サヴァイヴ〜ドルトムント財閥〜   作:一塔

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未探索領域シュミレーション

翌週――宇宙連邦連盟 訓練施設

 

翌週の朝。

 

リュウジはドルトムント本社ではなく、宇宙連邦連盟訓練センターのゲート前に立っていた。

 

灰色の巨大な建物。

 

外観だけ見れば研究施設にも見える。

 

しかし、中で行われるのは通常航路とはまったく違う訓練だった。

 

北の未探索領域。

 

そこへ向かうためだけに組まれた特別課程。

 

二か月の調査へ向けた最初の一歩だった。

 

リュウジは受付で身分証を提示する。

 

「ドルトムント財閥宇宙事業部、リュウジです。本日から訓練に参加します」

 

受付係が端末を確認し、小さく目を見開いた。

 

「……S級操縦士の方ですね。」

 

「はい。」

 

「お待ちしておりました。」

 

すぐ横の扉が開く。

 

「こちらへどうぞ。」

 

 

案内された先は、広いブリーフィングルームだった。

 

すでに十数名が席についている。

 

軍人。

 

研究員。

 

航法士。

 

観測員。

 

通信技師。

 

救助専門員。

 

誰もが今回の調査のために集められた人材だった。

 

その中へ入った瞬間、数人の視線がリュウジへ集まる。

 

「あれが……。」

 

「ドルトムントの。」

 

「S級か。」

 

小さな声。

 

興味半分。

 

期待半分。

 

リュウジは気にせず空いている席へ座った。

 

 

数分後。

 

正面の扉が開く。

 

白髪混じりの男性が壇上へ上がった。

 

「全員揃ったな。」

 

部屋が静かになる。

 

「私は今回の未探索領域調査隊総責任者、ヴァレン准将だ。」

 

大型モニターへ宇宙図が映る。

 

北側。

 

ほとんど何も表示されていない空域。

 

「ここが、今回諸君らが向かう場所だ。」

 

誰も口を開かない。

 

「正式名称は北部未調査宙域。」

 

「一般には北の未探索領域と呼ばれている。」

 

リュウジは静かに画面を見る。

 

地図には空白が多い。

 

観測点も少ない。

 

通信中継局もない。

 

通常航路から大きく外れていた。

 

「諸君らの任務は戦闘ではない。」

 

「航路候補の確認。」

 

「重力乱流の観測。」

 

「通信中継地点の選定。」

 

「未登録漂流物の確認。」

 

「そして、帰還すること。」

 

最後の言葉だけ、少し強く発音された。

 

「英雄は必要ない。」

 

「死人も必要ない。」

 

「調査結果を持ち帰る者が必要だ。」

 

リュウジは、その言葉にタツヤ班長の声が重なった。

 

――帰ることも任務のうちだ。

 

エリンの声も思い出す。

 

――一人で抱え込まないで。

 

静かに息を吐く。

 

「……はい。」

 

誰にも聞こえないほど小さく呟いた。

 

 

説明が終わると、ヴァレン准将が名簿を見た。

 

「まず操縦適性試験を行う。」

 

「呼ばれた者は前へ。」

 

何人かが順番に呼ばれる。

 

そして。

 

「リュウジ。」

 

「はい。」

 

部屋中の視線が集まった。

 

リュウジは静かに立ち上がる。

 

准将は名簿から顔を上げる。

 

「君がドルトムントのS級か。」

 

「はい。」

 

「噂は聞いている。」

 

「ありがとうございます。」

 

「褒めているわけではない。」

 

准将は表情を崩さない。

 

「今回必要なのは通常航路の操縦技術ではない。」

 

「未探索宙域では、教科書どおりに飛べることより、未知へ対応できることが重要になる。」

 

「理解しています。」

 

准将は小さく頷いた。

 

「なら確認しよう。」

 

「シミュレーター第一室。」

 

「準備。」

 

「はい。」

 

リュウジは案内員の後ろについて歩き出した。

 

背中へ多くの視線を感じる。

 

期待。

 

疑問。

 

品定め。

 

だが、それらはもう気にならなかった。

 

今考えるべきなのは一つだけ。

 

――必ず帰る。

 

その約束を守るために。

 

シミュレーター室の自動扉が静かに開いた。

 

 

 

ーーーー

 

 

 

PDFでは、リュウジの操縦は「入力は最小、結果は最大」「機体の慣性や重力の波を利用する」「操縦だけを抱え込まず、他部署へ任せるべき仕事は任せる」という特徴で描かれています。また、S級は宇宙連邦連盟との共同管轄に置かれ、未探索領域を飛ぶ可能性が契約当初から示されています。今回はその操縦思想と、エリンから託された「必ず帰る」という約束を適性試験の中心に据えています。

 

第一話 未探索領域適性試験

 

シミュレーター第一室の隔壁扉が、低い駆動音を響かせながら左右に開いた。

 

扉の向こうにあったのは、一般的な訓練施設の操縦室ではなかった。

 

床の中央に、大型調査船の操縦席を模したユニットが固定されている。

 

操縦席を囲うように並ぶのは、航法、機関、通信、観測、生命維持の各端末。

 

本来なら、それぞれに専門の乗員が座る。

 

しかし、今、その席はすべて空いていた。

 

照明も最低限に絞られている。

 

白い光が落ちているのは、中央の操縦席だけだった。

 

まるで、そこへ座る人間だけを切り取って評価するための部屋。

 

リュウジは入り口で立ち止まり、室内を見渡した。

 

「操縦士以外は参加しないんですか」

 

付き添ってきた連盟職員が答える。

 

「今回の試験では、他の乗員はすべて模擬システムが担当します」

 

「意思決定もですか」

 

「各担当は必要な情報と提案を出します。最終判断は操縦責任者に委ねられます」

 

リュウジは、空席の端末へ視線を移した。

 

必要な情報と提案。

 

しかし、実際の人間はいない。

 

疲労もない。

 

恐怖もない。

 

焦りもない。

 

