サヴァイヴ〜ドルトムント財閥〜   作:一塔

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神社

 

 

ソーラ・デッラ・ルーナを後にした十四班は、ロカA2から火星へ戻る便に乗った。

 

行きの時とは、空気が少し違っていた。

 

行きは、期待と緊張があった。

 

リュウジが当日まで目的地を明かさなかったこともあり、ミラとラン、ガーネットには戸惑いもあった。

 

だが、帰りの便の中には、その戸惑いはほとんど残っていなかった。

 

代わりにあったのは、静かな余韻だった。

 

三日月のような外観。

 

月の回廊。

 

キッズスペースと救護室の近さ。

 

休息区画の静けさ。

 

整備士が異常を言いやすいように作られた静音整備区画。

 

祈りの間。

 

そして、タツヤ班長が本気で喜んでいた統括席。

 

その一つ一つが、皆の中に残っている。

 

「……すごかったね」

 

ククルが、窓の外を見ながら小さく言った。

 

火星へ戻る船の窓には、遠くなっていくロカA2の光が映っている。

 

カイエが隣で頷いた。

 

「うん。図面で見た時とは全然違った」

 

「私、迷子導線を見た時、ちょっと泣きそうになった」

 

「分かる。ククルの言葉が、そのまま場所になってたね」

 

ククルは少し照れたように笑った。

 

「勢いで言っただけだったんだけどね」

 

「勢いって大事だと思うよ。現場の本音だから」

 

少し離れた席で、エマは静かに目を閉じていた。

 

眠っているようにも見える。

 

だが、ククルが小声で聞く。

 

「エマ、寝てる?」

 

エマは目を閉じたまま答えた。

 

「寝てない」

 

「考えてる?」

 

「休息室の椅子」

 

カイエが小さく笑った。

 

「そこなんだ」

 

「座りやすそうだった。深く沈みすぎない。すぐ立てる。でも、ちゃんと休める」

 

「エマらしいね」

 

「大事」

 

ククルは笑いながら頷いた。

 

「うん。今日見て、ほんとに大事だと思った」

 

反対側では、ミラとランが並んで座っていた。

 

ランはずっと窓の外を見ている。

 

ミラが声をかけた。

 

「ラン、疲れた?」

 

「少し。でも、嫌な疲れじゃない」

 

「うん」

 

「私、まだ十四班に来たばかりだけど、今日の見学で少し分かった気がする」

 

「何が?」

 

ランは少し考えた。

 

「十四班って、ただ仕事をする班じゃないんだね。誰かが困ったこととか、現場で嫌だったこととか、怖かったこととか、そういうものをちゃんと形にしようとするんだなって」

 

ミラは静かに頷いた。

 

「うん。私もそう思った」

 

「ミラは、前から知ってた?」

 

「全部は知らなかった。でも、エリンさんやリュウジさんを見ていると、そういう班なんだろうなとは思ってた」

 

ランは小さく笑った。

 

「私も、ちゃんと見ていきたい」

 

「一緒にね」

 

「うん」

 

その後ろの席では、ガーネットが一人で座っていた。

 

隣にはカイエがいたが、しばらく二人とも黙っていた。

 

ガーネットは、ソーラ・デッラ・ルーナの整備区画を思い出していた。

 

静音壁。

 

報告しやすい導線。

 

作業者が孤立しない距離。

 

言いやすさは設備。

 

その言葉が、胸の中に残っている。

 

ガーネットは静かに口を開いた。

 

「カイエ」

 

カイエが顔を向ける。

 

「何ですか」

 

「今日、整備区画を見られてよかったわ」

 

「整備区画ですか」

 

「ええ。私は、ああいう場所が必要だと思った」

 

カイエは少しだけ視線を落とした。

 

「言いやすい空気、ですか」

 

「そう。言えない空気は、人を壊すから」

 

その言葉には、少しだけ過去の重さがあった。

 

カイエはすぐには返さなかった。

 

以前なら、ガーネットの過去にまつわる言葉へ、少し刺さるような返事をしたかもしれない。

 

だが、今は違った。

 

ソーラ・デッラ・ルーナを見た後だった。

 

あの場所には、言えないことを言えるようにするための考えがあった。

 

それを見た今、簡単に否定する気にはなれなかった。

 

「私も、あそこはいい場所だと思いました」

 

カイエは静かに言った。

 

ガーネットはカイエを見る。

 

「そう」

 

「はい」

 

短いやり取りだった。

 

けれど、それだけで十分な時もある。

 

