お正月。
宇宙管理局本部は、いつもより少しだけ静かだった。
完全に止まるわけではない。
宇宙船は飛び、管制は動き、救助要請もゼロにはならない。
それでも、年始の数日だけは、各部署の動きが少し緩む。
必要最低限の当直と緊急対応班を残し、通常業務は小休止。
オペレーションルームの本格訓練も、年始明けまでは一度止めることになっていた。
ペルシアにとっては、久しぶりに予定の少ない日だった。
「……静かね」
統括官室で、ペルシアは椅子の背にもたれた。
机の上は片付いている。
いつもならフレイの端末音がする。
イーナが資料を整理する音がする。
ナミが表現の危険を見つけて眉を動かし、マリが背景音の記録を確認する。
リリアが警察連携資料を持ち込み、シャオメイが通信経路の確認で顔を出す。
ジェームズが「面倒だ」と言いながら整備ログを置いていく。
その全部が、今日はない。
フレイは実家へ戻った。
出発前、彼女はペルシアに向かって、いつもの無表情で言った。
「統括官、休暇中に不要な業務を増やさないでください」
「信用ないわね」
「ありません」
「即答?」
「前例があります」
「何の?」
「多すぎて一つに絞れません」
そう言って、フレイは端末に緊急連絡条件だけ残して帰っていった。
イーナも実家へ戻った。
「ペルシア統括官も、ちゃんと休んでくださいね」
そう言って、丁寧に頭を下げた。
ナミとマリも、それぞれ実家へ戻った。
ナミは最後まで休暇中の通信切断時対応資料を気にしていたが、フレイに「休暇中は業務資料を開かないこと」と言われ、渋々端末を閉じた。
マリは、帰省時の航路遅延率を少し気にしていた。
「マリ、休むって分かる?」
ナミが言うと、マリは真顔で答えた。
「分かる。でも遅延率は気になる」
「分かってない」
そんなやり取りをしながら、二人は帰っていった。
リリアは、父親である宇宙警察本部長グレイと旅行へ出かけた。
休暇届には、行き先の詳細までは書かれていなかった。
ただ、リリアは少し照れたように言っていた。
「父と二人で出かけるのは久しぶりなので」
ペルシアはそれを聞いて、素直に笑った。
「楽しんできなさい。警察連携資料は忘れて」
「はい。努力します」
「努力じゃなくて実行」
「フレイさんみたいですね」
「嫌なところが移ったわ」
シャオメイはケレス管制へ戻った。
彼女はまだ宇宙管理局の正式メンバーではない。
通信技師としての所属は、あくまでケレス管制。
オペレーションルームには試験協力として関わっている段階だ。
だから年始の小休止中は、本来の職場へ戻る。
「ペルシア統括官、年明けの通信経路判断訓練、資料を更新しておきます」
「休みなさい」
「ケレス管制に戻るだけです。休みではありません」
「それはそれで問題ね」
「通信卓が空くと不安なので」
「あなたも大概よ」
シャオメイは少しだけ笑い、ケレス管制へ戻っていった。
ジェームズは、予定があると言った。
それだけだった。
「予定って何?」
ペルシアが聞くと、ジェームズは目を逸らした。
「予定だ」
「だから何の?」
「言う必要はない」
「怪しい」
「怪しくない」
「新年の予定を隠す男、ジェームズ」
「勝手に題名をつけるな」
「実家?」
「違う」
「整備場?」
「……」
「当たり?」
「うるさい」
結局、詳しくは言わなかった。
ただ、ジェームズは年始の間だけ本部へは来ないと告げた。
正式メンバーになったばかりとはいえ、彼にも彼の時間がある。
ペルシアはそれ以上は聞かなかった。
聞かなかったが、気にはなった。
そして、ペルシアだけが残った。
いや、正確には当直職員もいる。
緊急対応班もいる。
けれど、ペルシアが普段顔を合わせている面々は、皆それぞれの場所へ散っていた。
「……さて」
ペルシアは端末を開いた。
最初に思いついたのは、スペースホープだった。
十四班。
エリン。
リュウジ。
ククル、エマ、カイエ。
ミラ、ラン、ガーネット。
あの場所なら、誰かいるかもしれない。
そう思って連絡を入れてみた。
だが、返ってきた答えは、予想以上に忙しそうだった。
年始便。
家族連れ。
帰省客。
急な乗り継ぎ。