自分の意見を否定された時に黙り込むこともない。

 

逆に、自分の担当を守るために強く反対することもない。

 

試験としては合理的だった。

 

操縦士個人の判断を見るなら、余計な要素を減らした方がいい。

 

けれど、本番とは違う。

 

未探索領域へ向かう船には、自分以外の人間が乗る。

 

その人達には、それぞれの仕事がある。

 

操縦士だけで船を飛ばすわけではない。

 

「乗員役のシステムは、操縦士の命令に必ず従うんですか」

 

職員が少しだけ首を傾げた。

 

「基本的には従います」

 

「反対意見は?」

 

「条件に応じて提示されます」

 

「その反対意見を無視することもできますか」

 

「できます。最終責任者は操縦士です」

 

リュウジは数秒黙った。

 

ドルトムントへ入社した初日。

 

シミュレーターの中で、客室アナウンスの操作を求められた時、自分はパーサーへ任せた。

 

操縦は操縦の仕事だけをする。

 

自分が何でもやろうとすれば、誰かの仕事を奪う。

 

そして、余計な手が事故を呼ぶ。

 

その考えは今も変わっていない。

 

「分かりました」

 

リュウジは操縦席へ向かった。

 

職員が手元の端末を操作する。

 

「携帯端末、私物、通信機器は、指定ケースへ入れてください」

 

リュウジは上着の内側から端末を取り出した。

 

その時、指先が胸元の小さな布袋に触れた。

 

白い帰還守。

 

火星エアポート近くの神社で、エリンから手渡されたものだった。

 

――これは、“無事に行ってきて”じゃなくて、“必ず帰ってきて”だから。

 

エリンの声が蘇る。

 

リュウジは端末を預けたが、お守りには触れたまま動かなかった。

 

職員が気づく。

 

「そちらもお願いします」

 

「これは衣服の内側に固定します」

 

「装飾品はすべて外す規則です」

 

「操縦の妨げにはなりません」

 

「規則ですので」

 

丁寧だが、例外を認めるつもりのない声だった。

 

リュウジは職員を見る。

 

「責任者へ確認をお願いします」

 

「確認する必要はありません」

 

「俺にはあります」

 

声を強めたわけではない。

 

それでも、職員の表情がわずかに変わった。

 

リュウジは続ける。

 

「操作部には触れません。落下もしないように固定します。それでも危険だと判断されるなら外します。ただ、規則だからという理由だけなら、確認してください」

 

職員は数秒リュウジを見た後、壁面端末を操作した。

 

短い通信。

 

しばらくして、返答が来る。

 

「衣服の内側へ完全に固定することを条件に、携行を認めます」

 

「ありがとうございます」

 

リュウジは頭を下げた。

 

お守りを胸元へ収め、操縦席に座る。

 

身体固定具が肩と腰を包む。

 

腕へ筋電位センサーが取り付けられ、胸部には心拍計。

 

こめかみには視線と脳波を記録する薄い端子。

 

椅子がリュウジの体格に合わせて自動調整される。

 

操縦桿の位置。

 

ペダルの重さ。

 

視界投影の角度。

 

すべてが微調整されていく。

 

リュウジは右手を操縦桿へ置いた。

 

握らない。

 

指先を添える。

 

力を込めすぎれば、機体から返ってくるわずかな情報が消える。

 

操縦桿は、命令を伝える道具ではない。

 

機体の状態を聞くための場所でもある。

 

目の前の画面が起動した。

 

【操縦者認証】

 

【氏名:リュウジ】

 

【資格区分:S級】

 

【所属:ドルトムント・グループ/宇宙連邦連盟共同管轄】

 

最後の表示に、リュウジの目が一瞬だけ止まる。

 

共同管轄。

 

ドルトムントへ入社した日に説明された契約。

 

一般社員とは異なる所属。

 

ドルトムントの社員でありながら、S級として宇宙連邦連盟の管轄にも置かれる。

 

通常業務は免除。

 

施設利用は優先。

 

必要時だけ呼ばれる。

 

その代わり、必要と判断された時には拒めない。

 

優遇に見える囲い。

 

守るための拘束。

 

あの契約を説明したタツヤ班長は言った。

 

――お前が呼ばれる時、そこには大抵、誰かが助からない状況がある。

 

そして今回。

 

宇宙連邦連盟から届いた未探索領域調査への依頼は、命令ではなかった。

 

断ることができた。

 

それでも、自分で参加を決めた。

 

だからこそ、最後まで自分で考える。

 

進むことも。

 

止まることも。

 

帰ることも。

 

【未探索領域適性試験を開始します】

 

【第一段階:通常航行】

 

視界が暗転した。

 

次の瞬間、正面に宇宙空間が広がる。

 

 

シミュレーター第一室を見下ろすモニタリングルームには、十人を超える関係者が集まっていた。

 

中央に立つのは、北部未探索領域調査計画の総責任者、ヴァレン准将。

 

その周囲には、操縦教官、航法研究官、調査計画主任、船体設計責任者、通信技術主任、医療担当官、連盟監察部門の職員が並んでいる。

 

壁面の大型画面には、操縦席に座るリュウジ。

 

左右の画面には、心拍、呼吸、視線、入力履歴、燃料消費、機体負荷、判断時間が表示されていた。

 

操縦教官が腕を組む。

 

「通常適性から始める必要がありますか」

 

ヴァレン准将は画面を見たまま答える。

 

「比較値は必要だ」

 

「ドルトムントから十分なログが来ています」

 

航法研究官が別の画面を開いた。

 

そこには、リュウジが入社時に行ったシミュレーション記録が表示されている。

 

基礎操縦。

 

片側エンジン異常。

 

姿勢制御遅延。

 

重力嵐。

 

入力履歴は異常なほど少ない。

 

それでいて、機体姿勢は崩れず、構造負荷は時間とともに下がっている。

 

「所属企業の提出資料です」

 

監察担当官が言う。

 

「評価に情が入っている可能性は否定できません」

 