ガーネットは少しだけ目を伏せた。

 

 

タツヤ班長は、通路側の席で腕を組んでいた。

 

一見すると眠っているようにも見える。

 

だが、目は閉じていない。

 

リュウジはその少し前の席に座っていた。

 

エリンはリュウジの隣だ。

 

行きの時と同じように、二人は並んでいる。

 

けれど、行きの時よりも沈黙は穏やかだった。

 

エリンは窓の外を見ていた。

 

リュウジは手元を見ていた。

 

指先が、上着の襟元に巻いたマフラーに軽く触れている。

 

エリンがそれに気づく。

 

「気に入った?」

 

リュウジは少し驚いたように顔を上げた。

 

「はい」

 

「よかった」

 

「温かいです」

 

「そういう感想なんだ」

 

エリンが少し笑う。

 

リュウジは真面目に答えた。

 

「実用的です」

 

「そこは大事だけど」

 

「でも」

 

リュウジは少しだけ目を伏せた。

 

「エリンさんが選んでくれたものなので、嬉しいです」

 

エリンは一瞬、言葉を止めた。

 

そして、少しだけ頬を赤くして窓の外を見る。

 

「……そういうことを、普通に言うよね」

 

「すみません」

 

「謝るところじゃないって、何度も言ってるでしょ」

 

「はい」

 

エリンは小さく息を吐いた。

 

だが、その表情は柔らかかった。

 

タツヤ班長が少し離れたところから、目だけを向ける。

 

何か言いたそうだったが、今回は黙っていた。

 

エリンが振り返れば、きっと気づいただろう。

 

だが、今は気づかないふりをしていた。

 

リュウジは、窓の外に視線を移した。

 

火星へ戻る航路。

 

遠くの星。

 

ロカA2の光。

 

ソーラ・デッラ・ルーナの三日月の弧は、もう肉眼では見えない。

 

けれど、リュウジの中にははっきり残っていた。

 

月の回廊。

 

祈りの間。

 

休息区画。

 

整備区画。

 

統括席。

 

そして、十四班がその中で笑っていた光景。

 

リュウジは静かに息を吸った。

 

答えは、もう出ていた。

 

ソーラ・デッラ・ルーナを見たことで、迷いが消えたわけではない。

 

未探索領域が危険でなくなったわけでもない。

 

二か月という時間が短くなったわけでもない。

 

だが、自分が何を見て、何に帰るのかは分かった。

 

帰る場所を軽く見ない。

 

待つ人を軽く見ない。

 

だからこそ、行くなら帰る前提で行く。

 

自分を道具のように扱わない。

 

誰かのためだけではなく、自分で選んで行く。

 

その答えに、ようやくたどり着いた気がした。

 

リュウジは、隣のエリンを見た。

 

「エリンさん」

 

「何?」

 

エリンが顔を向ける。

 

リュウジはすぐには言わなかった。

 

船内には、十四班の皆がいる。

 

タツヤ班長もいる。

 

今この場で全てを話すべきではない。

 

だが、エリンには、最初に伝えたいと思った。

 

「火星に着いたら、少しだけ時間をもらえますか」

 

エリンの表情が少しだけ変わった。

 

「うん」

 

すぐに分かった。

 

リュウジが何を話そうとしているのか。

 

未探索領域のことだ。

 

北の未探索領域。

 

二月から四月。

 

およそ二か月。

 

リュウジが、ずっと考えていたこと。

 

エリンは短く答えた。

 

「分かった。着いたら、少し歩こう」

 

「はい」

 

それ以上は何も言わなかった。

 

だが、その沈黙は、もう逃げるための沈黙ではなかった。

 

話す前の沈黙だった。

 

 

火星のエアポートに到着したのは、夕方に近い時間だった。

 

年末のエアポートは、朝とはまた違う慌ただしさを見せていた。

 

帰宅する人々。

 

乗継へ急ぐ人々。

 

到着ロビーで誰かを待つ家族。

 

荷物を抱えて眠そうに歩く子ども。

 

その光景を見て、ククルが小さく言った。

 

「ソーラ・デッラ・ルーナも、いつかこうなるんですね」

 

リュウジは頷いた。

 

「うん」

 

エマが続ける。

 

「人が入って、港になる」

 

「はい」

 

リュウジはエマには通常口調で返そうとして、少しだけ間が空いた。

 

「うん。そうなる」

 

エマはそれに気づいたが、何も言わなかった。

 

カイエはタツヤ班長へ向き直る。

 