年始特別便の応援。
誰かは勤務。
誰かは実家。
誰かは休暇中。
誰かは別便の対応。
画面越しのエリンは、少し申し訳なさそうに笑った。
『ごめん、ペルシア。今日は本当に動けない』
「いいわよ。分かってる」
『こっちが落ち着いたら、改めて顔出して』
「ええ。無理しないで」
『あなたもね。宇宙管理局で仕事を増やさないように』
「みんなそれ言うのね」
『普段の行い』
「ひどい」
エリンは笑った。
その後ろでは、慌ただしく乗務員達が動いている気配があった。
ペルシアは、それ以上邪魔をしなかった。
スペースホープは、年始でも動いている。
むしろ年始だからこそ、忙しい。
ペルシアは端末を閉じた。
「……本当に、皆んな忙しいわね」
統括官室に、声だけが残った。
静かだった。
静かすぎた。
仕事をすればいい。
そう思った。
だが、フレイに釘を刺されている。
休暇中に不要な業務を増やすな。
イーナにも言われた。
ちゃんと休んでください。
クリスタルにも言われたことがある。
ペルシアは、休むのが下手だと。
「……仕方ない」
ペルシアは椅子から立ち上がった。
「暇なら、暇な人のところに行けばいいのよ」
そう言って、端末を開く。
連絡先を選ぶ。
フォックス。
数秒後、画面が開いた。
『ペルシア?』
落ち着いたフォックスの顔が映る。
「明けましておめでとう」
『明けましておめでとう。どうした?』
「暇」
フォックスは少しだけ黙った。
『……それで俺に連絡したのか』
「ええ」
画面の横から、ファルコの声が入る。
『なんだ、寂しがり屋か?』
「ファルコ、新年早々うるさい」
『当たりかよ』
さらに奥からスリッピーが顔を出す。
『ペルシア、こっち来る? 今日は整備も軽めだし、皆いるよ』
クリスタルも画面に映った。
『宇宙管理局、今日は静かなのね』
「静かすぎるのよ。イーナもフレイもナミもマリも実家。リリアはグレイと旅行。シャオメイはケレス管制。ジェームズは予定があるって言って逃げた」
『逃げたって言うなよ』
ファルコが笑う。
フォックスは少し考え、それから頷いた。
『来るなら迎える。グレートフォックスにいる』
「行く」
『即答だな』
「暇なの」
スリッピーが嬉しそうに手を振る。
『じゃあナウスにも来客登録してもらうね』
画面の端で、ナウスの合成音声が響いた。
『ペルシア統括官の来訪予定を登録しました』
ファルコが笑った。
『統括官が正月に遊びに来るって、なかなかだな』
クリスタルは少し呆れたように、でも優しく言った。
『仕事を持ってこないなら歓迎するわよ』
ペルシアは胸を張った。
「今日は仕事しない」
フォックスが静かに言う。
『本当だな?』
「……なるべく」
『ペルシア』
「しない。しません」
ファルコが吹き出す。
『信用ねぇな』
「誰のせいよ」
『自分だろ』
ペルシアは通信を切る前に、少しだけ笑った。
「じゃあ、すぐ行く」
『待ってる』
その一言に、ペルシアは少しだけ肩の力を抜いた。
◇
グレートフォックスに到着した時、ペルシアは手土産を抱えていた。
宇宙管理局本部の売店で買った年始用の菓子と、少し高めの茶葉。
それから、なぜかシジミの味噌汁のパック。
フォックスが出迎えに来て、ペルシアの手元を見た。
「なぜ味噌汁がある」
ペルシアは真顔で答えた。
「正月に必要かと思って」
「必要か?」
「昨日から私の中では必需品になった」
フォックスは一瞬考え、事情を察したように目を細めた。
「また飲んだのか」
「今日は飲んでない」
「今日は、か」
「新年早々厳しいわね」
「去年の反省が残っているうちに言っておく」
「本当に厳しい」
そこへスリッピーが走ってきた。
「ペルシア、明けましておめでとう!」
「明けましておめでとう、スリッピー」
スリッピーは手土産を見て目を輝かせる。
「お菓子? やった!」
「皆で食べて。あと味噌汁」
「味噌汁?」
「大事なの」
スリッピーはよく分からないまま頷いた。
「じゃあ温めるね!」
「そこは素直に受け取るのね」
「ペルシアが大事って言うなら大事かなって」
ペルシアは少し笑った。
その奥からファルコが顔を出す。
「おいおい、本当に来たのか」
