ソーラ・デッラ・ルーナを後にした十四班は、ロカA2から火星へ戻る便に乗った。
行きの時とは、空気が少し違っていた。
行きは、期待と緊張があった。
リュウジが当日まで目的地を明かさなかったこともあり、ミラとラン、ガーネットには戸惑いもあった。
だが、帰りの便の中には、その戸惑いはほとんど残っていなかった。
代わりにあったのは、静かな余韻だった。
三日月のような外観。
月の回廊。
キッズスペースと救護室の近さ。
休息区画の静けさ。
整備士が異常を言いやすいように作られた静音整備区画。
祈りの間。
そして、タツヤ班長が本気で喜んでいた統括席。
その一つ一つが、皆の中に残っている。
「……すごかったね」
ククルが、窓の外を見ながら小さく言った。
火星へ戻る船の窓には、遠くなっていくロカA2の光が映っている。
カイエが隣で頷いた。
「うん。図面で見た時とは全然違った」
「私、迷子導線を見た時、ちょっと泣きそうになった」
「分かる。ククルの言葉が、そのまま場所になってたね」
ククルは少し照れたように笑った。
「勢いで言っただけだったんだけどね」
「勢いって大事だと思うよ。現場の本音だから」
少し離れた席で、エマは静かに目を閉じていた。
眠っているようにも見える。
だが、ククルが小声で聞く。
「エマ、寝てる?」
エマは目を閉じたまま答えた。
「寝てない」
「考えてる?」
「休息室の椅子」
カイエが小さく笑った。
「そこなんだ」
「座りやすそうだった。深く沈みすぎない。すぐ立てる。でも、ちゃんと休める」
「エマらしいね」
「大事」
ククルは笑いながら頷いた。
「うん。今日見て、ほんとに大事だと思った」
反対側では、ミラとランが並んで座っていた。
ランはずっと窓の外を見ている。
ミラが声をかけた。
「ラン、疲れた?」
「少し。でも、嫌な疲れじゃない」
「うん」
「私、まだ十四班に来たばかりだけど、今日の見学で少し分かった気がする」
「何が?」
ランは少し考えた。
「十四班って、ただ仕事をする班じゃないんだね。誰かが困ったこととか、現場で嫌だったこととか、怖かったこととか、そういうものをちゃんと形にしようとするんだなって」
ミラは静かに頷いた。
「うん。私もそう思った」
「ミラは、前から知ってた?」
「全部は知らなかった。でも、エリンさんやリュウジさんを見ていると、そういう班なんだろうなとは思ってた」
ランは小さく笑った。
「私も、ちゃんと見ていきたい」
「一緒にね」
「うん」
その後ろの席では、ガーネットが一人で座っていた。
隣にはカイエがいたが、しばらく二人とも黙っていた。
ガーネットは、ソーラ・デッラ・ルーナの整備区画を思い出していた。
静音壁。
報告しやすい導線。
作業者が孤立しない距離。
言いやすさは設備。
その言葉が、胸の中に残っている。
ガーネットは静かに口を開いた。
「カイエ」
カイエが顔を向ける。
「何ですか」
「今日、整備区画を見られてよかったわ」
「整備区画ですか」
「ええ。私は、ああいう場所が必要だと思った」
カイエは少しだけ視線を落とした。
「言いやすい空気、ですか」
「そう。言えない空気は、人を壊すから」
その言葉には、少しだけ過去の重さがあった。
カイエはすぐには返さなかった。
以前なら、ガーネットの過去にまつわる言葉へ、少し刺さるような返事をしたかもしれない。
だが、今は違った。
ソーラ・デッラ・ルーナを見た後だった。
あの場所には、言えないことを言えるようにするための考えがあった。
それを見た今、簡単に否定する気にはなれなかった。
「私も、あそこはいい場所だと思いました」
カイエは静かに言った。
ガーネットはカイエを見る。
「そう」
「はい」
短いやり取りだった。