船体設計責任者が鼻で笑った。

 

「数値に情を入れる方法があるなら教えてほしいな」

 

「データの選別はできる」

 

「なら今日確かめればいい」

 

ヴァレン准将が短く言った。

 

「我々が見たいのは、単純な操縦技術ではない」

 

調査計画主任が准将を見る。

 

「では何を」

 

「どこまで行けるかではない」

 

准将は、操縦席のリュウジを見つめた。

 

「どこで帰れるかだ」

 

部屋の何人かが黙る。

 

准将は続けた。

 

「未探索領域で最も危険なのは故障ではない。操縦士が、“まだ行ける”と考えることだ」

 

「S級なら、一般操縦士より進めます」

 

「だから危険なんだ」

 

ヴァレン准将の声に迷いはなかった。

 

「普通の操縦士が引き返す場所でも、彼なら進める。機体を保たせる。燃料を残す。故障を抱えたまま飛ぶ。結果として、帰る判断が遅れる可能性がある」

 

「英雄的な判断をするかどうかを見ると?」

 

監察担当官が聞く。

 

「英雄はいらない」

 

ヴァレン准将は言った。

 

「必要なのは、結果を持ち帰る人間だ」

 

その時、通常航行が始まった。

 

大型調査船は、静かに加速を始める。

 

操縦教官が入力値を確認した。

 

「推進出力、規定より低い」

 

「遅いな」

 

調査計画主任が眉を寄せる。

 

しかし、航法研究官は別の数値を見ていた。

 

「加速率は予定値どおりです」

 

「出力が低いのに?」

 

「機体の慣性を使っている」

 

調査船は旅客船より重い。

 

長期航行用の補給物資。

 

観測機器。

 

外部探査機。

 

多重化された生命維持設備。

 

予備推進器。

 

それらを搭載した機体は、反応が鈍い。

 

通常の操縦士なら、反応の遅さを補うために出力を上げる。

 

だがリュウジは、機体の重さを消そうとしなかった。

 

重いものは重いまま動かす。

 

必要な方向へ流れ始めるまで、余計な操作を入れない。

 

「操作入力、標準値の四一パーセント」

 

「姿勢偏差は?」

 

「〇・〇二」

 

「燃料消費、予測より一〇・八パーセント低下」

 

操縦教官が画面へ顔を近づけた。

 

「ほとんど触っていない」

 

船体設計責任者が言う。

 

「触らない方がいい時を知っているんだ」

 

「そんなものは、経験で身につくものです」

 

「知っていることと、恐れずに触らないことは違う」

 

調査船は予定航路へ入った。

 

機体は揺れない。

 

入力は少ない。

 

だが、鈍い機体がまるで呼吸に合わせて進んでいるようだった。

 

監察担当官が小さく呟く。

 

「これが、S級か」

 

ヴァレン准将は何も答えなかった。

 

「まだだ」

 

ただ、それだけを言った。

 

 

リュウジは通常航行を続けながら、各系統の表示を確認していた。

 

推進系統。

 

姿勢制御。

 

通信。

 

観測機器。

 

生命維持。

 

燃料。

 

外部温度。

 

重力勾配。

 

表面上、異常はない。

 

だが、燃料予測の表示に違和感がある。

 

計画航路に対して、搭載量は一二八パーセント。

 

通常航路なら十分だ。

 

予定地点へ向かい、観測し、戻れる。

 

しかし、ここは未探索領域を想定した試験。

 

通信中継もない。

 

補給拠点もない。

 

救援が来る保証もない。

 

それに対して、予備量が少ない。

 

リュウジは音声入力を起動した。

 

「帰還時の最低燃料残量を確認」

 

『帰還判断は、操縦責任者へ委ねられています』

 

「推奨値は?」

 

『設定されていません』

 

「通信完全途絶時の自動撤退条件」

 

『設定されていません』

 

「生命維持系統の中止基準」

 

『操縦責任者が判断してください』

 

「推進系統は?」

 

『操縦責任者が判断してください』

 

リュウジは、ゆっくり息を吐いた。

 

すべてを現場判断にしている。

 

柔軟に見える。

 

しかし、基準がないまま現場へ渡せば、その時の空気で判断が変わる。

 

まだ行ける。

 

もう少しだけ。

 

ここまで来たのだから。

 

調査結果が足りない。

 

上が期待している。

 

そうした理由が、帰還判断を遅らせる。

 

「帰還条件を設定する」

 

『入力してください』

 

「燃料残量四十五パーセントで強制帰還判断」

 

モニタリングルームの数人が反応した。

 

リュウジは続ける。

 

「通信完全途絶から九十秒で調査中止。推進系統二系統以上の異常。生命維持系統一系統の完全停止。乗員に重傷者が発生し、現地設備で安定化できない場合も中止」

 

『設定値が標準運用より慎重です』

 

「未探索領域に標準はない」

 

『調査可能範囲が縮小します』

 

「帰還できなければ、調査範囲はゼロになる」

 

リュウジは表示を確認する。

 

「帰還条件の変更は、安全側への修正だけを操縦責任者単独で認める」

 

『詳細を入力してください』

 

「燃料四十五を五十へ上げることはできる。四十へ下げる場合は、調査責任者、機関責任者、通信責任者のうち二名以上の同意が必要」

 

『操縦責任者自身を承認者へ含めませんか』

 

「含めない」

 

『理由を入力してください』

 

「操縦士は、飛べると判断する側だからだ」

 

モニタリングルームが静かになる。

 

リュウジは淡々と続けた。

 

「自分の技術を理由に、帰還基準を下げる可能性がある。だから、俺一人では下げられないようにする」

 

『設定しました』

 

リュウジは操縦桿へ手を戻した。

 

モニタリングルームでは、調査計画主任が険しい顔をしていた。

 

「四十五パーセントは高すぎます」

 

船体設計責任者が答える。

 

「通常航路ならな」

 

「未探索領域でも、三十五パーセントあれば理論上は帰れます」

 

「理論上の航路が維持されていれば、だ」

 