「呼ばれたから来たのよ」
「暇って言って押しかけてきたんだろ」
「細かいことはいいの」
ファルコはにやにやしていた。
「宇宙管理局の統括官が、正月に行き場なくてうちに来るとはな」
「行き場がないわけじゃない。皆が忙しかっただけ」
「それを行き場がないって言うんだよ」
「ファルコ、今年も口が悪いわね」
「そっちも今年も変わらねぇな」
クリスタルが奥から歩いてきた。
「ファルコ、初日からからかいすぎ」
「事実だろ」
「事実でも言い方」
ペルシアはクリスタルを見る。
「明けましておめでとう、クリスタル」
「明けましておめでとう、ペルシア。来てくれて嬉しいわよ」
その言い方があまりに自然で、ペルシアは少しだけ目を瞬かせた。
「……そう言われると、来てよかったって思うわね」
クリスタルは柔らかく笑った。
「思っていいのよ。今日は仕事じゃないんでしょ?」
「そのつもり」
「そのつもり、じゃなくて」
「今日は仕事しない」
「よろしい」
クリスタルは満足そうに頷いた。
グレートフォックスの休憩スペースには、簡単な正月飾りが置かれていた。
派手ではない。
けれど、ちゃんと年始らしい。
小さな飾り餅のようなもの。
星形の飾り。
スリッピーが作ったらしい、少し歪んだ紙飾り。
ファルコが「俺は関係ない」と言いながら、なぜか位置を直している。
ナウスの小型端末には、「新年挨拶モード」と書かれた表示が出ていた。
『明けましておめでとうございます、ペルシア統括官』
「明けましておめでとう、ナウス」
『本日は休暇目的の来訪として登録されています。業務用端末の使用は推奨されません』
ペルシアは眉を上げた。
「ナウスまで?」
スリッピーが笑う。
「フォックスとクリスタルが設定したんだ」
ペルシアは二人を見る。
フォックスは平然としている。
クリスタルは少しだけ笑っていた。
「……私、そんなに信用ない?」
ファルコが即答する。
「ないな」
「ファルコには聞いてない」
フォックスが静かに言う。
「休ませるためだ」
ペルシアは少しだけ黙った。
その言葉に、反論しづらかった。
宇宙管理局では、皆が帰っている。
スペースホープは忙しい。
シャオメイはケレス管制。
ジェームズは予定。
リリアは父と旅行。
フレイ達は実家。
自分だけが、休む理由を見つけられずにいた。
だから、ここへ来た。
フォックス達の元へ。
「……ありがと」
ペルシアが小さく言うと、フォックスは軽く頷いた。
「座れ」
「命令?」
「提案だ」
「命令に聞こえた」
「座れ」
「やっぱり命令じゃない」
スリッピーが笑いながら、温かい飲み物を持ってきた。
「はい、ペルシア。お茶」
「ありがとう」
「味噌汁も温めてる」
「本当に温めてるの?」
「うん」
ファルコが呆れたように言う。
「正月に来て早々、味噌汁を温めさせる女」
「シジミは大事なの」
「まだ言ってる」
クリスタルが笑いながら席に着いた。
「でも、昨日飲みすぎたなら必要かもね」
フォックスの目が少し鋭くなる。
「やはり飲んだのか」
ペルシアは視線をそらす。
「少し」
ファルコがすかさず言う。
「その“少し”は信用できねぇ」
スリッピーが明るく言う。
「でも、ペルシアが飲む時って、誰かを褒めてる時なんでしょ?」
ペルシアは少し驚いた。
「誰から聞いたの?」
「この前の通信でジェームズが笑ってた」
クリスタルは呆れたように言う。
「笑う前に止めてあげなよ」
「俺がいたら笑ってから止める」
「順番が違う」
フォックスはペルシアを見る。
「ほどほどにしろ」
「はい」
「本当に分かっているか?」
「今日は分かってる」
「今日は、か」
ペルシアはお茶を飲みながら、少しだけ笑った。
そのやり取りが、思ったより心地よかった。
宇宙管理局では、統括官として見られる。
スペースホープでは、かつての副パーサーとして見られる。
ここでは、少し違う。
フォックス達は、ペルシアを統括官としても見ている。
宇宙管理局の人間としても扱う。
だが、それだけではない。
からかい、叱り、迎え入れ、休ませようとする。
それが、妙に楽だった。
「……皆、正月はここなの?」