けれど、それだけで十分な時もある。
ガーネットは少しだけ目を伏せた。
◇
タツヤ班長は、通路側の席で腕を組んでいた。
一見すると眠っているようにも見える。
だが、目は閉じていない。
リュウジはその少し前の席に座っていた。
エリンはリュウジの隣だ。
行きの時と同じように、二人は並んでいる。
けれど、行きの時よりも沈黙は穏やかだった。
エリンは窓の外を見ていた。
リュウジは手元を見ていた。
指先が、上着の襟元に巻いたマフラーに軽く触れている。
エリンがそれに気づく。
「気に入った?」
リュウジは少し驚いたように顔を上げた。
「はい」
「よかった」
「温かいです」
「そういう感想なんだ」
エリンが少し笑う。
リュウジは真面目に答えた。
「実用的です」
「そこは大事だけど」
「でも」
リュウジは少しだけ目を伏せた。
「エリンさんが選んでくれたものなので、嬉しいです」
エリンは一瞬、言葉を止めた。
そして、少しだけ頬を赤くして窓の外を見る。
「……そういうことを、普通に言うよね」
「すみません」
「謝るところじゃないって、何度も言ってるでしょ」
「はい」
エリンは小さく息を吐いた。
だが、その表情は柔らかかった。
タツヤ班長が少し離れたところから、目だけを向ける。
何か言いたそうだったが、今回は黙っていた。
エリンが振り返れば、きっと気づいただろう。
だが、今は気づかないふりをしていた。
リュウジは、窓の外に視線を移した。
火星へ戻る航路。
遠くの星。
ロカA2の光。
ソーラ・デッラ・ルーナの三日月の弧は、もう肉眼では見えない。
けれど、リュウジの中にははっきり残っていた。
月の回廊。
祈りの間。
休息区画。
整備区画。
統括席。
そして、十四班がその中で笑っていた光景。
リュウジは静かに息を吸った。
答えは、もう出ていた。
ソーラ・デッラ・ルーナを見たことで、迷いが消えたわけではない。
未探索領域が危険でなくなったわけでもない。
二か月という時間が短くなったわけでもない。
だが、自分が何を見て、何に帰るのかは分かった。
帰る場所を軽く見ない。
待つ人を軽く見ない。
だからこそ、行くなら帰る前提で行く。
自分を道具のように扱わない。
誰かのためだけではなく、自分で選んで行く。
その答えに、ようやくたどり着いた気がした。
リュウジは、隣のエリンを見た。
「エリンさん」
「何?」
エリンが顔を向ける。
リュウジはすぐには言わなかった。
船内には、十四班の皆がいる。
タツヤ班長もいる。
今この場で全てを話すべきではない。
だが、エリンには、最初に伝えたいと思った。
「火星に着いたら、少しだけ時間をもらえますか」
エリンの表情が少しだけ変わった。
「うん」
すぐに分かった。
リュウジが何を話そうとしているのか。
未探索領域のことだ。
北の未探索領域。
二月から四月。
およそ二か月。
リュウジが、ずっと考えていたこと。
エリンは短く答えた。
「分かった。着いたら、少し歩こう」
「はい」
それ以上は何も言わなかった。
だが、その沈黙は、もう逃げるための沈黙ではなかった。
話す前の沈黙だった。
◇
火星のエアポートに到着したのは、夕方に近い時間だった。
年末のエアポートは、朝とはまた違う慌ただしさを見せていた。
帰宅する人々。
乗継へ急ぐ人々。
到着ロビーで誰かを待つ家族。
荷物を抱えて眠そうに歩く子ども。
その光景を見て、ククルが小さく言った。
「ソーラ・デッラ・ルーナも、いつかこうなるんですね」
リュウジは頷いた。
「うん」
エマが続ける。
「人が入って、港になる」
「はい」
リュウジはエマには通常口調で返そうとして、少しだけ間が空いた。
「うん。そうなる」
エマはそれに気づいたが、何も言わなかった。