「班長、今日はありがとうございました」

 

「俺はついて行っただけだよ」

 

「それでもです」

 

ククルも続ける。

 

「見学できてよかったです」

 

タツヤ班長は笑う。

 

「よかったね。正式運用後も、みんなで行こうか」

 

エマがすぐに言う。

 

「休息室の運用確認をします」

 

「エマはそこだねぇ」

 

「重要です」

 

ミラも丁寧に頭を下げた。

 

「タツヤ班長、ありがとうございました」

 

ランも続ける。

 

「ありがとうございました。すごく勉強になりました」

 

「うん。二人とも、いい刺激になったならよかった」

 

ガーネットも静かに言った。

 

「タツヤ班長、今日はありがとうございました」

 

「うん。ガーネットも来られてよかったよ」

 

ガーネットは少しだけ目を伏せた。

 

「はい」

 

そこで、自然と解散の流れになった。

 

ククル、エマ、カイエは同じ方面へ向かう。

 

ミラとランも途中まで同じらしい。

 

ガーネットは少し別の乗継口へ向かう。

 

タツヤ班長は、少し用事があると言って管理側通路へ向かうことになった。

 

「リュウジ、エリン」

 

タツヤ班長が二人に声をかける。

 

エリンは振り返る。

 

「はい、班長」

 

リュウジも姿勢を正す。

 

「はい」

 

タツヤ班長は、二人を見比べた。

 

「気をつけて帰れよ」

 

エリンは一瞬だけ、何かを察した。

 

タツヤ班長の言葉は普通だった。

 

だが、その目は少し違う。

 

リュウジが火星に着いたら話したいと言ったことを、きっと何となく分かっている。

 

エリンは静かに頷いた。

 

「はい」

 

リュウジも答える。

 

「はい」

 

タツヤ班長は軽く手を振った。

 

「じゃあ、また明日」

 

ククルが明るく言う。

 

「また明日です!」

 

エマも頷く。

 

「また明日」

 

カイエがエリンとリュウジに向き直る。

 

「エリンさん、リュウジさん、お疲れ様でした」

 

エリンは笑う。

 

「お疲れ。今日はありがとう」

 

リュウジも頷く。

 

「お疲れ」

 

ククルが少しだけエリンを見る。

 

「エリンさん、リュウジさんと帰る方向同じですよね?」

 

エリンは少し目を瞬かせた。

 

「うん。途中まで同じ」

 

「じゃあ、気をつけて帰ってくださいね」

 

エマが静かに言う。

 

「寄り道しても大丈夫な時間です」

 

カイエが横を見る。

 

「エマ、それはどういう意味?」

 

「特に意味はない」

 

「あるように聞こえる」

 

「気のせい」

 

ククルは笑いをこらえている。

 

エリンは少しだけ頬を赤くした。

 

「みんな、今日は本当に自由だね」

 

ククルが笑う。

 

「ソーラ・デッラ・ルーナを見た後なので」

 

「それ、何の理由にもなってないよ」

 

リュウジは静かに目を伏せていたが、少しだけ口元が緩んでいた。

 

ミラとランも近づいてきた。

 

ミラは丁寧に頭を下げる。

 

「エリンさん、リュウジさん、お疲れ様でした」

 

ランも続けた。

 

「お疲れ様でした。今日はありがとうございました」

 

エリンは二人に笑いかける。

 

「お疲れ。二人とも、今日はちゃんと見てくれてありがとう」

 

リュウジも頷く。

 

「また感想を聞かせてくれ」

 

ミラは少し嬉しそうに言う。

 

「はい」

 

ランも明るく答える。

 

「はい!」

 

すぐにミラが袖を軽く引く。

 

「ラン、声」

 

「あ、ごめん。でも、ちゃんと話します」

 

リュウジは小さく頷いた。

 

ガーネットは最後に、リュウジとエリンの前へ来た。

 

「エリンさん、リュウジさん。今日はありがとうございました」

 

エリンは穏やかに言う。

 

「こちらこそ。ガーネットも来てくれてよかった」

 

ガーネットは少しだけ目を伏せる。

 

「私も、行けてよかったです」

 

リュウジが言う。

 

「また正式運用後に行こう」

 

「はい。ぜひ」

 

ガーネットは丁寧に頭を下げ、乗継口へ向かって歩いていった。

 

少しずつ、十四班の面々がエアポートの人混みに溶けていく。

 

ククルが手を振る。

 

エマが控えめに頷く。

 