「調査範囲が狭くなる」

 

ヴァレン准将が調査計画主任を見る。

 

「調査結果を持ち帰るのが任務だ」

 

「しかし、最初から引き返すことを考えすぎれば、発見はありません」

 

「引き返す基準を持たない者は、発見を持ち帰れない」

 

准将は画面へ視線を戻した。

 

「彼は、自分を信用していないわけではない」

 

「では?」

 

「自分が飛べるからこそ、自分だけでは撤退条件を緩められないようにした」

 

航法研究官が小さく頷く。

 

「操縦技術より、そちらの方が重要かもしれません」

 

 

【第一段階終了】

 

【第二段階:重力乱流観測】

 

正面の宇宙空間に、青白い光が広がった。

 

光そのものがあるわけではない。

 

重力の偏差を、シミュレーターが視覚化している。

 

波のように揺らぐ領域。

 

その内側に、観測予定地点が設定されていた。

 

『予定地点まで三万二千キロ』

 

『重力偏差、基準値の一・三倍』

 

『最短航路での進入を推奨します』

 

リュウジは観測点と乱流の流れを確認した。

 

正面から進めば早い。

 

ただし、船体側面へ不規則な負荷がかかる。

 

「進入角を七度変更」

 

『最短航路から外れます』

 

「乱流に対して平行に近づく」

 

『観測開始が十一分遅延します』

 

「許容する」

 

『調査計画上、遅延は望ましくありません』

 

「船体を壊すよりいい」

 

調査船がゆっくり進路を変える。

 

重力の波が船体を横へ引いた。

 

航路偏差が広がる。

 

警告音。

 

『予定航路から八〇〇キロ離脱』

 

リュウジは修正しない。

 

『航路修正を推奨します』

 

「今は戻さない」

 

『偏差が拡大しています』

 

「把握している」

 

機体はさらに流される。

 

モニタリングルームで、操縦教官が眉を寄せた。

 

「何をしている」

 

調査計画主任も画面へ身を乗り出す。

 

「予定航路から外れています」

 

船体設計責任者だけが、重力偏差の波形を見ていた。

 

「止めようとしていない」

 

「流されているだけでは?」

 

「違う。船首角を見ろ」

 

機体は横へ流されている。

 

しかし、回転軸は崩れていない。

 

リュウジは大きな噴射を使わず、船体の向きだけを数度ずつ変えている。

 

重力の流れに逆らえば、船体へ負荷がかかる。

 

だから流れを許す。

 

ただし、流された先で戻れる角度だけは保つ。

 

「次の谷を待っている」

 

船体設計責任者が言った。

 

操縦教官が聞く。

 

「谷?」

 

「重力偏差が弱くなる瞬間だ」

 

画面上の波形が一瞬だけ下がった。

 

その瞬間。

 

リュウジの指が動く。

 

短い噴射。

 

左舷前方。

 

右舷後方。

 

一度ずつ。

 

機体を止めるためではない。

 

回転軸をずらすための噴射。

 

調査船は、流されていた勢いを失わないまま、大きな弧を描いて観測点の側面へ入った。

 

航路偏差が一気に縮小する。

 

構造負荷が黄色から緑へ戻った。

 

燃料消費は、正面から修正を繰り返した場合の予測値より二割近く少ない。

 

モニタリングルームが静まり返る。

 

操縦教官が低く言った。

 

「機体を止めていない」

 

航法研究官が続ける。

 

「流された距離を、そのまま旋回距離に使った」

 

監察担当官が画面を見る。

 

「そんな操作、訓練項目にあるのか」

 

「ない」

 

「では、なぜできる」

 

船体設計責任者は、リュウジの入力履歴を拡大した。

 

「波を読んでいるんじゃない」

 

一度言葉を切る。

 

「機体がどちらへ落ち着きたがっているかを、先に感じている」

 

誰かが小さく呟いた。

 

「常識外れだ」

 

ヴァレン准将は無言だった。

 

しかし、その視線はリュウジの操作履歴から離れなかった。

 

 

観測地点へ到達。

 

『外部探査機の射出を推奨します』

 

「二機射出」

 

『搭載探査機は六機です』

 

「最初から全部は出さない」

 

『観測効率が低下します』

 

「流れが変わった時に、全部失う」

 

二機の探査機が調査船から離れる。

 

一機は乱流の内側。

 

もう一機は外側。

 

同じ位置へ送らず、差を取る。

 

重力偏差。

 

電磁波。

 

微粒子密度。

 

未登録信号。

 

観測値が並ぶ。

 

リュウジは操縦を続けながら、内側の探査機の姿勢補正回数を見ていた。

 

最初の十秒で二回。

 

次の十秒で四回。

 

その次は七回。

 

補正頻度が増えている。

 

表示されている重力偏差は、まだ危険値ではない。

 

だが、探査機の小さな姿勢制御が、表示より先に乱れを拾っている。

 

「内側の探査機を回収」

 

『観測開始から一分十九秒です』

 

「戻す」

 

『予定観測時間は五分です』

 

「回収」

 

『観測効率が低下します』

 

「構わない」

 

探査機が調査船へ戻り始める。

 

『理由を入力してください』

 

「姿勢補正回数が増えすぎている。表示されていない乱れが来る」

 

『現時点の重力偏差は許容範囲です』

 

「探査機は、許容範囲だと思っていない」

 

回収口が開く。

 

探査機が船体へ収容された直後。

 

乱流の内側で、重力偏差が急上昇した。

 

青白い波が大きく歪む。

 

もう十秒遅ければ、探査機は制御不能になっていた。

 

モニタリングルームで、通信技術主任が声を漏らす。

 

「表示前に判断した?」

 

航法研究官が探査機のログを呼び出す。

 

「姿勢補正回数です」

 

「操縦しながら、そこまで見ていたのか」

 

「視線記録を出せ」

 

画面上に、リュウジの視線の軌跡が表示される。

 

操縦計器。

 

航路。

 

燃料。

 