カイエはタツヤ班長へ向き直る。
「班長、今日はありがとうございました」
「俺はついて行っただけだよ」
「それでもです」
ククルも続ける。
「見学できてよかったです」
タツヤ班長は笑う。
「よかったね。正式運用後も、みんなで行こうか」
エマがすぐに言う。
「休息室の運用確認をします」
「エマはそこだねぇ」
「重要です」
ミラも丁寧に頭を下げた。
「タツヤ班長、ありがとうございました」
ランも続ける。
「ありがとうございました。すごく勉強になりました」
「うん。二人とも、いい刺激になったならよかった」
ガーネットも静かに言った。
「タツヤ班長、今日はありがとうございました」
「うん。ガーネットも来られてよかったよ」
ガーネットは少しだけ目を伏せた。
「はい」
そこで、自然と解散の流れになった。
ククル、エマ、カイエは同じ方面へ向かう。
ミラとランも途中まで同じらしい。
ガーネットは少し別の乗継口へ向かう。
タツヤ班長は、少し用事があると言って管理側通路へ向かうことになった。
「リュウジ、エリン」
タツヤ班長が二人に声をかける。
エリンは振り返る。
「はい、班長」
リュウジも姿勢を正す。
「はい」
タツヤ班長は、二人を見比べた。
「気をつけて帰れよ」
エリンは一瞬だけ、何かを察した。
タツヤ班長の言葉は普通だった。
だが、その目は少し違う。
リュウジが火星に着いたら話したいと言ったことを、きっと何となく分かっている。
エリンは静かに頷いた。
「はい」
リュウジも答える。
「はい」
タツヤ班長は軽く手を振った。
「じゃあ、また明日」
ククルが明るく言う。
「また明日です!」
エマも頷く。
「また明日」
カイエがエリンとリュウジに向き直る。
「エリンさん、リュウジさん、お疲れ様でした」
エリンは笑う。
「お疲れ。今日はありがとう」
リュウジも頷く。
「お疲れ」
ククルが少しだけエリンを見る。
「エリンさん、リュウジさんと帰る方向同じですよね?」
エリンは少し目を瞬かせた。
「うん。途中まで同じ」
「じゃあ、気をつけて帰ってくださいね」
エマが静かに言う。
「寄り道しても大丈夫な時間です」
カイエが横を見る。
「エマ、それはどういう意味?」
「特に意味はない」
「あるように聞こえる」
「気のせい」
ククルは笑いをこらえている。
エリンは少しだけ頬を赤くした。
「みんな、今日は本当に自由だね」
ククルが笑う。
「ソーラ・デッラ・ルーナを見た後なので」
「それ、何の理由にもなってないよ」
リュウジは静かに目を伏せていたが、少しだけ口元が緩んでいた。
ミラとランも近づいてきた。
ミラは丁寧に頭を下げる。
「エリンさん、リュウジさん、お疲れ様でした」
ランも続けた。
「お疲れ様でした。今日はありがとうございました」
エリンは二人に笑いかける。
「お疲れ。二人とも、今日はちゃんと見てくれてありがとう」
リュウジも頷く。
「また感想を聞かせてくれ」
ミラは少し嬉しそうに言う。
「はい」
ランも明るく答える。
「はい!」
すぐにミラが袖を軽く引く。
「ラン、声」
「あ、ごめん。でも、ちゃんと話します」
リュウジは小さく頷いた。
ガーネットは最後に、リュウジとエリンの前へ来た。
「エリンさん、リュウジさん。今日はありがとうございました」
エリンは穏やかに言う。
「こちらこそ。ガーネットも来てくれてよかった」
ガーネットは少しだけ目を伏せる。
「私も、行けてよかったです」
リュウジが言う。
「また正式運用後に行こう」
「はい。ぜひ」
ガーネットは丁寧に頭を下げ、乗継口へ向かって歩いていった。
少しずつ、十四班の面々がエアポートの人混みに溶けていく。
ククルが手を振る。
エマが控えめに頷く。