カイエが最後にもう一度だけ振り返る。

 

ミラとランは並んで歩いていく。

 

タツヤ班長は、管理側通路へ消えていった。

 

やがて、エリンとリュウジだけが残った。

 

 

「行こうか」

 

エリンが言った。

 

リュウジは頷く。

 

「はい」

 

二人は火星エアポートの到着ロビーを並んで歩き出した。

 

帰る方向は途中まで同じだった。

 

エアポートの大きな窓からは、夕方の火星都市の灯りが見えている。

 

赤い大地の上に広がる人工都市。

 

空は薄暗く、外縁の照明が静かに光っている。

 

年末の空気が、どこか地球の年の瀬にも似ていた。

 

人の流れは多い。

 

けれど、二人の歩調はゆっくりだった。

 

しばらく、何も話さなかった。

 

エリンは急かさない。

 

リュウジも、言葉を探していた。

 

やがて、到着ロビーから少し離れた連絡通路に入ったところで、リュウジが口を開いた。

 

「エリンさん」

 

「うん」

 

「決めました」

 

エリンは足を止めなかった。

 

ただ、少しだけ目を伏せた。

 

「未探索領域の調査?」

 

「はい」

 

リュウジの声は静かだった。

 

「行くことにしました」

 

エリンは数歩進んでから、ゆっくり立ち止まった。

 

リュウジも止まる。

 

人の流れから少し外れた場所。

 

窓際の通路。

 

外には、火星都市の灯り。

 

エリンは、リュウジを見た。

 

「そっか」

 

その声は、驚いていなかった。

 

予想していたから。

 

けれど、軽くもなかった。

 

「行くんだね」

 

「はい」

 

「理由、聞いてもいい?」

 

リュウジは頷いた。

 

「はい」

 

エリンは壁際に寄った。

 

リュウジも横に立つ。

 

二人の間に、火星エアポートの喧騒が少しだけ遠くなった。

 

リュウジは窓の外を見る。

 

「ソーラ・デッラ・ルーナを見て、決めました」

 

エリンは黙って聞く。

 

「俺は、帰る場所を作りました。でも、作っただけでは終わりません。これから使われる場所になります。人が戻ってきて、休んで、また飛んでいく場所になります」

 

「うん」

 

「未探索領域の調査も、たぶん同じです」

 

リュウジは少し言葉を探した。

 

「今は危険な場所です。航路も、救助網も、通信も、不安定です。でも、誰かが見に行かなければ、ずっと危険なままです」

 

エリンは目を伏せた。

 

その理屈は分かる。

 

分かってしまう。

 

リュウジが行く意味も、分かる。

 

だからこそ、胸が痛かった。

 

「俺が行けば、成功するとは思っていません」

 

リュウジは続ける。

 

「でも、俺が行けば、少しでも安全に調査できる可能性があります。揺れを殺せる。異常を拾える。通信が遅れても、船を落ち着かせられる」

 

「うん」

 

「それは、自分を道具みたいに考えているわけではありません」

 

リュウジはエリンを見た。

 

「エリンさんに言われたこと、考えました」

 

エリンの目が少し動く。

 

「自分で選ぶこと」

 

「はい」

 

「帰ってくる前提で考えること」

 

「はい」

 

「一人で抱えないこと」

 

「はい」

 

リュウジは真っ直ぐに答えた。

 

「だから、行くことにしました」

 

エリンは、すぐには何も言わなかった。

 

行かないで。

 

その言葉は、喉元まで出かけた。

 

二か月。

 

北の未探索領域。

 

危険。

 

通信不安定。

 

救助不安定。

 

何が起こるか分からない場所。

 

リュウジがそこへ行く。

 

胸が痛くならないはずがない。

 

それでも、エリンは分かっていた。

 

今のリュウジは、自分を軽く扱っているわけではない。

 

誰かのために無理をして行くのでもない。

 

考えて、帰る場所を見て、それでも自分で選んだ。

 

なら、止める言葉は違う。

 

エリンは小さく息を吸った。

 

「リュウジ」

 

「はい」

 

「怖い?」

 

リュウジは一瞬だけ黙った。

 

それから、正直に答えた。

 

「怖いです」

 

エリンは頷いた。

 

「うん」

 

「でも、怖いと思えるなら、無茶はしないと思います」

 

「それ、前に私が言ったことだね」

 

「はい」

 

エリンは少しだけ笑った。

 

でも、その笑いは少し震えていた。

 

「覚えてるんだ」

 