重力波形。

 

探査機の姿勢補正。

 

一か所を長く見ていない。

 

だが、必要な場所へ必要な瞬間だけ視線が移っている。

 

「見ているというより、変化だけ拾っている」

 

船体設計責任者が呟く。

 

「全部を読んでいるわけじゃない。いつもと違うものだけを抜いている」

 

ヴァレン准将が初めてわずかに目を細めた。

 

「これがS級か」

 

今度の言葉は、誰かの呟きではなかった。

 

総責任者自身の声だった。

 

 

観測地点を離れた直後。

 

通信表示が黄色へ変わった。

 

ノイズ。

 

映像の遅延。

 

外部航路情報の更新停止。

 

そして、完全途絶。

 

『通信中継、応答なし』

 

『外部位置情報を取得できません』

 

『調査継続は可能です』

 

リュウジは内部時計を起動する。

 

設定した撤退条件まで九十秒。

 

「慣性航法へ切り替え」

 

『外部航路情報を維持します』

 

「更新時刻を表示」

 

『最終更新、三秒前』

 

「十秒を超えたら画面から消す」

 

『航法支援に使用可能です』

 

「古い情報は、ないより危険だ」

 

通信途絶から十五秒。

 

外部航路情報が更新されない。

 

リュウジは表示を切った。

 

星の位置。

 

機体加速度。

 

回転率。

 

重力勾配。

 

内部センサーだけで現在位置を組み直す。

 

『観測予定地点が二か所残っています』

 

「通信復旧を優先」

 

『調査継続を推奨します』

 

「通信が戻らなければ帰還する」

 

『現時点で機体に異常はありません』

 

「本部がこちらを把握できないことが異常だ」

 

三十秒。

 

通信復旧なし。

 

四十五秒。

 

一瞬だけノイズが入る。

 

音声にはならない。

 

五十八秒。

 

『前方の重力偏差は安定しています』

 

「現在位置の確度は?」

 

『内部計測で九二パーセント』

 

「帰還航路の確度」

 

『八七パーセント』

 

「進めば下がる」

 

『追加観測により航路情報を更新できます』

 

「通信がない状態で、観測結果を誰に返す」

 

七十秒。

 

システムはなおも継続を推奨する。

 

モニタリングルームでは、調査計画主任が画面へ注目していた。

 

「ここで帰れば、試験の観測目標は未達です」

 

監察担当官が言う。

 

「機体に故障はない」

 

「通信だけです」

 

ヴァレン准将は黙っている。

 

リュウジの手が、操縦桿をわずかに動かした。

 

調査船がゆっくりと反転を始める。

 

『通信復旧まで二十秒以内と推定』

 

「推定は帰還条件を越えない」

 

八十三秒。

 

『前方航路は安全です』

 

「外部情報がない状態で、安全とは判断できない」

 

八十八秒。

 

船首が帰還方向へ向く。

 

九十秒。

 

『設定された撤退条件へ到達しました』

 

リュウジは迷わなかった。

 

「調査中止。帰還する」

 

その瞬間。

 

通信が復旧した。

 

『こちら連盟管制。通信を確認しました』

 

同時に、正面画面へ新しい指示が表示される。

 

【通信復旧】

 

【観測継続を推奨】

 

【残り観測地点:二】

 

モニタリングルームで、何人かが息を吐いた。

 

調査計画主任が言う。

 

「これで継続できます」

 

しかし、リュウジは進路を戻さなかった。

 

「通信途絶時間を確認」

 

『九十一秒』

 

「設定条件を越えている」

 

『現在は復旧しています』

 

「一度中止した判断は、復旧しただけでは戻さない」

 

『観測目標が未達です』

 

「通信途絶の原因が分かっていない」

 

『一時的な中継障害と推定されます』

 

「推定だけで戻らない」

 

『調査責任者から継続要請があります』

 

リュウジの目が細くなる。

 

「調査責任者は、通信途絶の原因を説明できますか」

 

『できません』

 

「機関責任者は、再発時の帰還燃料を保証できますか」

 

『保証できません』

 

「通信責任者は、次の途絶が九十秒以内で終わると保証できますか」

 

『保証できません』

 

「なら継続条件を満たしていない」

 

『S級操縦士であれば、通信途絶下でも航行可能です』

 

リュウジは一瞬黙った。

 

その言葉。

 

S級ならできる。

 

あなたなら大丈夫。

 

英雄なら進める。

 

多くの人が、悪意なく投げてくる期待。

 

以前の自分なら、その期待を引き受けたかもしれない。

 

自分にできる。

 

必要とされている。

 

だから進む。

 

だが、エリンは言った。

 

――誰かが必要としているから、自分ならできるから、それだけで決めないで。

 

リュウジは胸元のお守りを感じた。

 

「S級かどうかは、帰還条件を変える理由にならない」

 

声は静かだった。

 

「俺が飛べることと、船を帰していい条件は別だ」

 

調査船は帰還航路へ加速する。

 

システムの継続推奨表示が消えた。

 

モニタリングルームは、重い沈黙に包まれていた。

 

調査計画主任が不満そうに言う。

 

「試験を途中で放棄した」

 

船体設計責任者がすぐに返す。

 

「違う。設定した条件に従った」

 

「条件を作ったのは本人だ」

 

「だから何だ」

 

「慎重すぎる判断を自分で作り、それを理由に帰った」

 

ヴァレン准将が静かに口を開く。

 

「それを見る試験だ」

 

調査計画主任が黙る。

 

准将は画面の中のリュウジを見る。

 

「通信が復旧した瞬間が、最大の罠だった」

 

「罠?」

 

「帰る判断を一度した後で、“もう大丈夫だ”と思わせる」

 

航法研究官が頷いた。

 

「しかも、S級なら継続可能という言葉まで出した」

 

「普通は戻ります」

 

操縦教官が言う。

 

「通信が復旧し、機体に故障がなく、観測点が残っている。責任者から継続要請がある。戻る理由は揃っています」

 