ペルシアが聞くと、フォックスが答えた。
「基本はな。いつ呼び出しがあるか分からない」
「休めてる?」
「それなりに」
ファルコが鼻で笑う。
「こいつの“それなり”は信用するなよ。すぐ仕事の顔になる」
「あなたもでしょ」
ペルシアが返すと、ファルコはにやりと笑う。
「俺は仕事でも遊びでも同じ顔だ」
「それはそれで問題ね」
クリスタルが頷く。
「問題ね」
「おい」
スリッピーは味噌汁を持って戻ってきた。
「できたよ、シジミの味噌汁」
ペルシアは両手で受け取った。
「ありがとう。やっぱりシジミの味噌汁が一番」
フォックス達がその言葉に少し笑う。
ペルシアは味噌汁を飲みながら、休憩スペースの窓の外を見た。
そこには、宇宙管理局本部とは違う景色があった。
任務に備えた船の中。
けれど、今は少しだけ正月の空気がある。
スリッピーが飾りの位置を直し、ファルコが文句を言い、クリスタルがそれをなだめ、フォックスが静かに見守る。
ナウスが時々、余計に丁寧な新年挨拶を挟む。
ペルシアは、その中に混ざって味噌汁を飲んでいる。
「……変な正月」
ペルシアが呟くと、ファルコが笑った。
「自分から来たくせに」
「そうだけど」
スリッピーが嬉しそうに言う。
「でも、来てくれてよかったよ。ペルシアがいると賑やかになるし」
クリスタルも頷く。
「うん。ちょうどいいわね」
フォックスは短く言った。
「休め」
ペルシアは味噌汁の紙コップを見つめた。
そして、小さく笑った。
「ええ。今日は休むわ」
ファルコが疑わしそうに見る。
「本当か?」
「本当」
ナウスが即座に反応した。
『業務用端末の起動を検知した場合、休暇違反として通知します』
ペルシアは目を丸くした。
「ちょっと、そこまで?」
スリッピーが笑う。
「念のため」
クリスタルも笑う。
「今日は捕まってて」
フォックスが静かに頷いた。
「逃がさない」
ペルシアはしばらく黙り、それから肩をすくめた。
「はいはい。分かったわよ」
そう言って、ペルシアは椅子に深く座った。
宇宙管理局の統括官でもなく。
スペースホープの元副パーサーでもなく。
ただ、年始に一人でいるのが少し寂しくなって、フォックス達の元へ来たペルシアとして。
彼女は、シジミの味噌汁を飲み干した。
その横で、ファルコが笑い、スリッピーが菓子を開け、クリスタルが茶を注ぎ、フォックスが静かに見ていた。
グレートフォックスの小さなお正月は、思ったより賑やかに始まった。
ーーーー
お正月。
世間では新年を祝う時間だったが、スペースホープに静けさはなかった。
朝一番の便が出発する前から、館内には案内放送が響き、乗務員達が慌ただしく行き交っていた。
帰省客。
旅行へ向かう家族。
新年を宇宙船の中で迎えた者。
予定していた便に乗れず、乗り継ぎを求める者。
通常よりも乗客が多いだけではない。
慣れない旅客が多く、荷物の積み間違い、搭乗口の勘違い、子どもの迷子、急な体調不良も続いていた。
十四班に、班単位でのフライトは割り当てられていない。
だから休みというわけではなかった。
むしろ逆だった。
欠員が出た班。
乗客対応が追いつかない班。
出発準備が遅れている班。
急きょ増便となった班。
十四班の乗務員達は、それぞれ別の班へ応援に入っていた。
エリンは早朝便のチーフパーサー補助。
ランは同じ便の客室後方担当。
カイエとミラは、家族連れの多い火星方面便。
ガーネットとククルは、乗り継ぎ客が集中した木星圏方面便。
リュウジは、操縦士不足となった長距離便の補助操縦。
エマは、その便の客室乗務員応援。
十四班の班室に残っていたのは、各便の状況を確認しながら応援配置を調整するタツヤ班長だけだった。
「正月から見事にばらけたな」
誰もいない班室で、タツヤ班長が呟いた。
机の上には、十四班全員の応援先と帰着予定時刻が表示されている。
しかし、予定どおりに帰ってくる者は、ほとんどいなかった。
一便遅れれば、次の乗り継ぎ対応が増える。
客室の清掃が遅れれば、乗務員も降りられない。
乗客の忘れ物や体調不良があれば、さらに時間が延びる。
帰着予定時刻は、次々と後ろへずれていた。
◇