「はい」

 

「じゃあ、ちゃんと怖がって」

 

リュウジは少し驚いたように見る。

 

エリンは続けた。

 

「怖いと思っていい。危ないと思っていい。帰りたいと思っていい。何かあったら、助けを求めていい」

 

「はい」

 

「一人で全部判断しないで。通信が繋がるなら、繋いで。繋がらないなら、繋がった時にちゃんと話して」

 

「はい」

 

「帰ってきたら、最初に顔を見せて」

 

リュウジは目を伏せた。

 

「はい」

 

エリンはその返事を聞いて、少しだけ肩の力を抜いた。

 

それでも、胸の奥は苦しい。

 

二か月。

 

二月から四月。

 

その時間の長さが、今になって現実になってきた。

 

「タツヤ班長には?」

 

「まだ正式には言っていません。明日、伝えます」

 

「そう」

 

「最初に、エリンさんに伝えたかったので」

 

エリンは少しだけ目を見開いた。

 

リュウジは続ける。

 

「一人で決めた結論だけを持ってくるなと、言われたので」

 

「うん」

 

「本当は、決める前にももっと話すべきでした」

 

「リュウジは話してたよ」

 

「そうですか」

 

「うん。前よりは」

 

エリンは少しだけ微笑んだ。

 

「まだ足りないところはあるけど」

 

「すみません」

 

「だから謝るところじゃない」

 

リュウジは少しだけ困ったように目を伏せた。

 

エリンはそんなリュウジを見て、胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じた。

 

行くと決めた。

 

危険な場所へ。

 

それでも、この人は変わらない。

 

真面目で、不器用で、すぐ謝って、けれど大事なことはちゃんと考える。

 

だから、見送る側も覚悟がいる。

 

エリンは少しだけ顔を上げた。

 

「リュウジ」

 

「はい」

 

「じゃあ、寄り道しよう」

 

リュウジは目を瞬かせた。

 

「寄り道、ですか」

 

「うん」

 

「どこへ?」

 

「神社」

 

リュウジは少し戸惑った。

 

「神社、ですか」

 

「火星エアポートの近くに、小さいけどあるの。知ってる?」

 

「知りませんでした」

 

「じゃあ、行こう」

 

リュウジは少しだけ考えた。

 

「今からですか」

 

「今から」

 

「時間は」

 

「少しならあるでしょ」

 

「はい」

 

「じゃあ決まり」

 

エリンはそう言って、歩き出した。

 

リュウジは少し遅れて隣に並ぶ。

 

「エリンさん」

 

「何?」

 

「なぜ神社に?」

 

エリンは前を見たまま答えた。

 

「お参りするため」

 

「それは分かります」

 

「お守りも買う」

 

リュウジは少しだけ黙った。

 

「俺に、ですか」

 

「うん」

 

エリンは淡々と言った。

 

「未探索領域に行くんでしょ。なら、いる」

 

リュウジは何かを言おうとした。

 

けれど、エリンの横顔を見て、言葉を飲み込んだ。

 

これは、理屈ではない。

 

危険を減らす技術でもない。

 

航路計算でもない。

 

だが、エリンにとって必要なことなのだ。

 

リュウジは静かに頷いた。

 

「分かりました」

 

エリンは少しだけ笑う。

 

「素直」

 

「はい」

 

「こういう時は素直なんだね」

 

「必要だと思いました」

 

「うん。必要」

 

二人はエアポートの連絡通路を抜け、外縁側の小さな区画へ向かった。

 

 

火星エアポート近くの神社は、大きくはなかった。

 

人工都市の一角。

 

高層施設と連絡デッキの間に作られた、小さな静かな場所。

 

赤い鳥居が、火星の夕暮れに淡く浮かんでいる。

 

本物の木ではない。

 

火星環境に合わせた特殊素材で作られた鳥居。

 

それでも、形は地球の神社と同じだった。

 

小さな石畳。

 

手水舎。

 

鈴。

 

賽銭箱。

 

お守りを扱う小さな授与所。

 

年末が近いせいか、数人の参拝者がいた。

 

乗務員らしい人。

 

整備士らしい人。

 

家族連れ。

 

出発前に手を合わせる者もいれば、帰ってきてから頭を下げる者もいる。

 

リュウジはその光景を見て、少しだけ立ち止まった。

 

「こんな場所があったんですね」

 

エリンは頷く。

 

「うん。小さいけど、けっこう来る人いるよ」

 

「飛ぶ前に、ですか」

 