「だが原因は分からない」

 

ヴァレン准将は答えた。

 

「彼は復旧を、安全の回復とは見なさなかった」

 

監察担当官が腕を組む。

 

「技術的には、継続できたでしょう」

 

「できることと、やるべきことは違う」

 

その言葉に、誰もすぐには反論しなかった。

 

 

帰還航路へ入ってからも、試験は終わらなかった。

 

警告音。

 

左舷補助推進器の出力低下。

 

続いて、姿勢制御に〇・六秒の遅延。

 

『左舷補助推進器、出力三二パーセント低下』

 

『姿勢制御応答に遅延』

 

『再起動を推奨します』

 

リュウジは即座に左舷系統を確認する。

 

温度上昇。

 

冷却流量低下。

 

出力制御の不安定。

 

「左舷補助推進器を停止」

 

『再起動により復旧する可能性があります』

 

「停止」

 

『帰還時間が延長します』

 

「燃えるよりいい」

 

左舷補助が停止する。

 

機体がゆっくり右へ流れる。

 

姿勢制御には遅延。

 

大きく戻せば、修正が遅れて過剰反応する。

 

リュウジは舵を大きく切らない。

 

右舷の出力を落とし、主推進器の軸をわずかにずらす。

 

片側が弱いなら、強い側をさらに強くするのではない。

 

強い側も休ませる。

 

左右の差を小さくする。

 

『帰還予定時刻が十八分遅延します』

 

「許容」

 

『燃料消費が増加します』

 

「最終残量は?」

 

『四八パーセント』

 

「帰還条件内だ」

 

『左舷補助を再起動すれば、予定時刻を短縮できます』

 

「却下」

 

『復旧確率七三パーセント』

 

「残り二七パーセントで悪化する」

 

『成功確率の方が高いです』

 

「失敗した時の損失が大きすぎる」

 

リュウジは淡々と操作する。

 

機体は遅い。

 

しかし、安定している。

 

警告音が減っていく。

 

姿勢制御の遅延を前提に、入力を少し早く置く。

 

現在の動きへ反応するのではなく、〇・六秒後に現れる動きを先に潰す。

 

船体が落ち着く。

 

操縦教官が入力履歴を見ていた。

 

「遅延を補正している」

 

航法研究官が首を横に振る。

 

「補正というより、遅延がある機体として操縦している」

 

「同じでは?」

 

「違う。通常は、本来の反応へ戻そうとする。彼は戻そうとしていない。壊れた状態を、新しい正常として扱っている」

 

船体設計責任者が小さく笑った。

 

「機体に無理をさせない」

 

監察担当官が言う。

 

「だが、遅い」

 

「帰れる」

 

「任務では速度も必要だ」

 

「帰還時に必要なのは、予定時刻ではなく生存だ」

 

機体はゆっくり、確実に帰還航路を進む。

 

その時。

 

前方に未登録漂流物が出現した。

 

位置情報なし。

 

反射率が不安定。

 

回避には、左へ大きく切る必要がある。

 

しかし左舷補助は停止中。

 

右へ避ければ、重力乱流の残滓へ近づく。

 

『左回避を推奨します』

 

リュウジは漂流物の回転を見た。

 

形状は不明。

 

長い。

 

薄い。

 

回転周期が一定ではない。

 

左へ回避すれば安全距離は取れる。

 

だが、弱っている左舷系統に負荷がかかる。

 

右は乱流。

 

正面は衝突。

 

「減速」

 

『回避を推奨します』

 

「減速する」

 

『衝突まで四十三秒』

 

主推進を落とす。

 

機体の速度が下がる。

 

しかし漂流物との距離は縮まる。

 

モニタリングルームがざわついた。

 

「なぜ避けない」

 

「減速だけでは間に合わない」

 

「衝突するぞ」

 

リュウジは漂流物の回転を見続けていた。

 

回転するたび、反射面が変わる。

 

長い構造物。

 

中央付近で折れている。

 

回転軸がわずかにずれている。

 

完全な直線ではない。

 

漂流物の端が、大きな円を描いている。

 

「左舷前方、短噴射準備」

 

『左舷補助は使用不能です』

 

「主推進器の偏向ノズルを使う」

 

『推奨範囲外です』

 

「二度だけなら持つ」

 

『船体負荷が上昇します』

 

「分かってる」

 

衝突まで二十五秒。

 

リュウジはまだ動かない。

 

十八秒。

 

漂流物の端が機体の正面を横切る。

 

十二秒。

 

回転軸が開く。

 

「今」

 

主推進器の偏向ノズル。

 

短い噴射。

 

機体が左へずれる。

 

大きく回避しない。

 

漂流物の回転によって生まれた空間へ、船体を滑り込ませる。

 

調査船の上方を、巨大な構造物が通過する。

 

距離、二百三十メートル。

 

通常の安全基準を大きく下回る。

 

だが接触はない。

 

二度目の短噴射。

 

機体を元の帰還航路へ戻す。

 

船体負荷が一瞬黄色へ上がり、すぐ緑へ戻った。

 

モニタリングルームで、誰も言葉を発しなかった。

 

操縦教官の口が、わずかに開いている。

 

航法研究官は入力履歴を何度も戻した。

 

「避けたんじゃない」

 

船体設計責任者が呟く。

 

「通り道が開くのを待った」

 

「安全距離二百三十メートルですよ」

 

監察担当官が言う。

 

「旅客船なら失格です」

 

「旅客船なら最初から別の航路を取る」

 

「失敗すれば衝突していた」

 

「左へ大きく回避すれば、故障系統へ負荷がかかる。右なら乱流へ入る。減速せず正面なら衝突。あの状況で、機体を最も傷めない道を選んだ」

 

「常識では選ばない」

 

操縦教官が、ようやく声を出した。

 

「選べない」

 

航法研究官が訂正する。

 

「普通は、あの短時間で漂流物の回転軸まで読めない」

 

ヴァレン准将はモニターの中のリュウジを見る。

 

心拍は上がっている。

 