カイエが最後にもう一度だけ振り返る。
ミラとランは並んで歩いていく。
タツヤ班長は、管理側通路へ消えていった。
やがて、エリンとリュウジだけが残った。
◇
「行こうか」
エリンが言った。
リュウジは頷く。
「はい」
二人は火星エアポートの到着ロビーを並んで歩き出した。
帰る方向は途中まで同じだった。
エアポートの大きな窓からは、夕方の火星都市の灯りが見えている。
赤い大地の上に広がる人工都市。
空は薄暗く、外縁の照明が静かに光っている。
年末の空気が、どこか地球の年の瀬にも似ていた。
人の流れは多い。
けれど、二人の歩調はゆっくりだった。
しばらく、何も話さなかった。
エリンは急かさない。
リュウジも、言葉を探していた。
やがて、到着ロビーから少し離れた連絡通路に入ったところで、リュウジが口を開いた。
「エリンさん」
「うん」
「決めました」
エリンは足を止めなかった。
ただ、少しだけ目を伏せた。
「未探索領域の調査?」
「はい」
リュウジの声は静かだった。
「行くことにしました」
エリンは数歩進んでから、ゆっくり立ち止まった。
リュウジも止まる。
人の流れから少し外れた場所。
窓際の通路。
外には、火星都市の灯り。
エリンは、リュウジを見た。
「そっか」
その声は、驚いていなかった。
予想していたから。
けれど、軽くもなかった。
「行くんだね」
「はい」
「理由、聞いてもいい?」
リュウジは頷いた。
「はい」
エリンは壁際に寄った。
リュウジも横に立つ。
二人の間に、火星エアポートの喧騒が少しだけ遠くなった。
リュウジは窓の外を見る。
「ソーラ・デッラ・ルーナを見て、決めました」
エリンは黙って聞く。
「俺は、帰る場所を作りました。でも、作っただけでは終わりません。これから使われる場所になります。人が戻ってきて、休んで、また飛んでいく場所になります」
「うん」
「未探索領域の調査も、たぶん同じです」
リュウジは少し言葉を探した。
「今は危険な場所です。航路も、救助網も、通信も、不安定です。でも、誰かが見に行かなければ、ずっと危険なままです」
エリンは目を伏せた。
その理屈は分かる。
分かってしまう。
リュウジが行く意味も、分かる。
だからこそ、胸が痛かった。
「俺が行けば、成功するとは思っていません」
リュウジは続ける。
「でも、俺が行けば、少しでも安全に調査できる可能性があります。揺れを殺せる。異常を拾える。通信が遅れても、船を落ち着かせられる」
「うん」
「それは、自分を道具みたいに考えているわけではありません」
リュウジはエリンを見た。
「エリンさんに言われたこと、考えました」
エリンの目が少し動く。
「自分で選ぶこと」
「はい」
「帰ってくる前提で考えること」
「はい」
「一人で抱えないこと」
「はい」
リュウジは真っ直ぐに答えた。
「だから、行くことにしました」
エリンは、すぐには何も言わなかった。
行かないで。
その言葉は、喉元まで出かけた。
二か月。
北の未探索領域。
危険。
通信不安定。
救助不安定。
何が起こるか分からない場所。
リュウジがそこへ行く。
胸が痛くならないはずがない。
それでも、エリンは分かっていた。
今のリュウジは、自分を軽く扱っているわけではない。
誰かのために無理をして行くのでもない。
考えて、帰る場所を見て、それでも自分で選んだ。
なら、止める言葉は違う。
エリンは小さく息を吸った。
「リュウジ」
「はい」
「怖い?」
リュウジは一瞬だけ黙った。
それから、正直に答えた。
「怖いです」
エリンは頷いた。
「うん」
「でも、怖いと思えるなら、無茶はしないと思います」
「それ、前に私が言ったことだね」
「はい」
エリンは少しだけ笑った。