「飛ぶ前も、帰った後も」

 

リュウジは神社を見つめた。

 

祈りの間を思い出した。

 

ソーラ・デッラ・ルーナに作った、小さな静かな場所。

 

誰かが言葉にできないものを置いていく場所。

 

ここも同じだ。

 

科学で飛び、技術で航路を作り、管制で安全を守る。

 

それでも、人は手を合わせる。

 

それは矛盾ではないのだと、リュウジは思った。

 

エリンは手水舎へ向かった。

 

「リュウジ、こっち」

 

「はい」

 

二人は手を清め、参道を歩いた。

 

並んで歩く距離は近すぎず、遠すぎない。

 

エリンが鈴の前で立ち止まる。

 

リュウジも隣に立った。

 

「お参り、分かる?」

 

「はい。たぶん」

 

「たぶん?」

 

「作法は覚えています」

 

「じゃあ大丈夫」

 

二人は賽銭を入れ、鈴を鳴らした。

 

小さな音が、火星の人工都市の中に静かに響く。

 

二礼。

 

二拍手。

 

そして、手を合わせる。

 

エリンは目を閉じた。

 

願うことは、決まっていた。

 

リュウジが無事に帰ってくること。

 

未探索領域の調査が無事に終わること。

 

でも、それだけではない。

 

リュウジが、自分を軽く扱わないこと。

 

怖い時に怖いと言えること。

 

帰りたい時に、帰る選択をできること。

 

そして、帰ってきた時に、ちゃんと笑えること。

 

エリンは、それを言葉にせず祈った。

 

隣で、リュウジも手を合わせている。

 

リュウジは、何を願えばいいのか少し迷った。

 

成功。

 

安全。

 

帰還。

 

それらは当然だ。

 

だが、手を合わせた瞬間、最初に浮かんだのはソーラ・デッラ・ルーナだった。

 

月の回廊にいた十四班。

 

エリンの横顔。

 

タツヤ班長の統括席での笑顔。

 

ククルが迷子導線を見て笑ったこと。

 

エマが休息室で頷いたこと。

 

カイエが働く側を守る場所だと言ったこと。

 

ミラとランが、これから見ていきたいと言ったこと。

 

ガーネットが、十四班だからと言われて言葉を失ったこと。

 

その全部が浮かんだ。

 

リュウジは、静かに願った。

 

帰る。

 

必ず帰る。

 

そして、帰ってきたら、またあの場所へ行く。

 

十四班で。

 

エリンと。

 

手を下ろした時、エリンが横を見た。

 

「お願いした?」

 

「はい」

 

「何を?」

 

リュウジは少しだけ目を伏せる。

 

「帰ることを」

 

エリンは少しだけ目を細めた。

 

「そっか」

 

「エリンさんは?」

 

エリンは一瞬だけ考えた。

 

それから、静かに言った。

 

「リュウジが帰ってくること」

 

リュウジは何も言えなかった。

 

エリンは少し笑う。

 

「同じだね」

 

「……はい」

 

「同じなら、強いかも」

 

「そうですね」

 

リュウジの声は少しだけ低かった。

 

エリンはそれを聞いて、何も言わずに授与所へ向かった。

 

 

授与所には、いくつかのお守りが並んでいた。

 

航行安全。

 

旅行安全。

 

仕事守。

 

健康守。

 

帰還守。

 

火星エアポートらしく、宇宙航行者向けのお守りもあった。

 

小さな紺色の袋に、銀色の星と鳥居の模様が刺繍されている。

 

エリンはそれを見て、迷わず手に取った。

 

「これだね」

 

リュウジが横から見る。

 

「航行安全、ですか」

 

「うん」

 

エリンは少し考え、隣にあった帰還守も取った。

 

「これも」

 

「二つですか」

 

「二つ」

 

「多くないですか」

 

エリンはリュウジを見る。

 

「二か月行くんでしょ」

 

「はい」

 

「なら、二つ」

 

リュウジは返す言葉がなかった。

 

その理屈は、少し強引だ。

 

だが、エリンらしい。

 

エリンは授与所でお守りを受け取り、少し離れた場所でリュウジに向き直った。

 

「リュウジ」

 

「はい」

 

エリンは紺色のお守りを差し出した。

 

「これは航行安全」

 

リュウジは両手で受け取る。

 

「ありがとうございます」

 

次に、白地に銀糸の入った小さなお守りを差し出した。

 

「こっちは帰還守」

 

リュウジは、それを見て少しだけ手を止めた。

 