十四班の班室へ最初に戻ってきたのは、エリンとランだった。
扉が開き、疲れた顔のランが大きく息を吐く。
「ただいま戻りました」
エリンも隣で息を吐いた。
「戻ったよ」
ランは荷物を置くと、椅子へ倒れ込むように座った。
「朝からずっと、同じ乗客の荷物を探していた気がします……」
「三回だったね」
「三回もですか?」
「一回目は手荷物。二回目はお土産。三回目は上着」
ランは机に額をつけた。
「最後の上着、着ていましたよね」
「着てた」
「どうして探していたんでしょう」
「本人も疲れてたんだと思う」
エリンはそう言いながら、自分の端末を確認した。
カイエとミラは帰着処理中。
ガーネットとククルは、まだ乗り継ぎ客の案内。
リュウジとエマの便は、到着がさらに遅れる見込みだった。
タツヤ班長が奥の席から顔を上げる。
「お疲れ。二人ともよく戻ったな」
「タツヤ班長、お疲れ様です」
エリンが答える。
ランも体を起こした。
「タツヤ班長、お疲れ様です」
「かなり疲れてるな」
「はい。しばらく動きたくありません……」
「正直でよろしい」
タツヤ班長は笑った。
エリンは壁際に置かれていた保冷箱へ向かった。
それを見たランが首を傾げる。
「エリンさん、それは何ですか?」
「おせち」
「おせち?」
エリンは保冷箱の蓋を開けた。
中には、いくつもの保存容器がきれいに重ねられている。
黒豆。
紅白なます。
伊達巻。
煮しめ。
海老。
かまぼこ。
栗きんとん。
昆布巻き。
そして、少し場違いにも見える大きな容器が一つ。
ランは目を輝かせた。
「エリンさんが作ったんですか?」
「そう。昨日のうちに作って持ってきたの」
タツヤ班長が感心したように言う。
「昨日って、今日の準備もあっただろ」
「全員、年始から応援に出るのは分かっていましたから。戻ってきて何もないのも寂しいでしょう」
エリンは容器を一つずつ取り出した。
「本当は、全員そろってから出そうと思ってたんだけど」
ランは時計を見た。
まだ夕方だった。
だが、リュウジとエマが戻るのは、早くても夜遅くになる。
「待ちます」
ランは即答した。
エリンが少し驚く。
「お腹空いてるでしょう?」
「空いています。でも、全員で食べたいです」
ランは保冷箱の中を覗き込みながら続けた。
「ただ、味見は必要だと思います」
「駄目」
「一つだけでも」
「駄目」
「黒豆一粒」
「ラン」
「はい。待ちます」
タツヤ班長が声を上げて笑った。
◇
しばらくして、カイエとミラが戻ってきた。
扉が開くなり、カイエが深いため息を吐く。
「ただいま戻りました……」
ミラも隣で静かに頭を下げた。
「戻りました」
エリンが振り返る。
「二人とも、お疲れ様」
「エリンさんも、お疲れ様です」
カイエはそう答えながら、靴を脱ぎたいほど足が疲れているという顔で椅子へ向かった。
ミラは先に戻っていたランを見る。
「ラン、まだ起きてたんだ」
ランは椅子から顔を上げた。
「お腹が空きすぎて、逆に眠れない」
二人だけの時と同じように、口調は自然に戻っていた。
ミラは少し笑った。
「私も足が痛い」
「同じ」
カイエが二人を見る。
「二人とも、今日どんな便だったの?」
ミラはカイエへ向き直り、丁寧に答えた。
「ご家族連れが多く、迷子対応が三件ありました」
カイエはうんざりしたように頷く。
「一件目は、子どもが迷子。二件目は、親が子どもを見失って。三件目は——」
ミラが続ける。
「ご両親が搭乗口を間違えて、子どもだけ正しい場所にいました」
ランが顔を上げた。
「子どもの方が正しかったんだ」
「うん」
「すごい」
「親御さん、かなり焦ってた」
カイエは椅子に座り、そこで初めて机の上に並べられ始めた保存容器に気づいた。
「これ、何?」
エリンが答える。
「おせち。全員戻ったら食べようと思って」
カイエの目が少し輝く。
「エリンさんが作ったんですか?」
「そう」
「昨日も遅かったのに……」
「新年だからね」
ミラも容器を見つめた。
「すごいです。とてもきれいですね」
「まだ盛りつけてないけど」
「もう十分きれいです」
ランがすぐに言う。
「味見は禁止だって」
ミラはランを見る。
「頼んだの?」