でも、その笑いは少し震えていた。
「覚えてるんだ」
「はい」
「じゃあ、ちゃんと怖がって」
リュウジは少し驚いたように見る。
エリンは続けた。
「怖いと思っていい。危ないと思っていい。帰りたいと思っていい。何かあったら、助けを求めていい」
「はい」
「一人で全部判断しないで。通信が繋がるなら、繋いで。繋がらないなら、繋がった時にちゃんと話して」
「はい」
「帰ってきたら、最初に顔を見せて」
リュウジは目を伏せた。
「はい」
エリンはその返事を聞いて、少しだけ肩の力を抜いた。
それでも、胸の奥は苦しい。
二か月。
二月から四月。
その時間の長さが、今になって現実になってきた。
「タツヤ班長には?」
「まだ正式には言っていません。明日、伝えます」
「そう」
「最初に、エリンさんに伝えたかったので」
エリンは少しだけ目を見開いた。
リュウジは続ける。
「一人で決めた結論だけを持ってくるなと、言われたので」
「うん」
「本当は、決める前にももっと話すべきでした」
「リュウジは話してたよ」
「そうですか」
「うん。前よりは」
エリンは少しだけ微笑んだ。
「まだ足りないところはあるけど」
「すみません」
「だから謝るところじゃない」
リュウジは少しだけ困ったように目を伏せた。
エリンはそんなリュウジを見て、胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じた。
行くと決めた。
危険な場所へ。
それでも、この人は変わらない。
真面目で、不器用で、すぐ謝って、けれど大事なことはちゃんと考える。
だから、見送る側も覚悟がいる。
エリンは少しだけ顔を上げた。
「リュウジ」
「はい」
「じゃあ、寄り道しよう」
リュウジは目を瞬かせた。
「寄り道、ですか」
「うん」
「どこへ?」
「神社」
リュウジは少し戸惑った。
「神社、ですか」
「火星エアポートの近くに、小さいけどあるの。知ってる?」
「知りませんでした」
「じゃあ、行こう」
リュウジは少しだけ考えた。
「今からですか」
「今から」
「時間は」
「少しならあるでしょ」
「はい」
「じゃあ決まり」
エリンはそう言って、歩き出した。
リュウジは少し遅れて隣に並ぶ。
「エリンさん」
「何?」
「なぜ神社に?」
エリンは前を見たまま答えた。
「お参りするため」
「それは分かります」
「お守りも買う」
リュウジは少しだけ黙った。
「俺に、ですか」
「うん」
エリンは淡々と言った。
「未探索領域に行くんでしょ。なら、いる」
リュウジは何かを言おうとした。
けれど、エリンの横顔を見て、言葉を飲み込んだ。
これは、理屈ではない。
危険を減らす技術でもない。
航路計算でもない。
だが、エリンにとって必要なことなのだ。
リュウジは静かに頷いた。
「分かりました」
エリンは少しだけ笑う。
「素直」
「はい」
「こういう時は素直なんだね」
「必要だと思いました」
「うん。必要」
二人はエアポートの連絡通路を抜け、外縁側の小さな区画へ向かった。
◇
火星エアポート近くの神社は、大きくはなかった。
人工都市の一角。
高層施設と連絡デッキの間に作られた、小さな静かな場所。
赤い鳥居が、火星の夕暮れに淡く浮かんでいる。
本物の木ではない。
火星環境に合わせた特殊素材で作られた鳥居。
それでも、形は地球の神社と同じだった。
小さな石畳。
手水舎。
鈴。
賽銭箱。
お守りを扱う小さな授与所。
年末が近いせいか、数人の参拝者がいた。
乗務員らしい人。
整備士らしい人。
家族連れ。
出発前に手を合わせる者もいれば、帰ってきてから頭を下げる者もいる。
リュウジはその光景を見て、少しだけ立ち止まった。