「帰還守……」

 

「うん」

 

「エリンさん」

 

「何?」

 

「受け取っていいんですか」

 

エリンは少し眉を寄せた。

 

「受け取ってくれないの?」

 

「いえ」

 

リュウジはすぐ首を横に振った。

 

「大切すぎる気がして」

 

エリンは少しだけ息を吐いた。

 

「大切だから渡すんだよ」

 

リュウジは黙った。

 

エリンは、お守りを持ったまま続ける。

 

「リュウジが行くって決めたなら、私はその選択を聞く。止める言葉は言わない。でも、何も渡さずに見送るのは嫌」

 

「はい」

 

「だから持っていて」

 

リュウジは、白い帰還守を両手で受け取った。

 

「ありがとうございます」

 

声が少しだけ震えていた。

 

エリンはそれに気づいたが、何も言わない。

 

「船に乗る時、どこかに入れておいて。無くさないで」

 

「はい」

 

「それと」

 

「はい」

 

エリンは少しだけ強い声で言った。

 

「これは、“無事に行ってきて”じゃなくて、“必ず帰ってきて”だから」

 

リュウジはエリンを見た。

 

エリンの目は真っ直ぐだった。

 

強い。

 

でも、その奥に不安がある。

 

不安を隠さず、それでも渡している。

 

リュウジは、お守りを胸元に抱くように持った。

 

「必ず帰ってきます」

 

エリンは少しだけ目を伏せる。

 

「約束?」

 

「はい」

 

「言ったからね」

 

「はい」

 

「守って」

 

リュウジは静かに頷いた。

 

「守ります」

 

エリンは少しだけ笑った。

 

それでも、その笑いはすぐに消えた。

 

彼女は、リュウジのマフラーを少し直した。

 

「寒くない?」

 

「大丈夫です」

 

「この前もそう言って、首元開いてた」

 

「今日は閉めています」

 

「うん。ちゃんとしてる」

 

リュウジは少し困ったように目を伏せる。

 

「子どもみたいですね」

 

「子ども扱いじゃないよ」

 

エリンはマフラーから手を離した。

 

「大事にしてるだけ」

 

その言葉に、リュウジは完全に黙った。

 

エリンも、言ってから少しだけ頬を赤くした。

 

「……今のは、忘れて」

 

リュウジは小さく首を横に振る。

 

「忘れません」

 

「忘れて」

 

「無理です」

 

「リュウジ」

 

「すみません」

 

エリンは困ったように笑った。

 

「本当に、そういうところ」

 

 

神社を出る頃には、火星都市の灯りがさらに濃くなっていた。

 

年末の空気。

 

どこか急ぎ足の人々。

 

それでも、神社の周りだけは少し静かだった。

 

二人は連絡通路へ戻る。

 

帰る方向は、もう少しだけ同じ。

 

エリンは歩きながら言った。

 

「タツヤ班長には、明日話すんだよね」

 

「はい」

 

「十四班のみんなには?」

 

「タツヤ班長と相談してからにします」

 

「うん。その方がいいと思う」

 

「はい」

 

「でも、いずれ話すんだよ」

 

「分かっています」

 

エリンは横を見る。

 

「みんな、きっと驚くよ」

 

「はい」

 

「心配もする」

 

「はい」

 

「でも、怒らないと思う」

 

リュウジは少しだけ目を伏せた。

 

「そうでしょうか」

 

「うん。怒るとしたら、一人で決めたことに対してだと思う」

 

「……それは、言われるかもしれません」

 

「言われた方がいい」

 

リュウジは少しだけ困ったように笑った。

 

「はい」

 

エリンは続ける。

 

「ククルは泣きそうになるかもしれない」

 

「はい」

 

「エマは食べ物を持たせようとするかもしれない」

 

「ありそうです」

 

「カイエは、準備リストを作ると思う」

 

「はい」

 

「ミラとランは、たぶんすごく緊張する」

 

「そうですね」

 

「ガーネットは……」

 

エリンは少し考えた。

 

「静かに、必要なことを聞くと思う」

 

リュウジは頷いた。

 

「はい」

 

「タツヤ班長は、軽く言うけど、ちゃんと見てくれる」

 

「分かっています」

 

エリンは歩きながら、小さく息を吐いた。

 

「みんな、リュウジが帰ってくる場所になる」

 

リュウジはその言葉を聞いて、胸の中で何かが静かに沈んでいくのを感じた。

 

帰ってくる場所。

 