「黒豆一粒だけ」
「断られた?」
「うん」
ミラは少しだけ笑った。
「当然だと思う」
「ミラまで」
エリンは三人の会話を聞きながら、湯沸かし器へ向かった。
「お茶だけ先に飲んで。食べるのは、もう少し待とう」
カイエは時計を見る。
「ガーネットさんとククルは?」
「まだ乗り継ぎ対応」
「リュウジさんとエマは?」
「到着が一時間以上遅れるみたい」
カイエは少しだけ顔を曇らせた。
「まだ長いですね」
「でも、戻ってくる」
エリンは落ち着いた声で答えた。
「だから待とう」
◇
それから一時間ほど経った頃。
班室の扉が開いた。
「戻りました」
先に入ってきたのはガーネットだった。
その後ろから、ククルが疲れ切った顔で続く。
「ただいま戻りました……」
ククルの赤いポニーテールは、朝より少し乱れていた。
ガーネットも表情こそ崩していなかったが、いつもの姿勢よりわずかに肩が落ちている。
エリンが二人を見る。
「お疲れ様」
「エリンさんも、お疲れ様です」
ガーネットが丁寧に答えた。
ククルも頭を下げる。
「エリンさん、お疲れ様です」
カイエは椅子から立ち上がった。
一瞬だけ、ガーネットとの間に残る過去の距離が見えた。
しかし、すぐに口を開く。
「ガーネットさん、お疲れ様です。ククルもお疲れ」
ガーネットはカイエを見る。
「そっちも大変だったみたいだな」
「はい。子どもより、親御さんを探す方が大変でした」
ガーネットの口元が少しだけ緩んだ。
「こっちは、乗り継ぎ客が同じ窓口に二百人近く集まった」
ククルが力なく言う。
「案内表示を三回出し直したのに、皆さん同じ列に並ぶんです……」
ランが聞いた。
「ククルさん、何か食べましたか?」
ククルは首を横に振る。
「飲み物だけ」
ランは誇らしげに机を指した。
「おせちがありますよ」
ククルの目が一気に開く。
「おせち?」
エリンが容器を見せる。
「全員戻ったらね」
ククルは容器と時計を交互に見た。
「リュウジさんとエマは、まだですか?」
「まだ」
「待ちます」
ククルも即答した。
ランは少し嬉しそうに言う。
「やっぱり待ちますよね」
「もちろん」
ククルはそう言った直後、栗きんとんの容器をじっと見た。
エリンが気づく。
「ククル」
「触ってません」
「まだ何も言ってない」
「見てるだけです」
「それならいい」
ガーネットはそんなやり取りを見ながら、静かに椅子へ座った。
疲れている。
だが、十四班の班室へ戻ったことで、少しだけ緊張が解けたようだった。
カイエが温かいお茶を置く。
「ガーネットさん、どうぞ」
ガーネットは一瞬だけカイエを見た。
「ありがとう」
「いえ」
それだけの短いやり取りだった。
しかし、以前ならなかった自然さが、そこにはあった。
エリンは何も言わなかった。
ただ、少しだけ表情を和らげた。
◇
さらに時間は過ぎた。
窓の外は完全に暗くなっていた。
新年の特別照明が、遠くの発着場を淡く照らしている。
班室では、全員がそれぞれの椅子で休んでいた。
ランとミラは隣同士で座り、今日の応援便の話をしている。
ククルは空腹を紛らわせるために、温かいお茶を何杯も飲んでいた。
カイエは靴を脱ぎたい衝動と戦いながら、乗務記録を整理している。
ガーネットは端末を確認していたが、いつの間にか画面を見たまま動かなくなっていた。
眠ってはいない。
ただ、考える力を節約しているようだった。
エリンは何度も到着状況を確認した。
リュウジとエマの便は、ようやく着陸態勢に入っている。
「もうすぐ戻るよ」
その言葉に、全員が少しだけ姿勢を戻した。
そして、夜もすっかり更けた頃。
班室の外から、二人分の足音が近づいてきた。
扉が開く。
最初に入ってきたのは、リュウジだった。
その後ろから、エマが疲れ切った顔で入ってくる。
「戻りました」
リュウジが静かに言った。
エマも続ける。
「ただいま戻りました……」
エリンは立ち上がった。
「二人とも、お疲れ様」
リュウジはエリンを見る。
「エリンさんも、お疲れ様です」
エマも頭を下げる。
「エリンさん、お疲れ様です」
エマは荷物を置いた瞬間、机に並ぶ容器に気づいた。