「こんな場所があったんですね」
エリンは頷く。
「うん。小さいけど、けっこう来る人いるよ」
「飛ぶ前に、ですか」
「飛ぶ前も、帰った後も」
リュウジは神社を見つめた。
祈りの間を思い出した。
ソーラ・デッラ・ルーナに作った、小さな静かな場所。
誰かが言葉にできないものを置いていく場所。
ここも同じだ。
科学で飛び、技術で航路を作り、管制で安全を守る。
それでも、人は手を合わせる。
それは矛盾ではないのだと、リュウジは思った。
エリンは手水舎へ向かった。
「リュウジ、こっち」
「はい」
二人は手を清め、参道を歩いた。
並んで歩く距離は近すぎず、遠すぎない。
エリンが鈴の前で立ち止まる。
リュウジも隣に立った。
「お参り、分かる?」
「はい。たぶん」
「たぶん?」
「作法は覚えています」
「じゃあ大丈夫」
二人は賽銭を入れ、鈴を鳴らした。
小さな音が、火星の人工都市の中に静かに響く。
二礼。
二拍手。
そして、手を合わせる。
エリンは目を閉じた。
願うことは、決まっていた。
リュウジが無事に帰ってくること。
未探索領域の調査が無事に終わること。
でも、それだけではない。
リュウジが、自分を軽く扱わないこと。
怖い時に怖いと言えること。
帰りたい時に、帰る選択をできること。
そして、帰ってきた時に、ちゃんと笑えること。
エリンは、それを言葉にせず祈った。
隣で、リュウジも手を合わせている。
リュウジは、何を願えばいいのか少し迷った。
成功。
安全。
帰還。
それらは当然だ。
だが、手を合わせた瞬間、最初に浮かんだのはソーラ・デッラ・ルーナだった。
月の回廊にいた十四班。
エリンの横顔。
タツヤ班長の統括席での笑顔。
ククルが迷子導線を見て笑ったこと。
エマが休息室で頷いたこと。
カイエが働く側を守る場所だと言ったこと。
ミラとランが、これから見ていきたいと言ったこと。
ガーネットが、十四班だからと言われて言葉を失ったこと。
その全部が浮かんだ。
リュウジは、静かに願った。
帰る。
必ず帰る。
そして、帰ってきたら、またあの場所へ行く。
十四班で。
エリンと。
手を下ろした時、エリンが横を見た。
「お願いした?」
「はい」
「何を?」
リュウジは少しだけ目を伏せる。
「帰ることを」
エリンは少しだけ目を細めた。
「そっか」
「エリンさんは?」
エリンは一瞬だけ考えた。
それから、静かに言った。
「リュウジが帰ってくること」
リュウジは何も言えなかった。
エリンは少し笑う。
「同じだね」
「……はい」
「同じなら、強いかも」
「そうですね」
リュウジの声は少しだけ低かった。
エリンはそれを聞いて、何も言わずに授与所へ向かった。
◇
授与所には、いくつかのお守りが並んでいた。
航行安全。
旅行安全。
仕事守。
健康守。
帰還守。
火星エアポートらしく、宇宙航行者向けのお守りもあった。
小さな紺色の袋に、銀色の星と鳥居の模様が刺繍されている。
エリンはそれを見て、迷わず手に取った。
「これだね」
リュウジが横から見る。
「航行安全、ですか」
「うん」
エリンは少し考え、隣にあった帰還守も取った。
「これも」
「二つですか」
「二つ」
「多くないですか」
エリンはリュウジを見る。
「二か月行くんでしょ」
「はい」
「なら、二つ」
リュウジは返す言葉がなかった。
その理屈は、少し強引だ。
だが、エリンらしい。
エリンは授与所でお守りを受け取り、少し離れた場所でリュウジに向き直った。
「リュウジ」
「はい」
エリンは紺色のお守りを差し出した。
「これは航行安全」
リュウジは両手で受け取る。
「ありがとうございます」
次に、白地に銀糸の入った小さなお守りを差し出した。
「こっちは帰還守」