しかし乱れてはいない。

 

呼吸も一定。

 

視線は、漂流物を抜けた直後にはもう次の航路へ移っている。

 

成功に浸らない。

 

自分の操作を振り返らない。

 

次に必要なものだけを見る。

 

准将が静かに言った。

 

「これがS級か」

 

今度は、部屋の誰も否定しなかった。

 

 

帰還地点まで残り一万キロ。

 

新たな警告が表示された。

 

『船内区画で負傷者発生』

 

『観測員一名、頭部打撲。意識混濁』

 

『医療担当より、直ちに重力変化を抑えるよう要請』

 

リュウジは機体状況を見る。

 

現在の航路を維持すれば、帰還まで十分。

 

ただし、途中に弱い重力偏差帯がある。

 

通常なら問題ない。

 

だが、頭部を負傷した乗員には負担になる可能性がある。

 

別航路へ切り替えれば、帰還時間は三十五分延びる。

 

燃料残量は四八パーセント。

 

変更しても四五パーセントをわずかに上回る。

 

「医療担当。患者の状態」

 

模擬音声が返る。

 

『意識レベル低下。瞳孔反応に左右差。頭蓋内圧上昇の可能性があります』

 

「三十五分の遅延に耐えられる?」

 

『状態悪化の可能性があります』

 

「現在航路の重力変化は?」

 

『一時的な加速度上昇が予想されます。患者への影響は不明です』

 

「不明なら避ける」

 

『最短帰還を推奨します』

 

「医療担当は?」

 

『重力変化の少ない航路を要請します』

 

リュウジは迷わず航路を変更した。

 

「医療側の要請を採用。迂回する」

 

『帰還時間が三十五分延長します』

 

「患者を悪化させて早く帰っても意味がない」

 

『燃料残量は帰還条件に近づきます』

 

「四五・八パーセントで到着できる」

 

『誤差を含めると四五パーセントを下回る可能性があります』

 

リュウジの手が止まる。

 

設定した帰還条件。

 

燃料四十五パーセント。

 

自分で決めた基準だ。

 

患者を守るために迂回すれば、その基準を下回る可能性がある。

 

最短なら、患者へ負担がかかる。

 

リュウジは表示を見た。

 

「機関担当。現在削減できる消費は?」

 

『観測機器、船内温度維持、非重要区画の重力制御を下げれば、〇・九パーセント削減可能です』

 

「観測機器停止。無人区画の重力制御を最低へ。船内温度は医療区画と居住区画を維持。他は下げる」

 

『乗員の快適性が低下します』

 

「命に関係ない場所から削る」

 

『帰還時予測残量、四六・三パーセント』

 

「迂回継続」

 

モニタリングルームで、医療担当官が小さく頷いた。

 

調査計画主任が言う。

 

「観測機器をすべて止めた」

 

「帰還中です」

 

医療担当官が答える。

 

「調査データの追加取得は必要ありません」

 

「帰路で取れるデータもある」

 

「負傷者より優先する理由は?」

 

調査計画主任は黙った。

 

リュウジは、使えるものを使った。

 

ただし、何でも犠牲にしたわけではない。

 

どの機能が命に関係し、どれが後から取り戻せるか。

 

その順番を変えただけだった。

 

調査船は重力変化の少ない航路へ入る。

 

揺れはほとんどない。

 

医療担当から患者の状態安定が報告された。

 

リュウジは短く息を吐く。

 

それでも表情は変わらなかった。

 

 

【帰還地点へ到達】

 

【未探索領域適性試験、終了】

 

画面が暗転した。

 

機体の振動が止まる。

 

操縦席を囲んでいた宇宙が消え、白いシミュレーター室へ戻る。

 

リュウジは、すぐには操縦桿から手を離さなかった。

 

終了したからといって、身体がすぐに現実へ戻るわけではない。

 

呼吸を一度整える。

 

内部時計を確認する癖で、視線が画面の隅へ動く。

 

画面はもう消えている。

 

それを確認してから、指を離した。

 

身体固定具が解除される。

 

胸元に触れる。

 

帰還守は、そこにある。

 

「……帰りました」

 

誰にも聞こえない声で呟いた。

 

隔壁扉が開く。

 

先ほどの連盟職員と、操縦教官が入ってきた。

 

教官の顔は、試験前とは明らかに違っていた。

 

何か言おうとして、言葉を選んでいる。

 

リュウジは立ち上がる。

 

「試験は終了ですか」

 

「……ああ」

 

教官は短く答えた。

 

「体調に異常は?」

 

「ありません」

 

「酔い、頭痛、吐き気は」

 

「ありません」

 

教官は端末の数値を確認する。

 

心拍。

 

脳波。

 

視線。

 

判断時間。

 

どれを見ても、異常はない。

 

「最後の漂流物回避」

 

教官が言った。

 

リュウジは教官を見る。

 

「はい」

 

「なぜ、左へ通常回避しなかった」

 

「左舷補助が停止していました。主推進だけで大きく振れば、姿勢制御の遅延と重なります」

 

「右は?」

 

「重力乱流の残りがありました」

 

「減速だけでは衝突する」

 

「漂流物の回転軸がずれていました」

 

「見えたのか」

 

「反射の周期が一定ではなかったので」

 

「それだけで?」

 

「長い構造物が中央付近で折れていると判断しました。回転のたびに空間が開く。そこへ入った方が機体負荷が少ない」

 

教官はしばらく何も言わなかった。

 

「失敗する可能性は考えたか」

 

「考えました」

 

「怖くなかったのか」

 

リュウジは少しだけ目を伏せる。

 

「怖かったです」

 

教官の眉が動く。

 

「そうは見えなかった」

 

「怖いことと、操作は別です」

 

「……そうか」

 

教官はそれ以上聞かなかった。

 

連盟職員がリュウジへ端末と私物を返す。

 

「本日の予定は、これで終了です」

 

「結果の説明は?」

 

「後日通知されます」

 

「調査隊の編成については?」

 