疲れで半分閉じていた目が、少しだけ開く。
「……食べ物があります」
ククルが笑う。
「最初にそれ?」
エマは真剣だった。
「大事なことだから」
リュウジも机へ目を向ける。
「これは、おせちですか?」
エリンは頷いた。
「そう。新年だから作ってきたの」
「エリンさんが?」
「うん」
リュウジは並べられた料理を見た。
黒豆。
伊達巻。
煮しめ。
紅白なます。
海老。
栗きんとん。
かまぼこ。
昆布巻き。
どれも丁寧に作られている。
そして、端の大きな容器に入っているものを見て、少しだけ目を止めた。
「……唐揚げもありますね」
エリンは笑った。
「おせちだけじゃ、足りない人がいると思って」
全員の視線がリュウジへ向いた。
リュウジは少し困ったように言う。
「俺ですか」
エマが真顔で答える。
「リュウジさんですね」
「エマも食べるだろ」
「もちろん食べます」
ククルが笑い、カイエも肩を揺らした。
ミラも少し笑っている。
ランは、ようやく食べられることが嬉しいのか、今にも立ち上がりそうだった。
タツヤ班長が奥の席から歩いてくる。
「ようやく全員そろったな」
全員がそれぞれ席についた。
十四班としてフライトに出たわけではない。
朝から別々の班へ散り、異なる便に乗り、異なる乗客を支え、それぞれ違う時間に戻ってきた。
それでも、最後には同じ班室へ帰ってきた。
エリンはおせちの容器を開け、一人ずつ取り分け始める。
「本当に簡単なものだけど」
エマがすぐに首を横に振る。
「簡単じゃないですよ。品数が多い」
ククルも頷く。
「昨日のうちに全部作ったんですよね?」
「そう」
カイエは少し心配そうにエリンを見る。
「エリンさん、寝ましたか?」
「少しは」
「その言い方は、あまり寝ていない時の言い方です」
ガーネットが静かに指摘した。
エリンは一瞬黙った。
「でも、作ってよかったでしょう?」
エマが栗きんとんを見つめながら即答する。
「はい」
ランも力強く頷く。
「とても嬉しいです」
ミラも頷いた。
「はい。私もです」
エリンは笑った。
「ならよかった」
タツヤ班長が皆の前に飲み物を置く。
「せっかくだ。遅くなったが、新年の挨拶くらいするか」
全員が手を止めた。
タツヤ班長は十四班の顔を一人ずつ見る。
疲れた顔。
眠そうな顔。
空腹を隠せていない顔。
それでも、全員が無事に戻っている。
「去年も色々あった。今年もたぶん色々ある」
「もう少し前向きな挨拶はないんですか?」
エリンが言う。
タツヤ班長は笑った。
「色々あるけど、こうして全員戻ってくればいい。今年もよろしく」
エリンは少しだけ目を細めた。
「はい。今年もよろしくお願いします」
ガーネットも頭を下げる。
「タツヤ班長、今年もよろしくお願いします」
カイエ、ククル、エマ、ミラ、ランも続く。
「今年もよろしくお願いします」
リュウジは最後に静かに言った。
「タツヤ班長、今年もよろしくお願いします」
タツヤ班長が飲み物を持ち上げる。
「明けましておめでとう」
全員の声が重なった。
「明けましておめでとうございます」
ようやく、十四班の新年が始まった。
◇
食事が始まると、さっきまでの疲れた空気が少しずつ変わった。
ランは黒豆を食べ、目を丸くする。
「おいしいです」
ミラが隣で言う。
「ラン、ゆっくり食べて」
「分かってる。でも朝からまともに食べてなくて」
「私も」
「じゃあ、ミラも食べよう」
「食べてる」
ククルは煮しめを口に運び、ほっとしたように息を吐いた。
「温かくないのに、すごく落ち着く」
カイエは紅白なますを食べる。
「分かる。新年って感じがする」
ガーネットは昆布巻きを見つめてから、静かに食べた。
「エリンさん、料理もできるんですね」
「一応ね」
「一応という量ではありません」
「昨日、作り始めたら止まらなくなったの」
エマは栗きんとんを食べ、しばらく黙っていた。
ククルが聞く。
「エマ、どう?」
「重要」
「何が?」
「栗きんとんを多めに作った判断」
エリンが笑う。
「まだあるよ」
エマの表情が少し明るくなる。
「安心しました」
リュウジは唐揚げを一つ取り、口に運んだ。
エリンが気づく。