リュウジは、それを見て少しだけ手を止めた。
「帰還守……」
「うん」
「エリンさん」
「何?」
「受け取っていいんですか」
エリンは少し眉を寄せた。
「受け取ってくれないの?」
「いえ」
リュウジはすぐ首を横に振った。
「大切すぎる気がして」
エリンは少しだけ息を吐いた。
「大切だから渡すんだよ」
リュウジは黙った。
エリンは、お守りを持ったまま続ける。
「リュウジが行くって決めたなら、私はその選択を聞く。止める言葉は言わない。でも、何も渡さずに見送るのは嫌」
「はい」
「だから持っていて」
リュウジは、白い帰還守を両手で受け取った。
「ありがとうございます」
声が少しだけ震えていた。
エリンはそれに気づいたが、何も言わない。
「船に乗る時、どこかに入れておいて。無くさないで」
「はい」
「それと」
「はい」
エリンは少しだけ強い声で言った。
「これは、“無事に行ってきて”じゃなくて、“必ず帰ってきて”だから」
リュウジはエリンを見た。
エリンの目は真っ直ぐだった。
強い。
でも、その奥に不安がある。
不安を隠さず、それでも渡している。
リュウジは、お守りを胸元に抱くように持った。
「必ず帰ってきます」
エリンは少しだけ目を伏せる。
「約束?」
「はい」
「言ったからね」
「はい」
「守って」
リュウジは静かに頷いた。
「守ります」
エリンは少しだけ笑った。
それでも、その笑いはすぐに消えた。
彼女は、リュウジのマフラーを少し直した。
「寒くない?」
「大丈夫です」
「この前もそう言って、首元開いてた」
「今日は閉めています」
「うん。ちゃんとしてる」
リュウジは少し困ったように目を伏せる。
「子どもみたいですね」
「子ども扱いじゃないよ」
エリンはマフラーから手を離した。
「大事にしてるだけ」
その言葉に、リュウジは完全に黙った。
エリンも、言ってから少しだけ頬を赤くした。
「……今のは、忘れて」
リュウジは小さく首を横に振る。
「忘れません」
「忘れて」
「無理です」
「リュウジ」
「すみません」
エリンは困ったように笑った。
「本当に、そういうところ」
◇
神社を出る頃には、火星都市の灯りがさらに濃くなっていた。
年末の空気。
どこか急ぎ足の人々。
それでも、神社の周りだけは少し静かだった。
二人は連絡通路へ戻る。
帰る方向は、もう少しだけ同じ。
エリンは歩きながら言った。
「タツヤ班長には、明日話すんだよね」
「はい」
「十四班のみんなには?」
「タツヤ班長と相談してからにします」
「うん。その方がいいと思う」
「はい」
「でも、いずれ話すんだよ」
「分かっています」
エリンは横を見る。
「みんな、きっと驚くよ」
「はい」
「心配もする」
「はい」
「でも、怒らないと思う」
リュウジは少しだけ目を伏せた。
「そうでしょうか」
「うん。怒るとしたら、一人で決めたことに対してだと思う」
「……それは、言われるかもしれません」
「言われた方がいい」
リュウジは少しだけ困ったように笑った。
「はい」
エリンは続ける。
「ククルは泣きそうになるかもしれない」
「はい」
「エマは食べ物を持たせようとするかもしれない」
「ありそうです」
「カイエは、準備リストを作ると思う」
「はい」
「ミラとランは、たぶんすごく緊張する」
「そうですね」
「ガーネットは……」
エリンは少し考えた。
「静かに、必要なことを聞くと思う」
リュウジは頷いた。
「はい」
「タツヤ班長は、軽く言うけど、ちゃんと見てくれる」
「分かっています」
エリンは歩きながら、小さく息を吐いた。
「みんな、リュウジが帰ってくる場所になる」
リュウジはその言葉を聞いて、胸の中で何かが静かに沈んでいくのを感じた。
帰ってくる場所。