ソーラ・デッラ・ルーナだけではない。

 

十四班。

 

エリン。

 

タツヤ班長。

 

皆。

 

その全部が、帰ってくる場所になる。

 

リュウジは、胸元のお守りにそっと触れた。

 

航行安全。

 

帰還守。

 

神社で渡された二つのお守り。

 

エリンがくれた、帰るための印。

 

「エリンさん」

 

「何?」

 

「ありがとうございます」

 

「お守り?」

 

「それもあります」

 

「それも?」

 

リュウジは少しだけ足を止めた。

 

エリンも立ち止まる。

 

「俺が行くと決めたことを、聞いてくれて」

 

エリンは静かにリュウジを見る。

 

「うん」

 

「止めずにいてくれて」

 

「止めたかったよ」

 

その言葉に、リュウジは目を伏せた。

 

エリンは続ける。

 

「でも、止める理由が、私の不安だけだったから」

 

「はい」

 

「リュウジが無茶をするなら止めた。でも、ちゃんと考えていたから」

 

「はい」

 

「だから、聞くことにした」

 

リュウジは、深く頷いた。

 

「ありがとうございます」

 

エリンは少しだけ微笑んだ。

 

「でも、まだ全部納得したわけじゃないから」

 

「はい」

 

「行くまでに、何度も話すよ」

 

「はい」

 

「準備も聞く。航路も、支援体制も、通信も、帰還ポイントも」

 

リュウジは少し驚いたように見る。

 

エリンは当然のように言った。

 

「チーフパーサーだから」

 

「そうですね」

 

「それだけじゃないけど」

 

リュウジは何も言わなかった。

 

エリンも、それ以上は言わなかった。

 

二人は再び歩き出す。

 

分かれ道が近づいてくる。

 

エリンの帰る方向と、リュウジの帰る方向が分かれる場所。

 

いつもなら、軽く挨拶をして別れる場所だった。

 

だが、今日は少しだけ足が遅くなった。

 

「ここだね」

 

エリンが言った。

 

「はい」

 

二人は立ち止まった。

 

周囲には、帰宅する人々の足音が続いている。

 

だが、その中で二人だけが少し静かだった。

 

エリンはリュウジの胸元を見た。

 

「お守り、ちゃんと持ってる?」

 

リュウジは上着の内側を軽く押さえた。

 

「はい」

 

「なくさないで」

 

「はい」

 

「マフラーも」

 

「はい」

 

「帰ってきたら、返事」

 

リュウジは少し首を傾げる。

 

「返事、ですか」

 

「ただいまって言って」

 

リュウジは一瞬だけ黙った。

 

その言葉の重さを受け止める。

 

ただいま。

 

帰ってきた時に言う言葉。

 

エリンは、それを待つと言っている。

 

リュウジは静かに頷いた。

 

「分かりました」

 

「約束」

 

「約束します」

 

エリンは少しだけ安心したように笑った。

 

「じゃあ、今日はここまで」

 

「はい」

 

「気をつけて帰って」

 

「エリンさんも」

 

「うん」

 

二人は少しだけ見つめ合った。

 

言いたいことは、まだたくさんある。

 

不安もある。

 

寂しさもある。

 

怖さもある。

 

けれど、今はこれでいい。

 

リュウジは未探索領域へ行くことを決めた。

 

エリンは、それを聞いた。

 

そして、お守りを渡した。

 

帰ってくるために。

 

ただいまを聞くために。

 

「また明日」

 

エリンが言った。

 

「はい。また明日」

 

リュウジは静かに頭を下げ、別の通路へ歩き出した。

 

エリンは、その背中をしばらく見ていた。

 

マフラーの色が、火星エアポートの照明の中で静かに揺れている。

 

リュウジの背中は、いつも通りまっすぐだった。

 

けれど今日は、その内側にお守りがある。

 

エリンが渡した、帰還守がある。

 

それだけで、少しだけ心が落ち着いた。

 

完全に不安が消えたわけではない。

 

消えるはずもない。

 

でも、祈った。

 

渡した。

 

約束した。

 

なら、今は信じるしかない。

 

エリンは小さく息を吐き、反対側の通路へ歩き出した。

 

その胸の中には、まだ神社の鈴の音が残っていた。

 

リュウジが帰ってくるように。

 

必ず、帰ってくるように。

 

そしていつか、ソーラ・デッラ・ルーナの月の回廊を、また十四班で歩けるように。

 

エリンはそう願いながら、火星の夜へ帰っていった。

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