「どう?」
「おいしいです」
「それだけ?」
リュウジは少し考える。
「戻ってきて、これがあるのは嬉しいです」
エリンは一瞬だけ黙った。
その言葉は、料理の味だけを褒めたものではなかった。
朝から別の班へ入り、慣れない乗務員達と飛び、夜を越えるまで戻れなかった。
その最後に、十四班の班室があり、皆がいて、食事が待っていた。
リュウジは、それを言っている。
エリンは少しだけ柔らかく笑った。
「なら、作った甲斐があった」
リュウジは頷く。
「ありがとうございます、エリンさん」
その横で、エマが唐揚げにも手を伸ばす。
「これはリュウジさん用だけではありませんよね」
エリンは答える。
「もちろん。皆の分」
「安心しました」
リュウジがエマを見る。
「さっき栗きんとんも食べてただろ」
「甘いものと唐揚げは別です」
「そういうものか」
「そういうものです」
ククルが笑った。
「エマ、今日一番元気になってる」
「食事は回復に必要だから」
カイエも言う。
「そこだけは一貫してるね」
食卓には、応援先での話が少しずつ出始めた。
迷子になった親。
自分の着ている上着を探した乗客。
乗り継ぎ窓口に集中した二百人近い旅客。
急な揺れで泣き出した子ども。
食事を配る前に眠ってしまった家族。
何度も礼を言って降りていった高齢の夫婦。
全員、違う場所で働いていた。
だが、話を聞けば、十四班らしい視点が随所にあった。
エリンは混乱した客室を落ち着かせた。
ランは後方席の乗客へ一人ずつ声をかけ、不安を和らげた。
カイエとミラは、子どもだけでなく、焦る親の動線を分けた。
ガーネットは窓口の役割を整理し、ククルは迷っている乗客へ先回りして声をかけた。
リュウジは、遅延した便でも揺れをできるだけ抑えた。
エマは、疲れた乗客の顔を見て、食事と飲み物の順番を変えた。
タツヤ班長はそれを聞きながら、満足そうに頷いた。
「別々の班に入っても、やることは変わらないな」
エリンが聞く。
「何がですか?」
「誰かが困ってたら、勝手に拾う」
タツヤ班長は笑う。
「十四班らしい」
全員が少しだけ静かになった。
リュウジは、手元のおせちを見る。
カイエはククルと顔を見合わせる。
ミラとランは互いに少し笑った。
ガーネットは何も言わなかったが、表情は穏やかだった。
エマは伊達巻を取りながら言う。
「では、今年も忙しくなりますね」
「今の話を聞いて、最初にそれ?」
ククルが笑う。
エマは真剣に答える。
「忙しいなら、休息室と食事が重要になるから」
エリンは頷いた。
「それは間違いないね」
「おせちも重要です」
「毎日は作らないよ」
「残念」
また笑いが起きた。
窓の外では、まだ宇宙船の発着が続いている。
スペースホープに正月休みはない。
明日も便は飛ぶ。
誰かが応援へ入り、誰かが急な変更に対応することになる。
それでも今だけは、全員が同じ場所にいる。
遅れて始まった十四班の正月。
豪華な宴会ではない。
疲れ切った乗務員達が、班室の机を囲んでいるだけだ。
だが、エリンが用意したおせちがあり、全員の声がある。
それだけで十分だった。
エリンは皆の皿を見ながら言う。
「まだあるから、遠慮しないで食べて」
エマがすぐに答える。
「じゃあ、栗きんとんを頂きます」
ククルが慌てる。
「エマ、私の分も残して」
「まだあるよ」
「エマが言うと不安なの」
ランも手を伸ばす。
「私も食べたいです」
ミラが止める。
「ラン、先に口の中を空にして」
カイエは笑いながら煮しめを取り分ける。
ガーネットは、空になった皿をエリンへ差し出した。
「エリンさん、煮しめをもう少しいただいてもいいですか」
エリンは嬉しそうに頷く。
「もちろん」
リュウジも唐揚げの容器へ手を伸ばした。
エリンはそれを見て笑う。
「リュウジ、まだあるよ」
「はい」
「そこは遠慮しないんだ」
「エリンさんが、遠慮しないでと言ったので」
「素直ね」
タツヤ班長はその光景を見ながら、温かいお茶を飲んだ。
ばらばらに出ていった十四班が、夜を越えてまた戻ってきた。
それだけで、悪くない新年だった。
十四班の班室には、遅い時間まで笑い声が残っていた。