毎日できていた“固まり”は消えた。

 

 たとえば資料庫。

 いつもなら「リュウジさん、これ持ってもらっていいですか?」と声を掛けられていた場面で、今は逆になる。

 

 重い箱を抱えた社員がいて、リュウジがさっと近づく。

 

「持ちます」

 

「えっ……あ、ありがとうございます……! でも、だ、大丈夫です!」

 

 断るのが早い。

 しかも、どこか距離を取るような言い方になる。

 

 リュウジは戸惑わない。

 丁寧に頷いて、手を引く。

 

「分かりました。無理はしないでください」

 

 それで終わる。

 変わらず優しい。変わらず丁寧。

 ただ、周囲の“温度”が変わっただけだ。

 

 受付でもそうだ。

 笑顔で挨拶を返していた女性が、今は一瞬だけ目を泳がせる。

 そして、すぐに仕事の顔に戻る。

 

「おはようございます」

 

「おはようございます」

 

 その間に余計な言葉が挟まらなくなった。

 

 フロアの通路も、驚くほど流れる。

 机の周りに人が溜まらない。

 端末の前が塞がれない。

 資料の受け渡しも、やっと“通常”の速度に戻った。

 

 エリンはその様子を見ながら、心の中で複雑な気持ちになる。

 

(確かに、仕事は回るようになった……)

 

 だが、回り方が少しだけ不自然だ。

 “避けられている”という意味で。

 

 ペルシアは逆に、楽しそうだった。

 通りすがりの視線を感じるたびに、わざとらしくリュウジの肩に手を置いたりする。

 やりすぎだ、とエリンが言おうとすると、ペルシアは先に口を開く。

 

「ほら見て。今日、誰も群がってない。最高」

 

「最高じゃない。やり方が雑だわ」

 

「雑で十分。現場は結果!」

 

 ペルシアは胸を張る。

 エリンはため息をつきかけて、堪えた。

 堪えたのに、ペルシアがそれを見抜いて笑う。

 

「ふふ。エリン、ため息飲み込んだ」

 

「飲み込んでない」

 

「飲み込んだ。分かる。耳がいいから」

 

「耳だけじゃなくて空気が悪いのよ、あなたが作ってるのよ」

 

 エリンが返すと、ペルシアはケロッとする。

 

「空気が悪いなら、整えればいいじゃん。チーフパーサーでしょ」

 

 その言い方がずるい。

 エリンは、返す言葉が見つからず、目を細めた。

 

 

 リュウジ本人はどうか。

 

 当事者のはずなのに、一番動じていなかった。

 噂が広がったこと自体には気づいている。

 だが、過剰に反応しない。

 誰かに詰め寄られても、表情を変えずに言う。

 

「誤解です」

 

 それだけ。

 その“誤解です”が、さらに噂を転がすのだが、本人は意図していない。

 意図していないから、余計に強い。

 

 ある時、別部署の男性社員が遠回しに聞いてきた。

 

「……リュウジさん、ペルシアさんと……その、順調ですか?」

 

 リュウジは一拍置いて、丁寧に頭を下げた。

 

「業務に関係ない話は、お答えしません」

 

 にこりとも笑わない。

 怒りも見せない。

 ただ線を引く。

 その線引きが、逆に“公認っぽい”と受け取られてしまうのだが――。

 

 エリンはその一幕を見て、心の中で思った。

 

(この人、線を引くときは引けるんだ)

 

 断れない人だと思っていた。

 けれどそれは、“相手を傷つけないように”丁寧なだけだったのかもしれない。

 線引きの方法を知らなかっただけで。

 

 ペルシアの乱暴な一撃で、周囲が勝手に線を引いた。

 その結果、リュウジは仕事に集中できるようになった。

 

 ――皮肉だ。

 でも現場は、皮肉で回ることもある。

 

 

 数日経って、宇宙事業部フロアはようやく落ち着きを取り戻した。

 リュウジに不用意に近づく女性はほとんどいない。

 質問は必要な時に、必要な距離で。

 雑談は減り、渋滞は消え、仕事は進む。

 