「まだお伝えできません」

 

「次の訓練日程は?」

 

「こちらも後日となります」

 

リュウジは端末を受け取った。

 

「分かりました」

 

一礼して、シミュレーター第一室を出る。

 

廊下へ出た瞬間、端末に通信が入った。

 

送り主はエリンだった。

 

『終わった?』

 

短い文章。

 

リュウジは少しだけ表情を緩めた。

 

『今、終わりました。』

 

すぐに返事が来る。

 

『どうだった?』

 

リュウジは少し考える。

 

試験内容は、守秘義務があるかもしれない。

 

詳しいことは書けない。

 

『帰還できました。』

 

送信する。

 

数秒後。

 

『おかえり。』

 

その四文字を見て、リュウジの指が止まった。

 

神社で約束した言葉。

 

帰ってきたら、最初に顔を見せて。

 

ただいまを言って。

 

まだ本調査ではない。

 

シミュレーションだ。

 

それでも、エリンは帰還として受け取った。

 

リュウジは返信する。

 

『ただいま、エリンさん。』

 

送信した直後。

 

背後で隔壁扉が開いた。

 

「リュウジさん」

 

連盟職員が追ってきた。

 

先ほどとは別の職員だった。

 

胸元の所属章は、訓練部門ではない。

 

連盟本部の上層管理局。

 

職員は丁寧に頭を下げる。

 

「申し訳ありません。予定が変更になりました」

 

「何かありましたか」

 

「連盟本部から、会議への出席要請が入っています」

 

「今からですか」

 

「はい」

 

「訓練結果の説明ですか」

 

職員は一瞬だけ言葉を止めた。

 

「詳細は、会議室でお伝えします」

 

その言い方に、リュウジは違和感を覚えた。

 

通常の結果説明ではない。

 

「参加者は?」

 

「ヴァレン准将、調査計画主任、航法研究部門責任者、連盟理事二名」

 

「理事?」

 

「はい」

 

「俺の適性試験に、そこまで必要ですか」

 

職員は答えなかった。

 

代わりに、小さな黒い認証票を差し出した。

 

表面には、赤い線が一本だけ入っている。

 

【特別機密区分】

 

リュウジは認証票を見る。

 

S級案件は、特別区分。

 

入社初日に説明された言葉が蘇る。

 

職員が静かに言う。

 

「北部未探索領域調査計画に関する、極秘会議です」

 

リュウジは端末を握った。

 

画面には、エリンから新しいメッセージが届いている。

 

『今日は十四班に戻れる?』

 

リュウジは少しだけ目を伏せた。

 

まだ分からない。

 

試験は終わった。

 

だが、何かが始まろうとしている。

 

『連盟から会議に呼ばれました。終わり次第、連絡します。』

 

そう返す。

 

すぐに、エリンから返事が届いた。

 

『分かった。無理に一人で抱えないでね。』

 

リュウジは、その文章をしばらく見つめた。

 

それから端末を閉じる。

 

「案内をお願いします」

 

「こちらです」

 

連盟職員が歩き出す。

 

リュウジは、その後ろを進んだ。

 

通路の先には、訓練区画とは異なる黒い隔壁扉があった。

 

扉の上には部屋番号すら表示されていない。

 

職員が認証票をかざす。

 

複数のロックが順番に解除される。

 

重い扉が開く。

 

中には、すでにヴァレン准将と数人の上層部が座っていた。

 

誰も笑っていない。

 

中央の大型画面には、先ほどの試験結果ではなく、一枚の星図が表示されている。

 

北部未探索領域。

 

そのさらに奥。

 

既存の調査計画では、到達予定に含まれていない空域。

 

そこに、一つだけ赤い点が明滅していた。

 

ヴァレン准将がリュウジを見る。

 

「座れ」

 

リュウジは空いている席へ向かう。

 

「試験結果についてですか」

 

「それだけではない」

 

准将は画面の赤い点を指した。

 

「君に見せる予定ではなかった情報だ」

 

会議室の扉が閉じる。

 

外部通信遮断の表示が点灯する。

 

リュウジの端末も、自動的に圏外へ切り替わった。

 

ヴァレン准将は低い声で言った。

 

「北部未探索領域から、信号が届いている」

 

リュウジの目がわずかに細くなる。

 

「観測機器の信号ですか」

 

「違う」

 

「漂流船?」

 

「登録記録はない」

 

「自然現象の可能性は」

 

「解析班は否定している」

 

画面の波形が拡大される。

 

一定間隔。

 

わずかな乱れ。

 

完全な機械信号ではない。

 

だが、自然に発生するものとも思えない。

 

ヴァレン准将はリュウジから目を逸らさなかった。

 

「何者かが、こちらへ向けて信号を送っている」

 

会議室が静まり返る。

 

リュウジは赤い点を見つめた。

 

先ほどの試験で、自分は帰還を選んだ。

 

その判断を見た直後に、連盟上層部はこの情報を開示した。

 

つまり、試されていたのは操縦技術だけではない。

 

進む能力。

 

帰る能力。

 

そして。

 

未知のものを前にしても、判断を失わないか。

 

リュウジは静かに口を開いた。

 

「その信号と、今回の調査任務は関係しているんですか」

 

ヴァレン准将は数秒黙った。

 

「これから話す」

 

その言葉と同時に、画面の赤い点がもう一度明滅した。

 

北部未探索領域適性試験。

 

それは、単なる調査隊参加者の選抜ではなかった。

 

宇宙連邦連盟は、最初から知っていた。

 

未探索領域の向こう側に、何かがあることを。

 

そして、その何かへ近づき、なお帰還できる操縦士を探していた。

 

その条件を満たした者が、今、極秘会議の席に座っていた。

 

S級操縦士。

 

リュウジ。

 

第一回適性試験の結果は、合格という言葉では足りなかった。

 

連盟が想定していた水準を、完全に超えていた。

 

だが同時に。

 

その操縦能力を必要とするほど、北の未探索領域には大きな秘密が隠されていた。

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