ソーラ・デッラ・ルーナだけではない。
十四班。
エリン。
タツヤ班長。
皆。
その全部が、帰ってくる場所になる。
リュウジは、胸元のお守りにそっと触れた。
航行安全。
帰還守。
神社で渡された二つのお守り。
エリンがくれた、帰るための印。
「エリンさん」
「何?」
「ありがとうございます」
「お守り?」
「それもあります」
「それも?」
リュウジは少しだけ足を止めた。
エリンも立ち止まる。
「俺が行くと決めたことを、聞いてくれて」
エリンは静かにリュウジを見る。
「うん」
「止めずにいてくれて」
「止めたかったよ」
その言葉に、リュウジは目を伏せた。
エリンは続ける。
「でも、止める理由が、私の不安だけだったから」
「はい」
「リュウジが無茶をするなら止めた。でも、ちゃんと考えていたから」
「はい」
「だから、聞くことにした」
リュウジは、深く頷いた。
「ありがとうございます」
エリンは少しだけ微笑んだ。
「でも、まだ全部納得したわけじゃないから」
「はい」
「行くまでに、何度も話すよ」
「はい」
「準備も聞く。航路も、支援体制も、通信も、帰還ポイントも」
リュウジは少し驚いたように見る。
エリンは当然のように言った。
「チーフパーサーだから」
「そうですね」
「それだけじゃないけど」
リュウジは何も言わなかった。
エリンも、それ以上は言わなかった。
二人は再び歩き出す。
分かれ道が近づいてくる。
エリンの帰る方向と、リュウジの帰る方向が分かれる場所。
いつもなら、軽く挨拶をして別れる場所だった。
だが、今日は少しだけ足が遅くなった。
「ここだね」
エリンが言った。
「はい」
二人は立ち止まった。
周囲には、帰宅する人々の足音が続いている。
だが、その中で二人だけが少し静かだった。
エリンはリュウジの胸元を見た。
「お守り、ちゃんと持ってる?」
リュウジは上着の内側を軽く押さえた。
「はい」
「なくさないで」
「はい」
「マフラーも」
「はい」
「帰ってきたら、返事」
リュウジは少し首を傾げる。
「返事、ですか」
「ただいまって言って」
リュウジは一瞬だけ黙った。
その言葉の重さを受け止める。
ただいま。
帰ってきた時に言う言葉。
エリンは、それを待つと言っている。
リュウジは静かに頷いた。
「分かりました」
「約束」
「約束します」
エリンは少しだけ安心したように笑った。
「じゃあ、今日はここまで」
「はい」
「気をつけて帰って」
「エリンさんも」
「うん」
二人は少しだけ見つめ合った。
言いたいことは、まだたくさんある。
不安もある。
寂しさもある。
怖さもある。
けれど、今はこれでいい。
リュウジは未探索領域へ行くことを決めた。
エリンは、それを聞いた。
そして、お守りを渡した。
帰ってくるために。
ただいまを聞くために。
「また明日」
エリンが言った。
「はい。また明日」
リュウジは静かに頭を下げ、別の通路へ歩き出した。
エリンは、その背中をしばらく見ていた。
マフラーの色が、火星エアポートの照明の中で静かに揺れている。
リュウジの背中は、いつも通りまっすぐだった。
けれど今日は、その内側にお守りがある。
エリンが渡した、帰還守がある。
それだけで、少しだけ心が落ち着いた。
完全に不安が消えたわけではない。
消えるはずもない。
でも、祈った。
渡した。
約束した。
なら、今は信じるしかない。
エリンは小さく息を吐き、反対側の通路へ歩き出した。
その胸の中には、まだ神社の鈴の音が残っていた。
リュウジが帰ってくるように。
必ず、帰ってくるように。
そしていつか、ソーラ・デッラ・ルーナの月の回廊を、また十四班で歩けるように。
エリンはそう願いながら、火星の夜へ帰っていった。