 エリンは机に戻り、端末のスケジュールを確認しながら、小さく呟いた。

 

「……結果だけ見れば、成功」

 

 ペルシアがすぐ隣で、満足げに笑う。

 

「でしょ?」

 

 タツヤはのらりと肩をすくめた。

 

「まぁ……爆弾抱えた成功だけどね」

 

「爆弾?」

 

 ペルシアがきょとんとする。

 

 タツヤはちらりとエリンを見る。

 

「噂ってのはさ、消えるんじゃなくて形変えるだけだから。

 次はどんな形になるか……それが怖い」

 

 エリンは同意するように小さく頷いた。

 そしてペルシアを見て、釘を刺す。

 

「だから、これ以上余計な燃料は投下しないでよ」

 

「はーい。」

 

 ペルシアは笑い、リュウジは少し離れた席で淡々と日誌を書いていた。

 その背中は、今日も変わらず真っ直ぐだった。

 ただ――周囲の視線だけが、少し距離を取るようになった。

 

ーーーー

 

 会社の仕事にも、空気にも――リュウジは少しずつ慣れてきていた。

 

 朝、ゲートを抜ける時の挨拶。

 フロアの端末の起動音。

 書類の受け渡しの“間”。

 誰に声をかければ早いか、誰に聞けば確実か。

 そして、どこから先は踏み込まない方がいいか。

 

 ドルトムント財閥の空気は、整然としているのに妙に人間臭い。

 力関係がある。噂がある。視線がある。

 けれど、規則と実務がすべてを均す。

 仕事が回れば“許される”。回らなければ“詰まる”。

 それは宇宙船の客室にも似ていた。

 

 リュウジは今日も、午前のタスクを淡々とこなしていた。

 操縦ログの確認、連携予定の確認、日誌の入力。

 それらを終えたところで、少し離れた席から手招きが見えた。

 

「おーい、リュウジ」

 

 タツヤがデスクに座ったまま、片手をひらひら振っている。

 いつもののらりとした顔。

 ただし、目だけは何かを企んでいる。

 

 リュウジは椅子を引き、立ち上がって近づいた。

 

「はい、タツヤ班長。どうされましたか」

 

「ほら、これ」

 

 タツヤが、どん、と厚い冊子を机の上に置いた。

 紙の束というより、薄い板。

 表紙にはドルトムント財閥系列の家財屋のロゴが入っている。

 

 リュウジはそれを受け取り、手に持った瞬間、重みで眉を上げた。

 

「……何ですか?」

 

「カタログ」

 

 タツヤは軽く言う。軽く言える重さじゃない。

 

「最初はいらないと思ったけどさ」

 

 タツヤは椅子にもたれ、指を組む。

 

「毎日出社するなら、自分のデスクが欲しいでしょ」

 

 リュウジは一瞬、言葉に詰まった。

 “欲しい”かどうかを考える前に、“俺にそんな権利があるのか”が先に来る。

 

「……俺は、必要な時だけの出社でいいと」

 

「うんうん、言った」

 

 タツヤはのらりと頷く。

 

「でも君、来るじゃん。毎日。

 それでペルシアの席借りて、周りがざわざわして、仕事が詰まって――」

 

 タツヤは軽く肩をすくめた。

 

「なら、置く場所が必要だよ。君の荷物も、君の書類も。

 それに、君が座る場所があれば、変な渋滞も起きにくい」

 

 確かに、合理的だった。

 リュウジは冊子の背を指でなぞりながら、小さく頷いた。

 

「……ありがとうございます」

 

「礼はまだ早い」

 

 タツヤが指を一本立てる。

 

「そのカタログ、ドルトムント財閥系列の家財屋だから。

 ちょっと見てきたら? 実物もある。触れる。座れる。

 合うの選んで、申請だけ出せばすぐ入る」

 

 リュウジは目を丸くする。

 

「……そんなに早いんですか」

 

「うちはね、こういうとこだけは早い」

 

 タツヤは得意げでもなく、淡々と笑った。

 

「仕事が回るなら、投資は惜しまない。

 ドルトムントの嫌なところでもあり、ありがたいところでもある」

 

 リュウジはカタログを胸に抱え、深く頭を下げた。

 

「……承知しました。確認します」

 

「うん。で、だ」

 

 タツヤは手を上げたまま、フロアの入口の方を見る。

 ちょうどそのタイミングで、エリンとペルシアが戻ってきた。

 

 エリンは資料の束を腕に抱え、歩く速度が早い。

 後ろをペルシアがついてくる。ペルシアは手ぶらで、表情が軽い。

 軽いが、目はいつも通り鋭い。

 

「ちょうど良かった」

 

 タツヤが声を出す。

 

「エリン」

 

 エリンはすぐに立ち止まり、タツヤのデスクへ向かって歩いてきた。

 ペルシアも当然のように、後ろにぴたりとついてくる。

 まるで“セット”。

 

「どうしました?」

 

 エリンが尋ねる。

 声は仕事の声。柔らかくはあるが、無駄がない。

 

 タツヤは親指でリュウジを指した。

 

「そろそろ、リュウジのデスクを、ね」

 

「デスク?」

 

 エリンがリュウジの手元の厚い冊子を見る。

 それだけで理解する。

 視野が広い。読解が速い。

 

「……なるほど」

 

 タツヤが続けた。

 

「付いていってあげて。

 リゅウジ、こういうの選ぶの慣れてなさそうだし。

 俺は会議の準備で抜けられない」

 

 エリンは迷わず頷いた。

 

「分かりました」

 

 その返事があまりにも即答で、リュウジは少し驚いた。

 “チーフパーサー”は判断が早い。

 それが地上勤務でも変わらない。

 

「えー、いいな」

 

 ペルシアが唇を尖らせる。

 

「私は? 私も行きたい」

 

 エリンが困ったように微笑む前に、タツヤが先に言った。

 

「ペルシアは会議録作りがあるでしょ。

 まだこないだの会議録、見てないよ」

 

 ペルシアはぐっと詰まった。

 

「……え」

 

「え、じゃない。

 “私も行きたい”って言う前に、やることやろうね」

 

 タツヤの言い方はのらりとしている。

 でも内容は容赦がない。こういう時だけちゃんと班長だ。

 

 ペルシアはむっとして、しかし反論できない。

 反論したら、さらに宿題が増えるのを知っている。

 

「……まぁ、仕方ないか」

 

 ぶつぶつ言いながらも、ペルシアはデスクへ戻る気配を見せた。

 

 エリンがペルシアへ微笑む。

 

「また今度ね」

 

「うん……また今度」

 

 ペルシアは素直に頷いた。

 素直なのが逆に不気味だ、とタツヤが小さく肩を震わせる。

 だが、ペルシアは本当に今日は仕事がある。

 そして――あの会議録を放置すると、エリンの雷が落ちる。

 彼女もそれは避けたい。

 

 エリンはリュウジに向き直り、柔らかめの声で言った。

 

「それじゃあ、行きましょうか」

 

「はい、よろしくお願いします」

 

 リュウジが敬語で答えると、エリンは少しだけ目を細めた。

 その表情が、以前より柔らかい。

 信頼が積み重なっているのが分かる。

 

「こちらこそ。……そんなに緊張しなくていいよ」

 

「いえ……慣れていないので」

 

「慣れてないなら、慣れるまで一緒にやればいい」

 

 エリンはそう言って歩き出す。

 リュウジもその後ろに続いた。

 廊下へ出る直前、ペルシアが机に座りながら手を振る。

 

「りゅーうじー! いいデスク選んでねー!

 あと、変なの選んだら私が笑うから!」

 

「笑うな」

 

「笑う!」

 

 ペルシアは笑顔で言い切る。

 エリンが振り返り、淡々と告げた。

 

「会議録」

 

「……はい。」

 

 そのやり取りにタツヤが小さく笑い、リュウジは思わず口角を上げた。

 

 こうして、リュウジは初めて“自分の居場所”を選びに行く。

 ドルトムントの空気に少し慣れた今だからこそ、意味のある一歩だった。

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